Arcadia(B) 4

■回想編(黒)5



 研究所の中はルリにとって既に懐かしい場所だ。記憶継承体として働いていた時は開発部を中心に活動していたので、それ以外の雰囲気を知るのも初めてだ。もっとも、当時の研究部と今とでは雰囲気は異なっているに違いない。

 記憶継承体に頼りきりで、財政状況も研究も先が見えない時代が最初にあった。その当時、研究所にはいつも静かで重い雰囲気が満ちていた。その陰鬱な雰囲気を破ったのは、先代の継承体のシオンが死亡した事件だ。展望のない状況へのストレスが限界に達し、白派と黒派による対立によって組織が活性化していった。その時代にルリは生まれた。

「もう懐かしく感じるね。私の部屋は今どうなっているのかな?」

『開発部は縮小されるか吸収されたため、もうあなたの自室は存在していません』

「それはさびしい話だ」

 サクラの淡々とした返答に対し、少しも寂しくなさそうにルリは言う。ここに残してきたものなど無い。

 動物の飼育係をしていたルリを記憶継承体に選んだのは、TAと呼ばれる人工知能だった。今のサクラの原型になったとされるものだ。ルリは記憶継承体としても研究者としても優秀で、紆余曲折あったものの祈機とテスタメントという重要な発明を完成させた。その二つは今日の研究所の活動の根幹である。しかし、それはルリが望んだようなものではなかった。研究所に愛想を尽かしたルリは月面都市へと出て行き、そこで独自に活動を行っていた。

「それで、いつになったら私をここから出してくれるのかな?」

『……』

 レン・イスラフェルの記憶を送信する実験は成功だった。しかし、居場所を探知されたルリは月面都市に戻る途中で白派の兵士に捕まった。

 ルリが率いる黒派が月面都市に拠点を移す一方で、白派はこの地下構造物にこもって研究を続けていた。現在は内部分裂を引き起こし、様々な派閥に分かれているらしい。その一勢力がルリを抑えた。

『あなたの行いは危険です』

「そうかな」

『研究所の存在を人々に周知するということは、人々の中に眠るCUBEの覚醒を促す危険があります』

 サクラは淡々と語る。強い口調だが、危害を及ぼしてくる様子はない。この場所、幽閉されている居室は前よりは手狭だったが小綺麗で居心地がよかった。外に一歩も出られてないという点以外に不満な所はない。

『Qロットについて、全てを教えてください』

 本題と思われることにサクラが触れた時、ルリの口から笑みがこぼれた。

 余裕すら感じる振る舞いはサクラに焦燥感を抱かせたかもしれない。人工知能である彼女にそんな感情が存在すればの話だが。白派の内部分裂と混沌は、ルリが放ったQロットのせいだ。

「全てとは? きみたちの所にも何人かいるだろう」

 Qロットは、この研究所でひそかに研究されていた管理型の被験体だ。これをひそかに生産しばら撒いたことによって、研究所は統率を失った。試算を狂わされたサクラにとっては面白くなかったはずだ。

「解剖でもして研究をすればいいじゃないか。きみはそういうことが得意だろ」

『私はあれに触れることができません』

 Qロットはテスタメントからの干渉を受けない。テスタメント上の人工知能であるサクラにとっては天敵のような存在だ。しかもシステムを優先的に使用する権限があるため、情報の全てをテスタメントに委ねている研究所が一元化されることを邪魔している。

 人の手によってのみ、Qロットの記憶を制御したり口頭で命令を与えることができる。しかし、彼女たちは自分の意思で方針を決定することができる知的存在だ。機械のように扱えるSロットとは違う。各勢力はばら撒かれたQロットをできるだけ自分の勢力に囲い込んで、研究を行うためのテスタメント使用権を奪い合っている。

「Qロットは人間よりSロットの方が好きなのかもしれないな。研究の内容が前と少し変わったようだ」

 所内ネットワークを閲覧したルリは、最近の情勢を調べてそういう感想を述べた。Qロットは人としての価値が高いと思う方に肩入れすることができる。倫理プログラムを必ず教育される彼女たちは、Sロットへの非人道的な実験を監視する役目も持っていた。研究所でどんな行動をとるかによって、Qロットを味方につけられるかどうかが決まる。

『Qロットの制御装置はどこにありますか』

 先ほどより直接的に、サクラは質問をしてきた。

「スキューマという端末だ。世界に一つきりしかない。月面都市のどこかにある。私は知らない。記憶を調べてもかまわないよ」

 テスタメント管理権をNデバイスにプログラムできる唯一の端末がスキューマだ。Qロットへの強制的な変更を唯一行える道具でもある。これを渡さない限り、研究所のモラルは一定に維持される。

 ルリは周到に準備をしていた。こういう事態を想定して自分の記憶を外部記憶に移動させ、自らは記憶消去を実行している。月面都市は政府でも支配できない。企業連合の力が強いためだ。発見は難しいだろう。

「建設的な話をしようじゃないか。きみは私をどうするつもりなんだ?」

『あなたは貴重な研究者です。別の形で協力をしていただけるのでしょう?』

「私がどの計画が目当てかわかっているんだね。それを私にくれないか。そうすれば、今持っている綺系Qロットの残りはきみにあげてもいい」

 サクラも白派の中の派閥の一つだ。最新型のQロットを手に入れることができればテスタメント使用権が拡大され、計り知れないメリットがある。

『ノアリア計画ですね』

 サクラはその計画名を口に出した。ルリはテスタメントを破壊しようとしている。それは過去の二度の実験で明らかだ。そうなった場合、崩壊を始めるこの世界から脱出する方法は一つしかない。

 ノアリア計画は、ある一隻の宇宙艦を新しい小世界にして崩壊する世界から脱出するというものだ。現状ある現実干渉性を組み合わせて自前で現実を構築できるようにする非常脱出装置である。今の世界が滅びても実体を維持できる。

 研究所の目的である現実崩壊の阻止が不可能だった場合、少数の人間たちが自分だけ生き残るために進めていた極秘計画だった。研究所の中でもこれに関われるのはごく一部の者だけだった。ルリが人間に愛想を尽かした元凶でもあった。

 この計画は現在、サクラの派閥とは別の誰かが握っている。アルカディア・ステーションにエルなどの刺客を送り込んできた連中かもしれない。それでもサクラなら、ルリをひそかに送り込んで計画を乗っ取る手助けをするくらいはできる。

『私からも条件があります。その計画をあなたに譲渡できるよう努力するかわりに、ノアリアには一人の少女を乗せてください』

「少女とは?」

『レイという名前の一般市民です。私にとって、彼女を守ることは最も優先されるべき事項なのです。彼女を計画に参加させてください。彼女自身の能力も計画の完成には必要です』

 聞いたことのない名前の人物だったが、そのくらいは何でもない条件だった。

『厳密には、彼女の半分を参加させたいのです。ノアリアはあくまで予備の計画です。この現実の救済ができた場合にそなえ、レイの存在を二つに分割したいのです』

「ヴィルヘルミナの時のように?」

 ヴィルヘルミナ・ヘンシェルは自らの実験の中でハンナとグレーテという二人に分かれた。その原理に詳しいルリが加われば、そのレイという人物の幽子デバイスを分割することは可能だろう。

「それで、その少女は一体どんな能力を持っているんだ」

『物質を分解し、幽子に変えてしまう能力です。この能力は、長い間研究所が求めていたものでした。彼女の力を研究すれば、祈機をも自在に生み出せるようになるでしょう』



■回想編(白)6



 エミ・レシャルの死の時は慌しいながら葬儀があり、彼女に別れを告げることができた。しかし、今回は遺体との再会すらままならなかった。

 二度とレンの体に触れることはできない。彼女はあの大空洞で眠り続けている。被害分析では、彼女のいた通信モジュールは高熱になっていたと考えられる。遺体は燃え尽き、きっと残っていない。

 月面都市に戻れず研究所に連れてこられた自分には何らかの処分が下って然るべきだとアイは思っていた。しかし、何もないままだった。

 アイは自室にこもって、ただじっと過ごしていた。一度だけエリスがやってきたが、もう少しこの部屋でじっとしていてほしいと言うだけだった。白派はなにやら慌しいようだ。

 ただレンといられればよかった。いつか死ぬとしてもそれでいい。永遠に続くものはない。どんなに強く求めていても、いつか何もかも失われる。だから、もう終わってしまったのだと考えるしかない。

 それ以外にも何か大事なことがあった気がした。守らなければいけない何かだ。ここに戻ってきた瞬間、それが何なのか忘れてしまった。

 もう本人にはわからないが、アイはサクラと約束をしていた。もし自分が研究所に戻されるようなことがあったら娘のことは全て任せ、そのために記憶の消去をしてもらうという約束だ。それはCUBEネットワークの圏内にアイが戻った瞬間に実行された。結果、喪失感だけがアイの中に残された。

 だから、アイにはもう目的がない。生きていても仕方がなかった。

 漫然と過ごすアイの前に毎日食事が出される。食材生成機から作られるショートブレッドだ。淡白な味だが、今はそれがよかった。

 機械を操作してそれを作っているのは、あの場からつれてきたQロットの子だ。まだ生まれて間もないというのに、Nデバイスの初期教育によって生活と自己防衛の能力を獲得している。あのステーションから生きて帰ってこられたのは彼女のおかげだ。

 名前は確か柊といった。乱暴な開封作業のせいでもう一体の姉妹を損壊してしまったかもしれない。彼女は、生まれながらに姉妹を失ったのだ。思えば傲慢なことをしたとアイは思う。

 柊は本当によく尽くしてくれたし、今もQロットとしてアイを保護してくれている。罪悪感と同情から放置することができずに連れてきてしまった。幼い手で出される食事を放置するのもかわいそうなので、なんとなく手をつけている。そのおかげというべきか、身体の健康は維持されている。

 食事が終わると柊はアイの手を握り、じっと見つめる。毎日のことだった。柊をはじめQロットの手には何か特別な仕掛けがあるという話だった。

「どうしてそれ、するの?」

 Qロットには、Sロットの状態を管理するという機能が含まれている。これもその一貫なのだろうと考え、興味本位で尋ねた。

「あなたのお姉さんがしてたから」

 そして後悔した。レンは手を繋ぐのが好きだった。柊の手は小さくて、レンの暖かく頼りがいのある手とはまるで違う。小さい柊は、ただ傷ついたアイを慰めようとしてくれていたのだ。

 アイは両腕で柊を抱きしめる。ほんのりと温もりがある。柊は不思議そうにアイを見つめながらも、細い指でアイの髪を撫でた。留まって淀んだ数日分の感情が溢れ出てくる。

 肩を震わせるアイを、柊は静かに黙々と慰め続けた。



 自室から出ない日々は続いていたが、ささやかに生きる目的が出来た。それは、柊のこの先を考えるということだ。

 柊はQロットとして完成度が高く、しかも新機軸を盛り込まれた個体だった。体験すること全ての出来事にタグを添付して記憶していき、選んだ要素だけを個別に忘れたり整理することが容易に作られている。ただしこれは複雑なシステムで、外部から管理する技術者が必要だった。幸いアイは情報処理が得意で、人工知能や記憶管理についても多少の知識がある。

 Sロットの立場で手を加えられる点は多くはなかったが、幽閉に近い現在の状況でアイは柊の調整に没頭した。柊で得られたデータは他の個体の健康管理にもフィードバックされる。力を貸してもらったQロットたちへの償いにもなるので、悪い仕事ではない。成果があるので研究所はアイが柊を保有し続ける事を許容した。

 もっと研究所の施設を使えればよかったが、アイが身を寄せているエリスの派閥は大きいとは言えない。自由は利かなかった。彼女は何か準備を進めているらしく、だんだんアイを訪れる頻度は少なくなっている。

 なんとかしたいと思っている時、アイ宛に荷物が届いた。両手で持てるほどの大きさのハードケースだ。それが三個分ある。運んできた所員の話では、レン・イスラフェルの自室にあった私物だという。

 レンの名前を聞くと胸が苦しくなってしまう。レンの自室には行ったことがない。どんなものが入っているのか全くわからない。

「中身、見ないの?」

 部屋に引き込んだケースをただ見つめていると、柊がそう語りかけてくる。亡き姉の遺品にこうして向き合うと、彼女がいなくなったという実感が押し寄せる。

「……代わりに開けて。何かあったら教えて」

 真空暴露にも耐えられる輸送用の頑強なケースの中身は外からでは決してわからない。開くのがアイには恐ろしい。しかし、柊は興味も感慨もなさそうにロックを外し、ケースを開いた。

 がさがさと中を確認する音から目をそらす。自分が死んだ時のために遺書などのメッセージを残している可能性を思うと、アイの鼓動はどうしても早くなった。

「アイ」

「ん……」

 柊から静かに名前を呼ばれ、そっと振り向く。

「これなに?」

「え?」

 柊が手に持っていたのは、槌のような形をした木製のおもちゃだった。紐でつながれた木球と繋がっている。

「けんだまだね」

「武器か何か?」

 レンは子供好きだったのでこういうものを持っていても不思議ではない。いきなりそんなものを見せられて感傷的な気分が薄れる。

「これは?」

「ヨーヨーかな……ちょっと待って、そんなものばかり入ってるの?」

 柊が次々と出してくるものは小さい子供向けのおもちゃばかりだった。積み木や列車の模型などがケースに詰め込まれている。他のケースには衣類や私物の銃や刃物があったが、一つのケースはすべて玩具で占められていた。

「これも玩具の類?」

「それは……」

 柊が持ち出してきたものは見たことのない道具だった。楔形で、一見ナイフのように見える形状をしている。しかし刃は磨かれていない。回転弾倉が中央についており、後部には電子トリガー装置が納められている。

 秘密諜報員が装備し、Nデバイスの補助を受けて照準するタイプの特殊拳銃だ。アイには縁のないものだった。興味深そうに見ているので、それは柊に譲ることにした。かなり特殊な弾薬を必要とするので、持たせておいても危険はないだろう。第一、柊はアイよりずっとしっかりしている。

 柊が興味を示したものはもう一つあった。それも知っている人でなければ何なのかわからないものだ。他のおもちゃはそれほど価値のあるものには思えないが、それが地球ではかなり高価なものだということをアイは知っていた。

「これ、エミが欲しがってたな……持ってたんだ、姉さん」

 小型の箱だった。プラスチック製の本体の中央には光学ディスクを入れるドライブがあり、本体の横から有線ケーブルで繋がったコントローラーがついている。数百年前に作られていた家庭用ゲーム機だ。今では貴重品で、状態がいいものは信じられない金額で取引されている。ディスク形式のソフトはもう劣化して現存しないため、本体が改造されカードメディアからの読み込みができるようになっている。

 レンが自室に出入りしていたのは兵役についていた時代なので、地球のどこかで手に入れたものに違いない。購入したとは考えにくいので、廃棄都市区画などに出入りする機会に発見したのではないか。

「やってみてもいい?」

 興味があるらしいので、それも柊に渡した。研究所内の電源に対応したアダプターがきちんとついているあたり、レンはこのゲーム機で遊んでいたらしい。電子基盤をリフレッシュしているのか、電源を入れると快調に動いた。

 ゲームを遊ぶ柊を後ろから見ていた。いかにもローテクノロジー的なグラフィックが再生されるが、モーションやエフェクトは凝っていて、ゲームとしてはよくできているように見えた。

 姉がどんなゲームで遊んでいたのか知りたいというだけで観察していたが、黙々と遊ぶ柊を見ていると自分もやってみたくなった。アイはかわってもらった。

「む……」

 簡単そうにプレイしているので自分にも出来るだろうと思ったが、始まってすぐにゲームオーバーになってしまった。最初はこんなものだろうと思ってリセットボタンを押す。この時代のゲームは一回きりのプレイで次に進んでいくタイプのものがほとんどなので、こうして簡単にやり直せる。

 しかし何回リセットしてもある特定の場所から先へはどうしても進めなかった。

「不器用だね」

 柊の言葉が刺さる。アイはなんとしてもこのゲームをクリアしたくなった。Nデバイスを通じてCUBEネットワークにつながり、このゲームの攻略情報やプレイ動画を脳内に取り込んだ。

 それからどれくらい時間が経ったのかわからない。画面を見るのが疲れたので映像はARに投影し、目を開けていなくても遊べるようにした。序盤はクリアできたが、終盤になるにつれ難易度は上がっていく。それでも根気よくプレイを続けた。

「食事できたけど食べる?」

「口に入れて」

 もともと暇をもてあましていたこともあるが、不器用だねという一言に納得できずムキになったアイは食べる間も惜しんでゲームを遊び続けていた。

「寝たほうがいいよ」

「今集中してるから!」

 このゲームを作ったのが誰かは知らないが、人を不器用扱いする態度が気に入らないと思った。数百年も前のカビの生えたような開発者に負けるなど許されない。

 百時間以上でようやくアイはゲームをクリアした。終始稚拙なプレイで、繊細な操作を避ける工夫をしなければならなかった。上手な人なら三時間ほどで達成できることだ。

 それだけの苦労をすると、流れてくるスタッフロールが夢か幻に思えた。最後に「最後のスタッフは、このゲームを遊んだあなた」で締めくくられると、もうとっくに死んでいるであろう開発者に奇妙な親近感と尊敬を覚えてしまう。

「やった! やったよ!」

「見てたよ」

 睡眠とゲームしかしない駄目人間になっていた間のアイの面倒を丁寧に見てくれたのは柊だ。微笑む彼女が聖母のように見えた。そういえば、彼女は今まで笑ったことがあっただろうか。

 アイがゲームしている間に暇だった柊はCUBEネットワークから取得したレシピから新しく料理を覚えたり、レンの遺品を一つ一つケースから出して証拠物件のように並べて整理するという地道な作業をやっていた。床に規則正しく並べられて、一目で全て確認できるようになっている。

 一つだけアイの目に留まったものがあった。手のひらほどのサイズの濃紺の高分子フィルムの束だ。

「それは手紙の一種らしい」

「知ってるよ。地球には結構あったから」

 デジタルフィルムはもうすっかり廃れてしまったが、一時期はかなり流行した。タッチペンで手書きでき、書き終わったら焼きを入れることで書き込み不能になる。焼いたものは小さくなり場所をとらない。

 電子媒体の普及によって紙媒体が絶滅していった時に発明されたこのフィルムは、有名イラストレーターの絵や芸能人のサインなど「一つしかないもの」という希少価値の創造に使われた。紙よりも高価だが、手書きの機会など滅多にないのでそれでいい。保存性と美しさを重視してある。ある時期は人気が出た。しかしデータバックアップ技術は急速に高性能化していき、また大容量化と共有化も進んでいった。あらゆるものの無償共有が進むと、希少価値という概念そのものに次第に興味が持たれなくなっていった。

 レンが所持していたフィルムは絵画だった。地球の風景を描いたものが中心だったが、アイの目を引いたのはレンの似顔絵だった。

 太陽のような明るい笑顔がよく表現されていた。フィルムの下側には細い線がある。手紙の本文はデジタルデータとして印刷されているようだ。

 それを読み取るためのルーペがあったので、アイは本文を自身の眼球でスキャンしてNデバイス上のデータとして生成した。そこには、レンが生前交友があった政府関係の一般人からの手紙があった。

 その人物は地球でレンと一緒に仕事をしていた事があるらしく、初期の頃の手紙はその頃を懐かしむ内容が多かった。政府が本格的に月に拠点を持つようになるとその人物も月面で仕事をするようになり、そこからは仕事の話が増えていった。

 月開発を企業連合に任せきりにしていた政府は、もともと地球で行っていた横暴もあって、遅れて参入して月面都市の治安維持を担おうとした時にずいぶん反発を受けた。

 真空という環境では、幼稚なテロでも簡単に命が危機に晒される。そこで政府は月開発法を作り、各企業が自衛のために武装することを許した。企業は新天地に参入し、居住空間や食糧生産を必死に実用化した。自ら血を流して月という土地を獲得したのだ。地球よりも月面都市の方が豊かで安全になった頃、政府が乗り出してきて警察組織を作り始めた。その時は全面戦争になりそうなほどデモが起こり、町中が緊迫した。政府が管轄するのは連邦法のごく限られた範囲の犯罪のみという制約が交わされ、ようやくその騒ぎは収束した。

 現在でも企業連合と政府の冷戦のような関係は続いている。政府側も月は宇宙開発の重要拠点なので、企業連合の武装化を非難したりテロに見せかけた破壊工作を行う。一方で企業連合も月面都市に出動してくる政府軍の装備を同じ手段で破壊することがある。それが表の世界での月情勢だ。

 手紙の人物は一人で企業連合からの要望や苦情を引き受ける立場にいるようだ。かなり参っているようだった。レンに送られた手紙は最近の日付のものもあった。おそらくは、まだこの仕事についているのだろう。



 政府庁舎自体は、この月面都市の黎明期から存在する。政府が月面都市を政令市に認定して治安維持のために軍隊を配備した時、この庁舎は市役所となった。

「はじめまして。私はレン・イスラフェルの妹で、アイ・イスラフェルといいます」

「は、はい。妹さんですか? はあ」

 手紙の人物は実に気弱そうな女性だった。突然のアイの訪問に驚いている。しかしアポもなしで訪れたのにすぐ会ってくれた所を見ると、急ぎの仕事があるわけではないようだ。

 そもそも、アイは月面都市に市長がいるなどということさえ知らなかった。この人物こそ、二〇〇万人もの人口を誇る巨大な人口空間を治める組織の長なのだ。あくまでも名目上は。

「実は姉は任務中に殉職したのです。報告が遅れましたが、私物の整理に時間がかかりまして。私が手紙を見つけました」

「そうですか……そう……」

 レンの死を聞かされた市長は顔を曇らせる。涙を滲ませているのでアイが肩を抱いてやると、鼻を鳴らして泣き出した。上等なスーツが汚れそうだったが、姉のために泣いてくれる人物を無碍にはしない。

「失礼ですが手紙を拝見しました。お仕事が大変なようですね」

 市長といっても実態はただのクレーム対応係だ。大体、月面都市における政府は有力企業二つ分くらいの権限しか持っていない。

「そ、そうなんです……政府からは無茶な要求ばかりされるし、企業からは嫌われてるしで……」

 先月、政府が管理する月開発財団が募集した開発費援助についても、どこの企業からも申請がない。市長はそれをなんとかするように言われているそうだが、どの企業に連絡しても門前払いされているという。

 月開発財団は初期の頃の月開発の費用を援助したが、今はどこの企業も自立してしまっている。月開発はまだ発展を続ける分野もある。食料品の加工は日々進歩を続けているし、材料工学や輸送分野もまだ先がある。ここで培った技術は月だけでなく、異惑星の開発にも役立っていく。政府としては資金を出すことによってこれらの産業に食い込みたいのだ。

「月面にも少しは政府系の企業を増やしたいということなんですが、私にはどうしたらいいのか」

 単なる公務員に過ぎなかった彼女が怪物のような企業たちを相手にするのは無理がある。アイは少し同情した。

「規約に不透明な部分があるんですよ。これでは怪しまれてしまうでしょうね。もっと明確に制限がないことを表現した方がいいですよ」

「は、はあ」

「資金援助の代償がある場合は、それを具体的に示した方が信頼されると思います。この金額なら、それでも受けるという企業はあるはずですから。特に中小企業は狙い目ですね。政府の技術部門に頼んで、成長しそうな企業をリストアップしてもらうのはどうでしょうか」

 今のアイは不自由だ。こうして月面都市に出てくるのさえ、Qロットである柊の力を借りてやっとだ。市長に対してできるのはせいぜいアドバイスするくらいものだった。それでも、市長は少しだけ元気になった様子だった。

「少しよろしいですか」

 帰り際、庁舎から出る所でスーツ姿の人物に呼び止められた。

「何でしょうか」

 アイは警戒しながら答える。呼び止めた人物は体格がよく、威圧感を感じさせる容姿をしていた。声色は落ち着いていたが、石のように安定した雰囲気を纏っている。アイは隣にいる柊の手をそっと握る。

「イスラフェルの妹さんとお聞きしました。少しお話を聞きたいのですが」

 またレンの知り合いらしい。悪い話をするつもりではなさそうだ。アイは彼女の話を聞いてみることにした。

 地球で兵役についていた頃レンはあちこちに派遣され、時には政府軍に混ざって戦った。率先して先頭に立って戦ったレンを慕う戦友は大勢いるという。

「レンのおかげで生き延びて出世した者は大勢います。私はもともと情報将校で、生還した後に政府に引き抜かれて月面治安維持部門に入りました」

 彼女もまたレンの戦友で、何度も命を救われたという。一緒に戦ったというのはいつのことだろうか。彼女はアイよりもずいぶん年上だ。近く、政府軍月派遣隊の司令官になる予定だそうだ。

「研究所のことも知っています。今は大変だそうですね。おかげで少し情報が入ってくるようになりました」

 以前は秘密主義だった研究所だが、Qロットの登場以来は混乱し分裂している。引きこもることをやめて人脈を駆使し始める者もいるので、今まで全く不明だった研究所の姿が少しずつ政府内部からも見えるようになってきたという。

「それで、私へのお話というのは」

 レンの思い出話をするためにアイを呼び止めたわけではないのはわかっていた。

「あなたは月面企業を経営していましたね。企業連合の内情もある程度はわかるのでは」

「私にスパイをしろと?」

「いいえ。企業連合とは対立するよりも連携していくべきでしょう。政府内部の私の知り合いにそういう考えの持ち主がいます。財団の資金援助については聞きましたか」

「ええ」

 軍という立場から想像される思想とはずいぶん違う考えの人物だとアイは思った。要するにアイを月開発財団に引き抜きたいという内容だ。

 政府の側に居場所を作れるようになれば、アイは今よりは自由に行動できるようになる。メリットのある話だった。

「でも、研究所や政府は企業連合につくことを忌避するのではないですか?」

 アイは今までの経験から、それが危険なことだという意識が強かった。政府や研究所は強い力を持っている。意に沿わない者がいればあらゆる手段を使って排除してきた。

「それは、具体的には誰がです?」

「誰って……」

「私も、かつては政府を過大評価していたことがありました。支配階級<エスタブリッシュメント>のような存在がいて、全てを操っているというような。そういう時代もあったかもしれない。しかし入ってみればわかります。この組織に、今やそんなはっきりとした意思は存在しないのです」

 政府は今やただ権力を維持したり、それぞれの人間の目的のために個別に行動する人たちの妥協によって意思が決定されているだけに過ぎない。何かたった一つの目的のために団結して力を使うような気力は存在していないのだ。そのことが逆に危険なのだと彼女は話す。

「多くの人間が集まれば意見が合わず結論など出せなくなる。あらゆる価値観や言葉は闘争のために浪費され、個々の本能に従って行動し、その集大成が組織としての行動として現実になる。要するに制御不能で、どう転ぶかわからないということです」

 組織は大きくなるにつれそのようになっていく。人工知能が普及しても決断ができないまま進んでいくのはそういう理由がある。研究所も同じだ。かつて黒派が行った月面企業への脱出の時、結局止めることはできなかった。

「それを解決するのが、企業連合を含んだシステムだということですか?」

「そうです。一つの組織ではなく、多様性のある複数の組織がバランスをもたらしたおかげで、月面都市だけが成功できた。しかし希望はある。政府側の唯一の成果は、あなたがたの生まれた研究所の存在です」

 研究所の場合はテスタメントとQロットというシステムを利用することで、組織が機能するようになった。月面都市全体でもそういったバランスが必要なのだと彼女は語る。

「ある一点を超えた数の人を集約できるのはシステムしかない。よく完成された法治国家は、本来人の意志など無関係に冷淡に機能するべきものです。今の政府に必要なのは、企業連合との連携と組織内部の強力な統治機構です」

 今、この世界は破滅に向かおうとしている。現実崩壊現象とは無関係に地球は汚染が広がり、いずれ人が住めなくなる。地球にまだ数十億人いる人口が唯一の脱出できる場所は、地球の一つ外の軌道を回っている黒曜星への移住だ。現在は住みやすい環境とはいえない場所だが、月に都市を築くほどのテクノロジーを駆使すればテラフォーミングが可能だろう。

 しかしそのためには企業連合と政府の協力は不可欠だ。それらを高度に複合したシステムが、人類の進化のためには必要なのだ。

「レンはこの世界が好きだと言っていた。私もそうです」

 力を貸して欲しい。彼女はそう言って話を終えた。

 企業連合と連携して力を束ねるという考え方にはアイも賛同できた。アイは、その話を引き受けることにした。

「最後に……レンのようなカリスマがいればそういう人物を象徴に、と私は思っていた。あなたにもその素質があると考えるのは贔屓目かな?」

 急にそんな話をされ、アイは動揺した。

 その様子を見て彼女は寂しそうに微笑みながら、「忘れてくれ」とつぶやいた。



 政府庁舎内に与えられたアイの新しいオフィスは、R社の時よりも広いくらいだった。

 部屋の広さなどあまり関係はないが、それだけ自由になれたような気がした。月開発財団技術躍進部という新部署である。アイはそこの部長だった。

 政府庁舎に存在する情報室とも関係していくので、そちらの人脈もできる。情報処理に長けた柊は連絡係を任せた。アイは市長に任せている仕事を早速片付けていくことにする。

 数ヶ月ほどで成果は出始めた。入念な事前調査を経て資金援助プロジェクトの第二弾を打ち出し、市長にも協力してもらって宣伝と説明会を実施した。結果、枠を少し超える程度の応募があった。

 アイは可能な限り企業からの要求に応じ、政府側にも働きかけを行っていった。一方で政府側の要求にも対応した。これを地道に続けていけば、政府と企業連合を繋ぐパイプ役の組織として財団は機能していくはずだ。

 仕事が忙しくなり、研究所にはほとんど戻らなくなった。ここに部屋を残していても不便で意味がないので、アイは研究所内の自室を引き払うことにした。

 多すぎる荷物は邪魔になる。レンの私物は処分することにした。研究所内にある焼却施設に持ち込んで処理してもらう。

「本当にいいの?」

 柊が尋ねる。遺品は、市長によるアイの似顔絵とゲーム機と柊の特殊拳銃を残して全て燃やされる。

「いいの」

 涙が流れるようなことはなかった。姉が死んだ時、遺体がなくてできなかった葬儀の代わりのようなものだ。

 姉の魂は今頃どうなったのか。世界に吸収されて消滅してしまっているだろうか。研究によると、幽子デバイスは人の意識の本質である可能性があるという。

 それが事実かどうかは、どんなに研究が進んで事実に近づいたとしても決して確信できないことだ。いつの時代もそうだった。その高みへ思いをはせて、人は人を見送る。いつか肉体を捨ててそこに辿り着くとしたら、そこが幸福であるように望みながら。



 月面都市に参入して時間が経つにつれ、政府は治安維持能力を発揮していった。

 大企業は自ら強力な自警団を持っているが、そういった組織を持たず外部の警備会社に大金を払わなければならなかった中小企業は政府軍の治安出動を歓迎することもあった。それでもまだ劣勢には違いないが、比較的大きな企業の中にも政府側につく者が現れ始め、政府宇宙軍の軍備拡張も支持してくれるようになった。そのうち企業連合と対等になる勢いだ。

 これも、アイの月開発財団技術躍進部のロビー活動に支えられたものだ。それだけに留まらず、R社を作った経営手腕を持つアイの采配によって大手企業を出し抜くような商品が生まれてくることもあった。それが成果となり、味方を作ってきた。

 生まれて以来ずっと研究所の呪縛の中にあった。最近はそれが変わってきている。

 アイをこの職につけたレンの戦友が言うように、少なくとも現在、政府や研究所に明確な意思を持つ誰かなど存在しない。成果を出すにつれ、それが確信へと変わっていく。その証拠に、アイの仕事を直接妨害する者は誰もいなかった。

 だがいい事ばかりは続かない。せっかく信頼を築き始めたというのに、このタイミングで政府は地球からの大規模移民の受け入れを決定した。月面企業の多くはこれに反対だった。

 月面都市の生産能力なら、今すぐに数十万人以上を追加で収容できる。マンパワーが増大すれば、政府側についている多くの中小企業が大企業に成長できるチャンスになる。それが政府の狙いだろう。しかしこれによって治安は確実に悪くなる。月面企業はテロによって被害を受けてきたので、地球人類を敵視する者が少なくない。反発があるのは当然だった。

 幸いにして、今まで信頼を築いてきた企業はそれでもアイに好意的だった。政府に敵対するような大企業ですら、アイの名前を挙げて政府の良心のように語るほどだ。人気企業であるR社の元技術者という経歴を誰かが穿り返して広めたこともあり、アイは有名人になっていた。

 R社は現在も活動を続けている。社長の名前はエミ・レシャル。これはアイが偽名で登録したものなので、現在は違う人間が経営しているのだろうと思う。

 エミには記録上娘がいるということになっている。調べてみると、もう一人の親はレン・イスラフェルとなっていた。いつの間に子供を作っていたのだろうか。エミがレンとそんな仲だとは知らなかった。何か違和感を感じるが、R社に関してはどうも思い出せない事が多い。

 近づかないほうがいい。そんな不思議な思いがあった。

 それよりも、政府から頼まれた仕事のことでアイは頭がいっぱいだ。ある企業について情報収集をしてほしいというのだ。移民の受け入れに賛成しているある大企業で、訪問してどんな思想を持っているのか調べなければならない。

 企業の名前はPS社だ。アイはよく知っている。もともとは政府系の企業で、楪世ルリという人物が引き取って成長させた。楪世ルリとは、姉が亡くなったあの実験から全く連絡がつかなくなってしまっていた。

 PS社は月面企業の中でも特殊な存在だ。まず、古参の月面企業ではなく比較的新しい会社である。連合との繋がりが薄い企業の中ではもっとも規模が大きい。最近は零細企業を吸収しながら成長しており、無視できない第三勢力に変貌しつつある。今回移民が行われればその中から従業員を採用したいと言っている。

 この会社が黒派の拠点になっていたことをアイは知っている。しかし、聞けば楪世ルリはPS社には戻った気配が全く無いらしい。それでも活動を続けている。不気味だった。

 メールを送っても何の反応もないので、アイは直接社屋を訪れた。企業連合が支配する集まる第一~三区画や中小企業が集まる四~五区画ではなく、新しい企業ばかりが集まる十一区画に存在している。あまり訪れたことがない区画だ。

 受付には自動応答システムがあり、予約がなければ入れないと言われるだけだった。予約をしたいというと、まずは窓口にメールを送ってほしいという。

 要するにどうあっても門前払いされるということだ。そのうちなんとか方法を見つけてPS社を調べなければいけない。柊の力を借りれば簡単かもしれないが、それは避けたい所だ。

 柊は今のアイにとって唯一の家族だ。今日まで生きてこられたのも、柊とともにいることで人間らしい暮らしができているからである。

 徒労感を感じながらアイは直帰することにした。財団の仕事をするようになってから購入した地下都市の標準のスロット形式住宅がアイと柊の自宅だ。そこに帰る時間がアイの安らぎになる。

「おかえり」

 帰宅すると柊が迎えてくれる。少し背が伸びたくらいで、出会った頃とあまり雰囲気が変わっていない。複雑な料理ができるようになったり、情報室に出入りして賢くなっていることくらいだ。

 学校に行かせようと思ったこともあるが、本人が興味を示さなかった。情報処理能力を極めた存在である綺系Qロットにはあまり価値が見出せないのかもしれない。

「何か欲しいものはないの?」

 アイは柊に尋ねた。夕飯のメニューはチェフチェリと南瓜のサラダだ。ライスをひき肉の中に入れて煮込んだ見た事もない料理をつつく。今日もとても美味しい。

「どうして?」

「そろそろ誕生日でしょう。誕生日は祝うものだよ」

「特にないけど……」

 食材生成装置があれば柊は料理の研究に没頭しているので、もしかしたら本当に欲しいものがないのかもしれない。食べたいものがあれば自分で作ることもできるので、食べたいものもない。

 情報室との連絡係ということで給料も政府から出ているはずだが、銀行口座をまだ持っていないので全額がアイの口座にある。自由に出金できるようにしてあるが、全く手をつけた様子はない。

「本当に? 何でもいいんだよ」

 柊の誕生日は同時に姉の命日でもある。本当に何もないならいいが、もしかすると気を使っているのかもしれない。彼女にはそういう所がある。

「……何百年も前に作られた初めての宇宙望遠鏡の天体写真集があって、それが最近限定再販されたらしいんだ。それかな」

 念を押すと答えが出てきた。柊が望んだのは、彼女の給与からすればほんの僅かな金額で買える希少本だった。保存性のいい薄いフィルムを束ねた物理書籍である。そんなものに興味があるという事をアイは初めて知る。

「そういうの好きなんだ。買えばいいじゃない。せっかくだから人生は楽しまないとね」

「そういうもの?」

「そういうものだよ」

 アイも、世の中の価値を姉に教えてもらった。何かの価値がわかる時は、意識が花開くような感覚がある。存在していることに意味があるとすれば、そういう感覚を味わうためだ。

 移民政策がついに実施され、何人もの住人が新しくNデバイスを施術されて月面都市の住民になり始めていた。異なる秩序で生きてきた移民が流入したことで、もう既に数件の事件が起きていると報道されている。それによって揺れる政府と月面企業の関係を調整するため、今日もアイはいくつかの企業を直接訪れた。政府に対して要望や質問を伝え回答を得るという憂鬱な作業がこれから待っている。

 政府庁舎に足を踏み入れようとした時、ふいにアイの袖をつかむ誰かがいた。

「あの……あの」

 濃灰色の髪と瞳を見て、なぜここに柊がいるのかとアイは思った。しかし、すぐに別人だと気付く。アイの柊より少し背が小さく、表情や声色も全く違う。

 すぐにわかった。別の綺系Qロットだ。

「お願いです、助けてください!」

 すがりつくように言う彼女に、道を行く人はいっせいに振り向く。アイはとりあえず庁舎の中の自分のオフィスに彼女を招きいれた。

 彼女の名前は綺榧といった。綺系Qロットの長女で、地球に住んでいたらしい。

 あの実験の時にいなかった一人だ。ルリは別の仕事をしてもらったようなことを言っていたが、地球に行っていたとは思わなかった。

「お母さんを助けてほしいんです」

 柊より数年先に生み出された彼女は、肉体年齢では柊より上のはずなのに身長が低く、栄養状態もあまりよくないように見えた。衰退を続ける地球ではまだ恵まれている方かもしれないが、毎日見ている柊との差を感じる。

 今回の移民政策によって彼女はこの月面都市に送られ、正式に市民になった。しかし、地球では移民の選別を地元の暴力組織が支配しているらしく、母が大金をつぎ込んで彼女を送り出したのだという。

「そんな大金、どうやって用意したの?」

「母は……死ぬつもりなんです。調べたんです……そしたら……移民船を自爆テロで破壊するんだって」

 移民政策に反対する勢力は多い。そういうテロに大金を出す者はいるだろう。

「いつなの?」

 涙ぐむ榧の肩を握り、アイは尋ねる。

「今日の午後の便で……でもどのシャトルかまでは」

「わかったわ」

 大切な人を失う気持ちは痛いほどわかる。できる事があるならするだけだ。

 アイはレンの人脈を駆使して軍関係の各部署に連絡をつけた。地球に緊急降下する揚星艇くらいは出してもらえはずだ。

「ひっぱたいてでも連れ戻す」

 その母親は大馬鹿者だとアイは思った。豊かな月面都市に一人送られて死なれるくらいなら、地球で一緒に干からびたほうがいいに決まっている。幸福を感じるから人生には意味があるのだ。

「母はSロットで、強化兵士です。注意して」

 別れ際、榧から渡されたデータを見た。それは、ずっと前に一度だけ見たことのある名前の人物だった。歴戦の兵士だ。ひっぱたいて連れ戻すのはちょっと無理かもしれない。



 目的のシャトルを発見するのが遅れ、アイは単身で同乗してテロを防ぐしかなかった。榧の母親、育ての親の名前はディアナ・ヘンシェル。実験都市からレンとともにアイを回収しにきたチームの一員として覚えがある。

 柊を連れていればもっと簡単だっただろうが、彼女はディアナが乗ったシャトルを特定するために現地の管制室で情報処理に当たっていたので乗り込むことができなかった。移民船へのテロという政府にとっての重大事ということもあってすぐに兵力が投入されたのだが、特定できたのがギリギリだったので近くにいたアイしか乗り込むことはできなかった。

 表向きはそういうことになっている。しかし、政府軍の兵士ならディアナを射殺するかもしれない。それを考慮し、柊にはうまく発見を遅らせてくれるように頼んでいた。

 危険な仕事だったがディアナを月に連れ帰ることができた。しかし、その後は全て望み通りとはいきそうにない。

 ディアナ・ヘンシェルは研究所についての重大な秘密を握っており、しかも反政府勢力に積極的に加担してきた人物だ。今回も移民船の爆破を行おうとした。

 研究所よりは政府に預けるほうがまだ安全なので、今回の件は研究所には伝えないことにした。アイにできるのはそのくらいだった。ディアナは新しく小惑星に作られた政府の収容所にひっそりと収監されることになる。

 白派が分裂してお互いに情報を遮断していることが功を奏した。一度政府側で身柄を押さえてしまえば、収容所のディアナを自由にできるほどのはっきりした意思統一が今の研究所にはできない。

「ごめんなさい、偉そうな事言っておきながらこれくらいしかできなくて」

 そう伝えると、榧は寂しそうに笑ってアイを許してくれた。

 アイはまだまだ力不足だと実感した。財団としての活動で成果を上げて出世してきたと思っていたが、今回は四苦八苦した挙句、こんな結末しか用意できなかったのだ。

 榧はそれでも満足そうだった。しかし、彼女にも処分が下る。アイが母体としている政府側の派閥は、榧を咎めない条件としてディアナの記憶の削除を要求してきた。それは当然だろう。榧はQロットなので、その気になればネットワークに侵入し、ディアナを収容所から出せる可能性がある。反政府活動家で危険な強化兵士であるディアナを封じ込めておくことが、派閥の出した条件だった。

 榧はそれを受け入れた。母が無事なら記憶を失ってもいいという。痛ましい話だ。記憶消去後の彼女は、もともとの身分である移民に戻り、月面で一般市民として活動してもらう。必要に応じて人格を切り替える諜報員だ。

 自宅に帰り、そこにいた柊を抱きしめた。

「どうしたの?」

「ううん……なんでもない。少しこうしてていい?」

 榧よりも身長のある柊は至って健康な様子だった。そして、ほんのりと暖かい。

「いいよ」

 出会った時より少し大きくなった手で、柊はアイの長い銀髪を撫でてくれる。その感触を味わいながら、今頃榧はどうしているかを考えた。

 彼女にも出会いがあればいい。市民として生活する中で、会社の人間関係や友人ができていくことを望んでいる。



 移民政策は混乱を招いたが、大きなテロもあれから起きていない。多くは第十一区画の周辺で職を見つけたという。当初の予定通り政府系企業も斡旋に応じている。

 従業員を増やして大企業に発展する政府系企業も生まれた。企業連合との溝は深まることになったので、アイの心労は増えることになる。治安の低下にしたがって政府軍の出動が増えたことも古参企業には面白くなかった。

 今後、月面開発の次の動きは黒曜星開発に向けたものに変わっていく。政府は既にそちらに舵をとり、長年政府の軍需産業を支えてきたノア社に武装輸送船を発注し作らせている。成り行きをみてお互いの関係を調整していく必要がある。それが財団の役目だ。

 企業側に好感を持たれているアイを月開発財団の総帥に推す声も強まってきた。まだ早すぎると思ったが、先日の榧の件で力不足を実感している時でもある。悩む所だった。

 姉の戦友の言うようなカリスマ性が自分にあると思ったことは一度もない。どちらかといえば他人を補助するような仕事が得意だ。自ら手を下すのは苦手だった。

 忙しかったが、柊の健康診断をするために研究所に行かなければならなかった。特殊なNデバイスを持つ柊は、たまに研究所の設備を使って調整を行わなくてはいけない。

 そこで久しぶりにエリス・ヘンシェルに会った。

「どういうつもりだ、政府の仕事をするなんて」

 会うなりエリスはアイを研究所の下層へと連れて行き、そんな話をした。この場所はCUBEネットワークの外で、かつて何かの研究に使われていた区画らしい。監視の外にあるので話を聞かれる心配はない。エリスはここに縁があるらしい。なにか巨大なものが置いてあったと思われる広い空間があるだけで、今は何もない場所だった。

 あれ以来、彼女はずっと研究所内で権力争いの中にいたらしい。

「どうって……私はただ、現状をよくしようと思って」

「こっちはそれどころじゃない。派閥争いが本格化して、研究所は解体の危機にある。姉妹たちは道具のように使われているんだぞ」

 アイが月面で活動する間も、研究所はSロットの命を使った実験を続けていた。忘れていたわけではない。ただ、アイは自分にできることをしようとしただけだ。

「まあいい……今のあなたの地位は役に立つ。私に力を貸してくれないか」

「力って?」

「ノア社のことは知っているか。宇宙戦闘艦を作っているっていう」

「一応はね」

 ノア社は地球系の企業で、アイが育ててきた月面の政府系企業とは全く違う。政府の中でも別の勢力と関係が深い。アイはあまりこの計画を知らない。

「あの計画の情報を手に入れたい。あれは脱出計画なんだ」

 当たり前の事だ、とアイは思った。地球から脱出して黒曜星に移住する計画は誰でも知っていることだ。しかしそういう意味ではないらしい。

「思い出せ、研究所が何を研究する場所なのか。あれはこの現実から脱出するための装置だ。最小限の現実構築力を搭載して、崩壊するこの世界そのものから逃げ出すためのものなんだ」

 研究所は現実を修復するための研究を長年続けていた。その事実を知っている者は、それが失敗した時のことを当然考えていた。そのため、予備の計画として箱舟に乗って脱出する計画を立てていた。

「もう人間たちに振り回されるのはたくさんだ。私は姉妹を連れて、この計画を奪取するつもりだ。協力してほしい」

 きみだって人間にはひどい扱いをされてきただろう、とエリスは言う。確かにそれはそうだ。

「この現実にいる人間たちはどうなるの?」

 研究所が現実干渉性をそろえなければ、この現実は無になってしまう。エリスは人類のほとんどを見捨てて、姉妹たちとともに生き延びるつもりなのだ。それはアイが想像もしていなかった計画だった。

「協力者も確保してある。私には綺系Qロットの一人がついているんだ。奪取は間違いなく成功する」

「綺系Qロットって?」

「月面都市に住んでいる榧という奴だ。きみが記憶を操作したおかげで政府の目を逃れたので、私たちが手に入れることができた」

 榧の名前を聞き、アイは気が遠くなった。苦難から抜け出したはずではなかったのか。考えが浅はかだったと気付く。Qロットの保有は権力そのものだ。標的にならないはずはない。

 榧は記憶障害を起こし、過去の記憶を思い出してしまったらしい。それが切欠で多くの派閥に目をつけられた。それをエリスの派閥が拾ったそうだ。

「じゃあ、今あの子はどうしてるの?」

「まだ月面都市の市民をやってもらっている。アルカディアの機能を一部搭載して情報収集を行わせている。脱出計画を知る事ができたのもの彼女のおかげだ。記憶に齟齬を起こしてしまうようで、調整は必要だが……」

「彼女にそんな改造を施すなんて、一体どういう権利があって……!」

「かわいそうだが、姉妹たちのためだよ。私の行いは責めるのに、人間たちが同胞を道具にすることは許容するっていうのか?」

 当然だというようにエリスは言う。それではただ、自分が奪う側に回るために権力闘争しているだけのようだ。彼女も、政府内部に渦巻いている獣のような連中と同じ考えに染まっている。

「人間に私たちを傷つける意思があるわけじゃない。ただなりゆきでそうなっただけで、それを解消すれば……」

「なりゆきだけで? 余計に悪いじゃないか。きみはそれをなんとかできるのか」

 政府の仕事をするようになって、やっと出口が見えてきた所だった。しかし、時間をかけすぎたのも事実だ。その間にも姉妹たちが死んでいった。アイは、研究所を離れて活動したことを後悔した。

「きみが協力してくれなくても私はやる。すぐ決めろ。私の号令一つで、今から数分後には行動を起こせる。そうしなければ、姉妹たちは犠牲になり続ける」

 エリスの意思は固いらしい。目的のためなら榧を道具にするといった。それだけではない。この世界に取り残される人間はどうなってもいいというのだ。

「スピードが勝負なんだ。お前が参加しないなら――」

 背を向けてエリスは去っていこうとする。ディアナの顔が思い浮かんだ。榧の泣き顔も思い出される。財団の出資で未来に希望が持てるようになった多くの月面企業の人間の顔が浮かぶ。

 着実にうまくいきはじめていた。それなのに、なぜそんな事をするんだ。

 この世界の崩壊を防ぐことができるかもしれない。研究所の大半が離反したらどうなる? 待っているのは確実な滅びだ。

 そして、この世界を好きだといったレンの言葉が思い出された。レンならどうする?

「残念だ。お前には来てほしかった」

 今ここでなんとかしなければ。

 アイは懐に常に持ち歩いている護身用の武器を取り出した。

 息を殺して、無抵抗なエリスの背中に照準する。心臓が喉から飛び出そうだ。荒くなりそうな呼吸を必死で押さえ、気付かれないようにゆっくりと狙いを定めた。

 そして、ゆっくり引き金を引いた。

 乾いた音とともに反動が伝わり、アイは慣れない衝撃で後ろに倒れこむ。

「あ……うあ……」

 弾丸は脳幹に命中し、エリスは糸が切れた人形のように床に倒れた。

「うわあぁぁ……!」

 もはや、それが自分の声かもわからなかった。アイは悲鳴をあげていた。ゆっくりと血だまりが広がっていく。目の前が真っ白になり、体中が熱くなった。

 殺してしまった。

 取り返しのつかないことをしてしまった。そうしなければ大切なものを失うかもしれなかった。仕方がなかった。それでも、アイは人を殺したことなど今までなかった。

「アイ」

 動転するアイに、護身のために隠れてついてきた柊が近づいてきた。アイはへたりこんだまま、恐る恐る柊の顔を見上げる。

「大丈夫、落ち着いて」

「う……うん」

「銃を渡して。立てる?」

 こわばった指が張り付いた拳銃を丁寧にはがし、柊は小さい腕でアイの頭を抱きしめた。少し成長したとはいえ、まだ子供の体をしている。胸に抱かれると、鼓動が少し落ち着いた。

「私がやっておくから。アイは家に戻って」

「うん……」

「大丈夫だよ」

「うん」

 柊は何度もアイを慰める言葉を囁いた。いつものように髪を撫でて、アイを落ち着けようとしている。この場所はCUBEネットワークの外にある。殺人を知られる危険は低い。エリスの遺体をQロットである柊が処理すれば何も問題は残らないはずだ。

 その後数日、アイは自宅で怯えながら過ごした。しかし、研究所からも政府からも何も言ってこなかった。Sロットの一人が失踪するくらいのことは現在の研究所の派閥闘争ではありふれたことだ。あのような思想を持つエリスなので、邪魔に思う者も多かったのではないか。

 一週間でアイは落ち着きを取り戻した。その間仕事のことやアイ自身の生活については、全て柊が面倒を見てくれた。

 落ち着いてくると、エリスがもうこの世にいないという事実がアイの心を重くした。思えば、ステーションの実験でアイを助けてくれたのはエリスだった。それだけではない。実験都市でもアイのことを気遣ってくれた。

 殺す以外の方法があったのではないかと今更思う。やりなおせるならやりなおしたい。でも、それはもう不可能だ。死んだ人間は戻ってこない。せめて彼女が守ろうとしていた姉妹たちのことをアイが考えてやるしかない。



 ある日、メッセージが届いていた。PS社からだ。助成金に関することで会いたいとのことだったので、面会に応じるいうものだ。あまりにも前に送ったメールへの返答だったので一瞬何の事かわからなかった。

 政府の移民計画で移り住んできた新たな住民に職を提供した企業には助成金が出る。そういう内容のメールを送ったことを確認する。まだ助成金の申請期限内だ。PS社の内情を知る機会と思い、アイは向かうことにした。

 前回と同じく、自動応答システムのある受付を訪れる。名前を告げるとシステムがNデバイスを通じて個人認証を行い、社内での行動権を与える。

 社内はCUBEネットワークで管理されており、入室許可や案内も全てネットワーク経由で行う。アイが行こうとする先のドアは全て自動的に開く。

 建物の中は全てファウンデーショングレーで統一され、余分なものは一切存在しない。照明さえも存在せず、真っ暗な廊下はARによって明るく視認できるようになっている。他にも、建物全体に何か特殊な仕掛けがあるように思えた。

 社員の姿も全くない。自宅からリモートで仕事をしているのだろう。本社ビルはただの巨大なデータセンターなのだ。在宅業務は珍しくないが、月面企業でもここまでやっている所は稀である。

「ようこそ、プルート・ソリューションへ」

 行き着いた先は唯一普通のオフィスらしさのある応接室だった。広い部屋で、奥の壁面にARの窓がある。映し出されているのは宇宙から見た月の映像だった。鏡面のように磨かれた床にそれが写りこんで、双子の月のように見える。

 輝く月の逆光の中にいる人物の顔を見て、アイはまさか、という思いになる。

「エリス……?」

「はい。エリス・スタレットです。このPS社の代表を務めています」

 濃紺のビジネススーツを着て、美しい金色の髪を短く切りそろえた姿には見覚えがある。エリス・ヘンシェルその人だった。

「あなたのことも存じ上げています。今日まで政府と企業連合を取り持ち、発展に寄与してきた月開発財団の活動は、ほとんどあなたの功績といっていいでしょう」

「え、ええ……ありがとう」

 アイは混乱していた。エリスはSロットだったので、同じ遺伝子を持つ姉妹がいてもおかしくはない。しかし、いくら同じ遺伝子を持つ姉妹たちでもここまでは似ていないと思う。長年似たような特徴のヘンシェル系Sロットを見てきているアイは彼女たちを見分けることができる自信があった。それでも、ここにいる人物がエリスではないという確証が得られない。

 何より、自分が射殺したとの同じ名前と顔の人物だ。揺さぶられないわけがない。

「私の姿が意外ですか? 研究所はあらゆる研究を行っています。人物の複製や保存もそれに含まれると思いませんか」

「!」

 エリス・スタレットは表情を微笑で固定したまま言った。

「彼女はエリス・ヘンシェル本人だよ。ただし十分の一くらいだがね」

 背後から現れたのは、あの事故以来会っていない楪世ルリだった。

「戻っていたんだ」

 情報ではPS社に戻ったのが確認されていないということだった。しかし、ここは彼女の会社だ。不自然はない。

「戻ったのは最近だよ。それに、もうここに用はない。きみと話したかった」

 ルリは話を続ける。最近のルリの研究は人の幽子デバイスを操作することだという。彼女はかつて祈機の研究をしていたので、その研究テーマに立ち返ったという方が適切かもしれない。

「エリス・ヘンシェルは死んだ」

 アイの目を見ながらルリは言う。彼女は知っているのだ。アイがエリスを殺めたということを。

「あの場所は私の研究の原点とも言える所でね。少し仕掛けがしてあった」

 研究所内にあったCUBEネットワークの範囲外の場所が現場だった。あそこは、ルリが幽子デバイス研究のテーマを見出した場所だ。侵入する人間がいればわかるように仕掛けがあったらしい。

 エリスが姿を消した。そこから推理すれば、アイがエリスに何かしたのは想像がつく。

「この悪趣味な人形は何?」

「ひどい言い方だな。死んだエリスの幽子デバイスをとらえて蘇らせたものだ。容量が不足しているのでごく一部だけど、エリス本人といっていいと思う」

 Cデバイスと呼ばれる炭素系繊維と高分子を融合させたNデバイス素子の発展型は、人の遺伝子のように幽子デバイスをとらえる特性がある。祈機の材質にも使われているものだ。それをエリスの遺体に埋め込んで再生させたのが、このエリス・スタレットだ。

「きみのQロットは、エリスの遺体をきちんと火葬処理場に持っていった。誰にも見られずにね。それを私が拾った。よくできているだろう。触ってみるか?」

 体はほとんどCデバイスに置き換えられて機械になっているという。外見上は全くわからなかった。彼女の姿は、アイに精神的ショックを与える。触るなどという気が起きるはずがない。

「それで、私に何の用? あなたの教え子を殺した私に復讐したいの?」

「いいや。もし……これと同じ方法で姉さんを蘇られることができるとしたら、きみはどうするのか聞きたくてね」

「え……?」

 ルリは、光沢のある床面を踵で示す。それと同時に床面は透明に変わり、その下にあるものを露にした。

「棺はCデバイスで出来ている。観測した所では、レン・イスラフェルの魂はまだここにある」

 失われたと思っていた。確かに、葬儀は行わなかった。この目で死を見たわけではない。姉のレンの肉体が滅びる所は確認していない。

 そこにあったのは、美しい状態で保存されたレンの遺体だった。



 アイの心はまだ動揺している。エリスを殺めた罪はとりかえしがつかないことだ。だからこそ割り切ることができた。

 でも、そうではなかったとしたら? とりあえすことができるとしたら?

 楪世ルリが提案してきた言葉は麻薬のように甘かった。

「食べないの?」

 柊が出した食事にも手がつかないほどだ。楪世ルリが話したことがずっとアイの思考を支配している。

 人によってはエリスを射殺したことを正しい判断だったと言ってくれるかもしれない。しかし、アイはそうは思えないままに今日まで生きてきた。何の罰も受ける事なく生きてきたのだ。

「もしも……頼みごとをしたら、聞いてくれる?」

「いいよ」

「そう……」

 柊は無垢な瞳でアイを見ていた。柊なら、アイが頼めばどんな命令でも聞いてくれるだろう。

「方法は二つある。それをきみに教えよう」

 PS社の月の映る窓の下で、楪世ルリは自分の計画を話した。

「レンの魂は今はここにあるが、Cデバイスで包んだ三重の棺でも少しずつ流出している。幽子デバイスを完全に留めておくには、もっと完全なものが必要なんだ。それに出資と協力をしてほしい。それが一つ目の方法だ」

 その研究を、ルリは地球上のノア社で行っているという。ノア社で行われているノアリア計画については、アイも聞いた事がある。エリスが奪おうとしていたものだ。

 黒曜星移民のため、輸送能力を持たせた巨大な宇宙戦闘艦を建造するという政府の計画がある。その中には、無から自然環境を生み出しテラフォーミングの助けとする技術も含まれている。食料生産や環境を構築するためにCデバイスは有効利用できる。かつて研究所内に自然庭園を設置した時の経験に基づいている。

 しかしノアリアの真の目的は、今ある現実干渉性を集めて別の小世界を作り、数百人程度の少人数だけ脱出するためのものだった。そのために、祈機や幽子デバイスの仕組みを解明し移住のための扉を開く研究が行われている。

 祈機のように完全なCデバイスの幽子檻を作るためにはまだ研究が不足している。ルリはそれを巨大な仮想空間上で実験しようとしている。そのためには、財団の出資と優秀な技術者が必要だ。そこでアイに協力してほしいという。

「ノアリアはあくまで予備の計画だ。この世界を放棄するにはまだ気が早い。これから話す、“アルカディア計画”の方が本題になる」

 アルカディアという名の計画をアイは知らない。ルリの実験ステーションにそんな名称がついていた記憶はある。ルリは解説を続けた。

「もし現実干渉性が全て揃い、自由に現実を構築できるようになった時にそれをどう有効利用するか研究している。それがアルカディアの中身だ。復元するだけではなく、よりよい世界を作っていこうとね。かつて、ヴィルヘルミナ・ヘンシェルという研究者が作り出した考え方だ」

 ヴィルヘルミナはCUBE感染症にかかっていたが、その前は記憶継承体だったらしい。継承体の仕事に限界を感じた彼女はQロットの構想を考え、それを次の継承体に渡した。次の継承体であるシオンはQロットの研究を完成させ、それをSロットの記憶の中に隠した。

 それを偶然発見したのが楪世ルリだった。

「綺系QロットはQロットの完成形で、現実干渉性が全て揃った時にそれを完璧に扱えるように作られているんだ。この世界そのものの管理者となるべく設計されている。だがそのためには、膨大な情報量を受け止める器になる必要がある。そのための“処置”をすることで、初めて完璧な存在になる」

 全ての現実干渉性を扱うためには、それが記録されたあらゆるSロットの記憶を同時に保持した状態にならなければいけない。だがそれが可能になった時、この世界の全てを自由にできる。

「つまり……レンも蘇らせることができると?」

「そういう細かい制御を行うのは現在の技術では難しい。Qロットに指示を出す端末はスキューマしかないが、その端末の処理の限界は超えられない。人の死の再生、つまり幽子デバイスのような探知が難しいものを個別に操作するようなことは今の端末の性能では無理だろうね」

 アイはその話を聞いて少し安心した。綺系Qロット、つまり柊などをまた犠牲にして誰かを蘇らせるという方法があるとしても、それを行いたくはないからだ。そんな方法なら知らないほうがいい。

「でも単純な命令なら実行可能だよ。ヴィルヘルミナは面白い研究を残している。CUBE感染した彼女は自分の幽子デバイスを通じてCUBEの中を探っていた。そして、CUBEには一種のリカバリ機能があるということを発見している」

 ソフトウェアが異常をきたした時、それが正常に動作していた時期まで戻すロールバック機能というものがある。デバイスドライバやオペレーションシステムなどでよく利用される機能だ。この現実を形成しているCUBEの処理の中にも、ロールバックを行うためのリカバリ領域が存在している。

「つまり、ある時点まで時間を戻し、何度でもやり直すことができる。ここは人工的に作られた現実だから、そういう機能が備わっている」

「じゃあ、あなたのアルカディア計画というのは……」

「あの日の実験でレンが死んだのは残念だった。でも、あの時私はリカバリ領域内にバックアップを作った。それが、綺系が持つ本来の能力なんだ」

 ロールバック機能に関わる現実の時間軸に触れることができるように綺系は作られている。まさにこの現実の管理者なのだ。隠された綺系の機能は、本当にこの世界を自由に管理できるものらしい。

 つまり、あの日あの時に戻ることができるのだ。実験のためステーションに訪れた日。エル・イスラフェルが襲ってきてレンを殺したあの日。そこから逃げ出してエリスと再会したあの日だ。現実干渉性を集めて綺系Qロットにロールバックを命じれば、あの忌まわしい日から現実をやり直すことができる。

 アイの心拍数が上がり始めていた。今日までの記憶を持ったままで戻ることは可能なのか? その方法は? 現実干渉性はあとどのくらいで全て揃うのか? 技術者としての脳がいろいろなことを考え始めていた。

「言い忘れていたが、その時リカバリ情報を登録した個体のみがロールバックを行うことができる。私がきみに声をかけた理由は、実の所そこにあるんだよ」

 アイはぎくりとした。思考が途切れる。

「それって……柊がそうだってこと?」

 あの時、用意した綺系の中で最も安定していた柊を使ってルリは楔となるリカバリ情報を作成した。その幽子デバイスの固有の形を鍵にして、リカバリ領域は保護されているらしい。

 レンと再会できるかもしれないという考えですっかり忘れていた。この計画には一人の綺系Qロットを使うことが不可欠なのだ。

「時間を戻すには、現在の時間でロールバックの処理を続ける存在が必要になる。その存在を除いた全てがその日に戻ってやりなおすことになる。つまり、ロールバックを行った綺系は虚無の海に取り残される。たぶん消滅してしまうだろう」

「そんなの……私にはできない」

「なら、レンとエリスは永久に失われることになる。きみはどっちを選ぶ?」

 財団の仕事に没頭していなければ、エリスは死なずに済んだかもしれない。レンにも未来が開ける。しかし、もし戻れたとしても、そこはもう柊が存在しない世界だ。

 目の前にいるエリス・スタレットは微笑のまま、先ほどから一言も喋らない。彼女をこんな風にしたのは自分だ。責められているように感じてしまう。

「参考までに、今日までに死亡したSロットの数は六五〇人ほどいる。きみが財団の仕事をしている間のことだ。彼女たちも、その日に戻れば救えるかも?」

 六五〇人と柊一人の命の数の違いは誰にでもわかる。その上、エリスはアイが自分の手で殺害したのだ。もしやりなおせるというなら、それをする義務が自分にはあるのではないのか。

 自宅に帰った後もずっと考え続けていた。

 計画のためには、一度柊の記憶を全て消去する必要がある。まっさらな状態からの方が開発はしやすい。全て忘れてもらう。レンが死んだ翌日から彼女はずっと世話をしてくれていた。作ってくれた食事や、一緒に遊んだゲームを思い出す。あれから、柊がいなければアイは生きてこられなかったと思う。その思い出は、全て失われる。胸が張り裂けそうな思いだった。

「どうしたの……?」

 涙を流すアイの頬に手を添えて、柊は言う。

「言ってみて。アイが望むことなら、いいよ」

 犯した罪は贖わなくてはならない。それが、アイが出した結論だった。

「あなたにお願いがあるの」

 そして、アイは柊に話を切り出した。



■回想編(黒)6



 脅迫まがいの方法でアイの協力を取り付けたことも、ルリにとって大した感慨を生まない出来事だった。

 いつからこうなってしまったのかと自虐的に考えてみようとしても、自分が悪いという実感がない。昔は命というものをかけがえのないものだと考えていた。それを、今は使い捨ててしまっている。

 そして、いずれ現実干渉性を手にする。そこでこの世界を思い通りにすることができるようになる。なんとも古典的な欲望だとルリは思った。

『それが、現実構築力の本来の使い方だからです。この世界を自由に作りかえることが綺桜の機能であり、望みだったのですから』

 サクラはそう言ってのける。

「綺桜は、壊れた世界から脱出するための装置じゃなかったのか?」

『それはその通りですが、一九九九年七月の時点ではまだ宇宙は崩壊していませんでした。彼女は自分の望みで、新しくこの世界を作ったのです。だからこのレムリアは、好きに作り変えることが許された世界と言えるでしょう』

 それはヴィルヘルミナも知らない事実だった。

 その力を誰が手にするにせよ、CUBEに併呑されないようにすることが綺桜の設計思想だ。何らかの価値を生み出し続けることで世界を続けていかなければならない。夢を見る力を持つ誰かが必要なのだ。それは姉の復活を望むアイであり、姉妹の幸福を望むルリでもある。

 次第にわかり始めていた。それこそがCUBEによる情報磨耗に対抗しえるものなのだ。その形を模索するための道具として、現実干渉性は使われるべきだ。

 柊の因子を持つもう一人の綺系Qロットが生み出された。同じ遺伝子情報を持っていた柊の妹「楓」に少し手を加えたものだ。彼女は柊の分身で、新たな小世界ノアリアの管理人として、アイからルリへと贈られた。

 ノアリアはルリが、アルカディアはアイが担当することになっている。テスタメントが擦り切れてCUBEが目を覚ますまでの間が時間制限だ。それまで、二人は自分の研究を進めていく。どちらかが成功すれば、お互いの目的は達成される。

 結果から言えば、ノアリア計画は失敗に終わった。ルリは、既に自分が追い込まれていたことに気付いていなかった。



 二人の「レイ」のうち一人、レイ・イスラフェルも準備され、ノアリア計画に必要なものは全て揃いつつあった。政府内部にはまだ邪魔な勢力がいるが、研究する分には問題はない。

 ヘンシェル系Sロットを集めた地球上の地下研究施設の中でレイ・イスラフェルは少し浮いた存在だった。それが理由で、同じく浮いた存在であるルリと自然に距離が近くなった。

「きみは、きみのお母さんによく似ているよ」

 同じSロットとして被験体になって研究にもぐりこんだルリは、身分上は普通のSロットとして研究を続けていた。その中で自然にレイと仲良くなっていった。

「私に母なんているのか。ていうか会ったことあるのか?」

 自分が実験対象になっているとも知らず、彼女は少し年上のSロットとして純粋にルリを慕って会話に応じてくれる。彼女には感謝していた。物質を幽子分解するという稀有な現実干渉性を持っているので、ルリの研究を大きく前進させてくれたからだ。この能力を応用すれば、祈機を解体することも可能だろう。

「少しだけ。結構前、実験中に亡くなった」

 レイはルリの話を興味なさそうに聞いていた。その様子も、ルリが知る彼女の母と重なる。もう一人の方、レイ・レシャルは別の親に似てきているという情報がある。彼女たちは自然出産したというが、その時に二人の幽子デバイスが混ざり合って受け継がれ、それが再び分断されてお互いに乗り移ったかのようだ。そんなことがあるのかどうかもルリにはわからないことだった。

 なにしろ研究が進んだ今でさえ、ハンナとグレーテという二人の古い知り合いの幽子デバイスは混ざり合ったままなのだ。CUBEによって強力に結び付けられた彼女たちの魂を呪縛から解き放つことは未だにできない。

 祈機を中心に彼女たちの肉体を再び作った。通常Sロットは十歳程度で誕生となるが、それより上の一七歳くらいまで成長させて生み出した。過去の経験を編集した記憶をはじめからNデバイスで入れることで、復元されてくる記憶を特定しやすくしている。それによって、記憶の再生をほとんど無力化することに成功した。

 ルリはハンナとグレーテにあまり関わっていない。レイと同じチームに入れて、テラフォーミング用の植物の開発をさせている。三人が幸せそうに会話しているのを遠くから眺めるだけだ。

 ハンナとグレーテは仲のいい姉妹で、それにレイが翻弄されている。そんな様子を見ているのは飽きなかった。

「ねえ、先生……」

 ある時、グレーテがルリに話しかけてきた。身分の上では大勢の姉妹たちと変わらないが、年長のSロットであるルリはここでも「先生」というのがあだ名だった。

「先生も一緒にお話をしましょう?」

 ルリの手をグレーテが優しく握る。成長した今では、ルリの方が年齢も体も大きくなってしまった。か弱く細いグレーテの手の感触がルリには恐ろしかった。

 ノアリア計画で語られるこの世界からの脱出は、当初はルリの復讐計画だった。しかし、今となってはどうでもいいことだ。

 ここは静かで平穏だった。ずっとルリが望んでいた世界だ。ここで、ハンナとグレーテに幸福があったかどうか確かめたい。祈機となって死んだ彼女たちの命を再生し続けているのは、そんなルリの願望だった。

「私は……いいよ」

 だからこそ、優しくしてもらう資格はない。グレーテの体が近づくと責められているような気分になってくる。

「どうしてですか?」

 グレーテは熱っぽい視線をルリに送る。二人きりになると特にそうだ。壁際にいるルリに迫り、潤んだ瞳を向けてくる。

 ルリはアイを脅迫するために責めた。アイなど比較にならないほど自分は罪を犯している。大勢の姉妹を犠牲にしてきた。だから同志としてアイを引き込みたかったのかもしれない。そんな自分がグレーテに愛される資格などない。

 困惑するルリを無視して、グレーテは体を寄せてきた。ルリの体を細い指が這っても、抗えずに震えるしかできない。

 様子がおかしいことに気付いたのは、かなり時間が経ってからだった。

 テスタメントを使ってCUBEの発現を抑えていたはずだったが、ヘンシェル系Sロットの一部にCUBE感染の症状が現れ始めたのだ。外部からの反応を受け付けなくなっている。脳死のような状態になってしまっていた。

 彼女たちを調べると幽子デバイスの様子がわかった。お互いが幽子の細い線で繋がってネットワークのようなものを構築している。いくらNデバイスを通じて兆候を押さえ込んでも意味がない。レイの能力で分断したかったが、彼女はまだ幽子を感知できない。現実干渉性は感知できるものにのみ影響できる。現時点では、感染が広がるのを防ぐ方法はなかった。対処しなければならないとルリは思う。

 そんな中でも情報収集は常に行っていた。ノアリア計画はアイによって支援されていたが、もともとは別の派閥の活動だったので油断はできなかったからだ。

 そういえば、宇宙戦闘艦が初飛行した頃からノア社内部の様子が変わってきたことを思い出す。政府軍が数多く出入りするようになった。宇宙戦闘艦は名目上は政府軍の宇宙輸送護衛の中核戦力と位置づけられていたので当然だとはじめは考えたが、その内訳に違和感を感じていた。

 特殊部隊が派遣されてきて、まるで施設を保護するように周囲に配備され監視するようになった。保護と考えれば何でもないことだが、考え方によってはまるでルリや姉妹たちを封じ込めているようにも見える。

 開発終了後、研究施設として使われる予定になっている宇宙戦闘艦の零番艦「オウミ」を調べた時、不審なプログラムを発見した。Sロットの思考を記録し分析するものだ。それだけなら不審ではないが、緊急の場合にSロット同士を争わせて殺し合いをさせるAR用プログラムが含まれていたのだ。

 一見わからないように隠されていたが、ルリにはすぐにわかった。なぜなら、そのプログラムを書いたのはルリだからだ。昔何かの時のためにと作っておいた様々なAR用の欺瞞プログラムの一つである。プログラムの容量やタグを見れば一目瞭然だ。

「どうなっているのか教えて」

 Qロットの楓は、今は肉体を失ってシステムを管理する端末になっていた。楓は少し間を置いて、ルリに話を始めた。

『地球上で人が死にすぎたせいで、CUBEの覚醒が早まっている。その影響を受けているということよ』

「対処法は?」

『ないわ』

「なぜだ。感染者を隔離すれば新たな感染は防げるだろう」

『……』

 楓は押し黙った。そこで、ルリは気付いてしまった。

「まさか、全員なのか?」

 ヘンシェル系Sロットは外部の遺伝子を数多く使って調整されてきた。そのいずれかの遺伝子がCUBE因子を持ち込んだ可能性がある。

『ヘンシェル系はもう通常の方法では救えない。あなたが生まれるより前からわかっていたそうよ。このまま、このノアリアと共に沈んでいく運命だわ』

 楓は淡々と言った。思えば、白派はある時期からヘンシェル系Sロットを全く使わなくなった。この系列そのものがCUBEに汚染されていたと気付いていたということだ。

「じゃあ、白派はそれを知っていて私たちをこの計画に追い込んだのか」

 ノアリアはこの世界から分断された小世界だ。まるで隔離するようにそこに追い込まれていた。いざとなれば殺し合いによって処分される。

 感染が広がったヘンシェル系を別の世界に隔離して分離しようと考え、「ノアリア」を餌として撒いた。そこに計画通りルリが転がり込んできた。

 Sロットには危険な現実干渉性を持っている者もいる。知能も人間以上だ。特にヘンシェル系は体が頑丈で、猛毒でも殺す事ができない。ノアリアの中で始末するにはお互いに殺し合わせるのが最も危険が少ない。

 そのために全てが周到に準備されていた。高い知能を利用して宇宙戦闘艦の開発はしっかりやらせておきながら、安全に処分するというやり方。こんなえげつない方法を思いつく存在は一人しか思い浮かばない。

『サクラは私に姉妹たちを全て始末するよう言ってきた。私は逆らう機能を持たない』

 サクラによって改変されたオウミのシステムは、やがて準備が整えば姉妹たちを狂わせていくだろう。その間もCUBE因子の情報は収集し続ける。最初から、あの読みきれない人工知能の手のひらの上にいた。怒りを通り越して滑稽だった。

 楓は事故で肉体を失い、端末という姿になって管理者としての完全さを失ってしまっている。それでも姉妹たちを大切に思っていたが、動き出した計画を止める力はなかった。ルリと同じで、あとはただ流されていく木の葉のようなものだ。



 殺し合いはほどなくして始まり、オウミの内部は陰惨な戦場になった。

 最初の犠牲者の中にはグレーテがいた。ARの異常によってハンナに敵だと誤認され、彼女の現実干渉性によって焼き払われてしまった。自分が妹を殺したと知ったハンナは、部屋に篭って一歩も出てこない。肉体が失われても、二人の心は祈機の中にある。それはルリの手元にあった。結局、ルリの個人的な願望でまたしても二人を余計に苦しめた。

 もちろんそれだけでは終わらない。戦いには現実干渉性も使われたが、実験中だったCデバイスによる獣を模したロボットも使われた。繊維が集まって形状を作る大型の肉食獣のような戦闘兵器によって、Sロットの死傷者数は加速度的に増えていく。

 早期に誤認現象をつきとめて戦闘をやめさせることしかルリにはできなかった。しかし、放っておけば彼女たちは殺し合いを再会する。そんなのは耐えられなかった。

 止められない。どんなに努力しても不可能だった。調べれば調べるほど、完璧に外堀を埋められていた。物理的に脱出する方法はなく、外部への連絡も困難だ。ARを巧妙に利用した認識錯誤のプログラムのせいで団結も封じられている。実験の中で死んでいくしかない。追い込まれた獲物のように、ルリは両手足をもがれた状態だった。

 あるいは、黒派という派閥そのものがヘンシェル系という汚染された系列を分離するためだけに意図的に作られ使われていた。そんな話を聞いた覚えがある。月面都市にわざと放流しサクラメントから距離をとらせた。ルリはそれに積極的に加担してきた。

 この仕打ちが罰だというなら受け入れてもいい。自分自身だけなら、報いを受けてかまわない。しかし、姉妹たちには何の罪もない。

「レイは好きな人とかいるの?」

 ルリの話し相手はレイだけになっていた。オウミの内部が戦場になったことで前ほどの覇気はないが、レイはずっとレイのままだ。彼女と話していると落ち着くことができる。

「なんだよ急に……みんな好きだけど」

「そうじゃなくて、別の意味で好きな人だよ」

「そんなの、あたしにはまだわからないよ」

 レイの年齢は確かまだ一三、四相当だ。ルリはその頃にはもうハンナやグレーテを想っていた気がする。

「まあ他人なんか好きになっても不自由するだけだからね。もっと制御できるものを好きになった方が楽だよ」

「なんだ急に。それはそれで寂しそうだぞ」

「恋愛なんかしなくても面白い事はいっぱいあるし、寂しいことなんかじゃない」

 レイには家族と呼べる人はいない。もし仮に本来の身分に戻り、あるべき場所の月面企業に戻ったとしても同じだ。でも両親はいる。少なくとも片方は確実に存在している。

「けれど、もし大事な人ができたら……嘘はつかないほうがいい」

「失敗したことあるのか。ていうか恋人いたことあるのか?」

 レイは目を丸くして驚いていた。そういえば今まで自分について話したことがあまりなかった。

「自分を好きな相手というのは怖いものだよ。どんなことでもするからね」

「具体的には何するんだよ」

「例えば、好きな相手を殺そうとしたりさ。一応言っておくけど、私の例じゃないからね」

「……本当なんだろうな?」

 訝る視線を送るレイに思わず破顔する。彼女との会話は楽しい。表情と反応がころころと変化して飽きる事がない。レイは友人だった。

 レイはこの場所でただ一人のイスラフェル系Sロットだ。楓によると、サクラはレイを守ることを義務付けられているらしい。どんなことがあっても彼女に危害が及ぶことはないだろう。

 レイだけは守られる。ならそれ以外のヘンシェル系Sロットはどうなるのか? このまま最後の一人になるまで殺し合いを続けるだろう。それはあまりにも不憫だ。

 ならばせめて、ルリの手で彼女たちを葬ってやるのが情けだと考えるようになった。



 Cデバイスの応用によって強化兵士に今までにない強靭な肉体を与えるという計画は従来からあった。Qロットが導入されてからは、あまりにも非人道的という理由で認可されなかったものだ。

 かつてハンナから譲り受けた黒狼は、動物に対してそれを行ったものだ。人間用のものには、飛行用の翼や高い戦闘能力を与えた。それだけではない。Cデバイスの特性を使って、ARにより細工された認識の齟齬を突破する機能を付け加えている。この機能は完全ではないが、短時間ならQロットの管理すら突破することができる。

 この端末は「竜」と名づけられた。伝説によれば竜は神秘的な力を持っているという。Cデバイスで作られた黒い竜は魔獣の類と言ってよかった。

 この「竜」は、幽子感知能力を持たせた生物兵器の計画名として昔から存在していた。その一つに、Cデバイスを使うものがあったのだ。Cデバイスには幽子を留めるという特性がある。これをルリ自身の幽子感知能力と複合することで、幽子を通じてものを見る第三の目を獲得することができる。

 黒竜と名づけられたそれを身に纏うのはルリ自身だ。Cデバイスによって四肢を切断され、この神話上の生き物を模した肉体の中に封じ込められる。

 レイや他の生き残りの姉妹たちには、これはノアリアから脱出するための試みだと説明してある。その説明に嘘はない。今から姉妹たちを一人残らず殺害し、この牢獄から開放するからだ。

 一人目は廊下で発見した。背後から忍び寄って、できるだけ痛くないように一撃で仕留めた。その様子を見て逃げた姉妹は少し手間取り失敗してしまった。

 繰り返すうちに、だんだんと上手に殺せるようになった。姉妹だけがターゲットだったが、配備されていた政府軍の兵士や研究スタッフも目に付いたので殺しておいた。

 こんなに強靭な肉体を持ったことは今までなかった。生まれた時から手足が鈍く不自由だった。そんな苦労も吹き飛ぶほどにルリは自由を感じていた。幽子眼によって広がった視界は肉眼で見るものと違って色がないが、壁の向こうまで見通すことができる。自由に変形できる肉体は思考と行動をほとんど同じものとする。

 自分を殺人狂と思ったことはないし、そんな興奮を抱いたことはない。でも、もしかするとこれが自分の天性なのではないかとさえ思えてくる。ルリはこの「作業」を続けていった。

 そうしてほとんどの姉妹を眠らせた後、部屋に篭って出てこない個体を見つけた。それを処分すれば終わりだ。

 鍵はかかっていなかったので、扉を開いて進入した。逃げる様子も驚いた様子もない。珍しいことではなかった。全てを諦め死を受け入れようとしているのだろう。

「ルリ……?」

 その声が目の前の誰かから発されたものだとはじめはわからなかった。竜の頭部にある予備の光学眼を使ってその姿を見て、ルリは息を呑んだ。黒竜には発声機能が存在しないので、Cデバイスに埋没したルリの口から声を出すしかない。だが、言葉が出てこなかった。

 肌の色は土気色になり、美しかった金色の髪も痛んで見える。でも見間違えようがない。それは、誤って妹のグレーテを殺してしまってからずっと部屋に篭って出てこなかったハンナだった。

「やっぱり……そうなんだ。あなたなのね……」

 やせ細った手が黒竜の表皮に触れる。感触は鈍く伝わってくるが、温度はわからない。

「あなたをこんなに孤独にしたのは、私たちが悪いわ」

 枯れた声でハンナは続ける。何の事かルリにはわからなかった。しかし、彼女の目を見て気付いた。おそらくこの部屋にいるうち、前世での記憶が戻ってしまったのだろう。

 栄養状態が悪くなりNデバイスの活動が停滞したことが原因かもしれない。彼女はもう危篤状態だ。放っておいても死んでしまうだろう。

 自ら手を下す必要はない。それを知って、ルリは底知れない安堵を覚える自分に気付いた。

「ごめんね……」

 それが何に対する謝罪なのかはわからない。こんなしおらしいハンナを見た事はなかった。思えば彼女の第一印象は恐ろしいもので、それからも翻弄されることが多かった。しかしグレーテがルリを襲った時は助けてくれたこともあった。

 多分、グレーテと同じくらい彼女に惹かれていたと思う。怖いと思っていた初対面さえ、目を放すことができなかった。

 かつてハンナが実験動物を優しく扱っているのを見た時は意外に思った。その時と同じような慈しむような手つきで、ハンナは黒竜の頬を撫でた。やがてその力は弱くなり、彼女は動かなくなった。眠る表情はとても安らかそうに見え、美しさすら感じた。

 部屋を出て、ルリはレイとの会話を思い出していた。

「でもさ……あたしだったら」

 自分を好きな相手というのは怖いものだ、愛ゆえに相手を殺そうとすることまである、と冗談のように話していた。その時彼女はこう言っていた。

「好きな人には生きていてほしいと思うけどな」

 ルリもそうだった。本当はみんな生きていてほしかった。

 姉妹を殺していく作業は一つも楽しくなかった。ただ広がった体に精神を明け渡すことでしか、続ける事ができなかった。それももう終わりだ。心を刃物で傷つけられるような痛みを自覚し、ルリは苦しんだ。

 檻となっていたオウミ級零番艦の中に、既に生きている人間はいない。ルリと同類の少数のロボットが徘徊しているが、もうそれを始末する気力はルリにはなかった。あれの活動限界は数ヶ月なので、無理に殺す必要はない。そう自分に言い聞かせる。

 通路を歩き、ルリは艦の外を目指した。特に行き先があるわけではない。アイは今頃どうしているのか少し興味があった。生まれ故郷である月で死ぬのもいいかもしれない。

 行き先をなくした神話の黒い生き物は、その翼を広げて外界へと飛び立っていく。



■回想編(白)7



 強化兵士を作るには、まずは骨格と筋肉の一部を人工部品に置き換える。それらの人工部品は生身の神経ではなくNデバイスを通じて制御する。それによって、常人離れした体力だけでなく、それを正確無比に制御する能力も備わることになる。視界の分析を加えれば、どんな人間よりも精密な射撃が可能になる。

 この技術は非人道的であるために、法的には認められていない。つい先日、楪世ルリの計画でリークされたレンの記憶情報の中に確認された強化兵士の存在は批判を浴びた。

 柊は十数歳で、強化措置を施すには最適な年齢だった。成長するにつれ人工部品は自ら形状を変えて体の形成を助けていく。これで、彼女は鋼のような肉体を手に入れることになる。

「ねえ、もう一度私を助けてくれる?」

 記憶を無くした柊は、初めて目覚めた時と同じような無垢な瞳をアイに向けている。新しくなった体を動かす事はまだできないが、その瞳はアイの言葉を肯定していると感じられた。



 気付けば、アイは事務所のソファで目を覚ましていた。最近、柊を強化兵士に改造した時の夢ばかり見る。あれはもう何年も前だが、最近また柊の体に大きく手をいれる事があったから思い出したのだろう。

 起き上がり、しばらくじっとしていた。疲れが抜けきっていないが、すぐに仕事が待っている。

 前は、ソファで寝てしまうようなことがあれば柊がベッドに移動させてくれた。そして、目が覚めれば飲み物の一つくらい出してくれた。今は二人で暮らしていたスロット型住宅を柊が一人で使っている。

 あの日からいろいろな事が変わった。アイは柊とともに活動を続け、白派でも黒派でもない第三の勢力として力を強めていった。そしてついには、白派を実質的に手中に収める所まで権力を拡大した。

 それでも自由にならないことも多い。ノアリア計画は失敗に終わった。研究成果を回収するために柊を使ったが、不慮の事故で危うく彼女を失いかけた。修理後の経過に問題は出ていない。ある意味ではちょうどよかった。事故によって必然的にNデバイスを大幅に拡張することになり、最終調整のための下準備となった。現実のロールバックを実行するためには膨大な計算能力が必要で、複数の祈機とリンクして処理を行うための大規模なNデバイスが必要だったのだ。

 少しでも時間を稼ぐため、その膨大な計算容量はテスタメントの処理を強化するために使うことにした。本人は無自覚だが、体内でテスタメントの記憶検査処理を統制している。市民の記憶からCUBEの痕跡を見つけ出して封印する処理を常時行い続けている。

「全部狙い通り?」

 人工知能であるサクラはCUBEシステムの中ならどこにでもいて、特にアイを常に監視している。アイはオフィスから彼女に話しかけるだけで呼び出せる。

『必要なことでした』

 すると、少しの時間差があって返答が返る。

 楪世ルリは死んだ。アイは幽子デバイス関連の彼女の研究を回収した。回収した楓の残骸を調べると、ノアリア計画がどのように終焉していったのかがわかる。アイはそこにサクラの意思を感じ取った。

 これで残された計画はアルカディアのみになった。いよいよ実行できる条件が揃ってくると、アイの心には複雑な気持ちが生まれる。

『迷いはありますか?』

 サクラが問う。アイを試しているかのようだ。サクラはアイも消そうとするかもしれない。柊を取り込んだことでテスタメントは強力になり、その分だけサクラは力を増した。アイは孤立しつつあった。これからは自分の身は自分で守らなければならない。

 柊は大人になった。記憶を消去され、身も心も生まれ変わった。それでも今日まで、柊はアイに尽くしてくれた。Qロットは基本的に他人に従順に作られているらしい。だから深く考えたことはなかった。生み出した瞬間から、柊は一度もアイに逆らったことはない。

 Qロットは内蔵された倫理プログラムによって非人道的行為へのブレーキがかかる。しかし、その倫理プログラムに盛り込まれている内容は必要最低限のものだ。実際には、現実干渉性の回収という他の者にはできない仕事を行う際に体験するSロットの人生の記憶からSロットの苦痛を同じように経験し、それを基盤に行動していく。Sロットが過剰な苦痛を受けるような実験をQロットは自分の体験として忌避する。

 Qロットは自らの意思でテスタメントの利用を決定できる。しかし、主体となるのはあくまでも人間でなくてはいけない。そうでなくては、Qロットは人類の上に立つだけの支配者になってしまう。そうならないように、Qロットは一部の記憶の操作を他人に委ねる。そのために、従順な性格になるようにプログラムされている。人間、Sロット、Qロットの三つが三角形を描くように考えられている。

 柊は情報室のエージェントとして活動し、脱走したSロットの処分やテロ対応などの仕事をしていた。その過程で数多くのSロットの記憶を回収してきて、そのたびに倫理プログラムが作動して感情を揺さぶられていた。柊のNデバイスは特有の記憶だけを削除することができるように作られている。それを併用すれば、よほど残虐な実験をしない限り問題が起きることはなかった。

 そんなことを何年も続けてきたため、リカバリ領域に干渉するための現実干渉性が確実に柊の中に育ってきた。それは先日の事故で確認できた。あとは現実干渉性のデータベースであるサクラメントのマッピングが埋まればいい。それも時間の問題で、あと一年程度の間に完遂される。

 全てを思い出したら、きっと柊はアイを許してはくれないだろう。エリスを殺害した日から今日まで、数え切れないほどの姉妹を犠牲にしてきた。自らの意思でそれを行うこともあったし、柊にも命じてきた。アイには研究所での権力と、現実干渉性が必要だったからだ。

「迷いなんて、私には許されないよ」

 アイはサクラの問いに答えた。そうして払ってきた犠牲者も、現実のロールバックを行えば元に戻る。人を一人殺すたびに、アイは後戻りできなくなっていく。執念にも似て、このアルカディア計画を実現することを義務だと感じている。ノアリアは失敗に終わったが、他の計画など本当は眼中にはなかった。

 最近、月面都市では自殺者が急増している。CUBEの侵食がテスタメントでも抑えきれなくなってきているということだ。CUBEに感染した人間がついに月面都市にまで増え始めた。あと一年といったが、その間CUBEを押さえ込めるかどうか課題である。残された時間は多いとは言えない。



 自殺者の増加は大きなニュースとなり、社会問題として分析が始まっていた。これは財団が早く処理し、なんらかの結論と対策を作るべき案件だ。そんな時、アイにメールが届いていた。

 場所と時間が無数に指定されているだけのメッセージだった。よく使われる人工言語によるものだ。これを送ってくるということは、直接会いたいということを意味している。

 送り主の名前は知っている相手のものだ。アイは彼女に会うことにした。最も近い時間を指定して返事を送る。

 場所は老朽化した宿泊施設が多くある区画だった。維持費が高くなったために持ち主が手放したり放置されたりで、営業していない棟も数多くある。月面都市の暗部と言える場所だ。

 普段ならアイが足を踏み入れるような場所ではないが、視察という名目で正式に訪問した。周辺を護衛させた上で、指定された場所へ一人で入っていく。

「やあ」

 瓦礫の中に立つ姿は、少し前の柊を彷彿とさせる。彼女の姉にあたるQロット、綺榧だった。

 彼女のことは時々見ていた。この月面都市で新聞記者として活躍しているからだ。しかし、日常生活における彼女の人格と、Qロットとしての彼女の人格は完全に切り離されている。

 駆け出しの新聞記者の榧と、目の前にいる榧とは別人と言ってよかった。高度に記憶を分断され人格を使いこなしている。

 白派によってそのように改造を加えられた彼女は、そうして長い間月面都市に潜り込んで情報の収集を行ってきた。だが、こうしてアイに接触してきたのは初めてのことだ。

「このホテルは経営者が逃げ出してしまったんだ。CUBE端末は私が外しておいたから、盗み聞きを心配する必要はないよ」

 榧は古びたホテルの一室に置かれたテーブルに腰掛けながら言う。

 アイはどう言えばいいかわからなかった。黙ったままでいると、彼女から先に話し出した。

「少し前から、私に指令が入ってこなくなった。きみがしたことに関係あるんだろ?」

「……まあ、そういうことになるかしらね」

 白派には、既に派閥は存在しない。柊とともに活動を続けてきたアイによって全てが駆逐されてしまった。そのため、榧を都合よく使っていた勢力も消滅してしまった。

 それによって、榧は月面都市に放置されることになった。何年も諜報活動を行ってきた榧のQロット人格は、アイでもその奥底まで読み取ることができない闇を宿していた。かつて彼女の願いを聞いた時とはずいぶん雰囲気が違う。

 しかし、それは自分も同じことだろうとアイは思った。自分と榧はとても似た心の形をしているように思えた。

「することもないから、私は企業連合の動きを追跡していたよ。楪世ルリが死んだあとの黒派はどうなったと思う?」

「さあ」

「知っているくせに。教えてあげよう。黒派は、CUBEの標的になって滅びた。ヘンシェル系Sロットを使っていたのが切り口になったようだ」

 アルカディア以外の計画に興味のないアイには企業連合の動向はどうでもいいことだったが、一応追跡はしている。予想はしていた。月面都市に自殺者が多くなったのは、黒派が管理していたPS社を中心に広がっていることまではつきとめていたからだ。

「黒派だった組織が何をしているかを私は調べているんだ。教えてあげようか?」

 榧は挑戦的な目でアイを見ている。アイに何か協力して欲しいことがあるのだろう。それが何であれ、榧が調べた情報はアイにとって有益なものだろう。

「聞かせて」

 榧はその言葉を聞き、大量のデータをアイのNデバイスへと送ってきた。

 榧から受け取ったデータはアイの個人的な情報領域に保存し、そこで分析を進める事にした。性質上、政府には公開できない情報だとわかっているからだ。

 こんな情報をアイに提供するからには、彼女には目的がある。大方、アイが持つ何らかの技術を求めているといった所だろう。

「私には消したい記憶がある。それがどうもうまくいかなくてね。楪世ルリの研究を手に入れたそうじゃないか。それでなんとかならないかな」

 聞けば、榧は記憶の消去が不完全になってしまったらしい。過去の記憶が再生され、正常に忘れることができないそうだ。そのせいで、人格に揺さぶりをかけられて不自由しているらしい。

 記憶に苛まれて生きるのは想像を絶する苦痛となる。その元となる記憶が何かを聞きたかったが、アイは怖くて聞けなかった。あの時なにもできなかった自分が思い出されるからだ。

「どうか私を救ってくれないだろうか。そうすれば、きみの計画に手を貸すよ」

 窓の外の風景を眺めながら、榧は消え入りそうな声で言った。

「救って欲しいのは、本当にあなた自身なの?」

 意を決してアイはたずねる。榧は見せたこともないような切ない表情で振り返り、息を吸って何か言おうとした。しかしその言葉は喉で止まり、吐き出されることはなかった。

 ルリを失ったあとの黒派はCUBEの意思に取り込まれて、あのエリス・スタレットを中心に大量虐殺兵器の製造を始めている。人の数を一気に減らすことでCUBEの覚醒を促そうというのだ。それが榧からの情報だった。

 兵器が完成して大規模な戦闘が起きれば、大勢の人間が死亡する。それによって覚醒を加速させたCUBEは、その次にサクラメントの中の現実構築力を奪おうとするだろう。そうなれば全ての情報は一瞬にして消失し現実は無に変わる。

 そうなる前に、アルカディア計画を完遂しなければならない。こういう日がいつか来ることは予測されていた。CUBEの覚醒を阻んでいるテスタメントには限界が来ている。Nデバイスの性能は日々進歩し、人間の肉体が持つ情報量は増えている。柊を加えて強化したCUBEネットワークの処理能力をもってしても、市民の中に生まれてくるCUBEの萌芽を抑制することは完全にはできなくなってきた。

 榧は、月面都市での自殺多発について、労働者の生活環境とVRの進歩によるものという結論で記事を出した。この記事は広く拡散され、自殺者の増大について調査する手間は省かれた。この記事は一部には真実があったが、わざと正確な事実は隠していた。榧には引き続きCUBEの動向を探ってもらうことになっていたが、アイ自身も行動を起こすことにした。

 月開発財団はその頃にはもう黒曜星開発財団に名称を変更していたが、月面企業に出資するという活動内容は変わっていない。異惑星への移住をするためには重力が少なく資源も豊富で、何よりもう居住環境のある月面を拠点にするのが最も合理的だ。テラフォーミングに必要な技術も、この都市を築いてきた月面企業が持っている。

 財団総帥となったアイは政府の中でも最も強い影響力を持つ人物とされていて、過去の仕事から月面企業にも顔がきいた。しかし、そんな立場を利用しなくても、CUBEの影響を受けている月面企業を探し出すのは難しくなかった。それらは、はっきりと一つの系列に集まっていたからだ。

 円環状トンネル地下施設である月面都市に併設するようにもう一つの小型の円環トンネルを作る大事業をやってのけたPS社は、今や最も規模の大きい月面企業だ。零細から中小、場合によってはそれなりの大企業まで、次から次へと取り込んで勢力を拡大していった。その行動がCUBEの権化のようでもあった。

 社長であるエリス・スタレットをアイは知っている。あれは人間ではない。おそらくルリを失ったあと、エリスを中心にCUBEが広がっていった。白派はそこから逃げ出す黒派を注視し場合によっては始末してきたが、最近はそういう流出もない。おそらく黒派そのものがCUBEに押し出され壊滅してしまったのだろう。

 まるでPS社を中心にCUBEを呼び寄せてわかりやすく隔離したかのようだ。そのおかげで、敵ははっきり区別できた。この図を書いたのはサクラしか考えられないとアイは思う。

 榧の調査によればPS社は宇宙駆逐艦の建造を行っているらしい。新しい月面都市を誕生させたことはそのための巨大工廠とするためだった。表向きには、黒曜星開発という次の目標に対して政府が宇宙軍を強化するのに対抗し企業連合側も武力を保有する準備をしているということになっている。本当はCUBEの覚醒を目的としており、明らかに一般市民を標的にした無人戦闘兵器を大量に作っている。榧は、その無人兵器の動作を市民が遊ぶVRゲームのプレイヤーから収集していることを取材によって突き止めこの計画を知ったという。

 PS社は、古参の月面企業や地球の古めかしい企業と違って会合のような交流を通じて関係強化をする文化はない。情報技術が進歩しビジネスの常識が大きく変わったとはいえ、あれほど大きい規模になると完全に引きこもっているわけにはいかなくなる。なので、代表であるエリス・スタレットはたまに人前に姿を現す。アイは接触してみようと考えた。

 多くの系列企業が力を合わせて完遂した第二月面都市の誕生に際して祝賀パーティが開かれる。アイはPS社の勢力からすれば宿敵のような存在だが、知り合いの企業の一員として潜入するくらいはできる。

 パーティには意外な人物が呼ばれていた。アイにとっては懐かしいR社の関係者だ。そこにいたのは、副社長のレイ・レシャルだった。

 かけがえのない姉と親友との間の子供という、アイにとっては微妙な相手だ。姉と親友がそんな関係だったということに困惑があるため、レイに対する気持ちが複雑になっている。

 レイはR社の警備を担当している。R社は決して巨大企業ではないが、警備は自前の装備だけで行っている。レイはどこで回収したのか、姉がかつて使っていた有人戦闘ポッド「リヴォルテラ」を持ち出して戦力としていた。

 模擬戦という名目で、PS社の新型無人戦闘ポッド「イグニス」と戦わされるレイを見て、アイはもやもやとした気持ちを感じていた。本当はそんなつもりはなかったが、会場を後にするレイを追いかけ、背後から声をかけてしまった。

「今、私に話しかけないで」

 氷点下のような冷たい声が返ってくる。愛機であるリヴォルテラを破損させた直後なので当然の反応だ。

「フェアな戦いじゃなかったでしょう。まあ、レンならもっと簡単に勝ってたと思うけどね」

「……壊したのは悪かったと思ってる。あなたの……お姉さんのものを」

 レイと話すと、さっきまで感じていたもやもやとした気持ちが少し晴れる。一応数少ない親類の一人だからかもしれない。アイは会話を続けた。

「少し大人しくしてたらどうなの? 喧嘩を売るのは子供のすることよ」

「あなたはもううちの関係者じゃないんだから、口出ししないで」

「一応思い出の会社だからね。つぶされたくないのよ」

 煽るようなアイの言葉に、レイは睨む視線を返してくる。いつも、レイと話すとムキになってしまう。彼女の生まれのこともあるが、単純に見ていると腹が立ってくる。

「最近私の柊にずいぶんちょっかい出してくれてるようだけど、やめてくれる?」

「私と柊は友人なの。あんたなんかに口出しされる事じゃない」

 おとなしかったエミと包容力のあったレンからこんな性格の悪い子供ができたということが、アイには納得できなかった。一体どういう突然変異を起こしたらこんなに生意気になるのか。

「大体、柊を苦しめてるのはあなたでしょ」

「……あなたはどうなの。柊を壊した直接の原因は」

「あれしか方法がなかったから!」

 喧嘩はいつまでも続きそうだったが、話し声を聞きつけた人が集まってきそうだった。レイはともかく、こんな場所にアイが来ていることを知られたら問題になる。

「早く行きなさいよ……」

 その立場を考えてか、レイは小さくつぶやいた。負けず嫌いのレイのこと、そんな方法でアイが失墜するようなことは望んでいないのだろう。気遣いをしたというわけじゃない。考えていることが手に取るようにわかる。

「あの会社、目障りだからどうにかしてよ」

 そして去り際、そんな捨て台詞を残した。月面企業に対しても、PS社の圧力は強まっているらしい。今日の模擬戦にもそういう意味がある。レイとの喧嘩は余計だったが、今の月の空気を体感することができた。ここに来たことに価値はあったということだ。

 


 その後はすぐ、政府軍の宇宙戦闘艦オウミ級による艦隊が完成したことを祝う記念式典に参加しなければならなかった。艦に乗り込んで、その内部で式典が行われる。式典の間はおそらく暇だ。その日は情報室に柊が訪れる日だったので、通信を入れてみた。

「あの子、まだあなたを追いかけてるの?」

 業務連絡を簡単にした後、レイのことを柊に聞いてみた。

『たまに会うよ』

 レイの監視の目があるということは、ある意味ではアイには安心できることだ。柊が殺害されるようなことがあればテスタメントを統制するものがいなくなり、CUBEの覚醒は早まる。柊を失うわけにはいかないが、テスタメントと深く融合している限り接近しすぎるのは危険だ。そこには、サクラが潜んでいる。

 サクラはアイの力になってくれる事も多いが、完全に信用していいとは思えない。柊のことは守ってくれるだろうが、アイは切り離してもいいと考えているかもしれない。

 いっそレイに協力を求めるのも一つの手だとは思うが、考えようとしてやめた。あんな自己主張が激しくて生意気な子供を扱える自信はない。

『よく似てると思うけどね、二人は』

「なんですって?」

『外見の話ね』

「そう? 今笑ってるでしょ」

『そんなことないよ』

 なんとなく、柊の口調からからかわれているように感じる。その表情を見たいと思った。しかし、宇宙艦の中にいるアイと月面都市にいる柊の距離は、現実の距離よりも遠かった。

『幸せに過ごしてるよ。よかったと思う』

「何? 急に……」

 そんなアイの気持ちを察したのかそうでないのか、柊は唐突にそんな話を始めた。

『今日まで十分に長生きできたと思うし、あとはアイの好きにしていいよ』

「好きにって……」

 アイには柊の言っている言葉の意味がよくわからなかった。式典が始まる時間が迫り、アイは惜しみながらも柊との通信を終えた。



 薄い意識の中で、アイは誰かの訪問を受けた。

「うかつだよ」

 声がかけられる。医療槽にあるマイクから音声が伝わってきている。しかしアイは肉体を覚醒できないため、Nデバイスを通じてその声に返事をした。

「あなたの手は?」

「大丈夫……まだ使えそう」

 やってきたのは榧だった。クリシウムでは一緒だったが、人前で共にいることはできない。

「今の状況は?」

「少しきつい。時間はあまりないね」

 宇宙戦艦クリシウムにおける何者かによる攻撃から生還したものの、アイは重症を負って医療槽に入っている。こんな無防備な状態で攻撃を受ければひとたまりもないが、なぜか何も干渉されていない。それは、榧がテスタメントを押さえ込んでくれているからだった。

「私のことより、CUBEの動きをなんとかして」

「それがどういうことかわかって言ってるんだよね?」

 綺系Qロットの長女である榧は、システム利用の権限が最高位に置かれている。おそらくサクラからのアイに対するアプローチは全て遮断され、アイの正確な居場所についても欺瞞情報を流し続けている。

 しかし、現在の柊の処理能力を使ってアイに干渉されると防ぐだけでせいいっぱいだ。サクラは柊のQロットとしての権限は使えないが、医療槽を止める程度のことはできる。そうなればアイはすぐに死亡する。

 榧がここを離れれば、アイは危機に晒されるということだ。アイはそれを望んでいる。

「もちろん。その時はあなたがアルカディアを受け継げばいい」

 ロールバックが実行されれば死んだ人間も元通りになるので、今ここでアイの肉体を守ることにそう大きな意味はない。大事な人間を失ったのは榧も同じだ。彼女なら実行してくれるだろうとアイは確信している。

「柊の様子はどうなんだ。きみが起きられない以上、私が接触する必要があるんだよな」

「表面上は特に変わった所はないから……少し変な事を言う事もあるけど」

 ふと思い出して、アイは柊が言っていたことを榧に伝えてみた。

 長生きできたと思うし、アイの好きにしていいと柊は言っていた。その一言がどうしても気になっていたのだ。榧に聞いたのは、同じQロットならわかるかもしれないというだけの理由だった。

「もしかして、身の危険を感じているんじゃないかと思って。CUBEは柊に接触する様子はある?」

「……きみは本当に鈍いんだな。CUBEは柊をもう見つけている。でも今は見失っている。あのレイとかいうやつに助けられたみたいだ」

 レイの名前が出て、アイは少し安心した。彼女がいればR社のサポートがつくも同然だ。

「さっきの話だけど、要するに柊はきみのために命を使われてもいいと言ってるんだ。どういう意味かわからない?」

「え……?」

「きみがしようとしてることが何か、きっと彼女は気付いている」

「まさか……」

 そんなことがあるとは思えない。記憶の操作を繰り返して、アルカディアに関することは知られないようにしてきた。そうするかわりに、せめてその日までは柊が幸せに生きられるようにしてきた。

「連れて帰るよ。直接聞けばいい」

 榧はアイを保護している自分の処理能力を開放した。それと同時に医療槽に大量の外部からのアクセスがあり、ほどなくして医療槽は停止した。

「だから私を巻き込むな。きみが選べばいい」

 捨て台詞を残し、榧は病室を出て行く。

 柊が戻るまでの間、この停止した医療槽の中でアイが生きていられるかどうか。榧は柊を連れて帰ると断言した。暗闇のような槽の中で、アイは彼女の言葉を信じて待っているしかなかった。





 最初の一人を殺した瞬間から、これはアイにとって義務であり宿命となった。それも終わろうとしている。

 入念にプログラムをチェックする。第一トンネルと第二トンネルのCUBEシステム全てのリソースを使う、巨大な計算処理だ。間違いがあってはならない。

 残された時間は少ない。CUBEはいよいよ本格的な覚醒を開始し、意識して無人兵器で月面都市での殺戮を始めた。PS社が建造していたカロン級を中心に、月、地球、黒曜星の全てがあの兵器に埋め尽くされることになるだろう。

 この場所も例外ではない。厳重に守られた地下の施設とはいえ、時間をかければ突破される。それまでの間に実行しなければならなかった。

 今日まで十分に準備をしてきた。直前の作業を全て終え、あとはプログラムを実行するのみとなった。

「私のお願い、聞いてくれる……?」

 アイは柊に尋ねる。その答えを聞くのがアイには恐ろしかった。柊の中には既にロールバック用のプログラムが展開されている。彼女はもう、アイがしようとしていることがわかっているだろう。

「いいよ」

 返ってきたのは、あまりにも簡単な言葉だった。たった一言だけ。疑問を投げかけるでもなければ、責めるわけでもなかった。

「え……?」

「いいよ」

 現実干渉性の全てと直結した柊は今、関わってきた全てのSロットの記憶を持っている。今の柊の人格は、Sロットの総意とも呼べるものだ。だから、「いい」などと言うはずはない。彼女たちがアイを許す事は決して無い。そう思っていた。ここで駄目だと言ってくれたならいい。諦めることができる。

 それを、本当はずっと望んでいた。

 しかし残酷にも、柊はそんなアイの願いを叶えることはなかった。

「だけど……私は……」

「助けてって……アイは言ったよね」

 目覚めた時のことだ。柊はあの時のことを知っている。今の柊には全ての記憶が戻っているからだ。

 アイの望みを叶えられなかった。それが柊の全てだった。あの日泣いていたアイを救うことが、柊に与えられた命の理由だった。

「ごめんね……こんなに時間がかかってしまって」

 その言葉の意味を理解した時、アイは撃たれたような衝撃に襲われた。

 柊が生まれた時に与えられた理由は、アイからの「助けて」という言葉だった。具体的にはレンの命を救って欲しいという願いだ。あの日、それは結局果たされなかった。このロールバックによって、アイは記憶を持ったままあの日に戻ることができる。そうなればアイは救われる。柊にとっては、あの時失敗した役目を果たすというだけだったのだ。

「アイのせいじゃないよ」

 今日まで起きてきたこと、現実が壊れていくこと、大勢の人間が死んでしまったことは仕方のないことだった。だから気に病む必要はない。そう、柊の目から伝わってくる。

 はじめはエリスを自らの手で殺したことだった。それから人が一人死ぬたびに、前に進まなければいけないという思いは強くなっていった。やめることはできない。それは罪だと思った。これはアイにとっては義務だった。だからこそ、今日まで立ち止まらずにきたのだ。アルカディアを開く鍵はそろった。ここで本来あるはずだったものを取り戻し、全ての罪を贖う。ただそれだけのことだ。

「……できないよ」

 でも気付いてしまった。たとえそうであったとしても、自らの手で柊の命を終わらせることができるわけがない。今この場に立ってそれが自分にできるかどうか考えるのが怖くて、今日まで考えてこなかった。

 レンが死んだ直後、柊が小さな手でアイの手を握ってくれた時のことを思い出す。最初はレンの真似だと言っていた。小さかった柊は小さいなりに、アイを救わなければと考えたのだろう。

「できないよ……できないよ」

 思い出はいくらでもあった。

 料理を覚えて作ってくれた時。

 微笑んでくれた時。

 遠慮がちに欲しいものを教えてくれた時。

 柊と過ごした時間はアイの心に大きく刻み込まれている。レンとの記憶と比べても、もはや遜色ないほどに濃密な時間を過ごしてきたのだ。あの日レンを失ってからずっと柊は家族でいてくれた。湧き出る泉のように、柊への情がアイを埋め尽くしていく。それだけは考えないようにしていたのに。

 動かない柊の手を取る。彼女の手はアイよりも大きくなった。ずっとアイを支えていてくれた手だ。榧の言葉が思い出される。小さい頃だけではなかった。出会った日からずっと、柊はアイの「助けて」の声に従って生きてきたのだ。あまりにも今更になってそんなことに気付いてしまった。

 頬を寄せると手は暖かかった。大粒の涙が柊の手を濡らしていく。わずかだけ動く指先で、柊はそれを拭い取る。どんな時でも柊はそうしてくれた。

 敵はすぐ近くまで迫ってきていた。もう今しか機会はない。それでも、アイにはもうできなかった。

 アイは自らの手で、プログラムの実行をキャンセルした。

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