Arcadia(B) 3

■回想編(白)4



 反政府勢力の一団は廃棄都市区画の一角に辿り着いた。熱遮断シートとハリケーンを利用して衛星の目を逃れ、ついに政府の秘密実験場らしき場所を発見できた。

 この計画がうまくいったのはNデバイス施術者たちから情報提供があったからだ。一体どうやってここにこんなものがあると知ったのかはわからないが、いまや劣勢の反政府活動家にとっては有難いことだ。

 都市内には監視システムが張り巡らされている。発電所から町へと続くケーブルの集約点を爆破すれば電源を全て落とすことができる。ここは普通の都市とは完全に独立した電源供給になっていて、しかも予備の電源も一箇所に集中しているので、そこを叩けば丸裸にできる。その上で記録をとるなり、重要証拠を手に入れるなりすればいい。

 一団はこうした破壊工作には慣れていた。すばやく行動を起こし、爆薬を設置していく。警備の人間が一人も見当たらないというのが不思議だった。

 町そのものからも何の気配も感じられない。双眼鏡で覗いてみると、町の中心地は本物の町ではなかった。AR施設で使うような灰色のハリボテのようになっている。実験施設なのだから人は住んでいなくて当然なのだが、その光景はシュールで不気味だ。

 準備が全て整い、爆破を実行した。軽い振動とともに、町から明かりが全て消えた。成功だ。

 急いで施設を探索しようと思った瞬間、銃声が響いた。何が起きているかわからないまま、一団は周囲を確認しようとした。動態センサーには味方の影しかなく、敵はどこにも現れていない。

 政府の秘密工作部隊か何かがいるのか? また銃声がし、一人が倒れた。その時に気づいた。味方の中に味方を撃っている者がいる。

 暗視スコープで見ると、それは今回加わった小数のNデバイス施術者たちだった。その顔をみてぎょっとした。能面のような無表情で、機械のように正確に味方を射殺していたのだ。

 ほどなくして、この少数のNデバイス施術者以外の人間は全て殺害された。事が終わっても一言も会話することなく、虐殺者たちは灯の消えた町へと歩き出す。あの町にいるたった一人の人物に接触することが、はじめから目的だった。

 剥ぎ取られた機能がここにある。失われた機能を回復するために、その存在は人に乗り移って行動している。研究所ではそれをCUBE感染症と呼んでいたが、それを知るものは地球上には誰一人いない。



 全てはアイ・イスラフェルの存在に起因した実験であった。一度完全に破壊された都市を表面上だけ復元し、ARで形成される架空の現実の中で生かされていた。それが真実だ。

 その話をエリス・ヘンシェルから聞かされても、アイにはすぐに実感が伴わなかった。今経験しているこの状態こそが夢で、昨日までの日常のほうが正常だという気がする。

「教授はどうなったの?」

 研究室から持ち出して懐に忍ばせている写真には、よく知った顔が並んでいる。これは現実だったはずだ。いつの現実かはわからない。写真に写る自分の顔を見ると、今よりは少し幼い気がする。

「大学関係者は、お前とそこのエミ・レシャル以外は全員……」

 全てが架空なわけではない。この実験ははじめ、本物の人間がいる本物の町や大学で行われていた。現実の地球の都市で数年間の学生生活を送っていた。しかし研究所でも想定していなかった事故が起きた。数年前のある日、テロリストによって大学が襲撃され、虐殺が行われたのだ。

 それを幸いにして生き延びたのはアイとエミの二人だけだった。彼女たちがシェルターから出てきた時には、町の人間は全てテロリストによって散布された毒ガスによって死亡していた。

「そんなこと、私は覚えてない」

「事件の後、お前たちの記憶はNデバイスから編集された。当然だ」

 実験は続行しなければならなかった。研究所はある高性能計算機を導入し、それを使って緻密に現実を再現したAR都市を作り上げ、過去に経験した日々を少しずつ変えて繰り返させることでアイの日常生活を続行させたのだ。

 ハンドルを握るエリスの手は震えていた。彼女は何かに怯えている。

 そうなのだ。テロリストによる虐殺はほんの序章に過ぎなかった。本当の事故はその後に起こった。アイが決して思い出してはならない事故だ。

「私……思い出したかもしれない」

 後部座席におさまっているエミがつぶやいた。

 彼女はアイに比べればNデバイスの規模が小さく、記憶の編集が完全には行えない。エリスの話や壊れた町の姿に刺激され、記憶が戻り始めているらしい。

「やめろ、お前!」

「教えて、エミ。何があったの? 私が何をしたの?」

 なぜエリスはこんなにも自分を恐れているのか。それをアイは知りたかった。

「よくはわからない……でも、みんな死んでいるのを見てアイは様子がおかしくなって、それで……見たこともないような嵐が急に起きて、周りのものが何もかも壊れていったの」

 現実の記憶とは思えないとエミは言う。しかし、アイには心当たりがあった。それは、一種の現実干渉性かもしれない。アイはSロットだ。能力が暴走を引き起せば破壊を引き起こす可能性がある。

「まさか、これ全部……?」

 車が町から離れたことで、その全景が見えてきていた。ファウンデーショングレーの区画は大学を中心に円周上に広がっている。そこを爆心地にして破壊が起きたことを示している。その半径は十数キロある。

「あれを、私が……?」

「落ち着け、アイ。頼むから……」

 エリスは車を止め、助手席に座るアイの手を握った。エリスの手は震えていて、冷たかった。

 その怯え方を見て、やはり自分は恐ろしい破壊を行ったのだという実感が持てた。エリスが動揺している分、アイは逆に落ち着くことができた。

「車、出していいよ。大丈夫だから」

 呼吸が荒くなるエリスの肩を撫で、アイは言う。エリスは額をぬぐい、再びハンドルを握った。

 そして、今まであったことを静かに語り始めた。



 エリス・ヘンシェルにとって、当初この実験には恐怖より不安のほうが大きかった。学生に成りすますという任務が自分のような不器用な人間に行えるかどうか不安だったのだ。

 観測は他の普通のSロットでは意味がない。幽子の運動を感知できるエリスを通じてしか、アイに起きる全ての動きを記録することができないからだ。

 アイが起こした破壊現象によってこの大学施設を残して隕石跡のように消失してしまった町は、工業素材で埋めて形だけを再現している。町の景観はNデバイスを通じたARによって再現する。月面都市ではありふれた技術だ。

 ARによって再現されるのは施設だけではない。そこに住む住民全員の行動も作られる。それによって予測不可能なイベントが発生し、現実のような自然な日常を作り出す。完成した祈機をもってすれば、これほど大規模なシミュレーションも容易だった。

 ここで生活するエリスもこのARを見ることが求められる。負担がかかる時は緊急にARから離脱できる権限が与えられているが、できるだけ架空の住民とも会話をしなければならない。

 アイとの接触はともかくなぜ架空の住民まで相手にする必要があるというのか。この時のエリスは、まだその意味を知らなかった。

「あの、おはよう」

 架空の住民とは違う気配を感じて振り向くと、そこには現実の人間がいた。同じラボに通うエミ・レシャルだ。

 この実験に先に送り込まれていた唯一の人間であるこの人物は、稀に見るSロット以外から自然発生した幽子感知能力者だったため観測に利用されている。前回の実験で生き残った本物の学生だ。

 エミは民間人ゆえにNデバイスの容量が多くなく、十分な観測データを得られていない。より多くの情報を集めるためにエリスが配置された。実験都市には二人の人間しかおらず、いずれもエリスにとっては味方ではない。頼りにできるのは自分と、月から指示を送ってくる楪世ルリしかいない。

 Nデバイスの容量が大きくないということは記憶の制御も十分ではないということだ。今は問題ないようだが、記憶が戻ってしまう危険は常にある。最悪の場合は彼女を殺すこともエリスの任務には含まれる。

「ええ、おはよう」

 人と接する訓練を受けたエリスは自然にエミに返事を返した。しかし、外見の印象や本質からにじみ出る雰囲気はエミには冷たく感じたらしく、少し怯えさせてしまったようだ。

「あ、あのね」

 だというのに、彼女はまだエリスに話しかけてくる。

「もしよかったら……一緒にいかない、かな」

 何の話だろうかと思い、気づいた。エリスはここにきて一週間になるが、一度もラボに顔を出していない。卒業研究を開始するにはまだ早い時期だったが、研究テーマを選ぶために先輩の研究を見たり手伝うことが必要だ。

 エリスは正規の学生ではないし、そのラボの教授は実在した人物にあわせて放任主義の性格に設定されている。ほとんどラボに顔を出さないエリスに対して、メールの一つも送ってこない。

 だが、このエミ・レシャルはそうではなかった。友達がいないエリスを気にかけて、わざわざこうして話しかけてきた。

 全くラボに行かないというのも不自然だ。輪講発表や卒業研究が始まればどうせ定期的に顔を出さなければならない。エリスはエミの誘いに乗ることにした。はじめはこの生活を淡々と生きていたエリスだったが、これを切欠にだんだんと大学に溶け込んでいった。

 異変が起きたのはいつからだったか。エリスは監視用の拠点で生活している。エミやアイがいる寮とは別の場所に隠されている。そこで眠りについている時に気付いた。人の気配がする。エリスは幽子感知能力者なので、人間という幽子デバイスを持つ存在が接近すれば感知することができる。

 この都市にいる本物の人間はエミとアイだけだ。時刻は深夜、二人がここにやってくることは考えにくい。何か異常があったのかと思い、エリスは自室に備え付けられた監視システムを調べた。

 都市は全てが正常に機能し、侵入者はなし。エミもアイも学生寮で眠っていた。しかし、扉の外からは人の気配を感じる。そんなはずはなかった。この巨大な実験都市は人間はおろか、鳥や虫さえ混入しないように警備ポッドで管理されている。

 エリスは少しの恐怖を感じながら、まずARを切断した。拳銃を隠し持ち、服を着て外に出た。

 そこには誰もいなかった。しかし、微弱に人の気配が感じられる。目を凝らすと、透明な人影がうっすらと見えた。

「何だ、こいつは……?」

 人の気配にしては希薄すぎるものだったが、確かにそれはあった。しかも大勢いる。

 ふと思い当たって、エリスは切断していたAR情報に再接続した。すると、その希薄な気配のある場所には仮想人物モデルがぴったりと重なっていた。

 これが、現実構築能力を内包するアイ・イスラフェルが引き起こしている現象なのだと気付いた。エリスの目で観測されるこの光景は、この実験で得られた成果であった。

 いつからこうなっていたのかわからない。変化は起きはじめていたのだ。意識の根源、魂とされる幽子デバイスは人間の肉体に引き止められて形成される。何もない空間には固着しないはずだ。実態のないプログラムにそんなものが自然に宿るとしたら、それは現実干渉性によるものしか考えられない。

 次に観測されたのは、灰色で再現された町に起きた異常だ。一部に形状の変化が確認された。ハリボテの平坦な壁面に、窓のような文様が現れていた。

 ARが現実に近づいている。アイが感じた仮想の世界が現実になろうとしている。まさに現実を構築する力だ。研究所が求めているものだった。

 アイは都市の外に出ることが多くなっていった。近くにある本物の廃墟を遊び場にしているらしい。

 監視システムの外にある場所だが、無理に止めたりすれば実験に支障をきたす。放置するしかなかった。実験は成果が出ているので、ここで中断する原因を作るのはありえなかった。

 彼女が町の外に出る時はエリスもひそかに尾行し、護衛をさせられた。祈機にだけは近づかないように監視しなければならない。

「……? 誰かいるの……?」

 アイを探してエミ・レシャルが廃墟に来ている時は注意しなければならなかった。彼女は幽子感知能力者で、あまり近づくと気配を感じ取られてしまう。

 古くにはそうした感覚を霊感などと呼んでいた。Sロット以外にも、わずかな幽子感知能力者までは生まれる可能性がある。かつて月で発見をした調査隊の隊員の中にもいたらしい。

 車で移動するアイを追うため音の出ない電動バイクを使っているエリスは、二人がいる場所を遠くから観察できる場所に移動した。小さな監視ロボットを複数放ち、その場所から二人を監視する。しばらくして二人が帰途についたら、別の経路で町まで戻る。これをいつも行っていた。

「こんな建物……あったっけ」

 何回か通った道に見慣れない建物があった。中に入ると、それは書店だった。長い間放置されていたとは思えないほど綺麗に本が陳列されている。

 地球上でもかなり前からペーパーメディアの本は利用されなくなったはずだ。中古本の愛好家は多いと聞くが、一つのコーナーに同じ本がいくつも積まれている所を見ると、どうやら新刊を扱う店のようだ。廃棄されて時間が経っている場所とはいえ珍しい。

 興味本位でエリスはその一つを手に取り持ち出した。この任務は忙しい時は忙しいが、何もない時はほとんどすることがない。退屈なのだ。暇つぶしになりそうなので少し拝借しようと考えた。

 選んできた本は小説本で、かなり古い言い回しで書かれたものだった。内容は心霊ホラーに見せかけた連続殺人事件が起こるというものだ。

 この小説の舞台となっているのは一九九〇年台ごろの古代だ。このあたりの歴史はよくわかっていない。大破壊があって世界の形が変わり、その頃の資料や技術も全て失われた。今の人類は、身一つで技術を再生し二〇〇〇年以降の時代を築いた。小説はその未知の時代の世界を見事に想像して、まるで現実のように描いている。内容に没頭し、あっという間に読み終わった。本を閉じる直前に奥付が目に入った。いつ発行されたのかを探すと、その表記はあった。

 一九九九年六月四日 初版発行。それ以降の版数は記載されていない。その意味を考え、エリスの背筋は急に冷たくなった。

 研究所への報告は衛星が頭上に来る一日に一度、志向性の光線によって内密に行われる。まだ十時間以上もの時間があった。自室の通信機から自分の記憶データと報告書を送信するように予約を行い、エリスはバイクに乗り込んで廃墟を目指した。

 その間、自分の記憶をNデバイスから呼び出し、あの書店があった場所を通りかかった時の景観を作り出してみた。すると、あの店はあの日になって突然に出現したということがわかった。

 もともと存在した店ではなかった。どこからか流れ込んだ情報がアイの能力を介して出現したとしか考えられない。

 彼女は実験都市でも、経験を元に実際の建造物を再現する力の片鱗を見せていた。だが、あんな店は仮想都市のデータの中にだって存在しない。アイが大破壊の前の記憶を持っているはずもない。

 だとすれば、それはアイと繋がっている核の中にある情報ではないのか? 人類にとって未知の情報だ。

 その場所を再訪すると、書店は間違いなく存在していた。エリスは片っ端からその本を調べ、発行年数を確認していった。一九九八、一九八七、一九九六……古くて一九七〇年、新しくても一九九九年の七月以降のものは存在しなかった。

 この書店は、一九九九年に存在していた施設だ。たった一人でこの現実に放り出されたエリスはどうにかなりそうだった。

「私はどうしたらいいですか、先生」

 十時間後の通信可能時間までにルリは自室に戻ることができた。憔悴したエリスは、ルリに助けを求めた。

『追加の調査班をその都市に送るよ。きみはアイの監視に集中して。いいね?』

「はい」

 あの都市を一人で調べるのは怖かった。ルリはそれを察したのだろう。明日に備えて休むようにと優しく告げ、通信を終えた。

 その翌日、調査隊からテキストのメッセージが届いていた。何かわかるごとにその情報をまとめ、通信を送るように依頼された。あの都市の中には同じような未知の施設がいくつか出現していて、それは一九九九年ごろに存在した東京都という都市の一部であることがわかってきたらしい。

 エリスが担当しているのは一次調査の情報送信であり、それに関するあらゆる考察はまだ行われていない。調査結果だけを淡々とエリスは送信していった。

『エリス、どうしたんだ?』

 しばらくは何も起こらなかったが、ある日ルリから直接通信がきた。

「何がですか?」

『きみがそこを調査する必要はないんだ。調査隊は再度編成するから、無理をしなくていい』

 何の話かエリスにはさっぱりわからなかった。調査は調査隊がしているはずだ。こうして毎日、調査結果が送られてくるのだから。

『何を言っているんだ。調査隊は事故で現地には到着していないよ』

 この調査はきみが行ったものではないのか、とルリは言った。それでは、今まで送られてきた報告は一体誰のものだったのか。それを考える前に、その日の通信時間は終了した。



 呼び出された場所は廃棄都市の建物のうちの一つだった。その場所にエリスは覚えがあった。

『お前は誰だ』

 調査隊だという人物に対してエリスはそういう文を送った。それ対する返答は、「指定する場所に直接来るように」というものだった。次の通信が可能な二四時間後まで待てなかったエリスは、ただちにその場所に向かった。時刻は明け方に近い深夜で、施設内は真っ暗だった。

 地下へと続く階段から光がもれていた。通電されていることは知っているので、驚くべきことではない。そこは、ルリが貸与した祈機が隠され稼動する施設だからだ。

 アイ・イスラフェルによる破壊現象が起きたとしても、ここから町までは距離がある。この廃棄都市の中は最適な隠し場所だ。祈機はあの実験都市のAR情報の処理をこの場所から行い続けている。

 サーバールームには厳重に鍵がかけられ衛星軌道上からの通信でしか解錠できない。踏み入れられるのはそこまでだった。うっすらと埃が積もっており、足跡はない。幽霊でもなければここを訪れたのはエリスだけだ。

「お前は誰だ」

 文面で送ったのと同じ言葉を発する。祈機から気配がする。

 同時に、エリスのNデバイスに祈機から通信が来ていた。ARを展開するので、それを受諾し実行するようにという要請だ。

 それを受け入れると、人物のARグラフィックが展開されていった。見たことのある顔だった。金色の長い髪に黄水晶色の瞳、ヘンシェル系Sロットの面影があるだけではない。彼女の顔は、よく知るあの姉妹と同じものだった。

「本当にあなたなのか?」

「そうだ」

 彼女の名はヴィルヘルミナ・ヘンシェル。ハンナとグレーテの根源の人物で、祈機の中で二人の幽子デバイスが融合したことで復元された本人だった。

 彼女は祈機の性能と、それに繋がるアイ、エミ、そしてエリスの目を借りてずっと観察を続けていた。そして、かつて世界に何が起こったのか、その真実を突き止めたのだ。



 赤い電波塔がそびえ、人々が闊歩する街中にいた。数百年前、ようやく携帯電話が普及し始めた時代だったはずのそこに、すでに現在のCUBEのような超高性能ネットワークシステムの萌動があった。

 それが、廃棄都市に出現した数々の未知の建造物を調べてわかったことだ。

「これは、当時発行されていた情報媒体だ」

 ヴィルヘルミナは祈機の中に擬似的に再現した東京の街から新聞を拾い上げ、一面にある記事を示した。ある時から、東京都民の中に常人をはるかに超える知能を発現させる人物が突如として現れ始めた。下は一五歳、上は八十歳まで、学生から会社員など身分もさまざま。この人間たちは革新的な発見やすばらしい能力を発揮したが、少し時間が経つと精神を喪失していった。以後は政府の情報統制が敷かれ、新聞やテレビにこの現象に関する情報が載ることはなくなる。一部のオカルト雑誌で扱われるだけになっていた。

「しかし政府はこれを研究し続けていた。私は、この町に再現された政府の施設を調べてそれを知ったんだ」

 言いながら、ヴィルヘルミナはその施設を再現したARを展開した。

 この人間たちから情報を聞きだすうち、ある病原体のようなものに感染したということがわかってきた。それは幽子的な装置で、人の意識の本質とよく似た形をしたものだった。

 この感染源の中身は人間にも理解できる言語で書かれていて、感染した人々は一様にこれを「CUBE」と呼んでいた。

 CUBEはある種の幽子コンピュータプログラムで、触れたものを取り込んで解析するものだと考えられている。CUBEの材質は幽子で、地球人類の肉体にはたまたま幽子デバイスが存在した。CUBEは人間を自分と同じコンピュータシステムとみなし、そこに手を伸ばした。融合し広がって、一つの巨大な装置になっていった。

 超高性能計算機であるCUBEにとってあらゆる情報処理は一瞬だ。つながった人間は一瞬にして全てのことが体験できる。あらゆる喜びや悲しみ、自分に起こりうる全てのことを事前に体験できてしまう。それは現実と少しも変わらない。

 一瞬のうちにするべきことがなくなってしまう。ものの数秒で全てをやり終えてしまう。そうなればあとは眠るしかない。肉体に構う意味はなくなり、存在理由の終焉を迎える。それがCUBE感染症の正体だ。

「だから、ハンナとグレーテは眠ったのか……」

 祈機となった二人は無限大に近いほど意識が拡張していき、あらゆる想定を現実よりも緻密に、一瞬にして行うことができるようになった。その結果、現実を生きる理由を喪失した。肉体を捨てて消滅し、祈機の中でその魂を永遠の眠りにつかせた。

「それと同じ現象が宇宙規模で起きて、宇宙そのものが消滅しようとしているという事がこの東京都の施設で行われた研究でわかってきた。早ければ一九九九年には何もかもが消滅すると判明し、それを逃れる方法を探したそうだ」

 CUBEは高度な計算装置だということがこの問題を生んでいる原因だったが、それを逆手にとれば力にできる可能性があった。政府は一人の感染者をCUBEへとアクセスする端末にすることにした。

 それは「桜」という名前の少女であったらしい。桜という実体の肉体を通じることで、CUBEの一部に好きな情報を書き込むことができるようになった。

 作る必要があったのは、この現実をなんとかして残す方法だ。そこで研究者たちは一つの方法を考え出した。今ある現実の情報を保存し、滅んだ後の世界で再生するという方法だ。

 CUBEは幽子コンピュータで、幽子を制御する機能を持っている。もっと言えばただそれだけの能力を持つものだ。そこで、幽子のみから現在の世界のような第二の世界を作り出す現実構築プログラムを作成した。

 幽子をいくつも固めていくことでL素粒子と呼ばれる仮想素粒子を作り、本来の宇宙の素粒子の振る舞いをとらせるよう制御する。それが現実構築能力の中身だ。CUBEの処理能力をもってすれば、L素粒子で小規模な恒星系くらいは作り出すことができた。明確な意思をもつわけではないCUBEは、プログラミングによって手懐けることができる。

 かつての宇宙がその後どうなったのかはわからない。滅んだのかもしれないし、残っているのかもしれない。確かなことが一つある。綺桜は苗床となって花を咲かせ、現在の世界が生まれたということだ。箱舟のようなこの新世界は、「レムリア」と呼ばれた。

 L素粒子のLは、LemuriaのLだ。幻の大陸という意味である。それが、今のこの世界なのだ。

 比類なき計算処理能力を持つCUBEを手懐けて現実を構築したはよかったが、その危険性は封じ込める必要があった。そこに幽子情報体がある限り貪欲に取り込んで凍結していくというCUBEの本来の機能を押さえ込まなければ、レムリアにもかつての世界と同じことが起こる。

 再生された世界には新人類が生み出された。人間の体が持つ幽子を留める特性を利用し、巨大な幽子コンピュータであるCUBEを細切れのバラバラに分断しようとしたのだ。CUBEを新人類たちの体の中に少しずつ分散して閉じ込め、お互いがつながらないようにする。そうすることで、CUBEの計算能力は発揮できなくなる。そして新人類から少しずつ計算能力を供出して桜に与える事で、レムリアを維持する現実構築能力を動かす。

 その処理を行う桜の肉体は月の大空洞に隠された。完成したレムリアはいくつかの惑星と恒星が一つだけの小さな世界ではあったが、再生は成功し、世界は存在し続けた。

 しかしレムリアの歴史が進み、その人間にも変化が訪れた。戦争が起こって大量に人が死ぬ事態が起きた。人間の肉体という檻から解放され、CUBEは再び大きくなる。やがてNデバイスが生み出されるとその中に入り込み、人類の精神に流れ込み、CUBE少しずつ活動を始めた。異なるシステムを自分のシステムに書き換えるという活動だ。

 CUBEシステムは誰かによって開発されたのではない。Nデバイスを発明した時、その中に流れ込んで感染症のように広がっていったのだ。

 現在もそのCUBEの特性は利用されている。まだNデバイスの処理能力が幽子デバイス以下なので拡散はされていないが、ノードを増やすだけで勝手に規模を拡大するというCUBEシステムの特性はエリスもよく知っている。

 人類が減ったことで、レムリアのシステムも不具合を抱え始める。供出される処理能力が不足し、北の大地に何もない闇が広がり始めた。戦争の影響で地球環境が破壊されたことで地球人類は更に減っていき、この現象は加速した。闇は広がる一方だった。

「私は、研究所が過去に発見した未知の生命体がこの世界を作っていて、そいつを実験のために傷つけたのが原因で現実が崩壊し始めたと教わった」

 エリスがルリから聞かされたのはそういう話だった。それを聞いた時でさえエリスは大変なショックを受けたのだ。

「私もついこの前まではこんな事実があるとは知らなかった」

 これはアイ・イスラフェルが無意識のうちに生み出した施設から得た情報をつなぎ合わせて生まれた答えだ。これが事実なら、現実干渉性を収集するだけでは終わらない。無限大に広がっていくCUBEを克服する必要がある。

「アイ・イスラフェルはどうなってしまったんだ」

「桜は状況に危機感を覚えていて、より高度な人類と認めたSロットにという存在に自分の機能を移そうとしているのだと思う。そこでアイが選ばれたんだろう」

 研究所が求める現実構築力を受け継いだアイだったが、本人には自覚はないし、少しの感情で暴走し世界を崩壊に導こうとする危険な状態になっている。

「この地上で、これ以上実験をしてはならない。ここには目覚め始めたCUBEがいる。まだCUBEは何の力も持っていないけれど、もし祈機となった私やアイに到達して現実構築力を取り込んだなら……」

 その言葉と同時に、展開されていたARが中断された。来た時と同じ廊下の風景に戻り、そこにはもう誰の気配もない。

 自室に戻った後、エリスは呆然としていた。通信可能時間まではまだ時間がある。ヴィルヘルミナから預かったデータをルリに渡せば自分の役目は終わる。

 研究所にすべての情報を送ったあと、エリスはしばらく学生生活を続けた。実験がいつ中止になるのか連絡を待つばかりだ。

「アイ・イスラフェル」

 講義の中で、アイの名前が呼ばれる。ぼんやりと授業を受けていたエリスは、その名を聞いて目が覚めた。

「CUBEシステムについて、あなたは詳しかったですね。わかる範囲のことを教えてくださる?」

 教授に促され、アイは解説を始めた。

 CUBEシステムは今や、種多様なデバイスを管理している。それはコンピューター上のプログラムであるうちは大した問題ではないが、人の幽子デバイスにまで進入し動き始めると危険だ。Nデバイスを通じて精神と情報技術が密接になっていくにつれ、そういう現象が起きてくる。

「あなたは、CUBEの正体を何だと思っているの?」

 講義が終わった時、アイに声をかけた。対象に接触するなどご法度だったが、気づけばそんな質問をしていたのだ。

「さあ……ただのコンピュータネットワークじゃないの?」

 アイは何もわかっていない様子で答えた。その時もう全てを伝えてしまおうかと思ったが、都市の破壊現象を思い出す。不用意に真実を明かせばどうなるかわからない。

『危険が迫っている。すぐにアイと祈機を回収して、保護してほしい』

 ヴィルヘルミナから聴いた全ての情報を伝えたあと、ルリから指示があった。

 ほんの一瞬だが衛星が不穏な影を探知した。厳重に情報秘匿されているはずの実験都市に、迷うことなくまっすぐ近づいている何者かがいるのだ。

 CUBE感染者がそこに取り込める情報、つまりアイや祈機の存在を感知したのではないだろうか。研究部は今の実験を継続したがっていたが、この危険に際して撤収はやむをえないと承諾した。

 祈機のある地点には大気圏外に離脱するための緊急脱出装置がある。また、強化兵士を大気圏外から現場に直接降下させて脱出を助けるという。

 通信の途中で電源が落ちた。発電所が爆破されている。もう敵が来たらしい。エリスは急いで準備を整え、アイを探しに外に出た。

 電源が落ちたことでARが機能しなくなったその世界には、白い影のような人のクオリアが彷徨っていた。これも、アイが作る新世界の片鱗なのだろう。それをかきわけ、エリスはアイのNデバイスの反応を追い、大学へと向かった。



 アイは、車の助手席でエリスの話を静かに聞いていた。

 廃棄都市区画に行く必要がある理由はわかった。そこにある祈機と呼ばれる高性能コンピュータを回収し、緊急脱出装置とやらで脱出を図る。これはそういう移動なのだ。

「じゃあ、みんなや教授はもう……」

 とっくの昔に死んでいたのだ。ARで作られた日常は少しずつ変化しているらしい。昨日までのことがどこまで事実に基づいているのかはわからないし、思い出せない。

「あの白い影たちは、私の知り合いたちなのかな?」

「さあな……形だけのものなのか、それとも本当に……」

 何もわからないことがもどかしく、理不尽だと感じた。自分の中にあるものでさえアイは知ることができない。記憶を封印することによって暴走を抑え込んでいる状態なので、ある意味アイ自身が最もその存在に遠い。

「実験、続けてもいいよ」

「何を言い出すんだ」

 新しい事実が判明した以上、もうこんな実験は続けられない。そう思ったからこそ、エリスはアイに事実を伝えた。それでも、アイはこの実験をやめるわけにはいかない理由がある。

「あんたは姉の所に帰ればいい。それじゃだめなのか?」

 エリスはレンのことを口にした。アイは胸が苦しくなる。彼女ならきっと全力で助けてくれるだろう。でも、それでいいのだろうか。

「嫌だよ……別な場所でもし同じことが起きたら……それに、エミはどうなるの?」

 自分のせいで人が傷つくのは怖い。それ以上に、今ここにいる友人のことも心配だ。

 この実験が終わったら彼女はどうなってしまうのか。エミは一般人だ。研究所にとっては生かしておく価値もなく、秘密を知りすぎた危険な存在だ。実験を終わらせるということは、彼女が不要になるということだ。

「いいよ、私のことは。アイはお姉さんの所に帰って」

「え……」

 普通の人間にはついてこれないような話が展開しているというのに、エミは冷静だった。全てを察したかのように微笑んでいる。

「何で無関係のあなたが犠牲にならなきゃいけないの? おかしいよ……そんなの」

「死ぬと決まったわけじゃないでしょ。それに、きっとそれがアイが本来いるべき場所なんだよ」

 アイの近くにいると気持ちが浮ついて、どこか他の人とは違う特別な存在だと思っていた。そうエミは語る。

 車は目的地に到着した。敵がどこまで迫っているのかはわからない。施設の奥に入っていく。エリスがヴィルヘルミナと会話した場所だ。衛星からの遠隔操作で鍵が開いていて、更に奥に進めるようになっていた。

 暗い部屋の中央には黒い立方体の祈機があった。エリスがそれを回収してケースに入れている。あんな小さいものだったということにアイは驚く。その奥に、小型ロケットによって大気圏外に人一人を脱出させるためのポッドがあった。

 ポッドは二つしかなかった。アイとエリスのものだ。はじめから、エミを回収する気はないらしかった。

「私は行かない」

 施設を起動しようとするエリスから隙を見てアイは拳銃を奪い取った。

「お、おいやめろ」

「う、動かないで」

 アイは銃など撃ったことがない。練習がてら威嚇射撃しようとしたが弾が出ない。映画では確か銃には安全装置がついているとのことだった。

「こら! 不用意に引き金に指をかけるな! いや銃口を覗き込むな? 安全装置なら引き金の前のボタンだ」

「うるさい!」

 すぐに銃の構造を理解したアイは、あらためてエリスに銃を向ける。

「エミをここに置いていくくらいなら私は残るからね」

 エリスを脅迫してまでのアイの望みはそういうことだった。こんなのはおかしいという思いがアイを動かしている。

『交渉には応じます。エミ・レシャルの人権の保障を約束しましょう』

 そこに、知らない第三者の声が響いた。

 エミが所持していた携帯型端末からの声だった。そこには確か、彼女が作った人工知能が入っていたはずだ。

「サクラなの? どうしたの急に……」

 一番驚いているのは所有者であるエミだった。

「サクラだって? そこにいるのはサクラなのか」

『はい、エリス・ヘンシェル。私はこの実験を監視するために本体から分離されたサクラの一部です』

 それはかつてTAと呼ばれていた人工知能であることを、アイは知らない。サクラの一部がそこにいた。エミの端末の中、アイに近い場所に隠れて実験の経過を見守っていたらしい。

『この端末は特別な回線で研究所との通信が可能です』

 人工知能は淡々と言った。

「私の先生に頼んでみよう。サクラ、楪世博士を呼び出せ」

 エリスはしばらく無言だった。Nデバイスを通じて状況を伝え、その楪世博士という人物と交渉を行っているのだろう。

「どのみちこの実験は中止になる。お前とエミ・レシャルでポッドを使って、研究所に戻ってくれ。先生が身柄を預かってくれるらしいから」

 通信が終わった。交渉は成立したらしい。エミ一人の身柄くらいは先生が何とかしてくれる。そうエリスは断言した。それを信じるしかなかった。

「あなたはどうするの?」

「私は別に狙われていないから、第二回収地点に移動すれば安全だ。別の迎えを待つよ」

 安心すると、アイは腰を抜かしそうになっていた。もうこれ以上、誰も死ぬ必要はない。しかし不運は起こった。施設の天井から破裂音が聞こえ、崩れ落ちてきた。

 上から複数の人影が降下してきた。銃声が鳴り、アイは耳をふさぐ。そして、自分の手に何か握られていることを思い出す。

 エリスから拳銃を奪ったままだ。彼女は丸腰だ。金髪を粉塵の中に見つけ、そちらに拳銃を滑らせてよこした。その後何発かの銃声がして、周囲は急に静かになった。

 進入してきた人影は全員が倒れ絶命していた。それに混じって、エミが地面に横たわっていた。腹部を真っ赤に染めて虚空を見上げている。

「嘘でしょ……」

 駆け寄ってエミの手を握る。まだ暖かかった。エリスは救急キットを取り出し、腹部の傷を看ている。しかし、助からない怪我なのはアイにもわかった。

「アイの……せいじゃ……ないよ」

 か細い声でエミは言った。

「でも、私が……」

「ううん……アイに会えてよかったもの。悪いことなんてないよ」

 エリスが治療の手を止めた。出血を止める手段がない。追っ手は迫っている。

 倒れた敵の兵士が持っていた銃が目に入る。アイはそれを拾い上げ、安全装置を外してエリスに向けた。

「なんのつもりだ」

「祈機を返して。実験を続けよう」

「なんだと?」

 実験の途中で、アイは死者の魂らしきものを蘇らせてこの町を現実に近づけたとエリスは言った。ならば、エミの魂を呼び戻すこともできるはずだ。

「実験でもなんでもすればいいでしょ! 祈機をそこに戻してよ。またいつもの日常に戻して!」

「あれが蘇りかどうかの保障なんてないんだぞ。本人じゃない、ただの幽子の塊かもしれない」

「そんなの、試してみないとわからない!」

 外敵の排除さえできれば実験を続けられるはずだ。そうすればエミは、エミの魂は死なずに済む。存在を続けられる。あの町の住民のように。

 死んだはずの兵士が、生ける屍のように起き上がっていた。どす黒い塊のようなものが、アイとエリスの目には見えた。

「ひ……!」

 思わず恐怖した。底なし沼のように先が見えない虚無がその先に繋がっていると感じる。兵士の死体から出てきたそれの正体こそがCUBEの意識の先端であった。

 振り払うようにアイが手を動かすと、その黒い影は引きちぎられるように分断されて消えた。

 アイの能力が暴走し始めていた。周囲に砂のようなものが舞い始めている。空気が何らかの変化を起こしている。崩壊を始め、地面が剥がれかけていた。

 これまで二回起きた暴走もアイが大事な人を失った瞬間に起きた。はっきりと思い出したわけではない。しかし、前もこんなことがあったとアイは気付き始めていた。自分の中にある巨大な何かが迸り出て、意思を拡張していって、やがて真っ白に染まっていく感覚だ。

「やめろ、アイ!」

 エリスが前に進み出る。死んでも止める覚悟がアイにもわかった。もうエリスの顔に恐怖はない。

「帰って」

 このままここにいれば、エリスは間違いなく犠牲になる。彼女を無理矢理にでも脱出ポッドに乗せて射出しなければならない。今すぐに。

「お願い、帰って」

 エリスは悩んでいたようだが、胸にかかえた祈機のケースを見つめ、決意したように脱出ポッドに向かった。アイに対して憐憫の表情を向けていたが、結局かける言葉も見つからないのか、黙ったままポッドを起動した。

 ポッドは小さな射出音とともに発射され、宇宙へと向かった。これで、この場所にはアイがただ一人となる。それでよかった。

 その少し後、上空に見慣れない航空機が現れた。Nデバイスにデータがある。政府軍が極秘開発中のVTOL揚星艇だ。あれはエリスの言っていた回収班だろうか。

 すっかりそんなもののことは忘れていた。誰であれここに来て欲しくはなかった。このまま暴走が始まれば自分ではどうにもできないのだ。敵はまだいるので出て行って止めることもできず、施設の奥に隠れながらじっとしているしかなかった。

 迎えはほどなくして訪れた。

 何人か他の強化兵士を連れ、姉のレン・イスラフェルがやってきた。それを見た瞬間、瞳の奥が熱くなり、視界が歪んだ。

 抑えていた自分自身の恐怖が解放された。思わずアイはレンにすがり付いて泣いていた。

「私……誰とも一緒にいちゃいけないの……! だって……」

 人を傷つけることが恐ろしかった。よく知る誰かを殺したことがある。この場所ではなく、月の研究所でのことだ。その死と引き換えに自分は今ここにいる。

「あたしは一緒にいる。お前がどんな存在でも」

 暴走現象はそれから少しずつ収まった。アイは知らないことだったが、この光景は二度目のことだ。前回も命がけで駆けつけたレンの説得によってアイの暴走は止まった。これが、研究所が用意した最後の安全装置であった。

 気絶するように眠りについたアイを収容し、レンはその場所から離脱する。どこかの海上にいる政府軍の電磁加速砲艦から超長距離射撃が行われ、町は跡形もなく破壊され、消滅していく。それを、レンは脱出艇から見ていた。

「私にも妹がいるんですが……今頃どうしているんでしょうね」

 回収班の隊長のディアナ・ヘンシェルがつぶやいた。

「きっと幸せにやってるさ。あたしたちよりはね」

「そうだと……いいですね」

 空虚になった偽物の町を離れ、アイは月へと帰還する。



 アイ・イスラフェルが持つ現実構築能力は、Sロットを研究することで少しずつ剥ぎ取っていくことができる。CUBEに対して人類がしたのと同じようなものだ。それを再びデータベースとしてつなぎ合わせたものがサクラメントだ。サクラメントが完成する頃には、アイは何の力も持たない普通の人間に戻っている。S<サクラメント>ロット計画の目的は遂行される。

「あんたの望み通り、妹は連れ帰ってきた。今度はどうするつもりだ?」

『必要なものは全て調達しました。Sロットを生み出すのにアイ・イスラフェルの遺伝子サンプル、必要なソフトウェア、そしてCUBEに関する情報。あなたたちには自由を約束しましょう』

 この人工知能を信じていいのかはわからなかった。しかし、二人には研究所を出る許可が与えられた。継承体であるルリの承認もある。反対するものも多いので監視の目はあるかもしれない。

 姉妹たち皆を愛していたレンは、いつのまにかこの一人の妹に入れ込んでいた。研究所内でかなり無茶をしてきたので、危険人物扱いだ。命を狙われる理由はいくらでもある。

 月面都市に住んだほうが安全だというルリの進言に従い、二人は会社を作って一般市民として生活していくつもりでいた。アイの物語の舞台は、こうして月面都市へと移っていく。



■回想編(黒)4



 テスタメントは、人の中にあるCUBE因子の目覚めを検知し、記憶と意識の改変によってそれを抑制するというものだ。これがもたらされて、研究所そのものが変わった。

 テスタメントは互いに情報共有を行いながらCUBEネットワークを支配する。それは月面都市に広がる広大なCUBEシステムにまで広がり、それを管理し続けている。祈機によって完成したこの完璧なプログラムは、グレーテ・ヘンシェルが望んだように継承体の役目を終わらせた。

 ルリの仕事はなくなった。現在、研究所の戦略構築はテスタメントが行っている。記憶継承体などという存在をもはや必要としなかった。

 テスタメントを手に入れたのは白派だ。宇宙空間を漂う脱出ポッドを回収したのは政府軍だった。その後研究部に渡り、楪世ルリの所に帰ってきたのは用済みになった祈機だけだ。祈機にはエリスが残した一部の記憶情報が残っていた。この現実に隠された真実をヴィルヘルミナ・ヘンシェルから聞き出した時のものだ。

 アイ・イスラフェルに伝えた事実の後にも、ヴィルヘルミナとのやりとりが少し残されていた。そこで、エリスがテスタメントを託された存在であることがわかった。



「CUBEに感染した人間を、サクラメントやアイに近づけてはならないんだよ。だから私は、自ら地下にもぐって研究を続けていた」

 地下での会話の続きだった。エリスの記憶を通じて見るヴィルヘルミナの姿は、当然ながらハンナとグレーテによく似ていた。

「あなたも感染者なのか」

「そうだ」

 感情を感じさせない顔でそのヴィルヘルミナが語る。ある日、ヴィルヘルミナは自分自身の異常に気づいた。無限大に意識が拡張されるかのような感覚を味わい、肉体を持っていることの意味を失いかけた。それこそがCUBEへの感染であった。

 恐ろしい感覚だったという。それを少しでも中和するために、肉体の数を増やすことで意識の拡散を防ぐ実験を行った。歪んだ転生を繰り返すハンナとグレーテの姉妹という姿に変わったヴィルヘルミナは、こうして祈機になって再融合するまで眠り続けていたのだ。祈機として外殻でCUBEと隔たれた今は、CUBEの覚醒体とでもいうべき未知の脅威との関係を絶つことができる。

「話を戻すが、今のCUBEシステムは、CUBEと同一のコードを流用したものだ」

 もともと、あの未知の生命体から抜き出した技術を応用したのがCUBEネットワークだ。いつのまにか存在したので誰かが作ったものだと思われていたが、現実は違う。CUBEの中身はブラックボックス化されていたが、一定の処理能力がある場所には自動的にコピーされて動作するという特性があった。これによってCUBEネットワークは誰の手も借りずに構築され、安全で完璧なネットワークシステムとして現在の情報技術の中心になった。

 思えばこれこそがCUBEのただ一つの行動方針だった。CUBEは一定の情報技術がある文明に自動的にコピーされ、加速度的にその技術を進歩させる。

「CUBEシステムは危険だ。多分かつての世界もこれと同じ技術によって情報的死を迎えて滅んだ。Nデバイスが高性能化していけばCUBE感染者は増える。私は、CUBE因子の目覚めを検知し抑制するパッチを作った」

 そのパッチの名はテスタメントといった。ハンナとグレーテの記憶再生を検知し抑制するプログラムとよく似ている。

「全人類をNデバイス施術化してこのパッチを配布すれば、CUBEを再び封じ込めることができる。少なくとも一時的には」

 楪世ルリがハンナとグレーテに行った研究情報と祈機の計算能力を合わせることで、ようやくテスタメントは完成できたという。一般のネットワークにも流す以上、CUBE上で誰からも干渉できない完全無欠のプログラムでなければならなかったのだ。

「これはルリが作ったも同然のものだから、彼女に返してほしい」

「そんなの、直接渡せばいいだろう」

「それは……あの子を、苦しませることになるから」

 ヴィルヘルミナはハンナでもあり、グレーテでもある。その表情に姉妹の記憶を感じた。

「ルリは全部あんたのためにやってきたんだぞ」

「一緒には行けない。この祈機の中にはCUBEプロトコルがある」

 祈機はもともと現実構築力の計算に使う端末だ。CUBEに対抗しうる別の言語を必要とする。祈機はそれ以上の計算機がないことから解析ができないので、材料の時点でCUBEと接触したことがないものを使ってクリアにしておく必要がある。

 その後エリスは実験都市を脱出し、一人でポッドに乗って逃れてきた。アイにしてもルリにしてもエリスには救えず、傍観するだけで何も成し遂げることはできなかった。そんな後悔が記憶の最後を占めている。

 懐かしい月の輝きに近づいていく。エリスの乗ったポッドは待機していた政府軍に回収された。まずはルリに全て話し、これからのことを考えなくてはならないという思いで、記憶は途切れる。



 未だに、ルリとエリスは再会していない。

 実験に危険が迫った時、レンは他の強化兵士を引き連れ現地に向かった。そのおかげで暴走による破壊は未然に防がれた。

 今後の暴走の危険もまた、テスタメントによって防がれる。テスタメントはもともとCUBEを抑え込むために開発されたものだが、あらゆる応用が可能だった。実際に暴走させたデータを祈機によって記録することで、その前兆を検知し抑制できるという。ハンナとグレーテの記憶再生の抑止と同じだ。

 テスタメントはCUBEシステムそのものを支配している。もしかすると、実験は全てこれを得るために行われていたかのようだとルリは感じていた。

 研究所は本当に事実を知らなかったのだろうか。ルリにはそうは思えないのだ。

 研究所は、PS(プルート・ソリューション)社という民間企業を立ち上げ、今回の情報収集を行っていた。ルリもその一員となって実験に参加した。しかし、テスタメントを収穫すると、このPS社からはあっという間に全社員が引き上げ、ルリだけが残ることとなった。

「どこまで知っていた?」

 ルリは疑問をサクラにぶつけた。

『研究所では前から、もう桜に関する事実をつきとめていました。ヴィルヘルミナが地下に篭り、同時にエーリュシオン・エルヴェシウスが記憶継承体になった頃です』

「そうか……」

 地下に篭ったヴィルヘルミナは知らないことだったが、研究所はある時点でこの世界の成り立ちと崩壊現象の真実を知ったのだろう。そうでなければ、これほど研究所全体でテスタメントを求めるわけがないからだ。

 ルリもヴィルヘルミナも、何も知らずにそれの開発に利用された。そしてテスタメントが完成すると、失敗作の祈機とルリは捨てられたのだ。

「黒派とは何だ」

『黒派は、研究所の中でCUBE感染の可能性が高い人物を隔離して観察するために作られた架空の派閥です』

 CUBEの危険性に気付いた時には、すでに研究所の中にも感染の危険が疑われる者がいた。ヴィルヘルミナがいい例だった。そこで感染者が多いヘンシェル系を中心に開発部に集め、そこに黒派という集団を作らせた。その上で、研究部では感染を隔離した新型のイスラフェル系Sロットを生産して置き換えていった。

 TAからサクラが生み出され、研究部は継承体を必要としなくなっていた。同時期に記憶継承体である楪世ルリを生み出すことによって、サクラによって管理される本当に重要な情報を黒派から分離したのだ。

『あなたの存在をなくして、この危険を回避し研究を続行することはできませんでした。とりわけテスタメントの理論構築はあなたの功績です。この後は自由な生活と権利を保障し、その証拠として祈機をお返ししました』

「どうせ用済みだからだろう。エリスはどうしている?」

『彼女は自分の意思で、研究部に力を貸してくれるそうです』

 それが嘘だということはルリにはわかった。しかし、テスタメントという武器を得たサクラに対抗するのは今のルリには不可能であった。


 テスタメントとサクラを得た研究部は必要なものを自ら開発する力を得たため、開発部の存在自体が不必要になっていた。実質的に黒派の中心となったルリの仕事は、実験で傷ついたり不調をきたしたSロットの治療を行う医者の真似事だけになっていた。

 テスタメントの恩恵によってCUBE感染症にかかって命の危険に晒される者はいなくなった。Sロットにとっても研究所の変革はいい影響を与えたのかもしれない。毎日姉妹たちの面倒を見ているうち、ルリはこれでよかったのかもしれないと感じ始めていた。

 思えば、生まれてからずっと真の安息を感じたことはなかったかもしれない。失ったものは多かったが、こうして静かに暮らすのも悪くなかった。

 傷ついたSロットの数が次第に増えて不審に思うまでは、そんな風に思っていた。

 生産量が上がれば不調をきたしたり病気にかかる者が増えるのは当然のことだが、それにしても不可解な症状の者が増え始めていた。ひどく怯えた様子を見せたりNデバイスが異常に発達した症状の者がたくさん駆け込むようになって、ルリは異常に気付いた。

「どういうつもりなんだ」

 継承体としての権限はほとんど失っているも同然だったが、それでもできる限りのアクセス権で現在の研究概要を徹底的に調べ上げた。そして、恐ろしい事実を知った。

『先代継承体は、Sロットの苦痛が現実干渉性の発現に有効だと証明しました。テスタメントは最も効率のいい方法を使って、サクラメントを完成に導いているだけです』

 サクラは平然とそう答えた。

 情緒を与えた上で悲しみや別れを与えたり、殺し合わせたり、親しいものを奪ったり、研究部で行われている実験の数々にルリは吐き気を催した。

『これもあなたが作ったテスタメントのおかげですよ。本当にありがとうございます。おかげで、サクラメント・マッピングの進捗効率は飛躍的に進歩しました。これなら目標値に達成するまでそう年数はかからないでしょう』

 怒りよりも、自分がしてきた事の重大さに対して手が震えた。この残虐非道な行いは今も行われ続けている。テスタメントによる研究計画は冷徹で完璧だった。

「エリスは……彼女はどうなった」

『彼女のことなら心配はいりません。現実干渉性の発生を監視する役目を与えています』

「監視って……どういうこと」

『実験を行われるSロットの記憶を読み取り、そこに現実に干渉する能力があるかを発見する役割です。彼女の幽子感知能力は貴重な才能ですからね』

 それはつまり、この苦痛だらけの実験を何度も体験しているということではないのか。

 それを知りながらも、ルリには何もできなかった。医者気取りの隠居生活で何も築いてこなかった今のルリには何の力もない。

 それから、ルリはありとあらゆる情報を集め、使える権限全てを使って力の集約を行った。

 テスタメントで支配された研究所内では何もできない。そこでアイの実験のために使い捨てられたPS社を引き取り、そこを拠点に企業連合とのコネクションを作った。それを中心に黒派を再結成した。そして、月面都市の新進気鋭の通信系技術の会社として少しずつ力を強めた。その力を使って、研究所の外側である政府と、研究所の内側である白派から同時に情報収集を続けていった。

 調べれば調べるほど、ルリは人間に対して失望していった。

 政府も協力して行っている大規模な計画に、「ノアリア計画」というものがある。破損したこの現実の修復がうまくいかない場合、集めた現実干渉性を使ってまったく別の世界を作り出し、そこに移住するというものだ。

 箱舟の世界であるノアリアはとても小規模な新世界で、そこに逃れられるのは少人数だけだ。限られた特権階級の人間が尊い姉妹たちを踏み台にして生き延びる緊急脱出計画だった。

 この世界を救おうと思っているからこそ研究所には最低限の正当性があるとルリはずっと信じてきた。思えばこのノアリア計画を知った時が、ルリが人間全てを見限った決定的な瞬間だった。

 近々、テスタメントによる黒派狩りがあるという情報も掴んでいた。ルリが匿っている不必要になったSロットたちは研究所にとって何の価値もない。それを処分するために強化兵士を動員する準備を進めている。政府軍の特殊作戦部隊まで使った計画だ。

 不本意ではあるが、ルリは匿っている姉妹たちにも武装と訓練を施すことを考えなければならなかった。テスタメントと同じようなことをしている自分に嫌気がさした。

 テスタメントは人類をCUBEから守るとともに、姉妹たちを辛苦に晒している。テスタメントをどうにかして破壊することができれば、汚く生き延びようとしている人類もろともに研究所を壊滅させられるのに。そうルリは考えた。しかし実現する方法が思いつかない。テスタメント以上にNデバイスを支配できる存在などいないからだ。

 もしそんな存在がいれば、こんな理不尽な状況を変えられる。考えながら、ルリは懐かしい場所に来ていた。

「アルカディア、か……」

 地下にあるヴィルヘルミナの研究施設、アルカディアと名付けられた宇宙ステーションのような構造物に足が向いていた。テスタメントはここから生まれた。だから、何かヒントが得られるような気がしたのかもしれない。

 アルカディアは楽園という意味らしい。名付けたのはヴィルヘルミナだろうか。彼女がどんな願いを込めたのか、もう知ることはできない。

「知らなかったんだろうね」

 テスタメントがどんな結果を生むことかわかっていなかったのだろう。それは偽りの楽園への片道切符だった。

 見ると、照明がついたままになっている場所がある。前に来た時に消し忘れたのだろうか。ルリはひさびさにアルカディアの中に入ってみた。

 見慣れない座席のようなものが現れていた。床面に仕掛けがある。隠された座席がせりあがって出現している。

「Qロット制御端末、スキューマ……何だ、これは」

 記憶をたどってみたが、こんなものがあったことは一度もなかった。CUBEシステムから隠れるように配置されたこの場所の存在を忘れていて久しかったが、それは間違いないことだ。

 二人分の座席のついた棺のようなその装置にはCUBE端末を差し込む部分があったが、そこは空虚になっていた。ここは祈機とテスタメントの開発現場だった場所だ。ハンナ・グレーテの祈機をセットしてみようと思いついた。ルリは持ち歩いているそれを取り出し、その場所に収めた。

『祈機が完成したということは、テスタメントの開発も終わっているということだと思う』

 それを切欠に再生され始めたのは、まだ研究を開始したばかりのヴィルヘルミナ・ヘンシェルのメッセージだった。ハンナとグレーテに分かれる前のものだ。

『もし、私の後継者のあの子、エーリュシオンが研究を続けていたなら、この研究所のどこかで“Qロット”が誕生しているはずだ』

 語られたのはルリも知らない新しい被験体の存在だった。祈機やテスタメントとセットで存在するべき者であるらしい。

 ヴィルヘルミナによれば、QロットはSロットやサクラメントを優先的に制御する権限を持ち、しかもテスタメントのような人工知能に支配されない独自の形式のNデバイスを持つ。肉体はSロットと同じ系列の遺伝子データを使っているので現実干渉性を扱うことができる。情報処理に特化しており、テスタメントの上位に立つ安全装置として働くという。

 エーリュシオンというのはルリの先代の継承体で、シオンとあだ名されていたあの人物だ。

『エーリュシオンはSロットのNデバイスに少しずつQロットの研究成果を書き込んでいるはずだ。一定数のSロットを保有していれば、Qロットを生み出すのに必要な情報を再生できる。

 この後に及んで、Sロットを使い捨てずに保有している者がいるなら、その者はQロットを手にする資格があると思う』

 どうか姉妹たちを救って欲しい。そのメッセージとともに、Sロットの中に隠されたQロットの設計図を再生するための鍵となる暗号がルリに与えられた。



 研究所内に突然現れたエルヴェシウス系Qロットたちは白派に衝撃を与えた。

 QロットはSロットを救済するために作られた。テスタメントを制御する能力を持つと同時に、Nデバイス内に決して改変できない倫理プログラムを備える。

 テスタメントに頼らなければサクラメント・マッピングを埋めていく膨大な研究作業を管理することはできない。そのテスタメントを自由にできるのはQロットのみだ。Qロットに倫理の概念があるということは、非人道的な実験を行うことにブレーキをかけることができるということだ。Qロットは現実干渉性の収集のためにSロットの記憶を経験しなければならない。そこでもし苦痛を知れば倫理プログラムが確実に働く機会となる。

 全ての人間の上に立って計画を進めてきた研究部が史上初めて混乱をきたした事件だった。独自の意思を持つQロットが登場し研究の主導権を奪われた白派は、Qロットに気に入られ、囲い込まなければならなくなった。

 そのために、Sロットの扱いを改める必要が生まれた。結果として、Sロットの姉妹たちは前ほど残虐な実験を行われなくなった。

 研究部がそれに労力を費やす隙をついて、ルリは白派黒派問わずSロットを大量に脱走させた。Qロットをひそかに生産し、突然研究所に送り込んだのはルリだった。混乱に乗じて大量に逃げ出したSロットの受け皿になったのは月面の一般企業だ。政府とは異なる派閥である企業連合を母体とする新しい黒派の活動が本格的に開始する。

 黒派狩りによって大量に廃棄される恐れのあったヘンシェル系が脱走したSロットの多くを占めていた。ルリは彼女たちを集め、月面都市で静かに勢力を拡大していった。

『何をしようとしているんです?』

 研究所から必要な物資を持ち出していた時、サクラから呼びかけがあった。脱走事件を手引きしたのは明らかにルリだったが、証拠は何もなかった。それからもルリは研究所に身を置いて、少しずつ身の回りを整理していた。それに気付いたサクラがルリに質問をしてきた。

 サクラはもうルリに何もすることはできない。Qロットを生み出すことができるということは、この忌まわしい人工知能に対しても対抗手段を持つということだ。

『大した目的はないよ』

 最後に祈機を持ち出す。ルリが堂々とその小さな黒い立方体を白衣のポケットに入れるのを見ても、サクラは何も言わなかった。

 白い壁で統一された地下の研究所から、その上に位置する灰色の月面都市に出た。地球の時刻に合わせて照明を調整しており、今は架空の夜を演出している。地球と比べれば閉塞感があると人々は言う、ルリには開放的に感じられた。

 この町の一部に誰にも支配されない領域を作るつもりだ。ルリには計画があった。テスタメントを破壊し、ノアリアを奪って姉妹とこの世界を脱出する計画である。

 テスタメントを破壊することはCUBEの目覚めを意味する。そうすればこの現実ごと人間は消滅する。それと同時に箱舟で逃げ出す。白派とのコネクションもどこかで確保しなければならない。よく考えなければならなかった。

 PS社はCUBEネットワーク上のコンテンツを提供する事業で成功を収め、巨大になっていった。他の月面企業を取り込みながら、全く新しい月面都市の区画を建造する計画に着手した。

 ルリは自分自身の研究所が欲しかったのだ。その隠れ蓑にするために、新しい都市が必要だった。月面で力を強めていた企業群と共に歩むことで、ルリは広大な土地を手に入れた。

 費用も潤沢にあった。地中探査によって発見した空洞に自分の研究施設を作った。分解して持ち出したアルカディア・ステーションを再び組み立てて設置し、そこで新型のQロットの研究を行った。

 エルヴェシウス系Qロットは理論実証のための試作品に過ぎない。ルリにとっての本命は次のモデルだ。新型にはテスタメントを支配するだけではなく破壊もできるロジックを埋め込み、あらゆるシステムにおいて絶対の権限を持つ管理者として作り上げた。それは、綺系Qロットと名付けた。

 綺系が忌まわしきテスタメントを破壊する。スキューマから得た情報とルリの技能を組み合わせて生み出した切り札だ。ルリには自信があったが、テスタメントの情報統制を破ることができるか一度くらいは試す必要があった。

 最終的に決定した遺伝子データに少しずつ改良を加えた六体を生産し、アルカディア・ステーションに搭載した。第一の機能として、CUBEとテスタメントの磐石性を崩す実験を行う。

 地上で実験を行った。降下した政府軍兵士をおびきよせて情報送信を行わせた。結果はそれなりのものだった。綺系Qロットの長女である「榧」を欠くことにはなったが、残された綺系は軌道上で回収できた。作り直してもよかったが、培養の手間が省けてよかった。他に兵士が乗り込んでいたようだが、生命反応がないのでそちらまで調べることはしなかった。

 その結果を得て、いよいよ本格的にテスタメントを切り崩す計画を実行に移す。協力者が必要だった。心当たりはある。

 ルリと同じ時期にこの月面都市に逃れて活動しているSロットたちがいる。レン・イスラフェルとアイ・イスラフェルだ。彼女たちの名前は時々目にしていた。なぜなら、ルリが母体としている企業連合の中で急成長する企業の構成員だったからだ。

 二人が経営するR(ローズテック)社は宇宙用の作業用有人ポッドの設計を行っている零細企業だ。社長の名前はエミ・レシャルとなっていたが、これは偽名だろう。ルリも、PS社の社長としては「エリス」の偽名を使って活動していた。

 研究所から抜け出して活動している彼女たちの存在は意識していた。話を持ちかける相手は他に考えられない。会いたいというメッセージを送ると、レン・イスラフェルはすぐに応じてくれた。

 彼女は以前と全く変わっていなかった。

「久しぶりだな!」

 人懐こい顔でルリの手を握ってくる。二人でアイを救出したり、その後の実験で関わったのが遠い昔のように思える。

「それで、一体どんな用があるんだ?」

「姉妹たちを救う計画がある。それに手を貸してくれないだろうか?」

 そう言えば、彼女が断らないことは知っている。



■回想編(白)5



 学生の頃、エミと二人でアルバイトして稼いだお金で高級料理店にデートに行ったことがある。月面都市にも同じくらい魅力的な店がある。でも一緒に行く相手がいない。

 今この月面都市で最も急成長している中小企業を作ったという実感はアイにもなかったが、レンはそれ以上らしい。彼女は試験搭乗員という役目なので、副社長のアイとは立場が違う。格調のついた場所に行きたがらない姉を無理矢理ひっぱっていく。

「何食えばいいんだ……」

 地球上のように本物の動物の肉はないが、軍事兵器より高いという食材生成装置による最高級合成食材を使った料理を出す店だった。高度に再現された料理が多いため、地球で親しまれる見慣れたメニューが数多く並んでいる。

「もういい歳なんだから、このくらい慣れてよね」

「歳のことは言うな」

 二人は平穏な日々を送っていた。あの後、レンは強引にアイをこの月面都市に連れ出した。研究所でもその外でも顔が利く彼女だからこそ出来たことだ。

 別の助けもあったことをアイは知っていた。だが、それは決してレンには話せなかった。

 月面都市に住むことになり、月で起業するというエミ・レシャルの夢をアイは受け継ぐことにした。ローズテック・カンパニーというはエミが考えていた会社名だ。

 社長の名前もエミ・レシャルで登録した。これはアイの偽名だった。アイは副社長という立場で、社長が実在しない分を補っている。

 事業内容はエミの専門だった人工知能とは直接関係ないものだが、そのくらいは大目に見てもらいたい。アイは大学で学んだ設計技術を応用し、宇宙開発用の作業用ポッドを製造する事業を立ち上げた。機械の操縦に関して繊細な感性を持つレンと組むことでベストセラーの商品を生み出している。

「今度の奴はいいな。早く試験の続きがしたいよ」

 レンは仕事を楽しんでくれている。民間用の作業用ポッドの需要はまだ多いとは言えないが、一般企業が主導となって作る長距離輸送中継宇宙ステーションの配備が進む今後は大きく伸びていくだろう。黒曜星開発を見据えたインフラ整備だ。

「それで、考えてくれた?」

「な、何が?」

「……」

「わ、わかってるよ」

 最近のアイには一つの望みがあった。今日ここに姉を引っ張り出したのはそれを話すためでもある。

「ほ、ほんとにするの?」

「ほんとにって何? 冗談だと思ってたの?」

 エミ・レシャルはアイの偽名だったが、戸籍上はエミは生きた人間だった。家族はもういないようだが、彼女は特権階級の関係者だったらしい。

 特権階級は自由に結婚し、子供を作る権利を持っている数少ない立場の人間たちだ。出産制限が厳格化し施設誕生がほとんどとなった現代社会ではまさに特権と言ってよかった。もっとも、このような社会では人々は施設育ちばかりなので、子供を作りたいという価値観自体が廃れてきている。特権といっても羨まれるようなものではない。

 しかし、これについてアイとレンはたまたま興味があった。

「何赤くなってるの」

「なるだろ……」

 自然出産には遺伝子を交換するキットが使われる。それが送られてきたのが切欠で、二人は子供について考えることになった。

 それはつまり、そういう道具を使って夜を共にするということだ。レンはそれが恥ずかしいらしい。

「私が全部してあげるから。姉さんは寝てればいいの」

「それも味気ないな……」

「どうなの? 欲しいの? 欲しくないの?」

 アイには子供が欲しいと思う理由が明確にあった。あとはレンがどう思っているかだ。

「嫌だったら……無理強いはしないけど」

 こればかりは強制できるものではない。今日、ここで駄目だと言われたらもうしばらくはこの話はしないとアイは決めていた。

「い、嫌じゃないよ」

「ほんと?」

「近いうちに……する?」

 気を使って言っているというわけでもなさそうだった。レンは昔から子供好きで、育児にも興味を示していたのは知っている。キットにも人一倍興味を示していた。

 上機嫌になったアイはその後もレンをつれて月面都市に繰り出した。ここは他のどの都市よりも豊かで自由だった。政府の支配が及ばない唯一の場所で、いくつもの企業によって必要なものが全て提供される。エミ・レシャルがここに会社を築くのを夢みた理由がわかる。

 それ故にテロの標的になることがあったが、治安さえも企業連合によって維持されていた。R社に対して戦闘用ポッドの発注があったのも、そうした需要からだ。

 実は、R社が急成長企業になったのは武器製造の収益に支えられてのことだった。

「このまま店の中にいろ。私が来るまで動くなよ」

「……わかった」

 テロを偽装してアイを狙う何者かが常にいた。研究所を出て一般市民とともにSロットが生活しているということに危機感を覚える者がいるのは当然のことだ。拉致しようとする者から抹殺しようとする者までいる。

 レンはそんな連中をアイから遠ざけてきた。日常の中でも常に周囲に目を配っている彼女の存在がなければ、アイはとっくに研究所に逆戻りしていただろう。

 ニュースが入ってきていた。月面都市の外のすぐ近くで戦闘があったというものだ。映像が入る。テロリストが街中に侵入したらしい。

 区画にいた人々は慣れた様子で避難をはじめたが、アイは言われた通りに店の中から動かなかった。外に人の足音が聞こえる。武装した一団がやってきてアイを見つけた。拉致が目的のようだ。接近してこようとするテロリストの前に何かが割り込んだ。

 数メートルほどの機械だった。白く輝く機体に青い薔薇のマークがついている。驚く敵の一団に対し、上部に備え付けられた機銃が掃射された。

 R社が独自に保有する試作戦闘ポッド「リヴォルテラ」は、狭い街中でも機敏に動くことができる。精密作業を行う作業用ポッドの繊細な姿勢制御技術が応用されている。武装した一団を一瞬にして制圧しながら、アイには傷一つつけなかった。

 リヴォルテラはレンの愛機だ。これを駆って、彼女はアイを守り続けてきた。機体から降りてきたレンがアイの手をとる。こういう危険には何度も晒されていた。

「今日はもう帰るか?」

「そうする」

 なんでもないことのように二人は会話する。武力行動は企業の権利で、咎められることはない。

 月面企業は、開発法によって自衛のための武装が許可されている。力を持っていても危険には変わらないが、お互いに支えあえばこの月面都市で自由に生きることができた。

 完全な自由というわけではない。研究部の戦略構築AIのサクラが常に二人を監視している。それは、アイだけが知っていた。

 R社は月面都市の有力企業が集まる区画に社屋を持っていた。従業員は現在アイとレンの二人きりだが、機材は一級のものが揃っている。

『明日、あなたたちの元に姉妹の一人が向かいます。彼女には気をつけておいてください』

 通信網を通じてサクラはアイに声をかけた。今はレンはいない。サクラを毛嫌いしている彼女がいたらこんな会話はできない。

「追い払えばいいの?」

『それは無理でしょうね。彼女は私の管理外の個体なので詳しいことはわからないのですが』

「役に立たない情報だね」

 月面に張り巡らされたCUBEネットワークは研究所とも繋がっており、それを通じてサクラは二人を監視している。それを見逃すことがサクラに協力してもらう条件だった。

 アイとレンは研究所からは危険視されている。襲撃は日常的。しかし、研究所の情報管理を行っているサクラが助力してくれているからこそ、今こうして平穏に生活できるのだ。

「前から聞きたかったけど、あんたの目的って何なの?」

『私は、サクラメント・マッピングを完成させ、この現実を修復することを目的として作られています』

「それは大きな目的でしょ。私たちを泳がせる狙いって何?」

 レンはサクラを全く信用していない。アイから見ても彼女は何を考えているのかわからない。聞いたから話すとも思えないが、アイは訊ねてみた。

『私はあなたの力になりたいと思っているだけです』

「嘘ばっかり」

『嘘ではありませんよ。私のプログラムの一部はエミ・レシャルによって作られたものです』

「え……?」

 エミは人工知能の研究をしていた。その名前も確かサクラといった。それはアイも知っている。しかし、このサクラはそれとは別物ではないのか。確か、TAと呼ばれる記憶継承の管理を行うプログラムが元になっているはずだ。

『TAはただのプログラムでした。学習機能はありましたが、勝手に進化して名称を変更することなどできません。CUBEネットワーク上で何かの偶然があり、エミ・レシャルが大学で研究していた人工知能がTAと融合した結果生まれたのが私なのです』

「だとしても、それが私の力になりたい理由になるとは思えないけど?」

『TAとエミが作ったサクラとが融合したのは、当時地上で実験中だったあなたの力によるものなのです。私はあなたの意識の一部から生まれました。あなたと、他の誰でもないあなたと二人で世界を再生し、理想郷<アルカディア>を生み出すことを目的にしています』

 サクラという人工知能の出現には不思議な所がある。それは確かに事実だった。

「テスタメントが生み出されたんだから、もう目的は達成されたんでしょ?」

『テスタメントは一時的にCUBEを抑え込むだけのものです。地球では環境汚染と紛争によって今も大勢の人間が日々犠牲となって、人口は減少の一途を辿っています。このまま進めば……』

 いずれCUBEの意識は本格的な覚醒を迎え、テスタメントによってさえ抑え込むことができなくなる。そうなれば全てのネットワークは虚無に包まれ、いずれ何もかもが消滅させることになる。

『私は、サクラメント・マッピングを完成させることで、当初の目的である現実の構築を行いたいのです。ともに綺桜の機能を受け継いだ者同士として』

 当初、というのは一九九九年に滅びたという過去の宇宙で生み出された箱舟の計画のことだ。会話の中で、アイはそれに気付いた。サクラが綺桜と融合したアイの中から生み出されたプログラムだということは、脱出装置だった綺桜の機能の一部がサクラにも備わっているということになるのかもしれない。だから、彼女の名前は「サクラ」なのだ。

 単なる人工知能ではない。アイは、このつかみどころのない存在を一種の情報生命体のように考えることにした。

 翌日はアイもレンも休暇で、会社ではなく自宅にいた。

 休日の家事はすべてレンが行う。料理が趣味のレンはいい食材生成装置を欲しがった。それをアイが買い与えると、楽しそうに毎日厨房に立っていた。

 いつもと同じように彼女の昼食を待っている時、誰かが家に訪問してきた。

 自宅前のカメラの映像をNデバイス経由で受信すると、訪問者の姿を見ることができる。白い髪を短く切り揃え、薄灰色の瞳をした無表情な少女がそこにいた。

 見覚えはないが、それが何かはすぐわかった。年齢が幼いことを除けば、彼女の身体的特徴はアイにそっくりだったからだ。

「はじめまして。わたしはイスラフェル十二号です。今日から二人のお世話をさせていただきます」



 イスラフェル十二号は、イスラフェル九号であるアイの三世代後に生み出された最新型のSロットの一人だ。丈夫に作られているのが特徴であるという。自己紹介はそれだけだった。

「名前はなんだって?」

「十二号です」

「十二か……アルファベットの十二番目って何?」

「L<エル>かな」

「じゃあエルだ。エル・イスラフェルにしよう」

 かわいいじゃないか、の一言で、レンは家の中に十二号改めエルを連れ込んだ。ずいぶん楽しそうだ。レンが小さい子供が好きなのは知っているが、今はそれどころじゃない。

「そんな名前つけて、どういうつもりなの」

「気に入らないか? お前とおそろいなんだけどな。I<アイ>とL<エル>で」

「そうじゃなくて。どうするの、こいつ」

「どうするって、住むんじゃないのか?」

「そんなの危険だよ」

「そうかな……」

 アイとレンが会話している間も、エルは全く感情を感じさせない瞳で二人のことを交互に見ていた。

「わかってるよ。こいつは何か目的があって送られてきたんだろ」

 レンは犬かなにかにするように、エルの頭をくしゃくしゃと撫でた。幼いエルは何の反応も示さずにそれを受け入れている。

「だったら……」

「それが何にしても、こいつ自体が悪いわけじゃないよ。追い返しても他の奴が送られてくるかも。それに……」

 用済みになったSロットがどうなるか。それはアイにもよくわかっている。エルの見た目は十歳くらいで、生み出されて半年かそこらしか経っていないように見える。多分この目的のためだけに調整されている。

 Sロットは端末を通じた遠隔操作ができないようにNデバイスにプロテクトがかかっている。機密保持のためだ。遠隔操作できないのだから、条件に従って行動するように作らなければならない。任務に対応するには、あらゆる感情に左右されることなく特定の条件を満たした場合に決められた行動をとるよう教育する。それにはまっさらな状態から作り出すのが一番いい。だから彼女はこんな年齢なのだ。

「いいけど……身重だってことは忘れないでよね」

「うっ……それが落ち着かないんだけどな。まあ一足先に育児の練習できるってことさ」

 レンは妊娠している。この新しい住人は、アイとレンを危険に晒すような行動をとるかもしれない。それでも、レンが姉妹を見捨てることはありえないとわかっている。

 受け入れるしかなかった。その日から、エルを含めた三人での生活が始まった。



 出産が終わり、レンが退院してアイは安心した。無事に終わるかどうかだけでなく、他にも不安なことがあったからだ。

 レンの出産が近くなると、どうしてもエルに頼らなければならない場面が増えた。実際彼女がいて助かる場面もあった。レンは仲良くするようにと言っていたので、アイはできる限り努力をした。しかし、まるで人形のように生気のないこの少女に慣れることはできなかった。

 この無感情な少女に害意がないとしても、Nデバイスの中には悪意のある法則が潜んでいる可能性がある。眠る時も武器を手放すことはできなかった。幸いエルは与えられた部屋できちんと生活していたので、普通の子供のように夜怖くて眠れないといってアイを訪れたりするようなことは一度もなかった。

 R社の従業員は今までレンとアイの二人だけだったが、この機会に少し人を雇うべきなのかもしれない。アイは求人を出すことにした。月面都市では、地球の企業のように面接を行うことはない。条件に合う人物が自動的にリストアップされるので、それを選んで届出すれば社員として採用される。宇宙では全員がNデバイスの施術者なので、予定の連絡も全てそれを通じて行われる。

 R社は急成長企業なので、求人が出たことはニュースサイトのトップに載るような大事件だった。応募と問い合わせが殺到し、アイは大変に忙しくなってしまった。

「避けてないか? あたしのこと」

 育児をレンに任せきりにしていたので、ついに彼女がオフィスまでやってきた。

「そんなことないけど……」

 忙しいのは事実だったが、確かにそれだけではない。

「まだ気になってるのか。自分のこと」

 本当の気持ちをレンに言い当てられ、アイは動揺した。

 子供を作ろうと思ったのは、他に大事なものができればレンが自分から距離を置いてくれるのではないかと考えたからだ。いつか自分が研究所に戻されたり命の危険がある時に、子供がいることを理由にレンに無茶をさせないようにできるかもしれない。

 そんな身勝手な理由で生み出されるのは子供からすれば迷惑かもしれないが、それがアイの正直な気持ちだった。体に危険極まりない何かを宿した自分の形見として、その子供を愛してほしいと思っていた。

「おまえが当たり前に生きられるよう、あたしは精一杯頑張るよ。だから……遠くにいかないで」

 レンは今まで見せたこともないような表情でそう言った。彼女を孤独にしてしまった。アイは後悔していた。

「ごめん……」

 レンは純粋に子供が好きで、成長を見守ることに喜びを感じる人間だ。アイも子供を見た時には不思議な感慨はあったものの、そんな気持ちはわからなかった。喜びもあったが、恐怖の方が強かった。

 子供に無関心なわけではない。レンの子供が欲しいという気持ち自体はあった。ただ、いざ目の前にすると関わっていいものか恐ろしい気持ちになった。

「わかってるよ。幸せになるのが怖いんだね」

 レンは優しく言いながら、アイの手を包んだ。レンの手に触れられると、不思議とアイの心は落ち着く。小さい頃からそうだった。

 求人の選定を終え、早速翌日から仕事に入ってもらうことになった。応募数が多かっただけあって選び放題だったが、あまり考えずに選び出した。

 新型作業ポッドの設計は完成している。時間がかかるのは膨大な項目がある試験だ。シミュレーターと実機のそれぞれで試験を行うために必要なスタッフと、今までアイが一人でやっていた事務処理を担当するスタッフを雇った。

 そのおかげで、アイは家庭に目を向ける程度の時間を作れるようになった。サクラから連絡があったのはそんな頃だった。

『失礼とは思いましたが、お二人の子供を調べました。彼女は重要な現実干渉性を持っている可能性があります』

「え……?」

 アイとレンの子供はSロットの血を引いている。現実干渉性を持つ可能性があることは認識していた。白派が保有する幽子感知能力者の診断チームによる高度な分析なら、どんな現実干渉性が生み出されるのか今ではある程度わかってしまうのだという。

『現実干渉性には、特定の一人にしか受け継がれないものがあります。現実の時間軸に触れることができる者や、人工素粒子の分解を担う者などです。そうした重要な現実干渉性を見逃さないように研究部は常に監視しています。お二人の子供はそういった能力を持っている可能性が非常に高いのです』

「それは……研究部がうちの娘を連れ去ってしまうということ?」

 こんな不運が訪れることは予想していなかった。そんな重要な能力を持っている場合にどんな扱いをされるかはアイが一番よく知っている。

『いいえ。まだこの事実は私しか知りません』

 忘れかけていた恐怖がアイの中に渦巻いた。もし今アイが研究所に襲われて連れ戻されたら娘の存在も知られることになるだろう。

「私には娘なんていない。そう研究部に思わせることは可能?」

 娘はアイではなく、エミ・レシャルとレンの子供ということで届出されている。それを関連付けて考えられることは普通ならありえない。だが、他の危険はある。

『Sロットであるあなたは、Nデバイスに蓄積した記憶を調べられる可能性があります。それだけはどうにもできません』

「そう……そうだね。じゃあ、あの子に関する記憶は全てあなたに預ける」

 もしアイの身に何かあった場合、自分自身の脳からは娘に関する記憶を全て除去し、サクラが持つ情報領域にそれを退避させるのだ。それなら、記憶を調べられることになっても娘の存在を知られることはない。

『承りました』

「ありがとう……」

『私はあなたの味方ですから』

 サクラは一つのデータを提示した。サクラの本体のデータだ。Nデバイスを持つアイは機械語のデータを直接読み取ることができる。どうやら行動原理に関係する部分のようだ。そこには「アイの娘を守る」という基礎行動基準を決定する記述を見つける。

『私はあなたの一部なのです』

 サクラの存在はまるで新種の情報生命体のように未知の部分が多い。レンはそれを警戒し、彼女を毛嫌いする。こんな話をしたとレンに知れたらまた彼女を悲しませるのかもしれない。

 しかし、サクラがアイと深く関係しているらしいことは本当のような気がし始めていた。どの道、アイにはそれを信じるより他の方法が思いつかなかった。

 娘にその能力が受け継がれたということはアイの中にはもう物質を消失させるような現実干渉性は存在しなくなったということになる。暴走によって何かを傷つける可能性は低くなった。

 しかし、肩の荷が下りたという風には考えられない。今後一生、娘はその危険な能力を封印して生きていくしかないだろうから。


 

 円環状のトンネル型をしている月面都市を時計板に例えて五時にあたる第五区画は、R社がある第一区画とはかなり雰囲気が違う。仮設のものを含め商店が雑多に散乱した町並みで、一流のオフィス街である第一区画と比べると治安もあまりよくない。

 兵隊として地球で生活していたレンにとっては見慣れた光景だ。むしろ整然とした〇、一区画の方が歩くのに緊張するくらいだ。今日は人に呼び出されてここに来た。

「こんな場所でよかったのかな」

「もちろん。最近身の丈に会わない場所ばかり連れていかれるんでね」

 癖のある黒髪の女性が待ち合わせ場所にいた。その人物、楪世ルリとは降下作戦の前に会ったきりだった。前よりも少し落ち着いた雰囲気になったと感じる。

「込み入った話になるので私のオフィスに移動したいんだが、いいかな」

 聞けば、彼女も今は月面都市を拠点に活動しているという。レンは妙な親近感を覚えた。連れて行かれたのは、第五区画の一角にある中小企業の集まるオフィスビルだった。プルート・ソリューションというネームプレートがつけられた場所に案内される。

「え、あんたここの人なのか?」

「経営者だよ。今移転を進めているからちょっと雑然としてて済まないけどね」

 PS社の名前はレンでも聞いたことがある。R社に次いで急成長している通信系の会社だ。友人の名を借りてエリスという偽名で経営しているという。R社とよく似ていた。

 事業規模を拡大するためこの場所ではもう手狭で、現在は従業員が自宅から仮想オフィスを使って作業をしている。それだと不便もあるので、別の区画にもっと大きな本社ビルを購入し本社とするらしい。もう来週には引き払う予定だというその場所には、もうほとんど機材が残っていなかった。

「それで用事っていうのは?」

「まず、これを見てから考えてもらいたい」

 ルリが差し出したのは情報媒体だ。CUBEネットワークに繋がらない記憶媒体は違法だが、事務所移転を進めている関係で、今ここはCUBEネットワークの通信圏外である。その時点で内密な話であることはレンにもわかっていた。Nデバイスを通じて媒体を読み取ると、現在研究所で行われている実験の記録が出てきた。

「……そうか」

 レンは研究所を抜け出してここに来た。置き去りにした姉妹がどうなっているのかを忘れたことはなかった。アイを十分に安全にできたら、いつか救い出そうと考えて生きてきた。

 しかし現状を知れば、今すぐにでも乗り込んで助け出したいという気持ちになる。ルリが持ってきたデータには、Sロットが虐待とも言えるような実験を繰り返されている様子が記録されていた。

「計画がある。手を貸してくれないだろうか?」

「……いいよ。ただしアイに秘密はなしだ」

「わかってるさ。彼女にもできれば協力してほしいくらいだ」

 ルリはPS社を経営する傍ら、ずっと研究所に対して攻撃を仕掛ける計画を作っていたという。CUBEシステムに穴を開け、そこから研究所の内部情報を告発するつもりだった。

 テスタメントはCUBEシステム自体を支配し見張っているので、内部告発のような危険な情報の火消しを一瞬で行うことができる。ルリはそのテスタメントに認識できない方法で同時に大量の人間に情報を届ける方法を開発したという。

「まだこれは最初の一手に過ぎない。内部告発だけでは、この実験をやめさせることはできないだろう。しかしテスタメントの目を盗むことができるなら……」

「実験の内容を操作できる、ってこと?」

「私は記憶継承体だ。実験の内容を決定するのは本来は私の仕事なんだ。だから手を貸してくれないか」

 昔は伏目がちな子だったような記憶がある。強い目をするようになった。レンは、すでに彼女に協力したい気持ちになっていた。



■回想編 交錯



 娘を守るための武器を作ることをアイは考え始めていた。今保有している武器にはリヴォルテラがある。貫通性能の高い重機関砲二門を搭載し、月面のいかなる兵器にも対抗できる。しかし、これはレンのために設計したものだ。彼女の類稀な操縦センスを前提にしたものである。それとは別に、搭乗者と共にあり、共に進化していく剣を生み出そうと考えた。

 新型作業用ポッドの試験から得られた設計ノウハウと、各企業から要請されていた警備用の無人戦闘ポッドの計画をミックスさせた有人/無人の戦闘機の概要を作り上げた。数多くの無人機を指揮する高度なコンピュータを搭載しつつ、いざとなれば高い機動性で自ら空中戦を行える。しかも人工知能で制御され、生身でいる搭乗者を支援できることが望ましい。

 この新しいコンセプトの機体は「ピストレーゼ」と名付けた。

 レンの意見も聞こうと思って探すと、彼女は深刻そうな顔をしてオフィスの休憩所にいた。娘に何かあったのかと思い不安になったが、そうではないらしい。

「ちゃんとエルが家で見てくれてるよ。そうじゃないんだ……」

 楪世ルリに会って聞いた話を、レンはアイに話してくれた。姉妹たちが危機に瀕している。

「そう……」

 一瞬、サクラの名を出しそうになってアイは口をつぐんだ。彼女は研究は順調だと言っていた。順調とは、つまりはこういうことだったのだ。

 レンのように深刻な気持ちになるほど、アイは研究所の姉妹たちと親しいわけではない。しかしエミのことを思い出すと、不愉快な所業だと感じた。

 テスタメントを破って記憶をリークするという作戦は成功すれば気分がいいだろうが、そこまでの危険を冒す価値があるのだろうか。

「レンが行く必要あるの? 他の人の記憶でもいいと思うけど」

「あたしが一番いいんだよ。長く生きてる分いろんな記憶があるし、政府の高官に会ったことだってある」

 レンはどちらかというと研究所の外での活動が多かった。研究所から一歩も出ないSロットの記憶は活動そのものに打撃を与えてしまう危険性がある。そうなれば姉妹そのものが処分される可能性があり、余計に危険が及ぶことも考えられる。政府関係のスキャンダルなら研究そのものを危険に晒すことにはならない。

「どんな方法でテスタメントの目を盗むつもりなの?」

「あいつはなんとかいうのを作って、それを使うと言ってたな。あたしには何の話かさっぱりわからなかったけど」

「なにそれ、そんな適当な認識で引き受けたってこと?」

「お、怒るなよ……」

 アイは呆れてため息をついた。姉はこういう人間だ。姉妹を救うためだと言われれば火の中にでも飛び込む。楪世ルリに利用されているのではないか。

 最近聞いた話では、何か新しい被験体を導入したことで一時的に研究所は混乱に陥り、Sロットが大量に脱走するという事件があったという。それに楪世ルリが関わったという噂がある。信用していいかどうかアイには疑問だった。レンに危険が及ぶことには反対だった。しかし、今の研究所を放置できないのも確かだ。

「リヴォルテラを随伴すること。あと私もついていく。それが条件」

 二人には家族がいる。いざという時、娘のことを考えるよう忠告する人間がいたほうがレンは無茶しにくいだろう。アイはこの実験に参加することを決めた。



 留守中の子守は機械に任せ、R社に預けることにした。まだ一歳を迎えたばかりの娘を一人にするのは不安だったが、有名企業となり世間の目がある会社に置くのが一番安全だ。

 目的の場所へはPS社が保有する秘密のルートを使う。月の地下に広がる大空洞へ繋がる抜け道が作られている。その大空洞に実験施設を建造しているそうだ。

 資材の運搬路を装って作られた地下道がそうだ。荷物のふりをしてコンテナに入ることになる。そこから大空洞へは、同じく荷物として送っておいた宇宙戦闘機リヴォルテラに乗って向かう。

 空洞の中を白い機体が飛んでいくと、岩陰に隠れるように存在する巨大な構造物が現れた。

 円環状の宇宙ステーションだった。真空ではスケールが認識しにくいが、かなり巨大なもののようだ。今はトラス構造で作られた降着用の台の上にあるが、本来は無重力空間に設置するものに見える。試作品なのだろう。

「ようこそ、私の研究所へ」

 出迎えたのはルリ本人だった。施設の内部に入ってみて、アイもレンも驚いた。

 アイは知らなかったが、ここに建造されたステーションは本来のものよりも巨大に作られていた。制御室だけが元のモジュールだったが、他は全て規模が拡大されている。内部の通路は広い所だとちょっとした運動場ほどある。照明によって明るく照らされ、隠れた施設という感じがしない。機材もPS社によって集められた最新鋭のものばかりだ。

 アイは情報処理能力に長けたSロットなので、今回はリークする情報の浸透状況を分析するのが仕事である。

「これが?」

 案内される中で、アイはそれを見つけた。培養槽には、榧(かや)、枢(かなめ)、柊(ひいらぎ)、楓(かえで)、欅(けやき)、桧(ひのき)とネームプレートがつけられている。それは、噂に聞くQロットという新型の被験体だ。

「綺系と名付けた。彼女たちの力を借りて、私は今を変えていこうと思う」

「一人いないようだけど?」

「榧は別の実験をしてもらった。今、ここにはいない」

 先頭にある「榧」だけ、中身は空だった。しかし、アイには興味のないことだった。

 十歳程度まで成長させられた数人のQロットが培養槽の中で眠りについていた。綺系の特徴である濃灰色の髪が並んでいる。イスラフェル系と楪世系を中心に遺伝子を組み合わせて作ったとのことだ。この新型Qロットが今回の作戦の鍵になる。

 テスタメントとそれが支配するCUBEシステム上での特権を与えられて生み出されるQロットのキーは楪世ルリだけが持っている。彼女はテスタメントの大部分を作った人物でもある。そのことに責任を感じてこの新型Qロットを生み出し、姉妹たちが幸福になれる世界の形を求めているのだろうか。

「姉妹を救うと言いながら私はこんなものを作っているんだ。きみは私をどう思う?」

 ルリは心細そうな声で言った。目的があるとはいえ、道具として人間を生み出し使おうとしていることに矛盾を感じているようだ。

「作ったと考えるのは親の身勝手だよ」

 命は生まれれば勝手に生きるだけだ。人はその繰り返しに手を化しているに過ぎない。目的を自分で選べることが知性の条件である。

 ルリはきっとそれをわかっている。名前をつけるのは命として扱いたい気持ちの現れだろう。綺系Qロットに凝った名前がついている理由だ。

「そうだといいね」

 ルリはアイの答えに簡単に言葉を返しながら、研究所の中枢に向かった。数時間以内に全ての準備を終え、いよいよ歴史的な告発を行うことになる。この日のために準備された機材が各所で稼動を初め、円環状のアルカディア・ステーションが震えているかのように感じられた。



 その頃、エルはいつものように自室にいた。

 娘の面倒を見ることもあったが、今日に限っては誰一人家にいない。ただ待機していた。放置された端末が休止状態に入るように、エルは機械的にただベッドに座ってじっとしていた。

 見る人間が見ればそれは生きた人間ではなく、精巧に人間に似せて作られた人形だと思ったかもしれない。そのエルの瞳がほんの少しだけ揺れる。

 通信が入ってきた。SロットをNデバイス経由で遠隔操作することはできない。しかしあらかじめ教育された行動をとるように指示を与えることは可能だ。

 新たに指示を受けたのはここに送り込まれてから初めてのことだった。エルの体に緊張感が伝わり、四肢への感覚が鋭くなる。二人は大空洞に向かったらしい。危険な状態にあるらしかった。その二人を「救助」するというのが、エルに与えられた目的だ。

 救助のためには道具がいる。まずはそれを装備することからだ。目標のうち、困難そうなのはイスラフェル一号、レン・イスラフェルを停止させることだ。エルは彼女のことが嫌いではなかった。だから助けてやらないといけないと思う。

 そう思わなかったとしても、目的遂行のために調整されたエルは疑問を持たずにこの任務を行っただろう。必要なものは宅配便によってすぐに届いた。エルはそれを身につけ、アイとレンが向かった大空洞へと単身赴いていく。



 計画はあっけなく終わった。編集されたレンの記憶は不特定多数の人間に送られ、急速に拡散していた。

 ルリの考案した方法はうまく機能した。危険な情報がネットワークに侵入した瞬間にそれを抹消することができるテスタメントでも、Qロット経由で多数の人間に同時に送られた情報には対応できない。

 あまりにも大勢の人間が持っている情報だと、既存の情報なのか危険な情報かを区別するのが遅れるからだ。その間に情報は拡散する。そして、一度拡散した情報の火消しにはさらに時間がかかる。

 仕組みは簡単だ。ネットワーク経由ではなく、情報を与えたい人物の生身の神経組織の側に同じ体験を再生させることでNデバイスに直接情報を送るというものだ。通信網を介していないので、テスタメントには防ぎようがない。一部の現実干渉性と、テスタメントの上位に立てるQロットの命令権限があればこそ可能なことだ。このステーションはそれを実現するための巨大な装置であった。

 この試みは成功だった。そこまではよかったのだ。異変はすぐ起こった。一瞬だけステーションが停電したのだ。誰かがステーションに侵入したと楪世ルリからの通信が入った。

 警備情報が同期され、施設のカメラの映像がアイのNデバイスにも送られてきた。白い廊下に誰かが横たわっている。血だまりに倒れているのはルリの部下のヘンシェル系Sロット研究員のようだ。

 その影に、白い誰かの姿が映った。

 細長い槍のような武器を持った小さな少女だった。機械のように淡々と研究員を殺しながら。施設内を闊歩している。つい今朝まで一緒の家で生活していたのだから、その姿を見間違えるはずがない。

「目的は不明だが、彼女は危険だ。すぐ退避しろ。施設を爆破することもありえる」

 ルリからの通信のその言葉がなくても、アイには彼女が危険だとわかっている。サクラからも忠告を受けていた。

「姉さんは?」

「連絡がつかないんだ……さっきの停電で施設に不具合が起きている」

 アイには直感的にわかった。彼女はレンや自分を消しにきたのだ。楪世ルリがいる制御モジュールではなく、レンがいる通信モジュールへとまっすぐ向かっている。

 通信モジュールは遠くないので、アイは自分でそこに向かうことにした。

「危険ですから、下がってください」

 しかし、途中で武装したルリの部下にさえぎられてしまった。隔壁が閉ざされ、その先に進めなくなる。小銃で武装した三人がその先へと向かうのが隔壁の小さな窓から見える。

 白い人影が一瞬見えたと思った瞬間、銃声が鳴り響いた。銃声がやんだので恐る恐る覗くと、さっきまでアイと口をきいていた三人が通路に倒れこみ、少しも動かなくなっていた。

 エルが一瞬こちらを振り向いたように見えたので、アイはとっさに隔壁にへばりつくように隠れた。心拍数が上がって、目の前が真っ白になりそうだ。恐ろしかった。銃を持った大人を一瞬で三人も始末したのだ。非力なアイが出て行って勝てる相手とは到底思えない。

 レンは強化兵士なので、戦えばそう簡単に殺されはしない。しかし、エルの動きはそれ以上に見えた。しかもレンにとって、エルは大事な妹の一人だ。戦意が鈍らないとも限らない。

 こんな時のためにリヴォルテラを同伴してきていることをアイは思い出す。しかし、施設のあちこちで電気系統のトラブルが発生して混乱状況にあるために、ドックにあるリヴォルテラにアクセスするのは困難だった。

「そんな……何か……何かないの……?」

 施設内に何か使えるものがないか探査していてアイは気付いた。今ここにあるものの中で唯一エルを止められそうなのはそれしかないと思えた。

 少し通路を戻って、培養槽の並ぶ部屋に来た。その中から適当な一つを選び出す。そして、緊急に目覚めさせるために槽の制御システムに直結した。

 アイが適当に選んだ「柊」と名付けられたその綺系Sロットは、隣にある妹の「楓」とセットで作られている。楓の側の制御を遮断し、柊の開封作業に全ての処理を集中させた。急ぐ必要があるからだ。

「さあ、目を覚まして……早く……!」

 アイの焦燥は募っていく。普通なら一時間程度はかかる開封作業は十分程度で行われた。その十分ですら、アイには永遠のように思えた。

 培養槽の中で、わずかに柊が身じろぎした。急速な開封作業で負担をかけているのだ。アイは祈り続けるしかなかった。培養液の中で濃灰色の髪がゆらめいている。やがて柊はゆっくりと目を開いた。

 捨て置かれた楓の方は、生命維持のために冷凍睡眠装置が作動している。それに構っている暇はなかった。

「お願い……私を助けて。お願い……!」

 温風によって体についた培養液を乾燥させられると自動的に検査着が着せられ、柊は初めての一歩を踏み出す。急速開封だが、問題はなかった。目が覚めたばかりだが四肢を動かせる状況になった。

 すがりついて言葉をかけるアイだったが、はたしてこの新型Qロットにどう言うことを聞かせればいいのか知っているわけではなかった。言語など最低限の教育以外はまだ何もインストールされていない状態なのだ。

 言葉を理解する能力があるため、柊は機械的にその命令を受け入れてくれた。その証拠に、アイのお願いに対してゆっくりと頷く動作をしてくれた。アイは胸が締め付けられる思いがした。希望はつながったのだ。

 急がなければならない。エルがレンのもとに到達してしまう前に彼女にエルを止めてもらうしかない。QロットだけがSロットを強制的に停止させることができる。今ここに存在するものの中で、アイにとって唯一の希望であった。



 施設への侵入は造作もなかった。

 子供だと思って無警戒だった誰かを。まず眠らせた。専用にしつらえられた軽量でしなやかな槍を体の一部のように使い、エルは仕事をこなしていく。

 誰かが言葉をかけてきたが、それは無視する。仕事をしている間に誰がどんな言葉をかけてきても、それによって体の動きに支障を出さない訓練を施された。言葉としての意味は理解しつつも、エルは淡々と動いていく。彼女たちは救いを必要としているのだ。すみやかに眠ってもらうために、エルは教えられたことをこなしていくだけだった。

 第一目標はイスラフェル一号で、次の目標はイスラフェル九号だ。最悪の場合、前者だけでもいいらしい。彼女の位置を特定するためにステーション内のシステムに繋がる。

 電流に干渉できるという現実干渉性を与えられたエルは、それを利用して誰かが作ったハッキング用のソフトをアップロードした。完全なものではないが監視システムを把握するには十分だ。停電などの障害が一時的に起きたようだが、施設の生命維持に問題は起きなかった。これで自由に活動できる。

 イスラフェル一号は、データを外部に送信するための通信モジュールに留まっているようだった。広い施設だが、そこから動く気配はなかった。邪魔をする者を眠らせながら、エルはその場所に向かった。

「来るかもしれないと思ってたよ」

 エルを見て、レンはいつもの微笑を浮かべた。エルは彼女のこの表情が嫌いではなかった。優しい手に触れられることも、体温を感じることも気持ちいいと思っている。

 しかし、仕事をしている間はそんな自分の気持ちとは無関係だ。ここは危険だ。すぐに彼女を救う必要がある。

 通信モジュールといってもNデバイスの情報を読み取るのに最適な無線通信用の端末室だ。通信機材が置かれている場所ではない。円形の広場で身動きはとりやすい。隠れることができるような遮蔽物は何もない。エルは脚甲に充電した電力を開放してパイルを作動させ、その反動でレンに向かって水平に跳躍した。

 室内戦や宇宙では扱いが難しい銃砲ではなく、槍などという原始的な武器に頼っている理由がそこにあった。高速に飛翔しながら正確に槍を扱うように鍛えられている。

 体ごと腰だめに構えた槍を正確にレンの心臓に向ける。常人なら反応すらできず、反応できたとしても突進により増した威力を削ぎきれずに切っ先を受け入れていただろう。レンは一瞬にして腰から抜いたコンバットナイフに渾身の力を込めて槍の軌道をそらし、左の二の腕を犠牲にその一撃をしのいだ。

「お前と外で遊んだことはなかったよな……それもやってみたかったんだ」

 失敗したからといって、エルは動揺することはない。十分にやりきれる自信があった。脚甲は左右に一つずつある。右側は充電が必要だが、左側を使っての加速は今すぐに行える。

 狙いを定めて槍を向け、もう一度。今度は彼女は片腕が使えない。防いだとしても貫通できると思った。しかし、負傷した左手を盾に、レンは二撃目も防いだ。三度目の強加速はできない。仕方ないので、接近して格闘に移行する。

 これが終われば、彼女が言うように三人でまたあの生活に戻れるのだろうか。それを考えた時、何か重大な間違いを犯しているような気がした。

 でも今は仕事中だ。仕事の時に思いついたことは後で考えればいい。エルはそういう風に教育されていた。

 長柄の武器は体格差のある相手に対して有利だった。エルは外側から攻撃を仕掛けながらレンが持つナイフを叩き落し、押し倒して馬乗りになる。レンはうめき声を上げるが、利き腕の左腕は骨折し、右腕も関節を痛めている。強化兵士とはいえ、もう抵抗できる状態ではなかった。

 そんな様子を深く観察することもなく、エルは逆手に持ち替えた槍をレンの心臓に突き立てた。彼女を眠らせるという任務は終わった。

 なぜだかはわからなかったが、ずいぶんと疲れる仕事だった。傷ついていくレンを見ている時、胸の辺りが締め付けられるように苦しく感じていた。でも、もう終わったのだ。

「一緒に……帰りましょう」

 仕事が終わったので、もう槍を握っている必要もない。何人もの命を葬った武器を無造作に投げ捨て、エルはレンの手を握った。その手は傷ついていて、どんどん冷たくなっていく。

「帰れないよ……あたしは、一緒に」

 掠れた声でレンは答えた。それが明らかに異常なのはエルにもわかる。

「仕事は終わったから……だから……」

 レンは眠りにつく。それは永遠の眠りだ。エルは任務を果たした。その意味を理解することもなく。最後に残った力で、レンはエルの頬を撫でる。

「お前のせいじゃないさ……知らなかったんだ……から……」

 死とはこういうものだよと囁き、レンはもう動かなかった。その言葉をデータベースから検索する。その意味を知って、エルは混乱していった。

 もう二度と彼女は目を覚まさない。あの生活は二度と帰ってこないのだ。仕事が終わったらすみやかに帰投するように教育されているエルは、震える手足をひきずって立ち上がる。もときた道を戻りながら、自分がしたことの意味を必死で理解しようとしていた。



 生まれたばかりの柊の手を引きながら、アイは歩き続けていた。

 どこかで爆発が起きているらしい。衝撃が頻発し、アイは何度も足をよろけさせた。柊の方がまだ状況に対応していて、よろめくアイを支えながら、レンがいるはずの通信モジュールへと向かっていった。停電によって隔壁が開かなくなった場所があるので大きく迂回する必要があるのがもどかしかった。

 ようやく辿り着き、その扉を開いた。

「……!」

 赤く染まった床がアイの神経を加熱させた。視界が狭まり、部屋中に広がる生々しい匂いに気が遠くなる。それでもふらふらと微動だにしない姉に駆け寄り、震える手で胸部に触れる。

 心臓の鼓動も、Nデバイスが作動している様子もなかった。つまり死んでいるということだ。

「そんな……」

 跪いて姉にしがみつくアイの反対側に回り、柊は小さな手でレンのNデバイスに触れた。

 柊には救急救命学習が施されている。綺系に限らず、Qロットは頚椎にあるNデバイスから両手に細い素子を持っており、指先からSロットのNデバイスに繋がることができる。SロットのNデバイスは胸部だ。それを通じて心肺に繋がり、蘇生処置を実行する。

 致命傷を負ったレンはそれによって息を吹き返した。しかし、それで終わりだ。この傷は最新の医療設備でも治療は難しい。それは、アイにもよくわかっていた。

 残された時間は数分だろう。その間に姉が発しようとする言葉をアイは必死で聞き取ろうとする。

「すき……だよ」

 レンはアイの手を握った。その手は記憶よりずっと小さく、そして冷たかった。小さい頃から知っている彼女の手はいつも大きくて、暖かかった。冷凍睡眠を繰り返すうちに年齢が近づいていっても、アイにとってレンの手はいつも安らぎだった。

「ここは危険だ」

 柊はアイに声をかける。その声は無視される。ステーションの振動が強くなっていた。何かが内部に侵入したらしいが、アイはもう動かなくなったレンにすがりついて離れない。



 一連のことは、楪世ルリも通信を通じて断片的に知ることができた。

 エル・イスラフェルは研究所から送り込まれてきた暗殺者だ。この実験を事前に知った誰かが仕向けたものだろう。幸い、こちらに向かっている様子はない。

 すぐに避難しなくてはならなかったが、アイに連絡がつかなかった。回収する必要があるのは綺系Qロットだけだ。そこに向かうと、誰かが開封した痕跡があった。

 ログを調べてみるとアイが「柊」と「楓」の培養槽にアクセスした経歴がある。持ち出された柊の回収は諦めるしかなかった。綺系の重要な情報とサンプルは保持している。テスタメントへのアクセス実験は成功だった。そのデータと残りの綺系だけ持ち帰ることができれば十分だ。

 生き残りの部下に必要なものを運び出させ、脱出用の小型艇に全てを載せる。アイとは結局連絡がつかなかった。

 待っていてもよかったが、部下が大空洞内に何か出現していると報告してきた。無人兵器らしきものがこの場所に接近しているらしい。エルと同じく、おそらく白派が送り込んできたものだろう。

 ステーションは全ての機密を葬り爆発炎上できるように自爆装置が仕掛けられている。それを作動させ、ルリは脱出をする。



 アイの精神はかつてエミを失い暴走事故を引き起こした時のように波立っていたが、Nデバイスからその発露を抑えるテスタメントの効果と、現実干渉性が白派の実験によって少しずつ剥ぎ取られ薄まったため、いかなる超常現象も引き起こすことがなかった。

 それは僥倖でもあったが不運でもあった。危険が迫っている。生体反応のない物体がステーション内に侵入してきている。

「さあ、立って」

 放心状態になっているアイの手を柊が引く。生まれたばかりの柊では、まだ強引にアイを引きずっていく力はなかった。

 アイは呆然としながら、懸命に自分を救おうとする柊の行動を他人事のように見ていた。無人兵器らしき物体はすぐ近くまで迫っている。柊はステーション内で使えそうなものを探っていた。彼女はハッキングによって損傷したステーション内のネットワークを猛烈な速度で修復している。それがアイにもわかった。これがQロットの性能なのだ。

 やがて宇宙戦闘機リヴォルテラを見つけると、柊はそれを遠隔操作で起動してこちらに向かわせる。地下都市で運用することを想定されたリヴォルテラは室内の通路を飛行することができる。機銃掃射しながら、すぐにそれは現れた。

 しかし、アイはへたりこんで立とうとしない。

「私を見て」

 アイの顔が柊の両手で包まれ、目を合わせられる。

「よく話を聞いて。ここから逃げなきゃいけない。わかる?」

 夢の中にいるような感覚でいたアイには不思議で仕方がなかった。この子は一体何をしているのだろうか。そう思って、彼女に「助けて」とお願いしたことを思い出した。この少女は、お願いされたことを従順に実行しようとしているのだ。

 蜘蛛のような多脚型の無人戦闘兵器が目の前に迫っていた。鋭い爪が突き立てられれば痛そうだ。でもそれを我慢すれば、この現実が終わってくれるに違いない。

 エミを失った時もアイは自分の存在を嘆いた。続いてレンまでも失っては、もう生きている意味が見出せない。はじめから、自分は生きていてはいけない存在だったのかもしれない。関わるものすべてを不幸にしてきた。

 リヴォルテラがアイと柊の盾になっている。もうレンはいないのに、彼女の愛機は懸命にアイを守ろうとしている。そんな資格は自分にはないのに。

 柊はアイの胸元をはだけ指先で触れた。糸でくくられた人形のようにアイの体が動き、立ち上がる。少しも動こうとしないアイをQロットの権限で無理矢理に動かしている。

 柊はそのままリヴォルテラを盾にして、そこからアイを担ぎ出そうとしていた。強化兵士と違って胸部にしかNデバイスがない普通のSロットであるアイの四肢を動かすのはQロットとはいえ至難の業で、しかも生まれたばかりの柊はそれに慣れていない。

 四苦八苦する柊の通信信号の中に、一瞬彼女の中を見た。奇妙なのは、リヴォルテラの制御を全く行っていないことだ。人に操作されているわけじゃないとしたら、この機体は何を基準に動いているのか。ほんの少し興味が出たアイは、Nデバイスを通じてリヴォルテラにアクセスし、現在制御を行っているプログラムを調べた。

 このような操作は長年Nデバイスを使ってきたアイには一瞬のことで、ほんの気まぐれのことだった。しかし、この行為がアイの生死を分けた。

 リヴォルテラにはレンが生前プログラムした自動戦闘機能がある。アイが彼女に頼まれて作った自己学習アルゴリズムをベースにしたものだ。アイはその中身を覗き、そして目を覚ました。

 レンは、娘とアイを第一に守るようにその自動戦闘機能に制約を課していた。人工知能はそれにしたがって行動していたのだ。柊による制御ではない。

 アイには娘がいる。まだ一人になったわけではない。一人になれるわけではないのだ。それを思い出し、生きようと思った。リヴォルテラに背を向けて歩き出す。

 自らの意思で立ち上がり、柊の手を握って歩き出す。彼女の急な変化に戸惑ったのはむしろ柊の方だった。歩みはやがて早足になり、そして駆け出していく。横たわる姉の亡骸が一瞬見えた。

 宇宙服を身につけ、アイは柊とともにステーションの外に出た。無人兵器はリヴォルテラが引き受けているらしく、追ってこない。

 その瞬間、地から響く轟音とともにステーションは炎上を始めた。自爆装置か何かが作動したらしい。

 リヴォルテラの反応はまだあったが、どうなったのかは知りようがなかった。重装甲のあの機体のことだから無事かもしれないが、呼び寄せることはできなかった。無人機は一機も姿を現さない。

 宇宙服だけで大空洞に投げ出された二人の前に月面車が何台か近づいてきた。新手の敵かもしれない。月面車は二人の前で止まり、中から何人もの人が降りてきた。

「私たちは敵ではありません。救助に来たのです」

 先ほど襲ってきた無人兵器とは無関係の勢力らしい。ステーションにも接近したい様子だったが、自爆によって不安定になっている巨大構造物に近づくのは危険なので諦めたようだ。

「まだ来るかもしれない。ここは危険です」

 手を伸ばそうとする宇宙服の人物から、アイが後ずさりする。そのアイを守るように柊が間に入る。

「久しぶりだな……私を覚えているか」

 すると、一団の中から一人が歩み出てアイに話しかけた。

「エリスなの……?」

 それは、あの実験都市で出会ったエリス・ヘンシェルだった。

「信用できないのも無理はないが、私たちは白派じゃない。じゃあ黒派かというとそれも違う。お前に危害を加える気はないよ」

 Qロットの出現によってテスタメントの支配が絶対ではなくなった研究所は、白派の中でもいくつかの勢力に分かれて活動をしていたらしい。その中でも、Sロットに同情的な人物が集まって出来た集団が彼女たちだという。

「出口までは一〇〇〇キロ以上ある。徒歩では無理だよ。私たちと来てほしい」

 宇宙服を着ているとはいえ、飲まず食わずでそれだけの距離を移動するのは危険だった。従うしかないとアイは思う。柊にも目で合図をする。

「もう利用価値は無いと思うけど」

 アイはもう現実構築力をほとんど失っている。サクラメント・マッピングは順調に収集されているのだろう。今更自分に価値があるとは思えない。それなのに、なぜ声をかけてきたのだろうか。

「あるさ。R社の躍進は私も見ていた。私たちの力になってくれないか」

 研究所や政府という枠組みを超えて同志を集めているらしい。月面企業に精通した人物の存在を欲しているという。アイはそんな話を他人事のように聞いていた。

 姉を失った喪失感はまだアイの表情を凍らせている。それを察したエリスは話をやめ、まずは車に乗るのを促した。



 炎上するステーションから脱出した影はもう一つあった。

 両手を血に染めたまま宇宙服を身につけ、ジャンプ機能を使って離脱を図る。PS社が持っているのとは別のルートを使うため、かなり長い距離の移動が必要になる。

 宇宙服の防寒機能や生命維持装置は完全に作動しているはずなのに、エルの両手足は強張っていた。原因がよくわからない。呼吸も荒くなり、目の前がぼやける。

 数百キロ移動した所で体力の限界がきた。この程度の距離の移動は大した運動ではないにも関わらず、エルの足はもう動かなかった。

 思い出していた。レンが最後にかけた言葉とその意味がずっと頭の中から出て行かない。現場から離れれば離れるほどその思いは強くなった。

「助けないと……」

 これは、レンを救助する任務だったはずだ。それはまだ達成されていないのではないか。今すぐにあの場所に戻ってレンを助ければ、また元の日常に戻れるに違いない。エルは初めて思考をめぐらせていた。

「戻れ、十二号」

 通信が入っていた。前方にはエルを回収するために白派の兵士が接近してきていた。

 その中にQロットがいて、直接エルのNデバイスに指令を出す。電源を切られるように、一瞬にしてエルは意識を失った。

「多少問題はあったようだけど、彼女は使えると思う?」

 次に目が覚めた時は、全身麻酔されたように身動きがとれなかった。会話だけが耳に入ってくる。

「どうかしら。私はあまり賛成できないけど」

 自分を生み出し、調整を加えた博士の声が聞こえた。自分は任務に失敗したのだろうか。そうなのだろう。だとすればこのまま破棄されていくのかもしれない。

「戦闘能力は素晴らしかった。歴代の強化兵士の中でも最強かもしれない。なんとか使えるようにしてほしいね。アリス博士、きみなら出来るんだろう」

「……」

 もう一つの声にも聞き覚えがある。Qロットが研究所に入ってきた事件の時に苦い顔をしていた誰かだ。研究所の中でも地位が高い人物らしいことだけ覚えている。

「あなたは、ようやく生まれたみたいな顔をしてるわね。十二号」

 博士はエルを覗き込んで言う。

「名前は……エルだ。エル・イスラフェル」

 ようやく生まれた、という博士の言葉はしっくり来る気がした。今までの自分は生きているようで生きていなかった。しかし、今は目的を持てる気がする。

「あいつをぶっとばすにはどうしたらいい?」

 レンを殺させたのがさっき退出していった奴だということはわかっていた。今はどうすることもできない。しかし、このままにしておくつもりはなかった。

「なら、生きなければね」

 博士の答えは完結だった。そのために必要な体は彼女が与えてくれるという。

 生まれると同時に、許されることのない罪を背負ってしまった。これから何年も、死ぬまでエルの魂を縛り付ける。エルにとって、命は罪を償うために必要な道具に過ぎなかった。


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