Reincarnatia 2

■レイ・二



 リンカネシアの理論には不完全な部分があったが、未来への足がかりを残すことはできるだろう。あとの答えは大勢の姉妹たちが見つけてくれる。アイとルリはお互いの人生を費やした研究の集大成を作りあげる。

 もうほとんど計画が完成し、後はオウミ級の完成を待つだけという時になってからのことだ。ルリはふと、作業を続けるアイに問いかけた。

「いつ気付いたんだ? 自分の娘だって」

「……」

 アイは作業の間、何度かR社と関わっていた。レイと接するアイのの様子を見ていたルリは直感した。アイはもうその事実に気づいてるのだと。

「エミと姉さんがそうなったというのにどうしても違和感があって……それが切欠」

 本人は娘への感情移入を隠しているつもりだったようだが、他人から見れば明らかだった。しきりにレイの動向を気にしたり、こっそり財団からR社を支援しているのを見れば想像がつく。

「自分の子供って、かわいいもの?」

「子供だからっていうのじゃないの。ただ……知らない所で傷ついたり、苦しんだり、穢されたりするのがなんだか許せないだけ」

 レイはルリにとっても友人なので、その気持ちは理解する所だった。彼女には輝いていてほしい。レンにも同じような魅力があった。

「そういうのを愛というんだよ」

「急に何? 気持ち悪いこと言わないで」

 他人を自分の一部だと思ってしまうことを愛という。人間に限らず、道具や場所でもそうだ。愛着という言葉もある。

 異なる二つのものをつないで関連性を持たせる力とも言える。これが加速していくと、ハンナとグレーテのように冷めていってしまう。しかし、その過程で多くの熱を生み出すものでもある。愛は生きている意味そのものだ。ルリはそう考えていた。

「レイに、最後の引き金を引いてほしいんだね」

「そうだね……」

「きみだって悪趣味だよ」

 CUBEと一体化したアイを消滅させられるのはレイしかいない。それは数奇な運命でもあり、避けられない必然であった。申し訳ないと考えていた。しかしその一方で、最後を与えてくれるのがレイだということを救済のように感じている。そんなアイを見て、ルリは共感を覚えていた。

 二人には、そんな救いだけが慰めであった。



 人の肉体から解き放たれ、幽子デバイスの集合体となったCUBE覚醒体は通常の物理的な存在として認識できない。それを実体として捉えるためには、物質の中に閉じ込める必要がある。

 幽子的存在を封じ込めることが出来るのは、人体かCデバイスのどちらかだ。今回使うのは後者である。

 かつて計算機としての性能でNデバイスに劣っていたCデバイスを改良し、幽子記憶領域を使って飛躍的に容量を増やした完成形がPS社にはある。ルリが作り出した。それは本社のある場所で増産され備蓄されている。そこに現在目覚めている覚醒体を封じ込めることができればいい。

 レイは認識した物体を分解できる。Cデバイスと深く融合した覚醒体であれば物体として認識が可能で、彼女の能力で消滅させられるのだ。

 覚醒体は巨大な幽子コンピュータである。CUBEコードの存在自体は人間の中に残り続けることになるが、束ねられた計算機能が失われればCUBEコードはプログラムでしかない。幽子領域を侵食して人間の意識を吸収していくほどの能力はなくなる。その後の世界はリンカネシアによって制御される。

 計画の細かい部分まで理解したわけではなかったが、レイがやることは単純だった。ピストレーゼE2を使って第二トンネルの中枢に突入し、そこに生まれてくる物理化した覚醒体を倒せばいいのだ。今、アイとサクラは自分自身を囮にして待っている。

 黒色の繊維情報素子であるCデバイスは、幽子デバイスと癒着すると青白い透明に変わる。それが攻撃可能になったという合図だそうだ。Cデバイスは癒着した幽子デバイスを強力に引きつける。素粒子単位で融合を果たした覚醒体は、レイの能力によってバラバラに分解され、ただの幽子に変化するだろう。

 ただしそれを行うということは、囮になったアイの最後の心の断片がこの世から消え、失われるということだ。

 急に母親だと言われても実感はわかず、困惑するだけだ。どのみち血縁者ではあったし、鼻持ちならない姉のような存在だと思っていた。肉親であろうとそうでなかろうと、誰かがいなくなってしまうのは悲しい。それがどんな相手でも。

 自分よりも柊のことが心配だった。歯がゆいことだったが、柊が最も親しく大事に思っているのはアイなのだとレイは日頃から感じてきた。だが、リンカを通じて作戦の情報が来たということは、その柊が決断を下したということだ。ならば、レイはそれに沿うように全力を尽くしたい。

『そういう不器用な所は一緒ね』

 リンカはどこか自嘲気味につぶやいた。レイはどういう意味かわからず、ただ突入のための準備を整えた。

 CUBE覚醒体は力を増し、何人かの感染者を使って第二トンネル内の端末を書き換え始めた。第二トンネルにはCUBE感染症にかかった人間が集中していたので、まだ残って生産活動のオペレーターを担当している。端末上から情報戦で対抗するのは不可能で、現在生産・射出されようとしているカロン級を止めるには覚醒体を倒すしかない。急ぐ必要があった。避難民を乗せた脱出艦隊は二隻の無人オウミ級に任せ、レイは単独で第二トンネルに向かう。

 静かの海に建造された巨大な第一トンネルと比べると第二トンネルの直径はやや小さい。三分の一程度の三三〇キロメートルである。このトンネルは地下都市だが、小隕石の衝突を防ぐシールドが表面にあるので円環状の構造物の全貌が外見から見て取れる。

 円環トンネルの中央部分、ドーナツの穴の部分の地下には農業プラントや工場が設置されている。現在、そこは新しいカロン級を作るために土壌を掘りつくされ、穴が穿たれるように陥没しつつあった。ひび割れた表面は卵の殻を思わせる。その下に広がる地下工廠が次第に露出してきて、ミサイルのように準備された無数のカロン級が確認できた。マイクロマシンや無人の建築機械、立体部品生成装置などがフル稼働している。

 カロン級に搭載する無人機メルカバの設計図が第二トンネル内の共用工場に送られ、成型機によって次々と生み出されているはずだ。それ以外にも感染者が作業に従事しているので、場合によっては人間を撃つ必要もあるかもしれない。レイはピストレーゼE2の中で白兵戦の準備も行った。小銃と短機関銃、機関拳銃をアーマースーツに装着した。

 港を通じて狭い通路から第二トンネル内部に進入するのは、配備されているだろうメルカバとの不利な戦いを強いられる。トンネルの天井に穴を開けて直接侵入したほうがいい。

 政府軍から一発だけ調達し外部懸下している巨大な熱圧誘導弾を投下した。地下都市を攻撃するための武器だ。着弾すると深く侵徹して搭載した燃料に着火し、電磁加速砲でも貫けない地下都市の天井に穴を穿つことができる。

 振動や音は宇宙空間では伝わらないが、起爆の閃光がはっきりと見えた。灰色の月面の皮膚の下、深遠のような黒い世界が口を空ける。

 脅威の存在を感じ取った敵は、配備中のカロンの内部や都市の至る所から無数のメルカバを戦闘機として送り出してきた。レイは引き連れていたCLYXビットを全て使い、それを足止めする。重力エンジンの推力を最大にし、誘導爆弾と同じ軌道をとってまっすぐに穴へと侵入した。

 数日前に訪れた都市がそこには広がっていた。第二トンネル都市の内部はダークグレーで統一され、そこにARベース用の白のマーカーが施されている。この都市に入った時点で外との通信ができなくなった。第二トンネル内の端末は全てピストレーゼに対して閉じており、通信波も混濁して遮断されている。ここからは、リンカの支援を受けることはできなくなる。

 大気のある場所に突入したことで、ピストレーゼにかかる抵抗が変化するのを感じた。穴が開いたことで発生し始めた風以外の音はあまり聞こえない。リニアトレインや自動車の動きも停止している。一見静かに見えるが、建物の内部では盛んに生産活動が行われているに違いない。深海のような光景の町の中を飛行し、目的地であるPS社を目指す。

 PS社の本社は第二トンネルと第一トンネルの境界に位置しており、非常時には第一トンネルと完全に遮断されて第二トンネル内に格納することができる。現在、第一トンネルからの通路は厳重に封鎖されている。まるで第二トンネル自体が要塞のようだ。表向きは政府軍とPS社勢力の対立のためにこのような構造が必要だったとされていた。

 この構造はCUBEを封じ込め、また同時に守る殻として機能している。脈動する覚醒体の誕生をひかえた胎内にいるようだ。殻が破られ、中に広がる闇が解き放たれて広がろうとしている。

 暗闇から突如飛来した何かをとっさに回避した。ピストレーゼの高性能複合センサーでとらえたほんの僅かな周囲の変化が瞬時にレイのNデバイスに送られてきた。それに即座に反応したが、それでも機体下部に何かが接触した。

 フラーレン・ワイヤーで繋がれたアンカーによる攻撃だった。この攻撃には覚えがある。しかし姿は見えない。敵はどこかからアンカーを操っている。

 戦闘用ワイヤーはセンサーでは探知しにくい。フラーレン・ワイヤーは目視が難しいほど細い線だが強靭で、使い方次第では巨大な宇宙船さえ引きちぎってしまうほど恐ろしい兵器だ。万が一ひっかかった場合でも機体のダメージが少なくなる程度まで減速しなければならなかった。このままでは格好の的になるので、高度も下げて自らも地下都市のビル群に隠れた。

 本体はどこか。慎重に飛行していると突如ビルの一角が崩れ、ピストレーゼの上に降り注いだ。スロットルを開けて脱出するしかなかった。崩壊するビルの方向にわずかにワイヤーが見えた。ビルの外壁を引き剥がしたらしい。

 加速を余儀なくされたピストレーゼに強い衝撃が襲った。仕掛けられていたワイヤーが右のエンジンモジュールにかかったらしい。その途端、敵はワイヤーを急激に巻き上げ、強い力でピストレーゼを引き回し始めた。障害物に激突しないように姿勢制御を行い、そのまま逆らえず引かれ続ける。

 ビルの影から本体が現れようとしていた。それを待ち構えていたレイは引きずられるピストレーゼの機首を瞬間的に敵側に向け、一撃必殺の電磁加速砲を撃ち込んだ。

 能力を付与した弾丸がまっすぐに敵に向かっていった。しかし、別方向から巻き上げられたワイヤーによって引き寄せられたリニアトレインの残骸が間に割り込み、防御された。リニアトレインは跡形も無く消滅するが、敵本体は無傷だ。

 つぶれた鉄球のような黒い胴体に無数のワイヤー射出装置とアンカーを装備した異形の機械がビル影から姿を現した。重力エンジンによって音もなく浮遊し、全身の姿勢制御用のブースターから無数の青白い炎が上がっている。火球のような姿をしたその敵は、かつてレイが模擬戦したPS社の新機軸防衛装置「イグニス」であった。

 イグニスは内蔵したワイヤーを狭い地下都市内に張り巡らせている。小さいものでは自動車、大きいものではビルなどにワイヤーをつないでいる。それらを自在に操り戦術を駆使する知能がある。レイは幽子分解能力を発動し、普通の方法では切断できないフラーレン・ワイヤーを切り裂き、脱出した。

 敵はイグニスだけではないようだった。外にいるものとは少し異なる仕様のメルカバがいる。イグニス用の支援機で、それにも同様のワイヤーが搭載されている。考えてみれば設計思想や外見上の共通点がある。イグニスはメルカバの親玉のような姿をしていると思えた。

 イグニスの動作プログラムは明らかに以前よりも洗練されていた。自動車などの障害物を巧みに利用し、ピストレーゼからの必殺の一撃を簡単に防いでしまう。加速して接近しながら無数のワイヤーを放つことで、レイはどんどん追い詰められていく。ここではリンカによる能力使用の補助を受けることはできず、能力を使った分だけNデバイスに疲労が蓄積していく。覚醒体に辿り着く前に消耗してしまうわけにはいかなかった。

 目的地のPS社本社ビルまで遠くはない。しかし、無事に辿り着くにはどうしてもイグニスと戦う必要がある。レイは決断し、ピストレーゼのハッチを開いて飛び降りた。

 能力が届かないのであれば、ピストレーゼに乗り込んで操縦する意味はない。レイの排出とともに身軽になったピストレーゼは独自の判断で行動し始める。人間の判断を排除したピストレーゼの反応速度は一段上がる。同時に、レイの能力をサポートしていた祈機を別の計算に回すことができる。ピストレーゼは左エンジンモジュールのみ搭載されたCLYXビット四基を射出した。

 このE2には、過去にレイが乗ってきた全ての機体から回収した戦闘データがある。それは自動操縦のアルゴリズムに反映されており、レイが乗っていなくても同等かそれ以上の戦いができる。

 着地したレイが見上げると、ピストレーゼはイグニスに張り付くように鋭敏な軌跡を描いて戦いを続けていた。そのおかげで、生身のレイに攻撃が向けられることはない。それでもあのイグニスにそう長く対抗できるとは思えなかったが、レイは戦い続けるピストレーゼに背を向けて本社ビルを目指した。

 何度か通常型のメルカバに遭遇した。しかし数は少なく、幽子分解能力を携え小銃と短機関銃を装備したレイにとっては大きな脅威にはならなかった。そのまま移動し、PS社のビルに到達する。

 PS社の本社は基礎ごと稼動して第二トンネルと第一トンネルの間を移動できる。要塞のような独特の形状をしている。ダークグレーの町並みに完全に溶け込む黒で、地上四十階、百八十メートルの建物だ。窓のない平坦な壁面で作られたそれは、まるで漆黒の墓石のようだった。

 ここはルリの家でもあった場所で、第二トンネルの中では最も勝手がわかっている建物だ。だからCUBEの覚醒体をおびき寄せる場所として選ばれた。既にこのビルのシステムは覚醒体を閉じ込めるための罠として機能を始めていると。そのため、施設はレイに対して簡単に口を開いた。警備システムも作動していない。第二トンネルの中で、ここだけ敵地ではなかった。

 外見に違わず、内部は墓所のように静かだった。入ってすぐ、金髪の女性が襲いかかってきた。

 レイは咄嗟に彼女の足首を撃ったが、出血も傷も与えられない。今度は能力を使って消滅させた。暗くてよくわからないが、前に会ったことのあるエリス・スタレットのようだった。彼女も普通の人間ではなく、ロボットのような存在だったのだろうか。

 エリスは放置して、まっすぐ目的のフロアに向かう。通路の途中に動くものがあった。レイは反射的に持っていた拳銃を向ける。

 人間ではなかった。通路にいたのは敵の無人兵器だ。外を飛び回っているメルカバ型とは違うタイプだが、共通の設計を思わせる四本足の形状をしていた。室内に適応するために小型に作られている。ビルの警備システムが動かない代わりに送り込まれた敵だ。

 レイは能力を発動し目の前の数機を消滅させたが、次々と集まってくる。下から押し寄せ、レイを包囲しようとしている。ピストレーゼはまだ外で戦闘中だ。通信波を発したレイを障害と認め、小型の無人機はいっせいに襲いかかってきた。

 敵の方が足が速く、すぐに追いつかれてしまう。いつもより多くの武器を携行しているとはいえ、単独で対処できる数ではない。ピストレーゼの援護射撃で仕留めてもらうしかない。レイは上階に移動し、緊急扉から外へと出た。

 そして、その光景に唖然とした。レイを追っていたのと同じ小型の無人兵器が地下から無数に出現し、PS社を取り囲もうとしていたのだ。

 ピストレーゼは見える所にはいない。まだどこかで戦っているのか、遠くから火器の音が響いてくる。あとは風の音だけだ。気密が破られたことで、室内に比べると空気が薄くなってきている。高層階なので余計に風が強く感じる。

 一人でやるしかないのか。レイは弾倉を交換した。しかし発砲を行う前に、レイの目の前の無人機に突然大穴が開いた。外壁に張り付いていた無人機は糸が切れたように落下していく。

 黒い町の中に白いアーマースーツが見える。政府軍の兵士のような装備の誰かがいた。顔には見覚えがある。先ほどまで行動を共にしていたノルンのようだ。得意の対物ライフルの射撃によって正確に敵兵器の制御装置を破壊していた。

 狙撃は次々と行われ、無人機は倒されていった。一人ではない。あちこちから同じ対物ライフルの音が響いてくる。ノルン本人ではないのだとレイは気付いた。ノルンの姉妹たちだ。

 本来メルカバのプロトタイプとして黒派が作っていた人造強化兵士たちだ。この姉妹たちはS型と称されるSロットの親戚である。レイの認識が間違っていないなら、彼女たちは本来は人類抹殺の方に力を貸しているはずの存在だ。この場所にいるのは当然だが、CUBEの手先となってレイに立ちはだかってもいい存在である。それがどうして助けてくれるのだろうか。

 ノルン本人の姿も見つけることができた。政府軍のアーマースーツ姿ではなく柊のシャツを着ている。

 思えば彼女にも意思というものがなく、捕獲されたあとは従順だった。最初に与える情報によって従う相手を決めてしまうのかもしれない。

「この子たち、あなたが説得したの?」

 ノルンはレイの呼びかけの意味がよくわからないようだった。レイは雛鳥の刷り込みという単純な連想をした。最初に見たものを親と思うという習性だ。ノルン自身もただ淡々と戦列に加わり、どこかで調達した武器で敵を破壊していった。

 ノルンの説得だと仮定して、なぜ人間を保護する方針を獲得したのかがわからない。わからないが、そうであることに納得はできた。なぜならノルンはレイを慰めてくれたからだ。他人を気遣うことができる存在なのだ。S型は他の強化兵士とのリンクを強化する機能がある。それによってノルンの感情が他の全ての人造強化兵士に共有されていったのではないか。その結果、CUBEではなくこちらに組することを決断したのだ。

 指揮をとっているS型の他に、通常型のC型兵士も大量にいた。兵士たちはPS社に雪崩れ込んで、レイに殺到していた無人機を駆逐し始めた。

 兵士たちの行動を見れば、言われなくてもこの先に進めと言われているのが理解できた。レイは階段を使ってさらに上の階をを目指す。

 PS社は月面都市でも最も進歩的な業務体系を目指した会社で、本社はただのデータセンターである。しかし実体は秘密研究所であり、同時に戦争状態に陥った時に重役を避難させるためのシェルターの役目も持っていた。

 二十階まではごく普通の建物だが、その先は違う。強固な外壁と数段上の警備システムを持つ空間だ。警備システムはCUBEシステムを利用したもので完璧に近い。肉体を持たないCUBE覚醒体にとっての目になっている。

 研究所にあったCUBEシステム外の秘密地下施設をサクラが認知できなかったように、覚醒体にとっても警備システムのない場所は認知することができない。本社ビルとはいえ、場所の概念が薄いネットワーク上から特別な所を発見するのは困難である。その盲点を利用し、ルリはこのビルにいくつかの仕掛けを施していた。

 エレベーターで三十九階から四十階に上がる途中で床面にある緊急停止レバーを作動させる。物理的に制動がかかり、システム上からは決して認識できない階に下りることができる。

 外見に窓がないのでわからないが、このビルは本当は四十一階まである。今レイがやってきたのが真の四十階だ。巧妙に電波妨害され隠されたルリの研究室だ。機械には認識できず、しかも本社ビル自体に人間の出入りがほとんど無いことで、この場所に気付く者は今日まで誰もいなかった。追っていた無人機の目からも、レイは突然姿を消したように見えているだろう。重い防護扉を閉めれば物理的にも強固に防御された空間となり、しばらくは敵の心配は必要ない。

 この本社ビルを設計する時、ルリは初めからこの秘密研究室を組み込んでいた。レンタルオフィスをやめて新しいビルを作ったことにはそういう理由があった。本来は白派に対抗するという目的で作られた幻の階である。

 CUBEシステムとは別種のシステムで動く開発機械や自動生成装置があるここでは、暗号通信を使って誰にも知られず遠隔地から研究と生産を行うことができる。通信にはQロットの存在が必須だ。他のどのユーザーより上位権限を持つQロットを介することで気付かれにくくしている。リンカネシア計画の間は綺榧がその役目を果たしていたらしい。

 この階は実験器具を置く関係で少し天井が高く作られている。一つの作業に集中するためにパーテーションが全て撤去されており、運動場のように広々としていた。

 その中央に黒い水のようなものが充填されたプールがあった。生産された大量のCデバイスがある。十分な容量のあるここに覚醒体が封じられた時、黒い繊維は青白く透明に変わると言っていた。黒い状態ということは、まだ覚醒体はここに来ていないということだ。細い一本の線が天井に延びていて、そこだけが外部と繋がっている。

 今ここには、覚醒体をおびき寄せるために囮になった「アイだったもの」が入っている。しばらく待ってみたがなかなか覚醒体はやってこない。早くしなければこの場所を物理的に発見される恐れがある。焦るレイの耳に何か物音が聞こえてきた。

「(まだ奥がある……?)」

 秘密研究室の奥の壁面に、さらに隠された扉があった。レイはそれについて全く聞いていない。ルリはまだ隠し事をしているのだろうか。

 物音がするということは何かが動いているということだ。ここでは通信ができないので自己で判断するしかない。

 扉の錠は厳重というほどではなく、簡単に開くことができた。広い部屋ではない。入ると同時に冷気が押し寄せてくる。透明な棺が部屋の中央にあり、そこから冷気が漏れている。

 その中を覗き込んで、レイは息を飲んだ。一瞬鏡を覗き込んだと思ってしまった。横たわっている人物の顔は自分とそっくりだったからだ。

 しかし、銀髪と薄灰色の瞳の自分と違い、その人物は絹のように美しく長い黒髪をしていた。そこに安置されていたのはレイのもう一人の母親、レン・イスラフェルの遺体だった。

「そういうこと……」

 ルリがレイにこの場所について言わなかった理由がわかった。余計なことを考えさせまいとしたのだ。レイは彼女の声を聞いたことがある。姿を見たことがある。言葉を読んだことがある。痕跡を何も残さないようにしていたアイと違って、レイにいくつかの記録を残してくれた人だった。

 物心ついたころには死んだとされていたが、レンが遺したものによってレイは母の存在を感じることができた。リヴォルテラを受け継いだ時もそうだった。

 レンの生体活動は停止していたが、体は修復されていた。検査着の隙間から見える左胸、致命傷となったであろう大きな傷跡が目立つ。その跡だけは修復できず残ってしまっていたが、特殊な肉体をしている強化兵士をよくここまで治したものだ。おそらく、ルリがアイに返すために行っていたことなのだろう。

 死んでいるはずのレンの指先が動いたように見えた。この空間に何か違和感を感じる。静かすぎるとレイは思った。冷温維持していた装置が停止して、レンの体は急速に温度を上げていた。

 胸部のNデバイスが発光して浮き上がるほど活発に活動をしていた。そして、レイは気付いた。この場所はCUBEシステムから隔絶された空間だという話だった。CUBE端末はここには存在しないのだと。しかし、今ここには二つだけCUBE端末がある。レイのNデバイスと、レンのNデバイスだ。おそらく、月面都市に起こった数々の破壊、特に本社ビル内部で行われる戦闘によってほんの少しだけレンの冷温維持システムに支障をきたした。胸部の一部の温度が上昇し、Nデバイスが活動を開始した。一瞬だけエレベーター側の扉が開いた瞬間、覚醒体はこの場所に存在する小さなCUBE端末の反応を察知したのだ。

 そこから侵入した覚醒体の一部はレンに侵入した。Qロットの力を持つリンカや柊によって保護されているレイの端末は守られていたが、レンの無防備なNデバイスが突然出現したことで覚醒体が異変に気付きアクセスしてきたのだ。生体活動を活性化させ、棺から脱出しようとしている。

 棺のシステムはこの場所の他の研究機材とは繋がっていない。だが念のため、レイは残された装置を破壊した。目覚める前にレンの体も消滅させようと、銃口を向ける。

 母の姿を前にして一瞬発砲が遅れたのがよくなかった。透明な棺は粉々に砕かれ、すぐ近くまで寄っていたレイの手首が捕まれた。人間離れしか膂力でレイは突き飛ばされ、Cデバイスのプールがある空間まで吹き飛んだ。

 アーマースーツの衝撃緩和装置が作動し体は無事だったが、大きな衝撃を受けて脳が揺さぶられ、気が遠くなる。捕まれた手首にも痛みがある。レンの遺体はゆっくりと立ち上がりレイを見ている。正気には見えなかった。想像が正しければ、レンはCUBE覚醒体の一部を体に宿して動いている。

 言葉が通じるかどうか試したくはなかった。レイは起き上がり、レンに拳銃を向けて引き金を引いた。発砲と同時にレンは姿を消した。気付いた時、レンすぐ目の前、銃を構えた姿勢の死角になる場所に一瞬にして駆け込んでいた。

 繰り出される手刀をとっさに小銃で防御したが、それでもレイは数メートル吹き飛ばされた。生まれつき体格に恵まれたレイは並の兵士以上の戦闘能力を持っているが、肉体は常人と同じだ。全身の骨格と筋肉、神経の反射速度に手が加えられた強化兵士を相手に格闘するのは無謀である。中でも、レンは鬼神のように強かったという。

 武器の優位に頼るしかない。拳銃ではとても対抗できないと思い、レイは武器を小銃と機関拳銃に切り替えた。アーマースーツの背部から伸びる第三の腕によって保持を助けることで、この高火力の武器を両方同時に使用できる。

 縁のある人物にそんなものを使いたくはなかったが、このままではレイは殺される。今の手刀も心臓を簡単に抉り出すほどの威力がある。出し惜しみする相手ではない。レイはNデバイスの全能力を開放し、幽子分解能力の発動を待機させた。

 Cデバイスのプールに被害を出すことはできない。幸いこの場所は狭く作られてはいなかった。アーマースーツのブーストジャンプを使って一気に距離をとり、同時に機関拳銃の三点射を行った。先ほど腕を痛めているため片手のみでの射撃だ。集弾性は期待できないが、これは距離をとるための牽制だった。走力で上回る強化兵士を危険な距離に接近させないためには牽制で使う弾薬の消耗が避けられない。Nデバイスの容量にも不安がある。早く終わらせなければいけなかった。

 レンは飛んでくる弾丸の軌道を視野解析で見極め、命中する弾丸だけを判別して避けることができる。この手の高度な空間解析能力は無人戦闘ポッドにも搭載され、珍しいものではない。レイはその対策をしていた。機関拳銃には、空中で分解し無数の小弾をばらまく特殊散弾を三発に一発ずつ混ぜている。もともとはハンティング時に野生動物や蛇から身を守るために開発された拳銃用の散弾だが、対人用の視界撹乱に有効だ。敏捷なレンは最小限の動作で全ての小弾を回避していたが、流石に足が止まった。レイに対して距離をつめることはできない。

「――」

 レンが何事か声を発しようとしているのをレイは見た。意思があるとは思いたくない。彼女は死んだ。さっきの棺はおそらく幽子牢の役目をするもので、破られた時点で保持されていた彼女の魂である幽子デバイスは拡散している。

 しかし、もし拡散しようとした幽子デバイスがすぐに覚醒体に囚われて融合していれば、彼女のクオリアはまだあの体にあるのかもしれないと思いついてしまった。だからといってどうすることも出来ないのは変わらないので、考えるだけ無駄なことなのに。

「どこに……いる」

 地の底から響くような声が聞こえてきた。意味のある言葉を話すレンを見て、その思いつきが事実であることを直感した。

 言葉が通じるかもしれないという淡い希望を一瞬抱いたレイが瞬きする間に、レンは駆け出していた。全身のバネと脚力を使われると、彼女は視界から一瞬にして消える。冷凍睡眠から開封して数分後には戦闘が可能だという強化兵士らしく、その肉体の性能は健在であった。

 右に移動したと見えた。レイは振り向くより先に動かすことができる第三の腕を使い、主兵装の小銃を予想移動位置に向けて発砲した。相手の姿は見えていないが、命中していないなら距離をとらなければ危険なので、再びブーストジャンプを行う。ここまで行動にかかった時間は〇・三秒以下だった。

 ブーストジャンプと同時に相手がいるであろう方向を向いたが、そこには誰もいなかった。障害物がほとんどない広い空間であるここでは隠れられるような場所はない。

 しまった、と思った時には遅かった。さっきの右への移動は振りであった。死角を利用して反対側に切り替えしていたレンは、ジャンプの移動先を読んでいた。レイは自らレンの方に跳躍してしまったのだ。当身を受け、衝撃とともにレイは床に放り出された。

 馬乗りになろうとするレンの力は強く、レイは第三の腕を使う。生身より強い機械の腕で抵抗するしかない。

「どこだ?」

 レンはなおも強い力でレイを押さえつけながら言った。

「アイをどこにやった……!」

 その言葉で、レイは彼女が何を求めているのかわかった。現実構築力のダミーとして囮になったアイの存在を感じた覚醒体は彼女を探している途中だ。レンの中の覚醒体と、レン自身がアイを求める気持ちとが重なっているのだ。

「いないわ……ここには」

 アイが囮であることを知られたくはない。アイの物理位置がここだと知られれば、Cデバイスを使った企みに気付かれる。ここにあるCデバイスのプールを見てしまったレンを覚醒体の本体とを合流させるわけにはいかない。

「嘘をつくな……すぐ近くにいるはずだ……!」

 一瞬体重を抜き、レンは第三の腕をやり過ごしてレイの胸に手を伸ばした。素手で心臓を狙っている。押さえつける力がなくなったのでレイはすぐさま機関拳銃を構えて発砲するが、レンは素早く飛びのいてそれを回避した。その時、レンはレイが肩から下げていたコンバットナイフを掠め取っていく。

 レイはそのまま機関拳銃と小銃の掃射を行いながら立ち上がった。それで弾薬をかなり消耗したが、距離を離すことはできた。

 アイが行おうとしていることを一言で説明し納得してもらうのは難しい。自分が娘だということを伝えればあるいは、とレイは考える。そして口を開こうとした。

「任務だからな……悪く思うな」

 先に声を出したのはレンだった。持っていたコンバットナイフを頭上に放り注意を引きながら、またレイに向かってくる。射撃によって足止めしようとしたが、多少の被弾を覚悟で突っ込んできた。機関拳銃の弾が尽きる。レイが弾倉を交換しようとする瞬間、レンは落下してきたナイフの柄を蹴り上げた。

「……ぐっ!」

 ナイフは弾丸のように加速し、レイの二の腕に刺さった。激痛で弾倉を取り落としたが、小銃の方は第三の腕で構えて発砲し続ける。命中しない。

 レイは小銃に装着していた小型のレーザーブラスターを撃った。レンが戦っていた時代にはまだ実用化されていなかった武器のため、虚をつくことができた。レンはとっさにレイを蹴り飛ばしたが、左腕に火傷を負って数歩下がった。

 ようやく一発命中させることが出来たが、傷らしい傷は与えられない。R社で作っているブラスターの中で最大の出力を持つものだが、あくまで支援兵器であり眼球やセンサーを破壊する程度の性能に収まっている。手などでも少しの火傷で防御できてしまう。

 レイにはまだ強力な現実干渉性がある。しかし、レーザーのような希薄なものに能力を付与するには生身の集中力では困難である。かといって、あまり近距離の敵に対して能力を使うと自分自身も巻き添えにするという危険もある。

「お前と外で遊んだことはなかったよな……それもやってみたかったんだ」

 傷を負ったことで何かの記憶が蘇ったのか、レンは支離滅裂なことを話し出した。覚醒体と融合しているとはいえ意識があるなら対話が可能かと思ったが、その考えは改めたほうがよさそうだ。

 レンはやはり死人なのだ。幽子デバイスも肉体もどこか壊れている。ここにいるのはレンの残骸に過ぎない。

「うっ……あ……!」

 レイは痛みに耐えながら自分に刺さったコンバットナイフを抜き取った。アーマースーツは傷を負った部分に自動的に圧をかけて塞いでくれる。鎮痛剤も投与され、激痛で失った集中力を取り戻した。

 後の事を考えている余裕はない。余力を残して勝てる相手ではないのだ。自分の能力に集中する。片腕を犠牲にするくらいの覚悟が必要だ。

 一つ考えがあった。その考えは、相手が懐に入ってこなければ成功しない。現実干渉性を待機させていることを悟られないように振舞わなければ。第三の腕で小銃を向け、機関拳銃を捨ててナイフを構える。

 レイに戦う力が残っていないと見て、レンは慎重に歩いてきた。正気ではないようだが、長年の戦いで体に染み付いた兵士としての本能的な行動基準に従っている。

 レンは電子トリガーが作動する前の僅かな作動音や発光を見極め回避行動を行うことができる。強化兵士の性能は驚異的だったが、指を使わないため察知しにくい電子トリガー式の武器に反応するためには、優れた神経組織以外に自動回避プログラムが必要なはずだ。レンの今までの行動から、彼女の反応速度と自動回避プログラムのアルゴリズムを大体解析できた。

 この狭さの空間では、手持ちの小銃ではまずレンに弾を当てられないという計算結果が出ている。不完全だが反射回避の挙動をある程度予測できるので、それを利用して誘導できる程度だ。

 あと数歩、近づいてほしい。遠すぎず近すぎない距離に一瞬だけ足を止めてくれればいい。あと二歩、あと一歩。

 レイは小銃を撃った。レンは予測どおりの回避動作を行い、発射される弾丸を次々と回避してくる。後退するのではなく接近しながら。レイは少しずつ後退しながら発砲を続ける。第三の腕はレイの意志に従順に、正確に射撃を続けた。

 目の前に迫ってきたレンは体を縮めて構えた。その位置から一気に床を蹴って、レイが反応できない速さで心臓を抉り出そうとしている。詰んだと思える瞬間だった。フェイントによって小銃の銃口は逸らされていてもう反応できない。

 その距離がレイの狙いだった。近すぎれば自分まで幽子分解の被害に合う。遠すぎれば意図に気付かれ反応されてしまう。その中間の位置でレンを構えさせた。自分自身を囮にすることで、攻撃動作のために一瞬足を止めさせるのが目的だったのだ。

 レイは持っていたナイフを軽く前に放った。攻撃の意図があるように見えないような投げ方だった。そのため、レンの自動回避プログラムは作動しない。

 そんな投げ方では、体に当たっても何の損傷も及ぼさない。関係ない物体として自動回避からは除外される。レンは自分の頭で考えてレイがとった行動の意味を分析し、それから対処しなければならない。回避するには時間が不足するぎりぎり近い距離を狙っていた。

 レンが現実干渉性の可能性に気付いた時には、もう体のどこかに当たることは防げなくなっていた。身を縮めた姿勢からでは、ナイフを叩き落すしかない。しかし触れた瞬間、レイの能力のマーカーとして存在を認識されたナイフから幽子分解が発動して破壊を及ぼす。辛くも勝利した。そうレイが思った時だった。

 建物全体を振動が襲った。レイは能力を発動した。しかし、振動によって軌道がそれたナイフはレンの横の床に転がっていた。幽子分解が開始され、床面には切り取ったような四角い穴が開いた。

 振動によって倒れたレイに対し、レンはバランスを取っていた。切り取られた床面を見てすぐにレイの力に気付いた。

 倒れた衝撃でレイは一瞬動けなくなる。レンは床に落ちたレイの小銃をすばやく拾って、レーザーブラスターのバッテリーを外し、安全装置を剥ぎ取った。そして、それをレイの胸部に押し付けた。小型とはいえ高出力のレーザーを照射するために必要とされる高圧の電流がバッテリーから放出され、レイの体内のNデバイスは一瞬にして麻痺状態に陥る。電流は体にも流れて激痛を発したが、悲鳴を上げる余裕もない。レイは意識をかき乱された。これで能力の行使はもちろん、四肢を動かすこともしばらくできない。

 運がなかった。あと一歩でレンを倒すことができたのに、その機会を逃してしまった。気絶寸前のレイの上にのしかかったレンはバッテリーを捨て、レイの首に圧力をかけようと手を伸ばした。

 もう抵抗することは出来ず、レイはただ息を荒げていた。

「……お前なのか」

 死を覚悟したが、レンは何かに気付いたように言った。伸ばされた手は頬に添えられ、優しくレイの肌を撫でている。

「そんな所に……いたのか……アイ……」

 レイは母親の顔を見上げた。慈しみと悲しみが入り混じった表情をしている。どんな理由で自分をアイと呼ぶのかはわからない。顔が似ているからか、それともただ正気ではないだけなのか。いずれにせよ、レイはまだ声を出せなかった。否定することも、肯定してやることもできない。

「やめろ……触るな……!」

 レンは立ち上がり、喚きながらレイから離れた。何かが彼女に纏わりついているかのようだ。床に穴が開いたことで、この場所は今CUBEネットワークに晒されている。

 レンがレイをアイだと誤認したことで、現実干渉性を求めた覚醒体が殺到しているのだとレイにはわかった。

「私を撃て……撃ってくれ……!」

 レンは叫んだ。このままでは覚醒体と同化し、この肉体を使って危害を加えることになるとわかっているのだ。レイは麻痺した体に鞭を打って立ち上がる。小銃を拾い上げたが、もうそこには弾が残っていなかった。

 レンの体は糸が切れたように脱力し、機械のような目に変わりつつあった。立つのがやっとのレイを壁に押し付け、今度こそ息の根を止めようとする。Nデバイスは混乱から戻りつつあったが、現実干渉性を扱えるほど回復していない。レイの意識は遠のいていった。

 レンの瞳から涙が流れているのが見えた。

 突然襲った衝撃でレイは開放され、地面に投げ出された。何が起こったのか分からずに周囲を見る。風が吹いてきていた。外壁が崩れ、外の風景が見えている。

 信じられないものを見ていた。飛び込んできたのはレイの愛機、ピストレーゼだった。あちこちがワイヤーによって傷つき、しかも無残にも右側のエンジンモジュールが丸ごともぎ取られてはいたが、まだ飛行と戦闘ができる能力を残している。

 ピストレーゼに絡みついた黒い装甲の残骸は、悪魔のような戦闘機械だったイグニスの一部と思われた。原型がないほど壊れ、センサー部だったと見られる部分にピストレーゼのCLYXビットが突き刺さっている。

 レイが離脱した後、ピストレーゼは自動で戦闘を続けた。足止めのつもりだったが、高度な戦術プログラムを持つピストレーゼはイグニスの戦闘能力を上回って撃破したのだ。

 電波を遮断する床に穴が開いたことで通信ができるようになりレイの危機を知ったピストレーゼは、まっすぐここに駆けつけてきたのだ。イグニスの残骸はまだ動いていたが、もう戦闘できるような状態ではない。

「ぐ……っ……」

 うめき声が聞こえ、レイはそちらを振り向いた。風の中に棒立ちになったレンがいた。胸には大穴が開いている。ピストレーゼの機銃掃射が命中したらしい。

 それでもまだ生きて立っていられるのは生命力の強い強化兵士だからだが、彼女の体はどう見ても、ついに終わりを迎えようとしていた。



■決戦



 天井に開いた穴が修復装置によって自動的に塞がり、第二トンネル内部は再び気密を取り戻していた。発生した風はまだ止まっていない。薄まった空気を充填するべく大気製造装置が稼動し続けているためだ。

 巨大なイグニスは風の影響を受けている。全身から噴出す青白い炎を揺らめかせながらふらふらと飛んでいた。この風は大気圏内での飛行を前提として設計されたピストレーゼに僅かばかり味方した。

 それでもなお劣勢であった。機敏さを生かして何度も機銃掃射を命中させていたものの、パイロットのレイを失ったピストレーゼではイグニスの装甲を貫通できなかった。フラーレン・ワイヤーで満たされた狭い地下都市で追い立てられ、右側のエンジンモジュールはごっそりもぎ取られた。

 残る左側の重力エンジンだけでもバランスをとって飛行することはできる。不幸中の幸いは一つのモジュールを丸ごと失って被弾面積が減ったことだけだ。

 不利だったはずの状況で、徐々に戦局が変わり始めた。いくつもの射出装置と二つの巨大なアンカーを備え武装で上回るイグニスだったが、ある時からピストレーゼを捕らえられなくなっていった。ロケットブースターによってワイヤーを牽引して飛行できるアンカーの速度はピストレーゼを上回っていたはずなのに、うまく追尾できなくなっている。

 身軽になっただけではなく、ピストレーゼの動作は明らかに鋭くなっていた。レーザーブラスターを搭載した子機、CLYXビットを巧みに使いセンサーを幻惑しながら、虎視眈々とイグニスの死角を狙おうとしている。

 ピストレーゼは状況を利用していた。戦闘によって破壊され飛び散った窓ガラスの破片を使ってレーザーを反射させることで直線的だった光を曲げ、敵のワイヤーの巣を上回る光の結界を生み出している。イグニスのセンシングはレーダーシステムよりもカメラセンサーの比重が大きい。宇宙空間では精度の高いカメラが武器になる。しかし、それはCLYXの前では性能低下する。

 イグニスはCLYXへの対応に追われている。レーザーブラスターの出力は低く、ダメージで見ればほとんど脅威にはならない。一・二メートル程度の楔形のビットはワイヤーでくくることができないが、これはピストレーゼの武器の中で最も無視していいものだった。それが、今は四方八方からセンサーを弱化させる光線を浴びせ続けてくる脅威となっている。本体を追尾する余裕がなくなっていた。

 イグニスにも自己学習プログラムが備わっていて、模擬戦などを通じて多くの経験を詰んでいる。しかし、ピストレーゼの学習プログラムの方がわずかに情報蓄積量が多く、戦術構築速度が上回っている。それが戦況を少しずつ逆転させている。危機感を感じたイグニスは、全身のワイヤーを一斉に射出した。

 怒りを溜め込んで爆発したかのようだった。全身から炎を噴出しながらワイヤーに動きを与えている。生物のように動くワイヤーがピストレーゼの本体を掠め、傷つけていく。ワイヤーを射出したことで無数の射出口が無防備になっている。普段は小さく狙いにくい穴だが、晒される数が多くなったことで命中の確率は上がっていた。同時に殺到したCLYXビットの一つが穴に突き立てられた。

 突き刺さったCLYXビットはマーカー代わりになる。残りのビットはイグニスのセンサーを妨害した。ピストレーゼは、もぎとられ落下したエンジンモジュールを呼び出した。地面に転がっていたエンジンモジュールは単独で飛び立ち、突き刺さったビットをめがけて突進する。尖った先端部分は正確にイグニスの弱点であるワイヤー穴に向かった。

 側面部に命中したエンジンモジュールはイグニスの内部にめり込み、そして爆発を引き起こした。装甲の内側で破壊が起こり、制御していたワイヤーの半数が生気をなくす。

 ピストレーゼも満身創痍だった。残ったワイヤーは未だ執拗にピストレーゼを追尾している。攻撃を受けながらピストレーゼは反転し、イグニスの側面に開いた大穴に向けて擲弾砲を向け榴弾を発射する。内部破壊が起こり、イグニスの触手がまたいくつか死んだ。

 そこまで破壊されても、複数の制御装置があるイグニスはまだ飛行を続けていた。そのイグニスの動きに変化が現れた。ピストレーゼに注視するのをやめ、別の方向に飛翔し始めた。

 それはPS社本社の方向だった。ピストレーゼには瞬時にその理由がわかった。そちらの方向に新しい情報源が生まれていたのだ。ピストレーゼには、主人であるレイの危機という形で認識される情報であった。

 残る全ての推力を傾けて飛ぶ半壊したイグニスをピストレーゼも追う。この大物にとどめをさすべく、イグニスの背後に迫って加速していった。



 流れ込んでくる覚醒体の意志に翻弄されながら、レンは見知った誰かの気配を感じていた。

 自分が死んでから今までどんなことがあったのか、限定的にではあるが知ることができた。Nデバイスを通じて幽子デバイスに干渉され、覚醒体の中に蓄積した記憶の一部が自分のものになる。意識を拡大されるような感覚だった。瞬時に多くのことが既知となっていく。これがCUBE感染症の人間が体感していたことなのだとレンは理解した。

「どうも間が悪いんだ、昔から」

 この場所にいて覚醒体の一部に感染したのは偶然に過ぎない。そうでなければもっとうまくいっていた。彼女と戦う必要もなかっただろう。

 レンの呼びかけに対し、覚醒体の中に溶け込んだ昔の友人は「そんなことはない」というような意味のことを伝えてきた。そこにいる彼女はもはや残骸のようなものだ。自ら覚醒体に感染することで、目的の場所へと誘導する役目を担おうとしている。アイが囮の役目ならば、彼女は案内人であった。目的に気付かれることがないよう、殆どの記憶を捨てて同化している。

「何しようとしてるかわかったよ。あとはあたしがやっとく」

 もう時間がなかった。悟られる前に実行しなければならない。体に痛みが走ると同時に覚醒体からの干渉が和らいだ。誰かはわからないが、レンの肉体にあるNデバイスを破壊してくれた者がいるらしい。

「   」

 目覚める寸前に声が聞こえたように思えた。アイはルリが何を考えているのかわからないと昔よく言っていた。確かに見た目にはわかりにくいが、彼女の望みは単純だということをレンは知っていた。



 吹きすさぶ風の中に立ったレンの体からはとめどなく血が流れ出し、胸から足元までを赤く染めていた。強化された人工肺と人工心臓がかろうじて機能しているが、明らかに致命傷であった。

「ごめんな……あの時……帰ってやれなくて……」

 まだレイのことをアイだと勘違いしているようだ。第二トンネル内に吹いている風は収まりつつあり、破られた外壁の外の音は静かになってきていた。

「すぐ治療すればきっと助かるよ。だから……!」

 何と答えればいいかレイはわからない。アイはきっとレンが生存することを望んでいる。だから救いたかった。

「ごめんな」

 レンは同じ言葉を繰り返した。自分が助からないことは彼女が一番わかっているのだ。

「前はずっと……心配だった……危なっかしい性格で。でも……今は違うよ。立派になった」

 立っているのがやっとの状態のレンは、苦しそうに最後の言葉を伝えようとしている。レイはそれをただ聞いている。

「一人で生きていけるか、私は自信ないよ……必死にやってきたけど、結局何もできなくて」

 レイは答える。レイ自信の気持ちだった。全人類の行く末を左右するような途方も泣く巨大な流れの中で、水泡の一つにも満たない自分の存在を無力に感じる。

「やっていけるさ。私たちには……レイがいるだろ……?」

「え……」

「本当は、あたしの方がお前に助けられてたんだよ。能力も知能もなくて……何の取り得もなかったあたしは……姉妹たちに名前を与えて、守ってやるくらいしかなくて」

 守るべき存在がいるというのは心強いものだ。親だからとか、血が繋がってるからとかじゃなくていい。アイにもそれを受け継いでもらいたい。それがレンの気持ちだった。

「レイは……あたしたちのこと恨んでるかもな。あいつ、生きる理由を見つけられたかな」

 思えばずいぶん身勝手な話だ。二人の幸福のためにレイは勝手に産み出され、ほとんど構われもせずに放置された。そのことで悩んで苦しんだこともあった。

「最低限のことはしたでしょ。命は勝手に生きるだけだから、自分でなんとかしてるよ」

「なんだよ冷たいな……お前ら、もしかして似たもの同士なの?」

「成長するにつれ、顔はそっくりに……だから、私をレイだと思って……」

「そっか……」

 死人とは思えない柔らかい表情で、レンはレイの顔を見る。それが最後の現世の記憶であるかのように眼を閉じ、一歩ずつ後ろに下がった。

「じゃあな……」

 Cデバイスが満たされたプールは未だ漆黒だった。そこにまだ覚醒体はいない。レンは自分と繋がった覚醒体を導くように、Cデバイスのプールへと身を投げた。

 現実干渉性の贋物を巧妙に設置された罠。その位置を特定した覚醒体は一気にCデバイスに殺到した。システム上は通常のCUBE端末と変わらないので、そこが特別な場所だということはわからない。覚醒体を封じたCデバイスは通信を遮断し、そこに幽子存在を封印する。その状態になったCデバイスの部分は色の変化が現れる。斑に青白い透明な部分が生まれ、その部分が脈動する。

 やがて全てのCデバイスが青白い透明な液体に変化した。CUBEの意志のうち目覚めた部分が集合した覚醒体の全ての容量がそこに封じられた。

 Cデバイスは物理的に動き出す。幽子の運動を物理的エネルギーに変換することで他と繋がることを遮断しているのだ。そのため、覚醒体は肉体を得ることになる。液体のようだったCデバイスは次第に形を成しはじめた。人間のようにも、鳥のようにも、魚のようにも見える半透明で巨大なモノに変わっていく。CUBEに肉体があった頃の姿なのだろう。それは、肉体の中に精神を宿す、ごくごく当たり前の生命体であった。

 レイの能力でこの半透明の肉体を消滅させれば、CUBEの精神も同時に滅びる。物理化した覚醒体は、初めはプールの底でのたうつだけだった。しかしすぐに現実干渉性を操り、浮遊を始める。囮として用意されたごくわずかな現実干渉性を使いこなし、不自由な肉体で活動しようとしている。

 こいつを外に解き放てば何をするかわからない。人類を虐殺して再び覚醒体の容量を広げたり、ネットワークに侵入して逃れてしまうかもしれない。すぐに仕留めなければいけなかったが、レイには手ごろな武器が何もなかった。

 体は少し回復してきていたが、十メートル以上ある生物に生身で対抗するのは無理だ。幽子分解の現実干渉性を十分に使えるようになるにもまだ数分必要である。そうしている間に、覚醒体は飛び立っていった。暗い第二トンネルの中へと、青白く光る翼が遠ざかっていく。

 レイはピストレーゼに乗り込み、機体の状態を確認した。弾薬は損耗が激しい。CLYXも半分を失い、しかも右側のエンジンが脱落している状態だったが、それ以外は問題なかった。

『聞こえる?』

 リンカの声が聞こえてきていた。第二トンネル内にまた強い風が吹き始めている。通信ができるということは、どこかに穴が開いたということだ。

『成功したのね。あなたは無事なの?』

「うん……私は平気だよ……」

 覚醒体が天井のどこかに穴を開け、外の宇宙空間に出たのだ。リンカは出現した覚醒体をオウミ級の武器で足止めしている。しかし、オウミの武器で覚醒体を撃墜しても意味はない。物理的な破壊ではなく、幽子分解が必要なのだ。そのためにはレイとピストレーゼの力が必要だった。

 今まで抑えていたものが瞳を熱くしたが、レイにはまだ重要な役目がある。PS社で戦闘を行っていたノルンの親類のS型兵士たちが駆けつけ、破損したイグニスからアンカーユニットの一つを取り外し始めた。失った右エンジンのかわりにそれを取り付けている。ピストレーゼは新たに加わったデバイスの情報を元に、すぐに機体制御プログラムを自己進化させて対応する。

 これが最後の出撃だ。レイは鎮痛剤を投与し、破損したアーマースーツを脱ぎ捨ててコクピットに収まった。

 涙のあとを見つけたノルンはそれを拭い、レイの頭をやさしく撫でた。彼女なりのまっすぐな気遣いがレイには嬉しかった。

「行ってくる!」

 ノルンの手を握り返してから、レイはコクピットハッチを閉じた。傷だらけだがまだ動きが鈍っていない愛機ピストレーゼは暗闇に包まれた第二トンネルの中で急加速し、風に乗って外へと向かう。覚醒体の開けた穴から広い宇宙空間へ。

 リンカと祈機の補助が受けられる空間に戻ってきた。イグニス相手に驚異的な戦闘能力を見せたピストレーゼだったが、その真価はレイを乗せた今こそ発揮される。

 この機体に与えられた最後の、そして本来の役目が始まろうとしている。

『大丈夫なの?』

 リンカの声がレイに届く。ピストレーゼに戻ってきた時点でレイの肉体の状態は彼女に伝わっているだろう。電流を受けたNデバイスはまだ損壊しており、体も傷だらけだ。

「やるっきゃないでしょ。サポートよろしく!」

『しょうがないわね』

 この機会を逃せば覚醒体を消滅させる機会は失われる。ピストレーゼ内部の祈機とリンカによるサポートがあれば、生身で戦うよりは幽子分解能力の性能も上がる。敵は一機だ。あの体に慣れられる前に仕留めて、全て終わらせる。

 Cデバイスの集合体はお互いが強力に繋がっている。形状は内部プログラム、つまり今の場合は覚醒体の意志によって自由に取ることができるが、バラバラに分かれることはできない。一つのかたまりに封じられている。もともとあらゆる機械を柔軟に再現する群体デバイスであるCデバイスは、覚醒体に飛翔する翼を与えていた。眼と思われるものが体の各所に複数現れている。半透明な体ということもあり、まるで深海の生命体のようだ。

 覚醒体は宇宙戦闘機のように飛びまわりながら月面都市のCUBEネットワークに逃れようとしている。そこに行き、直接CUBE端末のどれかに接触すれば自分を肉体の檻から解き放つことができるからだ。二隻残ったオウミ級はカロンの残党と戦いながらも、覚醒体に電磁加速砲の榴弾による射撃を与えて近づけさせないようにしていた。

 ピストレーゼが接近すると榴弾の射撃は止まった。流体の敵に後方という概念があるかはわからないが、進行方向に相対速度を合わせて攻撃位置についた。

 いくつもある目で敵の存在を捕らえた覚醒体が揺らぐのが見えた。機銃による先制射撃を与えると、前後左右に急速に移動して回避された。短い時間で、あの肉体にあわせた高度な移動能力を獲得したようだ。榴弾でも結果は同じだった。先ほどのオウミの攻撃によって学習したのだろう。

 レイは残った二機のCLYXビットを放出し、レーザーブラスターによる攻撃を加えた。ワイヤーで接続することによってレイの能力を伝達しており、幽子分解能力を持っている。覚醒体は光速には対応しきれず、数秒間の照射によって僅かに体積を減らした。

 実弾と比べるとレーザーで幽子分解するのは難しいが、この調子で削りきるのでもいい。しかし長くは続かなかった。

 覚醒体は半透明の体から何かを射出した。それは起爆し、CLYXビットを破壊した。オウミ級から投射された榴弾のうち小型のものを不発のまま体に取り込んでいたのだ。

 飛翔を実現している重力制御を応用して加速を加えて撃ち出したらしい。覚醒体は次はピストレーゼに標的を向け、抱え込んだ弾頭を発射する。

 距離をとればその程度の攻撃の回避は容易だが、レイはそうしなかった。レーザーが失われた以上、なんとか攻撃を当てなければならない。そのためには近くに張り付いている必要がある。今ならピストレーゼの推力の方が上回っているが、敵の動きはだんだん良くなっている。イグニスから拝借したワイヤーアンカーを分離し、迎撃のために割り当てた。強靭な先端部は少々の攻撃では傷つかない。

 防ぎきれない分の破片を受け、ピストレーゼは更に傷ついていった。しかしまだ遠い。ぎりぎりまで接近しなければ実弾兵器を命中させることはできない。最も弾速に優れた電磁加速砲でさえ十数メートルまで接近しなければ命中の可能性はなかった。

 意図に気付いた覚醒体は距離をとろうとしていたが、ついに必要距離にまで接近した。搭載された祈機の存在をNデバイスから感じ、そこから火器管制装置へ、その先の電磁加速砲本体へ、装填された弾薬へ、その弾頭部分へと、段階的に認識位置を移動させていく。弾頭を自らの一部として認知し、物理的存在の位置を認知する。現実干渉性の行使は存在を認識したものを対象に発動される。

 それと同時に、覚醒体はCデバイスを組み替えて光線照射装置を生み出していた。瞳だった部分がレーザーブラスターのような兵器に変わり、満身創痍のピストレーゼに向けて発射された。自身が持つ全ての電力を吸出したその攻撃はピストレーゼに残された左エンジンを沈黙させた。

 レイは電磁加速砲を撃った。自分の一部となった弾頭は覚醒体へと瞬時に到達した。そして物理的に接触し、幽子分解が開始された。Cデバイスの集合はその九割以上が消滅し、現実干渉性を維持するだけの計算能力も失った。銀色の月面へと、重力に引かれて落下していく。レイは新しいアーマースーツを着用して拳銃を手にし、敵を追って動かないピストレーゼのコクピットから出た。

 月面へと落下したCデバイスの残骸は、まだ覚醒体の一部を残している。巨大な鳥か魚のようだった体は容積を減らし、人間に近い形へと変化していた。よろよろと立ち上がり、月面都市のある方向に向けて歩き出そうとしていた。

 レイはその前に降り立ち、拳銃を向けた。一歩ずつ歩く姿を見て、そこにアイの存在を想像してしまう。

「過ちはこれで最後。そういうことでしょ?」

 彼女ならこんな時何と言うだろうかと考えた。そして結論を出した。胴体を狙って放たれた弾丸は残った覚醒体の全てを消滅させた。反動がレイの腕に残り、覚醒体との戦いは終わった。

 月面は耳が痛くなるほどの静寂だった。アーマースーツの内側に流星が見える。アイ・イスラフェルという人間の意識は、その痕跡さえも、この世界のどこからも消えた。





 順調に加速を続ける数千の艦のうち一隻が船団から離脱しつつあった。重力エンジンに不具合を抱え、加速が中断されてしまったのだ。

 巨大なオウミ級には食糧生産装置や大気浄化装置があるので、仮にこのまま孤立したとしても乗り組んだ二十万人強の生命の心配はない。それに、エンジンが停止したといっても、現在この艦は慣性航行を続けている。副推力のプラズマエンジンを使って微調整を行えば、重力エンジンが停止したまま十分に黒曜星圏への航行ができる。

 十分な加速が得られなくなったことで問題なのは背後のことだ。推力で勝るオウミは順調に航行すれば追撃してくるカロン級を振り切ることができたはずだった。黒曜星圏に到達すれば資源が山のようにあるので、オウミに搭載された採鉱機械と生成装置を使って防衛網を築ける。

 この三番艦「クリシウム」は不運艦と言えるのかもしれない。実は建造中も事故が多く一隻だけ就航が遅れたそうだ。その後は更に不運でテロリストの標的になって破壊され、修理もままならないままに出航した。それが響いてこうして今も不具合を起こしている。

 クリシウムの艦長は政府軍の地球艦隊でも艦長を務めた人物だ。数週間前に突然地球から月面に呼ばれ、艦長に任命された。

 彼女が長く艦長を勤めた地球艦隊の水上艦、電磁加速砲戦艦「サツマ」は幸運艦として知られている。反政府勢力との戦いの中ステルス機雷によって艦隊が大きな被害を受けた際も無傷、弾道ミサイルの物量奇襲でも傷一つついたことがない。そのサツマも老朽化によって解体されてしまい、艦長は教官としてアカデミーに招聘される事が決まっていた。

 自分はまだ幸運だと感じていた。もしその話を受けクリシウムの艦長を引き受けていなければ、今頃は地球に残っていた。その方が危険は大きかったに違いない。

 サツマの最後の仕事はオウミ級の追跡だった。彼女は信心深い方ではなかったが、オウミ級との因縁を感じていた。

「新たな敵艦をキャッチしました。高速型のようです」

 後方を警戒していた乗員から報告が入った。政府軍の一部が先ほどから月面近辺で何らかの作戦を展開しているらしいことはずっと観測できていた。それは成功したようだが、第二トンネル内の巨大工廠から新たなカロン級が出現していた。

 全長二〇〇メートルほどの中型艦であるカロン級に、さらに一〇〇メートルほど全長を延伸する巨大なブースターを搭載した高速追撃型が三〇隻ほど射出された。減速したクリシウムはもちろん、避難中の数多くの改オウミ級を捉える速度を持っている。

「非常姿勢制御装置の状況は?」

 艦長は寄せ集めた整備班にも連絡を取る。重力エンジンが停止したことで、艦に搭載された様々な副制御装置の整備が必要になってそのような班が編成された。栗色の髪の女性がその集団を纏め上げていた。

「二時間あれば点検が終わります」

 童顔とかわいらしい声を緊迫させて彼女は答える。報告はいつも明瞭であった。政府情報室の技術主任で、先端技術に精通している適任者だ。

「わかりました。二時間後までプラズマエンジンで最大加速、その後反転してください。船尾の生成装置は弾薬の生産に。あなたは少し休んでください」

「でも……」

「まだ時間はありますよ。何かあれば起こしますから」

 弾薬の生産はプログラムすれば自動で行われる。二十万人も人間がいるので人材だけは十分だ。やけに一生懸命のようだが、彼女一人に仕事をさせてつぶすわけにはいかない。敵の到達予想時間はまだはっきりとはしなかったが、八時間から十時間ほどと予想された。

 本体には副砲があり、中型のカロンを仕留めるには十分な火力がある。しかし、ブロックごとユニットを組み替えられるオウミは現在全て居住ブロックに組み替えていて、戦闘向きの状態ではない。それでも敵を振り切れない以上、自力で戦闘を行わなければならない。敵は正体不明。なにもかもが突然のことだった。

「私が乗っていて、本当に幸運でしたね」

 しかし、数多くの反政府勢力との戦いを続けてきた艦長にはこのような状況は珍しいことではなかった。不利な戦いであることはわかっている。しかし、教官などしなくてよかったと彼女は改めて感じていた。こうして戦闘艦の指揮をしている時こそが自分の本質だと感じていた。



 覚醒体が消滅してもなお、第二トンネル内の共用工場や工廠設備は与えられた指令に従って生産活動を続けていた。本社ビルを制圧したS型人造強化兵士たちはそこから次々と生産機能を停止させていった。

 巨大なデータセンターであるPS社からは、全ての生産機能を制御することができる。覚醒体による幽子領域からの干渉がなくなった今ならある程度の妨害が可能だ。工場そのものを復旧してこちらが生産設備を使えるようになるまでは数年かかりそうだが、止めるだけならすぐにできた。

 しかし、一歩遅かった。生産されたブースターつきのカロン級のいくつかが射出準備に入っている。本社からでは中止させられない段階に入っているものが数十隻ある。

 カロン級は中型艦だが、オウミに対抗できるよう設計された宇宙駆逐艦だ。数十隻であっても、高出力のレーザー砲でエンジンを狙われれば脅威となる。射出は阻止しなければならなかった。

 人間が活動することを想定されていない第二トンネル中央の工廠は真っ暗だった。不気味な振動の中を兵士たちは進んでいった。

 そして、その先で悠然と飛び立っていくカロン級の集団を見た。飛び立ってしまっている。もう手出しできなかった。その情報はすぐにリンカにも伝えられる。

 S型兵士はリンカから与えられる情報で活動している。しかし、強制はされていない。自分の考えで行動している。

 彼女たちの考えとは、ある一人の個体から共有されたものだ。一人の記憶が全員の記憶となり、群体を個として意思を束ねていた。

 その個体、ノルンは戦うために作られた存在だ。他人の目的のために生み出されている。しかし、その意思は彼女自身のものだった。自分は普通の人間と何も変わらない存在なのだ。アイやルリが生涯をかけて感じたことを、柊の部屋で自由に読書をしている時にノルンは気付いた。

 アーマースーツで武装したS型兵士の集団の中で、ノルンは柊の部屋で与えられたシャツを着たまま行動していた。第二トンネルと第一トンネルを封鎖していた隔壁が開かれ、PS社の本社はその中間の位置へと移動する。これで月面都市の計算機能はPS社を中心にして集約される。

 リンカから伝わってくる情報を認識する。新たな敵艦は加速を開始した。避難艦の一隻が不調だ。レイは月面上に取り残されている。メルカバの掃討は順調。他には何があるだろう。ノルンは次の行動を考える。



 足元から伝わる振動は次第に大きくなっていった。月面からは次々と射出されるブースターつきのカロン級が見えている。ピストレーゼが航行不能になった今、レイには移動の手段がない。

 そのレイの目の前にVTOL揚星艇が降り立った。オウミ級に搭載されているものだ。

 無人機メルカバとカロン級の残党と戦うために残った二隻のオウミ級、一番艦「トランキリタティス」と四番艦「フリゴリス」はブースターつきのカロン級の艦隊を追いかけていたが、推力の差で追いつくことができない。更に悪いことに、避難民を乗せたオウミのうちの一つ、三番艦「クリシウム」が艦隊から脱落しつつある。

 カロン級が避難艦体を捉えればどれほどの犠牲が出るかわからない。人が大勢死ぬことになればまた幽子デバイスの開放が起きる。せっかく覚醒体を消滅させたのに、新たな種を産むことになってしまう。

 揚星艇で案内されたのは一番艦「トランキリタティス」の格納庫だった。損壊した愛機ピストレーゼも回収されていて、修復を受けている。

『まだ戦える?』

 リンカの声がレイに聞こえてくる。方法はわからないが、これから何かするつもりらしい。レイの答えは決まっていた。



■柊・二



 リンカネシアの中は、現実と言っていいほど緻密で厳格に作られた仮想空間だった。分子レベルの物理演算エンジンの計算に介入するには管理者権限が必要で、簡単に逆らうことができない。

 ここに残された柊の本質たる幽子デバイスは、肉体があった時となんら変わらない体の感触を感じることができる。近くに立つエルの後姿を見た。細かな髪の毛の一本一本が揺れている。近づくとほのかに香りがする。

 柊は控えめにエルの肩に頭を乗せた。アイはもういない。つい数分前、完全に消滅してしまった。

「少し、こうしてていい?」

 エルは何も言わず柊を受け入れた。柔らかい感触と温もりを感じる。髪や目の色にあの人の面影を感じた。リンカネシア計画の中核になぜこのようなシステムが組み込まれているのかはわからなかったが、それが柊を慰めた。

 心の中でさよならを告げる。

「もういいのか?」

「うん」

 少しだけそうして、柊はすぐにエルから離れた。まだやることが残っている。柊は場所の移動をシステムに命じる。月面都市の道路だった場所が無人の宇宙戦艦のブリッジへと切り替わる。現実を投影した仮想空間だ。ディスプレイ式の巨大な窓から、戦いが続く宇宙空間を見ることできる。この場所から、次の作業にとりかかっていく。

 覚醒体を消滅させることはできた。あとは残された無人艦隊と無人兵器を処分することだけだ。地球に落着した主力艦隊が最も巨大な勢力だが、衛星によって時々攻撃を加えていれば宇宙に上がってくる宇宙的施設を建造される危険はつぶせる。問題は、第二トンネルから発射された最後の一波である。

 二隻のオウミ、「トランキリタティス」「フリゴリス」の状態は万全だったが、ブースターつきのカロン級に追いつくための準備はない。

「方法はある。私たちには現実干渉性がある。それを使えば、限界を超えてオウミを加速させることが可能だ」

 エルは言う。確かに、本物の現実干渉性が月面のどこかに存在しているはずだ。それがあれば現実を捻じ曲げることができ、この状況を打開する手段は無限大に増える。例えば、オウミの重力エンジンを強化し艦隊に追いつくだけの加速を得るといったことだ。しかし、柊はそれがある場所を知らなかった。

「現実干渉性は月面都市にあるネットワーク上の様々な所に分散されて隠されている。その現実干渉性の元となったSロットの幽子デバイス単位に分離して、意志を持たせてある」

 死んでいったはずのSロットだったが、その本質、魂である幽子デバイスはサクラメントに封じ込められていた。現実干渉性が残っているということは幽子デバイスが保存されているということで、柊やエルのように肉体が滅んだに過ぎないのだ。

 サクラは最後に、残されている彼女たちの心をネットワーク上に放った。潜伏したSロットたちは、眠りについたまま呼び出される時を待っている。

「お前が声をかければいい。みんな知り合いだろう。どの情報がそうなのか、お前の記憶を鍵にして発見できるはずだ」

 柊は多くのSロットの記憶を経験してきた。幽子存在となった今、その記憶を保持している。その記憶をネットワーク上の彼女たちに返すことでSロットの幽子デバイスは完全な形で復元される。

「力を貸してくれるかな」

 柊には不安があった。QロットとしてSロットの回収と処分を行ってきた立場で、彼女たちにどんな願いを言えるというのだろう。

「私はお前の味方だ。私の他にもきっといる」

 エルは言いながら、背後を見るように促した。仮想空間とはいえ現実の艦のブリッジを投影したその空間に現実の人の姿が見える。

 ここは「トランキリタティス」のブリッジだ。いつのまにかやってきていたのは、自宅で別れたきりのノルンだった。その時と同じシャツを着ていて、他のS型兵士と区別できる。情報フローを感知して柊がこの場所にいると知ったらしい。

 ARを展開することで、ノルンとも視界を共有した。これで、彼女からも柊やエルの姿が見える。

「ひ」

 他にもすることがあっただろうに、ノルンは柊に会うためにこの場所に来ることを選んだ。

「ひいら、ぎ」

 ノルンは、まだ慣れない言葉で柊の名前を呼んだ。

「ばかだね。そんな言葉より、自分の名前を先に言えなきゃ」

「?」

 見れば、ノルンの体は結構傷ついていた。この場所に来るのも危険があったかもしれない。それでもノルンは自分の意志で選択し行動していた。彼女の体についた傷はそれを象徴しているように思えた。

「懐かれたな」

「そう? 懐かれるようなことしてあげた覚えはないけど」

 柊は生きる意味を失ったばかりだ。違う目的のために動くのは初めてだ。これからどう生きていけばいいかもまだわからず、Sロットが協力してくれるかどうかも不安だった。しかし、ノルンの姿を見て決心がついた。

 ネットワークに向けて柊の存在を晒し、恐れずに呼びかけることにした。賛同し目覚めてくれるSロットがいれば、その肉体がリンカネシア上で再現されて協力者として出現してくる。アイはこのシステムをそのように作っていた。

 私の自慢の柊ならできるはず。そんな自信に満ちたコードをアイは残している。

 柊は今までの人生を生きてきて、意識から生まれる価値を知った。様々なものが存在して関係しあい、複雑多岐な構造を作り上げていく世界によって感情の開花が起きる。それこそが人が唯一知る価値であり、守るべきものだ。そのような世界をずっと続けていくシステムを作り上げるためにも、現在の状況を超える力が欲しいと思った。それが、柊の新たな願いだ。

 アイを救うというただ一つの望みの他にも、柊はいつのまにか人として何かを望む意志を獲得していたのだ。次は、それに同調してくれる者がいるかどうかだ。

 柊の意志はノルンによって中継され、無人となった月面都市の隅々まで共鳴していった。そして、様々な場所から何かが現れ始めた。

 あるものは柊の自室のあった付近から、あるものは路上から、あるものは会社の中から、あるものは研究所から……次々と出現したSロットの幽子デバイスはリンカネシアに取り込まれ、新しい仮想肉体を得て月面都市内に次々と存在し始めた。

 柊と親しかった者もいれば、たった数日しか縁を持たなかった者もいる。その数は数百に及んでいた。眠りから目覚め、生きた存在として再生を果たした。

 月面都市全体のCUBE端末の全てがリンカネシアの支配下に入り、一ブロックしかなかった仮想空間は月面都市全体を再現していた。現実の空間と重なり、まるで違う次元の同じ場所のように情報が展開している。それによって、大量に復元されたSロットの居場所を作り出していた。

 柊から記憶の返却を受け計画に同調してくれている者がこんなに大勢いる。会話したり、触れたりすることができる。それぞれに現実干渉性を持つ彼女たちの力を借りれば、多くのことが可能になる。

 柊は驚いていた。少しくらいは協力者を得られるはず、という程度に思っていた。蓋を開けてみればほとんど全員であった。柊に好意的な者ばかりではないかもしれないが、少なくとも彼女たちはこの世界の存続を望んでいることになる。

 これらは全て、Qロットにより現実干渉性の回収を受けてきた者たちだ。それらは幽子的にQロットと一体化し、その上でサクラメントに収録されていた。現実干渉性の保存とは、彼女たちの幽子デバイスをそのままの形で保存することだった。アイはこれをわかっていて、出来る限りのSロットを柊と接触させてきた。

「どうする?」

 柊の隣にも、同様に柊に協力してくれる人物が一人がいた。エルはまっすぐに柊の目を見て、次の指令を待っている。ここで彼女たちを纏める役目を担えるQロットは柊しかいない。

 まず、オウミ級二隻の仮想乗員としてSロットを割り当てた。楓によって回収された者も柊の記憶に統合されているため、Sロットの中にはかつてノアリア計画でオウミの開発にかかわったスタッフのヘンシェル系が数多く含まれている。救われないとされていた彼女たちは覚醒体の消滅によってサクラメントに統合可能になっている。

 オウミ級の能力は乗員の増大で最大限に発揮されるようになった。次は推力の増大が必要だ。重力制御系のSロットに依頼して、エンジンを強化するための現実干渉性プログラムを作成してもらう。これを得意とする楪世系Sロットは、その中心的な人物を含めて何人もいた。

 武装の強化も必要だった。それには、多彩な物理現象制御の能力を持つイスラフェル系Sロットが役に立つ。各上の武装を持つとはいえ二隻しかいないオウミ級で三十隻の敵艦を相手にするので、武器の拡充は必須だった。

 集められた現実干渉性の運用はまだ完全なものではなかったが、十分な計算リソースがあれば世界一つを作り上げるのに必要な全てが揃っていた。今はまだ戦艦二隻の強化で精一杯だが、この戦いが終わればリンカネシアを完全なものにする作業に取り掛かることができる。



 トランキリタティスとフリゴリスが先を行くカロン級の艦隊を捉えたのは七時間後だった。すぐ奥には避難艦隊から脱落したクリシウムが見えている。

 他の避難艦はまだ先だが、柊の艦隊が攻撃位置につく頃にはカロン級の射程内にクリシウムが入ってしまう。推力を失ったクリシウムは戦闘に備えてこちらを向いていた。

 敵艦は円錐型の立体鶴翼陣形をとってクリシウムへと接近している。三隻で連携しなければ確実に轟沈される。柊はクリシウムを指揮している艦長を呼び出した。

 彼女は電磁加速砲戦艦サツマの元艦長で、柊とは面識があった。一度任務で一緒になっただけだが、彼女は柊をよく覚えていた。

「そちらの二隻の加速には驚かされましたが、それでも一歩遅かったようですね。連携しようにも、もう敵の射程に入ってしまいます」

 艦長は淡々と状況を告げた。確かに普通ならそうだろうが、今のオウミ級には切り札が積んである。

 トランキリタティスにはレイのピストレーゼがある。これをオウミの巨大な電磁加速砲によって射出し、クリシウムを援護する計画だ。

「たった一機でですか?」

「ちょっと規格外の一機だから」

 通信を聞いていたらレイはさぞ喜んだことだろう。彼女はもう準備に入っている。

 ピストレーゼはほぼ完全な状態に修復され、ワイヤーつきのCLYXポッドがいくつも増設されていた。レイの強力無比な幽子分解能力を最大限に生かせば複数の宇宙駆逐艦に対抗できる。ここに至ってまだレイを働かせることに柊は申し訳ない気持ちになっていた。

「いいの、私にやらせて」

 それを伝えると、レイはそう言い切った。

「私は結局、あなたを助けられなかったよね」

 レイは同時に、後悔の言葉を口にした。

「町で会うといつも楽しかったよ」

「そ、そう? えへへ……」

 レイは照れ笑いする。レイの声を聞き様子を見ていると、活動的だった頃のあの人を思い出す。

「あなたが生きててくれてよかった。行ってくるね」

 最後にレイはそう告げた。時間が来た。レイを乗せたピストレーゼは、巡洋艦ほどのサイズがあるトランキリタティスの電磁加速砲に装填される。重力制御によって反動を軽減してパイロットを守りつつ、ピストレーゼを猛加速とともに発射した。



 最小限の損害で戦闘は終結した。十字砲火を加えるように斜め左右から挟み込むように敵艦隊を包囲していき、敵勢力の全てを排除できた。クリシウムも自前の火器でよく持ちこたえてくれた。傷は負ったが、一人も死者を出していない。

 地球にはまだ捨て置けない無人兵器の残りがある。柊はこのままクリシウムを見送り、トランキリタティスとフリゴリスを帰還軌道に乗せる。地球圏にはまだこの二隻が必要だ。

 相対位置を狭めてくるクリシウムを一旦追い越すような形で加速していき、地球へと戻っていく。人が住む場所ではなくなった地球に。クリシウムは今の速度を維持したまま、慣性で黒曜星に到達できる。そこは未開の地だが、環境を構築するための先遣隊が既にいる。改オウミ級に搭載されたCデバイスと労働力があれば、黒曜星は自然豊かで住みやすい惑星にテラフォーミングされる。

 こちら側を向いているクリシウムと向かい合い、すれ違う。その際、ブリッジに通信が入った。

『ピストレーゼという機体ですが、こちらで収容しました。どうすればよろしいでしょうか』

 クリシウム艦長の声だった。奮闘を見せたピストレーゼは敵艦の三割を撃沈する大戦果を挙げていたが、途中で中破してクリシウムに回収されたらしい。

「そのまま黒曜星に連れていってください。パイロットはどうしてます?」

『幸せそうな顔で眠っているようですね。少し怪我をしてるようなので医療槽に運ばせています』

 レイは今回過剰なほど働いた。覚醒体との戦いの傷も癒えないままこの追撃戦に参加してくれた。ゆっくり休んでほしい。あとは艦長に任せておけば大丈夫だろう。

『それから、あなたとお話したいという人がいるのでお繋ぎします』

 言葉の通り通信を繋がれる。クリシウムには月面都市から避難した大勢が乗っているが、柊と話をしたい人物がいるのは意外なことだ。研究所以外での知り合いはあまりいないはずなのだが。

『あの……聞こえますか?』

 それは、研究所以外で最も聞き慣れた声だった。政府情報室の同僚、技術主任の声だとすぐにわかった。メルカバによる殺戮の場となっていた月面都市で生き延びていてくれたことが嬉しかった。

「助けにいけなくてごめん。ちょっと余裕がなくて……」

『いえ、いいんです。こうしてまた声が聞けるだけで……本当に生きてるんですね……』

 純粋に同僚を心配して、主任は涙声になっていた。しかし、柊は肉声を返すことができていない。もう触れることも不可能だ。

「ここでお別れだけど、一緒に仕事できてよかったよ」

 柊は素直な気持ちで伝えた。一般人と研究所のQロットという立場の違いはあったが、思えばいつも柊を気にかけてくれていた。レイは友人のような存在だった。

『私もです。また会えますよね……?』

「……そうだといいね」

 その他にも、何人か柊と面識のある人物が次々と別れを告げた。黒曜星まで到達すれば業務以外の通信はほとんどできなくなってしまう。これが最後になるだろう。

『結局、一緒に食事には行けませんでしたね。是非プライベートでもお話をしたかったのですが』

 最後は、クリシウム艦長からの私信だった。年齢が近いわけでもなく一度会ったきりの相手だが、不思議と気が合う予感があった。気が合うからか、艦長はもう二度と柊と会えないということを理解しているような言い方だ。年上である彼女と逢引きすれば、柊には楽しかっただろう。名残惜しさを感じた。

『これより本艦は黒曜星に向かい、環境構築任務を遂行します。貴艦の援護に感謝を。それから、無事な航海を願って』

 仕事の声になった艦長から最後の音声が届き、通信は切断された。お互いに別々の道に向かうことを象徴するように、巨大なクリシウムとトランキリタティスが音もなくすれ違う。その合間に、窓から大勢が敬礼する姿が見えた。



 柊は自室を修復しないまま利用していた。メルカバの襲撃によって破壊されたままの外壁からは、灰色に広がる無人の都市が広がっている。生まれ育った場所なので、この光景は柊を落ち着かせた。地下都市は広義では屋内だ。現在の月面都市は数百人程度の人口しかないので、このままでも特に問題はない。

 この場所は現実の世界ではなく、リンカネシアの中にある精密な仮想空間だ。しかし仮想空間とはいえ、あまり自由が利くというわけでもない。壊れた外壁を修理するにも、仮想空間上で形成機を動かして修復を行う必要がある。肩こりまで再現されているのはアイとルリの趣味なのか、少しでも仮想空間上で加速していく時間を軽減するための工夫なのか。多分両方だろうと柊は考え、疲れた腕を伸ばす。管理者である柊にはこの仕様を変更することもできるが、今はそのままにしてあった。仮想空間を自由にしていくとしても、段階を踏んで反応を実験していくつもりだ。

 現代風の芸術建築に見えないこともない崩落した壁の向こうにある月面都市の天井を見上げる。そこには透明であるかのように設定されているAR窓があり、遠く地球の現実の姿が見える。楔のように大量に打ち込まれた揚星艦によって破壊され巻き上げられた地殻が粉塵となって太陽光を遮り、地球は寒冷化した。そのせいで、今は真っ白な氷に包まれた惑星となっている。海までもが全て凍結したスノーボール・アースの状態だ。人口を失い続け、覚醒体を消滅させたことで現実を構築する処理能力を失ったレムリアの影響を受けて北側はごっそりと消滅したままだ。まるで砕けた氷の玉のようだ。しかし、少しずつではあるが大地が造られ元の姿に再生されている。大地を作っているのは、リンカネシアに集ったSロットたちの現実干渉性だ。

 柊を中心に新たに結束された新しい研究所の仕事は大きく分けて三つあった。一つは、黒曜星に落ち延びた人類から出た死者の幽子デバイスをリンカネシアに導くこと。これには幽子操作技術が必要で、Sロットの力なくしては実現できないものだ。いずれは自動化するべきものだが、現在はリンカネシア自体の性能不足により手動で処理されている。

 二つ目は、破損した地球を復元していく作業だ。現在この作業の優先度は低い。これもリンカネシアの持つ処理容量が不足しているというのが大きな理由だ。リンカネシアは現在月面都市全体のCUBEネットワークをフル稼働させることで動いているが、これを全て幽子コンピュータ、つまり祈機に置き換える作業が先に必要となる。そうして十分な性能を得るまでは黒曜星で死んだ人間の幽子デバイスを保護する方が優先されている。いずれ地球が復活すれば、黒曜星に逃れた人間は再びここに戻ることができる。

 三つ目は、未だ地球に残されている大量の無人兵器の活動を監視し、場合によっては破壊することだ。放置していれば動力が尽きて活動を停止するタイプのものもいるが、宇宙に上がってこようとする生産能力を持ったタイプの敵がいる。これを発見して処理しなければ、地球はおろか月面にも危機が及ぶ。

 厳密にはあと一つ、リンカネシアが抱えた欠陥を処理するという大仕事があったが、これは全てが終わった後で取り組むべき課題なので今は考えない。リンカネシアの基礎的な機能が安定してきた今、柊は三つ目の作業、軍事的行動を拡大していくための人材を集めるべくSロットとの面接を行っていた。

 Sロットとの面接は必要に応じて行っていた。まだ全員とは話ができていない。Sロットはリンカネシアの活動に参加してくているが、中には死を受け入れてもう眠りにつきたいという者もいるかもしれない。いつ眠りにつくかはここでは任意だ。それ以外にも、特定の就きたい仕事ややりたいことを持っている者もいる。そういった意思を反映していくために、柊はただ一人のQロット、管理者としてSロットの相談に乗る役目がある。

「あなたはもっと享楽的な人かと思っていましたが、案外堅物なんですね」

 その日の面接相手はディアナ・ヘンシェルだった。どこか、ディアナは自分と似た所がある。強化兵士という共通点でも、柊とディアナは縁がある。

 ディアナには、地球上での排除活動を指揮してもらおうと思っていた。地球と月の圏内にいる肉体を持った存在は、ノルンの同類のS型強化兵士と、それを運用するC型強化兵士がいる。彼女らの寿命は長くて十数年で、それまでの間は働いてもらう予定だった。

 彼女らの指揮をとるために経験豊富な兵士が必要だ。ディアナはこの仕事にうってつけの人材であった。

「榧が私を救ってくれた、そういうことなんですよね……」

 面接が終わった時、ディアナは語り始めた。榧はディアナにとって娘である。姉である榧のことを柊もよくは知らなかったが、リンカネシア発動の計画にはいろいろ予想外な事が起きたことは理解していた。

「この計画は、本来こんなに死者を出す予定ではなかったんだと思う。たまたまアイが意識不明の時にCUBEの覚醒が起きてしまったせいで反応が遅れて、榧の大事な人が犠牲になってる」

「そうですか……」

 それでも榧は、アイの不在を補ってリンカネシアの発動を助けた。しかし、榧の親代わりであり上司だったクリス・スタレットは犠牲になってしまった。リンカネシアが起動する前に死んだクリスの幽子デバイスは救われることなく消滅するか、覚醒体の一部に取り込まれている。罪悪感か、それとも添い遂げたいという思いからかはわからないが、榧はリンカネシアには導かれなかった。生き残ったQロットである榧にはその権利があったはずなのに。

「この空間のどこかに榧がいるかも、なんて……都合のいい話ですよね」

 育ての母であるディアナだけは、柊と接点を得たことでリンカネシアに復元される道を得た。それは榧がアイに願って、柊に行わせたことだ。それがどれだけ切ないことか、柊にはディアナの気持ちが痛いほどよくわかった。

「いるんだったら、姉にはこの仕事の量をなんとかしてほしい」

「そうですね。あなたはもう少し休んでもいいでしょう」

 ここで生きる事はディアナにとっては贖いのようなものだ。ディアナは榧を求めていたが、もう彼女がここにいるとは信じていないようだった。

 それでも、榧ならいつかひょっこり顔を出してディアナに許しを与えるのではないか。柊はそう願っている。

 ディアナは軍事活動管理職の役目を引き受けてくれた。活動時にはいずれかの強化兵士の体を借りて行動することになる。軍事活動の準備のために、月面都市内の本物の形成機も稼動させる必要があるだろう。また仕事が増えることになる。

「軍事活動管理職は私ではないのか」

 次に柊の自室を訪れたのは、リンカネシアで最初期から柊を支えるエル・イスラフェルだった。柊とエル、二人きりのリンカネシア情報室の構成員だ。

「風紀委員の仕事があるでしょ。いなくなられると困るよ」

 エルは優れた兵士だ。しかし複数の部下を指揮するには向いていない。そう思っていることは黙っておいた。エルはその能力を生かして、リンカネシアの住民同士の治安を維持する風紀委員のような役目を担ってもらっている。

「問題を起こそうという奴は少ないんだ。つまらない。退屈だ」

「もうディアナに頼んだからいいよ」

 とはいえ、これから地球では軍事活動が山ほど必要になる予定だ。そのうちエルにも役立ってもらえるよう、別の風紀委員を任命したほうがいいかもしれない。

 テラフォーミングは未知の取り組みなので黒曜星ではいくつも問題が起きているようだが、大勢が死ぬような事態は起きていないらしい。レイは今頃どうしているだろうか。自由に生きてほしいと柊は思っていた。

 リンカネシアには現実と同じように日という概念があり、仕事に区切りをつけるようになっている。一日の仕事を追えた柊は、最後に日課をこなすことにした。

 一部の者だけが許可されたAR空間上への自由移動を、一日に一度だけ発動する。行き先は白い世界、地球である。灰色の月面都市から純白の地球上へ、瞬間的に移動する。

 自らを仮想の存在として現実世界を訪れる被AR状態では感じる事はないが、この場所は赤道近いにも関わらず気温は氷点下である。ここに、現在地球上でただ一つの人類の基地がある。

 広大な雪原にある基地は無限軌道によって移動可能な観測所である。破壊した敵無人兵器の残骸を回収し、月面に向けて重力加速装置で射出する。また同時に、現在の地球環境の調査を行っている。ここの唯一の駐在員は、狙撃兵としての地中も見通せる目を使って凍土の中から植物の種子や動物の遺伝子を回収し、それを月面に送り届けている。

 敵無人兵器の鹵獲と解析が進んでおり、現在リンカネシアでは新型の作業用無人機を設計している。いずれこの仕事も無人化される予定だ。現状ではまだ未完成なので、この施設の運用は人力で行っている。

 駐在員、ノルンはこの仕事をたった一人でやりたいようだった。他のS型を基地に入れることなく、黙々と作業を続けている。

 柊が訪れると、ノルンのNデバイスを通じてARとして姿が映し出される。いつも物が少ない居室にいる彼女は、柊の姿を認めるとベッドから立ち上がって迎えた。

「こんなに綺麗だった?」

 柊は問いかける。以前よりも部屋の中がすっきりしている気がした。ノルンは見つけたもので気に入ったものがあれば持ち帰って部屋に溜め込んでいたはずだ。結局あまり上手に話せないノルンだったが、言葉はわかるので、状態のいい本を拾って読むのを楽しみにしていた。

 それを尋ねると、ノルンは黙って上を指差した。そこには居室の天井があるだけで、柊には意味がわからなかった。

 柊はノルンの健康状態をひそかに確認している。S型強化兵士の寿命はもともとそれほど長くない上、ノルンは緊急開封されたためにさらに神経と内蔵が脆い。あと何日生きていられるのだろうか。予想されていた寿命の一ヶ月よりは長く生きていたが、いつこの世を去ってもおかしくはなかった。

 ノルンがそれを理解しているかは表面上の態度からはわからなかった。柊は、できるだけ毎日会いにくることにしていた。遅い時間になりうとうとしはじめたノルンをベッドに誘導する。実体がないARである柊はノルンを抱き上げてやることはできない。柊自身は三八万キロを隔てた月にいる。できるのは、Nデバイスを通じて軽く手を引くような感覚を与える程度のことだけだ。

 ノルンが眠りに就くまで、柊はその場にいることにした。地球の夜は冷え込みが厳しい。この場所は衛星から監視されていて、敵が接近すれば大気圏外からの攻撃が行われる。だから安心して眠ることができる。

 翌日は、第二トンネル内に実態として存在している人造強化兵士たちの元を訪れることにした。

 PS社を中心に作られていた彼女らは、肉体を持たないリンカネシアの住民に代わって現実世界で活動してくれる貴重な存在だ。

「これは何ですか?」

 ノルンから送られてくる標本の中に変な物が混ざっていると報告があった。報告はS型兵士の一人からで、ノルンよりもずっと上手に言葉を話すことができる。ノルンと親しくしていた個体だ。同型同士は人工言語によって会話できるらしく、言葉が話せないことは問題にならないらしい。

 ノルンが地上で回収したものはカプセルに詰められて射出され、この第二トンネルで受け取っている。それを分別して保存したり解析するのがここに配備された兵士たちの仕事だ。

「何かな……?」

「私の部屋に置いてほしいというメッセージがありました。何のためですか?」

 カプセルの一つを見ると、柊の目から見てもがらくたにしか見えないものが入っている。見覚えがあるものがいくつかある。それはノルンの個室に置かれていたものだ。

 この場所に戻ってきた時のためだろうかと柊は思ったが、それは違う気がする。ノルンを月面で療養させることは大分前に断られてしまった。彼女は多分、地球上で死ぬつもりだ。

「何か約束をしてたとか?」

「約束……私の体を貸すという約束ならしました」

 肉体が滅んだら、時々でいいから彼女の体を使いたいとノルンは言っていたそうだ。

 死に備えて、お気に入りの本や置物を処理し始めている。この友人の兵士の部屋を見せてもらうと、ノルンが送りつけてきたものが積み上げられていた。それに困惑しながらも受け入れている姿が微笑ましく思える。

 現在の人口では月面都市は広すぎるほどだ。彼女の個室とは別にノルンの部屋を用意して、そこに収納するようにしてやった。本棚もなく積み上げられていた本も、用意した棚に並べるようにした。そうしてみると、その部屋は図書館のようであった。

 ノルンは、もうすぐ自分が死ぬということを理解しているのだ。そうでなければ、大事にしていたものを月面都市によこしたりはしない。それが柊には切なかった。

 死に備えて別の場所に何かを積み上げる、という発想は柊にはなかった。リンカネシアの次の姿について一つのアイデアを獲得したように思えた。しかし、今はそれよりもノルンのことが気がかりだ。

 肉体のない柊は、たった一人で地球上にいるノルンを看取ってやることはできない。頼れる人は少ないが、心当たりは一人だけいる。今は遠くにいるその友人にメッセージを送ることにした。



 雪は雪上基地の入り口に数十センチ積もっている。現在は雪は降っていないので、長い間その扉が使われていないことを意味している。

 雪を掻き分けて舷梯を上り、扉に手をかけた。鍵はかかっていない。中は暖房がきいていた。

 静かで、人の気配はなかった。間に合わなかったのだろうかと不安になる。早足で施設の中を歩く。そして見つけた。ノルンは自室ではなく、その途中の廊下に座り込んでいた。

 生きているようには見えなかったが、レイが前に立つとノルンは静かに瞳を開き、レイの姿を見た。そして手を伸ばしてレイの足に触れ、実在する人物だと確認する。微笑んだりはしなかったが、表情がゆるんでいるように見えた。

 部屋は暖かいのに、ノルンの手は冷たかった。安心したように再び目を閉じるノルンを部屋に連れて行こうとすると、首を降ってレイを止めた。

 指差す方向は外を示していた。レイは願いを聞き、ノルンを抱きかかえたまま外に出た。

 その日の気温はいつもほど高くなく、日差しに照らされた雪原はこの世のどこよりも明るい場所に思えた。基地から出ると目が開けていられないほどだ。

 レイが自ら改良を加えたピストレーゼが近くにある。強化された重力エンジンを備え、たった一週間で黒曜星からここまでレイを運んできてくれたものだ。機体から断熱シートを取り出し、雪原に引いてその上にノルンを座らせてやった。

 ノルンはそのまままどろんでいた。レイも近くに座って空を見上げる。まだ灰色交じりだが、再生の兆しが感じられる空だった。

 風もないのに、どこかからか甲高い音が聞こえてくる。その音の発生源はすぐにわかった。上空に鳥が飛んでいた。崩壊が始まる前から環境汚染によって生物は減っていたはずだ。あれは、その上での環境激変を生き残ったたくましい命だった。

 鳥は座るノルンのそばに降り立った。初対面ではなさそうだ。まとわりつく小鳥を慈しむように撫でる手に、ノルンの心を感じ取る。

 時間が経ち、鳥はどこかへと飛び去ってしまった。

 基地の掘削機を使って地中に穴を開け、ノルンの遺体を自然の大地に埋葬してやった。最後に抱きしめた時、もうそこにノルンがいないことを実感した。ノルンの幽子デバイスは今頃リンカネシアに召されているだろう。それでも涙は流れた。

 立ち去る前にノルンの私室を見た。彼女の私物は全て片付けられていた。この基地はもう用済みになるので、海上に出して処分しなければならない。海も全て厚い氷に覆われているが、そこに穴を開けて自分で自分を海底深くに沈めるようにプログラムを行う。

 操縦室に一冊だけ本が残されていた。忘れ物だろうかと思ったが、その一冊は古書とは違って作られたばかりのものに見えた。

 基地の生産システムを使って製本されたらしく、少しも汚れがなかった。無地の表紙にシンプルな書体で「アルカディア」という題が書かれている。

 作者の表記はない。中の文章をスキャンし書籍情報を照合してみたが、この世のどこにも存在しない物語だった。読書家だったノルンが自ら創作したものかもしれない。数ヶ月しか生きなかった彼女は何を考え、どんな物語を綴ったのだろう。レイはそれを懐に収め、プログラムを終えて基地を出た。

 与えられた指令に従い、基地は無限軌道を展開して雪上をゆっくり走行し始めた。風が出てきた。空気は冷えて、空は再び太陽を覆う。レイは襟を立て頬を守りながらピストレーゼのコクピットに戻った。

 基地が無事に沈むまで、レイはこの場所で待ち続ける。そこに通信が入った。

『ついさっき、ノルンを確認した』

「そう……よかった」

 声は柊のものだった。二ヶ月ぶりだ。ノルンは無事にリンカネシアに到達したらしい。

『急なお願いを聞いてくれてありがとう。いつも世話になってばかりだ』

「いいんだよ。いつでも頼りにして」

 ノルンの最後を看取ってほしいという柊のメッセージを受け取った時はショックを受けたが、こうして地球に来ることができてよかった。まだ人が住める環境には程遠いが、生まれ変わっていく世界を目にすることもできた。

 あとは黒曜星に戻って普通の人生を送ればいい。アイや、レンはそう望んでいると思う。

 けれど、本当にそれでいいのだろうか。二人は、レイに決まった生き方を望むことはなかった。命を生み出した責任を負うことと、命の存在の自由を縛ることは違う。

「私、ここに残りたい」

 レイは、静かにそう告げた。レイは自分の望みに問いかけてみたのだ。黒曜星には大勢の同胞がいて、開発が進めば豊かな人生を送ることもできるだろう。やりがいのある仕事も多い。地球の再生には何百年、何千年という時間がかかる。展開にいるSロットたちにしか不可能なことで、ここで数十年レイが活動したからといって大した意味はない。

『それは……』

「まだ、生きているノルンの姉妹たちがいるんだよね。私、その子たちよりは長く生きてられるよ。だから……」

 ノルンの姉妹たちを見守りたかった。肉体の滅びは恐れるようなことではない。たとえそうでも、死に際に誰かに抱かれる経験をすることはリンカネシアの価値を向上させるに違いない。些細な積み上げなのかもしれないが、レイはそれを望んでいた。

「一緒にいさせてよ。私だけ仲間外れはもう嫌」

 黒曜星にいても、何か違うと感じていた。自分の居場所だという気がしないのだ。両親が愛した姉妹たちの近くにいたかった。ピストレーゼをこうして改良していたのも、いつか来るこの日のためだったのかもしれない。

『人手が欲しかった所なんだ』

 柊は答えを返した。見上げる空は灰色に染まり、雲に穴を開けた空に夕月が上がっている。レイは愛機を起動させ、月面を目指し飛び立った。



 地球は順調に再生を続けている。肉体を亡くし新たにリンカネシアに加わったノルンには、持ち帰った標本を分類する仕事を依頼した。

 このまま再生が続けば、いつか黒曜星から戻った人類は地球に新たな文明を築くだろう。柊たちにはそれに干渉する権利はない。テクノロジーは進歩を続け、いずれ幽子領域に踏み込めるようになる。あらゆる価値は情報として保存できるようになり、現実の価値は消失する。

 極北に到達した情報技術の前には現実とそうでないものは区別がなくなり、幽子世界へと変わる。現実にいながらにして肉体をなくし、意識だけが存在するようになる未来が必ず来てしまう。CUBEの存在はそうして生まれたものだ。

 それこそがリンカネシアのシステムに残された最大の課題であり、欠陥と呼べるものだ。CUBE現象が再発しないように幽子デバイスを回収し輪廻させるというシステム。しかし、現実が幽子世界まで進歩し、肉体に頼る必要がないほど技術が進歩し、幽子デバイスがリンカネシアに来ることがなくなったらどうなってしまうのか?

 現実世界で再びCUBEかそれと同じ現象が起こることになる。そうなれば、いずれにしろ無が訪れる。それを必然として受け入れるのも一つの考え方だが、ルリとアイはそうではない道を探るためにこのリンカネシアを用意した。柊は、その意思を受け継いで実現を目指したい。

 柊の手元には一冊の本がある。レイがここまで届けてきた遺品をデータ化したものだ。ノルンが遺した創作である。

 前半の内容は研究所の設立から現在までをまとめている。その後は黒曜星に逃れた人類が地球に戻り、再び文明を築いていくという内容だ。前半が脚色された史実、後半が創作という独特の内容である。

 自分が現実からいなくなる前に、ノルンはこの作品を作って置き去りにしていった。今は友人の兵士の体を借りて、地上から持ち帰った私物を楽しんでいる。その一連の行いが、リンカネシアの欠陥を改善する方法のヒントを与えてくれた。

「ディアナの好きなものは何?」

 それについて考えている時にたまたま出会ったディアナに聞いてみた。彼女はレイとも連携して軍事活動の準備を始めている。

「突然ですね。私はお酒が好きです。今は控えていますが」

「じゃあ、生まれ変わるとしてもそれがある世界がいい?」

「そうですね。現実構築の計画と関係があることですか?」

「まあそうかな」

 柊はディアナに、自分の考えを話してみた。まだ地球の再生も本格的に行えていないのでこの問題について本格的に議論するのはずっと先だが、それまでにこの考えをまとめてみたい。

「それはまた……壮大なことをやろうとしてますね。地球の再生よりも大きな計画になりますよ」

 ディアナは真剣に柊の話を聞いてくれた。大変な作業になることは柊にもわかっている。Sロットだけでなく、現在いる全人類に協力してもらわなければできないことだ。

「でも試す価値はある。そう思っているんでしょう?」

 しかし、微笑みながらディアナはそう言ってくれた。

「私は情報処理や文化学の専門家ではありませんし、楪世のとか、あなたのご学友だとかに相談してみるのがいいでしょう。きっと力を貸してくれますよ」

 ここには大勢の人材がいる。今はまだ白紙の計画だが、うまくいけばいつまでもクオリアを刺激し続ける活動的な世界を生み出すことができるかもしれない。

 それを研究することが、柊の人生の目標となる。



■白き大地に



 死期が近いことをレイは理解していた。まだ四十と少しの年齢だったが、Nデバイスを酷使してきた影響でもう寿命が訪れようとしている。

 もう地球圏に残っている人間は自分一人しかいない。大勢いた人造強化兵士たちは一人ずつ死に、ずいぶん前に全員がいなくなってしまった。リンカネシアへと導かれた彼女たちとはいつでも繋がっていられたが、一人で戦い続けるのは孤独だった。

 それももう終わる。地球上に残った無人兵器のうち厄介なものは全て排除することができた。まだ残っているものもいるが、その中に自己再生能力を持つものはいない。地球が再生するまでの間には活動停止しているだろう。

 レイの手の中には柊の特殊拳銃があった。あの日、アイの一部を封入して祈機としたリンカネシアの核だ。幽子コンピューターのよりしろとなって進化を続けてきたこの小さな道具の中に、広大な幽子世界が存在している。兵士たちがここに導かれた今、リンカネシアの者たちはもう現実で活動する必要がなかった。月面都市はデータとしてのみ残され、実物は長い時間をかけて微細に解体された。レイが生まれた場所も育った家も、もうこの世には存在していない。

 楔形の特殊拳銃は、世界ひとつに匹敵する情報量を秘めているとは思えない小さいものだ。レイの掌に収まる。しかし、高密度の幽子デバイス化したことの証拠として、先端部分が半透明になり、ほんのりと白い光を発している。半透明の部分は少しずつ広がっている。

 ピストレーゼのコクピットに特殊拳銃を入れる。レイは共に戦った長年の相棒と別れを告げた。ピストレーゼはレイを残して大気圏を離脱し、故郷である月へと単独で戻る。月のどこかに自らを埋没させ、リンカネシアの実体を守り続ける防衛装置として存在し続ける。

「すぐ行くからね……」

 レイは本当に一人きりになった。視力が低下している。手足の感覚も薄かった。ピストレーゼによる視界補助がなければ、この世界をはっきりと見ることさえできない。

 その場所はかつてノルンを埋葬した場所の近くだった。地球は相変わらず雪と氷に包まれた純白の惑星であり続けていたが、大気の浄化や環境の再生によって森林が復活し始めている場所がある。

 鳥のさえずりが聞こえてくる。体の力が抜けていった。横たわって見上げる空に、もう相棒の姿は見つけられない。

 次に目覚めた時、レイは自室にいた。かつて月面都市で活動していた頃の自分の部屋と何も変わらない。

 全ては夢だったのではないかと思うほど現実と同じ世界だった。しかし、鏡に映る自分の姿を見てそうではないとわかる。この町にいた十五歳の頃の姿ではなく、死を迎えた四十歳の姿でもない。最も活力のあった二十五歳ほどの姿でレイはそこに立っていた。

 ここが、長年焦がれてきたリンカネシアに違いなかった。玄関に誰かが来ている。レイは駆け寄って扉を開いた。

「迎えに行けって皆が言うから……私でよかった?」

 そこには、あの日と変わらない柊の姿があったた。レイはそのまま柊を強く抱擁した。

 姿だけではない。二人の体は記憶から完全に再現されていた。情動が存在し、伝わってくる柊の体温を感じて目頭が熱くなる。ずっとそうしたいと思っていた。閃光のように走りぬけた人生だが、地球で過ごす時間は永遠にも思えた。

 物質的世界である現実と幽子的世界である冥界という二つの世界を用意することで、幽子領域の情報の安定化を図るのがリンカネシアの機能だ。こうして柊とレイが再会できたのも、その機能の一環の中でのことである。しかし、リンカネシアは現実が幽子レベルの情報技術に近づくにつれ違いがなくなってしまうという問題を抱えている。今ここでは、それを解決しようとしているらしい。

 リンカネシアは次の段階に進もうとしている。

「ようこそ、“リプロダクティア”へ。まずこれを受け取って」

 この場所は既にリンカネシアではなく、新しい名前の世界になっていた。再生産<リプロダクト>される世界とはどういう意味なのだろうか。

 レイに渡されたのは数枚のカードだった。データストレージの一種のようだが、見たことのないものだ。

 肉体が消滅し回収された者たちには必ず渡されるものらしい。リプロダクティアの機能に関わることができる鍵のようなものだという。

 このカードはレイが思ったようにデータストレージの一種だが、それだけではない。このカードが集まって、全く新しいもう一つの世界の要素を埋めていく部品になる。幽子デバイスが新しい肉体に転生する前に、好きなことを書き込んでいいものだ。現実で感じた価値を大勢の人間が一つ一つ積み上げていくことで、「次の世界」の設計図を描いていく。

 それによって、消滅した現実世界の他に、新たな世界を生み出して続けることができるのだ。

 現実世界の技術が進歩し肉体や物質の意味が無くなって幽子世界となった時、このリプロダクティアが起動する。リプロダクティアは現実構築能力によって「次の世界」へと作り変えられる。

 そして、幽子化し無になった現実世界は、「次の世界」となったリプロダクティアを運営する「次の冥界」になる。役目を入れ替え、世界を続けていく。

 「次の世界」は、長い時間をかけて大勢の人間で作り上げてきたものだ。人が保存したいと思った価値によって構成されている。幽子デバイスとなった人間たちがそこに転生していくことによって、自分が望んだ世界に参加できる。「次の世界」がまた進化して極限まで到達したら、再び冥界と現実を反転させる。それを繰り返すことによって、望む世界をいつまでも続けていくことができる。

 それが、リンカネシアの住民が提案した世界の在り方だった。始まって終わるという消極的な存在になるのではなく、かといって他人によって管理されて意図的に不自由にされて永続していくのでもなく、自らを自らで再生産し続ける。灰になるのではなく炎を維持し、生きた状態であり続ける。

 自分が持つカードの容量の分だけ好きな価値を積み上げられる。現実から得たものの中で、次の世界にも存在して欲しいものを選ぶ権利がある。ノルンが行った些細な価値の積み上げに発想を得て作られたシステムだった。

 例えばノルンが集めたガラクタは、幽子分解されてこのカードの中に情報、物質ともに封じ込められている。それを誰もが行う。最終的には、世界全体の構成幽子は全てリプロダクティアに紐付けられ、カードとしてこの場に備蓄され保存される。情報さえ保存すれば何も損失しない世界となる。それをブロックのように組み合わせて、様々な世界を組み立て、望む世界を試していくのだ。

 新しい世界をまるごと作るのは壮大な計画だ。膨大な作業量が必要な上、不完全な部分もある。カードの仕組みも試験的なものだ。まだまだ調整が必要らしい。

「手伝ってくれる? うんざりするような作業が多くて」

 当然のように柊が目の前にいて語りかけてくれる。それが今は何よりも嬉しい。レイの答えは決まっていた。

 月は再び静寂で満たされていたが、皮膚の下では脈動が続いている。誰も立たない月面からは、真っ白な姿の地球が見えていた。



□エピローグ



 落下した燃焼機をようやく見つけた。苦労してそれを雪の中から掘り出して橇に載せる。広がる雪原の上に、かんじきを使って歩いてきた丸い足跡が残っている。人の姿が珍しいのか、真っ白い狐がその足跡の周囲をくるくると回っている。

 時刻は正午。天候はしばらくはいいだろう。焦る必要はない。

 羆皮の外套を身に纏ったままでは暑さを感じるほどだ。北方の村で育ったグロスター助手にとって、この南の大氷海は暖かすぎるくらいだ。二時間ほど歩けば汗がにじむ。橇に座って休憩することにした。ビスケットの欠片を狐に放り、再び立ち上がる。

 落下した熱気球の所に戻ると、グロスター助手の主人であるステラ・ヘンシェルが夕食の準備をして待っていた。

「球皮に損傷はないね。そっちはどうかなグロスター君」

「見たところ壊れているようには見えませんね」

 修理の道具はあるので、いざとなればグロスター助手は燃焼機を修理するつもりだ。そうでなくてはこのまま雪原のどこかで野垂れ死にだ。帝都を発ってからもう半月ほど経っている。吹雪から町を守る頑丈な城壁に囲まれたあの町から外に出るものはいないし、変人ステラ・ヘンシェルの消息を追うような酔狂な人間はもっといない。

 冒険家だと名乗るステラの旅の目的は、この白耀星を気球で一周するというものだ。まだ誰も全容を知らないこの世界の姿をその目で確認し伝えようとしている。全財産をつぎ込んで作った気球に自分と助手の二人だけを乗せて飛び立った。

 旅は順調に進んでいた。高い場所から見る広大な雪原はグロスターにとっても興味深いものだった。南に向かうほど空気が湿っぽくなってきた。初めて見る動物や雪の上に浮かぶ青い湖など、見たこともない不思議なものが沢山あった。それに二人ははしゃいでいたが、その後運悪く天候が急変した。高度を落としたが間に合わなかった。強風にあおられた気球は逆さになっているのではないかと思うほど大きく揺さぶられ、空気を暖め浮遊するのに必要な燃焼機が千切れて落下した。気球はなんとか軟着陸できたが、二人は雪原に投げ出された。ステラは雪洞を作って気絶したグロスターを中に引き込み、天候が回復するまでじっとしていた。

 燃焼機を持ち帰った時にはもう日が暮れそうになっており、長い距離を歩いてくたくたに疲れていた。今日はここで夜を過ごし、翌朝に出発しようと二人は決めた。

 グロスターが調べた所、燃焼機に破損は見られなかった。持ち込んだ燃料に点火してみたが、問題はなさそうだ。ただし、落下の際に燃料をいくらか失った。そのうち森に下りて代用の木炭を作らなければならない。これはいずれにせよ必要になるものだった。

 雪洞を掘って焚き火を囲んだ。火種がなくなったので、グロスターが魔力を使って火を熾した。着火具を節約できる。

「便利だねえ、グロスター君のそれ」

「こんなの……今は大した意味はないですよ」

 ごく薄いものだが、グロスターは先祖から受け継いだ血筋のおかげで、少しばかり魔法が使える。竜の血がまだ濃く人に混ざり合っていた太古にはもっと強大な魔法を使える者もいたらしい。帝国では魔法持ちは差別を受けるので、人前で使うことは決してない。

 空には鋭利に尖った三日月が見える。伝説では月には天使が住み、この地上で起きる出来事を見渡しているという。今、二人がこうしていることも見えているのだろうか。それを思い、夜空の広さが恐ろしく思える。

 かつて人々はこの大地を追われて遠く天の黒曜星にたどり着き、数千年を過ごし、その後竜にまたがってこの白耀星に戻ってきたと言い伝えられている。アルカディア聖典と呼ばれる書物に残された御伽噺だ。その時、人は持っていた高度な科学技術のほとんどを失ってしまったという。

 人の体に宿るかすかな魔力や、祝福によって傷を癒すという祈力など、機械に劣る能力である。人類は帝国という巨大国家を築くほど進歩した。錬鉄技術や動力理論を進歩させ、鉄道や鋼鉄の戦車まで作る時代になった。この気球も優秀な技師による最新鋭の設計だ。これまでとは一線を画す操縦性能と速度を持っている。それでも、広大に広がる自然の大地を目にすると、人の力などそよ風にも満たないと思えてくる。こんなおもちゃのような熱気球で世界に飛び出したことが恐ろしくなりはじめていた。

「あれ、何だと思う……?」

 西に赤い光が見えている。町の光のようにも見えるが、それにしては様子が違う。そもそも、伝承によれば帝国とその周辺以外は雪の世界で、人が住めるような場所はないはずだ。何人もの冒険家が馬や徒歩で調査に行ったが、遠くまで行けば二度と戻ってくることはなかった。

 他に人間が住む国があるとすればそれは大発見だ。ステラとグロスターは興奮した。

「向こうからはこっちの火が見えているんでしょうか」

「どうかな。目がいい奴なら見えるかも」

 興奮と同時に二人は警戒した。相手が友好的な連中ならいい。しかし、数十年前の帝国だったらどうだろう。外の世界から来た人間がいれば悪魔か何かだと思って、問答無用で槍を放ったかもしれない。猟銃は一丁しかない。腕はグロスターのほうがいい。ステラはスコップを握り締めている。

 さく、さく、と足音が聞こえてきた。二人は暗闇に向かって身構えた。しかし、姿を現したのは人間ではなかった。昼間グロスターが出会った白い狐であった。

「こいつ、火を怖がりませんね」

「きみに懐いたんじゃないかな」

 安堵したグロスターは狐に向かって唇を鳴らした。すると、おそるおそる近づいてきた白い獣はグロスターの外套からぶら下がる留め紐に興味を示し、かじったり引っ張ったりしていた。その愛らしい様子に二人はすっかり緊張がうせてしまった。

 翌日、気球に点火して昨夜の明かりの元に向かってみた。すると、そこにあったのは火山であった。

 溶岩流の光が町の光のように見えていたのだ。ステラは落胆していた。狐が火を恐れなかったのは、この火山の近くで育ったからかもしれない。

 火山の付近は雪もなく、生物が数多く住んでいるように見えた。冒険の途中でなければ降りて温泉を探していただろう。

「今からでも降りませんか?」

 グロスターは、今回の旅はもう成功したと考え始めていた。数多くの発見があり、今まで誰も来たことがないような遠くに来ることができた。これから引き返したとしても十分な成果だ。ステラを馬鹿にしていた連中を見返せるほどには土産がたまっている。旅の仲間である狐はゴンドラの床にいて、採取した多くの標本に紛れて丸くなって眠っている。

「私はこの世界の姿を見たいのさ」

「それは私も同じですけど……」

「怖くなった? 先に進むことが」

 この世界は広大すぎる。自然の猛威には決して勝つことができない。グロスターはそう思い始めていた。もし自然を乗り越えられる科学技術を獲得したとしても果たしてそんな巨大な力、人類は制御を持つに値するのだろうか。それほどの力は、きっと新しい自然の猛威と変わらない。世界の規模の大きさを感じ、グロスターは震えた。

 帝国では戦争の兆しありという噂を耳にする回数が日に日に増えていた思い出す。東のカナリア国との戦争に備え、帝国兵による周辺の集落からの鉄狩りが始まったという話まであった。鋼鉄の戦車を使った戦争がどんなものになるかグロスターには想像もできないが、大勢の人間が虫けらのように殺されるような戦いになると思える。

「真の知性を身につけたければ、科学と向き合うことは絶対に必要だよ。立ち止まっても、それは乗り越えたことにはならないのさ」

「そんなものですかね」

「見てごらん」

 ステラはグロスターに望遠鏡を手渡した。南を見るように言われるままに覗き込んだ。

 白い海原の向こうに、わずかに斑な濃紺が見えている。

「あれって……」

「白耀星の気候は大きく変わり始めてる。きみの説は正しかった」

 それは間違いなく海であった。人類がこの星にやってきた時、全てが氷に包まれた厳寒の大地だったと言われている。それを確認した者は誰もいなかった。渡り鳥や風を分析して、この世界のどこかに海が開いていると提唱したのはグロスターだ。

「あれを確認したら戻ってもいいんじゃないかな。どうする?」

 まだ目標である世界一周していないが、ステラはそう言った。

「もうちょっと……先に行ってみましょう」

 この世界は雪解けを始めている。大地が姿を現すのも時間の問題だろう。今まで氷の中に隠されていた世界がどんなものなのか、人類はまだ知らない。科学の行く末もわからない。ただ、火は燃え続けている。そうである限りは、今日を明日にして進んでいく。本当の意味で現実を乗り越え、価値を創造できるのは知力だけだ。気球は、風に揺られながら目的地に向かって進んでいく。

 それを、月だけが見守っていた。


おわり


□□□□□

「レムリア」シリーズはこれにて完結です。

番外編もあります。また、近況ノートやTwitterにイラストを載せていますので、よろしければ見てください。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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