Arcadia(B) 1
Arcadia(B)
■回想編(白)1
――目覚めてください。
天からの声が目覚めを告げる。それが、自分を自分として感じた最初の瞬間だった。手足の感覚、皮膚の感触が芽生える。
――あなたの命をください。
培養槽で肉体を十歳まで成長させられ生み出される彼女たちには、その体に相応の精神と知識が与えられる。生まれながらに胸部に埋め込まれるNデバイスを経由し教育を与えられている。
だから言葉の意味を理解できる。生み出される目的も、存在する意味も、全て最初から与えられている。声はそう告げる。
――どうか目覚めてください。そして生きてください。
かつて、姉妹たちは全ての事実を知らされて生み出されていた。今回の生産ロット以降からは多くを伝えない方針になった。この声は人類の罪を知り、自覚を持ちながら生きた最後の世代の姉妹のものだ。
どれほどの苦しみがこの言葉に秘められていたのだろうか。生まれる前の彼女はそれを知らないままに聞く。
与えられた記憶と機能が目を覚ましていく。暗闇だった世界に、意識が広がっていく。
告げる天の声に従い、目を開く。自らの固有名称を確認する。試作イスラフェルSロット九号。イスラフェル型で九番目の現実干渉性探査実験モデル。それが自分であった。
目の前には誰かがいる。天を見上げた視界。はらり、はらりと何かが降り注いでいる。鮮やかな藍色の、薄くやわらかいものだ。それが舞うたび香りが漂っている。
声をかけていたのはあなた?
問おうとするが、声が出ない。培養槽から養液が抜かれていく。濡れた検体着が皮膚に張り付いて不快だった。誰かの指が頬についたものに触れ、取り除く。散っていた藍色の何かだ。九号はそれを目で追った。
「やあ」
水に濡れた耳に少しくぐもって、人の肉声が聞こえる。さっきまで聞いていた重い声とは違い、軽くさわやかな色を持っていた。
培養槽に腰掛けるようにして顔を覗き込んでいる誰かがいるのだ。次第に視界がくっきりしてきた。排水が終わり槽からは心地よい温風が流れる。急速に体は乾き始めた。
目の前にまた碧色の何かが舞った。今度はもっとはっきり見える。記憶させられた初期情報からそれが何かを特定する。植物の花びらだ。
「おはよう」
声は繰り返す。花びらの碧と同じ色の瞳と濡れ羽色の髪の人物だった。手に花の束を持って、微笑んでいた。
教育済みの脳は言葉を挨拶であると解し、返答を導き出す。きっとこれは、正常に機能できるかどうかのテストに違いない。色彩、匂い、記憶、言語の機能が正常に働くかどうか。呼吸をして声を出すその前に、目の前の人物は不可解な行動に出た。
まだ自由に動かない九号の手をとり、両手で包み込んだ。乾いた手を撫でる未知の感触が心地よい。
温風とはまた違った温度。肌の触れる感触。まるで壊れ物を扱うかのように優しく、他人の指が九号の小さい手を撫でた。これは、どういう意味があるのだろう。挨拶への返答も忘れ、九号は彼女の心地いい感触と声に身を委ねる。
「きみの名前はアイだ」
声を聞くと同時に、それは正式な名称として九号のNデバイスに記録された。固有名称アイ。系列名イスラフェル。たった今、「アイ・イスラフェル」が彼女の名前になった。
アイとはどんな意味の名前なのだろう。聞きたいことがたくさんあった。
「あなたは誰ですか?」
こんな目覚め方は知らない。人工培養されて生み出される自分に、いかなる意味でも母と呼ばれる存在はいない。たった一人、孤独の中で生まれるのだと想像していた。
「きみのお姉さんだ」
その言葉で推測できた。おそらく、同じイスラフェル系の遺伝子モデルを持つ被検体だろう。彼女の黒髪はイスラフェル系の銀髪と違うが、顔立ちにイスラフェル系の特徴があるとアイの知識は告げている。データベースを検索すると、すぐ彼女の情報が見つかった。
研究所内にはCUBEシステムを使った無線通信ネットワークがある。生まれた瞬間からそれを利用できるよううに体内デバイスを与えられて作られているアイは、すぐさま目の前の人物の名称を特定した。試作イスラフェルSロット一号のレン・イスラフェルだ。この人物を改良されて作られた後継モデルが自分だという縁がある。
これもきっとテストなのだとアイは考える。体の機能は正常で、Nデバイスの利用にも問題は感じない。
「またあなたですか、レン」
そこに第三の人物の声がかかる。その人物の声こそ、あの重い言葉を告げていた声だった。
「シオンか。まだ一緒にいてもいいだろ」
「明日には配属ですから、今日だけですよ」
槽からアイは抱え上げられると、花びらがまた舞った。十歳相当の体のアイは身長の高いレンには軽々と持ち上げられる。連れて行かれたのは、施設に備え付けられた浴場だった。
誕生したSロットを洗浄し身だしなみを整えるための場所だ。タオルや替えの検体衣が詰まれ、整然としている。ここだけに限らないが、研究所の壁やSロットの衣装は白で統一された清浄なものだった。
鏡に映るアイ自身は透き通るような肌に銀色の髪で、この場所に溶け込んでいる。瞳は薄灰色。イスラフェル系の特徴をそなえていた。
乾燥しているとはいえ培養液はまだ皮膚と髪に残っている。レンはそのまま手際よく体を洗浄してくれた。
「九番目だから、アイ、ですか?」
名前の理由をずっと考えていた。アイはイスラフェル九号だ。アルファベットの九番目は“I<アイ>”だから。多分そういうことなのだろうと思った。
「そうなの?」
名付け親は、アルファベットを指折り数えて確認している。この予想は外れていたらしい。結局、理由は教えてもらえなかった。
洗浄が終わると身だしなみを整えられ、廊下へと連れ出された。生まれたばかりだが自分の足で歩くことができる。培養の最終段階では肉体の情報を正確にとって運動の教育もされている。履物の感触にむずむずしているアイの手をとって、レンが先導する。
次の行き先は少し離れたブロックにある個室だった。手狭な空間に寝台が据え付けられる他は家具も何もない。そこがアイに与えられる休息のための空間だ。
明日からは、すぐにSロットとしての務めが始まる。初期テストと適正判定があり、そこで仕事が決定される。
不思議な感覚に襲われる。影も形もなかった自分がこうして唐突にこの場に存在し、不安定な状態にあるということ。それが、説明のできない負荷に感じられる。
「疲れただろ。もうおやすみ」
レンは寝台に行くように促した。アイはそれに従う。
寝台に横たわり毛布をかぶると、ストレスが緩和するように思えた。目を閉じれば、また眠りの時間に戻れる。眠るのは慣れている。昨日までと同じだ。
感触がして目を開くと、レンは狭いベッドに同じように横たわりアイの肩を抱いた。どうやら、このままここで共に眠るつもりらしい。
初めて感じる人肌、触れる手の感触は気持ちよく、温度は暖かく心地いい。先ほどまで感じていたストレスが消えていき、初めて四肢を動かした疲れが心地よいまどろみとなって押し寄せる。
アイはそのまま、体温の中で眠りに落ちた。
目が覚めると、レンはいなくなっていた。
香りだけが残されている。寝台には花びらが残されていた。それを追うと、窓際の光の中に彼女が持ち込んだ花が一輪見つかる。
光を照らすのは現実の窓ではなく、AR(拡張現実)で壁面に投影されている仮想の風景である。ここは地下だ。視神経に介入することによって視覚情報を書き換え、現実にはないものを映し出している。映像自体は現実のものだ。薄灰色の大地、吸い込まれそうな暗い空が覆う月面。地下月面都市の上層部のカメラでとらえた現在の月の姿だ。それを背景に、鮮やかな藍色が置かれている。
地下月面都市の下部に広がる秘密地下施設。それがこの古世代研究所だ。月開発が本格的に始まるよりも以前から存在し、ある目的のために活動を続けてきた。広大な研究所施設にはSロット専用の宿舎区画が点在している。新設されたここを使っているのは、今はアイだけらしかった。ネットワークを通じてわかる。あの人はもう近くにはいない。
次にどうすればいいのかも、誰からも教わることなくアイにはわかっていた。呼び出しがかかっている。部屋を出て、自分の足でその場所へと向かう。
イスラフェル型からは、最新型のリキッド型Nデバイス素子を使用している。生体電気を利用して動く高分子製の微細なコンピュータの集まりが常にアイの中にある。これは思考を増強するほか電波を発して位置も知らせており、居場所も制限される。作業が与えられている時だけ必要な場所に立ち入ることが許される。
昨日に比べれば、歩くことにも慣れてきた。白で統一された廊下を誰ともすれ違わずに歩いていく。その朝は、指揮所への立ち入りが許可されていた。
その先は空気が違っていた。人が行き来する音、小声の会話などがひしめいている。被験体だけでなく、研究所の職員も出入りしている。異様に頑丈な扉で外の世界と繋がっているのが他の部屋と違う点だった。
「おはようございます」
挨拶を告げ入室する。迎えたのは知った顔だった。あの人が「シオン」と呼んでいた人物だ。ネットワーク上のデータでは全く別の名前になっているので、愛称のようなものなのだろう。
シオンは旧型の遺伝子系列を持ったSロットであり、現在は研究対象から外れている。能力を見込まれてある特殊な役割を請け負うようになり、その一環としてSロットの作業管理を担当している。今日はアイに与えられる作業を伝えるためここに呼び出した。指令を伝える時は直接会わずともネットワークを使えばいいのだが、今回はアイの体の動作試験も兼ねている。
「次から、人前に出るときは鏡で自分を確認しなさい」
シオンは挨拶を返すこともなく、アイに手鏡を渡した。寝癖がついたアイの髪に、花びらが一枚ついていた。
「あの人は……また外部のものを持ち込んで」
直接触れないようにハンカチに花びらを落として包んでいる。あとで体を洗浄しておくように、シオンはアイに言い聞かせた。
香りが遠ざかった。
「彼女は地球に行っています」
アイが質問しようと思っていたことを、シオンは先回りして答えた。昨日丁寧に誕生を手助けしてくれたあの人物は、今朝には本来の仕事に戻ったらしい。外で仕事をする被験体もいる。
入浴を促された理由はわかる。地球では伝染病や汚染物質が氾濫しているからだ。しかし、シオンは本気で汚染を恐れている様子ではないように見えた。
「あなたの仕事は、サクラメント・マッピングの解析です」
アイの体は他のSロットと比べてもNデバイスとよく馴染んでいる。眠っている間に行われた適性検査でも高い思考能力を見せていた。その能力は、現実干渉性のマッピング整理に利用されるのが最適だ。
「サクラメント」は情報集積体で、研究所の目的そのものだ。超常の現実改変能力のデータを収集し、現実構築力の全貌を明らかにするものであるとされている。
そうした能力を人工的に生み出すための実験体がSロットだ。世界構造を探査するための生きたプローブである。犠牲<サクラメント>の頭文字であるSを名に持つように、その身を捧げることで存在価値を果たす。
本来ならSロットは生きているだけで研究に役立っている。彼女たちが生まれつき持っている現実干渉性をひとつずつ収集していくことで、このマッピングデータは完成に近づいていくからだ。しかし、それだけでは足りない。ただ生きているというだけでは足りない。今、研究所は人も資金も不足している。
「マッピングは一%も完成していません。このままのペースでは、とてもその時に間に合わないでしょう」
言いながら、シオンは指揮所から最重要機密であるマッピングのデータを呼び出す。可視化されたマッピングのグラフィックがアイのARに投影される。それは、ほとんどが空白のままだった。
地球の崩壊現象は着実に進行している。それを防ぐには新たに現実を構築するのに十分な研究成果がいる。今のペースではとても間に合わない。
アイをはじめとする新型のイスラフェル系が本格的に量産されることになればこのマッピングの進捗率は劇的に向上するはずだ。しかしむやみに生み出せば、逆に研究費用が底をついて終わる。これは一般には公開されていない事実だ。研究所を運営する政府は資金集めにも苦労している。
何が現実干渉性を生み出すのか。遺伝なのか、肉体なのか、精神なのか、それとも他の何かなのか。アイには、その解析の仕事が与えられた。
現実干渉性を発生させる最低限の条件。それは、あるサンプルの遺伝子を受け継いでいるということだ。その遺伝子を受け継ぎ、細かい調整を施されて被験体が生み出される。
その他にSロットが現実干渉性を発生させる要件として有力視されるものは二つある。一つはこの遺伝子の内容、つまり血統調整である。もう一つは記憶だ。同じ遺伝子でも、違った経験をしたものは別の結果を生み出すことがある。原理はまだわかっていないが、現実干渉性は特殊な方法を使って吸い出した記憶データとしてのみ記録と再生ができるという事実がある。
血統と記憶を組み合わせた結果の法則性。それがアイが探すべきものだ。
碧い花の香りと感触を電子情報として記憶し、アイは現物を処分した。これで汚染の心配はないはずだ。それが終わって、自室で作業を開始する。ネットワークに接続し目的の情報体を呼び出し、分析計画を作成する。指揮所で認証登録を行ったので、機密情報の一部を見ることができるようになった。
これまでに活動してきたSロットと彼女たちが宿してきた能力の一覧がある。そこから関連性を見出し、可能性がありそうな発生要件を推測していく。生まれながらにNデバイスを通じて情報処理ができるSロットの中でも特に優秀なアイにとって、情報処理作業は廊下を歩くよりも簡単なことであった。
現在活動しているのは五〇体ほどだ。能力発生に関する一次解析結果は出ているが、この数では有意性のある法則は見出せない。アイは考える。現状いるSロットだけでどうやって現実干渉性の発生条件を推測すればいいのか。
彼女たちは現在、ほとんどが研究所の中にいる。ごく一部は試験的に月面都市や地球に送り込まれ、様々な経験をさせている最中だ。一説には現実干渉性の発生は精神の在り方に関係しているという。研究所の中だけではどうしても限られた経験しかできないため、そのような試行も行われている。
できるだけ個別に試行内容を変えて、その中から法則性を見つけるしかないだろう。だが、研究所にとって極秘の存在であるSロットを大規模に世の中に送り込むことなどできない。
実際に送り込まなくても、記憶や感情だけを与えれば何か変化があるかもしれない。新型のイスラフェル型は精神の制御をしやすいように設計されている。専用の記憶管理ソフトウェアを開発すれば可能なことだ。
アイはイスラフェル九号だ。少なくとも他に八人のイスラフェル系が存在するはずである。アイはその情報を呼び出し、一覧にした。遺伝的には姉妹にあたる一覧が表示される。アイ以外のイスラフェル系の情報は、六人しか表示されない。
一号、三号~七号のものだけだ。二号と八号は抹消されている。死亡したか、何らかの理由で機密扱いになっている。一号は、アイの誕生に立ち会ったレン・イスラフェルだ。Sロットとしては何の素質もない失敗作で、現在は地球に送られている。兵役任務だそうだ。肉体を後天的に強化する強化兵士として、わずかながら研究所の資金を稼いでいる。
一号の経験を読み取って、他のイスラフェル系に移してはどうだろうか。研究所にいる五人のイスラフェル系の遺伝子は微妙に異なっているので、同じ経験でも別の結果が得られるかもしれない。
膨大な記憶データを処理して配分する事はアイの能力なら可能だ。許可を取るために、実験計画を作成して提出する。認められれば、レン・イスラフェルがまたこの研究所にやってくる。
それを思うと、少しだけ心が浮つくように感じた。消えてしまった花の香りを追う。データ上に保存したそれを呼び出すと、目の前に三次元画像が浮かぶ。
鮮やかな碧。アイは花へと手を伸ばす。
二週間後、実験は承認された。
レンが戦場から戻ってきた。十数日ぶりになる彼女の姿を視界に入れると気分が変わる。目覚めたばかりの頃よりは意識も視覚機能もはっきりしている。
「元気そうだね」
通りのいい声で言葉をかけられると、説明しがたい気持ちがアイの中にひしめく。ついこの前聞いた声なのに、もう新鮮で、懐かしく思える。
レンはアイの手をとり、両手で包み込んだ。生まれたばかりの時もこうしてもらったことを思い出す。そのままじっとしていたかったが、実験のための作業をしなければならない。
「私は、この実験には反対です」
レンを連れてきたのはシオンだった。彼女は今回の実験には難色を示していた。
実験を承認したのは彼女自身だ。高度な情報処理によって実験計画を管理し人間よりも効率よく研究を管理できる特殊な被験体である彼女が、最終判断を下す立場にいる。
シオンは記憶継承体と呼ばれる特殊なSロットだ。過去の研究記憶の全てを持っている。統合され、関連付けられ、一体となった計画の姿を把握し、調整するのが役割だ。
実験を承認したのはシオン自身だが、それは研究記憶に従ったまでのことだ。彼女の意思は別にある。個人的にはこの実験に反対だという。
「人の記憶を体験するということは、気持ちのいいものではありませんよ」
継承体であるシオンは、他人の記憶を受け止めたことのある人間だった。
「それだけは、覚えておいてください」
背を向け、シオンはアイに言う。Sロットなら、生まれつき例外なく初期記憶を植えつけられる。アイも経験者といえば経験者だ。人の記憶を経験するということがそれほど特別というのは、よくわからない。
「あたしはトラウマになるような経験はしてないぞ」
重くなりかけていた空気を破るよう、レンは軽い口調でシオンに言った。
「あなたの能天気と、繊細な姉妹たちを比べないでください」
呆れた声でシオンも言い返す。二人は親しい関係らしい。普段のシオンは近寄りがたいが、レンと接している時だけは声色に温度を感じる。
レンは、ここにいるどんな人間とも違う。濡れ羽色の髪、健康的な肌、明るく自信に満ちた表情。そのどれもが、研究所の中では異質だった。経験からくる変化なのか。もしそうだとしたら、それを知りたい。アイは、そう思っていた。
目に見えるものは、見えているようで見えていないと知った。濃密な記憶を受け止めたアイの精神は今、大きくかき乱されている。
『トラウマになるような経験はしてないぞ』
そんなレンの言葉が理解できない。
戦場を経験した。
戦闘が始まるまでの間は、とりたてて不快なこともなかった。地球という環境への真新しさはあったものの、アイは何も感じなかった。
しかし、耳を劈く轟音と同時に始まった短い時間のことが忘れられない。経験した二四時間あまりの時間の中では、戦闘はほんの三十分にも満たない。だが、もうその記憶しか残っていない。
土と、硝煙と、鉄のような血液の不快な匂い。飛び散る灰色の岩石が体中を打つ傷み。すぐ隣にいた人間が、一瞬の跡には動かない塊となって圧し掛かる。それを押しのけながら、今度は視界に入るものに殺意を向け、引き金を引く。
肉体も精神も極限状況に追い込まれ、ひたすらに苦痛が襲いかかってくる。戦場にいるのは機械になることだ。この経験をアイは処理しきれなかった。湧き上がる思いが思考を圧迫してしまい、日常生活にすら支障が及ぶ。
シオンが反対した理由がよくわかる。これをそのまま他のSロットに体験させるのは問題がある。編集を加え、戦闘部分はカットするべきだろう。
アイ自身も早く忘れたかった。記憶はNデバイスを使えば削除することができる。作業を終え、戦場は地獄だという経験をただの知識に戻した。しかし、説明のできない不安がまだアイの心には残っていた。
そんな思いを抱えたまま、実験を終えたレンを見送る時間がやってくる。
「じゃあ、またな」
レンは、戦場に戻る。何も感じていないようだ。あれほどの経験をしていながら、彼女の精神は正常を保っている。記憶から伝わってくる感情も、ずっと清らかだった。
正常である事が異常に感じられる。レンはどこかおかしい。アイ自身とは無関係だが、それがたまらなく怖かった。
「ん?」
去っていこうとするレンの服の裾を、いつのまにか掴んでいた。気づいたレンは振り返り、アイの頭に手を置く。
「大丈夫だよ」
その言葉で気づいた。
レンはいついなくなってもおかしくない場所にいる。いなくなってほしくないのだ。だからこんなに心が不安で満ちているのだとアイは自覚した。
レンの手に触れたい。あの感触がほしい。そう思った時には、彼女はもう、扉の向こうへいなくなっていた。
食堂で毎朝目にする規則正しく食事を取るSロットの様子には、外見上の特別な変化は見られない。しかし、今までは起きなかった事が起きはじめている。これまで無関心だったお互いが会話を交わすようになった。これまでも全く会話が無いではなかったが、以前とはその内容が違う。
アイの手で編集を加えた記憶を何人かのSロットに転写した。違うのは見た目の様子だけではない。現実干渉性の片鱗を見せる者が明らかに増えている。精神の活性化が影響している。この方法には利用価値がある。
Sロットは普通の人間と違い、胸部にNデバイスを埋め込む。胸部へのNデバイス施術は臓器に影響を与える。危険なため、法律で禁じられている。それが、Sロットが機密存在であることの理由の一つになっている。
脊髄に埋め込む普通の施術より、この方法の方が体から多くの情報を得、あるいは与えることができる。容量も大きくとれる。Nデバイスを通じてSロットが蓄積する記憶情報は、視覚や聴覚だけの記憶データではない。体の感覚や情動までも含んだ経験そのものであった。これが精神に与える影響は大きい。アイも経験したように。
この方法でも現実干渉性は作れる。どんな経験や遺伝子パターンがどの能力を生み出していくのか、特定していけばいい。情報が集まれば、狙った現実干渉性を生み出す被験体の設計図を描けるようになるかもしれない。
研究所は更にSロットに記憶転写することを要求している。このことに変わらず曇り顔なのはシオンだった。だが、成果が出ている以上は続けていくことになるだろう。
解析作業に集中していたアイは気付かなかった。自分自身の精神も大きく変わり始めており、また、自身もSロットであるということを。
食堂でトレーを運んでいる最中、誰かに話しかけられたような気がした。
「……?」
背後には誰もいない。
声というよりは歌のような、そんな何かを感じた。きっと気のせいだろう。以前よりも声が飛び交うようになったから、何かを聞き間違えたに違いない。
食事の時間はそれほど楽しみなわけではない。メニューは画一的だ。それに疑問を持つほどの精神の変化は、まだSロットにはない。最新の食材生成機を使えば、ここでも多彩な食材を揃えられる。レンの記憶の中には食事もあった。未編集の記憶を体験したアイだけが外での食事の味を知っている。それを共有することも今度試して見る予定だ。
レンは今も戦場にいるのだろうか。それを考えると、また胸がざわつく。早く食事を終えて仕事に戻ってしまいたい。没頭する作業があったほうが考えずに済む。
また何か声が聞こえた気がした。振り返ると、アイの背後でSロットが談笑している。少し過敏になっているのか。疲れた時の症状かもしれない。アイに与えられた作業の規定はそれほど厳密ではない。部屋に戻ったら、すぐに休むのがいいのかもしれない。
浅い眠りの中、アイは音を聞いていた。言葉、声といったものではない。意味が直接意識の中に落ちてくるような、そんな印象だった。
強いて言うなら歌声だ。呼びかける歌声は、すぐ耳元に寄り添っているかのようでもあり、遥か遠くの宇宙から響いているようでもある。歌声はアイを呼び続けた。消灯時間を過ぎて暗い廊下へと歩き出す。暗いが、迷うこともなく歩いていける。壁がどこにあるのか、見えていないのに見えている。
扉がひとりでに開くいた。いくつもの隔壁を隔てた先にそれがあるのがわかる。ひとつ、またひとつと、硬く閉ざされた扉は触れるたび簡単に開いていった。
たどり着いたのは、施設の奥底、厳重に守られた部屋の中だ。
二十メートル四方ほどの空間は薄明かりに照らされている。左右から伸びたパイプが中央に集合し、その付近からあふれる冷たい空気が部屋の中に満ちていた。大型の冷凍保存室のようだ。体に突き刺さるような冷気が満ちている。それを気に留めることもなく、目の前のものに目を奪われていた。
冷気を絶えず送り込まれている部屋の中央のもの。青白い照明に照らし出された円筒形をしたケースを見上げる。強化ガラス製のようで、中身は液体で満たされている。
一体どんな現象なのか、そこから広がっているものがある。どう見てもケースを貫通しているように、巨大な透明な何かが広がっているのだ。
深海の生物のように透き通って、美しかった。鳥のようにも見えるし、魚のようにも見える。あるいは人間にも見えなくはない。不思議な形をしていた。飽きることもなく、アイはそれを見上げ続けた。
ケースには破損は見られないのに、ケースの外まで翼を広げているのが不思議だった。非現実的な光景から、ホログラムかARの類かと思う。しかし投影装置もなければ、Nデバイスへのデータ流入もない。
これは現実の光景なのだ。そういう確信がアイにはあった。
「どうやって、ここに入ったんです!」
声をかけられ、アイは正気に戻った。
振り返ると、シオンがいた。ありえないものを見るかのような目でアイを見ている。その瞳には、怒りか、怯えか、そんな感情が浮かんでいた。
もう一度円筒のケースを振り返ると、翼は消え失せていた。ケースの中にはもっとくすんだ、半透明の、何かの生物の肉片らしいものが浮かんでいるだけだった。
■回想編(白)2
あの部屋が何かは結局教えてもらえなかった。知る事ができたのは、研究所の中でも本当にごく一部の者しか立ち入ることの出来ない、厳重機密区画だったということだだ。
処分は特になかったが、居心地が悪かった。施設の不具合だったのだろう。問題になるはずだが、そういう話も聞かなかった。シオンに見つからないようにこっそりセキュリティをすり抜けられないか試してみたが、無理だった。あの夜簡単に開いた扉は、最初の一枚すらもびくともしなかった。
夢のような出来事だった。しかし、時間が経っても何の進展もないので、アイは次第にそのことを気にしないようになっていった。数ヵ月後、実験のために再びレンがやってきた時には、そんな事件のことは忘れていた。不自然なくらい綺麗に忘れ去っていた。
レンはいつも新しい経験を携えてやってくる。戦闘の記憶が衝撃的だったと知ると、今度は別な体験をし、その記憶を提供してきた。
記憶の影響でアイも次第に外の世界に興味を持つ事が多くなっていた。研究所を出たいとは思わなかったが、自然と聞きたい話も増えていく。
「残り数周って所で、車の中が煙でいっぱいになったんだ。初めて勝てそうだったのに、それであたしのレースはおしまいだよ」
「そんな危ない事して、怖くないんですか?」
「恒例のお祭りだし、誰も怖がってる奴なんていないさ」
何度も会ううち、アイは彼女と親しくなっていた。記憶の共有は心地よい。いつのまにか、やわらかく笑えるようになっている。
それでも必ず別れの時はやってくる。何度も彼女を見送った。見送りが終わると、無色透明の生活へと戻っていく。
地球に惹かれはじめていた。行く事ができないとわかっていたので、話と記憶が楽しみになっていった。
レンは楽しい記憶を選んで与えてくる。地球への滞在は戦争という目的があったが、戦っている時間というのは案外短いものだ。生活の時間がほとんどである。地球上のあらゆる土地をめぐり、様々なことを経験している。今回レンが持ち帰ったのは、今や絶滅した内燃機関搭載型の自動車でレースに参加したという記憶であった。
空気を切り裂くエンジンの音に、集まった人々の高揚感。興奮が伝わってくる。目を開けばいつもの白い天井なのに、記憶の中は別世界だった。
そんなある時、アイに対して珍しい指令があった。
「迎えに行ってください」
それを伝えてきたのはシオンだった。最近はあまり会っていなかった。仕事のことなら通信で十分なので会う必要はない。相変わらず表情が冷たい人物だ。アイはシオンが苦手であった。レンとアイが親密になる事をよく思っていないような節があるのに、そのことについて一度も注意されていないのも不思議だ。
「私が、ですか」
「はい。外出の許可が出ました」
Sロットも外出することはある。その理由は様々で、経験を積むためであったり、レンのように稼ぎのために利用される場合、別の研究機関に引き渡される場合もあるという。
「理由は何でしょうか」
「実験の……一環です」
シオンは言いよどんだ。あまりいいこととは思っていないようだ。
空港にレンを迎えにいくだけだ。時間にすれば数時間だろう。彼女の気持ちなどどうでもいい。この指令は、アイにとって好ましいものだ。
歩き出そうとするアイの裾を、シオンが掴んでいた。
「……すみません、行ってください」
しかし、すぐに手を離す。
何だったのだろうか。わからないが、アイはあまり気にしなかった。
外の世界に出られる。そのことに少し興奮していた。なにしろ初めてのことだ。月面都市がどんなものかはある程度知っているし、出ていられる時間は短い。それでも楽しみであった。
いつもとは違う哀愁を帯びたシオンの表情。そんなものを気にかけることなど、できるわけもなかった。
高さ二キロメートル、幅四キロメートルを超えるトンネルの中に広がる都市。広大な地下空間は、研究施設内だけの生活に慣れたアイにとって想像を絶する巨大な世界だった。
月の海、平坦な土地に作られた直径九〇〇キロ、総延長二八〇〇キロもの巨大な円環状のトンネル。地球から夕方の月を見上げると、この巨大な構造物の輪郭を肉眼でも確認できるという。
円環状をしている理由は、内部でゆるやかに空気を廻して入り組んだ構造の奥まで空気を循環させるためだ。高層ビルに囲まれた道路に立つと風が通り抜けていくのを肌で感じることができる。自動運転の自動車や歩行者が、絶え間なく川の流れのように移動していた。
確かに、ここは月面「都市」と呼ぶにふさわしい。記憶の上では地球上も経験したアイだったが、天井のスケールが圧巻で、青空の広がる地球より広大な世界にさえ思えた。普段生活している研究所の頭上にこんな世界が広がっていることを、アイは初めて知った。
昂ぶる気持ちを抑えつつ移動する。企業連合が作り上げたこの月面都市に政府が常駐し始めたのは最近のことだ。まだ軍隊と呼べるほどの組織はないが、一応の警備団体がある。団体は自由に使える空港を月面企業の一つから購入し、保有している。そこが目的地だ。
研究所の隠された出口は政府庁舎にある。そこから空港まで移動し、レンを出迎えて帰る。ただそれだけの任務だ。それに何の意味があるのかはわからなかったが、アイには関係なかった。
都市全てに普及したCUBEネットワークを利用してレンタル車両を手配すると、庁舎を出たアイの目の前に自動車が迎えに来ていた。
自動車に乗ってみたいと思っていた。何の特徴もない二人乗りの小型車両だ。電気モーターでするすると加速を始める。室内は静かだったが、加速とわずかな振動がある。風景が動き、町が駆け抜けていった。ただそれだけのことが、アイには新鮮に感じられた。レンがレースで使ったような手動操縦のものと違い自動運転の車しか月面都市には存在しないが、それでも十分だ。
円環状の月面都市は効率よく移動できる幹線道路がある。車はすぐに目的地に到着した。もっと長くてもいいのにとアイは思う。
アイのNデバイスを認識して政府所有の専用空港が開く。企業連合の空港と比べると発着頻度が低いそこは船が少なく広々としていた。照明も一部のみ点灯されて薄暗く、街中の雰囲気とは違っている。
政府軍所有の空挺部隊輸送船が来ていた。そこで、レンと再会した。
「おまえが来るとは思ってなかったよ。よくシオンが許可したな」
「あの人から行くように言われたんですよ」
「ふーん……」
レンはアイの来訪に驚いていた。何か考え込みつつ、アイの頭を撫でた。本当は頭ではなく手に触れてほしかったが、アイは言えなかった。
「初めての外だろ。町でも見に行く?」
「そんな許可は出てませんよ。あなたにも私にもです。ダメですよ」
本当は行きたかった。しかし、とりあえずここにはレンがいて、これから一緒に研究所に帰るのだ。それで満足するべきだった。
車の窓の外、通り過ぎる町並みを見ながら、あの店に行ったことがある、あそこでこんなことがあった、と、レンは話をしてくれる。その横顔を見ているだけで、アイは嬉しい気持ちになる。
生まれた理由も、自分の立場も、地球の未来も忘れてしまう。この幸せだけをアイは求めていた。
その時、頭上から大きな振動と音が伝わってきた。何が起きているかわからないまま、視界が真っ暗になる。耳鳴りがし、意識が混濁する。
レンが自分の上に覆いかぶさっていることに気付いた頃、聴力が少しずつ戻ってきていた。生暖かい感触がする。レンは出血していた。意識はあるようだったが、流れ出した血で肩が紅く染まっている。
アイは困惑した。自動運転の車は停車していた。天井部分の片側が激しく損傷して凹み、樹脂製の窓が割れて外れている。そこから、外の音が聞こえてくる。
叫び声、何かの会話、サイレンの音。車のすぐ横にある高層ビルの頂上付近から、鮮やかに炎が上がっているのが見える。
外の声が言う。これはテロだ。企業連合の一つを狙ったものだ、と。爆破されたビルの破片が二人の乗る車に激突したのだ。
「救急車は、まずい」
怪我で声が細くなりながらも、レンは言った。
事故があれば救急車が駆けつけてくる。二人は病院に運ばれて治療を受けることになる。そうなれば、二人の体に施されたものが問題になる。
Sロットである二人には胸部にNデバイスがあり、これは臓器への影響が危険なので違法施術である。レンにいたってはそれだけではない。骨格や筋肉を人口繊維で強化したり、肺や心臓を人口部品に置き換えるなど、違法では済まない非人道的な改造が行われている。
妹たちを守ろう。
レンはそう伝えようとしている。もしも研究所の存在が暴きだされた場合、あそこにいる大勢のSロットがどうなるかを想像する。いい結果は思い浮かばない。すぐここを離脱しなければならない。しかし、徒歩で移動した所で離脱できるとは思えない。これだけの人だかりの中だ。
車は動かなかったが、レンは車を走らせるように言った。自動運転の車を自動以外でどう動かせばいいのかなど、アイにはわかるはずもない。
「前の内装を、こいつで剥がせ。そこにメンテ用の操縦装置がある」
レンは腰から刃物を取り出し、アイに渡す。アイは言葉に従った。非力なアイが苦労して内装を引き剥がすと、そこには無傷の操縦系統が現れた。
ステアリングに、加速ペダル、減速ペダル。それが何かはわかる。アイの記憶で経験しているからだ。
破損しているらしい自動運転回路に流される電力を、感電しないように慎重にマニュアル回路へと繋ぎ直す。計器類に火が入る。車両の外側は確認していないが、内部から見る限りではシャシー部分への損傷はない。モーターへの通電を開始すると、いつでも発進できる状態になった。
その間、レンは持っていた鎮痛剤を自分に投与している。戦場慣れした彼女は、手際よく自分に応急処置を施していた。
「足も腕も動きそうにない。おまえが運転しろ」
「でも、やったことない……」
「いいや、“ある”だろ」
レンは、記憶の体験について言っている。
確かにアイには、改造車両で市街地コースを二十周ほど周回した記憶がある。操縦装置さえあるなら、どうすれば車を動かせるかは知っている。しかし、それとこれとは話が別だ。
経験した記憶をそのまま実践できるわけではない。長い訓練の期間を終えた後の結果だけを体感しただけで、技術そのものを学んだわけではない。後ろから手取り足取り動かされただけの経験に近い。しかも、筋力も体の大きさも違う。戦争映画を見たら兵士になれるわけではないのと同じことだ。
「そんなに難しくない。賢いお前ならできる」
「でも……」
「体なんて、魂の入れ物にすぎない。心の方が重要だ。お前は私と同じだよ」
大丈夫、すぐ近くにいるから。そう言って、レンはアイの手を握った。手は冷たかった。いつもの暖かさがない。アイは、自分がやるしかないと理解した。
「わかった、やってみる」
覚悟を決め、アイは操縦席に向き合った。座席の位置を調節し、ステアリングを握る。Nデバイスの補助も全くない、保守整備と緊急用に搭載された完全なマニュアル操縦装置だ。
アクセルを踏むと車は動き出す。電気モーターは音が少なく、内燃機関に比べて加速の実感が少ない。少し踏みすぎた。通行人が驚いた顔で道を譲る。そこに出来た穴に車を飛び込ませ、そのまま走る。
通信回路は作動しているので、この車がCUBEネットワーク上で異端視されることはない。怪我人の緊急搬送という信号を送るようにした。しかしそれで誤魔化せるのも時間の問題だ。この車が医療施設に向かっていないとわかったら、システムからは異常とみなされるだろう。
AR機能のために高度に情報化された監視システムが常に町を見張っており、都市機能を保っている。こうした異常をすぐに認識してしまう。この町では、政府ではなくネットワークそのものが管理権限を持っている。ある種の完全な法治システムだ。長く関わるのは危険だ。
街頭カメラには写りたくないので、政府の庁舎までは裏道を使う。幸い、距離はそれほど離れていない。入り組んだ道を運転するには神経を使うが、なんとか少しの損傷で進めている。
少しの損傷ということは、つまり時々壁に当たっているということだ。
「な、なんだろう。すげー怖い」
レンが助手席で怯えている。それがアイの不器用さからくるものなのか、それとも経験した運転が全開走行だけだからなのか。アイの運転は暴れ馬のようだった。静粛性に配慮されて作られたはずの車内に、本来あるはずのない擦過音や衝突音が響いている。どこか壊れているのか、それとも何かを轢いているのか。座席に深く座ったレンには外があまり見えない。
「ちょ、ちょっと! ブレーキ!」
「今集中してるから! 声かけないでください!」
言葉がいろいろ耳に飛び込んできた気がするが、アイはそれを全て無視して走り続けた。やっとのことで政府庁舎の地下駐車場に滑り込むと、そこでようやく静寂が訪れた。
レンはすぐに研究所内に運ばれた。見た目以上に傷が深かったらしく、大手術が必要になるとのことだった。二人の存在が世間に知られることはなかった。よかったと言えるのだろうが、レンが大怪我をしたのは変わらない。心が落ち着かなかった。アイはかすり傷も負わずに済んだが、しばらくは待機させられる事になった。
「よく、無事で戻ってきてくれましたね」
廊下でシオンと会った。彼女はいつものように感情の希薄な表情を浮かべながら、アイの頭に手を伸ばそうとした。
何をされるのか身構えていたが、結局シオンはアイに触れることはなかった。そしてそのまま、レンが眠る医務室へと去っていった。
「やっぱり、こんなやり方は間違っています」
シオンは寝台に横たわるレンの手を握りながら、つぶやいた。かつてシオンの手を握ってくれた、温かく大きい手だ。
彼女の独り言はレンに向けてのものだろうか。それとも、自分自身の内面に向かっての言葉なのか。どちらともとれるような話し方だ。
ここ最近の研究所のアイの扱いに疑問を抱きながらも、何も言うことが許されなかった。それでも、レンを巻き込みたくなかった。彼女は妹たちのためならどんな危険でも犯すだろう。
彼女はここにいる。今助けを請えば、きっと彼女は助けてくれるに違いない。自分ひとりでなんとかすると思っていたが、もうそれも限界かもしれない。他ならぬアイ本人が証明した方法で、能力開発が動き出した。
彼女が目を覚ましたら全てを話してしまおうか。そして、妹たちを救うのだ。だがそれをしてどうなるというのか。シオンは記憶継承体だ。研究所の過去の闇を全て知っている。
成功するわけがない。逃げられるわけがない。ならばせめて、この閉じた箱庭の中で、姉妹たちが生きる意味を与えられる存在になろうと思っていた。それなのに。
「泣いてるの?」
いつの間にか目を覚ましていたレンが、動かない手を動かして、シオンの頬に触れる。
「いいえ」
その手を避けて、シオンは答える。
それでも、レンは立ち上がろうと全身に力を込めた。傷が開いてしまうが、それを気にかける様子はない。
シオンは悲痛な表情を浮かべながら、すぐにレンに鎮静剤を投与した。傷が治るまでは決して目が覚めないように医療設備に調整を加える。
今の記憶も忘れてもらおう。それしかない。そうするしかない。少なくとも、今はまだ。シオンは逃げるようにその場を後にした。
強化兵士であるレンは、傷の治りも早い。
閉鎖された安全な環境で暮らしていたアイから見れば、あの怪我と出血量は致命傷でもおかしくないと思えた。しかし、レンはすぐに回復し、歩く事もできるようになった。
「辛くないんですか?」
戦場にいればあんな怪我は日常茶飯事だ。実際に命を落とす場面だってある。記憶の中でアイも経験したことだ。
「痛いのは私だって嫌だよ。でも慣れてるし、自分で選んでやってることだからさ」
妹たちを救おうとレンはあの状況下でも言っていた。そのために戦場へと赴く。あと数日もすれば、激化する地球戦役へと帰っていく。地球圏の秩序を作るという題目のもと国家を併呑し続ける政府集合体の軍隊に加わり、それに反抗する反政府的な国家や武装集団を駆逐していくのだ。そうすることで、資金やコネクションの面で研究所に貢献し、姉妹を守っている。
「あたしはそこにいる」
レンは、アイの胸を指差した。アイの体にはレンの体から受け継いだ遺伝子がある。それが、もしもの時は最後の絆になる。つまり、形見になるということだ。そうアイは解釈する。
それだけとは限らない。アイは、レンから魂の一部を受け取っている可能性がある。現実干渉性を媒介する何かが人間にはあると思われている。目に見えない何かがアイからレンに分与された可能性はある。
アイが行っているのはそういう研究でもある。研究が進めば、見えなかった何かが見えてくるのかもしれない。
レンの言葉の通りだ。きっとアイの中にはレンの一部がある。それでも、彼女と離れるのがこんなにも苦しい。近くにあってほしい。そこにいてほしかった。
何の前触れもないことだった。
虫の知らせも縁起の悪い機会でもなんでもなかった。能力開発データの管理の一環としてSロットの出向状況のデータに触れているアイの目に、その情報は前触れなく入ってきたのだ。
『イスラフェル一号、損傷大。破棄予定』
たったの一行の情報。アイはその意味をすぐには理解できなかった。詳細データにアクセスする。
イスラフェル一号、つまりレン・イスラフェルが担当するのは多くの場合最前線だ。とはいえ、政府軍は保有する攻撃衛星と電磁加速砲艦による広域散弾投射で地球上のどこでも制空権を取れる。歩兵部隊を送る前には準備射撃が必ずある。なので、最も恐ろしい存在である敵航空機の爆撃を心配しなくてもいい。危険はあってもいつも優位であった。
不死身のように思えたレンだったが、その日だけは違っていた。攻撃衛星の一つが異常をきたし作動しなかったのだ。地下に隠されていた敵の無人攻撃機が急に現れ、苛烈な爆撃に晒された。
すぐに援護射撃が行われたが、それが到達するほんの数分の間に部隊は全滅。即死こそしなかったが、レンは身動きがとれないほどの重症だった。晒し者にされるのを避けるためだけに回収され、冷凍保存されて研究所へと送り返されてきた。
研究所の設備を駆使すればレンの肉体を再生することは可能だ。しかし、その予定はないらしかった。彼女の体を戻すためには重要ないくつかの研究設備を止めて、何人もの専門家の手を借りなくてはならない。
道具であるSロットだが、意識を持つ高等生命である以上は最低限の扱いはしている。しかし、今回はその最低限の範囲には入らない。そういうことだった。
アイはすぐに、シオンにかけあった。
「だめです」
しかし、返る返事はそんな言葉だった。氷のように冷たい表情と声で断じられて、アイは一瞬言葉を失う。
「な、なら、彼女の体を見せて。私が治すから!」
アイにはNデバイスの医療通信学の知識くらいしかないが、Nデバイスの扱いには熟達している。一晩あれば、医療従事者になることも可能だ。人手がないなら自分がなる。資金がないなら自分が稼ぐ。アイはそう主張した。
「あなたの存在の方が研究所にとって貴重なのです、九号。Nデバイスの酷使は体への負担になる。そんなことを許可できるわけがありません」
「でも……でも!」
引き下がればレンに先はない。自分がなんとかしなければ。アイの中にはそれしかなかった。今ある全てを投げ出してでも、レンの存在を守らなければいけないと思っていた。
九号じゃない。自分はアイ・イスラフェルだ。そう名づけてもらった。いろいろなことを教わった。命も助けてもらった。まだ、その恩を返すことさえできていない。
「レンに会わせて……」
目の奥から流れ出ようとする何かをこらえながら、アイは声を出した。力を込めた瞳でシオンを見つめ続ける。
すると、シオンの表情にも変化が訪れた。
「だめです……」
これまで一度も変化したことがなく、まるで機械のようだと思っていた彼女の顔。それが、憂いを帯びたものに変わっていくのをアイは見ていた。
「だめなんです。お願いだから、会わないでください」
ふわり、と香りが立ち込める。
あれは、あの花の香りだ。目覚めのときに感じた、あの匂い。アイはシオンに抱きしめられていた。
「お願いです」
シオンの声は、震えていた。
廃棄処分されるのは明朝とのことだった。
寝台に横たわっても、眠れるわけがなかった。枕を強く抱きしめる。涙は出てこない。それよりも、心臓の鼓動が収まらない。体温が上がったままだ。耳の奥が圧迫されるような感覚がある。手足が氷のように冷たくなって、感覚が薄れている。
時間がない。このまま何もできないなんて嫌だ。そう思いながら、アイは自分のNデバイスを稼働させ、データを呼び出す。しかし、役立ちそうなものは何もない。
生まれた日にもらった花の三次元データがあった。今思えば、あの花を捨てるべきではなかった。まだ十分にデータがとれていなかったからだ。
香り、色、形状は記憶したが、弾性や触感、温度状態までは記録していなかった。あの時はそれで十分だと思っていたが、触れられないというのはいかにも不十分であった。
レンのことを、アイはどれほど覚えているだろうか。
Nデバイスで記憶保存しておけば彼女の声、香り、姿はおろか、感触さえ忘れることはないだろう。その気になれば人格まで保存して、動いて話すレンを記憶の中に閉じ込めておく事も可能だ。
そうすれば、本物のレンと変わらない価値があるだろうか? 考えてみるが、よくわからない。多分違うという気はするものの、何が違うのかまでは説明できそうになかった。その違いをはっきりと説明できないのなら、まだレンのことを諦めてはいけないとアイは思う。
消灯時間が過ぎたので人目は少なくなる。Nデバイスの監視がある以上、研究所内で自由に動けるわけではない。しかし、だからといってじっとしている気になれるわけもなかった。
アイは寝台から起き上がり、廊下へと出た。
いつのまにか忘れていたので、彼女はそれが二度目だということに気付かなかった。
あの歌声だ。
胸に直接刻み込まれる意味。言葉でもなく、音でもない。歌声のように感じられる。
研究所の全ての扉は、アイが軽く手をかざすだけであっけなく開くことができた。どんなセキュリティレベルでも関係がない。あの時と同じだった。
だが、安置所だけは堅い隔壁に閉ざされていた。なぜかそこだけは、電子錠ではない通常の南京錠で閉鎖されている。
どこからだろう。どこからだっていい。この声の先に行けば、何か大きなものと繋がれるという直感があった。アイは行き先を変え、歌声を追う。
歌声は次第にはっきりしてくる。距離が近くなったからだ。安置所などよりもずっと厳重に守られた扉が、まるで彼女を招くように開いていく。
研究所の深く深くへと、アイは足を踏み入れていく。
円筒形をしたケースが置かれた広い空間は、不気味なほどの静寂に包まれている。誰かがずっとこの部屋を監視していることに、アイは全く気付かない。
この状況自体が、彼女を誘うために作られたものだ。実験だった。長い時間をかけ、今その結果が出ようとしている。他の誰の目にも、そこにはただのケースと小さな物体があるようにしか見えていなかった。しかし、アイの目を通し、それをNデバイスを経由して得られる視覚情報には全く違うものが写りこんでいる。
部屋中に巨大な透明な翼が広がっている。透明な何かで出来た、美しい物体だった。鳥のようにも見えるし、魚のようにも見える。見方によっては、人間に見えないこともない。
以前よりもくっきりと、白い光に包まれて見える。
アイはこの異形の物体に、祈りを捧げるようにひざまずく。身じろぎしなかった白い光が動き、覆いかぶさってくる。アイに向き合い、体を重ねている。
アイから届いていた視覚情報は、そこでぷっつりと途絶えてしまった。
それが悲劇の始まりであった。
古世代研究所は、当然ながら研究活動を主な活動内容とする組織である。その外面は政府軍によって強固に守られているが、内部に関してはそれほど武装化はされていない。
必要ないからである。一種の超能力を有する被験者を大量に抱えているとはいえ、彼女らはNデバイスによって制御可能な存在である。万が一制御を外れても、施設に備えられた頑丈な隔壁やガス噴霧装置程度で十分に危機に対処できる。
それでだめな場合であっても、必要最低限の武器は用意されている。室内で威力を発揮する短機関銃程度は備えられていた。問題が起きたことは今まで無いし、起きたとしても問題ないはずだった。しかし今回だけはそのどれもが意味をなさなかった。
開けてはいけない扉を開けてしまった。その様子をシオンは見せつけられていた。
肉眼で見ているわけではない。Nデバイスの規模を大きくとっているシオンは、現在研究所で起きている事を同時に認知することができる。監視カメラの映像、音。それだけではない。現場にいる職員の視覚や痛覚も、Nデバイスを通じて感じ取ることができる。
これは実験だった。九号の周辺を監視したり、状況を変化させていたのは研究所だ。
シオンの両手は白くなるほど握りしめられ、顔は蒼白になっていた。表情の伝わりにくい彼女でも、明らかに動揺が見てとれる。
「やはり、こんなことは間違っています」
シオンは席を立つ。膨大な情報を処理しながらで、足元がおぼつかない。両手を壁につきながら、目的の場所へと歩き出した。
緊急隔壁を閉鎖し、溶接しても駄目だった。目に見えない何かの力で頑強な隔壁が飴細工のように捻じ曲げられ、はじけ飛ぶ。
Sロットは遠隔操作できない。管理者権限を持つ者が数メートルの距離に接近して直接自分のNデバイスと通信パスを作るか、理想的には直接Nデバイスに触れることで、初めて命令を与えることができる。外部からいっせいに制御を奪われないように、そういう設計になっている。
今のアイを止めるためには彼女のすぐそばまで近づいて制御コードを送らなければならない。現実干渉性の権化、核そのものと融合した彼女に近づきたい者などいなかった。一人を除いては。
融合が原因なのか、アイのNデバイスからの情報は途絶えている。シオンは断片的な情報からアイの居場所を特定し、そこへと歩んでいく。
職員の目線を借りて状況を見ている。姿には変わった所はなかった。虚ろな目をして、ただ歩いているだけだ。だが、彼女の前を遮ろうとするものが、手も触れないのに打ち砕かれていく。
ここまでの事態になるとは思っていなかった。誰もがそうだっただろう。だが、シオンは特に強くそれを思っていた。
私のせいだ。
息切れしながら、シオンは廊下を歩いていく。
私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ。
あの日レンを九号に会わせるのを許したことも。アイを解析作業に従事させたのも自分だ。わかりはじめていた。現実干渉性を生み出す記憶とはどんなものなのか。シオンははじめ、「大切なものを持つこと」だと思っていた。だから、そのような報告を上げた。
喜ばしいことのはずだった。もしそれが現実干渉性を持つ状況として有益なら、道具として生まれてくる姉妹たちの慰めになるかもしれない。
「アイ!」
彼女に、イスラフェル九号の背中に追いついた。
初めて名前で呼びかけた。自分の「シオン」と同じように、レンがつけた名前だ。
「……」
自分を呼ぶ声に何か感じるものがあったのか、アイは振り返ってシオンの顔を見た。そのことに、まず少しだけ安心する。
「あなたに、話しておかなければいけないことがあります」
アイの解析結果から有意性のある傾向を報告して研究所を動かしたのも、その後のアイを監視していたのも自分だ。疑問を持ちながらも研究所の命令に従い、彼女を実験の中に置いてきた。
「廃棄処分にはなりません」
実験の最終段階。シオンが提示した説から一歩進んだ所に、答えがあった。あらゆる解析結果を統合した結果、それが最も可能性が高いと結論付けられたのだ。
大切なものを得て、その上で失うという状況。それが、最も現実干渉性とつながりやすい。シオンが行き着いた答えが最後のピースとなって、研究所は答えを出したのだ。
姉妹たちはその命に使命を帯びている。せめて生きている間は幸せでいてほしいと思っていた。しかし、彼女たちは決して幸せになれない。幸せになってしまったら、生まれてくる意義を失う。そういう生き物だったのだ。
アイに向かって歩み寄る。
「嘘をつきました。本当は、レンは大怪我などしていません」
レンは確かに入院しているが、傷は浅い。廃棄もされない。アイがこんな状態になる原因になった嘘を発したのは、他ならぬシオン自身だった。後悔していた。あそこで全てを明かしていれば、この結果だけは避けられたに違いない。
怖かった。次の瞬間には自分も正体不明の力で引きちぎられるかもしれない。今目の前にいるのはアイだけではない。異形の、目に見えない生命体がそこにいる。
それでも、震える体でシオンは前に歩み出る。
「ごめんなさい……」
両腕でアイを抱きしめた。まだ生まれて数年しか経過していない彼女は、シオンの腕にすっぽりと収まってしまうほど小さい。
彼女を救いたい。救わなければならない。幸せを奪い、こんな姿にしてしまった償いのために。その意思を感じ取ったのかもしれない。正体不明の存在が、シオンを見据えた気がした。
逡巡している場合ではなかった。シオンは用意してきたものを、アイの胸に押し当てた。
Sロットの制御用信号を送るための小型端末だ。Sレインと呼ばれるそれには、アイの中から数日分の記憶を消すような命令が書き込まれている。
うまくいくかどうかはわからない。記憶を消しても、融合が解除されることはないかもしれない。しかし、ネットワークから完全に乖離した彼女に有効そうな命令は他に思いつかなかった。
アイ自身に抵抗はなかった。しかし、アイを奪おうとする意思に、アイの中にある何かが反応を返した。
「うっ……」
アイの胸部から、透明な槍のようなものが突き出ている。それはSレイン端末を貫き、シオンの右手を貫き、そして、シオンの左胸も貫いていた。
その寸前に、Sレインからは記憶抹消の命令が届いていた。アイは気を失って、その場に倒れこむ。
槍のようなものはもうどこかに消え失せていた。同時に、アイの背後にあった何らかの存在も感じ取れない。核に繋がる記憶を喪失したことで、アイと核の距離が広がったのだろう。成功だ。シオンは安堵する。
胸から血が流れ出している。致命傷だった。それでも、シオンはアイを強く抱きかかえた。大切な妹だ。彼女たちを救うためなら、何でもできる。
最後の仕事が残っている。軽症で治療中のレンの冷凍睡眠の解除命令を出す。あとはなんとかしてもらうしかない。こんな後になってから協力を求めるなんて、きっと彼女は怒るだろう。でも、許してくれないことはないと思う。
自分には結局姉妹たちを幸せにする力がなかった。後悔と懺悔が、シオンの最後の思考となる。
何か事件があったらしいことは、慌しい研究所内の様子を見てなんとなくわかっていた。
シオンと呼ばれていたSロットが亡くなったらしい。本当の名前はエーリュシオン・エルヴェシウスで、長いのでレンが愛称をつけて呼んでいたらしい。
綴りを無視した、かなり適当な愛称のつけ方だった。結局一度も彼女を呼ぶことはなかったのは少し寂しい。苦手な人だったとはいえ、生まれて二番目に会った人物だ。
詳しい事は何も明かされていない。何か問題を起こしたという噂がある。葬儀が行われることもなければ、黙祷さえも送られることはなかった。
レンは何か知っているようだったが、この件については語ってくれなかった。ただ、一晩だけ、アイを抱いて涙を流しただけだ。レンが涙を流す所を、アイは初めて見た。
それから、研究所の雰囲気は変わった。
Sロットに与える情報は現在よりさらに制限するという方針になった。次から生まれてくる世代については、研究所の目的などの重要な情報は与えないという方針に変わったようだ。理由はわからないが、今回のシオンの死が切欠となったのだろう。
シオンは姉妹の幸福を常に考えていたとレンは言う。記憶継承体という立場から得られる発言力や権威を可能な限り使い、Sロットにも生きる意味を与えようとしてくれていた。彼女がいなくなった今、今後の研究所の方針自体が変わっていくのかもしれない。
継承体が死亡したということは新しく継承体となるSロットが選ばれるはずだ。噂ではもう候補が決まっているらしい。継承体がいなくなった影響でアイの仕事は一時的になくなってしまった。次の継承体が決まるまで、研究所全体で新しい研究活動を行わなくなる。
次はどんな仕事を与えられることになるのだろうか。アイはただ自室でそれが与えられるのを待っているだけだ。できるなら、この研究所の中だけでなく外に出てみたいとアイは望んだ。姉のレンや、他の少数のSロットのように広い世界に出ていって世界を見てみたい。
■回想編(黒)1
無の中から始まった。虚無の中から手足の感覚、皮膚の感触が芽生える。
肉体は十歳まで成長している。精神も、それに相応に作られた。生まれる直前の状態だ。そのことを、はじめから知っていた。
どうやって? 培養の段階で胸部に埋め込まれるNデバイスによって。神経と記憶の強化を受けている。意識を感じた瞬間から、彼女はもう思考することができた。
彼女の名前はルリといった。普通ならSロットは生まれた後に適正の判定と選別作業があり、そこで必要に応じて名前を付与される。しかし例外的に彼女には既に名前が与えられていた。それは、生まれる前から既にルリには「貰い手」がついているからだった。
応答性が悪い。もうとっくに目覚めてもいいはずなのに、体を動かす事はできない。かろうじて聴力が機能し、周囲が慌しさに包まれていることを知る。施設内で何かが起こっているようだ。
遠くで何かが破壊される軋み音がする。彼女には生まれながらにしてその存在を感じていた。目は見えなくとも、存在を感じ取ることができた。何か巨大な、途方もなく複雑な存在と融合した誰かがいる。感情を纏わせて、何かを強く求めている。
その誰かによって施設の一部が破壊された。それが悪かった。開封作業中の体に悪い影響が出た。半端な状態で培養槽の電源を停止されたことで、神経組織に異常をきたしている。
一瞬だけ感じられた感触を最後に、手足が石のように動かない。目も見えず、皮膚の感触も鈍い。瞼を開いているのか閉じているのかも判別できない。ただ聴覚だけは正常に機能し、交わされている会話を聞いていた。
「そっちはどうです?」
「無理そうね。非常電力だけじゃ、一つで限界だわ」
誰かが会話をしている。研究所の職員だろう。
「生きてるみたいですが、反応がないですね」
「放っておきなさい。こっちを手伝って。片方でも無事に引き渡せればいいんだから」
記録によれば、この培養室ブロックにはもう一人の被験者が培養されている。目で見ることはできないが、すぐ隣に姉にあたる「姉妹」がいるらしい。
「引き渡すって?」
「出資者が養子にしたいんだって。物好きな事だわ」
それが、ルリとその姉に与えられた役目だった。地球に住む一般人が「飼う」ために予約した個体だから、すでに名前が与えられていた。そして今、自分が必要ない存在として語られていることがわかった。
「歩けるかしら。ついてきて」
「はい」
姉にあたるSロットの声がした。短く返事をし、自分を無視して去っていく。
培養槽の電源が再び落とされた。生まれることすらなく死ぬのだろうか。体はきっと壊れてしまっている。暗闇へと突き落とされるようで、指一本動かす事もできない。ルリは意識を手放した。
二度と目覚めることはないと思っていた。どのくらいの時間が経ったのか。ルリの意識は再び浮上してきた。
「おはよう」
ぼんやりとだが、目が見えた。初めての視界が意識に飛び込んでくる。
「何本に見えるかしら?」
目の前に誰かの手の指が突き出されている。ぼんやり見えた。視力は基準値をかなり下回っている。体の感触はある。身じろぎをすると敏感に皮膚の感触が伝わった。乾いた布に包まれている。液体で満たされた培養槽ではなく、寝台の上だった。
いつのまに自分は生まれたのか。質問に対して返事をしようと息を吸い込む。心地のいい大気が肺を満たした。かすれてはいたが、声を出す事ができた。
覚醒しながら、全身にNデバイスが満遍なく広がっているのがわかった。神経組織の代わりに、胸部のNデバイスが大幅に拡張されたらしい。開封失敗によって壊れた体を補うための措置だった。
「かわいそう」
かわいそう。目の前の人物は、自分の姿を見てそう言い放った。不自由な体に生まれたことを言っているのだろう。だがこの人は言葉に似つかわしくない表情を浮かべている。
嗤っている。黄水晶色の瞳がルリを見る。頬を撫でる手に、不快感と心地よさを同時に感じた。
闇の淵から拾い上げられたことにまず安堵しながら、ルリは目の前の誰かわからない人物を、冴えない視力で眺め続けていた。
ルリが再利用されたのに深い理由はなかった。ただ人手不足だったというだけのことだ。目覚めた時の経験など忘れるくらいに、ルリにはすぐ多くの仕事が待っていた。
所内システムの一部に損傷を受けた上に記憶継承体を失った。今まで自動管理していたさまざまな施設機能が停止してしまっている。ここは月だ。生命維持関連の設備が停止することは致命的で、多くの人員が復旧に当たらなければならなかった。ルリに与えられたのも、今まで自動で稼動していた設備の管理の仕事であった。
ルリを引き取った開発部は、研究部の補助を行うための部署だ。研究部で一般には流通していないものが必要になった場合、開発部で独自に開発、生産を行って届ける役目を持つ。研究所の存在は政府機密だ。CUBEシステムで徹底的に情報管理された月面の経済圏から特殊なものを輸入すれば、存在をあぶりだされる危険がある。そのために、独自の生産能力を持つ開発部の存在は不可欠だった。
ルリが担当する施設管理はそう難しい仕事ではなかった。消耗品を交換し、異常が起きていないか確認することだけが仕事だ。誰にでも出来るようなことだった。
そこは動物の飼育ブロックだった。自動給餌装置に頼っていたために、システム障害によって問題が起きたブロックだ。研究所は大昔に違法になった動物実験をいまだ行っている。ルリはその意味も理解していないので、淡々と作業をこなす。餌の交換は朝だけなので、それ以後はやることがなかった。
「(声が……きこえる)」
ここで飼育される動物は数種類の小動物だけだ。ルリの手に余るようなことは起きない。だが一つだけ気になる点がある。飼育ブロックにいると、ささやき声のようなものがしきりに聞こえるのだ。
体の異常かもしれない。それは困ったことだ。あの闇の中に戻るのは嫌だった。ルリはこのことを黙っていた。
ある朝、ささやき声の様子が違うことにルリは気づいた。何かを訴えるような声だ。言葉として聞こえるわけではない。しかし、ささやきを通り越したはっきりとした声としてルリはその意志を感じた。
白鼬のケージの一つからだった。一匹がせわしなくその場を回っている。
ひとつのケージには同じ遺伝子を持つ一対の二匹が入れられることになっている。そのケージには一匹のみで、片割れは実験のために持ち出されたようだった。いなくなった一匹を求めているらしい。その感情がルリの中に入ってくる。
ケージに手を入れ、その一匹を持ち出す。とりあえず、隣のケージに入れておくことにした。三匹になってしまうが、特に問題は起きないだろう。不快な声は、それで少し薄れてくれた。
翌日ルリは呼び出され、問い詰められた。
「なぜケージを移動させたのか?」
同じ遺伝子を持つ一対が用意される理由は、投薬による反応の差異をできるだけ同じ条件で検証するためだ。進行中の実験でもう一匹が必要な時になって、ケージにそれがいなかった。そこで、ルリが呼び出されたのだ。
研究員が、マスクの上からくぐもった声で質問をしてくる。この場所の匂いをかぎたくないらしい。ケージにもあまり近づこうとしない。
自傷行為の危険があると判断したからだとルリは説明した。自分の聴覚の異常については何も言わなかった。どう説明していいかわからなかったし、目の前の研究員が怖かった。
次の日から、飼育ブロックには専用の医療カラーが配給された。首に取り付けて、自分の体を噛むのを防ぐための道具である。
ケージの問題からしばらくの間、大きい問題は起きなかった。片割れとして残される者は定期的に出てきたが、言われたとおりカラーを取り付けることで対処した。
そういう時は声が聞こえてくる。胸に痛く感じる声だ。痛いので、ルリはそういう個体のケージに手を入れて撫でてやった。そうすると声はおだやかになった。
「(おまえたち、さびしいの?)」
そう考えながら目線を向けても、相手に通じている様子はない。これらの声がルリに聞こえるようには、ルリの声は届いていないのだ。白鼬の毛の感触は心地よかった。人間の肌とは全く違う。手にまとわりつき、頭を押し付けてくる。
連れていかれた動物の行き先を考えると、声とは無関係に胸が苦しい感覚に襲われることがあった。生き物には死がくるということをルリは知っている。飼育ブロックにいる間の動物たちは普通の生を送っている。それでいいと思うしかない。
今のルリも同じだ。与えられた個室と飼育ブロックを行き来するだけの生活だったが、ルリは特に不満を抱かない。死ぬまでこの生活が続くかもしれないし、ある日何かの実験に使われて命を消費されるかもしれない。しかし、そういうものなのだ。
動物を引き取る研究員は直接飼育ブロックに来ることはなく、機械グローブを使っている。研究者に会う機会はない。話すのが苦手なルリにはそれが楽だった。
開発部から研究部に用事があって行ったことがある。そこで、自分と同じ系列のSロットたちを見た。
少し前からルリの名前は「楪世(しじょう)ルリ」という名前に変わっていた。あの時引き取られていった姉が地球で養子になった家の名前が「楪世」であったために、ルリやそれ以降の同じ系列のSロットは「楪世系」という系列名で区別されるようになっていた。
黒い瞳と流れるようにまっすぐな黒髪が楪世系に共通した特徴だった。引き取られていったという姉は楪世リカという名で、写真データを見るとやはり流れるようにまっすぐな髪をしていた。ルリは姉妹たちのような直毛ではなく、少し癖毛の黒髪を短く切りそろえていた。瞳の色も、他の楪世系が闇のような黒なのに、濃い青色だ。みんなとは違う。
外に出て会話を通じて何かを伝達するのはルリには恐怖だった。さえない視力と弱い手足を抱えた自分の仲間は、飼育ブロックにいる動物たちだけで十分だ。
ある日から、動物の消耗が多くなりはじめた。飼育ブロックは騒然としていた。どのケージからもあの声が聞こえている。調べてみると、ほとんどのケージからペアの片方が持ち去られているようだった。
どんな実験が行われているのかルリは知らない。施設が復旧し始めたことで急に実験動物が大量に必要になったのかもしれない。とにかく、ケアをしなければならなかった。
取り乱している個体を優先して、手を入れてなだめていった。例のカラーはよほど危険な状態でなくては取り付けない。声が余計大きくなり、根本的な解決にならないからだ。触れて落ち着かせる方法が最もいい。
ルリは騒いでいる個体を順番に落ち着かせていった。その日は、ほとんどそれに時間を費やした。翌日は新しい個体がやってきた。繁殖用の別の飼育ブロックから補充される。昨日苦労してなだめた個体はルリが眠っているうちに全て持ち出され、空になったケージにはその分だけ補充がされていた。その翌日、またほとんどのケージから半分が連れ去られていた。ルリは、同じように一日を費やして残された個体をなだめた。
その翌日も、その翌々日も、同じことが続いた。ルリは疲労し始めた。どんな実験を行えばこんなに大量の動物を必要とするのだろう。ルリは生まれて初めて疑問というものを抱き始めた。
ルリは一度仕事を置き、Nデバイスを通じて実験情報へとアクセスした。これまでも、動物実験の結果報告を知ることは許可されていた。興味がなかったので見ることがなかっただけだ。
そこで知った事実を、ルリは生涯忘れることはなかった。
開発部の中で、ルリは思った以上に多くの権限を与えられていた。ただの飼育係にしては不自然なほどに、立ち入りが許された場所が多い。
一連の大量の動物使用した人物とは一度だけ会ったことがある。名前はハンナ・ヘンシェル。ルリが目覚めた時にいたあの人物だ。同じSロットでありながら、開発部で研究員のようなことをしている。
ルリを見る表情が忘れられない。会いに行くのは正直怖かった。
「いらっしゃい」
まるで来るのがわかっていたとでも言うように、ハンナはルリを出迎えた。ひさびさに見る黄水晶の瞳は、改めて見ても威圧感を感じさせた。衝動に任せてここまで来たものの、どうしていいかわからなかった。
人間と会話した経験がほとんどないルリが立ち尽くしていると、彼女は悠然と微笑みかけてきた。忘れていたあの時のことを思い出す。ルリを「かわいそう」と言いながら、嗤っていたあの顔だ。
足が震えたが、ここに来たのは目的があるのだと自分を奮い立たせる。言葉をうまく組み立てられない。
「まあ、座りなさいな」
ハンナは中に入るよう促した。とりあえずそれに従う。彼女の研究室には何人かの部下がいて、いっせいにルリを見る。入ってきた扉が閉じる音に、びくんと肩が震える。
「下がっていて」
「かしこまりました」
人を侍らせる彼女は地球の貴族の娘のようだった。研究員を使用人のように使っているのか。全員を部屋から下がらせると、ハンナと二人きりになる。紅茶が出されていて、いい香りがルリの鼻腔を刺激した。
ルリは意を決して、よく考えた言葉を発した。
「動物の数には、限りがあります。無駄に使わないでください」
本当は数の管理は仕事ではない。補充は十分にされていた。でも、ルリにはこれくらいしかできない。言葉に出してみて、あまりの内容のなさにルリは落胆する。でも言った方がいい。そう思って、ここまで来た。
表情ひとつ変えることなく、ハンナは微笑みながらルリを見ていた。侮られているのか、嘲笑されているのか。そんな風に感じ取た。動物のささやきが聞こえるように、集中していればハンナの心も少し感じ取れる。
「見ていく?」
「え……」
「無駄かどうか、見て判断していきなさい」
それはお前の仕事じゃないとか、正式な手続きで抗議しろとか、そういう反論をされると思っていた。ハンナの言葉は想像していた反論と違ったのでルリは困惑した。ハンナはルリの手を引き、自分の研究室へと引っ張っていった。
ハンナの研究は新型の計算素子の開発だ。C(クラッド)デバイスと呼ばれる、Nデバイスの発展型である。高分子化合物を主としたジェル状のNデバイスと違い、炭素系繊維と高分子を融合させた固体質の被覆<クラッド>を持つ人工筋繊維型の素子である。
現時点での計算性能はないに等しいほどNデバイスに劣るが、体内でしか活動できない液状のNデバイスと違い、Cデバイスは生き物のように動き、単体で存在することができる。完成すれば運動機能を強化しながら神経も増強できる。
大きく硬い素子である分、肉体への進入と定着には刺激が強い。針のような物体が大量に体に進入してくるのだ。激痛のショックに耐えられなければ命の危険がある。
そんな実験を貴重なSロットで行えるはずがない。そこで、彼女は動物を使うことにした。
声が聞こえる。ハンナ・ヘンシェルに与えられた研究ブロックは、ルリが担当する飼育ブロックの数倍の大きさがあった。清潔で何の匂いもしない。聞きなれたささやきが聞こえる。透明な壁の向こう側では、作業用のロボットが実験の準備を進めている。
実験用に製造されたCデバイスが運ばれていく所だ。外見は黒い針金のようなもので、食事用のボウルくらいの大きさの容器に入れられている。
さらに歩いていくと、飼育ブロックから送られてきた動物が見えた。目が合う。見慣れたルリを発見したせいか、一瞬ささやき声が強まった。
ルリの手を離さないハンナからは、何の感情も伝わってこない。しかし、目線を送られているわけでもないのに、彼女がこちらを注視しているのがわかる。
「あの」
やめてもらえませんか。そう言おうと思って来た。でも、この人は話を聞くつもりなどない。はっきりとわかる。動物のささやきを聞くように、ハンナの声も聞こえるのだ。
ルリのことを同じ人間と思ってさえいない。そういう声だった。
「ほら、ちゃんと見て」
ルリを背後から抱くように抑えながら、顎を上げさせる。透明な壁を隔ててすぐ近くに、白鼬の無垢な瞳がある。ルリの目をじっと見ている。
「あなたの顔、好きよ」
ハンナが耳元でささやいた。背後にいる彼女の姿が透明な窓に映ってルリに見えた。その目を見て、ずっと見ていたという言葉の意味に気付いた。飼育ブロックには監視カメラがある。ルリはぞくりとした。
Cデバイスが入った容器が、近づいてくる。やめさせなければ。息を吸い込んで、声を出そうとする。
「悲しむ顔は特に好き」
背後の顔が冷たく嗤っている。呼吸が止まり、声が出せなくなる。底知れない恐怖が体の底から湧き上がり、ルリの体を縛るように動かなくした。
この人は壊れている。最初からそうだったのだ。背後から感じられるハンナの心は、どこかひび割れたように歪で薄いとルリは感じていた。
■回想編(黒)2
飼育ブロックの自動管理装置が復旧し、ルリの役目はなくなった。ハンナはあれ以来ルリに関わってこない。
簡単な雑用を指示されるくらいで暇だったので、飼育ブロックの前を通りかかれば、ガラス窓越しではあったがあいかわらず動物たちを見て過ごしていた。
そんな頃、復旧しつつある研究所のシステムからルリに対する呼びかけがあった。
TA(トランス・アシスタント)と呼ばれるシステム上のプログラムからルリに対して新規の要請がきていた。記憶継承体を引き継いでもらうかもしれない、という通達だった。
記憶継承体はさまざまな条件を分析し最も適したSロットが担当することになっている。先代が志望したので後継者を必要としている。それにルリが選ばれたというのだ。他にも候補はいるようだったが、今のところはルリが最有力ということだった。
研究所の力関係にそれほど詳しくないルリでも、継承体という役目が自分には重すぎるという認識くらいはあった。理由を問い合わせてみたが、TAからは「身体的適性など総合的に判断した結果」という曖昧な返答しか返らなかった。
「理由が気になる?」
することもなく飼育ブロックにいたある日、声をかけられてルリは驚いた。そこにはルリを苛んだハンナ・ヘンシェルがいた。彼女もまた、記憶継承体の候補になっている一人だった。
ハンナのことは怖かったが、継承体に選ばれた理由は気になった。
継承体は研究の中心になる存在だ。情報処理能力に長け、体が健康で長く続けられる者が就くのが望ましい。神経改造の影響で処理系が複雑になっている上、その影響で寿命を削っているルリに向いているとは思えない。
「普段ならね。今の研究所は二つに割れて争っているから、あなたの短命さが逆に都合がいいのね」
ハンナは説明した。研究部の過失で起こった例の事故で、開発部は不満を爆発させた。方針の違いによって対立することのあった両者だったが、ここにきて亀裂が深まっている。
研究部を白派、開発部を黒派などとお互いに呼び、区別を始めている。誰が言い始めたのか、お互いの服装の色を由来にしているらしい。研究部は白衣の白、開発部は作業着の黒と色が異なっている。
記憶継承体は研究所の方針を決定する重要な役目を担う。研究部はアイ・イスラフェルが次の継承体にいいと言い、開発部はハンナ・ヘンシェルを推した。お互いに自分の息のかかったSロットを推すせいで、次の継承体が不在のまま決まらない状態が続いていた。
しかしそれも限界だ。継承体が不在の間、研究の戦略性が損なわれる。研究所には立ち止まっている暇はない。暫定的にでも記憶継承体を作り出し、研究を続けなくてはならない。
両者が求めるのは、あくまでも一時的な継承体だ。できるだけ寿命が短い個体がいい。なおかつ、どちらの思想にもあまり染まっていないことが望ましい。
生まれて時間が経過してないないルリは、どちらの派閥とも関係がなかった。名目上は開発部の所有物となっていたが、研究部はルリが継承体でもいいと言っている。
自室に戻ってもすぐに眠る気にはなれなかった。ハンナの話を反芻しながら、ルリはベッドの上で眠れない日々を過ごした。
記憶継承体は少々特殊な立場の被験体だ。所内システムの利用権限が誰よりも多く与えられる。不自由も多いが、他の研究員から干渉されることもない。
その立場になれば、ハンナのような残酷な実験をやめさせることもできるのだろうか。
「質問があります」
ルリは、NデバイスからTAを呼び出した。TAは記憶継承体の引継ぎのために作られたプログラムモジュールで、その選定に際して対話式で情報交換を行うことができた。
「何か」
「継承体になった場合、研究に対する決定権はどの程度持ちますか?」
「継承体は研究に対する任意の決定権を行使するものではなく、戦略的判断に基づいて承認や発案を行うものである」
「決定権はないということですか?」
「決定権はあるが、個人の意思とは無関係のものでなければならない」
「それを誰が判定するのですか?」
「判定は継承体自身が行う」
TAからの返答によれば、継承体は個人的に研究の承認を行ってはいけないが、その決定プロセスは継承体以外には判断できないということだった。
それは、要するにやりたい放題できるという意味に思える。現実には各派閥からの圧力がある。板ばさみに耐える精神力が要求される仕事だ。先代はその負担に耐えかねた結果、殉職という結果に追い込まれた。
継承体はその特殊な仕事のため、なるかどうかの最終判断は本人が決定できることになっている。強い拒絶の意志を示せば別の候補が選定される。まっさらなSロットならそんな決断をする基準を持たないので、今までこの拒絶権が発動されたことはない。
死ぬことがそれほど怖いわけではないが、未知の世界に足を踏み入れる事に不安を持つ程度にはルリには自我があった。ルリは生と死という概念について明確に意識を持っていた。そのために一人で決断し行動に起こしたことが既にある。ハンナに会いに行った時のことだ。あの時はとても怖い思いをした。できれば二度と他人と接触したくはない。継承体になれば人間との接触は毎日になるだろう。自信はなかった。
しかし、ルリの心を豊かにしてくれた動物たちのためになるなら、そのくらいは苦労ではない。もしその時が来たら受け入れてみよう。そうルリは心に決めた。
Nデバイスを使った少しばかりのデータ整理やちょっとした雑用などをこなしながら、ルリはその時を待たされていた。その日も、まだ復旧していない区画で機材を移動させる作業についていた。
ルリは非力なのでちょっとしたものを運ぶのも一苦労だった。作業用ポッドを割り当てられればそのプログラミングくらいはできるが、余剰のポッドはないらしく、手作業で荷物を台車に積み込んで運ぶしかなかった。
台車をまっすぐに押すことすらルリには難しかった。バランスを崩して荷物を廊下にばらまいてしまった。それを一つずつ台車に戻していると、どこからともなく見たこともないものが近づいてきた。
黒い毛に包まれた何か大型の動物だった。大型犬か狼のような大きさと形だが瞳や鼻がなく、自然の動物には見えない。急に現れた自分ほどの大きさの動物にルリがおびえていると、その動物は床に落ちた荷物を口で器用にくわえて、台車へと戻してくれた。
「便利でしょう」
自分の仕事も忘れてその様子に関心して見とれていたルリに声がかけられた。見上げると、そこには久々に見るハンナ・ヘンシェルの顔があった。
「そう怖がらないで。私とお話をしましょう」
狼のような動物は躾けられた猟犬のようにハンナの左側にぴたりと戻った。この動物の毛並みはどこかで見た覚えがあるとルリは思う。
台車を目的の場所に運ぶのをハンナは手伝ってくれた。相変わらず苦手だと思ったが、危害を加えてくる雰囲気はなかった。
ハンナの研究室ではなく鍵のかかる休憩室にルリは連れていかれた。
「記憶継承体になるには、あなたはまだ研究所を知らなすぎると思ってね。私から少しレクチャーをしてあげるわ」
言って彼女が差し出したのは記憶媒体だった。胸にNデバイスがあるSロットにあわせてチョーカーの形に加工されたものだ。
そこに、ハンナによってまとめられた情報が入っているらしい。悪意のあるソフトウェアが含まれていることも考えられるので、ルリは身につけるのを戸惑っていた。
「心配なら口頭で説明してあげましょうか」
ハンナは無理にそれを身につけることを強要せず、自らの口で話を始めた。
研究所の成り立ちは今の政府集合体の発足初期に遡る。
ある国が行った月面の資源調査によって発見された未知の生命体を発見したことから全てが始まった。その当時のことはよくわかっていないが、その生命体は全身が計算素子で出来ており、高度な情報文明に適応した生物の姿だと推測された。
それだけならよかったが、その生命体は現実干渉性によって現実を構築している存在だった。実験によって傷つけられたことが原因で地球は崩壊をはじめてしまい、それを修復するためにSロットが作られ、現実干渉性の収集が必要になった。
それがこの古世代研究所の存在理由だった。
「これが、地球の本当の姿よ」
ハンナが見せてくれたのは現在の地球の姿の写真だった。大陸の北方から黒い影のようなものが染み出し、病気にかかったように侵蝕が進んでいる。それを見せる時、ハンナの顔色が少し変わった。
「壮大な秘密があるような態度しているけど、ようするに自分たちの過ちを払うために生み出されたのが、私たちSロットというわけ。それは理解しておきなさい」
憎しみのこもった言葉でハンナは言う。ルリには実感がわかなかったが、黒ずんだ地球の姿には恐怖を感じた。
開封に失敗して闇に沈められた時のことを思い出していた。あの黒い空間は現実の欠損で、あらゆるものが存在しない場所なのだそうだ。それが少しずつ広がっている。失われていくパズルのピースを埋めるために、新たに現実を構築するための装置を必要としている。それが研究所の存在理由だった。
しかしその研究は一向に進んでいない。戦略を担当する記憶継承体への負担が増大して壊してしまうほどに、今の研究所は切羽詰っているそうだ。それが、ハンナの話の全てだった。
「これを知ってもらった上で、あなたにお話があるの」
彼女がしたい話というのは継承体についてだろうというのは想像がついていた。しかし、ハンナの申し出はルリが想像していたものとは全く違っていた。
「私は継承体を拒否するわ。そんなことに利用されるのはまっぴらだもの。あなたはどうするの?」
継承体は一種の権力を持つので、ハンナはきっと興味があると思っていた。ルリに圧力をかけてやめさせようとしてくると予想していたのだ。
もしそうだとしても、ルリは強い意志で継承体になろうと決めて話に応じた。なので虚をつかれた思いだった。
「私は……なりたいです」
「何のために?」
「それは……」
微笑みかけながら尋ねるハンナに、ルリは答える事ができなかった。動物たちを救いたいなどと言えば嗤われるような気がしたからだ。
「そう」
返事がないのに、ハンナはわかったというような表情を浮かべた。その笑顔は、あの日恐怖を感じたような邪さを感じない、柔らかい笑顔だった。
「あなたは、継承体にふさわしいかもね」
言いながら、ハンナは狼のような動物を手元に呼び寄せた。その時ルリは気付いた。その動物の毛並みは、彼女の研究室で実験されていたCデバイスの繊維そのものだった。
するとあの中にいるのは、実験に使われていた白鼬なのだろうか。声を聞こうと集中すると、確かにルリが接した事のある、懐かしい存在を感じ取ることができた。
白鼬だったものはすっかり黒狼に姿を変えてはいたが、その精神にあまり変化はなかった。愛おしそうにハンナの手に絡みついている。Cデバイスを通じて感触も伝わるようで、撫でられると気持ちよさそうにしていた。
「本当はこんな実験をしたくないのだけど、研究所にはもうそんな余裕はないのよね。この子は唯一の成功例……」
今までのハンナの印象と違いすぎて、ルリはその姿に見とれていた。彼女は実験を楽しんでいるとばかり思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。
「あなたは体が不自由なようだし、これからはこの子に面倒をみてもらうといいわ。この子もそれを望んでいるようだし」
ハンナは黒狼をルリにくれるといった。開発部の承認も受けているそうだ。黒狼はすぐにルリのそばに歩み寄り、ハンナにしていたように自分の頭をルリの手の下にもぐらせた。体は大きくなっているが、その動作は小さいケージでハンナに甘えていた白鼬と同じだった。
黒狼はCデバイスによって意識が少し拡張され、知能が向上している。ネットワークにも対応し、さまざまな仕事をこなすことができる。体が弱いルリにとっては大きな助けになるだろう。
「私のことも……助けてね」
最後に意味深な言葉を残し、ハンナは立ち去っていった。その日、TAから正式に継承体を引き継ぐ準備をするようにと通達がきた。ルリはそれを受け入れ、自らのNデバイスに大規模な情報を入れるための準備を始めた。
翌日、継承体になるための情報受け入れが始まる予定だった。しかし、それは中止になった。
研究所内でまた事件が起きたのだ。この前のような未知の何かではなく、武器を使った戦闘が発生したらしい。
戦闘の犠牲になって死んだのはハンナ・ヘンシェルだった。研究所の防衛システムの不具合によって起きたという報告がなされていたが明らかに彼女を狙った攻撃で、その現場にはルリもいた。
先日の事件から研究所内に配備された対人自動防衛兵器は、廊下を自走しながら強力な機関砲で敵を排除できるものだ。ルリは黒狼によって銃弾の掃射から守られたが、無防備だったハンナは見るも無残にバラバラにされてしまった。
その様子を間近で見てしまったルリは、神経を通じてNデバイスに異常をきたすほどだった。そんな不安定な状態で継承体の受け継ぎはできないと判断され、TAは作業を延期することにした。
システムの暴走というのはおそらく嘘である。二人が同時にいる時を狙って攻撃が仕掛けられたとすれば、研究部が同時に継承体候補を消そうとした可能性がある。
ハンナが最後に口にした「私のことも助けてね」という言葉がどんな意味だったのか、もう知る術はない。しかし、多分それを成し遂げることはできなかった。怖い人でもあり優しそうな人でもあったハンナのことを、ルリはあまりにも知らなかった。
Sロットは他にも大勢いて、研究所の都合でこういう目にあうことがあるのだ。実験に使われる動物たちとそれほど変わらないのかもしれない。ルリの中で、継承体になる目的が増えていく。今はこんな状態だが、ルリの決意は変わらなかった。
少しでも健常に戻らなくてはならないと思ったルリは、まずは外に出ることにした。特に用事を命じられてはいないが、決められた場所に出入りすることは許されていた。
ハンナが殺された現場はもうすっかり綺麗にされ、何事もなかったようになっていた。そこにいけばハンナに会えるような気がしていたが、痕跡すらも見つけられなかった。
「誰をお探しですか?」
誰かが話しかけてきたので振り向き、ルリは驚いた。そこにあったのは、ハンナ・ヘンシェルそのものの姿だった。
幻覚かARの類を疑ったルリだったが、そうではなかった。
「ハンナは私の姉です。残念なことになりました」
彼女はグレーテ・ヘンシェルといった。ハンナの双子の妹で、それはつまり全く同じ遺伝子配列を持ったSロットであるということだ。似ているのも道理である。ハンナが活動している間は培養槽で眠りについていたらしいが、今回彼女が失われたことで、研究を引き継ぐために目覚めさせられたという。
「あなたにお願いがあって来ました」
どこか刺々しさのあったハンナと違ってグレーテは穏やかそうな表情をしており、その対比がルリに奇妙な感覚を与えた。
「継承体になるのは、どうかやめてください。あなたがそんな危険に身をさらすことはありません」
悲痛な面持ちでグレーテは言い、そっとルリの手を握った。彼女の手は暖かく、鈴を鳴らすような声も耳に優しかった。その一方で彼女の心に冷たい何かがあることを、ルリは生まれつきの直感によって感じ取っていた。
ほんのささいな違和感を除いては、グレーテはルリにとって親しくしたい相手だった。
ハンナの研究によってCデバイスは動物実験の段階を超えており、単体での性能向上の段階へと進んでいた。グレーテの専門も高度な計算素子の開発だそうだ。使わなくなった動物を研究室で引き取って飼っているので、それを見るためにルリはよく彼女の研究室に訪れるようになった。
グレーテは冷凍睡眠につく前に、研究部からの要請で「祈機」と呼ばれる超高速処理が可能な計算端末を作る開発チームにいた。その計画は例の事故によって凍結されているが、グレーテはその実現のためにCデバイスを応用できると思っているらしい。
祈機は、幽子と呼ばれる目に見えない粒子によって構築される超高密度の機械によって、常識では考えられないほどの巨大情報処理装置を構築するという計画だった。しかし幽子を操作する技術がないため、計画の中心部分が空洞なのだ。
幽子とは人間の意識、質感<クオリア>を形成するものであるとも言われている。人の体は幽子をとどめておく特性を持っているらしいことがNデバイスによる神経の拡張を通じてわかってきた。人体が幽子操作技術を獲得するための鍵になりそうだった。
ハンナによるCデバイスの設計は、Nデバイスよりもさらに人間の神経に近い特徴を持たせている。これをうまく扱えば幽子をひとつの構造体として留め、祈機を作ることができるかもしれない。
「継承体のような負荷のかかる役割は、個人が抱えるべきことではありません」
グレーテは祈機を完成させることで、研究の管理を全て人工知能によって管理させるべきだと考えているそうだ。黎明期、まだ研究の規模が小さい頃は継承体にかかる負担は大きくはなかったが、過去の研究データと現在進行している研究が肥大化するにつれ、その負担は耐え切れないほどのものになってきているというのだ。
現状様々な分野で活用される人工知能は役に立っているが、最終的な決断を下すにはそれを全て認識した人間を求めてしまう。機械に判断を任せてしまうという恐怖心から来るものだ。それを解消すべきだとグレーテは言っている。
研究部と開発部、白派と黒派という対立が足を引っ張っている結果、継承体は更に板ばさみの状況におかれる。こんなことは、心を持つSロットにさせていいものではない。
ルリはグレーテのその考えに納得はしていたが、祈機はそう簡単に実現可能な装置とも思えなかった。ハンナのことも頭にあった。グレーテは優しい人で、ルリにとっては友人だった。継承体に関係して何か活動をすれば、派閥争いの犠牲になって殺される。そんな事に巻き込みたくはない。
グレーテはルリが継承体になることに反対していたが、ルリはグレーテを守るためにも力を得たいと思った。継承体になれば今よりできることが増える。
ルリの精神は回復してきたので、TAからは再び継承体になる準備を進めるように要請がきていた。グレーテには黙ったまま、ルリはそれを受け入れることにした。
エーリュシオン・エルヴェシウスは、どの系統にも属さない特殊なSロットとして生まれた。ルリは自室で横になり意識を遮断したのち、TAから与えられる彼女の記憶データを受け入れていた。過去の出来事を経験するに等しいことだ。
ヘンシェル系や研究中のイスラフェル系を混合した遺伝子を持ち、情報処理に特化した調整を受けていた。一般的なSロットが現実干渉性の解明のために作られるのに対し、彼女ははじめから記憶継承体になため設計された。その意味では、彼女はSロットですらなかった。
目が覚めた時、彼女は天を見上げていた。はらり、はらりと何かが降り注いでいる。鮮やかな藍色の、薄く、やわらかい何かだ。それが舞うたび、記憶にはない香りが漂っている。
「やあ」
かけられた声は、初めての音として彼女の耳に届く。視力も機能し始める。培養槽に腰掛けるようにして顔を覗き込んでいる誰かがいる。
目の前にまた碧色の何かが舞った。記憶させられた初期情報からそれが何かを特定する。植物の花びらだ。
「おはよう」
声は繰り返す。短く切りそろえた黒髪に藍色の瞳に華奢な体の彼女は、ほんの数年前に生まれたSロットだった。イスラフェル系の一号で、名をレン・イスラフェルといった。
培養室に忍び込んで、生まれてくる姉妹の顔を見ようと思ったらしい。肉体年齢は一三歳程度だそうだが、彼女は既に地球でいくらかの経験を詰んでいて、闊達な性格を獲得していた。
シオンというあだ名をつけたのも彼女だ。名前が長くて呼びにくいという理由だった。はじめは落ち着かなかったが、しだいにその呼び名はシオンにとって思い入れのあるものになっていった。
シオンは生まれて数年で記憶継承体になった。その陰鬱でストレスのかかる仕事を長年こなすことができたのは、自由に生きるこの友人の存在を見ていられたからだった。彼女の記憶を読み取ると、そのことがよく伝わってきた。
しかし強化兵士としてその才能を研究所に提供していたレンは、使用されないときは冷凍睡眠に入っていた。それが長く続くようになり、シオンは孤独になっていった。
その頃、研究所内部では不審な動きが生まれ始め、継承体であるシオンも知らない活動が増えた。問題だった。研究の方針を戦略的に判断するのは継承体の仕事だ。勝手な行動をされては試算が乱れる。シオンは現在の研究をもう一度徹底的に調査する必要を感じていた。
ある日、シオンは異常を見つけた。研究所の情報が集まる指揮所にいれば施設内のことがほぼ知覚できる。設置されたカメラの死角にあたる場所に誰かがずっと動かずにいるのだ。人をやって調べると、そこにはSロットがいた。
すでに遺体となっていたそれは、グレーテ・ヘンシェルという名のSロットだった。研究所内で初めて起きた殺人事件であった。胸部への刃物の一撃で抵抗もなく殺されており、相手が暗殺者でもない限り親しい人物だと思われた。
グレーテを殺害した犯人はすぐに見当がついた。それは双子の姉のハンナ・ヘンシェルだ。
事件前後の行動を調べると他に犯人は考えられず、しかもハンナは両手に火傷を負っていた。グレーテは殺される直前、自分自身の現実干渉性、物体の熱を操る能力で抵抗したのだ。
ハンナ・ヘンシェルとグレーテ・ヘンシェルは、少し特殊なSロットだった。彼女たちは開発部、後の黒派によって生み出された。開発部はSロットの能力を開発に応用することに興味を持っており、Nデバイスを高度に使いこなす優秀な研究員として二人を作り上げた。彼女らが何を研究しているのか、不明瞭な点が多かった。
研究所内にはいくつもルールがあるが、明確な法律や罰則はそれほど整備されていない。特にSロットについては人権を持たない備品の扱いであり、政府集合体によって発行された社会保障番号を持つ研究所の職員とは異なっている。この殺人に関して、黒派はハンナに対するいかなる処分にも難色を示した。人間ではないのだから法律の縛りもないので、制裁を加えるなら管轄であるこちらでするという。そんなことは許されないとシオンは毅然とした態度でいたが、実際にどんな処分をしたらいいかは全くわからなかった。
ハンナの身柄を預かったシオンは、何があったのかを知りたいと思った。最近不穏な動きの多い研究所について何かわかるかもしれない。
「先に手を出したのはあの子の方よ。私は、この子を守っただけ」
ハンナのスカートのポケットから何かの動物が顔を出した。白くなめらかな毛並みの鼬だった。
「ひ」
動物を見慣れていないシオンは、ポケットから飛び出した鼬に慄いて、座った椅子ごと後ろに下がった。その様子がおかしかったのか、ハンナはくすくすと笑っていた。
「いい子ね……ほら入ってなさい」
穏やかな表情で白鼬をポケットに戻すハンナの姿を見ていると、本当に彼女が殺人を犯したとはとても考えられない。しかし本人は否定もしないし、両手の包帯もその事実を決定付けていた。
「案内してあげるわ、彼女の研究所」
ハンナは立ち上がり、シオンについてくるように促した。興味につられ、シオンはそれに従う。
グレーテの研究所は彼女の死後も保全されており、部下であるSロットの何人かがまだ働いていた。高性能計算機の開発を行っている場所らしい。
その研究自体に不審な点はないが、シオンの調べではここに配属されるSロットは非常に入れ替わりが激しい。普通ではないのは確かだ。ハンナが向かったのは、壁面に作られた暖炉だった。地球の家屋の文化を真似して作られた偽物であったが、美しい彫刻がされている。
「どきなさい」
Sロットの一人が俯いたままそこを塞いでいるのを、ハンナは力ずくでどかせた。同じヘンシェル系の姉妹だったが、どうも体が弱いらしい。
見れば、ここに集められた者はみなSロットとしては欠陥を抱えた出来損ないばかりのようだ。
「私のと同じか……」
暖炉にはタッチパネルが隠されており、何らかのロック機構があるようだった。それをハンナが操作すると、暖炉の奥から何かが外れる音がした。地下へと続く階段が現れた。
「こんな施設……図面にはありませんよね」
「ええ。私の部屋にもあるわ。あなたのような者の監視を逃れるために作ったものでしょうね」
あっさりとそれを明かし、ハンナは地下へと降りていった。そして、その奥にあるいくつもの扉を開けて進んでいく。
その途中で、シオンは息が詰まりそうな臭いを感じ始めていた。ドアを開けるたびにそれは強くなっていく。何重もの扉は消臭のための設備であるらしく、その奥にあるものの臭いが外にでるのを防ぐためのものだった。
最後に辿り着いた場所は、強化ガラスに囲われた金属製の頑丈なケースが設置された何かの実験場だった。地下の秘密施設のため換気扇を取り付けられないので消臭に限界があるようだ。
この匂いのもとは何なのか。耐え難い悪臭だ。考えているシオンの目の前に、まさかと思うものがあった。
金属製のケースの向こう側に、何人もの人間が拘束され閉じ込められていた。檻に入れられ、レールに乗って金属製のケースへと次々と入れられるようになっている。
ハンナはその異常な実験場に降り立ち、人が閉じ込められている場所に近づいた。一人のSロットがハンナの顔を見て反応していた。グレーテと同じ現実干渉性を持つハンナは、檻に熱を発生させて溶断し、そのSロットを救い出した。
ハンナに抱きつきながら涙を流すSロットの肩にも、白鼬の姿があった。ハンナの研究所から拉致された姉妹の一人だそうだ。
「ここは何の研究所なんですか?」
吐き気を催しながらも、意を決してシオンは尋ねた。
「人を原料に計算装置を作り出すために、体を分解して精神だけを取り出す実験のための施設よ」
研究所の大きな計画のひとつに、幽子と呼ばれる感知不能の粒子の運動を解き明かすというものがある。人間はその幽子を宿す形をした生き物で、だから意識を持つと想像されている。
その意識の部分だけを閉じ込めた端末を作るために、人間を圧縮して小さな箱に閉じ込め、残ったものを解析するという試みが提案されたことがあった。それはシオンの継承体としての記憶の中にある。しかし、それは様々な理由から却下されたはずだった。
「あなたたちが不甲斐ないから、私たちがこんな実験に使われるのですよ」
ハンナの声がした、そう思った瞬間だった。二人目のハンナが現れ、ハンナに銃を突きつけ、迷いなく発砲した。
それはハンナではなく、グレーテだった。この施設の地下で培養されたグレーテの新しい体だ。
「幽子の残留実験の結果生まれた私は、同じ遺伝子を持つ肉体がどこかにある限り、その体に記憶を移植して蘇り続ける。はじめは私たち姉妹がこの実験に使われていたんですよ。でももうこんな目にあうのは嫌。姉妹なんて掃いて捨てるほどいるんだから、何も私たちである必要なんてないでしょう?」
はじめは一人しかいなかったそのSロットは、同じ遺伝子の肉体を複数持たされたことによって、次第に精神が二つに分かれていった。そして、ハンナとグレーテという双子の姉妹として生まれ変わったのだ。
「あなたも体験してみますか?」
あっけにとられるシオンの腕をとって、グレーテは歩き出す。設計図を見たことがあるシオンは知っている。あの圧縮装置は熱を加える事によって人間の体組織を分解し、その中から幽子だけを吸着するように設計されたものだ。
「焼かれるのはお前だよ」
撃たれたはずのハンナが起き上がってきていた。不意打ちでグレーテの後頭部を殴りつけ、装置へと放り込んだ。自動的に作動した装置はそのままグレーテを取り込んで圧縮を開始する。悲鳴も聞こえないまま、グレーテは蒸発するように消滅した。
「どうせこいつは欠陥品だから……またあいつは戻ってきてしまうわ……」
グレーテの肉体は今消滅したが、死んだわけではないらしい。新しい体が生み出されてばそこに「転生」し蘇る。灰から復活するという伝説にある不死鳥のようだ。
生きている限り、グレーテはSロットの殺戮を繰り返す。狂っているのだ。だから止めてほしい。そうハンナはシオンに望んだ。
「どうすればいいんです?」
「あいつが次の体に戻ってきた瞬間に、培養槽をロックして。そうすれば、もう輪廻を繰り返すことはなくなる」
転生を防げないなら、転生した瞬間に肉体のほうを行動不能にすればいいのだ。そう主張するハンナの体からは、出血が止まらなかった。
「私もどうせ、次の体に転生するわ。そうなったら、またあなたと――」
そこで、ハンナは事切れてしまった。
シオンは急いで施設の下層へと向かった。そこには、ついさっき開封されたと見られる培養槽があった。その外にひとつ、もう一つ予備の培養槽が設置されていた。
上でグレーテが死んだことによって、もうその培養槽は幽子を媒介として記憶の再生が始まっているようだった。シオンはシステムに割り込みをかけ、培養槽の覚醒プロセスを中止させた。
これでもう、彼女は二度と目覚めることはない。シオンは一人、その陰惨な施設で安堵していた。
まだシオンの記憶の途中だったが、ルリにとってはそれどころではなくなった。記憶データの量は膨大で、引継ぎには数十日を要する。そのため精神の負担などを考慮し任意に途中で中断できる。すぐに記憶の受け継ぎを中断し、ベッドから跳ね起きた。
過呼吸になりそうなほど息は荒くなり、心臓も跳ね回っていた。
つい先日も、ルリはグレーテの研究所に行ったばかりだ。あの時も地下には実験用のSロットがいたのだろうか。彼女が研究をやめていなければそうに違いない。
暖炉はそこにあった。瀟洒な彫刻が施されたものだ。見間違えようがない。
何が原因でグレーテが再び目覚める事になったのかはわからない。彼女が生まれたのはごく最近だ。それを考えるよりも先にすることがあった。
もしハンナの言うとおりグレーテが実験を続行しているなら、姉妹の命が危険だ。一刻も早く確かめなければいけないとルリは思った。黒狼を引き連れ、彼女はできるだけ急いで研究室に向かった。研究室は照明が落とされている。誰もいないようだ。今は深夜だ。ひそかに研究室に忍び込むにはいい時間だった。
以前から、壁に設置された暖炉はずっと気になっていた。そこに近づき、タッチパネルの部分を探した。
「結局、なってしまったんですね。あれほどだめだと言ったのに」
ルリは驚いて振り返った。そこにはグレーテがいた。
彼女はずっとルリが継承体になることに反対していた。それは、これを知られるとわかっていたからだ。照明がつくと同時に、研究所の扉に鍵がかかった。継承体として不完全なルリは、その鍵を開けて逃げることはできない。
「継承体になったあなたを加工したらどうなるんでしょう。試してみたいと思いませんか?」
いつもの優しい微笑みのまま、グレーテは近づいてきた。
「あ、あの装置は完全じゃないから……何回やったとしても、きっと」
「何回やったとしても……? それなのに、私はあんな苦痛を繰り返さなければならなかったのですか?」
誰も助けてくれなかった。そうグレーテはつぶやいた。
「あなたは私を助けてくれますか?」
自分が殺され続けるか、他の姉妹を殺し続けるかしか道がない。それがグレーテに課せられた呪いだった。そんなものをどうしたらいいか、ルリにわかるわけもない。そのことを表情から読み取ったグレーテは氷のような無表情に変わった。
ルリを守るために、そばにいた黒狼がグレーテに飛び掛った。しかし、現実干渉性を武器として使うグレーテの前に、中枢部分を攻撃され沈黙した。
中枢である白鼬だけを狙って加熱させたらしく、黒狼の背中から炎が上がっていた。Cデバイスの集まりはそうなるとただの繊維でしかなく。力なく床に倒れこんだ。
逃げられる場所はもう一つしかなかった。Nデバイスにあるシオンの記憶を頼りに暖炉のタッチパネルを操作すると扉が開く。グレーテが追ってくる気配がする。遊んでいるつもりなのか、ゆっくりとルリを観察しているようだ。
階段を下り、いくつもの扉を潜り抜けながらルリは逃げた。記憶の中で経験したのと同じ悪臭が強くなっていく。グレーテはあの場所にルリを追い込むように迫ってきていた。逃げた所で出口は存在しないに違いないが、他にどうすることもできない。
ふと、何かがルリに話しかけてきているように感じた。動物たちから感じるささやき声のような何かだ。扉で区切られたいくつもの小部屋のうちの一つから、その声が発していた。
シオンの記憶では存在しなかった通路が新しく開いていた。その方向からは臭いがしてこない。どこに繋がっているかはわからないが、処刑場よりはましだとルリは思い、その通路へと駆け込んだ。
通路を進んでいくと何かの空間に出た。空気が薄くなったのを感じる。いつのまにか可動橋らしいものの上にいた。照明がなく真っ暗だったが、広い空洞になっていることがわかる。
グレーテが近づいてきているのを感じた。この地下空間は研究所のネットワークの外で、可動橋はNデバイスによる操作に対応していない。手元が見えないが、手動で橋を操作すればグレーテを足止めできるかもしれない。適当にボタンを操作した結果、突然照明がついた。
ルリ自身も、追ってきたグレーテも目を奪われた。そこはコンクリートで固めただけの簡素な地下空間だった。陸上競技場ほどの広さがあり、中央には円環型をした巨大な構造物があった。グレーテさえもこの場所を知らないようだった。
外観から判断するに宇宙ステーションのようだった。“ARCADIA”という刻印のあるプレートがついているのが目に入った。
グレーテの存在を思い出し、ルリは円環型のこの設備の中に逃げ込んだ。それを見て、グレーテも改めてルリを追いかけてくる。グレーテが本気になれば簡単に取り押さえられてしまう。この危機を脱するには何か武器が必要だ。
さっき点灯したのは外側の照明で、内部は薄暗い。転びそうになりながらルリは走った。やがて制御室にさしかかった。情報端末がある。そこで施設の事を知ることができる、そう思った時だった。
「驚きましたけど、もうおしまいですよ」
追いついてきたグレーテがルリの腕を捻り上げた。
「この場所は何ですか?」
笑わない顔でグレーテが尋ねるが、そんなことはルリにもわかるわけがなかった。この制御室には古い情報媒体がいくつか置かれている。それに気付いたグレーテは、ルリを床に放り投げ、そのうちの一つを拾った。
「CUBE感染者の隔離計画 ヴィルヘルミナ・ヘンシェル」
グレーテが媒体の一つのタイトルを読み上げる。それを読み進めていくうち、彼女はその内容に没頭し始めた。ルリにとってはチャンスだった。音を立てないように立ち上がり、その場を離れようとする。
それを見逃すほどグレーテは間抜けではなかった。すぐに気付いて、ルリを引き寄せる。
「あなただから、この場所を発見できたのですね」
グレーテが囁く。今まで何度も通路を通りながらも、グレーテにはこの場所を見つけることができなかった。この場所はある仕掛けによって隠されていたからだ。
ルリは生まれつき、耳には聞こえない声を聞くことができる。そのルリが近づいたことで隠された扉が開き、この施設への道が開いたのだという。
「やはりあなたは貴重な人なんですね……もう離しませんよ」
微笑を浮かべながらグレーテは言う。
「離して……!」
「安心して、殺したりしないから。そのかわり……私がされたのと同じ事をあなたにも経験させてあげますね」
その一言で恐怖が限界に達し、ルリは拾っておいた工具をグレーテの腹部に突き立てた。工具から火花が散って、グレーテの呻き声が暗闇に響く。
「あなたも私を傷つけるの?」
あまり堪えていないようだったが動きが鈍ったので、ルリは駆け出した。親しい相手にこんなことをするのに心が痛んだ。
施設から出て、外に逃げる事にした。助けてくれる人がいるはずだ。そう思ったが、その考えは甘かった。外に通じる側の扉が溶接されていた。グレーテが自分の現実干渉性を使って封鎖したのだ。
ルリの力では破れないので、逃げられる場所はもう処理場しかなかった。扉をいくつも抜けそこに辿り着く。
シオンの記憶で見た通りの場所だった。鼻につく悪臭が強くなり嘔気を催す。そこには、いまだに実験台にされるSロットが閉じ込められていた。
そのうちの一人の目がこちらを向いていた。ルリは近くの端末を操作して檻を開け、そのSロットを解放した。
「何か武器はない?」
それを尋ねるのが目的だった。グレーテは必ずここにやってくる。ここを脱出するには、もう彼女を殺すしかないと思っていた。
「これを……」
そのSロットは、隠し持っていた拳銃をルリに手渡してきた。
「え……」
そんなものがあるとは想像していなかったので、ルリは驚いた。
「ハンナから、あなたに渡してって……シオンなんでしょ……?」
この事態が起こることを予測して、この子に銃を持たせていたということだろうか。ハンナは自分の所からSロットが攫われていると話していたのを思い出す。
シオンではない。彼女は死んだので、ルリは代理だ。銃を撃った経験などない。
「やめておきなさい。あなたにそんな事はできませんよ」
グレーテが追いついてきていた。ルリは彼女に銃を向ける。
「ほら、もう何もしませんから」
怖いのは現実干渉性だ。じわじわとグレーテは近づいてくる。彼女の能力の効果範囲はおそらく数メートルだろう。
「一緒に研究をしていきましょう。こんなことがあったけれど、継承体のあなたとなら」
グレーテの声は優しく甘かった。ルリはグレーテのことが好きだった。こんなことになって本当に苦しんでいるのはルリなのだ。
「ねえ、ルリ」
しかし、感覚が研ぎ澄まされた今のルリにはわかってしまう。彼女は嘘をついている。心の形が見えた。それがルリが生まれつき持っている特殊な感知能力であった。
もう一歩進めば能力を使える、その距離までグレーテが迫った。ルリの背後には殺されるのを待っている何人ものSロットがいる。
グレーテの胸に赤い染みが広がっていった。想像していたより乾いた音と控えめな反動のあと、静けさが広がる。
「うあ……あ」
拳銃を握る手が硬直している。ルリはへたり込んだ。
グレーテはもう何も語らなかった。すぐ復活してくることを思い出し、ルリは地下の施設へと向かう。
しかし、そこには培養されている肉体は存在しなかった。調べてみると、グレーテ自身の手で新規培養は停止させられていた。
遺体の所に戻ると、グレーテの表情は僅かに微笑んでいた。彼女が嘘をついていたのは間違いないことだ。でも、本当は何を望んでいたのだろうか。それに思い当たり、ルリは手のひらに握った拳銃の重さを感じていた。
うっすらと、白い影のようなものがグレーテの体から抜け出るのが見えた。それはグレーテ自身だとルリにはわかった。白い影は凄惨な実験場の天井付近をいつまでも彷徨っていた。
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