Arcadia(B) 2

■回想編(白)3



 灰色の空を見ながら、アイは近づく足音を聞いていた。足音を聞いただけで誰かわかる。

 高層デパート上層階のフードコートにいた。残された掃除用ロボットが清掃を続けているために床もテーブルも清潔で、とても放棄された都市の一角とは思えない。お気に入りの場所だった。

 地球にきて数年、ここにいると環境破壊が著しいと実感することが多い。しかし、アイは地球が嫌いではなかった。

「よく見つけるよね」

 アイは、階段を上がってきた背後の足音に声をかける。

「簡単じゃないんだからね……もう」

 おそらく今日もかなりの距離を歩いたに違いない足音の主は、息を荒げもせず答えた。

 汚染区域がすぐ近くに迫ったという理由で棄てられたこの町には、アイの隠れ家がいくつもある。大学の友人エミ・レシャルはいつもそれを探り当ててきたが、とっておきの場所であるこのデパートに来たのは初めてだった。

 運動が趣味で健脚なエミは、大学中、町中、そして廃墟中を歩き回ってアイを探す。教授に頼まれたというだけでそこまでしている彼女を、アイは変わり者でお人よしだと評価していた。この友人と会えるというだけでも、地球での暮らしには価値がある。

 所属するラボは全く別で研究テーマも違う。ただ一年生の時、最初の講義でたまたま隣の席に座ったという縁があった。飛び級組で年齢が一緒だとわかり、その後三年半ほど大学でずっと一緒に過ごしている仲だった。

「大会も近いのにこんな場所にいていいの? 午後の会議行かなかったんでしょ」

 エミは人のよさそうな柔らかい口調で言った。この日も、アイが所属するラボの教授から事情を聞いて探しにきたようだ。聞かれただけで探しにくることないのにと思いながら、頭の中で大会への日程を計算する。会議には出ていなくても、頭の中で計画は進んでいる。

 地球ではまだ珍しいNデバイスを持つアイの「頭の中」は、一般的な学生のそれとは全く違う。こうしてぼんやり過ごす中で、既に精密な設計図を作り上げている。教授は大会に関しては大人気ないほど本気だ。いじっぱりだからはっきりとは言わないが、アイに期待してラボに来るように言ってくる。

「例の話は?」

「お姉さんのこと? それは何も言ってなかったけど」

「ふうん……」

 大会に参加する条件としてアイが教授に提示したのは、要員として姉のレン・イスラフェルを雇うということだった。前にも大会に参加したことがあり、戦力としては十分だ。

 教授は政府軍の車両システムや自動運転システムを設計していたこともあって政府の研究機関に顔が利く。それでも姉は強化兵士なのでそう簡単に派遣できない。自分がこうしてSロットとしての役目から離れて地球で生活しているから忘れがちだが、あの場所から外に出るのは容易ではない。

 廃墟にあるにしては小奇麗な椅子から立ち上がり、アイは自前の保温ボトルをバッグにしまう。

「学校行くの?」

「そうするかな」

 エレベーターのスイッチを押すと扉が開く。電気は生きているのだ。この上層階まで階段を使ったエミが複雑な顔をしている。運動が得意ではないアイがこんな階まで徒歩で来るはずがない。

「く、車なんだ」

 エレベーターは一階ではなく地下駐車場で止まった。エミは慄いている。

「乗っていくでしょ」

「わ、私はいいよ。歩いて帰るから」

「何よ。遠慮しなくてもいいじゃない」

 ここは廃棄された都市なので、自動運転システムは強制されない。それでもAIによる運転を使えば自動走行が可能だったが、アイはマニュアルでの運転を好んだ。地下駐車場にはアイが乗ってきたコンパクトカーが雑に駐車されていた。

 アイは放棄されたものに手を加えて走行可能にした車を使用している。控えめに言ってアイは運転が得意ではない。駐車された車はあちこちが凹んでおり、廃車だと言われても信じそうな姿になっていた。

「これ何台目……?」

「うるさい。早く乗って」

 エミは手動運転の免許がないので、しぶしぶ助手席に座る。アイは運転席に乗り込み、電気モーターをスタートさせた。



 町に着くなりフラフラになってしまったエミを大学のベンチに放置して、アイは学内のカフェテリアに向かった。用事は何もないが、家にいてもすることはない。人が多い街中にいるのもいいが、それよりは学校の雰囲気が好きだった。

 先端技術を研究しているわけでもなく、設備に恵まれてもおらず、都会でもない場所にある学校だったが、ひとつだけ見所があった。すぐ近くに自動車用のテストコースがあるということだ。

 地球での自動運転車の普及のために市街地を模して作られたもので今でも利用されることがある。試験もあるが、モータースポーツの大会でも擬似市街地コースとして使われる。

 直近に迫った大会も、ここを使用する自動車レースを中心としたイベントだ。展示も競技もある。マニュアル運転の自動車を十二時間走らせる耐久レースが目玉だ。自動運転が主流の今はもはや研究開発や宣伝として価値のないイベントだが、大学の研究所や個人名義でいくつものチームが参加する。懐古趣味の自動車好きの教授が年甲斐もなく熱中する恒例行事である。

 カフェテリアからは市街地コースが見える。学生たちが教授と一緒になって車を走らせている姿を見ながら、アイはボトルの中に残った紅茶を飲んで過ごした。



 地球では徐々に地下都市化が進んでいる。月面開発で得られた密閉空間における都市システム構築の技術が流用できたこと、悪化する地球環境から身を守るために都合がいいことがその理由だった。

 地下都市では空調や交通、物流を地上より無駄なく動かす必要がある。工学的な技術だけでなく、高いレベルの効率化技術が必要になる。物理エンジンや遺伝的アルゴリズムを用いたりしながら、効率的な物流や空気、電力の流れを検証していく。

 昨今は徹底的に規格化されたもののみを使うことも求められる。生活環境は人の動きで変わっていく。効率を損なわないように組み換えができなければならない。

「月面都市は、芸術的と言えるほどこのバランスに優れています。組み換えの自由と効率化を高度に両立させている。それには、CUBEネットワークという比類なき力をもった計算システムが中心にあることが大きな理由だね」

 自動車の話をしている時はやんちゃな老婆という感じの教授だったが、こうして講義をしているとそれなりに見えるものだ。そう思っていると、教授はちらりとアイの方を向いた。頬杖をついて話を聞いていたアイが姿勢を正すと、教授は皺が刻まれた目じりを吊り上げて微笑んだ。

「アイ・イスラフェル」

 予想した通り、アイは名指しを受ける。

「CUBEシステムについて、あなたは詳しかったですね。わかる範囲のことを教えてくださる?」

 嫌ですと言うわけにもいかず、アイは解説を始めた。

 CUBEシステムは月開発と同時に利用され始めた新型ネットワークシステムで、宇宙施設を制御するのに利用されて普及していった。いまや都市といえるほど巨大な施設になった円環トンネルの生命維持装置や交通、電源、ARなど、あらゆるシステムを共通のネットワーク上で管理している。Nデバイスと呼ばれる流体コンピュータを封入したノードが集まって構成され、数を増やした分だけ自動的に拡張される。

 最大の特徴は人間そのものにもNデバイスを埋め込むことによってシステムの一部に組み込んでいるという点だ。CUBEに接続された人間は他のノードと同列に処理され、CUBE内にある管理機能によって最適なリソースの配分を受ける。それによって人口や居場所がシステムに把握され、必要な大気の供給や通信速度を効率的に与えられる。

 また、CUBEは接続されたデバイスから余剰の計算能力を調達するクラウドリソース供出機能を持っている。あとからシステムに追加されたものであっても、元来のリソースを圧迫するだけでなく自らリソースを提供する事で、システム全体を強化していく仕組みになっている。眠っている人間のNデバイスも動き続け、起床している人間のための計算処理を行ったりしているのだ。

 理論上は、どんなに巨大になってもリソースが不足することなく、また隅々まで管理を行き届かせることができるのがCUBEというシステムだ。ソフトウェアも特異で、自分と違うOSとの互換性を自ら作り出すことができるものだ。異常といえるほど高いセキュリティ性能、ブラックボックス化されているカーネルプログラムなど、他にも独自の特徴がある。

 CUBEは完璧なシステムで、地球の都市計画にも大いに参考にされた。しかし、誰がいつ、何の目的で作ったシステムなのかは謎だという不気味さもあった。

「ありがとう」

 アイの説明を学生たちは真剣に聞いていた。教授は満足そうに講義を続ける。

「地球ではまだほとんどの人がNデバイスを施術していないし、今後も普及するかどうかはわかりません。なので、CUBEをそのまま流用することは困難です」

 その後は、地球上で現在使われているネットワークと都市機能においてどんな問題があるか、人工知能によって自動化されたシステムにおける責任の所在などの具体的な話が続き、講義は終了した。

「あなたは、CUBEの正体を何だと思っているの?」

 講義が終わった時、アイに質問をしてきた学生がいた。

 金髪に黄水晶色の瞳をした人物だった。心なしか、どこか棘のある目線でアイを見ている。

「正体って……」

 研究所出身のアイは、CUBEが研究所発のシステムであることは知っている。でも、そんなことは口が裂けても言えない機密だ。

「はっきりした定義じゃなくてもいいわ。CUBEにどんな印象を抱くの?」

 困惑するアイに対して、その学生は強い調子で続けた。

「さあ……ただのコンピューターネットワークじゃないの?」

 そう答えると、学生は不機嫌そうな顔を崩さないまま去っていってしまった。

「何が聞きたかったのかな?」

 後ろで話を聞いていたエミが顔を出す。エミはあの学生を知っているらしかった。

「名前はエリス・ヘンシェルだよ。同じラボに通ってるんだ。あんまり話したことないけど……」

 ヘンシェルという名はどこかで聞いたような気がした。こっちに話しかけてきたことといい、どこかで会って話したことがあるのかもしれない。

 午後の講義までかなり長い時間がある曜日だった。次の講義までずっと学校内で時間をつぶしてもいいが、たまたま教授に捕まっては長話されるかもしれない。エミと学食で食事を済ませてから、ひとりで学校から出た。

 この大学は郊外にある。大学の裏手から先は他の建物が全く無く、森の中に道路がずっと続いている。十数分ほど歩くと人の気配は全く無くなり、立ち入り禁止区域の棄てられた町の方面への道路に繋がっている。防護壁が作られているが、簡単にすり抜けられる隙間がある。

 その防護壁をすり抜けた先のすぐ近くには、もともと宅配便の配送センターとして使われていた大きな倉庫がある。航空機に搭載する巨大なコンテナがいくつも並ぶそこに町から拾ってきた移動用の車を隠していた。

 アイが月で乗ったような無人車両として運用されていた電気自動車で、町には同じ形のものがいくつもある。何台か集めてきたそれの中から、今使っているものを選んで乗り込む。全て手動操縦ができるよう改造されている。

 この無人の都市は広大なので、元陸上部だというエミのような健脚でもなければ徒歩で移動するのは大変だ。道路監視網のセンサーネットワークがもう稼動していないので、こうして手動運転の車を使わなければならない。メンテナンス用の操縦装置は決して扱いやすくはなく、あちこちぶつけている。

 午後の講義は出席の確認が厳しい単位だ。時間に遅れたくないので遠くへは行かず、近くのゲームセンターに行くことにした。レトロゲームばかり集めた店で、前にアイが運び込んだ小型の電源装置によって稼動できるようになっている。

「……どっかに発信機でもつけてるの?」

 先客がいた。アイを待ちかまえていたのは友人のエミだった。

「推理だよ。午後の講義があるからそんなに遠くへはいけないし、ここ、お気に入りだよね?」

 控えめな性格のエミが、少し得意げにそう話した。しかし、アイは納得しない。

「ふーん?」

 アイはエミをよく知っているが、論理的思考が得意な方ではなかったはずだ。それに、人の講義スケジュールを把握するストーカーでもない。だれか他にこの推理を行った者がいるような気がした。

「……実はね、これなの」

 エミは円盤状の端末を取り出した。地球ではよく普及している通常型の個人端末のようだった。

 彼女は大学では人工知能の研究を行っている。アイも都市機能の知能制御を研究しているが、エミの人工知能は人間の思考を再現するものだ。人が行わなければいけない重要な決断を再現するという目的がある。

「サクラって名前のAIなの。私や、私の周りの人の行動パターンを覚えさせて、これから起こることを予知してくれるんだよ」

 相互の会話機能はまだなく、行動や発言を一方的に記録していくしかできない。将来的には普通に会話できるエージェントにしたいという。

 対話ができる人工知能は今もたくさんあり、ほとんど人間と変わりない会話ができる。しかし、実用化されているものはスケジュールを伝えたり家庭の機能や情報を整理し、要約したり過去の事例を引用してくれるというものだ。エミが作った「サクラ」の特殊な所は、未来の情報を予測するという点だった。未来がわかれば決断に必要な材料を集める時間も稼げるというわけだ。

 実際、こうしてアイの行動を予知して見せた。いくつもある隠れ家からここを選ぶことを見事に予測している。

「へえ、すごいね」

「そ、そうでもないの。当たる可能性はまだ低いから……」

 将来は個人を補助する機械を作るための会社を作りたいというのがエミの夢で、これはそのために必要なソフトウェアであるらしい。

「アイが手伝ってくれればすぐ完成しそうなんだけどね?」

 エミは微笑みながら言う。彼女は一時期、熱心に自分の会社にアイを誘っていた。大学ではNデバイスを施術している人は少ない。エミはNデバイスを持っている数少ない学生の一人だが、小規模なシステムしかなく、ちょっとした機械操作や少しの情報整理しかできない。

「はいはい、今度ね」

 アイはむなしさを感じていた。学校はすごく楽しい。許されるなら、卒業後にエミの会社で一緒に何か作りたい。この話をすぐ承諾したいくらいだ。しかし、大学を卒業したら研究所に戻ることが決まっている。

 あまり乗り気ではないアイの態度をもう知っているので、エミもしつこく誘ってはこない。本当はすごく嬉しいのにそんな態度をとらなければならないことに、アイの胸は痛んだ。

「最近、テロ活動とか物騒だから町で遊ぼ?」

 おそらく本題と思われる話題をエミは切り出した。

「こんなとこ来るテロリストはいないよ」

「そんなのわからないでしょ。噂があるんだし……」

 政府軍と戦っている勢力は、政府が指定した立ち入り禁止区域を拠点にしているという噂がある。しかし、アイはレンから反政府勢力がどのあたりにいるのかを伝えられている。そういった地域は衛星によって照準し、海上から長大な距離で砲撃を行える電磁加速砲戦艦によって攻撃され廃墟になっている。

 絶対に来ないとは言い切れないが、政府軍の勢力下であるこの区域はまずそういう心配はいらない。しかし、これは公開されていない情報だ。一介の学生であるエミが知りえないことである。

 本当はここに出入りする他の理由がアイにはあったが、今日は帰ろうと思った。

「今、何か言った?」

「いや?」

 声が聞こえた気がした。最近たまに幻聴らしきものが聞こえるのだ。

 本当に最近だけのことだっただろうか。前にも何もない所からの声を聞いた気がする。アイは何かを思い出しそうだったが、何も思い出せなかった。

 そもそも、この生活自体に疑問を抱く事がたまにあった。説明のできない不安というか、危機感のようなものが急に襲ってくることがある。

 学生としてもう何年も生活していると、研究所での暮らしは遠い昔の出来事だ。人は状況に適応する能力が高い。違和感を感じることはなく、かつての自分は別人のようだ。

「気のせい……だよね」

 親のような存在だったレンと離れて生活することには慣れたと思う。冷凍睡眠を繰り返す強化兵士であるレンとの年齢差は少なくなってきて、親というよりは姉に近づいてきている。

 そのレンともうすぐ会えるかもしれない。それを思うとそわそわしてしまうことは自覚していた。



 設計した車両が完成してきた。アイが設計した部品は高分子素材の積層方三次元成型機によって一晩のうちに揃い、それを去年まで使っていた車に取り付けて組み立てていく。

 ベースはずいぶん古い車両で、しかも耐久レースで酷使しているために歪みが生じている。その点は専門の車両整備工場である程度リフレッシュしてもらった。その上で現状を精密に計測して部品を設計しているので組み立てた時点でもある程度は仕上がっている。あとは細かい調整をしていけばいい。

 早朝からピットに入ったアイは、一番に姉を迎えた。

「来たよ」

「うん」

 簡単に挨拶しながら、姉のレンはアイを抱きしめた。数年ぶりの再会だったが、戦わない時は冷凍睡眠させられるレンはほとんど姿が変わっていない。アイは身長が伸びた。今はまだ胸の中に納まっているアイだが、そのうち身長は追いつきそうだ。

「えっと、その、元気だった?」

 レンはそわそわしながら話しかけてくる。姉は照れ屋なのでこういう久しぶりの会話は苦手だとアイはよく知っている。

「そんな話より、これ乗ってみない?」

 パドックにはすでに車が用意してあった。アイがそこに案内すると、レンは運転席を覗き込んだり、きれいに塗装され磨かれた車体に触れたりしていた。

「いいのか? 姉だからって贔屓すると他のやつが嫉妬するんじゃないのか」

「このボロ車に喜んで乗るのはレンだけだよ」

 どのみち嫌になるほど乗ることになる車両だ。コースはすぐ使える状態だった。

 何人か用意されるドライバーは事前に実際のコースを走行しながら調整を加えていく。好成績を出した者はメインドライバーになり、名誉と特別報酬を受ける。

 かつて行われていた自動車レースなら何ヶ月も前からこうした作業を行うが、これはアマチュア中心のイベントだ。気合が入ったチームは数週間前から試験しているが、アイの研究所のようにドライバーを呼べるのは数日前というチームもある。

 ドライビングスーツを着込んでコースに出て行く姉を見送りながら、アイはここ最近で最も充実した気分でいた。このイベントはお祭りでもある。それを姉と過ごせることは、アイにとっては唯一の報酬だ。



 耐久レースでは複数のドライバーが交代しながら走行することになるので、今回雇ったのは三人だ。それに加えアマチュア枠として研究所の一員が必ず一周以上は走行することになっており、その枠は教授自らが担当することになっていた。

 教授は自動車メーカーでモータースポーツに関わっていた頃は自らも草レースに出場し、政府の仕事や今の研究職についてからもイベントによく関わってきた。成績はまちまちだったが、そこそこ名前を知られている。レンともそこで知り合った。今回雇ったドライバーにも元プロがいるらしい。

 現在のプロモータースポーツは電気自動車の規格車両競技のみで、ドライバー能力を競うスポーツでしかない。今回のようなイベントでしか市販車ベース車両を使った競技は行われない。その中では、今回のレースは規定がほとんど存在しない最高レベルのものだ。参加する車両は現在のレース車両にも匹敵する高性能の巨大モーターを搭載した電気自動車が中心である。

 アイのチームの車両は前回までは水素燃料エンジンのみを搭載する旧車だった。今回は水素燃料エンジンに加え、小型のモーターを組み合わせている。これはハイブリッドカーと呼ばれる種類のもので、電気自動車が普及しはじめた時代に多く作られた変り種だ。自動車史を勉強していてそういう車があると知ったアイは、パワートレーンを一新するのにあわせて電気モーターつきの変速機を設計して搭載したのである。

 小型の電気モーターが変速機と直列に組み込まれ、低速加速を中心に燃料エンジンを補助する。このシステムを仮想空間試行を繰り返して仕上げていった。過去のどのバージョンよりも高性能かつ耐久性が高くなり、今まで燃料エンジン車の欠点だった燃料補給回数の多さも改善した。試走でも今までにないタイムを出している。

 それでも電気自動車勢とは溝がある。だが、今年またレンが出場するということで、アイのチームは注目を受けている。このレースでは過去に一度だけ、電気自動車勢をおさえて水素エンジン車が先頭を走ったことがあった。その時のドライバーがレンだった。結果は車が壊れてリタイヤだったが、あと一周もっていればイベント史上初めて電気自動車をやぶる燃料エンジンのチームが誕生していたのだ。

 パドックに入ったレンはいろいろな人物から声をかけられ、雑談に応じていた。旧車の愛好家は地球には多い。そんな人たちにとって、レンは英雄のような存在であるらしかった。

「うれしそうだね」

 背後から声をかけられ、アイはとびのいた。

 エミがいた。今回のレースには関わっていないが、見学したいというのでパドックに入ることを許可されている。学生新聞の取材という役目が一応あったが、好き勝手に写真を撮っているだけのようだ。

「何しにきたのよ」

 車に興味があるとは聞いていなかったが、エミはこのレースを見たがった。

「お姉さんを見てみたかったし、アイを見てるのが面白いからね」

 姉を見つめる顔をじっと観察されていたと知ってアイは顔が熱くなり、友人の肩をはたいた。うれしそう、というのはアイのことなのかレンのことなのか。アイは恥ずかしくて聞けない。



 地球上で、一般道を手動運転することがどこでも許されていた時代があった。自動車は移動の道具でもあったが、好きな時に好きな場所に乗り手を連れて行く相棒、個人的な趣味の物でもあった。自動運転の車が公共機関となって自動車競技がソフト開発の大会になり、VRによって車の運転を楽しめるようになった現在、そういった趣味は滅んでいく運命にある。

 極限まで仕上げられたレーシングカーの走行は肉体にかかる負荷が大きく、鍛えていないアイには大変な苦痛だった。走る事ができるのは数周が限界で、それでも永遠のように感じられた。

 最も長い直線からヘアピンコーナーへ、最高時速三〇五キロからフルブレーキングを行うと、座席から剥がされそうに感じる。加速しながら高速コーナーを走り抜ける時は横からかかる加速度で臓器がひっくり返りそうになる。

 VRと現実の明確な違いはない。生まれた時からNデバイスを持っているアイにはなおさらこのイベントの価値はわからない。熱中する何かがあったとしても、代わりのきかない情報はない。こういう緊張感やスリルも、それを記録し再現できればコンテンツとして再現が可能だからだ。なのに、なぜこんな事をするのだろう。

 朝が近い時間帯になっていた。昨日の夕方から始まった耐久レースは終盤を迎えている。真っ暗な深夜のコースには照明がついているが、視界は完全ではなかった。この速度域ではほんの少しの誤差があればあっという間にクラッシュする。アイはNデバイスを使って補助グラフィックARを構築することで対応している。

 ステアリングを握る手にはめられたグローブは少し大きい。姉のレンから借りたドライビンググローブだった。直線での速度は時速三〇〇キロメートルを超えるが、緊張はしても死への危機感は希薄だった。車を操っているという自信があるからだろう。

 レンから受け継いだ操縦感覚を利用することで、アイは車を制御し続けていた。あの時と同じだ。こういうことがあるかもしれないという予感があったので練習もしてきた。一人で、廃墟になった町の中でだ。

 研究所の中から一人はアマチュア枠としてレースを走らなければならない。本来なら教授がその枠を埋めるはずだったが、長年患ってきた持病が今年はよくないことをアイは知っていた。

 他の学生はそうなったとしても過酷なレースを走る気はないし、その能力も短時間では養成できなかった。しかしNデバイスを持つアイにはできる可能性があった。教授は意地でも走るといっていたので、誰かにかわりを頼むことはしなかった。アイはひそかに独自のトレーニングをした。廃棄都市に足繁く通って、体に受ける負担をできるだけ多く経験してきた。その経験とNデバイスから受け継いだ姉の知識と経験によって、アイはステアリングを握っている。

 アイが走り出した時の順位は五位で、電気自動車勢のいくつかを食う快進撃の最中だった。しかし、いくらNデバイスの補助があるといっても素人が運転する車である。アイは順位を二つ落として七位を走行していた。

 真っ暗だった地平線に少しだけ明るみが見えていた。もうすぐ夜明けで、長かったこのレースもあと一時間足らずで終わる。アイにとって最後の周回が訪れる。この周を終えれば姉にバトンタッチして休むことができる。

 前方にはさきほどアイを抜き去った二台の車が見えていた。熱くなったドライバー同士が抜きつ抜かれつの攻防を演じたせいで大きく速度を落とし、再びアイの前に姿を見せていた。

 たった一度だけ、最後のコーナーで勝負をしたいと思った。せめて引き継いだ時の順位は維持したい。姉の記憶に影響されてか、アイは非合理的なことを考えていた。

 車の調子はよかった。アイは誰よりもこの車を知っている。どの程度の負担に耐えられるか、どの程度までコーナリング速度を出せるのか、全て知っていた。肉体の方もこの速度にも慣れてきたところだ。

 いける、とアイは思った。

 豊富なレース経験を持つ姉の記憶から的確な戦術を選び出し、アイは車をコーナーの外側に寄せる。警戒した敵車はブロックラインをとり、イン側に余裕が生まれた。

 現在の電気自動車はモーターや電子制御装置の肥大化によって重量増の傾向にある。そのイン側の余裕に入れるほど横に機敏には動けず、車幅も十分ではない。しかし、アイの車は電気自動車に比べて軽量かつ小型だった。

 しかも、アイの車は特別なものを持っていた。軽量の車体でなくては瞬く間に劣化するほど柔らかいコンパウンドの超高性能のタイヤをはいていたのである。

 宇宙開発用の最新素材を流用し、アイが新規設計したものだ。だから、誰もこのタイヤのことを知らない。柔らかすぎてすぐ磨り減ってしまうので電気モーターの強力な低速トルクとは相性が悪く、電気自動車の大きな車重にも耐えられない。ギリギリの耐久性を追及したきわどい設計をしている。その代わり、他のどのタイヤよりもグリップする。軽量な燃料エンジン車にのみ許された武器だった。

 この秘密兵器によって得た鋭いコーナー速度によっていつのまにか背後に迫り、直線に出れば電気自動車を風除けにして加速することで追いすがってきた。

 アイは前方の電気自動車をまた風除けにして車を加速させ、内側にあいた隙間に飛び込んだ。無理のあるラインにもかかわらず、車は安定してインサイドの縁石をぴったりと追従し、コーナーを抜けた。ほんの一瞬、後部が相手の車に接触し車が揺れる。それを一瞬のステアリング操作で回復させ、アイはアクセルを踏んだ。強く踏み込むことによってミッション内のモーターが加速を補助し、コーナーの脱出速度を高める。

 一度に二台もの電気自動車を抜き去る見せ場を作り、アイの車はホームストレートに戻ってきた。そして、そのままピットに滑り込んだ。その間に、抜いた二台はまた順位を戻してしまう。数秒だけしか前に出ることはできなかったが、しかし失った順位を取り返して自分のレースを終えた。

 数周しか走っていないので給油もタイヤの交換もない。ラストドライバーであるレンは短い挨拶のみですぐ車に乗り込んで走り去っていった。

 はずしたグローブを受け取る時、レンはアイの頭をくしゃくしゃと撫でていった。その感触がずっと残っている。パドックの中はコース上と違って明るく、人の声が飛び交っている。声が遠くに聞こえ、現実味がなく、夢を見ているようだった。

「ありがとう」

 すぐ近くでした声に振り返ると、そこには教授が立っていた。

 具合はそう悪くないようで、過酷なレースができない以外は日常生活に支障はない。それでもここでは車椅子に乗せられていたが、アイを迎えるために立ち上がっていた。

 普段は過激な年寄りだが、今日だけは目が潤んでおり、彼女は普通のおばあちゃんだった。こんなに素直にアイに感謝の言葉を告げる姿は今まで見たことがない。

 夜明けが訪れ、レースは最後の盛り上がりを見せていた。



 結果は三位に終わった。燃料エンジンの車としては史上最高位で、旧車好きには大変な喜びをもたらした。

「なんで不満そうなの?」

「一位とれるかと思ったから……」

 アイにとっては少し不満だった。どうせなら教授には一位をプレゼントしたかったし、技術的にも十分にいけると思っていたからだ。

 一時はトップに出られそうな勢いだったのだが、計算より早くタイヤの性能が低下してきて、その後は順位を守るのがせいいっぱいだった。

「今の性能のままでもう少し耐久性を上げれば……いや、車のほうをライフ重視にすればもっといける……」

 レースが終わってお祭り騒ぎが始まる中、アイはずっとそんなことばかり考えていた。

「熱い走りを見せてくれたじゃない。また来年があるさ」

「来年は卒業で忙しいよ」

「ああ……そうだったっけ」

 その話をする時だけ、レンは曇り顔をした。

 イベントを締めくくる花火が上がっていた。地球では何度か見た。火薬を燃焼させることで単純な光のパターンを生み出すものだ。結構お金がかかるものらしいが、地球人はこれが好きだった。

「もったいないな。綺麗だけど」

 美しさに感動しながらもアイはそう考えていた。ARを使えば火薬を使う必要もないし、もっと複雑なグラフィックを表現できる。

「まあそうだけど、元ネタだと思えばね」

 現実を経ることで価値を知り、その価値を再現し増幅させるのが情報技術の役目だ。そうレンは考えているらしかった。

「不自由な現実のほうがいい?」

「それは自由なほうがいいよ」

 現実と変わらない法則をもった世界をVRで作り出すことも可能だが、そこまでするなら現実そのものを利用しても同じだ。今ある現実で何らかの価値を獲得し続けることで、情報技術によって形成される世界も豊かになっていく。それがこれからの世界の姿かもしれない。

「まだ地球にいたかったな……」

 研究所に戻れば経験を積むことはなくなり、自由不自由以前に情報の更新がなくなる。そうなると、アイは現実よりもVR上に作り出す世界のほうが便利に思えた。もしある程度のリソースを使ってもいいのなら、研究所に戻ったあとも何らかの刺激を生み出す実験をしたいと思った。

 レンが何も言わないので顔を見上げると、また切なそうな顔をしていた。

 会いに来る時、たまにそんな顔をしているのが少し気になっていた。もうすぐ地球の滞在は終わる。アイは十分に今の生を楽しんでいるつもりだったが、客観的に見れば幸せには見えないのかもしれない。

「必ず救い出すからな……もうすぐ」

「え?」

「約束するから」

 レンはアイの手を握った。その手は震えていた。いつも明るく、何があっても挫けることのないレンが、震えた声になっていた。

「どういうこと? わかんないよ……」

「とにかく待ってて。その時が来たら、私は必ず駆けつけるよ」

 また大きな花火が上がり、その光の下から二人を呼ぶ声がした。舞い上がったチームの面々はすっかり出来上がってこちらに声をかけてきている。

 イベントの思い出はアイにとっていいものになった。ただ一つ、姉の様子について胸に引っかかったままだ。



「次回は休講とします」

 その日の講義では、教授たちは口をそろえてそう言った。なんでも大型のハリケーンが接近してきているらしい。この場所も直撃を受けるので、学校に行っている場合ではない。

 学生寮は高台にあるので大雨による洪水の心配はない。しかし外出は難しくなるので、事前に食べ物や飲料水などを買いだめしておくことが薦められた。

 棟は別だが同じ学生寮に入っているエミとアイはその日いっしょに買出しに出かけた。

「あのね……今晩はアイの部屋に泊まってもいい?」

 一人でいるのが不安だというエミが、おずおずと切り出した。雷や風が苦手だという。よくできた子だと思っていたが年相応の一面もあるようだ。

「私はハリケーンの経験ってないなー。面白そう」

「面白くなんかないよ……家とか飛ばされたりするんだよ」

「学生寮は大きいから大丈夫でしょ」

 冷凍食品やミネラルウォーターを大量に買い込んで、一歩も外に出ずに引きこもる作戦をとることにした。そう決めると、アイの気持ちは少し高ぶる。自然災害は笑い事ではない被害をもたらすことはあるが、地球でなくてはできない体験だ。きちんと安全さえ確保されていればアイにとっては貴重な経験である。



 同じ頃、廃棄都市区画の一角に変化が生じていた。

 政府軍がいくつも配置している監視衛星は通常なら熱源探知を併用して活動物体を補足することができるが、もし熱源を遮断できる手段を持っている場合は例外であった。

 その集団は、十人ほどの少数の反政府勢力だった。政府軍がひそかに開発していた熱遮断シートを入手し、衛星の目を逃れて行動している。

 熱を遮断できたとしても、今の監視衛星は多少の雲を透過し動く物体を発見できる。地下空間に入らなければ位置を特定され、海上や衛星軌道上から攻撃を受ける。

 廃棄された都市区画は反政府勢力にとって絶好の隠れ場所だったが、それだけに監視も厳しい。長距離を移動するようなことは特に難しかった。しかし、この集団はハリケーンに乗じて移動する事を考えつき、実行していた。

 ハリケーンほどの天候悪化状況では、いくら高性能な衛星監視システムでも完全に地上の状況を把握できるわけではない。それに熱遮断シートを併用すれば自在に移動することが可能だった。

 集団はある廃棄都市区画を目的地として何日も移動を続けていた。政府が秘密実験を行っているという噂のある場所だ。近頃、大規模な政府軍の増強によって活動は下火になってきている。もし秘密実験が事実なら反政府勢力にとって有益な情報になるかもしれない。

 今回はいつもの破壊活動とは違う。新たに数人の精鋭が加わっている。地球上ではほとんど普及していないNデバイスを施術した情報の専門家だ。政府軍のシステムを完全に知っているこの数人の存在がなければ、この計画は実行できなかっただろう。この場所に何かあると言ったのも、このNデバイス施術者たちだった。

 暗くたちこめた厚い雲は昼間とは思えないほどの暗さをもたらし、その中に目的地の都市が見えてきていた。廃棄されたはずの都市にも関わらず、センサースコープは電力を感知している。

 これは当たりかもしれない。電力の流れを追うと、全ての電力は地熱発電所から発生して各所に供給されていることがわかる。そこを襲撃して電源を落とせば混乱に乗じて潜入することができるだろう。

 廃棄された都市だというのに、ずいぶん無線通信インフラが張り巡らされている。ここが明らかにただの廃棄都市ではないことは明確だった。一体どんな実験を行っているのか。

 体に異物を埋め込んでいるからなのか、この新しい仲間は作戦になると異常なほど無口だった。だから不安もあったが、その考えは変わっていった。ここには間違いなく何かがある。

 だから、テロリストたちはこの数人の仲間が感染したある異常に気づくことができなかった。

 発電所はすぐ近くに迫っていた。暴風によって身にまとった遮断シートが剥ぎ取られないように、一団は慎重に歩み続けた。



 買出しも終わり、家に引きこもりながら過ごしている時だった。

 昼間だというのに真っ暗なので電気をつけていたのだが、それが突然消えた。停電が発生したようだ。

 地球ではまだテレビ放送が行われており、二人はそれを流していた。停電によってそれも停止し、強い風によって建物が揺れる音が顕著に聞こえるようになる。

 非常無線通信網もどうしてか作動していないので、二人のNデバイスのAR機能も停止してしまっていた。ガタガタと窓枠が音を立て、コップの水に波紋が生まれる。エミは怖がってアイの腕に抱きつく。

「退屈だね……」

 アイはこの程度のことでは恐怖しない。それよりも、個人用の端末を持っていないので通信機能が使えないと電子書籍の一つも見ることができないのが退屈だった。スタンドアロンは地球に来てからも始めての経験だった。

 停電はなかなか治らなかった。

「ちょっと出かけない?」

「え」

 寮は渡り廊下によって繋がっているので、外に出なくてもエミの部屋までいける。エミの部屋には暇つぶしになりそうなものがあったはずだ。

 エミは明らかに怖がっていたが、このままずっと震えているのもそれはそれで辛いらしく承諾してくれた。個人端末を持ってくれば衛星放送くらいは受信できるかもしれない。

 電源が落ちた寮内は想像以上に暗かったが、特に歩くのに苦労するようなことはなかった。しっかりしたコンクリート造の大きな建物だ。窓から少し隙間風が吹き込んでいるようだが、雨風がひどい外の音は小さく聞こえているだけだ。

 人の気配が全く無い静かな廊下に二人の足音だけが響いている。

「こんな静かだったっけ」

「わかんないよ……」

 この天気とはいえ一人ぐらい誰かとすれ違うかと思ったが、誰一人見かけない。各戸からの音も聞こえなかった。停電しているからかもしれないが、だれも廊下にいないというのは不気味だった。

 さっきまではどうということもなかったアイでさえ、少し怖くなってくる。となりにエミがいてよかった。早く端末を回収して帰ろうと思い、二人は早足になる。

 電子錠はこのような停電時でもコンデンサー電力で作動するように作られている。鍵を開けてエミの部屋に入り、端末を回収する。

「早く帰ろ」

 食料や水を買い込んでいるアイの部屋に戻れば、あとはじっと停電が終わるのを待てばいい。二人は急ぎ足で部屋に戻ろうとした。

 帰る時、ふと外を見ると白い人影が見えた気がした。この嵐の中で自分達以外の人間を始めて見たことで少し安心した。

 さきほどより更に暗くなった廊下を歩きながら、自分の部屋のすぐそばまで来た時だった。

 廊下を曲がった所で、また白い人影を見た。しかし、それは人ではなかった。

 ぼんやりと暗闇に浮かび上がった、人型をした白い何かだった。普通の人間と少し違うのは、手や足がヒレのように見えることだ。それ以外は大きさも形も人間と同じだった。

「何……これ」

 停電によるAR機能の異常だと思い、アイは自分のNデバイスを調べてみた。しかし、ARサーバーは相変わらず完全にダウンしていた。

 となりのエミに目をやると、彼女にも見えているらしかった。顔面がみるみる蒼白になり、体が小刻みに震えている。

 白い影はこちらに気付いたようなそぶりを見せ、じわじわと近づいてきた。得体の知れない現象は恐怖となり、二人は踵を返して走り出した。

「ひ……!」

 元きた廊下を行こうとした時、また新たな人影が二つ、開いていないドアを通り抜けて部屋から出てきた。

 悲鳴を上げている暇はなかった。アイはエミの手を強く握り駆け出す。窓の外を見ると、同じ白い人影がいくつかうろついていた。

 狭い廊下には次々と白い影が集まってきていた。アイは嵐の中の外に出る事にした。部屋着のままだったが、気にしている場合ではない。

「みんなは……?」

 この異常事態に、人は誰も見かけない。

「わかんない……端末で呼びかけたら?」

「誰にも通じないの……衛星放送の電波も。まるで誰もいないみたい」

 まるでこの世界に二人しか残されていないような、そんな錯覚を覚えるほど人間の気配がなかった。自動運転車を手配することも停電のせいでできないので、二人は徒歩で寮を出た。

 一見すると、町へと続く道には白い影はなかった。大学まで行けばもっとしっかりした通信設備があるし、確か発電機もある。二人はそこを目指す事にした。

 その道すがら、二人は町並みを見て驚いた。

 道路は綺麗に整備されていて、歩くのに全く問題はなかった。しかし建物の多くは傷つき、崩れているものまであった。

 たった数時間のハリケーンでここまで壊れるとは思えなかった。それなのに、町には一人も人間をみかけなかった。まるで、ずっと昔からこんなふうに廃墟だったかのように。通学でいつも見ている町並みは、あの廃棄都市区画にそっくりな壊れ方に変貌していた。

「どういうことなの?」

 歩きながら、エミも疑問を口にする。二人はそのまま大学を目指した。すると、ある一点にさしかかった所から、町は全て灰色のハリボテのような構造物に変わっていた。

 月面都市で使われるファウンデーショングレーと似ていた。高分子素材で表面上だけ作られた建物のようだ。一体どうなっているのだろうか。詳しく調べている余裕はなかった。二人はそのまま、大学へと向かった。

 大学に到着して安心した。そこだけは、壊れてもいなければ灰色のハリボテでもなかった。ここも電源が落ちているのは変わらないが、清掃は行き届いていて、壊れてもいない。

 学校祭などで使う燃料式の発電機が本部棟の地下の倉庫にある。それを使えば通信機器を動かすくらいの電気は作れる。地下に向かうと非常灯がついていた。しかし、ここは教授のキーがなければ開けられない。

「大丈夫?」

 健脚なはずのエミがへたりこんでいた。突然この状況になれば当然の反応といえた。

 彼女は一般人で、飛び級しているからまだ未成年だ。守ってあげなければいけない。最近はそれを忘れる事も多いが、研究所の出身であるアイには一つの可能性がちらつく。そのおかげで、エミよりは冷静でいられていた。

「じっとしてて」

 怯えきった友人を背後から抱きしめる。SロットであるアイのNデバイスは胸にあり、一般人であるエミのNデバイスは脊髄にある。その姿勢になるとお互いのNデバイスの距離は接近し、直接の通信を確保する。

 Nデバイスは無線通信網を通じてお互いに情報を送るものだが、短距離であれば直接通信が可能だ。アイはその場で無線通信用のソフトを組み、エミのNデバイスへと送った。

 それからエミの正面に向き合って、近くから目を覗き込みながら言う。

「聞いて。私はこれから研究棟で鍵を探してくる。何かあったらすぐ戻ってくるから、私を呼んで。ここで待っててね」

「うん……」

 小さく返事をするエミに微笑みかけ、アイは一人で歩き出す。わからないことばかりで、正直とても怖かった。しかし思い出すこともあった。

 あの日、レースが終わった夜に姉のレンは言った。必ず救い出すから、と。その言葉が今になって気になり始めると同時に、少しだけアイを勇気付けた。ここで待っていれば、きっとレンが来てくれる。

 鍵を探すとは言ったが、研究棟に教授がいるとは限らない。今日は休校の予定だったが泊まり込みの学生やそれを監督する教授がいる可能性はある。

 そんなものが、ここに存在すればの話だが。考えを振り切り、アイは走る。

 数百メートルほどの道を通ってたどりついた研究棟には全く人の気配がなかった。街中や本部棟と全く同じだ。

 アイはまず自分の所属するラボに向かった。自分のキーでは入れる部屋はそこだけだ。ラボが並ぶ二階の廊下をいき、その部屋の前にたどり着く。

 教授の名前がついているはずのネームプレートは空白になっていた。

 カードキーをかざすと電子錠は作動し、研究所の扉は開かれる。中に入ると、そこには何一つ機材のない、まっさらな部屋があった。

 残されているのはデスクと椅子のみだ。たった一日で片付けられた……とは思えない。アイの席にだけ私物が少し置かれている。ラボのメンバーと一緒にとった集合写真をプリントアウトしたものが飾られていた。

 そこに映っている面々、それに自分自身の姿は、間違いなく記憶にあるものと同じだった。アイは少しだけ安心を覚えた。あれは現実にあったことだったのだ。

 しかし、それは“いつ”のことか? 大学はとても綺麗に維持されてはいるが、この様子は異常だ。まるでずっと前に使われなくなったかのようだ。

 もしこれが現実の姿だとするなら、こんなことを実行できるものは一つしかない。Nデバイスを使ったAR技術によって、架空の日常を作り上げるということだ。

 教授の座席を見ると、あの白い影が現れていた。それが、あの教授そのもののように感じられた。

「待って……!」

 開かれた研究室の外へと出て行く白い影を追うアイ。廊下に出た瞬間、何かがアイに触れた。

「!?」

 手首を急につかんできたものは廊下の暗闇にいた。

 白い影でもなく教授でもなく、それは先日言葉をかわした学生、エリス・ヘンシェルだった。

「追っても無駄だ」

 冷たい声でそう言いながら、エリスは強い力でアイの手首を引いた。白い影はもうどこにもいなくなってしまっている。

「離しなさいよ」

 アイは運動が得意な方ではない。エリスは特に体格がいいわけでも常人より力が強いわけでもなかったが、身のこなしには無駄がなかった。こういう立ち居振る舞いは兵士のものだ。争っても抵抗できそうにない。

「ヘンシェル……そういえば聞いたことある」

 研究所にいた頃に得られた情報の中には、そういう名前のSロットの系列名があった。イスラフェル系のSロットであるアイがアイ・イスラフェルであると同様に、彼女の名前もその規則にあてはまるものだった。

「もう気付いているようだから、手短に話すぞ。ここを離れて廃棄都市に逃げろ。お前を追ってテロリストが来る」

「は……?」

 そんな説明で納得しろというほうが無理がある。エリスはアイの手を引いて歩き出した。

「痛い、離して!」

 叫び声をあげると、エリスは素直にアイの手を離した。アイは足が速くないので、逃げたところで簡単に捕まえられると思っているのかもしれない。

「こっちに動く車がある。それを使って離れるんだ。早く」

「待ってよ。友達が本部棟にいるんだよ」

「エミ・レシャルのことか? これは研究所絡みだ。そいつは連れていけない」

「なら、私は行かない」

 毅然とした態度をとるアイに対し、エリスは言葉を続けず、腰から拳銃を抜いてアイの額につきつけた。

「それでどうしようっての」

「来てもらう。そうしないと、困るんだ」

 恐怖に竦みながらも、アイはエリスの瞳を見つめ返した。彼女の黄水晶色の瞳はしだいに揺れ始め、拳銃を持つ手は震え始める。呼吸も荒くなり、少しずつ後ずさった。 

 これでは、エリスがアイにおびえているかのようだ。立場が逆ではないのか。何故そんなに自分を怖がる?

「アイ!」

 突然声がかかった。極度の緊張状態にあったのがいけなかった。エリスは鍛えられた本能に従って電子トリガーに発砲の指令を出す。弾丸が発射され、アイの眉間へと一直線に飛んでいった。

 そこで、三人は信じられないものを見た。弾丸は空中で停止し、その後まるでそれが当然というように廊下へと落下した。

「はあ……っ、はあ……」

 それに対して最も反応しているのはエリスだった。アイもエミも状況が全く掴めないでいる。へたりこんだエリスはおびえた目でアイを見上げている。

 背後から近づいたエミがエリスの拳銃をそっと奪っても、エリスは抵抗のそぶりを見せなかった。

「行こう」

「行くって?」

 エリスが言う事が本当ならここに留まるのは危険ということになる。彼女は廃棄都市に行くといっていた。

 研究棟の裏手のガレージに向かうと、そこには一台だけ車があった。

 あのイベントのレースで使われた車両だった。アイが自ら部品を設計して仕上げたものだ。後部座席がついていないが、そこに毛布を引けば二人くらいは座ることができた。

「借りるね……教授」

 今どうなっているのかわからない人物の名前を呼び、アイは懐にいれた写真に手を触れる。確かにそれがあったという証に身を委ねながら、アイは車のエンジンを始動させた。



■回想編(黒)3



 数年の月日が流れ、ハンナとグレーテの新しい体が完成した。

 ハンナもグレーテも、自らの次の体を作っていなかった。魂を閉じ込める牢獄のような肉体から開放されたかったのかもしれない。再び肉体を与え彼女たちを呼び戻すのが正しいことかはわからなかった。

 継承体となったルリはこの数年、ずっと幽子デバイスの研究を続けていた。その過程で調べたアルカディアの施設の資料の中に、ハンナとグレーテの培養方法があった。

「私がわかる?」

 目覚めたばかりのハンナとグレーテは、二人とも肉体年齢が十歳相当の姿だった。

「ドクター……ルリ」

 Nデバイスによって付加された言語機能、記憶機能は正常に働いているようだった。二人はルリが登録した情報を問題なく返した。

 ハンナとグレーテを復活させたのは研究のためではなかった。

「きみたちの最も大事な仕事は、生きていることを楽しむことだよ。その間に少し、私の研究を手伝ってくれればいい」

 もしも幽子デバイスが人の意識の媒介や本質であるなら、二人はあまりにもそれを冒涜されすぎた。価値の根源である意識を苛んだこの地獄から彼女たちを救い出し、せめて少しでも幸福を感じさせるべきだとルリは考えた。そのために肉体を与えたのだ。

「記憶制御はうまく機能しているようですね」

 ルリの隣に立つSロットが口を開いた。ルリの助手を務める彼女はエリス・ヘンシェル。グレーテを撃った日、その拳銃を手渡してくれた。あの場所に幽閉されていた被害者の一人だ。

「そうだね……でも経過をみていこう」

 体が弱いルリをなにかと支えてくれるエリスにルリは答える。幽閉されていたSロットは他にも大勢いて、全員を助け出した。彼女たちは助けてもらったことを理解しているようで、ルリを「先生」と呼んで慕い、研究員として働いている。

 ずいぶんと昔の出来事に思える。あの日以来、継承体として記憶を受け継ぎルリは多くのことを知った。年齢的にはまだ若いSロットであるルリだったが、そのせいで雰囲気がすっかり大人びていた。

 ハンナとグレーテという存在は、幽子デバイスが体に戻るとそれが肉体に何らかの働きかけを行い前世の記憶が復元されるという異常がある。それを記憶制御で押さえ込んでいる。神経系の異常を検知し、Nデバイスを通じて再生される記憶を特定し封印するのだ。二人の幸福のためには過去の記憶は封印しておくべきだ。

 人の幽子デバイスは肉体の死と同時にどこかに霧散してしまう。その行き先はわからない。その仕組みを解明しハンナとグレーテを開放する事がルリの望みだった。



 以前の継承体だったシオンは姉妹たちを救おうとしており、しかし結局は何もできなかったという歴史を持っている。ハンナとグレーテの実験も承認していた。そうしなければ次に控えている多くのSロットが代わりに充当されるとわかっていたためだ。そのジレンマがシオンの心を決定的に壊していった。残虐非道な実験によって破壊されていくハンナとグレーテを見ているしかできなかったのだ。

 Sロットが世界を救うために必要な実験動物であるなら、せめて生きている間には幸福を与えたいというのがシオンの望みだった。それはルリも共感する所だった。しかしシオンの世代では、与えたものを奪うという苦痛を味あわせることが現実干渉性を生み出すのに最良という事実を明らかにしてしまい、逆にSロットの苦痛を増やす切欠を作ってしまった。

 個人の研究者としてのルリのテーマは幽子デバイスの解明だった。だが、ハンナとグレーテ以外にもSロットは大勢いる。それを救済することが継承体としてのルリの目標になった。現実を構築しているといわれる現実干渉性も幽子を媒介にし、特殊な人間のSロットに紐付けられているという。そうだとしたら、苦痛など与えずとも力を生み出すことができる方法があるに違いない。

 強化兵士の派遣や黒派が月面で行っている一般企業としての事業が成功し始めていたその頃、研究所の資金繰りは以前よりもずっとよくなっていた。

 研究推進のためのSロットの増産計画もいくつも提案されたので、それにあわせて施設の整備も行った。生活環境がよくなるように様々な工夫をした。

 高精度のVRを実現するだけの計算容量の使用権は娯楽目的には与えられていなかった。ルリは使用されていないホールの一つに現実の自然庭園を作り、そこで植物を育てることにした。

 ハンナとグレーテにはその庭園で小鳥を飼育させた。Sロットを研究所の外の月面都市に連れ出すにはよほどの理由がないと不可能だったが、月面都市にある多種多様な品物を輸入することはできた。彼女たちが何かを求めるようになれば幸福への第一歩だ。そのためには作業をさせるのがよいと考えたのだ。

 結果は良好で、仲のいい二人の姉妹はすぐに笑顔を見せてくれるようになった。そうしていると、ごく普通の人間の子供と何も変わりない。

 その人工の庭園は開発部の区画にあり、そこにいる多くのヘンシェル系Sロットから認知され始めた。多くの者が自由時間をその庭園で過ごすようになっていった。庭園の管理者である姉妹は庭園内に作られた小さな小屋で過ごしながら、訪れる他の姉妹と言葉を交わしたり、時には飲み物を出したりして、庭園で過ごす時を豊かなものにした。

 開発部は現実干渉性の収集が目的の場所ではなかったが、この庭園の設置以後、その発生率に少しの変化が及んでいた。それは継承体として研究全体を管理しているルリが最初に気づくことになった。

 それを見て反応したのは研究部であった。同じ庭園を研究部にも設置してほしいという依頼がきていた。

「そういう話が来ているんだけど、やってくれる?」

 実のところ、この人工庭園を構築したのはほとんどハンナとグレーテだった。同じものを作るためには彼女たちに任せる必要がある。

 はじめは人工芝を敷き詰めた所に鉢植をいくつか置いただけの休憩所という程度のものだったが、今は全く違う。清潔な人工土の上に直接芝と木を植え、一角には色鮮やかな花が植えられている。空調による対流によって気持ちのいい風が吹き、葉擦れの音と小鳥がさえずりが聞こえる。壁や天井はARを使って広がりがあるように演出されている。まるで風景画を書くように自然に植物が配置されたその場所は、かつての地球の自然の中にいるような錯覚を覚えるほどのものだった。

「はい、先生」

 おとなしい性格の妹グレーテは、ルリを見上げながら丁寧に返事をした。

「いいわよ先生」

 少しやんちゃな姉ハンナは、ルリの袖を引きながら快く返事をした。

「大好きだよ、先生」

 二人はルリによく懐いていた。両腕に一人ずつ絡みついて、子犬のように甘えてくる。

 このごろ二人の姉妹は、他のSロットを真似てルリのことを「先生」と呼ぶようになっていた。それが少しむずかゆかったが、好意を向けられることに嬉しい気持ちにもなった。二人に幸福を経験させるという目的は順調に進行している。それはルリを前に進める力になっていた。



 Cデバイスは癒着させる生物の遺伝子を取り込んで解析し、その生物の体の構造にあわせることができる。

 ハンナとグレーテはCデバイスを樹木に埋め込み、形状を操ることに成功していた。それによって庭園の木々は施設にあわせた形に成長し、室内環境でも健康を維持していた。

 しかし、放たれた小鳥は月面都市の市場から仕入れた普通のものだ。病気にもかかるし怪我もする。その日、ある一羽が枝に引っかかって怪我をした。硬質なCデバイスが露出して針のように鋭く危険な場所があったのだ。

 研究部への新たな庭園の設置のため忙しくしていたハンナとグレーテは気付くのが遅れ、発見した時には命の危険がある状態だった。

「これを使えば延命できるのではないでしょうか」

 樹木用に用意していたCデバイスを埋め込むことを提案したのは妹のグレーテだった。

「だめだよ、そんなの」

 ハンナはその意見には否定的だった。痛覚のない樹木はいいとしても、動物へのCデバイスの適用は負担が大きい。生き延びられたとしても怪我の苦痛を長く味わうことになってしまう。

「死んでしまうよりはいいでしょう」

「そんなことない!」

 悲しいことだけれど、生き物が死ぬのは自然なことだとハンナは主張した。苦痛しかない生に何の意味があるのかを考えれば、このまま死なせてやるべきだという。

「試してもいないのにですか?」

「そういうのはもうイヤ……」

 ハンナは過去にもこんな気持ちになったことがある気がした。そんな記憶があるはずもないのに、妹が苦しみの中で狂っていくのを見ていた気がするのだ。

 大粒の涙をぽろぽろとこぼすハンナを見て、グレーテは議論をやめた。手の上で冷たくなっていく小さな命を二人で見送り、亡骸は一番大きな木の根元へと埋めてやった。ナノマシンによって分解され、木の栄養分になる。

 それ以外では、庭園計画は順調に進んだ。Cデバイスはすぐに改良され、怪我の危険はなくなった。ハンナとグレーテはしばらくは落ち込んでいたが、またすぐに元気を取り戻した。

 その頃、開発部では別の問題が起きていた。Sロットに未知の異常が起きていたのだ。

 体にはどこにも異常がないのに、呼びかけに対する応答がほとんどなくなる者が何人か出てきていた。原因は全く不明だった。Nデバイスを通じて調べてみるとどの個体も神経に異常はないが、あらゆる刺激を受け付けなくなっていた。

 このことについて、ルリは心当たりが一つだけあった。あの日アルカディアと名付けられた施設で見つけた、ヴィルヘルミナ・ヘンシェルという名のSロットの研究の中にこれに関連しそうなものがあることを思い出したのだ。

 彼女の研究によれば、発狂したかのような行動を取ったり、無反応状態になる者がある時期から現れ始めたらしい。未確認だが、研究所が発足されるより以前からそのような症状の者が増えていたという。

 研究所の発足前といえば大戦期で、医療技術も崩壊した頃だ。病名がなかったこの症状について、ヴィルヘルミナは「CUBE感染症」と呼んでいた。

「なぜ“CUBE”なんだ?」

 CUBEとは、研究所でも使っているネットワークシステムのことだろう。月面都市全体に広がっており、ネットワーク自体がコンピュータの役目も担うというものだ。小さな端末が集まって少しずつ計算機能を賄っている。

 ヴィルヘルミナはこのシステムが症状の原因と考えたのか。Nデバイスによる未知の脳への影響というのはありそうだが、それではNデバイスがまだなかった大戦期という発症時期と符合しない。

 CUBE感染症という名前の理由はわからなかった。なぜなら、この研究に関する資料は大部分が欠損しているためだ。

 アルカディアは研究所のシステム、すなわちCUBEから隔離された地下にあった。継承体であるルリにも、この資料がどこに消えたのかはわからない。

 Sロットの精神崩壊はすぐさま命の危険があるというわけではなかったが、研究を進めていく上では大問題だった。手がかりがありそうなのはあの忌まわしい地下の施設だが、今は厳重に封印してある。再び散策するには勇気が必要だ。それに、あそこは封印する前に入念に調べていた。

「先生、大変です!」

 考えているルリの所に、血相を変えたエリスが飛び込んできた。庭園で火災が発生したというのだ。

 火災が起きるような火種はあそこにはないはず、と思い、ルリは一つの可能性に思い当たった。ハンナとグレーテの現実干渉性だ。封印されていたそれが解き放たれたとしたら、それは抑圧されていた記憶が復活したことを意味する。ルリは急いで庭園へと向かった。



 美しかった木々は内部に張り巡らされたCデバイスのみが燃え残った無残な姿となっていた。草木や花に満ちていた庭園は荒野に変貌している。

 その真ん中にぽつりと立っている後姿は、果たして姉妹のどちらの方なのか。

 ルリはすぐ気付いていた。無傷で立っている方の足元には、焼け焦げた誰かが横たわっている。もう間違いないと思った。記憶が戻ってしまったのだ。

「ハンナ? それともグレーテ?」

 記憶制御は完全ではないことはわかっていた。成長が進めば経験の蓄積も増えるので、前世の記憶の再生なのか今世の思考の発生なのかが曖昧になっていく。SロットのNデバイス程度の処理能力ではそれを全て分析するには速度が足りず、いつか追いつかれる時が来る。

「どうしてこんなことをしたのよ」

 口調でハンナだとわかった。背中へと近づいていく。

 ハンナは肉体という呪縛から逃れようとしていた。それは彼女の前世での行動を見ればわかる。二人を救いたいというのはルリの身勝手であった。

 振り向いたハンナの表情は憎しみに満ちていた。記憶が封印されていた時のあどけない表情とは全く違う。その様子に、ルリは改めて鈍い衝撃を感じた。

 憎しみだけではなかった。ルリに向けられたハンナの感情は混沌としていた。ルリを大好きな気持ちと、殺したいほど憎らしい気持ちとが混在している。ここ最近を過ごしたハンナの幸福は本物だった。だから困惑しているのだ。

「ねえ、ハンナ」

 手を伸ばそうとした瞬間、ハンナは自らの能力を発揮し、近づくルリの指を焼いた。距離をとった彼女は、自らの体に火をつけた。Nデバイスを使って痛覚を遮断しているのか、痛がっている様子はない。

「先生、やめてください!」

 近づこうとするルリを羽交い絞めにして止めたのはエリスだった。呆然とへたりこむルリの前でハンナは炎に包まれ、微笑みながらルリを見下ろし続けていた。



「私がわかる?」

 目覚めたばかりのハンナとグレーテは、二人とも肉体年齢が十歳相当の姿だった。

「ドクター……ルリ」

 Nデバイスによって付加された言語機能、記憶機能は正常に働いているようだった。二人はルリが登録した情報を問題なく返した。

 ああなることは想定していた。前回得られたデータから記憶制御機能は改良した。次はうまくいくかもしれない。

「きみたちの最も大事な仕事は、生きていることを楽しむことだよ。その間に少し、私の研究を手伝ってくれればいい」

 今度の二人には安楽死の機能を付け加えた。エリスの進言によるものだ。記憶の再生や暴走の危険が生じた時、すみやかに肉体を終了させるものだ。

 生まれながらにそんなものを体に埋め込むということに抵抗はあったが、ハンナとグレーテのクオリアは肉体の死とは無縁の存在だということをエリスは強く主張した。

 エリスには隠された才能があった。ルリよりも強い幽子感知能力を持っている個体だったのだ。ルリがよく聞いていたあの「声」を聞くことができる、もう一人の人材だ。彼女は幽子デバイスの研究においてもルリに利益をもたらす存在だった。

 規模が大きくなり研究が進むにつれて膨大な情報量を扱うようになってきたので、開発部では今、研究部をサポートするために所内システムの強化に取り組んでいる。

 研究所内はCUBEシステムを使っている。Nデバイスと同じ計算素子を充填した端末をノードとしていくつも配置し、無線ネットワークとコンピュータを同時に増設する。ネットワークの性能と容量を増大させるためにこの端末の数を増やすのが目下の取り組みだ。

 こうした端末の性能向上は、研究所よりもむしろ一般企業の方が進んでいた。開発部ではいくつかの月面企業を立ち上げ、その事業に参入している。より深く月面企業と関わる事ができればこの課題は解決できそうだった。

 しかし、月への参入が遅れた政府集合体と一体になっている研究部はこれにいい顔をしなかった。企業連合はいわば敵だ。ルリは当初は中立の継承体として見出されたが、現在は完全に開発部寄りだ。

 白派と黒派という呼び名で争う研究部と開発部という構図は、研究が進んだ現在もまだ続いている。ルリはそれに無頓着すぎた。

 ハンナの暴走事件によって一度は調査が中断されたSロットの精神崩壊現象「CUBE感染症」については、まだ何もわかっていなかった。手がかりをつかむ手段がないのだ。

 考えられる手段は研究部に協力してもらうことだ。Sロットの調整にかけては研究部が優れている。詳細に感染者を調べれば何かわかるかもしれないとルリは考え、その要請を出した。しかし、研究部は無視し続けた。

 助手のエリスに相談しようと考えたが、彼女はどこにもいなかった。聞けばエリスは研究部らしい白服の誰かが来て連れて行ったという。



 エリス・ヘンシェルは中期頃に生産されたロットの一人だった。幽子感知能力の片鱗を見せていたエリスは、何の才能もなかった他の多くのヘンシェル系とは隔離されて育った。

 先生として慕っている楪世ルリよりも生まれは早かったが、適切な研究環境が揃うまでは冷凍睡眠保存されていたので、肉体の年齢は接近していた。基礎訓練のあとすぐに眠りについたエリスが次に目を覚ましたのは、ハンナ・ヘンシェルの助手になる時だった。

「誰だ?」

 何者かに拉致され、椅子に縛り付けられていた。道具として扱われる事には慣れているので、このくらいで動揺したりはしない。

『これからいくつかの質問を行います。それに答えてください』

 人間味のない声がエリスの頭上からかけられた。流暢な口調だったが、これは機械音声だとエリスにはわかる。

『楪世ルリの印象を聞かせてください。彼女は感染者ですか?』

「何……?」

 感染者という言葉で今連想するのは、間違いなくCUBE感染症のことだ。ルリ自身にそんな兆候を認めるようなことは少しも感じられない。

『あなたは感染者ですか?』

 エリスは質問には答えていないが、Nデバイスを通じて思考を読み取ることはできるのだろう。機械の声は質問を続ける。

「お前は誰だ? それくらいは教えてくれてもいいだろう」

『私には研究者、もしくは研究者登録された被験体からの質問に答える義務があります。私は、現実干渉性収集データベース、サクラメントを管理する人工知能です』

 サクラメントの名はもちろん知っている。研究所の目的そのものといえる重要なデータベースだ。人工知能によって管理されているというのは初耳だった。

「人工知能がこんな真似をするのは問題だぞ」

『権限の範囲内です』

「記憶継承体であるルリが許可を出したことなのか?」

『現在の研究部は、記憶継承体に頼る研究管理に限界を認め、継承体というシステムから脱却しています』

 Nデバイスをはじめ、電子機器の性能向上と情報の蓄積によって人の思考程度は人工的に作り出すことができる。技術的にはそういうことが可能なのはわかっていた。しかし、実用化された話は聞いていない。

「継承体による研究管理は成果を出しているじゃないか。なぜお前が必要だ?」

『CUBEシステムが危険なので、その外部で働く新たな独自のシステムが必要とされました。楪世ルリにも汚染の可能性があります』

「彼女はCUBE感染症ではない」

『継承体は人間と同じ体を持つ以上、その可能性があります』

 この人工知能はCUBEを恐れている。しかしなぜなのか。CUBEは研究所が作り出した通信システムだったはずだ。この巨大な計算装置がなくては研究は完成しない。

「私を連れてきた理由は?」

『あなたの身柄と交換することで、継承体が現在持っている研究の管理権限を譲渡してもらうことが目的です』

 つまり人質というわけだった。この人工知能は継承体を受け継ぐことで、研究所を完全に乗っ取るつもりなのか。人の気配が近づいてきた。この場所に呼び出されたルリがやってくる。



 楪世ルリは当初、不完全な継承体として作られた。寿命が来てすぐに死亡すると思われていた。ところが彼女は継承体として非常に優秀な能力を発揮し始め、開発部は彼女の体の健康を維持するため努力をした。

 その恩恵は研究部にもあるほど、彼女の継承体としての技術開発力、戦略構築力は高かった。普通のSロットよりもNデバイスの規模が大きく、その扱いにも熟達し、現状の人工知能よりも優れた存在だった。

 研究部は、グレーテ・ヘンシェルが研究していたように、継承体を人間ではなく人工知能に任せることを以前から計画していた。テスタメントと呼ばれる完全無欠の存在である。ルリが運用している記憶制御もテスタメントの研究をもとにしている。テスタメント計画に移行したいのに、開発部に偏重したルリがいつまでも継承体として居座り続けることは研究部にとって面白いことではなかった。

 研究部が継承体の排除に固執した理由はそれ以外にもある。それは、CUBEシステムの危険性だ。テスタメントは対CUBE兵器でもある。しかし、そのことをまだルリは知らない。

 エリスを人質にとった研究部からの呼び出しに応じ、ルリはその場所へとやってきた。

「エリスはどこにいる?」

 真っ暗な部屋だった。

『すぐ目の前にいます。そこで止まってください』

 機械音声が言う。照明がつき、部屋のドアが閉まる。何人か、兵士のような格好をし武装したSロットがいる。目隠しをされ椅子に縛られたエリスがそこにいた。

『あなたとは久しぶりですね、ルリ』

「お前は……TAなのか?」

『はい、TAは私の昔の名です』

 トランス・アシスタント、TAはシステム上のプログラムで、継承体の選別を行う人工知能だった。それが進化したのがこの声の主であるらしい。

 ルリは研究所を熟知する継承体なだけあって、このような管理権限を持つ可能性のある人工知能をすぐに推測してみせた。しかしそのルリでさえ、人工知能が現在の研究部の中心にあることは知らなかった。

『それは仕方のないことです。私の存在は、特に開発部、“黒派”からは厳重に隠しておく必要のあるものなのです。しかし時間が経ちすぎました。研究は次の段階に進む時を迎えています』

 だから私に、継承体としての権限を渡してください。そう人工知能は言った。

「先生、私のことは気にしないでください」

 黙っていたエリスが言葉を発した。

「私は十分幸せでしたよ。こいつはどこか危険を感じる。姉妹たちを任せていい相手とは思えない」

 それにはルリも同感だったが、目の前のエリスを見捨てるという選択肢もとりたくはなかった。

「……どうすればいい?」

 TAは継承体のデータを移動することができる人工知能だ。ルリのNデバイスへとアクセスし、継承体の全データの移行のためのモジュールの起動を促す。

 ルリがやることはそれを承認することだけだ。

 姉妹たちやハンナ、グレーテの顔がルリには思い浮かんだ。しかし、目の前のエリスも同じくらい大事なのだ。承認を実行しようとした時だった。

 照明が落ち、鈍い音が周囲で鳴った。何が起きているかわからないままいると、いつのまにかルリのNデバイスへの承認要請が取り消された。

 次に照明がついた時、人工知能の気配はその部屋から消失していた。もう何も語りかけてくることはない。

「シオンから頼まれたんでね」

「きみは……」

「シオンの記憶を継いだ継承体だろう? はじめまして」

 彼女はレン・イスラフェルと名乗った。部屋にいた兵士を素手であっというまに制圧してしまったそのSロットの名前と顔には覚えがあった。先代の継承体の記憶にもよく現れていたので、他人という感じがしない。

「記憶を預かってる。継承体の記憶には欠落があっただろう? それを、あたしは持っているのさ」

 そして、ルリが予想もしていなかったことをレンは言った。シオンは死ぬ前に、何人かのイスラフェル系Sロットの中に重要な記憶を残し、自らは記憶を消去してそれを隠していたというのだ。

「CUBE感染症とかいうものについての情報だよ。あたしには何がなんだかちんぷんかんぷん」

 言いながら、レンは記憶を移した媒体を手渡してきた。



 ヴィルヘルミナ・ヘンシェルの欠落していたCUBE感染症の研究データ。まさかSロットの中に隠し場所にあるとは思わなかった。しかし断片的なものだ。他のSロットにもこういう情報が隠されているという。

 情報によると、症状を解析できるのは祈機のみであるということが抽象的にわかる。祈機と聞くと、あの忌まわしい施設のことが脳裏に浮かぶ。

「あの、先生……」

 エリスがルリの袖を引いていた。幸いにも怪我はなく、元気だった。

「ありがとうございます。私などを……大事にしてくれて」

 道具として扱われるのが当然だったエリスは、あの場面で助けてもらえるとは考えていなかったらしい。

「二度目ですね、先生に助けてもらったのは」

 そういえば、エリスをあの施設から助け出したのもルリだ。あそこには誰も立ち入れないように封印してある。

「私の命は、先生のために使ってください」

 ルリの手を握りながらエリスは言った。

「命は不可逆なものだ。今のところは。使ったりはできないよ」

「今のところ、ですか」

「それを知る必要があるんだ」

 他に方法がないか研究しなければならない。祈機の完成はいずれにせよ必要になってくる。そのためには幽子のことをもっと知る必要がある。

 祈機はグレーテの研究だ。彼女が昔使っていた研究機材がまだあった。それを取りにいくことにした。

 まだグレーテと出会ったばかりの頃、この研究室にはよく出入りしていた。その時は、暖炉の奥にあんな施設があるとは思わなかった。

 暖炉は封印されて壁と見分けがつかないようになっている。そこに目をやると、幼いグレーテが立っていた。ただ壁をじっと見つめている。

「どうしたの? こんな場所に来るなんて……」

「ルリ……」

 振り返ったグレーテの顔は穏やかで、記憶が戻っているような兆候はない。

「だって、ここは私の部屋でしょう?」

 気のせいかと一瞬思ったルリに、背筋を寒くする一言が投げかけられた。

 ここは現在使われていない研究室で、もともとグレーテの研究室だということは継承体であるルリくらいしか知りえないことだ。

「ねえ、ルリ。だっこして?」

 いつものグレーテと同じでありながら、いつもとは何かが違っていた。

「どうしたんですか? 私が怖いですか?」

 体が熱くなってきた。じわじわと体温が上がり、皮膚に汗がうく。グレーテが近づくたびにルリの体温が異常に上昇している。

「先生、大好きですよ」

 グレーテは記憶が戻っている。それなのに、いつものあどけない表情を演じながらルリを押し倒した。細い指がルリの腰に回され、顔が近づく。

「こんな体まで作って、私と一緒にいたかったんですか? 嬉しい……でも、あの子は邪魔。いつも私の邪魔ばかりする。ねえ、先生……」

 ハンナを殺してくれるなら、あなたの命は助けてあげますよ。

 グレーテは耳元で囁いた。

 本人たちは知らないが、ハンナとグレーテには安全装置が埋め込まれている。心臓にある小さなカプセルを遠隔操作で開封することで即効性の毒で命を止める仕掛けだ。その発動は、ルリがNデバイスで命じれば一瞬で行われる。

 しかし、できなかった。ルリが手を下さない代わりに、乾いた銃声が響いた。発砲したのはエリスだった。ルリの体温上昇が止まる。脳幹を正確に撃ち抜かれたグレーテは即死だった。

 息を荒げ、がくがくと足が震えている。捨てられた子犬のような目を向けてくる。ルリの大事な人を殺害してしまったことに恐怖を感じているのだろう。

「いいんだ……ありがとう」

 エリスの判断は正しい。グレーテはハンナよりずっと危険な存在なのだ。拳銃を握り締めたまま硬直するエリスの背中を撫でて宥める。

 他の事はひとまず捨て置いて、ハンナとグレーテの作り直しを行う必要があった。ルリはしばらくはそれに没頭した。

 外部端末まで使って限界まで計算容量を増やして記憶再生の抑制を試みてみた。それでも、ほんの数週間で容量は限界に達した。二度の再生によって暴走の予測はつくようになったので、深刻な被害が出る前に速やかに肉体を終了させることができた。

 次は、Nデバイスと薬品を使って感情そのものを抑制してみた。日常で作られていく記憶と再生する記憶とを区別しやすくするためのものだった。前よりは長持ちしたが、なぜかうまくいかなかった。ハンナとグレーテが前に行われていた実験の中に、同じように感情を制御する実験があり、似た記憶があったために区別できなかったのが原因だった。

 何度も何度も、肉体の生成と破棄を繰り返した。しだいに、二人の体を処分することに何の感情も持たなくなっていくのが怖かった。

「この実験は、しばらく凍結してはどうですか」

 エリスからそんな言葉を与えられて初めて、自分が壊れ始めていることに気付いた。

 何か技術的な躍進があるまでは、ハンナとグレーテの肉体を眠らせておくのがいいのかもしれない。エリスの言う通りだった。

 着手するべき課題は他にもあった。ヴィルヘルミナが残したCUBE感染症の研究だ。ヘンシェル系Sロットの中には未だにこの未知の症状にかかる者がいた。それも放置できない問題だ。

 先代がなぜそんなことをしたのかはわからないが、ヴィルヘルミナの研究データはイスラフェル系Sロットのどれかの中に隠されているという。イスラフェル系は開発部には一人もいないので、研究部のどこかにあることになる。

 先代の記憶の中で特に接触があったのはレン・イスラフェルとアイ・イスラフェルの二人だ。レンのものは回収したので、他に可能性が高いのはアイ・イスラフェルということになる。

 アイ・イスラフェルは、楪世ルリの誕生と運命に大きく影響を与えた人物だ。彼女が発した異常がもとで起きた施設の破損のためにルリの体は破壊された。現実構築能力を持つ未知の生命体によってこの宇宙は作られたと言われている。研究所はその生命体の残骸を保有していた。暴走事件から考察すると、アイはそれと癒着した可能性がある。

 あれ以来、アイは研究所のどの計画にも名前が出てこない。厳重に隔離されているらしい。

 生命体の保管されていた施設が今も稼動を続けている。あの場所なら隔離には最適だ。そこに進入する方法をアイは調べた。継承体の権限があれば立ち入りは可能だ。

 問題はあのTAが進化した人工知能の監視があるかもしれない事だ。そもそも、アイの隔離はTAが行った可能性がある。暴走と同時に先代の継承体は死亡した。継承体がいない間の研究所の管理はTAが行う。ルリが持つ継承情報の中にはアイの隔離に関する記録がないのもそのためだ。

 護衛をつける必要があると考えた。TAは武装させたSロットを使役している。あれは強化兵士と呼ばれるものだ。ルリはおろか、あの一件以来こっそり射撃訓練を受けているエリスでも歯が立たないだろう。

 強化兵士を倒せる人物でルリが知っている人物といえば、レン・イスラフェルしかいない。彼女に護衛を頼むことにした。



 いくつもの隔壁に保護されたその場所に立っても思ったほどの恐怖は感じなかった。この先にいるのは強大な力を持った存在だ。何かの間違いで一瞬で殺される可能性がある。ルリは生と死に無頓着になってきているのかもしれない。

「じゃあ、開けてくれよ先生」

 見張りの兵士をあっというまに気絶させたレンが言う。アイを救出したいと言った時、彼女はすぐに了承してくれた。彼女自身、アイを救うためにずっと行動してきたらしい。

「先生はよしてくれないか」

「じゃあルリで」

 こんなに馴れ馴れしい口調で話す人物は研究所には他にいなかった。イスラフェル一号、レン・イスラフェルは少々特殊なSロットだ。体だけのことではない。地球での活動が長いために視野が広く、不思議な魅力を持っている。研究所内にも多くの味方がいるらしく、独自の行動をとることができるらしい。しかし一介のSロットであることは変えようがなく、アイをどう助けたらいいかずいぶん悩んだようだ。

 彼女は先代の継承体、シオンのことも救おうとしていた。この行動力はルリには真似できないものだ。

 扉が開かれると、その先は前の保存室とは異なる構造に作りかえられていた。医療設備が据え付けられ、それにつながれた寝台が中央にある。

 そこに横たわっているのがアイ・イスラフェルだった。手首にチューブがつながれ、血液を体の外で循環されている。冷凍睡眠ではなく薬品によって眠らされているらしく、あの当時から少し体の成長が見られた。

「どうすれば外せる?」

 軽薄な雰囲気だったレンはそれを見るなり、別人のように真剣にルリに尋ねた。激情することもなく迂闊に手を出したりしない冷静さで、氷のように鋭い目になっている。

 ルリはそこにある装置が何かを調べた。どうやら、横たわったアイから遺伝子を劣化させずに複製して取り出し備蓄するための医療設備のようだ。これは普通の方法ではないが、Sロット製造のベースにする遺伝子供与体にされているらしい。

 端末を操作する権限は継承体であるルリにはあった。覚醒機能を実行すれば、循環している薬品の投与が切り替わって目が覚めるはずだ。ルリはそれを実行する。

 目が覚めたら暴走を始めるのではないかという危険があるが、ルリはやはり恐怖を感じられない。レンは悲痛な表情で、死んでいるように眠っているアイ・イスラフェルの手を握っていた。こんな所で機械に繋がれているのは痛ましい光景なのだろうが、それに対しても何も感じることができなかった。

「……姉……さん……?」

 目を覚ましたアイが声を発する。正常な覚醒が行われたので、ルリはアイの体に繋がれたものを全て外した。レンはアイを軽々と寝台から抱き上げた。

 この場所を後にしようと思ったが、そうはいかなかった。入り口の付近には武装した兵士が何人も駆けつけている。

 レンに目線を送るが、彼女は首を横に降った。この数を相手に、しかも病人を抱えている状態では彼女でもどうしようもないらしい。

「ここで何をしていたんだ?」

 誰に対するでもなく、ルリは話しかけた。

『彼女はある存在との深い融合状態にありました。その存在を獲得するのが研究所の目的なので、緊急に措置をとることにしました』

 すると、何もない空間から機械音声による返答があった。

「継承体の承認もなく?」

『先代の継承体は、死後は私にこの件に関する対処を一任しました。承認は受けています』

 シオンがそんな指示を出したことはルリの記憶にはなかった。事実なのだろうか。

「妹は返してもらう」

 レンが機械の音声に対し言った。少しの沈黙が続き、人工知能は答えを返す。

『既に十分な遺伝子の採取ができたので、彼女の管理権を継承体に引き渡しても構いません。ただし条件があります。私が提案する実験計画に、継承体として承認を行ってください』

 研究所のタスク一覧に新規の計画が登録されていた。アイ・イスラフェルの精神を分析するために、地球上に送り込んで生活させ、そのデータをとるというものだ。

「これじゃ、お前の実験動物なのは変わらないだろう」

 怒りをおさえきれない声でレンが言う。

『情報収集以外はごく普通の生活を送ってもらうに過ぎません。実験が終了したあとは彼女に関する全権を返上すると約束します』

 断った場合はどうなるか、考えるまでもなかった。ここにいる兵士がいっせいに襲い掛かってくるのだ。

『ここで戦闘を行い、貴重な標本が失われることは私としても避けたいのです』

 淡々と人工音声は続けた。

「あいつの約束なんて信用できない。でも今は他に方法がない。どうだ先生、あんたの意見は?」

「きみと同じだよ。私も彼女の中にある情報を知りたい」

 ルリは研究所のタスクリストにアクセスし、その一覧から該当の計画を承認した。



 ハンナ・ヘンシェルが研究していたCデバイスは、もともとは幽子を閉じ込め留めるために作られた擬似遺伝子だったらしい。グレーテは祈機に入れるためのソフトウェア、テスタメントを研究していた。Cデバイスとテスタメント、二人の研究があわされば、祈機は完成する。

 ようやく、ハンナとグレーテを救うことができるだけの力をルリは手に入れた。

 祈機への加工の適正があったハンナとグレーテが実験台に使われる中で歪みが生じていき、あの忌まわしい施設を生み出した。本来ならあんなものは必要なかった。アイの中から回収したヴィルヘルミナの研究データの一部でそれがわかった。

 Cデバイスの幽子封印性能が完成しているかどうかは幽子感知能力者がいれば確認できる。だから、エリスは過去にハンナの助手に抜擢された。ルリは他にも幽子感知能力を持つSロットを集め、改めて祈機開発チームを作った。ハンナとグレーテの肉体にCデバイスを埋め込んで制御することで、彼女たちが持つ幽子デバイスを変容させ祈機にする。もともと彼女たちが持っていた精神はその一部で計算を続け、人格や質感を維持する。ハンナとグレーテそれ自身が祈機となるのだ。

 それで二人は救われる。祈機として幽子デバイスが固定されれば、永遠に転生し続けるという運命から開放することもできるだろう。記憶の制御も完全にできるようになり、彼女たちの心を時間をかけて癒すことも可能になる。

 実験の前夜、冷凍睡眠保存されていた二人の体を解凍した。

「私がわかる?」

 目覚めたばかりのハンナとグレーテは、二人とも肉体年齢が十数歳相当の姿だった。

「ドクター……ルリ」

 この体の二人とは、少しの間だけ一緒に過ごした。何度もこの光景を繰り返してきた。成功しても失敗しても、今回で最後になるかもしれない。

「これからきみたちには……大事な仕事を……」

 ルリの手が震えていた。もうほとんど恐怖を感じなくなったと思っていたが、今度の実験は失敗すれば彼女たちの存在そのものが壊れてしまうかもしれないのだ。シミュレーションは出来る限り行ったが、それでも不安だ。

「先生、大丈夫……?」

「大好きな先生のためなら、どんなことでもできますよ」

 二人を幸福にしたいと願ってきたが、実際には苦しめてばかりだった。

「大好きなんて、私には言ってもらう資格はないんだよ」

 抱きしめてくる二人の体を感じる。

 彼女たちは正しい記憶を持たない。その感情は仮初めのものだ。その言葉を素直には受け止められないが、それでもルリにとっては慰めだった。



 人工庭園には以前と同じ風が吹いていた。広さが少し拡張され、現実の自然の中にいるような感覚はますます強くなっている。

 ここで休憩するのをルリは楽しみにしていた。開発部の仕事は山積みで、継承体であるルリ自らその仕事に没頭する日々だ。

「まだ行っちゃ駄目!」

 立ち上がって仕事に戻ろうとするルリの手をハンナが引いた。

「仕事があるんだよ」

「疲れてる顔していますよ」

 もう片方の手をとりながら、グレーテも現れた。

「もう子供じゃないのよ。仕事を手伝わせなさい」

「そうですよ。庭園の整備のことが心配ならそれは杞憂です。自動化を進めていますから、支障はありません」

 二人は成長し、研究者としても優秀になっていた。たまに研究所のタスクに組み込まれることがあるが、それだけでは不満のようだ。

「きみたちはね、生きているだけで偉いんだよ」

 試作型の祈機である彼女たちは膨大な計算容量を持ち、CUBEネットワークと繋がって常時大量のタスクをこなしている。本人の人格とは切り離されているのでその自覚はないかもしれないが、ただそこにいるだけで二人は役立っていた。

 祈機の運用に関してはまだ研究中で、その性能を十分に発揮しているとは言いがたい。しかしいくつもの課題を解決している。本格的に運用されるようになれば、Sロットの間に少しずつ広がるCUBE感染症についても解き明かすことができるはずだ。

 二人は救われたのだ。ルリにはそれだけでも十分だった。

 ハンナとグレーテは急速に成長し、大人びていった。記憶の制御も完全なもので、過去の記憶の復元は押さえ込むことができている。祈機の計算能力なら決して問題は起こらないだろう。

 異常が起こり始めたのはそれから少ししてからだった。

 同じ遺伝子を持ち同じ環境で育てられたハンナとグレーテは外見は瓜二つだが、性格や表情、所作は異なっている。それは転生前の彼女たちが好んでいたものを受け継ぐように生前教育を施した結果だった。彼女たちを見慣れたルリはすぐに二人を区別することができた。

 祈機となってから急成長した二人は、だんだん多くの人間には区別できなくなっていった。二人を見慣れていたルリだからこそ気付くのに遅れた。気付いた時にはルリでさえ、それがハンナなのかグレーテなのか区別できなくなっていた。

 明らかに異常があると考えて二人を調べた。すると、二人の中にある祈機に異常が生じていた。組んだ覚えのないプログラムがハンナとグレーテの質感維持の側にまで勝手に構築され、すごいスピードで思考を拡張しているとわかったのだ。

 調べてみると、それはCUBEプロトコルのプログラムだった。一体どこからそんなものが混入したのだろうか。あまりにも大量の情報量なので、それを解析するには別の祈機が必要なほどだ。

 CUBEプロトコルは異なるシステムを自分と互換するものに書き換えてしまう自動処理がある。これが祈機の計算能力によって加速し、制御不能になっている。ハンナとグレーテはほぼ一つの思考と言っていいほどお互いを融合させ、並列化されていった。そして、そうなるにつれほとんど言葉を話さなくなった。

 これは、あの症状にそっくりだった。ヴィルヘルミナの研究データを全て回収したわけではなかったが、祈機が完成した今となってはそれにこだわる必要もなくなったとルリは考えていた。しかしそれは間違いだったのかもしれない。ハンナとグレーテの症状はCUBE感染症と呼ばれる未知の病気とよく似ていたのだ。

 そしてある日、それは起きた。庭園で騒ぎが起きていたので、ルリはそこに駆けつけた。

 庭園の木々に植えられたCデバイスが、かつてハンナがルリにくれた黒狼のような獣の姿をとっていた。何匹かの黒狼は近づくものを威嚇し、追い払っていた。

 全員を追い出した庭園の中央に人形のように立っている後ろ姿があった。

「連れていこうね」

 小さくつぶやく声が聞こえた。何か取り返しのつかないことが起きそうな予感がして、ルリは二人の名前を叫んだ。どんなに叫んでも、二人は微動だにしなかった。

 立ち尽くしたままそっと手を伸ばしてつないだのを合図に、ハンナとグレーテの体からまばゆい炎が上がった。その姿勢を崩すことがないまま、姿を見ることができないほど大きな炎が上がる。庭園全体が赤い光に包まれた。

 一瞬、振り返った二人の顔が見えた。微笑みをたたえていた気がする。しかし、どちらがハンナでどちらがグレーテなのかは、ルリには全くわからなかった。

 焼け跡には二人の体の痕跡は全く見られず、代わりに立方体のCデバイスの塊だけが残されていた。二人の体内にあったCデバイスが幽子構造体を封印したもの、つまりは祈機であった。

 肉体を失った祈機はそれでも驚異的な計算処理を機能させ続けていた。無線で研究所のシステムと繋がっているのでいつでもアクセスできる。膨大なデータの中からハンナとグレーテの痕跡を探すことはできない。

「ねえ、答えておくれよ……」

 ルリは机に頬杖をつきながら、目の前の物体に呼びかける。指先でつついてみたところで、何も起こらない。机の上に置かれた祈機は片手で持てるほど小さいもので、研究所全体のCUBE端末に匹敵する処理能力を持った装置だとは信じられない。

 そんな性能を持っていたとしても、ルリにとっては単なる箱だ。なぜこうなってしまったのだろうか。

「何の用?」

 そんなルリの様子を見ている誰かがいた。それを感じたルリは、誰もいない天井に呼びかける。

『CUBE感染症に関する情報が必要ではありませんか』

 TAの人工知能の声だった。

「今はきみなんかに関わりたい気分じゃない」

『気分で行動を変えるのはあなたらしくありませんよ。呼びにくければ“サクラ”とお呼びください』

 この人工知能は、不必要に人間らしく話すように作られているとルリは思う。それが気持ち悪い。

「きみは人を不愉快にさせるのが得意だね」

 性能を考えればもっと高速に思考している機械のはずだ。はじめからテキストデータか何かを共有して用件を伝えればいい。大人から子供に言い聞かせられているような不愉快さがある。

『会話については改善の実行中です。私はヴィルヘルミナ・ヘンシェルの研究データを持つSロットのリストを作成しています。研究に協力してくれれば、それを提供します』

 交換条件の多い人工知能だ、とルリは思う。

「私に、じゃないだろう」

『はい』

 わかっている。サクラとやらが求めているのは祈機だ。祈機の処理能力は様々な研究に有用である。試作品とはいえそれを完成させたとなれば、放っておくわけがない。

『アイ・イスラフェルの実験に問題が生じたのです。大規模な計算容量が必要な事態になりました。これを見てください』

 レンとともに取り返したアイは、地球上で生活させて精神の動きを観察するという実験に使われていたはずだ。だが、サクラが送ってきた映像は地球上のものとは思えなかった。

 クレーターのようにえぐれた大地だった。その半径は十数キロも続いている。

「まさか……」

 地上の大規模な破壊現象だった。見たところ大量破壊兵器などによるものとは思えない。ルリはあの日の事を思い出す。現実干渉性の権化となって破壊の限りを尽くしたアイによって、ルリの目覚めに影響が出た。

『このくらいで済んで、まだ幸運だったのです。彼女はやはり計り知れない危険を秘めています。レン・イスラフェルが命がけでこの現象を止めてくれなければ、もっとひどい状態になっていたでしょう』

 発端は、彼女が生活していた大学に反政府勢力によるテロが仕掛けられたことだ。毒ガスの散布によって付近の住民と大学の教員全員が死亡し、生き残ったのはシェルターに生き延びた一名の学生とアイ・イスラフェルだけだった。目の前で大勢の親しい人物を失うという状況に対し、あの日レンを失いそうになって暴走したことの再現が起きた。

「レンは? 生きてるのか?」

『無事です。二人と一人の学生は、次の実験のための準備に入っています。しかし、それには祈機が必要なのです』

 アイを人のいる町に設置して実験を行うのは危険すぎる。そこでこの破壊の跡地にもとの施設を再現し、仮想現実によって起きる出来事を全て再現して擬似生活を送ってもらうことにした。

 幸い、数年分の彼女の学生生活のデータが全て残っている。それを元に仮想世界を作り上げてNデバイス経由で経験させることが可能だ。それを構築するだけの巨大な計算装置があるのなら。

「いいよ、手伝ってあげるよ」

 祈機になってしまったハンナとグレーテに何が起きたか知る方法はヴィルヘルミナの研究だけだ。サクラとの会話で合理的な思考を取り戻し始めたルリは、この実験に必要なことを整理し始めていた。

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