アルカディア・下

Arcadia 序文

■かつて月の海にて


 未開の灰色へ足跡が刻まれる。数十億年前、人類どころか生命さえ影も形もなかった時代に生まれた場所である。

 月の地下に広がる巨大な空洞に、史上初めて人間が足を踏み入れている。途方もなく巨大なその場所を歩いていく気分は、そこにいる誰にとっても筆舌に尽くしがたいものだった。

 最初の月着陸があったのは百年以上前で、それ以降この身近な衛星は全く手付かずでいた。今、月では資源獲得の競争が始まろうとしている。今回の月探査はその第一歩だ。

 地下空洞存在の可能性は前から指摘されていたが、現地での調査が行われたことはなかった。都市がまるごと収容できそうな巨大な自然の地下空間を発見した。照明弾を使い空洞内に太陽のような光源を作り出すと、その巨大さが確認できる。真空の中ではどんなに距離があっても霞むことがないので、岩肌がくっきりと見える。遠くあるはずの岸壁がまるですぐ目の前にあるかのように全方位から迫る。

 人が何千年も見上げてきた月にこんな場所があるという事が、目の前にして現実とは思えない。その巨大さ、現実感のなさに、調査隊員の何人かは足を震わせていた。全身の毛が逆立つような光景だ。

「衝突起源説、聞いたことがありますか?」

 通信の声が宇宙服内に聞こえる。かつて飛来した黒耀星ほどの大きさの星が地球に激突し一部をえぐりとって月が生まれたという説、それが月の衝突起源説だ。声の主は、慣れた口ぶりでそれを解説した。

 地下空洞探査の隊長を任された楪世(しじょう)少佐。彼女は、軍に入る前は学校で理科を教える教師だった。

 戦争は物量である。今回の着陸は表向き民間の計画ということになっているが、資源調査はこの計画を主導するU国の軍事力増強のためだ。今日ここに立つまで数多くの妨害を受けた。軍属の彼女が実質的な調査隊の指揮官として同伴するのはそういう理由からだ。

 今日までは緊張の連続だった。壮大な光景で恐怖を感じ、歩けない者もいる。楪世は足を止め話を続ける。

「月は地球の姉妹みたいなものです。このあたりの土も、私の田舎の土と同じかもしれない。私の祖母が不味いオート麦を作っていた土とね」

 動きにくい宇宙服を着たまま土を蹴り飛ばす楪世の仕草に、隊の面々は笑い声を漏らした。隊員の多くは学者だ。楪世の話にあるような学校の理科を知らない者などいない。祖母に育てられたという楪世の話は妙に人を落ち着かせる効果があった。

「先生、あたしの時は怖い話して脅したじゃないですか」

 笑いながら楪世の肘をつつくのは、月面探査船の操縦士であるヘンシェル中尉だ。

 先生、というのはあだ名ではない。中尉の学生時代に担任を務めていたのが楪世だったので、本当に教師と生徒という関係だった。ヘンシェルは志願、楪世は州兵として召集されともに戦争を経験した。その後、楪世も故郷と職を失って正規軍人になった。二人が再会するまで、実に二十年もの時が流れることになった。二人の会話を聞いて、他の兵士たちが反応する。

「いいな。私だって隊長の授業受けたかったですよ」

「あと十年早く生まれてればね……」

 ヘンシェルの部下たちが言う。宇宙用の戦闘服と小銃で武装している姿は威圧的に見えるが、気さくな面々だ。長い時間を一緒に過ごしているので調査メンバーとも打ち解けている。

「そうか、じゃあお前らにはあたしから話してやろう」

 その二十年の間に軍で出会った部下たちに対し、ヘンシェルは目を輝かせる。

 彼女の話の内容は以下のようなものだった。

 月は身近にありながら、数多くの謎と数奇な偶然に彩られた天体だ。一般的な惑星とその衛星の大きさの比率と比べると巨大すぎることや、常に一つの面を地球に向けていることなど。そして最も重要なことが、月は生命の誕生には不可欠な存在だったということだ。

 かつて地球は地軸が安定せず、自転の速度も速かった。衝突の後で地球の自転は安定し、現在の生命誕生に適した気候が作られた。また月の引力による潮汐力は生命の源である海水を攪拌し、遺伝子や細胞を生み出すゆりかごの役目を果たしていった。

 月との出会いがなければ、地球の環境は今ほど生命の発展に適したものにはなっていなかった。八時間程度で一日が過ぎ、気候が安定しない過酷な環境のままだっただろう。それが、この衝突によって奇跡的なまでに都合のいい状態に調整された。

 これは果たして偶然なのか? そういう視点を加えると、この稀有な天体に更に魔力を与えられる。生命の種を撒き、安定した環境を作り、生命誕生よりも前から地球を見つめ続けてきた月。太陽系の衛星の中でも大きい方で、特に地球程度の大きさの惑星には不釣合いなほど大きい月。地球には常に片方の面しか見せないミステリアスな月。

 月は生命植をする巨大な機械で、全く別の恒星系から流れてきた。そして、生命が根付くのに適した位置にある地球を発見し、衝突して衛星になることで自転速度や地軸を調節した。そういう考えは果たして荒唐無稽と言い切れるか。

 月が箱舟のようなものだったとしたら、その内部にはまだ外宇宙から来た何かがいるかもしれない。地球に自分たちと同じ遺伝子を植え付け育てながら、何億年もそれを観察しているのかもしれない、と。

「この空洞にも宇宙人がいるかもしれない。そのへんから飛び出してくるかもよ」

 ヘンシェル大尉はそう言って部下たちを脅した。軽口だったが、現実に今、巨大な地下空間にいる面々には洒落になっていない。

「こら、せっかく落ち着かせたのに脅かすんじゃないよ」

 楪世はヘンシェルを小突く。通信ではなく接触することで彼女にだけ声を伝えている。ヘンシェルは悪戯っぽく微笑んだ。

 この話はもう古い。確かに月には、この大空洞のような未知の空間がいくつか隠されている。だが、最新の調査では月の奥深くに特別な構造はないと考えられている。衛星が惑星に対して常に片面しか向けないということも珍しい現象とはいえない。見かけの大きさが太陽と一致するのも今だけのことで、月との距離は地球の長い歴史の中で常に変化してきた。数奇な星であることは確かだが、特別なものではないのだ。

「隊長、生命反応があります」

 部下が言う。楪世は耳を疑った。

「どういうことだ?」

 しかし報告は真実だった。ありえない。自分たちの他にこの大空洞に侵入している部隊はないはずだ。他の班は別の場所を調査したり地表に前線基地を設営して活動している。

「敵か?」

 普通、敵国が着陸したなら本国から報告があるはずだ。しかし敵兵がいることを政府が隠していたという可能性ならある、と楪世は思う。民間人を含む調査隊を送り込むのにそこが戦地では都合が悪い。しかし、この時期を逃したくはない。U国なら考えそうなことだ。宇宙人がいるというよりは現実的な考え方である。

「どうだ?」

「動体検知器には何の反応もありませんね。人型をした熱源だけです」

 暗い大空洞の奥に向けた複合センサーに、言う通りの映像が映っているのが宇宙服のバイザー越しに見える。額を寄せ合ってそれを確認する。楪世は念のため、全員を岩陰に隠れさせた。

「動かないか?」

「はい。救助するべきなのでは?」

 楪世とヘンシェルは判断を迫られる。もしこれが調査隊のメンバーなら救助が必要だ。しかしそうでなければどうなるか。これが敵で、武装していたらどうする? 熱源を遮断して隠れている伏兵がいたら? 準備は十分にしているが、この人数を守りきれるのか。

「迷っている暇があるのか」

 口を挟んだのは、民間研究者で医師のイスラフェル博士だった。訓練から作戦までずっと寡黙だったので、彼女と話したことのある隊員はいない。隊長である楪世も二言三言話した程度だ。

 イスラフェル博士は人命尊重を主張し、楪世に命令した。彼女の冷ややかな声には、どこか鬼気迫るような迫力がある。

「仕方ないですね。ヘンシェルともう一人は私と。あとは残ったメンバーを護衛してください」

「私も同行する」

 イスラフェルが同行を主張した。普通なら民間人を危険に晒すのは問題外だが、ここで揉め事は避けたい。楪世は判断を下す。イスラフェル一人のために他の民間人の足並みが乱れるのは困る。

 弱い重力の中では思ったように前に進めない。その中で、ヘンシェルだけは身軽に岩を乗り越えながら、先をいく。特に危険もなく、四人は目的の場所に到達した。

 熱源は土砂に埋もれていた。先に着いたヘンシェルは危険がなさそうだと判断し、折りたたみシャベルを取り出して慎重に掘り始める。

 しばらくしてヘンシェルは土を掘るのをやめ、シャベルも地面に落とし、その場に立ち尽くした。

「どうした?」

 ヘンシェルの視線の先を見て、追いついた楪世も言葉を失った。

「なんだ、これは」

 光に照らされたその場所には、鉱物の結晶のような透明な岩が埋まっていた。それだけでも不思議だったが、もっと奇妙なことがあった。その結晶の中に熱源の元と思しきものがあったのだ。

「人……なのか?」

 水晶のような結晶体の中に閉じ込められたそれは、人型をした何かだった。

 生命反応はある。生きていると示されている。非常にゆっくりとしているが心拍らしきものがあり、普通の人間よりは低いが体温が感知できる。生命体のようだが、宇宙服は身につけていない。

 人間のようにも見えるし、そうでないようにも見える。学校の一教師に過ぎなかった楪世でも、現代科学のことは教養として知っている。目の前の存在は常識で解釈することが難しい。こんな何もない宇宙空間で、密閉された鉱物の中で生きているものなど、誰も見たことがない。

「博士、これは」

 気付いて目をやると、イスラフェル博士は呆然とそれを眺めていた。何かぶつぶつと言っているらしく、唇が動いて見える。しかし、真空のここでは無線通信か接触なしで声は聞き取れない。

「博士」

 聞こえているはずだが、イスラフェルは応答を返さなかった。

 手を触れてみた。何かつぶやいているのが、宇宙服を伝ってわずかに聞こえてくる。目の前に立つと、イスラフェルは楪世に視線を向け、はっと我に返り言った。

「こいつを運び出せ」

「何ですって?」

 鋭い目線で、イスラフェルは楪世を睨んだ。

「早くしろ」

 楪世は従えない。動かしていいものかどうかわからないのだ。混乱していた。イスラフェルの様子がおかしいことなど、気にしている余裕はない。

「歌だ」

 彼女が、また何かつぶやいている。

「ずっと私を呼んでいたんだ……」

 聞いた話では、イスラフェルは医者でありながら異常なほど月への執着を見せ、この地質調査計画に船医の枠で加わったらしい。

「(こいつが、彼女を呼んだのか……?)」

 魅入られたようなイスラフェルの目は異常だ。ライトに照らされて輝くものを見つめながら楪世は恐怖し、通信で仲間を呼んだ。

 月面都市が形成されるよりもずっと前、月の裏側で起きたこの発見を切欠に人類は変化し始めることになる。表向きには今日まで知られていない。

 いつか必ず、誰もがそこに辿り着くことになる。誘う呼び声は、偶然ではなく必然だった。


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