番外編 ユニカム・ソルジャー Unicum Soldier

番外編 Unicum Soldier 1

 イクス・イスラフェルにとっての綺(いろい)欅(けやき)は、何の変哲もない、単なる管理者だった。しかしあれは変わり者だったのだろうと今のイクスは考える。

「ごめんなさい、あなたを守ることができませんでした」

 あの時、欅からイクスへの思いが流れ込んできた。

 言葉として聞いたわけではなかったが、イクスは他人の考えていることがわかる。そういう現実干渉性を持っているからだ。

 死の間際だというのに、欅は悲壮な表情を浮かべるでもなく、ただ柔らかく微笑んでいた。少なくとも表面上は、何の後悔も未練もないという表情だった。上品な和服に身を包んだ姿と背筋が伸びた立ち姿は他の誰とも違っていたし、絹のような光沢のある髪が綺麗だとイクスは思っていた。死ぬ寸前まで、いつも通りの姿だった。

 胴体に命中した何かの物体はイクスの視力では見えなかった。しかし、Nデバイスに記録された鮮明な記憶で、欅の肉体が引き裂かれ、胴体から真っ二つに分かれて空中を舞い、鮮血を飛び散らせているのが確認できる。

 結ばれていた髪がほどけて、近代画のように美しい文様を空中に描いていた。凄惨な光景だというのにイクスは何も感じない。何も感じないようにされている。

 イクスは檻の中にいる。CUBEネットワークには繋がっているので精神の自由はあるが、肉体はここに閉じ込められている。分断された自分の意識が、無限にネットワーク上に広がっていくのを感じた。

 今のは、欅が殺害された時の映像だ。それを見ても、やはりイクスの感情に乱れはない。乱れがあっては困る。イクスが持つ現実干渉性は、それを許さなかった。

 CUBEネットワーク上には様々な感情がある。Nデバイスを通じて、他人を内側から見ることができる。それを繰り返しながら、何も感じない心で欅の気持ちを探している。

 なぜ、彼女はあの時微笑んでいたのだろうか。それがずっと気になっている。死の間際とはどんな気持ちになるものなのだろう。イクスは、与えられた自由の中で、今日もそれを探り続ける。



番外編 Unicum Soldier



 零細新聞社「グリント」がある区画も決して上品とは言えないが、この旧宿泊施設街は人の住む所と思いたくないような場所だった。

 編集長のクリス・スタレットは、それでも躊躇わずに足を踏み入れる。生臭い場所には慣れている。刑事の頃は何度かこのあたりにも足を運んで仕事をした。以前このあたりはマフィアの巣窟で、銃撃戦になることも珍しくなかった。金をかけて修繕をしようという気も起こらないような建物ばかりで、弾痕があちこちに残っている。クリスが発砲した弾丸もまだそのあたりに転がっているかもしれない。

 政府の移民政策によって人口が増えた後はこのあたりは底辺中の底辺の労働者が集まる場所になっている。月開発黎明期に作られた古ホテルはほとんど廃墟のようなもので、それでも格安の宿泊料を払って一室に五~十人が共同で住んでいる。

「お前のとこの新米も安ホテル暮らしだったよな。ちゃんと給料やってるのか?」

 軽口を叩くのは、刑事だった頃に相棒だった人物だ。今日の情報を提供してくれたのは彼女だ。もう若くないはずだが、まだしぶとく刑事を続けているらしい。

「その時による」

 新米というのは、零細新聞社グリントの雇われ記者の中の一人の榧(かや)のことだ。彼女の収入は給料制度ではなく、書いた記事が売れた分だけ報酬が入るというものだ。クリスが榧に個人的にしてやれることはちょっといい服をポケットマネーで買ってやることくらいだ。

 榧にはどうも物欲というものがないようで、服も住居も使い捨てたがる。人気記者なので少し貯金すれば中古のスロット型住宅くらいは買えるはずだが、そういうものには興味がないらしい。娘が生きていたら少しはそういう価値観を理解できたのかもしれないが、今時の人間が考える事はクリスにはわからなかった。

「みんな在宅労働者だった。飲まず食わずでいたらしい。死因そのものは餓死だ」

「何が原因で自殺したんだ?」

「さあな。こんな動物園みたいな場所に住んでりゃ死にたくもなりそうだが、そう不自由してたってわけでもない。現実が貧相な分はVR(仮想現実)コンテンツに課金して楽しんでた。精神もそれで安定してるし、やけになったような形跡もない」

「じゃあ自殺じゃないじゃないか」

 適度なVRの利用は自信や気分の回復につながるので、精神安定や幸福の実現に役立つ。こうした技術はもう現実と融合していて、VRという一面のみが区別されて有害だとするのは着ている服に絞め殺されると主張するようなものだ。しかし状況を見ると、現実をないがしろにした結果死んでしまったようにしか見えない。

「遺書があったんだよ。殺人じゃないとなればもうあたしらの仕事じゃない」

 本人のNデバイスの固有IDから作成された簡単なファイルが見つかった。形式はテキストから音声、画像など様々で、中には人工言語を使って書かれたものもある。内容は淡々と身辺の整理についての情報を記載しただけの画一的なもので、最近の集団自殺者によくあるものと同じだった。

 まるで、面倒を清算してさっさと店を出たい客か何かのような淡白さだ。その先に何があるというのか。

 最近の月面都市ではこの手の集団自殺が増加している。不満があるわけでもなく、苦痛があるわけでもない。それでも死を選ぶ。クリスにとっては不可解な現象だった。自殺件数の増大自体は地球からの大規模移民が開始された頃から増えているが、当時はまだわかりやすい理由があった。最近は集団、個人にともにこれといって理由もなくある日突然自殺を図るというケースが目立つ。

 月面都市では、全人口がN(ニューロ)デバイスの施術をすることが義務付けられている。市民なら誰でも膨大な情報とそれを処理する能力を持つCUBEネットワークを利用できる。Nデバイスの施術者が極端に大勢集まったコミュニティで長く過ごすと精神に異常をきたすという主張をする懐古主義の学者もいたが、きちんとした根拠は何もない。

 原因が不明でも対応は必要だ。市警では状態が危険な人間をNデバイス経由で発見して訪問するというシステム改変を政府に要求している。しかし、政府からの反応は何もない。

「……実は今回の件、早く済ませるようにお上からお達しがきてたって話だ。そうじゃなくてもどうせ捜査は打ち切りだけどな」

 元相棒はひそめた声で言い、自分の個人データベースのキーをクリスによこした。懐古主義の学者の言う事はガセだと思うが、この不可解な自殺の増大には何か意味があると思っている。

 こういうことはあの風変わりな駆け出しに任せるのに向いている。問題も多いし変な奴だが、あれはグリントにとって秘蔵っ子なのだ。



■榧・一



 与えられた写真を見てもこれといって反応がないことがクリスには意外だったらしい。榧は地球で長く過ごした。人の死体や荒れ果てた場所は見慣れている。

 多分、元刑事なので一般人と感覚が異なるということが怖くて過剰に気を使ったのだ。しかし榧の出自を思い出したのだろう。クリスは納得して、もっと多くの資料を見せてくれた。刑事時代の知り合いから集めてきた現場の情報だという。

 集団自殺は今回の一件だけではなくあちこちで頻発している。そのどれも、政府から圧力がかかってきちんとした調査を行えなかったという未確認の噂がある。現場はほとんど綺麗に処理され、もう調べることもできなくなっている。

「これは陰謀ですね!」

「陰謀以外の方向で記事を作れ」

「陰謀ですよ」

「うるさい!」

 榧にとっても興味の出てくる事件だ。次々と自殺していく市民とその裏で暗躍する政府。想像力をかきたてられる。人死にが起きているので真剣に調べるつもりではいたが、気分の高揚はそれとは別問題だった。

 直近の事件はすでに処理が行われた。古いホテルのため居住が危険という理由で取り壊されることになっているからだ。進入して探ろうかと思ったが、そんなことをしなくてもよくなった。次の大量自殺が起きたからだ。榧はその現場に向かうことにした。

 移民出身の下級労働者が向けの仕事は、古い区画や危険な宇宙空間での単純作業が多い。そこで体を壊して仕事ができなくなると、埋め込まれたNデバイスを使った在宅の仕事しかなくなる。もともと月面都市は高度な人工知能とロボット・ポッドによって労働力を賄っていたので移民の価値は低かった。移民の流入の後、在宅の単純処理系の仕事は低収入に設定された。まともな生活をするためにはそれ以外の仕事を探す必要があった。

 この場所も移民がありつける仕事の中ではマシなほうだった。死の危険と隣り合わせの宇宙空間の土木作業員や、工業廃棄物にまみれる老朽化した工場の職員とは違う。

 ここは、巨大な換気扇によって新鮮な空気が流れ込む食料生産農場だ。数種類の豆類を栽培している。食材生成機に入れるカートリッジに加工されるものだ。

 人があまりいないので、目を盗んで榧は現場に入った。事情聴取のために警察が来ていて、冷や汗を浮かべた経営者が応対している。移民は安いロボット程度に考えられて違法労働させられる。榧自身が移民なのでよく知っている。

 この農場のように居住環境がよければ多少の悪条件は我慢できるだろう。しかし仮に比較的労働条件がよくても、移民はよくいじめられる。警察が来てあれほど狼狽している所を見るとあまり優しい経営者ではなさそうだ。自殺そのものは不自然ではない。

 移民の前は、月面都市における定年は四十歳からだった。今は六十歳まで引き上げられている。かつては人工知能やロボットの働きで十分食い扶持を賄えていたので、定年でない無職でも最低限度の生活ができるだけの給付を受けることもできた。しかしそれでは退屈なので何かしら生産活動に関わる、という趣味的な意味で仕事をしている者しかいなかった。月面都市に真の意味での「労働」は存在しなかった。それは、過去に企業連合の開拓者たちがテロや危険と戦ってこの土地を獲得し、血を流して子の世代に与えようとした豊かさだった。

 今は違う。移民の後、月面都市では労働が復活した。その結果は、極端な階級社会への逆行だった。幼い頃に移民としてやってきた者に特に多く、「生きていることに罪悪感を感じる」という傾向がある。

 そうだとしても、こんな死に方をするというのは理解できなかった。労働者たちはある日突然、思い立ったように巨大な換気扇のカバーを取り外し、次々と身投げして死んだ。引き裂かれた体が何人分かを調べるだけでも大変そうだ。死にたいと思っていたとしても榧なら絶対こんな方法はとらない。安全が確保された月面都市でも、もっと痛みを感じず死ぬことができる方法がいくらでもある。これでは、目に付いたもので急いで自殺したかのようだ。

「うう……」

 換気扇の奥の通路から誰かのうめき声が聞こえた。自殺者の体の一部が勝手に這い出してきたかのような不気味な声だったが、それは生きている人間だった。

「何してるの?」

「見ちゃった……うっ」

 しゃがみこんで口を押さえているのは、榧と同じグリントに雇われている記者仲間のルッカだった。一次情報系の記事を担当している。現場で会ってそのまま遊びに行く事もある友人だ。

「大丈夫?」

「榧は平気なの?」

「私はこういうの大丈夫なんだよね」

「そう……なん……おえっ……ヴッ……」

 このままだと死体の仲間入りしそうな足取りのルッカを支えながら、榧は裏側から外に出た。

 いつも二人で来る外食店にいるうち、ルッカは少しずつ調子を取り戻していった。それでも顔色は青い。榧は好物のミートソースハンバーグスパゲティを食べたかったが、赤い物を見たくないだろう相手の前なので我慢して、チョコレートパフェだけにした。

 二階席からは往来が見える。窓はないので風がよく入る。一階よりも空気がいい。食べている榧を見て少し安心したらしく、ルッカも飲み物を注文した。彼女は切り替えが早い。そのあたりを買われて一次情報を集める仕事を与えられている。

 彼女によると、今回の事件で問題なのは安全装置を設置していたかどうかということらしい。警察の話を盗み聞きした所だと移民の差別や虐待に関しては調べるつもりはないようだ。

 農場に設置されたCUBE端末の数が十分だったかどうかなどが今後の調査の焦点となるようだが、どうせ大した時間もかけずにこの事件の捜査は終わってしまうだろうという直感があった。

「やっぱり陰謀かな」

「そのことなんだけど……最近こういう記事が出てたよ」

 ルッカは榧に一つの情報を提示した。それによると、最近月面で頻発している自殺はあるVRコンテンツ利用者の間でのみ起きているというのだ。

「なにこれ?」

「まあ……オカルト系のニュースサイトだよね」

 問題のVRコンテンツはジェミニという会社のものだ。VR上のレンタル会議室を提供している会社だが、その傍らでユーザー登録制の数多くのVRゲームを運営している。

 月面都市では一番有名で利用者も多いので、自殺者がこぞって利用していたからといって不自然はない。自殺をしたくなるような環境にいる人間ほどこういったサービスの利用率が高いという。それにこうしたゲームはヘルスチェック機能を搭載することが義務付けられていて、心身に極度に影響を与えるような利用は不可能なはずだ。

 派手な字体で装飾された記事の中では曖昧な情報に基づく根拠のない空想が、しかし真剣に事実のように綴られている。娯楽に近い読み物で報道というには程遠い。しかし、榧はこの手の三文記事が大好きだ。

「ルッカはやったことある?」

「一応ね。一回遊んだだけ。私には難しくて……」

 ジェミニのゲームで最も日平均利用数が活発なのはCCT(近接戦闘訓練)だ。本来はゲームではなく現実の軍隊の戦闘訓練に使われていたものらしい。ルッカが遊んだというのもこれだそうだ。

 ゲームとして提供されるようになってからは現実にはないような武器や動作が導入されてバランス調整され、一般人が現役の兵士を倒すようなこともできる。初心者でもある程度は遊べるが、簡単なゲームではない。楽しむためにはそれなりに時間を使う必要がある。

「ね、一緒にやってみよ」

 榧はルッカを誘った。何かあるのではと直感が働いている。

「でも多分、事件とは関係ないと思うよ?」

「そんなのわからないよ!」

「どうかなあ」

 榧は町にある図書館にルッカを連れて行った。図書館というのはCUBEスポットのことで、システムの集中拠点である。端末が集中しているので通信効率がよく、そこを訪れることで普通より多めのリソース分配を受けることができる。

 VRのような通信容量の多いコンテンツを利用する場合、そうした場所を訪れることで快適に遊ぶことができる。



 結果は惨敗、というほどではなかった。勝率は二割程度なのでほぼ負けているのだが、それなりに対抗できた。

 CCTは成績に応じてマッチングされる。基本的に、弱いプレイヤーには弱い対戦相手が選ばれる。ゲームを始めたばかりなのでその中でも全然勝てないわけだが、全く歯が立たないことはない。

「まあ一〇〇〇戦くらいすれば慣れるよー」

 強弱関係なくマッチングされるイレギュラーマッチで味方になった上級者の「ミュスクル」が言った。トップランカーの一人だというが、初心者もろだしの二人にも親切にしてくれる。

「特にカヤさんの方は初心者とは思えない機転だね。うちで鍛えてみる?」

 ルッカは終始どんくさいままだったが、榧は途中からコツを覚えてそれなりに立ち回れていた。今の戦闘でも適当に拳銃を撃っていただけだが、二人を負傷させ一人をキルできた。

「ほんとですか! ふふふ、私ってば器用だから!」

 榧はいい気になっていた。確かに筋のいい方かもしれないが、この時点で勝率二割は普通である。

「ミュスクルさんくらいのランカーになるのは大変なんですか?」

 榧はもう見知らぬプレイヤーと仲良く話している。こういうことは得意だ。このゲームの情報を集めるのが本来の目的だが、それは明かさない。

「そうねー、上に行くには技術だけじゃなく立ち回りを覚えないとねー。あとレベルが上がってくるとアバターが自分の体以上の動きするようになってくるから、違和感でうまく動けなくなってくるんだよ。そしたら生身を鍛えるといいよ」

「生身ですか……」

 ルッカがついていけないという顔をしている。ゲームは得意ではないが、体を動かすのはもっと苦手だったはずだ。ミュスクルは解説を続ける。

「結構いるよー。楽しいよ……筋肉が増えていくの。筋肉鍛えようよ。筋肉。うちのジムにもプレイヤーたくさんいるよ」

 ミュスクルのアバターは小柄で細い体系だが力は強く、ジャンプで二階の窓に取り付いたり、自動車のドアをキックで凹ませていた。まさか現実での彼女もそんなことができる人物なのだろうか。榧は体格のいい兵士を想像する。

 しきりに筋肉と言う割には自分が経営するスポーツジムの宣伝を一切しない。いい人だと榧は思う。ミュスクルから簡単な指導を受け、榧はもう一度だけランダムマッチに参加することにした。ルッカはついていけず、そこで離脱することになったので一人だけでの参加だ。

 ランダムマッチは五対五で全滅するまで戦うチーム戦、全員敵で生き残った一人だけが勝者のロイヤル戦、NPCの護衛やミニゲームを要求されるクエストの三種類がある。

「奇遇だねえ」

 選ばれたのはチーム戦で、味方にはさっきまで話していたミュスクルがいる。イレギュラーマッチだ。参加者が少ない時間帯とはいえミュスクルが言う通りかなりの奇遇だ。

 一般人が銃を持っただけに等しい榧だったが、今回の相手は中級者が多い。こちらにはランカーのミュスクルがいる。彼女についていけば勝てそうだ。

 場所は地球の廃墟という設定だった。障害物が多く、味方同士も分散していてどこにいるかわかりにくい。敵の情報を見ていた榧は驚いた。

 敵が次々と消えていった。味方の誰かが倒している……わけではない。このマップでは敵はずっと遠くに配置されているので、まだ物理的に接触すらできない。

「ありゃ……TKだね」

 TK、チームキル行為、つまり味方を殺しているプレイヤーが敵にいるという意味らしかった。敵の五人のうち一人だけ生き残った人物の名前が青文字に変わっていることをミュスクルは指摘した。見てみると、敵の名前は青文字で「ベイオ」と表示されている。名前が青文字になるのは、このプレイヤーが味方殺しをしたという意味だ。

 味方撃ちはルール違反なので、一定期間アカウントを停止されたり、悪質な場合はサービスの利用自体を永久にできなくする措置がとられる。もうこのゲームを遊ばない人間や、どうでもいいと思っている愉快犯などがゲームを去る時に面白半分に行ったりすることがある。

 味方なら困るけど、敵なら経験値儲けだね、とミュスクルは言った。ゲームに水を差す行為をあまりよくは思っていないようだが、珍しい事でもない、という態度である。ベイオというプレイヤーはは特にぱっとしない成績の中級者だ。五対一ではこちらの勝ちは決まったようなものだ。



 これはゲームなのだという暗黙の自覚があった。緊迫感はあったし真剣にプレイしていた。プレイヤーたちの姿は高い再現度なので現実と変わらないように見える。だが、死ぬ事を想定していない動きや顔をしているので、これがゲームだとわかるのだ。

 今までは全て遊びだった。それを自覚した。あの敵は異常だ。

 榧の目から見ても落ち着いた立ち回りで、どんな攻撃にも対処し、決して死角も作らず、どうやっても倒せそうになかったミュスクルがやられた。いいや、殺された。味方で残ったのは榧だけだ。

 相手の動きには殺意があった。このゲームではダメージ数の蓄積か急所へのヒットで相手を行動不能にできる。しかし、ヒットをとって倒そうというのではなく、敵は確実に息の根を止めるという動きをしていた。のほほんとしているが強者の風格があったミュスクルがあっさりと殺された。

 現実のミュスクルの命が危険に晒されるというわけではないが、二度と見たくない光景だった。心臓に刺したナイフを確実に押し込んだ上、動かなくなったミュスクルのアバターの頭部を念入りにつぶしていた。享楽だとか、相手を貶めるためとかいう感じではなく、命の取り合いをするなら確実に殺しておくのが普通という感じだった。敵の顔を見たが、何の表情も浮かべていなかった。

 榧はすぐ建物の影に隠れた。もう存在を知られているかもしれない。足音一つしない。次の瞬間にあいつが目の前に現れて榧を殺す、そんな想像をして竦んでしまう。

 こういう時は心を切り替えればいい。そうだ、仮にここで殺されたとしても現実に死ぬわけではないのだ。傷付くとすれば心だが、榧の心は本物ではないので、決して傷付かない。なら、何も怖いものはない。

 榧の心は冷静さを取り戻した。手持ちの武器を確認した。CCTの登録時に貰える初期武器の九ミリ拳銃がある。まだ一発も発砲していないので残弾は全て残っている。この武器の反動ですら初心者の榧には御しがたい。

 このシミュレーターは可能な限り現実に則って作られた空間なので、他のVRゲームのように「転送」「実体化」のような便利な道具の出し入れはできない。しかしそのかわり、倒されたユーザーの遺体も武器もフィールドに残る。この戦闘においてのみ、それを回収または鹵獲して使用することができる。

 マップを大回りするように敵の開始地点付近に移動した。敵プレイヤーのベイオは中級者で、あまり足が速くない。榧は移動力が高いタイプなので、逃げれば距離をとることができる。

 この付近でうろうろして武器をあさろうとすれば奴と鉢合わせする可能性があるが、めいっぱい一方向に走って引き離せばその危険はなくなる。遠く離れた敵陣地の付近で武器を回収すればいい。

 仇討ち、というわけではないが、このままあのプレイヤーを放置しておくのは腹立たしい。遺体を弄ぶという行為にも腹が立つ。榧はゲームにのめりこんでいた。

 しかし、どんなに義憤に駆られた所で榧は初心者だ。敵がそういう行動を予想していないわけがないとは気付けなかった。敵陣に転がる四人の死体を見つけた。武器は隠されるか破壊されている。回収できるものはなかった。

 敵は今頃、あの周辺の探索を終えてこちらに向かってきている。

 榧は着ていた服を脱ぐ。できるだけ目立たない所にあった遺体をそれに着せ替え、路地の影に運ぶ。それを壁に立てかけ、地面を掘ってその下に潜んだ。

 このゲームでは、遺体と生きたプレイヤーの区別はつかない。微動だにしなければ遺体だとわかってしまうが、地面から動かせばわからない。榧は、遺体を自分に化けさせた。

 榧は月面都市に移民としてやってくる前は戦乱渦巻く地球にいた。現実の戦場の近くにいたことがある。誰かから聞いた話では、遺体のふりをして監視をすり抜けたという兵士がいたらしい。それの真似事をしている。

 浅知恵のような気もする。しかし失敗してもともとだ。生々しく再現された土の匂いの中で榧は待ち続けた。

 敵は上から来た。路地に隠れた榧をどこかからか発見し、建物の上に回りこんでいたのだ。これではまずい。上方向から攻撃を受ければ遺体を貫通してその下に隠れる榧にも届いてしまう。

 榧はもう一つの仕掛けを作動した。フィールドから集めた砂が路地の窓から散布される。タコ糸や袋といった地形に置かれた物体を利用して作った即席の煙幕だ。

 敵が降りてきてくれるかは賭けだった。走力でこちらが勝っているので、この隙に逃げられては困る、と考えてもらわなくてはいけない。

 敵は建物の上から飛び降り、軽い振動を伝えて路地に降りた。出口を塞ぐように立っている。これでようやく目論見どおりの状況になった。

 それでも、一発でも当てられれば運がいいと榧は思っている。逆立ちするような姿勢で、両足を使って遺体をめいっぱい前方に押し出した。

 発砲音がする。榧は姿勢を低くして、唯一の武器である拳銃を撃つ。狙いも何もあったものではない。どうせ反動の制御すら出来ていないので、あてずっぽうに撃つだけだ。

 そんな攻撃でどうにかできる相手ではやはりなく、砂煙の中から飛来した小銃弾が榧の体を抉り、破壊していった。ゲームが終了する音を聞きながら、榧は気を失った。



 結果は引き分けだった。榧の体が破壊される寸前に時間切れになった。引き分けは双方にとっての負けを意味する。勝率は上がらず、経験値もわずかしか獲得できない。

「無茶するねえ」

 ゲームを観戦していたミュスクルが言った。人好きのする顔は心なしか嬉しそうだ。

 榧の弾丸は一発だけ命中していた。しかも急所の近くで、それだけでかなりの経験値を獲得していた。純粋な一対一という状況もあって、中級にランクアップできそうなほどの経験値がもらえる。おめでとう、と言い、ミュスクルはわが事のように喜んでくれた。

「結局勝てはしなかったでしたけどね。あれ、何なんですか?」

「不正はできないはずなんだけどね……どう見ても中級者じゃなかったね。実戦経験者かな」

 それは半分正解で、半分は不正解だと榧は分析する。

 あれの中身が実戦経験者だというのは、そうかもしれないと思う。地球でたまに見た傭兵にそっくりな雰囲気があった。だが、あのベイオというアカウントの中身がそうだとは思えない。

 ベイオはジェミニのゲームをいくつかプレイし、コミュニティやクランにも頻繁に顔を出している。その全てのデータを記者用のツールで自分のNデバイスの中に取り込んで考えてみる。言葉の使い方、価値観、プレイ時間、成績の傾向などといった数値からベイオという人物を解析していく。調べてみて榧は直感する。これは兵士ではない。血も見た事がないような一般人だ。たまたま、今の戦闘で何かが乗り移ったとしか思えない。

 CUBEネットワーク上のコンテンツの安全性が完璧だという前提さえ覆せば、ベイオはアカウントを利用された可能性が生まれる。政府の陰謀論を信じている榧には、普通の人間が覆さない前提を覆すことに抵抗はない。

「そういえば、ルッカは?」

「待ってるのが退屈になったみたいで、結局戦いに行ったよ。まだ戻ってこないね」

 へえ。ゲームには消極的だったのに戦いに行ったのか。意外だった。上級者のアドバイスでゲームが面白く感じてきたのだろうか?

 長引く場合、CCTは数十分もの戦闘になる場合がある。榧はもう眠かった。ここで別れても問題ないので、榧はメッセージを残してログアウトした。



 翌朝、榧は安ホテルの一室で目覚めた。

 榧は財産を持たない。現在借りているこのホテルは貧民街にあり、賃貸物件よりも安く生活できる。部屋は廃墟のように汚れ、中には壁は崩れかけたりもしていて、治安も悪い。しかしナノマシンで衛生管理されていて、不潔というわけではないので別に問題はない。

 誰も帰ってこない自宅にじっとしているのは嫌いだ。その時の気分で好きな場所にいたい。

 ルッカからメッセージが来ていた。デートのお誘いだ。榧はルームサービスで要求したメイクシートの四番を一枚取り出す。はがきほどの大きさの厚紙に必要なメイク道具が集約された使い捨てのシートだ。番号によってレイアウトが異なる。ブランドもない安物だが、榧はこれしか使ったことがない。

 衣服もアクセサリーも使い捨てる。榧の持ち物は取材道具のレコーダーだけで、それさえも格好をつけるためのフェイクに近い。体一つが榧の財産だ。

 昨日とは全く違う装いで榧が待ち合わせの場所に向かうと、昨日とそんなに変わらない格好のルッカがいた。昼時だったのでまた同じ外食店に入り、二階の定位置に腰掛ける。

 月面都市は地下都市なので、喫茶店や外食店の二階には窓がない店が多い。この開放感を榧は気に入っていた。ファウンデーショングレーの町並みを見ながらくつろぐ。

「どうする? またゲームしにいく?」

 今日はオフのつもりなので、無理して調査を続けない。もっとも、調査と言っても、CCTをプレイすることによる進展は特になかった。たった一人で上級者を倒した不思議なプレイヤーについてもっと調べてみるのも面白いかもしれないが、今ある情報だけでは都市伝説のような記事しか描けない。グリントの色に合うものにするにはもっと情報技術的な側面でネタがないとだめだ。

「私はもういいかな……あんまり上手になれそうもないし」

 ルッカは興味なさそうにつぶやき、この店の人気メニューのボンゴレロッソを突いている。昨日は凄惨な現場を見て気分を悪くしていたのに、もう立ち直っている。そこが彼女の強い所だ。

 昨日、帰る時にルッカはまだCCTをプレイしていたが、あの後も結局よくわからないうちに試合が終わってしまったという。榧はもう少しあのゲームを続けてみようと思っていたが、今日じゃなくてもいい。

 食事が終わったら適当に町を歩いて買い物をしたり、お茶を飲みに行くのがいつもの二人の過ごし方だ。榧は二階の窓から見える通りをぼんやりと眺めながら、今日の過ごし方を考えていた。

 鼻腔にルッカの香りがしたと思って横を見ると、彼女が窓から下に落ちていく所だった。夢でも見ているような感覚で、それを目で追ってしまう。

「……!」

 気がついて立ち上がろうとした時には全て手遅れだった。ルッカは二階から落下し、鈍い音を立てて下の通りに落下していた。覗き込むと、灰色の路面に赤い色が広がっている。人々から悲鳴が上がった。



 取調べは十分もかからずに終わって榧は開放された。もっと調べて欲しいくらいだったが、街中のCUBEネットワークは密度が高いのでしっかり記録が残っている。自殺とされた。

 厳密に言えば彼女は自殺未遂だ。重症だがまだ死んでいない。助かるかどうかは何とも言えないらしい。

 榧はこれが自殺未遂とは思えない。ルッカには死ぬ理由がない。詳しく知る事はできないので何ともいえないが、あの単純な性格の友人が借金を負ったりやばい組織に関わって死ぬほどの気持ちになっていることを見逃すほど自分はまぬけではない、と自負している。

 それ以外にも理由はある。死に方が不自然だということだ。

 榧が通りを見ている間に、なにげなく立ち上がったルッカは、何事でもないように窓の方に近づき、そのまま手すりに腰掛けて落ちた。映像が残っている。それが榧には引っかかる。

 自殺する人間を見た事があるが、普通もっと逡巡したり、思い切って飛び降りるという動作がある。ルッカはすたすたと窓に歩いていって、階段を下りるような気軽さで身投げをした。普通とは思えない。

 AR関連の異常だとか、CUBEネットワークを通じた何らかの攻撃とかではないのか。集団自殺もこれと同じような何らかのシステム障害や情報通信を利用した攻撃によって引き起こされたものかもしれない。

 集団自殺の件は早く収束するように警察に対して政府の圧力がかかっていると言った。その情報が榧の中で大きくなっていく。

 企業連合が月面都市で発展できたのはCUBEネットワークのおかげだ。端末を設置するだけで勝手に広がっていくこのシステムのおかげで、月面都市開発の期間は大幅に短縮できた。しかし、CUBEは実は企業連合の発明ではなく、当時の政府所属のある研究機関から提供されたものだ。

 CUBEの恩恵を受けているのは企業連合だ。むしろ政府はCUBEによって肩身が狭くなっている。間違いが起こらないシステムなので、企業連合の力だけで治安が維持されてしまう。誰も政府を必要としない。しかもこのシステムのせいで汚職や暗躍もしにくく、政府は月面での立場を悪化させている。なので、普通そういう疑念を抱くものはいないが、CUBEの出自をよく知っている者ならば政府の陰謀を疑う。

 地球から離れた場所で企業が大きく発展した都市を築き、跳梁、独立、反乱した時の事を考え、政府がCUBEに何か支配的なシステムを組み込んだ可能性は否定できない。CUBEのOSは自己増殖型で、ブラックボックス化されており、内部処理に不明な所が多い。そういう処理が入っていても、誰も気付けない。

 あるいは何らかの欠陥なのかもしれない。CUBEが完璧であるという前提を無視すればそういう可能性もある。だとすれば政府だけではなく、CUBEの恩恵を受けている企業連合にも疑いがかかる。

 あらゆる可能性を検討し、見逃さないようにしなければならない。面白半分に陰謀論を考えるという気分は榧の中からなくなった。ルッカは大切な友達だった。彼女を死の危険に晒したものが何かを突き止めたい。

 しかし結論から言って、榧が知る事ができる情報はそれ以上なかった。

 行き詰った榧に一通のメールが届いた。


 ジェミニを調べろ


 たった一言だけだった。匿名で送られた無害な短文で、誰からのメッセージなのかはわからない。ジェミニはCCTを配給している会社のことで間違いないだろう。確かに自殺未遂の直前、ルッカはCCTを遊んでいた。

 もともと、集団自殺とCCTの関係性を探るために始めたことだった。ルッカのアカウントを調べてみることにする。

 ジェミニの案内サイトからは、今登録しているユーザーのプロフィールを閲覧できる。どんなゲームをプレイしどの程度の成績を残しているのかがわかる。CCTの場合はそのあたりの公開情報がかなりオープンで、勝率、戦闘数、使用武器、最近のアクセス頻度などを知る事ができる。

 何の衒いもなく「ルッカ」というニックネームで遊んでいたルッカのプロフィールは、同じく本名ままの榧のアカウント「カヤ」とフレンド登録されている。フレンドなら更に相手の情報を見られる。直近のマッチのリプレイの閲覧までできる。

 ゲーム内でのルッカの様子に変わったことがいかどうか調べようと思ったが、リプレイデータが破損していて再生できない、というメッセージが表示される。

 よくあることなのだろうか。榧は不具合関連のフォーラムを見た。ゲームでこんな問題が起きた、システム上ここに問題がある、といった意見をユーザー同士が交換する場所だ。運営会社に直接言えばいいことだが、一つの不具合について長い間対応されないこともあるので、このようなフォーラムを用いて議論が行われユーザーレベルで対策されることがある。「リプレイ」「破損」で検索をかけると、数時間前に立てられたスレッドが一番上に出てきた。

 そこを開くと、見覚えのある名前がいくつも並んでいた。

「上級をやった中級という奴は知り合いだけど、そんなことが出来るはずはない」

「中級ではそれなりに名が知れてたけど、エンジョイ勢だった」

「中級じゃなくて初級だった」

「このゲームは前からアカウントハックされる噂があった」

 そんな投稿で埋め尽くされていた。このスレッドだけ投稿数が多い。当事者だった榧には、これが何の話題なのかすぐにわかった。最も最初に遡ると、「昨日の異常なマッチの報告をしようとしたら、運営からリプレイデータが破損していると言われた」という内容だ。

 そこにある一文を見て、榧は目を疑った。

「ルッカという初級ユーザーに皆殺しにされた。不正か不具合のどちらかだと思う」



 このスレッドは本来の不具合報告の用途から逸脱しています。書き込みが不可能になります。別の議論フォーラムをご利用ください、というメッセージが表示されるまで、榧はフォーラムで議論を繰り広げた。

 その議論の中で、CCTでは昔、同じ異常が一度だけ起きたらしいこと、ミュスクルと榧を殺した「ベイオ」というユーザーも自殺したという噂があるということなどがわかった。

 運営からはこの件についての回答は何もなかった。以前はさんざん待たせた挙句、システム上の不具合によって特定のプレイヤーの性能が強化されてしまったという簡単な案内があっただけだという。

 榧はフォーラム全体から何度かキーワードを変えて検索をかけ、ファクト・チェックによって信憑性の高そうな情報のみを整理してみたが、これ以上の情報は得られなかった。

 ルッカも自殺未遂をしたという情報を投下して様子を見てみることも考えたが、この件について榧が調べているということを運営に知られたくない。検索一つにも記者仲間の力を借りて別名義で行ってもらっている。大きな組織の痛い腹を探ろうというのだ。フォーラムは敵地のようなもので、検索キーワードの情報一つも与えられない。

 逆に言えば、ゲーム内やフォーラムから得られる情報は限られているということだ。どうにかして、このゲームのプレイヤーと外で接点を持たなければならない。

 ゲーム内の知り合いといえばミュスクルくらいしかいない。彼女はスポーツジムを経営していると言っていた。榧なら月面都市内のどのスポーツジムがミュスクルのものか探ることはできる。営業時間とゲーム内でのアクセス時間を対比すれば絞り込める。ゲーム内のメッセージ送信システムを使わず、運営会社に知られないようにミュスクルに辿りつくことはできる。

 ゲームを楽しんでいた彼女の顔を思い浮かべ、榧はその考えを追いやった。そんな方法で個人を特定して訪ねるというのは無礼以外の何者でもない。彼女は無関係だ。ルッカを死に追いやった者のためなら多少の無理も押し通す気はあるが、こんなきな臭い事件にミュスクルを巻き込みたくない。

 一日中CUBEネットワークと大量の通信を行っていた榧は疲労していた。このままでは埒が明かない。一度情報を遮断し、ホテルのベッドに身を投げる。まどろみ、眠りについた。

 しかし、上級者の協力者がいた方がいい。CCTは特に初心者に厳しいゲームではないが、それなりに古参で実力のある人に協力してもらうメリットは計り知れない。初期の利用者は軍関係者が多く、運営側とも繋がっていると聞いた。そういった元兵士で現在もアクティブなプレイヤーに話を聞いてみたい。



 目が覚めた時、また榧の元に短文メールが来ていた。


 受諾した。1300、CCT内の「XC」の訓練フィールドに参加しろ。


 何の事だがさっぱりわからなかった。ジェミニのゲーム内メッセージではなく、榧個人のメールアドレスに向けたものだ。

 このメッセージを送ってきた人物は、なぜか榧のNデバイス内のアドレス一覧に既に登録されていた。「ユニカム・ソルジャー」というニックネームがついている。

 調べると、榧は過去にこの人物にメールを送っていた。ルッカが飛び降りた事件があった当日だ。つまりつい最近だが、全く覚えがない。榧が送ったメールは意味不明の数列で、さっぱり意味がわからない。

 何が「受諾した」なのかわからないが、榧がねぼけたか何かして送ったメールに対する返事である以上、無視するわけにはいかない。1300、つまり午後一時までもう少しだ。断りのメールを書くよりゲームにアクセスして謝罪した方が早そうだ。

 榧はCCTそのものについて無知だった。だから、「XC」が何かも全くわからなかった。一応相手について少し知っておかないと失礼かと思い、事前にフォーラムを検索してみた。

 そして目を疑った。目を疑っている間に時間が来そうになって、榧はあわててジェミニにアクセスした。

 訓練フィールドはフレンド同士のみで入る事ができるプライベート空間で、文字通りそこで訓練したり、雑談や会議に利用することができる。

 ゲーム本体はジェミニが登録保有する固有情報領域、仮想サーバ上に格納されていて中身を見る事はできないが、訓練フィールドはユーザーが中身を全て見る事ができる。許された計算容量の範囲内で自由に構築することができる。

 訓練フィールドには鍵をかけることができる。ここでどんなやり取りがされても、運営会社であるジェミニは知る事ができない。ゲーム内で嗅ぎ回れば話す言葉一つを拾われて察知される可能性があるが、ここなら心配がないというわけだ。

 榧が案内されたプライベート空間はこざっぱりしていたが、精密に作られたVR空間だった。実用性が感じられる。それもそのはず、本来の意味でのクロスコンバット、近接戦闘のために作られた実戦向きの訓練を行う場所だからだ。

 最初期のCCTは実戦用シミュレーターだった。政府軍をはじめ、傭兵や企業連合の自警団が参加して本格的な戦闘訓練を行い、このシステムの実用性を試験していった。その時のチーム名が実証試験集団<X:イクスペリエンス・C:クラン>なのだ。「XC」は、ゲーム内の最古参クランの名前だった。

 一般人が趣味で参加するようになり、運営会社のジェミニがゲーム的要素を強くすると、政府軍は自ら別のトレーニングVRを作って利用するようになった。傭兵や自警団も別のシミュレーターに移っていった。兵士の中にはジェミニに残ってゲームを楽しむ実力者もいたが、別のクランを作って訓練塾を開設し次々とXCを巣立っていった。

 現在、XCのメンバーとして残っているのは数人のみ。その中でアクティブなユーザー、つまり日常的にプレイしているのは一人しかいない。榧を待っていたユーザー名「タナトス」だ。現在CCTのトップランカーの一人になっている。

 あのミュスクルでも軽くあしらわれてしまうほどの最上級ユーザー、いわゆる唯一例<ユニカム>というやつだ。彼女に匹敵する別の上級者はいるが、彼女のプレイを真似できる者は存在しない。元XCメンバーが独立していった理由は、彼女がいる限りXCのトップにはなれないからだとも、強い者が集まりすぎるとバランスが悪いからだとも言われている。

 一体何を間違えて榧はそんな相手に呼び出されてしまったのか。いや、メールの流れを見れば呼び出したのは榧ということになる。とにかく謝罪して、あわよくばインタビューでもできれば、と榧は考えていた。

 世の中にいる兵士が、正規軍、傭兵、企業連合自警団の三つに分けられるとすれば、タナトスの外見はいかにも傭兵という雰囲気だった。

 品物の劣化や汚れまで再現されるCCTでも見た事がないほど使い込まれた傷だらけのアーマースーツに、ぼろぼろになったマフラーを身につけている。武器は最新の電子トリガーを組み込んだ旧式の小銃という玄人好みのもの。他には余計な装備を一切持っていない。どちらかといえば兵士というより荒野のガンマンのような格好だ。その姿で、VR空間に一人立ち尽くしていた。

 油断のない立ち方や背筋の伸び方、全体から出る雰囲気は、榧が地球で大勢見てきた傭兵にそっくりな雰囲気だ。榧はおそるおそる話しかけた。

「えっと……今日はどのようなご用件で……」

 これでは地元を牛耳るマフィアにご機嫌を伺う零細企業の経営者のようだ、と榧は思う。タナトスはその様子を見て、心底めんどくさいというような表情を見せた。

 しかし怒ったりはせず、榧に向き直って言った。

「ややこしいが……とにかく、奴をおびき出して捕まえる。私はそれに手を貸す。そういうことだ」

「おびき出す?」

「会ったんだろ、あいつに」

 タナトスはぶっきらぼうな態度だったが、しかしまっすぐに榧の目を見て言った。

 確かに、榧は会った。それが何かはわからないが、タナトスが「奴」と言っているのは間違いなくあれのことだろう。ベイオというプレイヤーの中にいた誰か。おそらくはルッカの中にも進入し、同じようにプレイヤーを虐殺した奴だ。

「奴を挑発して現実の方に引きずり出す。そのためには、このゲームで完膚なきまでにぶっとばす。まあそういう……作戦? だ」

「うまくいくんですか、それ……」

「思いつくのはそれくらいだ。いい案があるなら聞くが」

 タナトスの言葉を聞き、榧は考える。ユニカムの一人が力を貸してくれると言っている。あの悪魔のような相手に勝つ事ができれば何か変わるというなら、それはわかりやすい。

 このゲームの最古参がそうしろと言っているのだ。クリスは良識の範囲で実用主義を重視しろ、といつも言っている。それに即して考えれば、タナトスに任せてみてもいい。

 政府を断罪できるなどと自惚れてはいないが、何かネタを掴んで世間に知らしめるくらいはできるはずだ。ルッカは仲間だったが、もしそうでなくても一般市民を危険に晒してお咎めなしというのは許せない。これは記者の、メディアの役目だ。



■ユニカ・一



 ユニカにとって目の前の人物は上司であり、主人であり、支配者である。しかし、彼女が訪れても、ユニカは横目でちらりと見るだけで相手にしなかった。

 その人物、エルドリッジ卿は地球貴族の末裔で、政府高官でもあり、研究所に自分の派閥を持つ身分だ。大した政治的目標もなく、権力欲と生存欲だけがあるという人物で、そのためなら他人を簡単に切り捨てる。ユニカのことを自分の財産の一つくらいに考えている。

 潔癖なエルドリッジ卿は黙々と筋力トレーニングを続けるユニカに苛立ちはしても、汗だくの頬をはたいてしまえば手が汚れると考えている。高級そうなスーツには皺一つない。そろそろ六十になるとは思えないほど背筋が伸びて貴族らしい高貴な雰囲気を保っているが、顔の筋肉がぴくぴくと動き、ユニカへの怒りを露にしている。

「イスラフェル二十四号を始末しろ」

 エルドリッジ卿はいきなり本題に入った。普段なら人を呼びつけ、こなかったら銃殺というくらい人間の命をなんとも思っていない卿がわざわざ廃棄処分寸前のSロットの落ちこぼれであるユニカの元にやってきた。よほどの事情があるということだ。

「始末しろときたか」

 ユニカはイスラフェル二号だ。研究所の中核をなすイスラフェル系の最も初期のモデルのスペアだった。一号と同じ遺伝子パターンを持つ。現在使われているイスラフェル系の銀髪とは違って一号と同じ黒髪を短く切りそろえているが、顔には全てのイスラフェル系との類似が見られる。

 イスラフェル二十四号、イクス・イスラフェルはユニカにとっての妹に当たる。無縁ではない。エルドリッジ卿はそれを殺せと言っている。

「お前を選んだ理由はわかるだろう。必要なものは与える。早急に駆除しろ」

 駆除、とまで言われれば姉妹の縁など無頓着なユニカでも反感を覚える所だが、卿にしてはずいぶんと下手に出ているな、というのが正直な感想だった。

 Nデバイスを経由して情報を受け取り、事情を知った。

「わかったな。奴はお前の“サンダルフォン”を奪って隠れた。そいつはお前にとっても負債だろう」

 無神経な言葉をかけられ、ユニカは卿を睨んだ。卿もその眼光にわずかに怯む。

 しかし、そうなのか。ならば、確かにこれは放置できない案件だ。

 イクスがいたSロット群を管理していたQロット、綺欅が、イクスを連れて街中に繰り出した。そこで欅は遠距離からの対物銃による狙撃で殺され、イクスは敵の手に落ちた。

 研究所の長年の目的であるサクラメント・マッピングの収集はほぼ完成している。イクスはそこに必要な最後の現実干渉性を保有している。予備があるので取り返す必要はないとのことだが、逃がした分は始末する必要がある。

「必要なものは二つ。アリス博士と、それから遺体だ」

 怒りを抑え、ユニカは冷静になって言う。エルドリッジ卿はユニカの言葉を聞いても表情を変化させない。

「遺体とは何だ?」

「このQロットの遺体だ。綺欅という奴の」

 ユニカは質問に答える。欅は、ユニカと同じくエルドリッジ卿の派閥に組み込まれたQロットだ。Qロットの中には膨大なデータがあるので、死んでも処分されない。

「……まあいいだろう」

 何に使うかなど興味がないようだ。エルドリッジ卿は用件が終わると、さっさと去っていってしまった。

 それから一日して、ユニカが注文したアリス博士がやってきた。栗色の髪をショートにしやや露出の多い服装のマニッシュな出で立ちは、前に会った時と変わらずであった。

「また汗臭いことして……私、この部屋に来る必要ある?」

 アリスはユニカの私室の匂いを嗅ぎながら、呆れたように言った。この場所には確かに彼女には似つかわしくない。

 ユニカの部屋は研究所の中にある。白一色の部屋が嫌で、全体をカーボンカラーに塗り替えている意外は普通のSロットの私室と変わらない。私物もないが、ベッドや窓枠を利用すれば運動ができる。

「通信容量が足りない。肉体を有効利用してる」

「なんとかいうゲーム?」

「CCTだ」

 ユニカは「タナトス」としてCUBEネットのVRゲームに接続しながら、体の方では筋力トレーニングを行っている。容量を食うVRをやっているので、この上他人との通信をするのはストレスだ。やってやれないことはないが、体の方は暇なのでそっちを利用した方が楽である。

 強化兵士だった姉のレンと違って、ユニカはこうして生身の肉体を鍛える必要がある。しかも、今のようにNデバイスを利用するのと肉体の動きとを完全に個別に制御し、両立させ、まるで二人の人間がいるかのように動く訓練をしている。それが最も最適な兵士の姿だというのが彼女の持論である。

 最高の作品を作ったアリスから見れば、そんな全時代的で非合理的な筋トレは不気味にしか見えないだろう。しかし、筋肉を鍛えるのが好きな月面都市の住民は、ユニカが知るだけでも結構いる。

「それで、私は何すればいいの?」

「情報収集だ。ジェミニって会社の仮想サーバを監視して、イクスを探して欲しい」

「ジェミニね。何してる会社?」

「今やってるゲーム作ってるとこだ」

 アリスは少し驚きつつも、そこに立ったままでNデバイスをCUBEに繋ぎ、ジェミニについて調べ始めた。研究所のデータベースも探れば、ジェミニとユニカの関係もわかるだろう。アリスはすぐに理解したという顔になった。彼女は話が早くてとても助かる。

「なるほどね。その子をおびき出すには確かによさそうだけど。何をやらかしたのよ、この子」

「サンダルフォンを盗んだ。物理位置を調べないとな」

「な……何ですって?」

 イクスはそれ自身、敵に渡ると問題があるSロットだが、エルドリッジ卿がこの件を重要視するのはもう一つ理由がある。

 卿の研究所内の派閥は大きく、今有力な財団系派閥のアイ・イスラフェルのものと同等だ。政府軍の中にも勢力があり、そこで衛星兵器を開発していた。

 対無人機兵器「サンダルフォン」は、ユニカの作品だ。忌々しいことだが、あの卿の注文に沿って作った最高の兵器である。たった一機だけ存在していた卿の切り札だが、それが今どこにあるのか全くわからなくなっている。

 同じくエルドリッジ卿の派閥の中にいるドクターであるアリスも、その恐ろしさはよく知っている。悪用されれば大問題だ。

「どうするの、それ」

「位置さえわかれば撃墜はできる。私は設計者だからな」

「そんなの関係あるの? アレに」

「思いつくのはそれくらいだ。あんたにはいい案があるのか?」

 ユニカは、サンダルフォンへの対処を一応考えていた。それがダメならユニカである必要はない。だが、自分の命と引き換えにしても、あれを破壊できる機会があるなら試したい。それがユニカの気持ちだ。

 


 死人を出した。一般市民が一人犠牲になった。ユニカはすぐにエルドリッジ卿に連絡をとった。

 CCTを運営しているジェミニはエルドリッジ卿の勢力に組み込まれている政府系企業である。ユニカもかつてこの会社に関わり、CCTの実証試験集団、「XC」の一員になった。そこで、この一般公開されているシミュレータに罠を張ることにした。

 見つけたいSロット、イクス・イスラフェルについての情報では、CCTで開発された人格制御プログラムが使用されていることがわかった。ユニカがXTで開発した同時多数人格制御用OSだ。

 イクスは現実干渉性を存分に発揮するために、自分の人格を無限に増殖してCUBEネットワークに深く潜っている。そのうちの一つを誘引すれば、物理的な居場所にたどり着く情報を獲得できる。

 イクスが使用している人格制御OSの試験環境だったCCTなら引き寄せやすいと思い、奴が好みそうな政府の内部情報のダミーをこっそり仮想サーバに配置した。誘引は成功だったが、結果は失敗だった。イクスは自分の現実干渉性を用いて他人のアカウントを乗っ取り、CCTに潜り込んできた。そこまではいい。イクスは、自分が使ったアカウントの持ち主を殺した。

「痕跡を消すためにそのような行動をとるようプログラムされている、ですって」

 最近起きている集団自殺もイクスに関わった人間に埋め込まれた自死プログラムによるものだろう。本格的なアカウントの乗っ取り意外にも、少し視界を盗まれたり、情報を読み取られた者もそのプログラムに感染する。Sロットの能力を介して幽子経路で仕込まれたものなので、CUBEからの発見は不可能だ。

 集団自殺が起こるのはイクスが活動している証拠だ。

 問い合わせに対して、エルドリッジ卿は直接は答えず、アリス博士を通じてイクスに関する情報開示をしてきた。腹立たしい話だ。最初から全ての情報を与えられてはいなかったということだ。

 イクスはサンダルフォンの機能を利用して、関わった人間を自殺させている。与えられた資料にはその情報だけがなかった。それを隠したままユニカをここまで働かせた。人間が何人か死のうがユニカには関係ないが、いいように使われていることが気に入らない。

「クズめ……」

 つい口に出てしまう。

 ユニカの機嫌を伺うという事では絶対にないが、卿はこの情報の開示と同時に二つの贈り物をよこしてきた。一つは、ユニカが必要としていたQロットの遺体。もう一つはQロットの協力者だ。

「遺体はあんたに任せる。見た目を綺麗にして、少し動けるようにしてくれ。注文内容はテキストにまとめてある」

「なにそれ。どういうこと?」

 アリス博士は訝りながら疑問を口にした。遺体をいじるくらい今更なんとも思わないだろう、という視線をユニカが向けると、アリスは黙って注文書を読んだ。

 イクスをCCTに誘引できた今、アリスを情報処理に回す必要はもうない。アリスを本当に必要したのは、むしろ遺体への処理のためだ。

 卿のもう一つの贈り物であるQロットの協力者はありがたい。ユニカにもQロットの人脈がないではないが、調達してくれるというならそれでもいい。イクスは情報技術を利用して人を殺す。それを防ぐには、CUBEシステムの上位権限を持つQロットがいるのが望ましい。

 綺榧という名前のQロットだ。このQロットは少し特殊で、普段は月面都市の一般市民、新聞記者としての人格で生活しているという。必要に応じてQロットとしての人格が表層に出て、その時必要とされる仕事を行うのだそうだ。

 脱走するSロットは定期的にいて、それを始末する専門の部隊やQロットがいる。榧もそういった仕事を請け負うことのある諜報員のような存在らしい。ユニカとの接触は、基本その一般市民、新聞記者としての榧の人格で行われることになる。

 面倒そうな話だ。余計な説明が増えるということである。しかしQロットの近くにいれば、ユニカ自身のアカウントがハックされ殺される可能性はなくなる。

 かつて綺欅だけがイクスを制御できたように、榧がいればイクスを制御できる。無限に増える人格の一つでしかないが、Qロットの情報処理能力を借りられれば位置特定もしやすい。

 早く済ませてしまいたい。ユニカにとっては、奴が潜伏するサンダルフォンこそが目的だ。ゲームで遊んでやるのはそのための過程に過ぎないし、イクスの存在もどうでもいいものだ。

 脱走するSロットや失敗作のSロットは定期的にいる、ということを先ほど考えた。ユニカが作ったサンダルフォンは、まさにそういったSロットに対処するために作られたものだった。目立つ兵器なので最近は使用頻度が減っているが、まだ使われている。

 ユニカも使われる所を見た。卿はたかが試験のために生きたSロット二〇〇人を兵士として訓練し、そしてサンダルフォンに虐殺させたのだ。あの悪夢のような兵器をこの世に残しておくのはユニカにとって許せないことだった。



 暗号化された人工言語を使ったメールによって榧からの要請が正式にあり、CCT内で彼女と合流した。

 一般人になりすましたままの相手と接触する必要があるので面倒かと思ったが、榧は接しやすいタイプだった。表面上は、協力してこのゲームで起きた異常と、その後起きた自殺事件を追うことになっている。

 それ以外に必要な情報交換は、人工言語を通じて榧の本当の人格と行われた。人工言語は数列と文字列によって過不足なく情報を伝えるものだ。無駄がない分、榧の本当の人格がどんなものかは全く見えてこない。

 それでいて、表面の人格には全く綻びを見せない。見事な並列人格だとユニカは思った。そういう兵士をユニカは知っている。榧が強化兵士であったなら、きっと抜群に優秀だっただろう。

 サンダルフォンは、活動しない時は完璧なステルス性能を持っている。月面のどこかに潜伏しているはずだ。おびきよせたイクスをゲーム上で発見して負かせ、挑発し、外に出てこさせる。単純な計画だが、位置特定そのものは簡単ではない。Qロットである榧が、CCTでのイクスとの戦闘フィールドにいて居場所を探れることが重要となる。

 イクスを発見するには何度も何度もランダムマッチに参戦し、偶然出会えるのを待つしかない。ユニカは榧と小隊を組んで挑むことにした。何年かぶりに、XCに新規メンバーが加わった。

 小隊を組むと仲間と協力して同じフィールドでプレイできる。しかしその場合、マッチングされる相手のレベルは小隊の中で一番クラスが上の人物に合わせたフィールドになる。

 ユニカは最上級のプレイヤーなので、マッチングされる戦場も相応のものになる。榧が瞬殺されては計画がうまくいかない。最低限、自分の身くらいは守れるようになってもらう。

 それでも不足かもしれないので、ユニカはXCに登録されているメンバーの何人かに声をかけた。過去の知り合いに連絡したのはユニカの人生で初めてだ。XCの卒業生はそれぞれの道を歩んでおり、来てくれる可能性は低い。しかし打てる手は全て打つ。

 榧は筋がよかった。表層人格だけでも並列して様々な事を考える能力に長けている。情報処理の専門家のQロットだということを除いても、それだけではない勘の良さがある。地球育ちというのが関係しているのだろうか。兵士としての素質があった。

 イクスはランカー並みの戦闘能力を持っている。短期間で榧をそこまで成長させることはできないが、一応上級にランクアップするまでは鍛えた。イクスは今まで一つのアカウントを使い一人で戦いを挑んできた。次もそうとは限らないが、このくらい鍛えてやれば榧は十分生き残れるだろう。

「ご注文の品、出来たよ」

 CCTにのめりこむユニカのもとにアリスが来る。遺体の改造を完成させたらしい。全ての準備は整った。

「心中しようなんて考えないでね」

 ユニカが準備しているものを見てアリスは言う。その日のユニカは珍しく自室におらず、ドックにいた。もう一つの必要なものを引っ張り出すためだ。

 ユニカの愛機「スティレット」は、かつてユニカの姉が民間企業で試験搭乗員をしていた無人機指揮機ピストレーゼの試作品、技術検証機だ。姉の死の後はユニカが試験搭乗員を受け継いだ。開発が完全に終了し、本来の持ち主が完成したピストレーゼを操るようになると、スティレットはお役ごめんになった。それを報酬代わりに譲り受けた。必要な時、ユニカの手足になってくれる。

 ユニカがいるエルドリッジ卿の派閥は、この機体を開発していたR(ローズテック)社と対立する派閥に属している。しかし、同じ白派なので敵というわけではない。こういった人材供与が行われることがある。

 エルドリッジ卿はスティレットやピストレーゼではサンダルフォンに対抗できないと考え、敵対する派閥であるR社へのユニカの貸し出しを了承した。不利な戦いだ。しかし勝ち目はある。

 純白の成型材で作られ美しかった機体は、何回かの実戦での損傷、補修を繰り返したことで灰色の部分が多くなっていた。こいつで仕留めるしかない。サンダルフォンの位置を発見したら、ユニカ自身が全長四メートルほどの愛機に乗り込んで即座に攻撃に向かう。そのために、今回はこれに乗り込んだ状態で宇宙空間に出てCCTにログインする。

「行ってくる」

 全ての準備は整った。あとは何度もランダムマッチに挑み、イクスを発見するだけだ。



■榧・二



 VRに入り浸る訓練は過酷だったが、どうにか上級にランクアップできた。榧自身も上達を感じている。ゲームのヘルスチェック機能から休息を言い渡され、榧はログアウトした。

 あとは敵と出会うことができるのを待つばかりだ。その前に、ルッカのお見舞いに行くことにした。まだ意識が戻っていないので行っても話せるわけではないが、顔を見て安心したいと思ったのだ。

 体の損傷は直ったので、ルッカは集中治療を行うための医療槽から出されて普通にベッドに横にされていた。親類や家族のない彼女を訪れる人物は少ない。榧の前には、何度か編集長のクリスが訪れていたらしい。

 クリスが言っていた通り、病院には怪しい連中が何人かいた。政府警察の刑事らしい。

 ルッカは、例の集団自殺事件の唯一の生存例だ。なので、目が覚めたら尋問や聴取をするつもりなのだ。この件で警察は政府上層部からの圧力をかけられているはずだが、それでも跳ね返りが操作を続行しようとしているのだ。

 政府をよく思わないのは榧も同じだが、こうして病院に張り込むのは非常識で不愉快だと榧は思った。身内だから余計にそう思うのは認めるとしても、たとえ捜査のためでも許しがたいことだ。

 ルッカはかわいらしい同僚で、もし榧の好みの金髪だったならすぐ交際を申し込んでいるような子だ。そのルッカに手を伸ばす連中に、榧は深く暗い嫌悪を覚えた。

 榧が少しだけ本来の人格を取り戻すと、張り込んでいた警官たちはすぐに病院を出て行った。これでもう、ルッカに捜査の手が及ぶ事はない。

 事が済んだらルッカの中に残った「イクス」の片鱗も処理しておかなければと本来の榧は思い、次の瞬間には全て忘れ、一般市民としての榧に戻っていた。



 視野を広く持ち、同時に複数の事を考え、隙を作らずに行動するよう、榧はタナトスに鍛えられた。

 タナトスは機械のように正確でありながら、時には野生動物のように俊敏で獰猛な兵士だった。今、十人でかかってもタナトスには勝てないだろう。異例のスピードで上級ランクになった榧であってもだ。

 ユニカムプレイヤーにも関わらず弟子を取った事がないタナトスが最近XCで新人を育成しているらしい、という噂が広がっていた。榧くらいの素質のあるプレイヤーはものすごく珍しいというほどでもないので、極めて注目されているわけではない。CCTは膨大な数のプレイヤーがいる。

 それでも一時期よりはプレイヤー数が減っているので、こうして繰り返しランダムマッチに挑んでいれば、ベイオやルッカを操った敵に遭遇できる可能性はある。

 タナトスが言うにはその敵は「イクス」と呼ばれているらしい。詳しく聞きたいと榧は思ったが、そんな必要はない、と誰かが言っている気がした。まるで自分の中にいるもう一人の自分が、既に答えは得た、と確信しているかのようだ。

 イクスをおびき出し、叩き潰して挑発する。奴は子供で単純だからそれでいい、とタナトスは言う。

 筋がいいとはいっても初心者だった以前と比べて、榧は格段に強くなった。それでもイクスに対抗できるほどではない。あれは別格だ。それを思い出すと身震いする。

 あれの動きは、シミュレータやゲームを楽しむというものではない。本当の兵士の訓練でもあんなに明確な殺意を感じることはないだろう。シミュレータで勝つ事よりも、擬似的にでも人を殺す事自体を目的としているかのようだ。

 何度もランダムマッチを行い、次の瞬間にはあいつが出てくるかもしれない。敵側でプレイヤーキルを行って一人きりになる奴が出てきたら、それがイクスだ。

 重大な思い込みだった。味方側にマッチングされないという保障はどこにもなかったのに、それを見落としていた。

 それは五対五の少人数マッチだった。戦闘が始まった瞬間、味方の一人が射殺された。上級者の集うマッチとはいえ、開始直後、警戒していない味方から襲われれば防ぎようがなかった。

 イクスが乗っ取ったアカウント「クノッヘン」は知らない上級者のものだが、その表情と行動を見て榧は確信した。間違いない。あれは、前に榧の目の前に現れた奴だ。

 タナトスも狙われたが、彼女は攻撃を察知し回避していた。榧にも移動の指示がくる。その間に、もう別の二人目、三人目はイクスに屠られていた。

 味方側で残っているのは、イクスが乗っ取ったクノッヘン、榧、それにタナトスの三人だけだ。敵側も襲ってくるだろうから確認しよう、と思い、異常に気付いた。

 敵側を全く注目していなかったので今まで気付けなかった。そちらの生存者はもう二人だけになっていた。遠い敵陣で何が起きているのかわからないが、そちらでもプレイヤーキルが起きたとしか考えられない。

 イクスは二人いる。榧は、それが当然のことだと頭のどこかで考える。あれは、そういうものなのだ。

 フィールドは山間部。人工知能によってランダムに生成された地形だ。自分たちの陣地は南側で敵は北側にある。タナトスは慎重に周囲を警戒しながら、急いで西側に見える谷に逃げようとしていた。隠れる場所も逃れる裏道もありそうだ。しかし、敵陣の状況を確認してタナトスの足が止まった。

「……方向を変える。北へ向かうぞ」

「でも敵は北ですよ?」

 榧は動揺していた。動揺を押し隠してプレイに徹するのが精一杯だ。その気持ちが溢れてしまう。なぜなら、敵側で生存した二名の名前のうち一人が「ミュスクル」だったからだ。

 奇遇にもほどがある。生まれてこのかた不運ばかりの自分を恨んだ。なぜよりによって、彼女がここにいるのか。

「この“ひーちゃん”は私の知り合いで、信用できる」

 敵で生き残っている二人のうち一人はミュスクルだが、もう一人は「ひーちゃん」という間の抜けた名前の人物だ。聞けば、それはタナトスが所属するXCのメンバーらしい。声をかけて手伝うように言ってあった一人だそうだ。

 ミュスクルの実力ではイクスには歯が立たない。しかしこのひーちゃんであれば持ちこたえるだろうとタナトスは言う。

 ならばこの場で、イクスなのはクノッヘンとミュスクルで、味方なのは榧、タナトス、ひーちゃんの三人ということになる。

「ひーちゃんの方がイクスということはないんですか」

 ミュスクルはタナトスのようなユニカムではないが上級者で、イクスと対峙するのは二回目だ。生き残ったのはその経験値によるものかもしれない。そうであってほしいと榧は考えた。イクスに乗っ取られるということは、その後自殺させられるということでもある。それが榧の気持ちを動揺させていた。

「それはない。ひーちゃんはQロットだ。この戦場に潜り込むことができたのもそれが理由だろう」

「Qロット……って……?」

「それで理解しろ。とにかく、ひーちゃんはイクスではない」

 そうだ、そんな偶然はありえない。ひーちゃんは来るべくしてこの戦場に来た。多分偶然迷い込んだミュスクルとは事情が違う。それは、彼女が特別な存在だからだ。榧と同じような。それを理解した。ミュスクル以外にイクスはありえない。

 北へ移動し始めた。谷には降りず、稜線に隠れながら北上した。榧とタナトスは後方を厳重に警戒しながら急いだ。しかし追ってくる気配がない。イクスは谷を探しに行ったのかもしれない。そうだとすれば合流は容易くなる。

 敵陣の初期位置にいよいよ近づいた時、クノッヘンが襲い掛かってきた。

 不意打ちだった。タナトスを狙った小銃による攻撃だ。背後ではなく移動方向の先から現れている。移動先を読んで、こちらが見えない稜線を大回りして待ち構えていたのだ。

 警戒しながら移動していたこちらよりも、初めから攻撃しか頭になく突っ走っていたクノッヘンは兵士として異常だった。だからこそしてやられた。タナトスは咄嗟に身をかわしたが。銃弾は左手の甲と二の腕、わき腹に命中して動きを制約した。

 タナトスの顔つきが変わるのがわかった。この敵は普通の兵士ではなく狂戦士だ。ならばこちらも狂うことで対抗するべきだった。甘かった自分に気付いたとでもいうように、タナトスの顔は獣のように変わっていた。

 強化した脚力によって敵側に突進しながらタナトスは小銃を撃った。セオリーから外れた攻撃だが、そんな突進の中でもタナトスの射撃は正確だった。敵の頭部付近に弾丸は集弾し、移動しようとしたクノッヘンの左のこめかみをかすめた。

 タナトスは小銃の先端につけた銃剣で、距離をとろうとしたクノッヘンを薙ごうとした。クノッヘンは大柄なアバターに似合わない柔軟さで体をひねって回避する。そして、逆立ちのような姿勢になってタナトスを蹴り飛ばした。

 極限までパラメータを強化した上級者同士の戦いは超人の決闘のようで、榧は付け入ることができない。支援できないかと銃を向けてはいたが、高速で位置を変える両者に対して友軍誤射をしかねない。タナトスは全く榧に注視していない。

 それが仇となった。クノッヘンは榧の方を仕留めやすい対象と思ったのか、榧の側に接近してきた。射線の関係で位置が悪く、タナトスは支援できない。タナトスはそれでも撃った。腹部への命中弾があるが、クノッヘンは全く揺るがない。

 榧は装備した小銃を撃った。しかし、クノッヘンはその瞬間に視界から消えている。発砲のタイミングを先読みし、強化された肉体を駆使して榧への距離をつめていた。榧がそれに気付いた時、クノッヘンはもう手が届きそうな位置にいた。

 榧は覚悟を決めた。だが、その瞬間クノッヘンの顔面に変化が起きた。

 能面のように無表情で襲い掛かってきたクノッヘンの顔がゆがんだ。表情の変化かと思ったが、そうではなかった。クノッヘンの左目に銃弾が命中し、完全につぶしていた。

 タナトスが撃ったのかと思ったが、彼女はクノッヘンの背後側にいる。榧は振り返った。そこには、見た事のない兵士がいた。

 それがひーちゃんだった。ふざけた名前には似合わず、タナトスと同じような歴戦の古参兵のような見た目だ。しかし、表情はタナトスよりも温度の低さを感じる。傭兵というよりは特殊部隊や、秘密諜報員のような雰囲気だ。

 発砲音がしなかった。使われたのは口径の小さい拳銃弾か何かで、クノッヘンを殺すには至っていない。ひーちゃんは軽装の兵士で、小銃も銃身が短いカービンタイプを選択している。

 クノッヘンは反撃しようと榧に銃を向けたが、今度はその右手の指が爆ぜた。ひーちゃんは立ち尽くしているだけで、小銃も肩にかついだままだ。いつ発砲したのかもわからない。手を見ると何かを握っている。そこに隠し武器、秘密部隊が使う特殊拳銃のようなものを持ち、予備動作なしで発砲しているらしい。

 挟み撃ちになる形でタナトスは接近し、傷付いたクノッヘンにとどめを刺そうとした。しかし、その寸前で突進をやめ、付近の岩に隠れた。タナトスがいた位置に砂埃が舞う。どこかからの射撃だ。

 東側に人影があった。姿が一瞬見えた。ミュスクルだ。この状況でクノッヘンを支援するような動きを見せている。

 間違いなくミュスクルがイクスなんだ、と榧は確認した。この一瞬でクノッヘンは谷へと逃げた。ひーちゃんは榧を担ぎあげ、ミュスクルの場所からは狙えない位置の稜線に隠れた。

「作戦を考えた。クノッヘンはお前がひきつけろ。私とひーちゃんでミュスクルを始末する」

「え……」

「お前にミュスクルが撃てるのか。クノッヘンは傷付いている。合流させないように阻めばいいだけだ」

「あいつに一人で立ち向かうんですか!?」

「なんとかなるだろ。私とひーちゃんが組めば確実にミュスクルはやれる。だがクノッヘンを先にやろうとすれば、ピンピンしてるミュスクルに背後から撃たれる可能性がある」

 合流を優先したひーちゃんはミュスクルには手傷を負わせられていない。確かに理にかなった案だった。正直、ミュスクルに銃を向けるくらいなら手負いのクノッヘンに立ち向かうほうがまだいい。

 榧は了承した。ひーちゃんは一言も喋らなかったが、所持していた武器のいくつかを譲渡してくれた。軽量武器が多く、榧にも扱える。

 クノッヘンは利き腕の指を失い、左目を失い、他にも腹部、こめかみに銃弾を受けて動きが鈍っていた。それでようやく、榧とは互角の存在だった。

 榧は、自身が得意とする、同時に複数のことを考える能力を生かすことにした。ひーちゃんから譲り受けた掌サイズの監視用ポッドを放つ。それをコントロールしながら、クノッヘンの動きを封じる。

 小型の監視ポッドはおもちゃのヘリコプターのような外見をしている。飛行している姿は巨大なトンボかなにかのように見える。本来なら敵の位置をこっそり探るものだが、飛行する時に音が出るので大抵すぐ発見されて撃ち落されてしまう。初期の策的に使うアイテムだ。

 しかしひーちゃんがよこしてきたものは監視用ポッドの中で最上級の品物で、Nデバイスを通じた高精度の遠隔操作、可能な限り発生音を抑えた隠蔽性を持っている。ちょっとやそっとCCTをプレイしているだけでは手に入れられない高額の武器だ。攻撃機能はないが、視覚においてアドバンテージを得られる。操作は難しいが、榧になら扱えた。

 クノッヘンは何度か監視用ポッドに気付いて発砲したが、片目と指を失って射撃精度を落としている上に、榧のたくみな回避動作で命中させることができない。弾を損耗するので、クノッヘンは監視ポッドを無視するようになった。

 移動に関してはクノッヘンはまだ元気なので、それだけではもちろん不十分だ。榧は先回りしてクノッヘンの死角、失った左目の側や背後から攻撃を仕掛けて足止めした。

 クノッヘンはすばらしい勘で榧の攻撃から致命傷を避けていたが、徐々に消耗してきていた。敵の位置はわからないのに自分は常に見られているというのは、どんな実力差があろうとあまりに不利だ。

 いける、そう思った瞬間だった。榧は背後から突き飛ばされるような衝撃を感じ、前のめりに地面へと倒れこんだ。

 ダメージを受け体が動きにくくなっている。振り返って愕然とした。そこにはミュスクルがいた。片腕をごっそり失い、全身に銃弾の跡をつけたまま立ち尽くしていた。残った右手に持っている拳銃で榧を撃ったのだ。

 その顔は、あの人好きのする彼女とは思えないほどの機械のような無表情だった。弾丸はそれきりだったらしく、ミュスクルはもう発砲しない。胸部に弾丸を受けて身動きがとれない榧のほうに、足を引きずりながら歩いてくる。素手で榧を殺すつもりだ。

 榧は初期装備の拳銃を抜いてミュスクルに向けた。この銃でも今のミュスクルなら簡単に仕留められる。

 それでも榧は撃てなかった。かわりに、ミュスクルの背後に追撃してきたタナトスが発砲し、ミュスクルは沈んだ。

「まだ生きてるな?」

「な、なんとか……」

 ひーちゃんはクノッヘンを仕留めにいった。少ししてから、試合終了のメッセージが視界に表示された。クノッヘンを仕留めた後にすみやかに自害したひーちゃんによって、このマッチは榧とタナトスのチームの勝利に終わった。



 イクスと呼ばれる存在を挑発しておびき出すというのが作戦だった。ログアウトした榧は、現在の住処である安ホテルの一室のベッドで目を覚ます。

『急げ。ミュスクルのやつがダンベルで頭を打って自殺する前に止めろ』

 榧のもとにタナトス、ユニカム・ソルジャーという名前のアドレスからのメールが来ていた。ミュスクルの居場所が示されている。

 そうだった。ハックされたアカウント主はその後で自殺を強要される。急がなければならない。

 ミュスクルはてっきり、繁華街や都市部に自分の家なり、スポーツジムなりを構えているとばかり思っていた。しかし示された場所は華やかな場所ではなく、うらぶれた低層労働者が集う古い建造物の集まる区画だ。榧がこの事件の始まりとなった集団自殺事件が起きた場所の一つ、旧宿泊施設街である。

 少ない給金をVRコンテンツへの課金に費やして、わずかな楽しみの元に生きている人が住んでいる。職にあぶれた移民が多いが、もともと月面都市の住民だった者もいないではない。

 榧は自分自身も移民で、移民出身は顔や態度でわかる。ミュスクルはきちんとした月面都市の住民に見えた。大体、CCTの古参ということは移民政策以前から月面都市に住んでいるしかありえない。

「ミュスクル!」

 古いビルが並ぶ一角、廃墟かと思うほどボロボロのアパートの二階の窓から身を乗り出している人がいた。現実では呼ばれるはずのないゲーム内でのニックネームで呼ばれた彼女は、ぽかんとして榧を見ている。

「私だよ! カヤだよ! 今行くから待って!」

 声が聞こえているかはわからないが、榧は大声を張り上げた。古い区画のしけった空気を攪拌する月面都市の環境風が風鳴りになって音を遮っている。ミュスクルが何事か言ったが、聞き取れない。

 ルッカの時と同じだった。数センチの段差を飛び越えるような気軽さでミュスクルは二階の窓から飛び降りた。

 榧は走り、落下してくるミュスクルに両腕を伸ばした。人間一人分にしてはずいぶんと軽い感触が腕に当たり、しかしそれでも二階からの落下の衝撃によって榧の身体に重みが圧し掛かり、榧は後ろ側に倒れた。

 ミュスクルは衝撃で呻いていたが、榧が受け止めたおかげか、見たところ重大な怪我を負っているようには見えない。

 しかし、それ以外の怪我ならあった。

 シャツの下に皮膚を縫い合わせた跡があった。彼女の身体は古傷だらけだ。ミュスクルは想像していたよりも小柄な人物だった。しかし、体重が軽すぎるのはそれだけが理由ではない。

 彼女の両足、それに両手の感触は生身の人間のそれではなかった。中がほとんど空洞の炭素繊維製の軽量な義手、義足で出来ている。

 鍛えるのが好きと言っていたり成熟した話し方の雰囲気から、ミュスクルは榧よりも大きくたくましい女性だと思い込んでいた。しかし、彼女の両腕、両足はもう存在しない。何があったのかはわからないが、失われて久しいようだ。非力な榧でも簡単に持ち上げてしまう事ができるほど彼女の体重は少ない。

 こんな場所に住むことになったのもそのためだろうか。今の技術なら、治癒能力を医療槽で強化してやれば腕の一本を再生することもできる。しかし、稀に医療槽の再生機能と適合しない体質の人間もいる。

 スポーツジムは経営できなくなっただろう。今の月面都市は福祉も十分ではないので、彼女が貧困に陥っていった過程が榧には想像できてしまう。ここで本当にミュスクルが死んでいたとしても、きっと珍しくもない生活苦による自殺で片付けられたに違いない。榧は心臓を握りつぶされるような痛みを感じた。

 榧は、ミュスクルの頚椎に手を当てた。榧はQロットだ。それを今、思い出した。自分の手には、細く伸びた接触用のNデバイスがある。それを使ってミュスクルのNデバイスと直結する。

 ミュスクルの中にある自殺を促しているプログラムを発見し、消去した。これで、ミュスクルがわけもわからずに自殺を試みる可能性はなくなった。

 突然破裂するような音が響き、ミュスクルの右腕が砕け飛んだ。

 シミュレータとはいえ実戦用に作られたCCTで鍛えられていた榧は、それがどこかからの射撃によるものだとすぐにわかった。狙われているのが榧なのかミュスクルなのか、それとも両方なのかはわからない。榧はぼんやりするミュスクルの残った左手を引いて建物の影にすばやく隠れた。

 そこに、別の方向からの狙撃が襲った。ビルの上に現れた人影に気付いて反応できた。そうでなければ、今頃榧の頭はなくなっていただろう。

 榧は路地から地下に入り、下層に下りていった。それしか逃げ道がない。これより下は広い場所で、月面都市の安定した気温を維持している貯水用の空間だ。普通は人が立ち入ることができない。

 逃げ込んだのは失敗だった。照明が少ない暗く人気のない空間にいくつもの気配がある。

 今の榧にはわかる。覚醒体によって遣わされた何らかの存在が榧とミュスクルを消そうとしているのだ。妹の欅もこいつらにやられた。狙撃されて胴体をまっぷたつにされた。

 研究所内に出回った資料では、敵は何らかの強化兵士を作ってQロットを狩ろうとしているということだった。

「狙われてるのは私というわけだ……」

 こいつらはQロットを消そうとしているのか。自分たちを上から押さえつける存在であるQロットをイクスを使って誘き出し、一人ずつ始末しようとしている?

 誘き出しているつもりが、誘き出されていたのは榧の方だったのか。

「それとも、何か私に恨みでもあるか……」

 個人的な恨みなら聞いてやりたい所だが、ゲーム内の様子を見ても話が通じそうには思えない。

 考えても意味がない。このまま、ここで死ぬかもしれない。

 まだ何もやり遂げていないが、今の虚ろな命を終わらせてくれるならそれでもいいか、と榧は思った。せめてミュスクルだけは救いたいが、その方法が思いつかないのだけが口惜しかった。

 遠くの小惑星に幽閉された母のことを思い出した。誰か母を守ってくれるだろうか。母が持っているものは、この世界の行く末を左右してしまうほどの鍵だ。

 闇から迫ってくる何かから、発砲音が聞こえる。

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