Reincarnatia 1
Reincarnatia
政府庁舎は既に殺戮を続ける無人兵器で埋め尽くされていた。飛翔するピストレーゼを無視していたそれらの戦闘機械も、接近していくと迎撃姿勢をとる。
レイは胸部のNデバイスに働きかけ、自分にしかない特別な力を使う。一体になるかのようにピストレーゼの武装システムを認知し、装備された機銃へ、その内部の弾薬へ、その先端の弾頭へ意識を集中させる。
物質を幽子分解させるレイの能力を宿した弾丸は地上の戦闘機械を一瞬で消滅させた。ピストレーゼを自動操縦に切り替え、レイはコクピットハッチを開く。小銃で武装し、そのまま飛び降りた。一緒に乗っていたノルンも同様にコクピットから身を投げる。
レイはアーマースーツのブーツから短い噴射を行い減速し着地、強化兵士であるノルンは何の工夫もなく軽やかに地面に着地する。
戦闘機械は施設の中にもいる。レイは持っていた小銃をノルンに渡した。暗闇が見える彼女にはそれで援護してもらうことにする。自分は拳銃があれば十分だ。
ノルンの案内で地下に向かう。政府庁舎の中には隠された秘密施設がある。既に扉は破られていた。そこにも入り込んでいた無人兵器を消滅させ、二人は中に入った。
血の匂いがしていた。主電源が破壊され非常灯に切り替わっている。薄暗い中に誰かが横たわっているのが見えた。
アイ・イスラフェルだった。企業連合の一員であるレイは、この年上の政府関係者と会えばいつも敵対してきた。しかし今はそんなことを言っている場合ではない。腹部から出血しており、今にも息絶えそうだ。
ノルンは近くにある実験槽の中に柊を確認した。彼女の方は機械に襲われるまでもなく既に生命活動を停止している。Nデバイスの過剰な適用によって体に負担がかかった結果、寿命を迎えたのだ。
それを知ってレイは涙を流し始めたが、虫の息になっているアイに応急処置を施す手を止めることはなかった。
「私より……柊に構ってあげたら……?」
「喋らないで。まだ生きてるあなたが優先に決まってるでしょう!」
その言葉を嗚咽混じりに言いながら、レイは手持ちの救急キットからナノマシン治療剤を全て使って処置しようとした。だがこの場でいくら手を施してもどうしようもないことはレイにもわかった。臓器が完全に破壊されている。医療機関も頼りにできないこの状況では、もうどうにもならない。まもなく、アイも死んでしまうだろう。
「何してたの……こんな簡単に死ぬような奴じゃないでしょう、あなたは」
艱難辛苦を乗り越え財団総帥になり、クリシウムの一件でもしぶとく生き残っていたアイの姿とは思えなかった。レイは説明しにくい苛立ちを感じる。
「失敗しちゃった……こうなるような気はしてたけど……」
ノルンは持ってきた本を柊のそばに置き、かわりに柊の持ち物から特殊拳銃を拾い上げている。手を止めてへたりこむレイの横から、それをアイに差し出した。
「これでいいか?」
「これかぁ……うん、これでいいよ」
アイはノルンから受け取った特殊拳銃を胸に抱き、目を閉じた。
「他にしてほしいことは?」
「ないかな……ありがとう」
優しく声をかけるノルンにアイは答える。柔らかく微笑んでいた。精気がないにも関わらず、それは穏やかな顔に見えた。
「待ってよ、まだ聞きたいことがあるんだから……!」
「……」
レイの呼びかけには答えず、アイは二度と目を開かなかった。ノルンはアイに持たせた特殊拳銃を回収し、かわりに柊の遺体の隣にアイを並べてやった。その一連の動作に何の意味があるのかはレイには全くわからなかった。
「行こう」
ノルンはレイの手をとって、建物の外へと導く。この場所に留まるのは危険だ。レイは涙を拭い、意を決してこの場所を立ち去る。本当はまだこの場所にいたかったが、外にはまだ生きている人間がいるかもしれない。それを救うことがレイの次の目的だった。
■
目が覚めると、柊は政府庁舎のロビーに立っていた。
出勤を重視する政府の庁舎には、普段はどの時間帯でも誰かしらが歩いている。しかし、今日は誰一人いなかった。ロビーだけではなく建物全体が静寂に包まれていた。
建物の外に出ても静寂は変わらない。どこにも人の姿を認めることはできない。地下施設の大気製造システムが作るわずかな風と音がしているだけだ。現実としか思えない空間だったが、ここがVR空間であることが柊にはわかった。現実では衰えていたはずの視力や体の感覚が回復していることもその根拠だ。
少し前、目が覚めると白い部屋のVRの中にいたという経験をした。しかし、古い時代の三次元グラフィックのような部屋だったあの場所に比べ、ここは比較にならないほど高い精度で現実を再現している。完璧に作られ、少しの綻びもない。
その白い部屋と同じことが一つあった。建物の外、自動車道の向こうに銀髪の人物がいた。
足元まで延びた長い銀髪が目を引く。柊はよく知っている。彼女はじっと柊を見ている。機械のような表情は生前と変わらなかった。アルカディアの下準備で全ての現実干渉性と接続し記憶を取り戻した柊は、彼女が誰なのかも思い出していた。
「ごめん」
「何に対して?」
エル・イスラフェルは柊にとって数少ない友人だったと思う。しかし、一年前の事件で記憶を操作された柊はエルと敵対関係になった。そして彼女を捕らえて、アイに引き渡した。
「私が……」
その後、エルはアイによって何らかの実験に使われていた。短かった髪が足元まで伸びているのも、その実験の間の変化だった。そして実験が終わった時、柊はエルの処分を命じられ、彼女の命を終わらせた。
「体はなくなったがこうして生きてるんだ。気にするな」
「幽子デバイスがその人のクオリアの根源かはわからないよ」
「それを言うなら、昨日の自分と今日の自分が同一の存在かどうかだってわからない」
今あるものを信じることでしか前には進めない。それは柊にもわかる。ならば、今この状況はどういうことなのか。
「どうなったの?」
「お前の体は寿命で死んだ。アイは……」
柊の体はサクラメントと繋がった時点で限界を迎えていて、短かった寿命がさらに削られついに生命活動を停止した。柊の本質だけは取り出され、こうしてVR空間に導かれた。
「じゃあ、アイもこの空間のどこかにいる?」
「あいつはここには来ない」
意識を失う直前のことは柊もよく覚えていないが、月面都市が無人兵器に覆い尽くされたことは知覚していた。アイと柊がいた地下にもそれが押し寄せたとしたら、アイの肉体は既に滅びている可能性が高いと柊は思う。
ならば、きっと柊と同じようにここに退避しているはずだ。抜け目ないアイならそうすると柊は思っていた。
「なぜ? どこにいるんだ」
「このVR空間が起動したということは、あいつ自体がもう解体されたってことだ」
ここは仮想現実退避空間「リンカネシア」だ。リンカネシアはアイの幽子デバイスの一部を使って作られている。
アイは祈機となり、ここはその中に再現されたごく狭い範囲の再現空間だ。祈機の性能を使って作られた、ほとんど現実といっていいほど精密に再現されたVR空間である。
つまり、アイはもう確実に死んでいる。アイそのものに根を張るようにこの世界は作られている。その場にあった柊の特殊拳銃の中に祈機が形成されたので、物理的には拳銃の中にこの世界は存在している。そしてその拳銃は、ノルンが所持し守ってくれている。
「これも、アルカディアのロールバック計画の一環?」
柊を生存させることができればアルカディアは継続できる。これはそういう手法なのだろうと柊は解釈した。一度体が滅びても、時間を戻せば元通りになるという計画に違いない、と。
しかし、それは違っていた。
「これは別の計画だ。もうアイは戻ってこない」
エルはきっぱりと言い切った。言わなければならないという強い意志が感じられる。
アイはこの計画をアルカディアとは別にひそかに進めていた。計画の途中で自分が斃れる場合の保険という意味もあったが、最後の選択に失敗した時のことを考えていたのだ。アイの命が失われた場合、自動的にもう一つの計画、リンカネシアが起動するように仕組まれていた。
計画についての情報を柊は閲覧した。ロールバックはもう行えないことがわかる。そのために必要な計算容量もプログラムもこのリンカネシアのために全て使われてしまっているからだ。リンカネシアが存在しない限り柊はすぐに意味消失するので、もうどうやっても不可能だ。
ロールバックへのアクセスに必要なルリの楔の情報も念入りに消されていた。どうあっても、二度とアルカディアの続行ができないようにというアイの意志を感じた。
なぜ、と柊は思う。これほどの力を持ってしても、消滅したアイを蘇らせることはもうできない。過去への道は閉ざされたのだ。
「こんな不完全な状態でリンカネシアを起動する予定ではなかった。だから、あまり時間がない」
エルは言いながら、現状を柊に示した。
月面都市は無人兵器で埋め尽くされていた。生産された無人兵器はカロン級宇宙駆逐艦に詰め込まれ、次は地球に向かう。
第二トンネルでは、PS社を中心にこの無人兵器が次々と増産されていた。カロン級は地下深く無数に備蓄され、弾丸のように次々と地球に向けて射出されている。その数は三千隻以上あった。
CUBEの意思はいよいよ明確になっている。人類を完全に終わらせて、人々の中に分断された自分の体を取り戻すつもりだ。そのためにこの一年でそれだけの駆逐艦を生産していた。月面の地下に好きにできる土地を獲得したことで、ひそかにこれだけの駆逐艦を生産できたのだ。
人類の抹殺が成功して覚醒し、最後に現実干渉性を手に入れればCUBEは完成形となる。いつか来ると予測されていた虚無の未来をもたらす神だ。
しかしまだ終わりではない。現実干渉性が全て揃い、ここにそれを管理する柊の意識がある。それは、別の未来の形が開始されたことを意味している。それこそが、アイが最愛の人に遺したものだ。
■レイ・一
寂しい人生を送っている人だという印象が出会った時からあった。救ってあげたいと思っていた。できるだけ近くにいようと思っていたのに、肝心な時に駆けつけることができなかった。
政府庁舎を出た瞬間から、ノルンはまた子犬のような無垢な表情に戻り、何も喋らなくなっていた。思えば誰かに乗り移られたような振る舞いをしていたが、それが何だったのかわからない。
ノルンはレイの手にそっと触れた。彼女なりに慰めようとしてくれているらしい。
前向きな気持ちに切り替えなければならない。レイはまだ生きている。ピストレーゼに乗り込んで月面都市を飛翔しながら状況を探っていた。
しかし、大した情報は手に入らない。大量に湧き出た無人兵器による妨害電波が走っているため通信が使えない。CUBEネットワークもCUBEの覚醒の影響で混沌としていて、意味のある情報は得られない。そのせいで、まだ生きている人間の声を聞いていない。
サクラからこういう日が来ると聞かされていた。CUBEの存在も概要くらいは知っている。実感がないままだったが、この光景を見れば信じないわけにはいかない。
今はそのサクラもいない。一方的に別れを告げていなくなってしまったのだ。疲労を感じたレイは自動操縦に切り替え、一息ついた。
少し時間が経った頃だった。月面都市全体が異常な振動をしていることが観測された。振動はすぐ収まった。
「何なのよ……もう」
わからないことだらけだ。月面都市内を闊歩していた無人兵器がいっせいに街の外に出て行くのが見えた。何かが起きているのは間違いない。レイは無人兵器の流れを追って月面都市の外へ出た。
暗い宇宙が空に広がる灰色の月面に出て、すぐに理由がわかった。
剣のような楔形をしたものがある。政府軍の宇宙戦闘艦オウミ級二隻の巨大な姿が月面都市の上空に並んでいた。識別信号によれば、一番艦の「トランキリタティス(静寂)」と四番艦「フリゴリス(氷)」が並列して飛んでいる。天を塞ぐような圧迫感を薄めながら高度を上げ、月を離れようとしている。見ると武装モジュールが稼動し戦闘準備を開始している。レイは身構えた。まさかあれもCUBEの一部なのか。
周囲に漂っている無人兵器はレイの存在に気付き、攻撃を仕掛ける軌道を取り始めた。四本足の節足動物のような姿で月面都市を跳ね回っていたそれらは、宇宙空間でも機敏に飛行できるようだ。敵はざっと探知できるだけで数万機いる。能力を使って対抗したとしても、この数の相手は不可能に思えた。
オウミからレーザー機銃と電磁加速砲の射撃が開始された。レイを追尾していた敵機が次々と破壊されていく。
どうやら、オウミ級はこの無人兵器と戦っているらしい。敵ではなかった。
『そんな所を飛んでいると撃ち落すわよ』
ピストレーゼに通信が入った。聞いたことのある声だ。かつてレイがオウミ級にいた頃、オウミ級を訪れた時に聞いた声だ。
『サクラに代わって、“リンカ”があなたをナビするわ。月面都市に戻って、残りの無人兵器を一掃しなさい。生存者を避難させて。それがあなたの役目よ』
状況についていけないレイだったが、リンカと名乗る存在の強い語調につい従ってしまう。サクラに代わるというからには人工知能の一種なのだろうが、その口調は機械的というより高圧的だった。それなのに、少し心が躍るのを感じた。
「生存者って言った?」
『位置を送るわ』
リンカから生存者がいる場所の情報が送られてくる。生存者はまだ大勢いて、月面都市に点在しているようだ。加えて、あの四本脚の無人兵器、「メルカバ」という名前らしい殺戮機械の情報も提供された。それ以来リンカからの通信は途絶えたが、オウミ級の航行情報は常に送られてきた。
オウミ級二隻は地球に向かったカロン級を追撃しに行ったようだ。カロン級に満載された無人機が地球上で展開されれば、地球人類は絶滅する。地球上の兵器ではあれには対抗できない。
カロンは数千隻いて、オウミ級はたった二隻だ。対抗できるようには思えない。だがそれを気にしている暇はなかった。政府の秘密港が解放され、そこにオウミ級がもう二隻待機している。モジュールの組み換えで武装をほとんど外し、生き残りを収容するのに十分な容積を確保した避難船にされている。リンカから受け取った生存者を迎えに行き、そこまで連れて行く必要がある。
近くの居住区画のシェルターに数百人がいる。月面都市内の無人兵器はほとんどいなくなっていたが、まだ数機が残ってしつこくシェルターを破ろうとしている。政府軍の戦車部隊はすでに壊滅しているので、シェルター内の避難民はなす術がない。
長期戦になりそうなのでレイは能力の使用をやめ、ピストレーゼの戦闘モードを手動/自動の複合操縦に設定した。普通の戦闘ポッドより多彩な武装がある「E2」を扱うには自動操縦の助けが必要だ。
ピストレーゼシリーズでは共通して機体上部に大口径の機銃があり、E2ではその同軸に電磁加速砲も搭載している。下部には擲弾砲と小口径のレーザーブラスターがある。さらに、左右のエンジンモジュール内に宇宙戦闘用の隠し玉がある。武器は十分にあった。
レーザーブラスターは小型砲塔になっていて、射角を自由にとることができる。レイはその制御を自動操縦に任せ交戦を開始した。レーザーブラスターは無人兵器に対してはほとんど破壊力がないが、センサーを破壊するか狂わせる能力がある。
無人機の上面は機銃でも貫通できないが、腹側なら損害を与えることができるとリンカからの情報でわかっている。擲弾砲で牽制射撃を行って跳躍させ、下側に回りこんで射撃を加えた。敵機は機動性に優れ回避運動もめざましい。政府軍の戦車が手玉にとられなす術もなく撃破されるわけだ。しかし、リヴォルテラと比較して格闘戦能力に優れるピストレーゼに自動操縦の補助を加えれば対抗できた。一機の相手をしている時、接近する他の敵機からの攻撃は自動操縦が割り込んで回避を行い、レーザー機銃によって撹乱し近づけさせないようにする。
一機ずつ撃破し、やっとシェルター前の安全を確保した。外の状況を見ていたのだろう。戦闘が収まると、生存者がシェルターから顔を出してきた。
「あなたはみんなと行って」
「……」
ノルンはそこで降ろすことにした。コクピットに二人も詰め込んでいては機動性が低下する。彼女は素直に従った。
避難場所があると伝えると、数百人は歓喜の声でレイを出迎えた。全員を車に乗せ、護衛しながらオウミを目指すことになる。近くに敵機はいなかったが、しばらくすればまた襲ってくるに違いない。避難民の中には政府軍の軍人が大勢いた。ピストレーゼへの弾薬の補給を手伝ってくれる。
「政府軍はどのくらい残ってる?」
「戦車はほとんど全滅だ。宇宙戦闘機はこの近くの格納庫にある。でも、あんたのと違って無重力用で、この中じゃ飛行できない」
「じゃあそいつの武器を外して無人戦闘ポッドに装備させられない?」
「やってみよう」
ピストレーゼがいくら高性能機でも、それだけでは不安がある。避難民の中から企業連合の技術者や開発者を募り、町中からポッドを集めて使えるようにすることになった。その間、政府軍関係者は武器を集める。この区画が安全なうちにその作業をしておけば避難が楽になる。敵の数が減った今なら、これで少しは対抗できるはずだ。
ピストレーゼはただの宇宙戦闘機ではなく、あらゆる戦闘ポッドの群体戦術を作る機能がある無人機指揮機だ。今までの戦闘機械とは違う独自の形式で情報収集を行うようにできていている。兵器に限らずあらゆる物体の幾何学的、機械的情報を記憶してシミュレーションに投入できる他、CUBEネットワークからも必要な情報を取得できる。どんな状況でも柔軟に対応できる指揮機であり、現地で適当に組み合わせて作った戦闘メカにさえ、すぐに最適の動作プログラムを作成してパッチすることができる。レイはこれまで運用試験以外でその機能を活用したことはなかったが、指揮系統が混乱している今は非常に役に立つ。
「あの……あなたは綺柊を知りませんか?」
政府の情報室に勤める技術主任だという人物がレイに話しかけてきた。技術主任だというだけあって、その人物は戦闘ポッドの配備で力を発揮してくれていたのだ。
しかし、この場所でその名前を聞くとはレイは思っていなかった。
「柊の知り合いなの?」
「彼女を知っているんですか? どこにいるんですか!」
情報室といえば柊の職場だ。つまり同僚ということだ。柊ならこの状況をなんとかできるかもしれないと彼女は主張した。
「柊は、もう……」
「え……」
最後を伝えると、その人物はショックを受けていた。単に能力をあてにしていただけの反応ではない。レイは彼女を抱きしめてやった。こんな風に柊を気にしてくれる人間がこの世界にはちゃんといたのだ。それがレイには嬉しかった。
「……でも、私たちを見てくれてるかも」
「そう……ですか。そうだといいです」
根拠がないではないことをレイは伝える。リンカの存在の後ろに柊がいるのではないかと希望を持っている。
生存者の情報に従って次々と救出作業をしながら、レイは着実に退避先のオウミへと向かい、ついに到達した。出航の準備は整っていた。そこにも政府軍の生き残りがいて、誰かからの指示で脱出の準備を進めていた。
オウミ級は広い。レイはよく知っている。全長一キロメートルもの巨大な宇宙艦で、モジュールを居住ブロック中心に組み替えると二十万人強を黒曜星まで輸送できる設計になっている。四隻あれば百万人近い収容人数になり、月面都市の人口を一度に輸送できる。オウミは戦闘艦だが、黒曜星への移住のための輸送艦でもあるのだ。
無人兵器の襲撃によって大勢が死んだ今は二隻で生存者全てを収容できる。二隻のうち一隻、二番艦「インブリウム(雨)」は満載になり出航していった。外がどんな状況かわからないが、順調に飛行していることがデータからわかる。
こんな脱出計画があるならもっと早く実行していればよかったはずだが、それができなかったのは完成がつい最近のことだからだ。もう一隻はまだ整備が不完全ですぐには飛び立てない。制御系に不具合があるらしい。
その一隻とは、テロによって一部が破壊された三番艦「クリシウム(危機)」だ。運用試験を兼ねた演習の最中にあんな事が起きたため、一部解体された状態にあった。事が起きてからすぐに修復にかかっていたが、飛び立つにはまだ時間が必要だ。
月面都市は円環状の地下トンネルの構造なので、今まで通ってきた道と反対側にまだシェルターポイントがある。次はそこに強行突入し、同じように避難民を救い出す必要がある。レイはピストレーゼを後部格納庫に着艦させて整備を依頼した。
「残るつもりなの?」
ノルンは避難民とは行かないらしかった。意思を宿した瞳をしている。月面都市に残ってやることがあるらしい。
「れ」
「れ……?」
ノルンは口を開き、何かを言おうとしていた。さっきの状態を除けば、言語機能がついていないノルンが声を出して喋る所をレイは初めて見た。
「れんらく」
たったそれだけの単語しか喋らなかったが、自分が連絡役になるという意味にとることができた。
その言葉通り、ピストレーゼには通信が入っていた。ノルンは高度な通信機能を持ったS型人造強化兵士だ。ノルンを経由して政府の軍事回線が開いている。
メルカバの妨害電波の中でも、高度な情報戦ができるオウミと通信機能が強化されたS型を組み合わせれば通信が可能らしい。現在の状況が伝わってくる。
その後、避難民を集めてクリシウムも出航し、無事に月から飛び立った。加速器を使用できないので最大速度に到達するまで時間はかかるが、加速しきってしまえばカロン級の足では追いつけない。
それまでの時間稼ぎのために戦闘に加わるのがレイの次の仕事だ。地球方面の状況を探り、レイは目を疑った。
汚染によってもともと灰色の雲に覆われていた地球は、今はもっとどす黒い暗雲に覆われていた。どうなったのか、戦闘ログから経緯を調べてみた。
数千ものカロン級は地球の大気圏に突入すると同時に、そのままの勢いで地表に激突していったのだとわかった。楔のような形をしたカロン級は地面に直撃するとその膨大な運動エネルギーを放出し、核爆発にも匹敵する破壊を引き起こす。衛星兵器と同じ原理だ。それが数千という数で次々と行われ、大陸や海の形を跡形もなく粉砕していた。
カロンの狙いはその次にもあると思われた。破壊によって舞いあがった粉塵によって数ヶ月から数年の間は太陽光が遮られ、厳しい寒さが襲うことになる。生態系は破壊される。その後で地面深くに埋まったカロン級からメルカバが這い出て、抵抗できない生き残りの人間を狩り立てていくのだろう。
カロン級のほとんどは地球に落着してもう二度と宇宙には戻れないが、これで人口が失われればCUBEの意思は確実に目覚めるだろう。もともと人口が激減していたとはいえ、地球にはまだ二億人ほどの人口がいたはずだ。それが一度に開放されれば押さえ込む手段はない。
CUBEは幽子構造物なので容易に月まで到達する。そこで研究所に備蓄され守られてきた現実干渉性を手に入れれば、避難先の黒曜星も含め一瞬で消滅させられる。どうすればいいのかレイにはわからなかった。
生き残りのカロン級は出航したばかりのクリシウムを標的に定めた。重力エンジンで猛加速をかけている。最大速度ではわずかに劣るカロン級だが、オウミの三分の一ほどの全長で軽量のため、瞬間的な加速では勝っていた。クリシウムはまだ増速中で、このままでは追いつかれる。
カロン級の第一波を追撃していた二隻のオウミ級、トランキリタティスとフリゴリスは遠くにいる。地球を一周しなければ戻ることができない。それまでの時間は一人で足止めしなければいけない。レイの能力を使えば、全長四メートルしかないピストレーゼの武装でも巨大な敵艦を止めることができる。
飛翔物体を媒介にして能力の発動地点を遠距離まで飛ばすためには、発射する弾丸の存在を知覚しておく必要がある。距離が離れるほどそれは困難になるので、極度の集中状態を作るためにピストレーゼに搭載された祈機によって感覚を補強する必要がある。祈機と人体とをつなぐNデバイスにかかる負担は大きい。
宇宙空間では射程距離が伸びるため長大な距離をとって撃ち合うので、拳銃で近接戦闘する時とは比較にならない集中力を必要とする。ピストレーゼの上部機銃の中心には同軸の電磁加速砲があり、カロンと撃ち合うとすればこの兵器の射程距離でしかありえない。弾薬には限りがあるので一発も外すことはできない。
ピストレーゼの接近を探知したカロンは副砲を作動させ、面制圧を行う散弾を発射した。高いセンサー性能と自動回避アルゴリズムを持つピストレーゼは数億個の散弾の運動を分析して最小限の動きで回避を行う。その様子を見たカロンは、搭載したメルカバを山ほど射出した。
戦闘機の役割をしているメルカバをいちいち相手にしている余裕はない。カロンだけを狙う。レイはピストレーゼの武装を自らの一部として認知し、装備された電磁加速砲の弾丸に集中し、発射する。
弾丸は向かい合った一隻目の斜め側面から本体を貫通し、その奥の重力エンジンに命中し破壊した。カロンの増速が止まるのを確認する。これでもうクリシウムに追いつくことはない。二隻目も側面から同じく重力エンジンを狙撃した。
レイのNデバイスが熱を持ち始める。回避のための計算処理能力も圧迫されている。敵機が背後につき、射撃によってピストレーゼのとれる軌道を狭めてくる。三隻目を狙う時間を得られず、やむなくレイは回避に専念する。その間に敵艦との相対速度が開いていく。あまり時間をとられると二度と追いつけなくなってしまう。
胸が熱く苦しくなってきた。長距離射撃の負担は想像した以上だ。このまま残り数十隻を止めるのは不可能に思えた。戦闘が始まってからまだ十五分しか経過していない。地球がああなった今では手遅れなのではという迷いも生じてきていた。
『一人でやることじゃないわね』
幻聴かと思うような柔らかい声がして、レイのNデバイスにかかっていた負荷が急激に少なくなっていた。何者かが外部から干渉し、負担を軽減している。それが何なのか、レイにはすぐにわかった。
「だって……私しかいないから」
先ほどとは違う胸の痛みを感じていた。ずっと聞きたかった声だったからだ。
優しく抱きしめるような感触がして、同時にピストレーゼの動きは軽くなった。レーダーがすぐ近くにいる味方の艦をとらえている。その艦がピストレーゼと繋がり、コンピュータシステムに処理を分散することで、能力使用と回避運動のための計算を劇的に軽くしていた。
本来、無人機指揮機であるピストレーゼは各無人端末に搭載された計算能力を統合して並列処理をさせる機能を持っている。これはR社が作ったもので、この味方艦はそれと同じプロトコルが使用されていた。
地球を一周しているトランキリタティスとフリゴリスがもう戻ってきたのかと考えたが、そうではなかった。それとは別に、次々と味方艦が現れている。その数は数隻から数十隻、そして数百隻へとどんどん増えている。一体どこから来ているのか、その出所を確認する。そして驚いた。この味方艦は、どういうわけか破壊された地球から次々と上がってくるらしい。
簡略化されてはいるが、それはオウミ級によく似た宇宙艦だった。人工筋肉繊維を使って海中でひそかに建造されたらしい。
一年前、レイはオウミ級零番艦オウミを撃墜して海に沈めた。そのオウミはその後で別のプログラムを与えられ、ずっと海中で活動を続け、千隻もの自分のコピーを生み出していたのだ。
「カエデはずっとこれを作っていたの?」
『カエデじゃなく“リンカ”だと言ったわよ』
「カエデはカエデだよ」
オウミにかつて搭載されていた人格プログラムがこの作業を担当した。それが今、こうして宇宙空間へと脱出して合流を果たしたのだ。
オウミ級はもともと、政府軍が宇宙で勢力を維持できなくなった場合に地球の海中から発進できる戦闘艦というコンセプトで作られた。衛星でも探知できないよう海中に潜んで移動し、そこから潜水パッケージを捨てて一気に宇宙に上がることができる。二十万人強の収容能力を持つオウミ級が千隻あるということは二億人程度の地球人口のほとんどを回収できるということだ。上がってくる改オウミ級の中には避難民が満載されていた。
カロン級が突入軌道を変更不可能になった時点でこのオウミ級は動き出し、緊急避難命令によって市民のほとんどを回収した。この日までにそれをスムーズに出来るようにインフラを整備するのは大変だったが、ノアリア計画が終焉してCUBEの意識が月面都市に集中したことで実現できた。
人間の肉体がこんなにあるということは、それによって封じられているCUBEの覚醒はまだ実現できていないということになる。
それならまだ勝ち目がある。レイは奮い立った。
「相手の行動を利用するこのえげつない計画性はサクラっぽいね……」
『正解。地味な作業だったわ。改オウミにはあまり戦闘能力はないから、あなたが守って』
レイは封印していたピストレーゼの左翼モジュールを展開した。それによって、ピストレーゼは左右非対称の一枚の翼のような形状に変化する。展開した部分から刺のような形をした四機の子機を射出した。
リヴォルテラで研究中だった子機制御制空装置、CLYXシステムの進化系である。レーザーブラスターを内蔵した小型の砲台を飛翔させることで、たった一機で群隊に対抗できるものだ。
その制御は高負荷のため祈機をもってしてもレイの能力と共存できないが、味方艦がこれだけいて外部に処理を委ねられる現在ならフル活用できる。四機の子機はピストレーゼに張り付いた敵機に攻撃を仕掛け、レーザーブラスターの精密射撃によってセンサー部や内部回路を破壊して無力化していった。宇宙空間には大気がないので、レーザーブラスターの威力は拡散されず射程も一段上だ。
ピストレーゼ本体は再びカロンを狙う攻撃軌道をとる。CLYXによって軌道の自由度が増し、容易に狙いが定められる。改めて三隻目に照準し、射撃を加えた。
改オウミ級のいくつかからミサイルが発射された。ミサイルは途中で分解し、中からCLYXと同様の子機が射出される。そして、ピストレーゼを保護する無人機群体を形成し始めた。それを率いて攻撃を続行し、残るカロンも次々とエンジンを停止させていく。
その時、地平線の彼方から射撃があった。散弾と榴弾の混合した攻撃が命中し、エンジンを止められたカロンが四散する。地球を一周したトランキリタティスとフリゴリスが戻ってきたのだ。
足止めの役目は終わりだった。敵がいなくなった空間を漂いながら、レイは一息ついた。
まだ終わりとは思えない。だが、カエデに任せている限りはそれに従えばいいと思うと安心だった。
『いいえ、次はあなた自身の決断が必要になるわ』
カエデは厳かな声で言う。レイの感情を読み取って言っているのだろう。
月面都市第二トンネルに再び動きがあった。カロン級の第二派が射出されようとしている。人類が守られた今、覚醒した分のCUBEの意志はPS社を中心に集約されて次の動きを起こそうと思考している。
目的は当然、千数隻に乗った避難民の追撃だろう。工廠の動きを監視している班から連絡があった。今、敵はカロン級に高速巡航能力を与えるブースターを生産し取り付けている途中だという。それはあと数時間で完成してしまう。そうなれば、カロン級の第二波はオウミ級に追いつくことができる。
阻止するには、第二トンネルに残ったCUBEの一部との最終決戦が必要だ。覚醒した部分のCUBEをなんとかしなければ、この戦いは終わらないのだ。
「なぜ決断が必要なの? ぶっ倒せばいいんでしょ」
『……話を聞いた後でもそう思えればいいわ。けれど……』
方法はあるし、リンカは力を貸してくれるらしい。しかし、そのためには知っておかなければならないことがあるという。
『大切な人を失うとしても、その決断ができる?』
リンカは言いながら、託された記憶をレイに与えた。それは、ある友人の最後の記憶だ。一年前の彼女の記憶を回想するものだった。
■回想編(黒)7
その記憶は、レイと別れた直後から始まっていた。
ノアリア計画におびき寄せられたと知った後、それに抗って月面の大空洞まで来た。楪世ルリは、変貌した肉体を抱えたまま滅びようとしていた。
今までの人生で死ぬかもしれないと思った時は何度かあったが、今はそんな危機感や実感は何もなかった。こんな体になってしまった時、もう死を受け入れていたからかもしれない。
地下空洞は月にはいくつか存在していて、この大空洞には薄く空気が充填されている。体を形成する人工筋繊維は酸素を供給し続けている。ルリの体を覆っていた黒竜の表皮は時間経過による新陳代謝の時期を迎えていたが、周囲にエサになるものがないため崩壊をし始めていた。
天を見上げるルリを覗き込む誰かがいた。濃灰色の髪と瞳が見える。黒竜の表皮が崩れて露出したルリ本体の瞳と目が合う。
「お前にはふさわしい最後だな」
冷たい声がかけられる。彼女は綺系Qロットの一人だった。最初の計画で使い捨てにした、長女の榧だった。
彼女を生み出し、利用し、捨てたのはルリだ。ディアナやエリスを苦難に追い込んだ要因を作ったのも。そのルリが今こんな状況になっていることを榧はどう感じているのだろうか。ルリを見下ろす無表情からは何も読み取れない。
「覚えておけ。もしお前が生き返っても、私がお前を殺してやる」
生き返っても、というのはアルカディア計画のことを言っているのだろう。現実をある時点まで修復し、その時点からやりおなすことができるというレムリアの機能を利用するものだ。
榧はあの計画が行われた時点では既に地球でディアナとともに生活を始めていた。ルリ、アイ、レンが行った政府軍の不正のリークによって地球での彼女の生活は変わった。ディアナは反政府活動に没頭していき、悲惨な結末を迎えた。
アルカディア計画による現実のロールバックでは、事前に準備していた数人は記憶を持ったまま修復地点に戻ることができる。榧は記憶を持って戻ることでディアナとの生活を取り戻したいと考えている。
ルリもまた記憶保持の対象になっている一人だ。今ここで命を落としたとしてもやりなおしがきく。
「なぜ笑う?」
「いや……本当にそんなことができるのかと思ってね」
アイは最後に失敗する。そんな予感がルリにはあった。それは榧も抱いている不安のようだった。
「もし……もし戻ったとして……私はディアナと一緒に生きられるのかな。教えてくれないか」
「ヘンシェル系のこと?」
「そうだよ。本当に、お前でもどうにもできなかったのか」
アルカディアやノアリアではディアナを救う方法はない。幽子デバイス内にCUBEのコードが紛れ込んだヘンシェル系は系統そのものにその特性がコピーされている。時間を戻したり別の世界に分離しても意味はない。CUBE自体と共存できるようなシステムがあれば関係のないことだが。
「何度も想定してみた。あの時ディアナが出て行くのを私が止めたとして、その後どうなるのかを」
ヘンシェル系である以上、ディアナはCUBEの覚醒に呼応して症状が現れる。サクラはそれを放置しないだろう。追われながら生活することになり、きっとディアナを苦しめる事になる。それはルリにも想像できた。
「ディアナに会いたいよ。けど、苦しむだけならいっそ……」
ただ生きているというだけの苦しみの中に愛しい人を置く苦しみはルリにも痛いほどわかった。それを嘆く資格はなかったが、榧が抱く苦しみが他人のものとは思えなかった。
「私を……連れて行ってくれないか。アイ・イスラフェルの所に」
レイを救い出して全てが終わったつもりでいたが、もう一仕事くらいはできるかもしれない。ルリには一つのアイデアが生まれ始めていた。
VR上に作られた月面都市は完璧な出来だった。基礎的な部分だけ作っておけば、あとはこの世界を受け継いだ誰かが作り上げていってくれる。
ルリの仕事は本当に終わりそうだ。あとは、アイと話をするだけだった。もはや仮想空間上にしか肉体を持たないルリは、榧に頼んでアイをこの場所に連れてきてもらった。
「あなたはいつも悪趣味だわ」
やってきたアイはそうつぶやいた。仮想空間上の彼女のアバターは復元ポイントの時点のもので、今より十数年前の姿だった。服装も含め、レン・イスラフェルが死んだ時と全く同じ姿だ。
「データがなかったのさ。他意はないよ」
それは本当だったが、アイは嘘だと思っただろう。ここに呼び出された理由を誤解しているに違いない。
「計画は……順調に進んでるわ」
覚悟を問われていると思ったのだろう。自分の姿を見つめ、この時間に戻った場合のことを考えているように見える。
「アルカディアは私にとってはどうでもいいものだよ。きみが失敗しても困らない」
「え……」
ノアリアが失敗した今、ルリにとっても頼れる計画がそれしかないとアイは思っていただろう。しかし、今日アイを呼んだのは全く別の理由だった。
「じゃあ何のために……」
「世間話でもしたいと思ってね」
勘のいいアイはそれが本音ではないと気付いて、身構えた様子になった。現在の姿は若いままだが、当時のようにまっすぐなアイとは違う姿が見える。
「もし戻ることができたら、きみは最初に何をする? 大好きなお姉さんに甘える? それとも、今ある知識を生かして現実を救おうとするのかな」
「……どうでもいいでしょう、そんな事は」
「そんなはずはないだろう。きみにはこの計画しかないんだ。その先のことを考えないなんてことがあるのか?」
アイはそれを考えないようにしている。ルリは気付いていた。この計画を必要とする理由と、この計画に必要となる一つのことがアイを挟んで離さない。
「どうせ同じことだ。今という時間を超えない限りは、CUBEは何度でも生まれてくる。あれはね、多分かつて人間が作ったものなんだ」
「どういうこと?」
訝るアイに、ルリは説明を続ける。
CUBEコードは、かつて一九九九年の東京に出現した時から人間に解読可能な言語で記述されていることがわかっていた。その後、世界がレムリアに作りかえられてからもすんなりコンピュータシステムとして応用ができた。それは、CUBEがもともと人間のコンピュータネットワークから生まれてきた一つの言語に過ぎなかったからではないか。
「多分、私たちが住むレムリアの前の世界もオリジナルの宇宙ではなかったんだろう。レムリアを作ったのと同じように箱舟に乗せて避難させた第二、第三の宇宙だったんじゃないかな」
一九九九年時点の元の世界では、CUBEを生み出せるような高度な情報技術はなかった。それなのにCUBEはそこに存在していた。つまり、それよりも前に同じ言葉を話す人間が生きる世界があったということだ。
「その世界もCUBEによって滅びたということ?」
話を理解し始めたアイはルリの話題に食いついてきた。興味を示し、技術者の目になってきている。
「そうだ。情報技術が進歩していくと、それは必ずCUBEのような存在に収束してくのだと思う」
人の意識では制御できない情報量の特異点を越えた瞬間から、情報技術は独立した生き物となる。そうでなくては存分に機能を発揮できなくなる。CUBEは自分自身を処理することができる旧来のオペレーションシステムを発見するとそれを解読し、自動的に自分自身と同じ形式に書き換えてしまうように作られている。そうして情報を保存しながら、同じプロトコルで処理できるように変換していくのだ。効率化を目指した結果、そのようなロジックを獲得した。
人間の決断では遅すぎるので、システムが勝手に正しい決断を続けるようになった最初の言語。それがCUBEだ。
CUBEによって特異点を超越して動き始めた世界では、必然的にその先の計算機として幽子コンピュータを生み出す。幽子の世界に漏れ出たCUBEは、そこにある人の魂を発見するだろう。CUBEから見ればそれは別のオペレーションシステムである。コンピュータとしては非効率な作りになっている人体の幽子デバイスを発見すると、それを解読して解体し、自分のプロトコルに変換して保存する。
そうして人が持っていた価値は「効率」という一つの究極によって駆逐され、極限に加速され消滅してしまう。それは宇宙全体に広がり、全てを停止させていく。知的存在は知的であるが故に万能になり、何もする必要がなくなって滅びる。
「なら、進歩しなければいい」
アイが言う。そう考えるのは人として自然なことだとルリも思う。
「そうだね。それも一つの考え方だと思う」
大量破壊兵器が生み出されたとして、それを禁止すればその危険性を封印することができる。しかし、そうやって歩みを止めていった先にも、これ以上何もないという行き止まりがある。それに、記憶が風化すればその危険を知らない誰かが再発見してしまう。乗り越えず放置した問題は見えなくなっても消滅しない。情報技術を封印していったとしても結果は同じで、いつかはCUBEと同じ結果に到達する日がやってくる。
ここでCUBEを封印したとしても、遠い未来を救ったことにはならない。それはアイにも理解できたようだった。
「それでも、未来がないからといって幸福を感じて生きることが無価値なわけじゃない。感じることが価値の根源なんだから」
「それと同様に、未来に存在して広がっていくはずの情報もまた無価値じゃない。情報の価値は全て等価で、今に価値があるからといって未来が無価値になるわけではない。両方を保持できるのが本当は正しいんだ」
過去、今、未来の情報に差があるわけではない。それらは全て同じ価値を持っていて、全てが並列して存在する状態が真の理想と言える。この世には両立できないことがあまりにも多いので誤解しがちだが、全てのものは並列できるはずだ。
「今の私の肉体はどこにあると思う? 祈機の中だ。CUBEコードがある祈機の中にいても、こうして意思を保ち続けている」
ルリはPS社には戻らず、研究所に戻って最後の実験を行った。実験は成功だった。肉体を失っても、幽子デバイスだけを祈機の上に移動させることができた。
ルリが移動したのはハンナ・グレーテの慣れの果ての祈機だ。CUBEコードの実行はテスタメントで抑えている。数ヶ月は自分の幽子デバイスの形を保ったまま活動ができる。それを過ぎれば、かつてのハンナ・グレーテのように意識の同化が起こってしまう。
技術は日々進歩している。レイの存在によって幽子操作技術は飛躍的に向上している。その数ヶ月が一年になり、数年になり、数十年になれば、それまでの間に新しい肉体を生み出してそこに移動することができる。
「進まないのもの一つの方法だとは言ったが、科学技術は封印したから終わりというわけではない。そこに存在している事は変えられないからだ。なら、封じるのではなく乗り越えることで先に進まなければ、真の意味での理想の世界<アルカディア>には到達できない」
アイはじっくりルリの言ったことを考えているようだった。そして、眉をひそめて言う。
「それをするのに、人間はふさわしい存在だと思う?」
ルリが言うことはある種の死の超越だ。それは禁じられるべき行いとされてきた。
過去には、科学ではなく思想によって死を乗り越えようとした例があった。ほとんどの場合それは生きている人間を慰める程度のものばかりだったが、死を幸福の条件とするものもあった。生と死の違いが意味をなくすような価値観を開拓することには、時には一つの国を滅ぼしてしまうほどの危険があった。歴史にはそういう前例がいくらでもある。もし科学技術によって命を自在にできるようになったら、同じように自らを滅ぼしてしまうのではないかという危険は誰もが考える。歩んだ事のない道は恐ろしい。
科学は炎だ。光と熱を与えるが、危険もある。炎に怯えるだけでは、その身を焼かれるまで燃え広がっていくのを待つだけの存在になる。残るのは灰だけだ。人間は所詮そういう存在というなら、それでもいいだろう。
命は滅びるもの。死はあるべきもの。それでいいと思うならそれでもいい。そこに美を見出す価値観もあるだろう。どの道、今まで人はそう考えるしかなかった。しかし、現実干渉性や高度な幽子操作技術を手にした今、そうではない世界を描く事ができる。ルリはその先にどんな形がふさわしいかを探してみたいと思った。ずっと温度が保たれるような世界の形がいい。保存されて停止した情報は灰だ。幽子デバイスから発するクオリアという炎こそが唯一私たちが知る価値である。
そう思えたのは、ハンナとグレーテを見て生きてきたからだ。彼女らから感じた熱こそが守りたいものだと思ったから。
自らが炎の化身になることでしか、熱を持った存在でい続けることはできない。そうでない存在はどんなに高度な思考能力を持っていようといつか灰になる。CUBEのように。
「きみも私も技術者だ。それが実現できるのかそうでないのか、まだ試してもいないうちに諦めるのは信条に反する」
「だけど……私には……」
エリスをはじめ、大勢を殺してきたアイには後戻りはできない。その呪縛が彼女を盲目にし貶めた。
それは本来の彼女の気質じゃない。ふさがった未来があるなら、自分の知恵と力で切り抜けていくという気質の人物だったはずだ。犠牲にした人間たちを取り戻すという贖いの一点においてあれからのアイの行動はあった。
「柊はいなくなってしまうのに?」
「……!」
アルカディアの完遂は柊の消失を意味する。
「綺系Qロットの代わりは他にもいる。また作ればいい。そうだよな」
「やめて」
「わかるだろ。価値は本来比較できるようなものじゃない。どんな価値も等価なんだ。柊を生かすのかエリスを蘇らせるのか、どっちでも代わりはない。きみがやろうとしていることに大義名分なんてない。義務でもないし、罪でもない。きみの個人的な気持ち以外の意味はない」
ようするに、きみは自分が綺麗な体でいたいためだけに柊の命を燃やそうとしているんだよ。そうルリが言い放つと、アイはもう何も言えなかった。
「きみが悪いわけじゃない」
しかしそれを言わなければ、この言葉の説得力がなくなってしまう。
アイを追い込んでいった現実が悪かっただけだ。だから前に進んでほしいと思う。後ろ向きな自分にはそんな行いは似合わないかもしれないが、アイ・イスラフェルにはそうあってほしかった。
「詳しく……知りたい」
「いいよ」
思考を取り戻したアイは、ルリに向き合ってつぶやく。その表情は、今このVRで再現されたかつてのアイの姿にふさわしいものに近づいたように見えた。
研究所の現実干渉性を管理している人工知能であるサクラの目的は結局どういうものなのか、ルリは考えていた。
突然アイに力を貸してみたり、かと思えば殺そうとしたりと、その行いには一貫性がないように思える。新たな計画に関してはまだ明かしていない。
ルリはサクラを呼び出し、それを問いかけることにした。
「“現実を変える”という一点だけが、きみに与えられた役目だったのか」
『私は現実干渉性集積体<サクラメント>の管理者ですから、当然のことです』
サクラは答えた。
現実を変えるということは、今とは違う状況に向かうということだ。永遠に変わることのない世界を作り出すCUBEとは全く逆方向に向かう力である。
綺桜はそういう存在として生み出された。終わりゆく世界から脱出して新しい現実を作り出すための装置だ。CUBEに対抗する思想を組み込まれている。その思想を体現しているのがサクラだ。彼女は反CUBE存在として活動を続けてきた。ノアリアやアルカディアといった計画を支援したのも、今とは違う世界を生み出す可能性があるからだったのだ。
サクラに翻弄されてきたルリだったが、その事実を知った今では怒りよりも納得の気持ちが勝っていた。言葉が通じてしまうために生物らしさを感じたり、得体の知れない恐怖を抱いたりしてきた。しかし、この奇妙な人工知能もCUBEと同じで、与えられた役割を実行しようとしている自然現象のようなものなのだ。
「なら今度の計画は、きみも気に入ると思うよ」
リンカネシアに必要な人材は揃った。最後のピースとなるサクラを組み込めば、この計画は完成する。
■柊・一
オウミ級四隻のうち、一番艦の「トランキリタティス(静寂)」と四番艦「フリゴリス(氷)」は完全に無人だった。避難民を満載して地球から上がってくる千隻の改オウミ級も、制御そのものは無人である。柊はまず、これらを制御するための複製人格を作らなければならなかった。
複製人格の作成は過去に経験がある。ルリとアイが用意した遺産の中には、過去の柊の別人格もストックされていた。
綺系Qロットは、榧を除く枢、柊、楓、欅、桧の五人全員で幽子デバイスをネットワークし、共有していた。統合人格である柊はこれらの人格ごとに、巨大なリンカネシアとそれに隷属するシステムを管理できる。
オウミは、最もそれをよく知る楓をベースにした人工知能を用意して管理させた。「リンカ」と名を変えた彼女には千と数隻のオウミの制御が与えられる。全てのオウミ級に自分のコピーを分散させて独立して判断できる人工知能を作る分身型AI「メイプルリーフ」と、それらを統合して制御する中枢である「ルスカ」が機能し、この巨大艦隊を生き物のように動かしている。
柊は今、ルリによって作られた冥界、幽子VR空間に肉体なしで存在している。まずは人間を生き延びさせ、研究の土台を構築しなければならない。
新たな形の現実を作る計画「リンカネシア」の第一段階は、できるだけ多くの人間を生かすことだ。リンカネシアを作るためには数百年の時間が必要である。そのためには、まずは覚醒したCUBEに立ち向って、現在のままの形で世界を数百年以上存続させる必要がある。
リンカネシアは今までどおりの現実と、死んだ人間の魂が導かれる幽子世界の冥界と二つの世界が並列して存在するというコンセプトで設計されている。リンカネシア後の世界では、死んだ人間は人工冥界に導かれる。
死んでもCUBEが開放されないよう、人の幽子デバイスを即座に回収して人工的に作られたあの世に「回収」する。そこは巨大な祈機で管理されており、テスタメントによってCUBEを押さえ込んでいる。それがリンカネシアの基本構造だ。
その次は、回収された幽子デバイスを新しく生まれる人間の肉体に戻す「転生」を行う。技術的な面はルリの生涯を通じた研究と自分の体を使った最終実験によって実証されている。「回収」と「転生」の繰り返しによって、CUBEが大きな処理系として復活しないように分断し続けることが可能になる。
この方法なら、生物としての生の価値と情報技術の極北であるCUBEとを同時に存在させることができるようになる。ただ、この仕組みには一つの欠陥がある。
その欠陥の解消に取り組む前に、まずはCUBEの覚醒した意志を現実世界の方から消滅させなければならない。リンカネシアを実現するためには冥界と現実が別れていることが絶対条件である。現状では死んだ人間はまだCUBEの覚醒部分に取り込まれ、リンカネシアに引き寄せる事はできない。まとまったCUBEの覚醒部分がある限りはリンカネシアの冥界が機能しないのだ。
「大丈夫か?」
情報収集の一部を担当しているエルが柊を気遣う言葉をかけていた。柊は一度も休んでいない。
地球と月面から全ての人間を黒曜星に輸送するという大計画に必要なインフラは与えられていた。そのおかげで、千と二隻の避難艦は黒曜星への長い旅路に向けて加速を開始した。敵の宇宙駆逐艦カロン級の第一波は凌ぎきった。第一段階は成功だ。だが、これで終わりではない。
「平気」
肉体がないので疲労とは無縁である。この大作業に集中している間、柊は何も考えずに済んだ。
月面都市第二トンネルの地下は榧がひそかに調査していた。それによれば、カロン級は最低でも第三波まで用意されている。改オウミ級を作ったのと同じように筋繊維マイクロマシンによって土壌の資源化から建造作業まで自動的に行っている。放っておけば一週間に数隻のペースで新しい駆逐艦を生み出して送り込むことができる。
地中の音響探査や複合センサーで観察した地下工廠では、カロン級に高速巡航能力をブースターを生産しているのがわかった。オウミ級への追撃は阻止しなければならない。
「それで、その方法は?」
リンカネシアに関する計画書を管理しているのはエルだ。柊はこの後の展開について尋ねた。
「次は……CUBEの一部分、目覚めた部分を除去する。その方法は……」
エルは言葉を濁している。一体何があるというのだろうか。
CUBEがある限りPS社と第二トンネルによる無人兵器生産は止まらず、依然として現実干渉性を奪われる危険が存在し続ける。柊は自分でリンカネシアの計画書を探し、該当の部分を調べた。そして、エルが語らない理由を知った。
アイは死亡したら自分の幽子デバイスでリンカネシアを作るように自動化していた。しかし、それだけではなかった。アイの幽子デバイスの半分は他のことに使われている。
リンカネシアに使わなかった分のアイの魂は、全ての現実干渉性のダミーを保有するように改造されてネットワークに配置されている。それを餌にCUBEを引き寄せて融合させる。そこを叩き、現在覚醒しているCUBEを消滅させるという作戦だった。
この計画には、幽子分解能力を持つレイの存在が不可欠だ。幸い彼女は月面に近い位置にいる。実はこの作戦のために作られたピストレーゼE2に搭乗した状態だ。今すぐこの作戦を実行できる。
「いいのか?」
「それがアイの望みなら……」
最後に残ったアイの残骸を、CUBEもろともレイに討たせる。これはそういう作戦であった。
遠くに行ってしまう予感はずっとあった。リンカネシアが発動する前から、少しずつアイが離れていくのを感じていたからだ。
柊はアイの保護者をしてきた。何があっても無条件で支えてきた。それだけが柊に与えられた意味だったからだ。しかし、ある時アイは柊から巣立って、自分の目的のために歩き始めた。そういうことなら、後押しをするのが自分の役目だと柊は思う。たとえそれがアイ自身の消滅を意味し、リンカネシアにすら導かれることなく無に変換されるものだとしても。
未来のために歩き出すアイに対し、柊は嬉しさと寂しさが入り混じった複雑な気持ちを抱いていた。だが心配なのはレイの方だ。情が深い彼女が、真実を知ってもこの作戦を実行できるのかどうか。
何も話さないという選択肢もあったが、柊の中のリンカはそれを望まない。全てを知った上で力を貸してほしいと思っている。だから、最後の記憶をレイに見せることにする。
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