番外編 Unicum Soldier 2

■イクス・一



 イスラフェル二十四号は、特異体質だったイスラフェル八号の複製として複数人が作られた。通称として、二十四号群は「イクス」と命名された。彼女たちはイスラフェル系の一般的な特徴を受け継ぎ、透き通るように白い肌と銀髪、薄灰色の瞳をしていた。

 三十人ほど作られたイクスは、白派の各派閥に分配された。イクスのうちの一人はエルドリッジ卿の派閥にも引き取られた。

 エルドリッジ勢力には綺系Qロットが一人いた。そのQロット、綺欅は独特の雰囲気を纏った人物で、イクスから見ても、他の存在とは違う別格なのだと認識できた。

 欅には、エルドリッジ勢力に集まった大勢の実験用Sロットを統括、管理し、現実干渉性を回収するという役目があった。いつも穏やかな物腰で、その性質を外見にも反映するかのように、色留袖の和装を身に纏い、和人形のような姿で常にまっすぐに立っていた。

 イクスはQロットを他に知らないので、Qロットとはそういうものなのだと思っていた。瀟洒な文様の衣服を身に着けた姿は研究所の中でも見ない類であり、いっそう唯一無二の色彩を強めている。

 なにもかもまっさらな自分とは正反対だ。イクスが持つ現実干渉性は「空白」だ。他の現実干渉性を処理するために必要なバッファ領域を制御するためのもので、管理型の現実干渉性である。

 各陣営にイクスが配布されたのもそれが理由だ。何らかの現実干渉性を行使する場合、空白を制御する幽子レベルのアロケーション・プログラムがなければ十分に動作できない。イクスの分配は、派閥同士の均衡を維持するために提案され実行されたのだ。

 要するに、イクスを大量に複製してサーバー上につないでおくことで、既存の現実干渉性の性能が向上する。イクスはそのための道具だった。

 イクスは他のSロットと違って、決して多くの経験をさせてはならない。そうなると、空白が埋まって性能が低下してしまう。八号はそれで失敗して処分された。なので、どの勢力でもイクスは隔離され、最低限の自我を持って現実干渉性をあやつれるというだけの無垢なままで置かれた。何もない部屋で何も経験させず、一生を終えていくのだ。

 しかし、欅の下についたこのイクスだけは異なっていた。欅は、イクスを他のSロットと同様に扱おうとした。エルドリッジ勢力には数多くのSロットが他にいて、それらと同じ空間、同じ経験をさせながら生活させられた。

 イクスの精神には、情動を抑制して空白を維持するための制御プログラムがある。なので、他のSロットと同じ経験をしたからといって感動したり、能力に影響を与える割合は少ない。その冷静な頭で考えると、欅がやっていることに合理性が見出せなかった。

 何のために、欅はイクスを呼び寄せ、優しく頭を撫でたり、両腕で抱きしめて暖めたりしてくれるのだろう。欅は特別身長が高いわけではないようだが、まだ肉体年齢が十歳と少しのイクスはそうされるとすっぽりと欅の胸の中におさまってしまう。暖かく、心地いい。そんなことをすれば、かえってイクスの存在価値を破壊し、命を危機にさらす。イクスを憎んで殺害したいので壊そうとしているのかとも考えたが、表情や声からはそういう雰囲気はない。

 繰り返しそうされることでイクスは確実に破綻していった。ある時、欅はイクスを連れて外に出た。

 月面都市は刺激に満ちた場所で、いくら感情を抑制したイクスといえども影響を受けざるをえなくなった。情報の洪水の中にいれば空白は薄れる。それに恐怖を感じる。恐怖もまた情報で、それがまたイクスの空白を埋めていく。

 イクス・イスラフェルにとっての綺欅ははじめ、何の変哲もない単なる管理者だった。しかしあれは変わり者だったのだろうと今のイクスは考える。

「ごめんなさい、あなたを守ることができませんでした」

 死の間際だというのに、欅は悲壮な表情を浮かべるでもなく、ただ柔らかく微笑んでいた。何の後悔も未練もないという表情だった。上品な和服に身を包んだ姿と背筋が伸びた立ち姿は他の誰とも違っていたし、絹のような光沢のある髪が綺麗だとイクスは思っていた。死ぬ寸前まで、いつも通りの姿だった。

 胴体に命中した何かの物体はイクスの視力では見えなかった。

 何かの力ではじき飛ばされた欅の髪は結びがほどけて、近代画のように美しい文様を空中に描いていた。凄惨な光景だというのにイクスは何も感じない。何も感じないようにされている。

 そして、イクスは知らない誰かに拉致された。黒いアーマースーツに身を包んだ見た事もない強化兵士の一団は、肉片となった欅には目もくれないで、その傍に無感情で立っていたイクスを担ぎ上げた。

 向かった先は第二トンネル内のどこかで、そこで狭い空間に押し込められた。イクスに危害を与えるつもりではないらしい。その後何度か移動させられ、最後にはエルドリッジ勢力に戻された。黒い兵士たちはエルドリッジ勢力のドックに侵入し、そこにあった「サンダルフォン」と呼ばれる装置にイクスを入れた。

 黒い兵士たちの目的は最初からイクスをそれに詰め込むためだったように思えたが、正確なところはイクスにもわからなかった。

 一瞬見えたサンダルフォンの姿は巨大で、球形に羽がついたような異形をしていた。正面と思われる部分に、天使のような姿の銀色の装飾が取り付けられている。それが、この不気味な球体を更に禍々しくしている。

 イクスはその天使の奥側にある檻の中にいる。CUBEネットワークには繋がっているので精神の自由はあるが、肉体はここに閉じ込められている。分断された自分の意識が、無限にネットワーク上に広がっていくのを感じた。

 不思議な感覚だった。これまでもネットワークに属した事はあるが、入ってくる情報が段違いに多い。

 その時にはすでに、イクスはこの世ならざる者と繋がっていたからだ。サンダルフォンを使役し、広い世界に思考を広げていく。

 対無人機兵器「サンダルフォン」は無人で動くが、一部の機能を制御するための座席がある。イクスはそこに組み込まれ、サンダルフォンの機能を与えられている。

 CUBEネットワーク上には様々な感情がある。Nデバイスを通じて、他人を内側から見ることができる。それを繰り返しながら、何も感じない心で欅の気持ちを探している。

 なぜ、彼女はあの時微笑んでいたのだろうか。それがずっと気になっている。死の間際とはどんな気持ちになるものなのだろう。

 実際の死に最も近いネットワーク上の場所を探した。他にも探す物があったが、それはイクスにはどうでもよかった。そして、CCTを見つけた。欅も関わったという戦闘用シミュレータだ。

 イクスは空白を使って他人の情報を自分のものとし、それを利用して他人のアカウントを乗っ取ることができた。そうして獲得した別人の権利を利用してCCTに参加した。

 死ぬというのはどのような感情なのだろう。自分が持つ空白と近い概念のような気もするし、全く違うものであるとも思える。

 イクスはCCTに没頭した。空白によって思考を最適化されたイクスは実戦経験のある兵士の思考を寄せ集めた人工知能でアバターを制御した。簡単に勝ててしまう。退屈になりかけた頃、気になるプレイヤーに出会った。

 カヤというプレイヤーが相打ちに持ち込んできた。彼女は優れたプレイヤーではなかったが、命への執着を見せた。今までイクスが見てきた嘘の死とは違う生々しさがあった。

 興味を持った。長くアクセスするとサンダルフォンの生命維持装置は停止してしまうため、休息を取る必要があった。休息が終わったら、このカヤというプレイヤーを探そう。

 そこには、イクスが求める答えがあるかもしれない。欅はいったい何を考えて笑っていたのだろう。それを、どうしても知りたかった。



■ユニカ・二


 研究所ではあまり評価されていないユニカだったが、Nデバイスを用いた機械制御や、組み込みプログラムを作ることにかけては極めて優れていた。

 優秀ではあるがSロットとしては価値がなく二号という名しかなかったユニカに名前を与えてくれたのは姉で、パイロットとしても兵士としても天才的な人物だった。尊敬、というのは少し違うかもしれないが、ユニカは姉がこの世に存在することを歓迎する立場でいた。

 姉が死んだ時は、同じように姉の存在に依存していた九人目の妹、アイ・イスラフェルのことも気がかりだった。何かしてやりたいと思ったが、派閥の違いという壁があって、ユニカが手を出す事は許されなかった。

 ユニカは生への執着が少ない。それは姉の死によってまた顕著になった。情報処理能力を強化されたユニカは、備品か何かのようにエルドリッジ派の中に組み込まれ、必要な時に引っ張り出される。その繰り返しだ。

 姉の死から十年が経ったか経っていないか、もうすっかりそんな記憶も風化した頃のこと。ユニカにある仕事が与えられた。

 一時期分裂を極めた白派が落ち着きを取り戻し、大きないくつかの派閥のみが残っていた。エルドリッジ派は大きな勢力だったが、非人道的なSロット実験を繰り返していたためにQロットの囲い込みに失敗していた。その当時、エルドリッジ派が保持しているQロットは綺欅という一人のみだった。

 綺系はQロットの最終型なので性能は申し分なかったが、脱走や反乱に対処するには難しかった。欅は類稀な戦闘能力の高さを持つQロットではあったが、一人だけでは足りない。エルドリッジ派はおびただしい数のSロットを飼っていた。

 今にして思えば、「サンダルフォン」はそのために作られたと気付くことができる材料はあった。経験というものをほとんどしてこなかったユニカは、「研究所を防衛するための兵器」という言葉にあっさり騙され、サンダルフォンの複雑なシステムを構築する仕事に疑問を抱かなかった。

 ユニカに与えられたのは、サンダルフォンに纏わる中身のよくわからないシステムを仕様通りに構築することと、二〇〇人のSロットを兵士として鍛え上げるプログラムを作ることだった。この二つはセットで運用されるものと聞かされた。

 まずはサンダルフォンを仕上げていった。プログラムはモジュールごとに独立して開発され、部品の設計も断片的なものなので、八割近い部分をたった一人で作っていたユニカでさえ機体の最終的なコンセプトを知る事はなかった。

 同時に、兵士の育成も行った。白派は、黒派ほどではないが月面企業を保有している。この計画のために、ジェミニという会社が作られた。ユニカは戦闘シミュレータを設計したが、実戦経験のある兵士が必要だった。

 それを打診すると、エルドリッジ派はどこかの派閥と交渉を行い、強化兵士でありQロットであるという変り種の柊というQロットを借りてきた。彼女を使って、二〇〇人の健康なSロットたちを優秀な兵士に仕立て上げた。そのために作ったシミュレータ「CCT」は、開発資金回収のためにジェミニで一般公開された。

 それと同時並行で開発を進め、ついにサンダルフォンが完成した。

 稼動試験にユニカも呼ばれた。そこで初めてエルドリッジ卿を見た。卿がユニカに興味がないように、ユニカも卿に興味がなかった。それよりも、完成したサンダルフォンの方に興味があった。

 大まかな部分については八割ほどの図面を引いたユニカの想像通りのものだった。一方向への防御だけで済む宇宙戦闘機と違い、サンダルフォンは静止したまま戦闘を行う衛星兵器だ。三次元の無重力空間で全方位からの攻撃に対抗できるシールド「羽」を全身にそなえ、球形の本体を守るために自在に動く。武器は散弾を発射する砲と機銃で、防御に対して貧弱ではないかとユニカは思っていた。

 自分が知らない二割の部分はおそらく武装で、それがサンダルフォンのメインなのだろうと考えていた。ユニカはその二割の組み込みプログラムのいくつかも作った。その際、どうも攻撃に使うらしいな、という変数名を目にしていた。

 その考えは当たっていた。しかし、初めに見た時はそれが兵器だとは思わなかった。

 球に羽がついたような異形をしたサンダルフォンの正面部分、知らない二割の空白部分には制御用の座席があり、その正面に装甲が取り付けられていた。銀色の光沢がある流体金属で、自在に形を変えて防御や攻撃を行う機能がある。また、自在にその形を変容させて状況に応じた武器を作ることができる。敵を焼き尽くすレーザー兵器になることも、装甲を穿つパイルになることもできるそうだ。

 どんな意味があるのか、流体金属は天使の像の形となってサンダルフォンの正面にあった。背後にある本体である球と無数の羽という異形と無表情の非人間的な天使像は妙に一体感があり、全体が奇妙な芸術作品のように見える。

 ユニカは知らなかった。その天使の奥に設置された座席こそがサンダルフォンの真の武器で、天使どころか悪魔じみたものだということを。

『試験開始』

 アナウンスが聞こえた。ユニカのいる場所からは、都市を再現した地下実験空間を見下ろすことができる。そこに異形の兵器サンダルフォンが投入された。音もなく浮遊しながらビルの間を移動している。天使像はわずかに形状を変え、センサーの役目をする針を表面から出現させている。あれで周囲の状況を探っているのだ、とプログラムの一部を作ったユニカにはわかる。

 二〇〇人の兵士が実験場に入ってくる。それぞれに武装を施した強化兵士だ。ユニカが随分と手塩にかけて生み出した兵士たちだ。全員が合わさればサンダルフォンをも凌駕する実力を持っていると自負している。

 ユニカは、この兵士たちをサンダルフォンが支援することで研究所の防衛を担うものだと思っていた。企業連合が持つ強力な戦闘ポッドは脅威だが、二つが揃えば対抗できる。

 しかし、現実は違っていた。サンダルフォンは入ってきた兵士を認めると、天使像の針でその存在を照準する。本体に設置された機銃が火を吹いた。兵士の一人の身体が粉々に破壊される。

 ユニカは目を疑った。しかし、試験は続いた。これが正常らしい。

 兵士たちは何の疑問も持たずにサンダルフォンに立ち向かっていった。地形に沿った陣形の組み立てや連携は完璧だった。いくら巨大な兵器が相手といっても、彼女たちならなんとかしてくれる。

 ユニカは目の前で起きていることを理解するのに必死で、ただ二〇〇人の兵士たちを心の中で応援することしかできなかった。足は震え、手には汗をかいていたが何も行動を起こせない。

 ユニカが設計したシールド制御システムは兵士たちの苛烈な攻撃を難なく防いでいた。何かがおかしい。確かにあのシールドは優れた防御システムだが、彼女たちであれば隙を作れないほどではない。どこかに違和感があった。

 自分の目がおかしい、と気付いた。サンダルフォンの位置が掴めない。実際の距離より遠くにいたり、逆に近くに見えたりする。

 兵士たちは初めは統率がとれていたが、次第に狂っていった。サンダルフォンではなく味方の兵士を攻撃し始める者が現れる。兵士たちは互いに殺し合いを始めた。無感情な天使像はその様子を見下ろしている。

 強い精神力と冷静な思考を備え、同時に複数の事を考え、Nデバイスを利用して高度に連携し、精確な攻撃を行い、独創的に戦術を組み立てる事ができる理想の兵士たちが、見る影もない獣に成り果てていた。しまいには小銃さえも投げ捨て、殴って相手を殺し始める。

「武器も見たいな」

 背後でエルドリッジ卿が何かを話している。それに応じるように、天使像はぐにゃりと変化し、紫色に発光し始める。

 殺し合いで最後に残った一人が紫色に照らされて激しく光り、墨のようになって崩れ落ちた。

 サンダルフォンは精神兵器だった。幽子干渉能力を利用して人間の質感や電子機器、Nデバイスに直接改竄情報を与え、ハッキングを仕掛けるものだ。ユニカの姉がが死んだ跡地にあったアルカディア・ステーションの技術を兵器に応用したものだった。

『試験終了』

 アナウンスが淡々と流れる。試験場に残されたのはサンダルフォンのみで、つまり必要なのはサンダルフォンのみだった。



 嫌な思い出だ。あれから、サンダルフォンはエルドリッジ派のSロットの畏怖の対象になった。逃げ出すものを狂わせ、ひねり潰し、恐怖を与える。

「欅を殺したのは私だ」

 イクスには嘘を伝えた。実際に欅を殺したのは覚醒体の僕の強化兵士たちだ。しかし、ユニカの読みどおりイクスは姿を現した。

 サンダルフォンの異形が宇宙空間に晒されていた。月面の廃棄された採掘坑に潜んで、幽子ネットワークシステムによってCUBEにアクセスしていた。普通なら発見できないが、Qロットの榧によって可能となるおおまかな位置特定、その場所を狙って送られたユニカの挑発メッセージの通信によって自ら姿を現した。

 正面の天使像が見える。精神的な威圧感を与えるためのデザインだろう。あの無表情を見ると反吐が出そうだ。

 サンダルフォンは完璧な兵器だ。しかし、イクスを乗せているという点に不完全がある。それが奴の敗因になる。

 ユニカは愛機スティレットとの同調を行わない。登場した愛機の自動戦闘プログラムを補佐する役目に徹するのだ。自分はここにいる、殺してみせろ、とイクスに念じながら接近する。おそらく、それは奴の「空白」に読み込まれて伝わっている。ユニカの心はそれに集中し、機体の制御は人工知能に任せる。

 実は、「タナトス」も人工知能である。ユニカが操作しているわけではない。タナトスはユニカ自身ではなく、コンピュータプログラムである。

 ユニカはタナトスの乗客になって指示を出していればいい。あれはXCの時代、二〇〇人の兵士たちを育てるために作り上げた仮想敵で、キャラクターなのだ。

 唯一的な存在、「ユニカム」など時代遅れだ。人工知能はいくらでもコピーできる。月面都市は無人戦闘ポッドが跳梁跋扈し、政府軍を脅かすまでになっている。

 タナトスは自分で考え、行動する。もう一人のユニカか、ユニカ以上の存在だ。数万人をCCTで屠ってきた彼女の経験値は圧倒的なものだ。それを、このスティレットにも連れてきている。

 スティレットは大出力の重力エンジンを二発搭載した機敏な宇宙戦闘機で、四メートルという小柄である。それに対し、サンダルフォンは本体部分が三十メートル、翼を広げれば五十メートルほどの幅にもなる巨大な人工衛星である。その大きさの違いで、スティレットはサンダルフォンに挑んでいく。

 音もなく浮遊するサンダルフォンは、目に見えていても正確な位置を把握できているとは限らない。人間の質感、つまり幽子への干渉だけではなく電子機器のパルス信号をとらえて書き換えてしまうこともできる。幽子領域を利用するので微細なものにしか干渉できないが、分析と干渉を駆使することで、少しの認識の違いでも決して本体に到達できないように計算している。

 ユニカはそのためのプログラムを作ったのでよく知っている。機体の制御を完全にタナトスに預け、自分はスティレットのシステムに起こっている干渉を発見し、補正する作業を行う。

 接近していくと、ユニカの精神が恐怖に支配されていく。サンダルフォンの精神干渉はどんなに鍛えられた兵士ですら精神をかき乱される。

 だが、ユニカだけは例外だ。この日のために、精神と肉体とNデバイス、全てを別々に扱えるように毎日訓練をしてきた。

 自室で飽きもせず、VRゲームと筋トレを同時に行っていたのも全てこの時のためだ。肉体と精神を別々に使いこなせるように。

 何もない時間は全てその作業に費やしてきた。Nデバイスは半分はユニカ、半分は自動処理で計算を続け、サンダルフォンからの干渉を分析する。肉体はひたすら、サンダルフォンから与えられる苦痛に耐える。精神はどこか遠くに置き去り、ギリギリの所でその二つを制御する。

 それでようやく、スティレットはサンダルフォンと対等に戦えるようになる!

 そうしてなお目視よりもひどい照準精度に不安定な機体制御ではあったが、スティレットは実在のサンダルフォンがある方向へ向かう事ができていた。それに対して危機感を抱いた、というよりは苛立ちを感じたのか。サンダルフォンの二つの武器が展開され、スティレットを狙った。

 散弾は回避が困難だが、スティレットの上面のシールド部で受ければ損害を軽減できた。その後襲ってくる機銃による攻撃も問題はない。

 その後が問題だ。生き物のように変容する流体金属兵器は天使の姿をやめ、球体を糸で繋いだようなものをいくつか生み出して発射してきた。

 スティレットは、糸の先端につけられた重量のある球体に殴打され、そして絡め取られた。機体が激しく揺れ、ぎしぎしと振動が伝わる。

 ユニカは肉体に伝わる情報を無視する。金属兵器の幾何学的変化を分析し、エンジン出力にフィードバックさせる。それによって、なんとか絡め取られたままで姿勢を維持した。

 しかし、一度つかまってしまえば粘性のある金属糸にゆっくりと引き寄せられていく。しかも、なお機銃による攻撃は続いている。

 このままではやられる。

 距離が近づく前に、ユニカは最後の切り札を使う。スティレットの下部に懸下しておいたポッドを、狙いもなく無造作に発射した。

 このポッドは爆弾の類ではない。そんなものではサンダルフォンの翼で防御されてしまうだけだ。

 ポッドは荷物用のカプセルで、射出後すぐに分裂して中身のものを放つようになっている。

 ポッドは正常に動作した。宇宙空間に美しい銀髪が舞っていた。それは、アリスに頼んで作らせていた綺欅の遺体であった。

 本物の欅のNデバイスの固有IDを発信している。そして、わずかだが身体や表情が動くようになっている。真空の宇宙空間に生身の人間が美しいまま存在するということがありえないのだが、ナノマシンによるコーティングによってそれも実現させた。

 イクスは欅のことを意識している、というユニカの読みが外れていたなら、これは滑稽な戦術だ。しかし、「欅を殺したのは私だ」という挑発に対して姿を現した時点でその読みは当たっている。

 ユニカにとってゲームは訓練と暇つぶしであり、楽しいと思ったことなど一度もない。ゲームの中でのイクスには、変わっていく自分への喜びが見えた。これは、まだ感情を十分に経験していない、完全で無垢なイクスの弱点をつく残酷な手だ。

 心を無にすることはユニカにもできる。この策を気取らせないようにしていた。

 全ての精神干渉が一瞬だけ停止した。その一瞬があればいい。ユニカはコクピットから出た。鍛えられた身体で無駄なくサンダルフォンに取り付き、ハッチをこじ開け、その先を見もせず、念入りに拳銃を何発も撃った。

 サンダルフォンは電子機器を破壊されて停止した。設計の通り、自爆装置が作動している。スティレットは粉々に砕かれていて、もう脱出の方法もない。

 ユニカはそれで満足だった。

 弾丸が命中したイクスの顔面は表情がわからないほど破壊されていたが、虚空に向かって手を伸ばしている。それは、放り出された囮の欅の遺体がある方向だ。

 この子は愚かだ、とユニカは思う。イクスはかつてのユニカと少し似ている。だからこそ、欅に惹かれる理由もわかる。欅はどうせお前のことなんか見ちゃいないんだよ、とユニカは考えた。

 出会った時、ユニカも欅に引かれた。柔軟で優しく暖かい心は本物だった、と思う。友人だった。

 だが、その優しい心を上回る、制御できない感情が欅には巣食っていた。Qロットは倫理プログラムと情緒を持っている。それが暴走したのだ。

 嫉心だったのか憧憬だったのか、欅は柊の強さに引かれていた。完璧主義者だったのだろう。エルドリッジ派の中にいる全てのSロットを救えないのは自分が弱いからだと前に話していた。

 柊は本当の意味での「ユニカム」だった。多彩な現実干渉性を自在に操り、身体も強い。対する欅は、たった一つの現実干渉性を極限まで使いこなす道を選んでいた。

 二〇〇人を鍛える計画で柊を教官に招いたのも、彼女への挑戦とか、支配だとかいった感情があったように思える。「ひーちゃん」などというあだ名をつけて呼んでいたのも、柊の存在を乗り越えようというあがきだったのかもしれない。

 サンダルフォンの機体コンセプトを考案したのは欅だ。エルドリッジ派の中で強大な力を求めるあまり、悪魔の兵器をユニカに作らせた張本人だ。

 サンダルフォンは対無人機兵器でもあるが、Sロット始末用の死神でもある。出来損ないのSロットを始末する存在である。それは、エルドリッジ派でたった一人のQロットだった欅が求めた性能だった。

 宇宙を漂う欅の遺体はすでにその活動限界を超え、また何も言わなくなっている。自爆まであと数十秒。暇だなと感じ、もう癖になったトレーニング動作をしそうになって、ユニカは自嘲した。



■榧・三



 ミュスクルが狙撃され、榧は地下へと追い立てられた。そして敵の強化兵士によって囲まれて一斉射撃され、ここで死ぬはずだった。

 複数の発砲音がし、榧はその覚悟を決めた。

 しかし、いつまでも榧の思考が途切れることはなかった。身体の痛みもないし、感覚の変化も起きない。榧は生きていた。

 銃弾はすべて空中で静止し、地面に落下した。その音で榧は顔を上げた。

 そこには榧によく似た人物が立っていた。長く伸びた濃灰色の髪と瞳で、榧よりも身長も体格も大きい。立ち方には隙がない。ついさっき見たような気がする。

 立っている人物の右手からかすかな音が聞こえ、暗闇の中にいる何かに攻撃を加えた。特殊拳銃を隠し持っている。

 それが誰なのか、榧はすぐに理解した。

「いいの? 私はエルドリッジ派の所有物だよ」

 敵対派のQロットは少ない方がいい。アイ派の彼女からすれば榧は消えてくれた方がいい存在のはずだ。かつて中立だったアイ派も今は巨大勢力になり、事実上の対立派閥だ。

 目の前のQロットの妹は答えない。彼女は記憶を高度に管理されているので、ここで会話するのは無意味なことだ。どうせ次に会った時には榧のことを忘れている。

 月面都市に自らやってきた榧は、初めアイに拾われ、その後は白派の中で所属を転々とした。欅を失ったエルドリッジ派によって強奪気味に取り込まれたが、この勢力に身をおくのは不愉快極まりない。

 なら、今から働いておくか。

 榧は妹を通じて、その先のアイを考える。いつか手を組むことになるかもしれない相手だ。ミュスクルを気絶させて妹に預け、榧は行動を開始した。



 襲ってきた強化兵士の一人の遺体から情報を取得し、第二トンネル内に未知の施設が作られていると知った。

 月面都市の最下層には、一般には知られていない搬入路がある。そこを通じて第一トンネルと第二トンネルは繋がっている。そこに、どんな情報にもない通路が出来ていた。

 CUBE端末を利用した警備システムが存在するようだが、本来の自分を取り戻した榧にとっては存在しないも同然のものだ。空気が薄い通路を通ってその先に向かう。

 ある地点から先は警備システムが途切れていた。空気は冷たかった。温暖な月面都市に合わせた薄着の榧は身震いした。

 無人ではないようで、所々に明かりがある。円形の巨大な空間で、その先は真空で立ち入ることができないらしい。

 作業員を見ると、彼女たちは襲ってきた黒いアーマースーツの強化兵士と同じ遺伝子を使った人造人間のようだった。榧はそのうちの一人を昏倒させて服を奪った。

 真空の地下空間に入る。見渡すだけで数キロの広さがあるが、まだ土を掘り続けて拡張を続けているようだ。塔のようなものが暗闇の中に生えているが、未完成なので何かはわからない。船のようにも、施設のようにも見える。こんな場所で何を作っているのだろうか。

 活発に動いている成型装置を発見したので、そこに向かってみる。別の施設から運ばれてきた部品が組み立てラインに運ばれ、そこで一種類の機械を製造しているようだ。

 シンプルな流線型のボディは高分子と炭素繊維を組み合わせた軽量の装甲材で出来ている。内部は見た事のない弾性のあるフレームで作られ、柔軟に四本の移動用の脚部を動かす事ができるようになっている。

 メルカバ、という名称がついた無人兵器だ。フレームから微弱な電波を感じる。Nデバイスのような情報素子が通っているようだ。このフレーム自体が思考することで機体構造をシンプルにすると同時に、反応速度も向上させている。そういう設計に見えた。

 どうやってフレームを作っているのか。榧はラインを辿って、フレームの成型現場を見た。

「……」

 血生臭い現場に慣れた榧でも、それを見て言葉を失った。

 そこにいたのは、イクス・イスラフェルだった。正確にはそのコピーだ。培養槽の中で次々とクローン生産されている。

 その過程で、イクスは骨格に金属と樹脂を流し込まれる。肉体はフレームの成型材料で置き換えられ、遺伝子と思考能力を持ったまま機械にされていく。ここにある培養槽は、成長過程のイクスをフレームの形に「成型」する鋳型であった。

 イクスの「空白」の現実干渉性は最後に当てはめるべきピースだ。覚醒体の手に渡れば、覚醒体の思考を無限に拡大していく手足になり得る。ここにある無人兵器メルカバは設計自体も優れているが、それによって、現在のいかなる無人兵器をも上回る反応速度や学習性能を獲得するだろう。

 せめて彼女らを解き放ってやりたかったが、何かが迫っている気配がする。異常に気付いて敵がやってくるのかもしれない。榧はその場を後にした。

 まだ時間はあると思っていたが、もうここまで敵の行動が進歩している。これは人間を殺すための兵器だ。広がり続ける第二トンネルの地下の中で、滅びへの楔が生み出され続けている。



■イクス・二


 気がつけば、イクスは元いた研究所に戻っていた。

 全てが同じで、少しの綻びもなく再現された世界だ。欅によって支配されていたSロットたちが住む生活空間であった。

 違うのは、回りにいる姉妹たちが皆イクスであることだった。顔のないイクスたちが、白い部屋の中にいる欅に群がっている。その様子は誘蛾灯に集まる虫のようでもあり、欅を食い尽くそうと群がる野鳥のようでもあった。

 イクスには空白があった。その空白を埋めてもらおうと、欅の手を求める。欅の手がイクスの髪を撫でた。欅の顔は優しそうに笑っている。でも、その顔がよく見えない。

 空白だったイクスの中に、何かわからないものが入り込んできている。それはよく見慣れたCUBEプロトコルのようで、いつのかにかイクスの中で大きくなっていた。

「さあ、私と全てのことをしましょう。考え付くあらゆることをしましょう」

 欅の甘い声が言う。それが贋物であるとも知らずに、イクスは自分を満たしていく。

「すきだよ、欅」

 偽りであろうと関係がない。欅の全てを与えられ、無数のイクスは、さらに無数へ、無限大へと増加していく。やがてこの世界を埋め尽くして自分だけが世界を埋めていくように。

 無人機メルカバを繋ぐフレームとなったイクスは、地下で数を増やし続けていた。



■アリス



 アリスは政府高官の娘で、若い頃からずっと研究所に関わっていた。

 人に言えない趣味として人体への興味があり、趣味が高じて強化兵士計画にも関わった。それがどんな結果をもたらすかも考えずに、Sロットの体を好き勝手にいじり、そして後悔した。ほとんどが死んでしまった。アリスが手がけた作品のうち、まだ稼動しているのは一つだけだ。それも行方がわからなくなっている。

 ユニカと同じように、アリスにも負債がある。それを取り返すために、必死にSロットを救おうとしてきた。ユニカのことも救いたかったが、アリスにはその方法がわからない。

 ユニカはどうなっただろうか。サンダルフォンの精神攻撃は強力なので、悪用される恐れがある通信機能を取り除いた上でスティレットは出撃していった。彼女がどうなったかすぐさま知る方法はない。やっぱりエルドリッジ卿に話をして、増援を出してもらえるように頼もう。ユニカはあれとの心中を考えかねない。

 どんなに忌むべき兵器だとしても、そんなものとユニカを心中させるようなことがあってはならない。同じ気持ちを持つアリスだからこそユニカを救いたいと強く思う。

 卿を呼び出しても繋がらなかった。Nデバイスの反応は近くにあるようだが、どうも反応が希薄だ。どういうことなのだろうか。研究所にある卿のオフィスに行けば誰かいるだろう。そこから取り合ってもらえばいいとアリスは思い、そちらに足を向ける。

 かすかに血の匂いがした。扉がこじ開けられている。

 何人か人が横たわっていた。そこに立っているのは一人だけだ。アリスは目を奪われていた。

 手に持った槍に見覚えがある。あれはアリスが考案した武器だ。もともとは銀色に輝いていたはずだが、今はその全てが血の赤で塗りたくられている。同様に、足元から胸元までを赤く染めた姿がある。

 それは、唯一生存しているアリスの作品で、友人だった。短かった髪が足元まで伸びている。培養槽で代謝を加速させたせいで髪が異常に伸びたのだ。それは、いなくなってからの彼女がそれだけ怪我をする環境にいたということだ。

 何の感情も持たない顔がアリスを見る。薄灰色の瞳を見て、この友人の記憶の中には自分がもういないのだ、とアリスは気付く。何らかの精神操作や記憶操作をされ、暗殺者として使われているのだ。

 彼女は電気を操る単純な現実干渉性を持っている。単純故に強い。最大の火力を持つ兵士だ。今でも最高の作品だったと思う。しかし、彼女は幸せではなかった。

 彼女のことも救いたいと思っていた。しかし、結局何もできなかった。罪というのは本来は贖えないものだ。なぜなら、この世界は不可逆にできているから。傷付いた物を戻しても、傷付いたという事実は変わらない。

 エルドリッジ卿は暗殺された。目撃したアリスは、おそらくこのまま殺されるだろう。仕方がないことだ、とアリスは思った。自分の手で傷つけてきた人間たちと、自分が生み出したものが殺してきた人間たちの数は数え切れない。

「もういいよ」

 背後からかかった声に振り返ると、そこには別の人物が訪れていた。槍を構えようとしていた暗殺者は血塗られたままで表情を少しだけ緩め、新しく来た長い濃灰色の髪で長身の人物に駆け寄った。

「終わりました……」

「いい子だね。先に戻ってて」

 血まみれの彼女を気にもせず、長身の人物は長い髪をすくように撫でていた。無表情のままそれを心地よさそうに受け入れたあと、暗殺者は去っていった。

「行くなら急いだ方がいいよ」

 残された長身の人物。確か、アイ・イスラフェルの所にいる……柊とかいうQロットのはずだ。

 柊はアリスに鍵を投げてよこした。研究所のドックにある小型艇の鍵だ。

 そうだ、ユニカは今戦っている。アリスは去来する様々な思いを振り払って、そのことだけを考えるようにした。彼女だけは救おう。



 小型艇の操縦くらいはアリスにもできる。月面都市の近辺なら自動操縦で事足りるが、今回向かう先は廃棄された資源採掘区画だ。慣れない操縦でそこへ辿りつかなければならない。

 資源採掘区画は、月面都市そのものや、そこで生産される工業製品、生命維持に必要な酸素などを作るために土壌を掘り返した跡地だ。現在は高度にリサイクル化された月面都市は資源循環しているのでほとんど用済みになっているが、開発黎明期にはこうした資源採掘場は活発に使われた。

 そのうちの一つにサンダルフォンは隠れているとユニカは読んでいた。Qロットの協力があっても、月面都市から離れた資源採掘場から発する微弱な幽子信号を解析するのは困難だ。大体の位置しかわからない。アリスは、その大体の位置の付近へと小型艇を飛ばせた。

 準備は何もない。何も考えていない。ただ近くに行きたいと思っていた。合理的で冷静なアリスらしくない行動だった。

 宇宙空間には大気がないので、この程度の小型艇であっても長大な範囲の索敵、画像解析ができる。近辺で戦闘があればすぐわかるはずだが、そんな気配はなかった。

 何か破片が飛び散っている。アリスは息を呑んだ。破片の中に、バラバラに破壊されたユニカの愛機「スティレット」の部品がいくつもあった。

 コクピットブロックもあったが、中身は空だった。しかし、安心できる状況ではない。ユニカを探さなくてはならない。

 サンダルフォンの姿も見えないということは、ユニカは破壊に成功したのだ。散らばっている破片の量からして、明らかにスティレットだけではない。その運動を解析し、破壊が起きた地点を割り出した。

 散らばる破片全ての移動ベクトル、回転モーメントを計算に入れれば、観測できていない破片の存在を推定できる。位置を割り出すことができる。その中から人型に近い未知の物体を見つけ出すようにフィルタリングを行う。そうすれば、広大な宇宙空間に投げ出されたユニカの位置を推定できる。もし生きていればの話ではあるが。

 条件に一致する推定オブジェクトが一つだけヒットした。

 アリスはその物体が流れていった方向へと小型艇を動かした。しかし、そこにいるはずのユニカはいない。

 がたん、と背後から音がした。誰かが小型艇に取り付いてエアロックに侵入している。

「ユニカ!」

 振り返ったアリスの目の前にいたのはユニカではなかった。

 体の一部が金属光沢を放っている。美しいストレートの濃灰色の髪の一部が焼け爛れ、ナノマシンのコーティングによって覆われた皮膚は青白い。それが真空での活動を可能としている。死体のような肌の色だが、ぎこちなく動いて歩いてくる。

 間違いなく、アリスが手がけた綺欅の遺体だ。サンダルフォンの流体金属の一部を取り込んで体を補修している。

「アリス博士、あなたはエルドリッジ派ですね?」

 原稿を読み上げるような口調で欅の遺体が喋った。すでに彼女自身は失われているが、彼女のNデバイスの中に残された妄執がまだ活動を続けているのだ。見開かれた瞳は瞬きもせずにアリスを見ていた。瞬きをしないのは、視覚解析を行うためだ。戦闘状態にあるということを意味している。

 流体金属は形を変え、欅の手の中に京反りの打刀を出現させる。欅は洗練された美しい動作で、それを抜き放とうと構える。

 アリスは慌てて拳銃を取り出して欅に向けて発砲した。普通、狭い艇内での発砲は厳禁だが、そんな事を言っている状況ではない。

 弾丸は欅に命中する前、彼女の目に睨まれるだけで消滅した。消滅したというのは勘違いで、彼女の視界に入った段階で空間転移させられ、欅の体を通り抜け、彼女の背後に再出現する。弾丸はそのまま小型艇の電子機器に当たって破壊した。

 欅はずっと柊にあこがれて体を鍛えてきた。それでも、結局柊の戦闘能力に到達することはなかった。それが彼女をどう狂わせたのかは知らない。

 アリスは考えていた。彼女は最初から何もかもわかっていて、イクスを敵に差し出したのではないか。エルドリッジ卿は殺された。もうこの派閥は消滅するだろう。それが欅の目的だったのではないか。

 根拠のない妄想だ。しかし、ありそうなことだと思う。全てを柊に捧げることで呪縛から開放されようとしていた。憎しみと愛は紙一重。その気持ちは、なんとなくわかる。

 一瞬にして踏み込んできた欅が腕を払うと、握られた刃がアリスの肉体を引き裂いていた。あまりにも見事で美しい太刀筋で、アリスは関心してしまった。空間転移の現実干渉性の扱い方と、それを利用した視界解析による銃弾の正確な回避も熟成され、完成されている。ここまで鍛えても不足だったのか。袈裟斬りにされ、異物が肉体を通過していく感覚を味わう。そのまま突進の衝撃を受け、アリスは正面の窓へと叩きつけられた。

 透明な窓にアリスの鮮血が飛び散り、ひび割れが生じる。ああこれは確実に死ぬな、という致命的な体の痛みを感じていた。

 船の外壁が壊れ、アリスは真空の宇宙空間に放り出された。





 巨大な円環トンネル状の地下月面都市、時計盤に例えて五時過ぎの第五区画に、零細新聞社「グリント」は粗末なオフィスを構えている。四~六時区画は最も低級の零細企業がひしめいている。それでも、本当の貧困層が住む旧市街に比べればまだ安全な場所だ。

「ふーん……」

 編集長のクリス・スタレットは、榧の記事を読んでうなっていた。榧には、例の集団自殺の件で何か書くよう依頼していた。

 彼女の才能は認めている。しかし、時々変な方向にいく上、どうも幼稚な所があるのが欠点だと思っている。それなのに、今回の記事には全く甘さや綻びが見られない。びっくりするほどまともだった。なんというか、榧らしいが、榧らしくない。

 この記事はもう掲載されている。編集長は最低限のコンプライアンスを確認したら、あとは記者の責任に任せて記事を出す事にしている。反響はかなり良い。

 この記事では、移民政策以降の月面都市における圧迫された住宅事情を切り口に集団自殺について分析している。環境や空気の悪い中で生活するうちに現実での価値を喪失し、低層中の低層の貧困層VRの方に価値を置き始める。現実での生活では肉体の健康を維持できればよく、VRコンテンツのヘルスチェックにひっかからない程度に現実を「プレイ」する。貧困というと賃金や住環境の改善を思いつくが、これらの人間にとってはちょっとやそっとの賃金向上はどうでもいいものなのだ、と榧は分析している。

 確かにそうだ。移民は努力しても成り上がれない。月面都市は華やかだが、影になった部分には移民は人権がない、といような中世のような階級制度が実質的に存在する。ごく稀に成功する移民のケースを政府は大々的に宣伝して移民に時代遅れの夢を煽るが、それは例外的なケースだと誰もが知っている。百人分の席しかない地位にたまたま空きが一つでき、そこにたまたま移民の誰かが座ったとしても、だから何だというのだ。移民は数万人いるので、席が百空いても不足だ。そんな少ない可能性のために人生を苦痛に満ちたものにするなら、いっそ賃金など最低限でいい。

 Nデバイスによって経験を加速させ進化していく人類は、VR上でのやりようでは、現実より価値の高い時間の使い方ができる。現実の一時間がVR上では一日にも一週間にも感じられることもある。それなら、中途半端に高い賃金を得るために長い労働などしようという気にはならない。

 それが加速していった結果、現実はただ面倒な体の管理やしがらみへの対処を行うだけのものになる。遺書を残して衰弱死していったような人間は、皆そのような倒錯の中にいた。

 人は何のために生きるのか、と問うた時、この行いを否定することはできない。イデオロギーで反論することはできるかもしれないが、論理的な反論はできない。情報技術が言い訳できないほど進歩し、現実を追い越したということだからだ。

 榧は、戦争で両手両足を失い趣味をVRシミュレータに見出し、最後には自殺を試みた「ミュスクル」なる匿名の人物を取材してこの記事を掘り下げていた。

 ミュスクルは移民ではなく政府軍の正規兵として、きちんと身分を持って月面都市に住んでいた。運動が好きで、ある時引退してスポーツジムを始めた。しかし、移民によって悪化した治安のせいで起きた抗争に巻き込まれ、あろうことか古巣の政府軍による犯罪者の粛清の巻き添えになって両手両足を失った。

 ミュスクルは、政府軍の過ちを認めて許したらしい。移民を恨んでもいないという。だが、再生医療に適合しなかった彼女は体を取り戻せず、生き甲斐を失った。働き口はいくらもあったが、何をしても楽しいという気持ちにはなれない。だんだんと仕事を削って最低限の生活になっていった。

 自殺者は貧困にあえぐ移民ばかりではない。月面都市全体で増加傾向にある。社会の方向性を考え直すべき時が来ている。仕事の創出をするだけでなく、住みやすい現実を提供することが必要なのだ。雇用にだけ金をかければそれでいい、というものではない。

 まずは住む場所をもっと快適にすることはできないか、と榧は提案し、資金集めを始めていた。古いホテルを改修してメンテナンスフリーの快適な最新建築にし、そこを格安で提供するという計画だ。

 古い建物ほど修繕維持費が高くつく。土地もろとも手放したいオーナーは多い。初期費用さえ払うことができれば、何百年もメンテが必要ない維持コスト激安の物件を作れる。それを行っていくことで、低所得者層の幸福を底上げするという。

 この提案は月面都市の市民から支持されている。貧困層の減少と労働意欲の増進は社会全体に治安と富をもたらすと記事の中でも示されており、それに共感した市民が多いようだ。まだ十分とは言えないが、寄付金もどんどん集まっている。グリントの評判はこの記事によってかなり上方修正された。

 ここまでしてくれたのだから、少しくらいご褒美をあげてもいいと編集長は思い始めた。調子には乗らせたくないが、実際感謝しているのだから素直になりたい。

 半年ほど先、政府軍の宇宙戦艦の記念式典がある。そのチケットをなんとか手に入れられないだろうか。喜ぶ榧の顔を思い浮かべ、それが妙にかわいらしく思え、編集長はその顔を忘れようと仕事に戻った。





 集団自殺者の増加は、本当はそんな理由ではない。覚醒体の影響を受けてのものだ。現実に価値を見出せなくなる、という意味では同じことだが、正確に語ったものではない。

 本当の理由を隠すためにはある程度説得力のある嘘が必要だった。隠れ蓑である「グリント」を研究所などのために利用することは榧にとっては不本意ではあったが、今回は榧にとっても必要なことだった。

 榧は病院に向かう。結局、自殺を図った彼女は目を覚まさない。いいや、もうずっと前から目を覚ましていない。

 ルッカは、グリントの記者ではない。榧の友人でもない。見知らぬ人物だ。本当の名前も違う。ユーザー名「ルッカ」で活動していたCCTの初級ユーザーだ。イクスにアカウントをハックされて自殺させられた最初の一人で、それ以来ずっとこの病院で眠り続けている。

 榧はもうずっと前に、死にかけたルッカを調べていてイクスの存在を知った。そこで、ルッカのアカウントをQロットとしての権限を使って譲り受けて、自分自身のアカウント「カヤ」と、「ルッカ」の二つを利用して調査活動を行うことにした。

 ルッカの情報から作成したARキャラクターに、雇われ記者の一般市民の表面人格の友人という「設定」であてがう事で、違和感なくジェミニにたどり着かせ、こうして新聞記事を書かせるまでした。

 榧の友人で記者仲間のルッカという人間は実在しない。彼女の自殺に居合わせたことも、警察の取り調べも、お店での食事も、全てつなぎ合わせた情報を自分自身の脳に与えただけのものだ。

 榧には友人などいない。調査の間に過ごしていた時間も経験も、全ては記者の方の榧が見せられていた幻覚だった。

 それでもなんとなく、この見知らぬ人物の所に榧は通ってしまう。ミュスクルから榧に関する記憶をいくらか消したので、本当にどこにも親しい知り合いはいなくなってしまった。

 あの記事の収入は取材協力してくれたミュスクルにも入るようになっているので、少しは生活の足しになる。それを本人が望むかどうかはわからないが。

 綺欅、榧の妹にあたるあのQロットは結局どうしたかったのだろう。サンダルフォンを生み出すことを望み、最後にはそれと一体になってまで。

 ユニカム・ソルジャーである柊を超えたかったのか。それができず狂ってしまったのか。

 いずれにせよ、自分の無力故にそんな考えに至ったに違いない。

「ああ、そっか……」

 無力を嘆く理由はいろいろあるが、きっと彼女の場合は……。

「あなたを守ることができませんでした、か」

 イクスに向けて残した言葉は、結局救えなかったというような意味のメッセージ。後の調査で榧が知ることができた欅の意思は、その一つだけだった。

 Sロットの酷使が極まるエルドリッジ派の中にたった一人だけ残ることを選んだQロット。その理由は……きっと。

 月面都市の上層エリアは今日も平穏だったが、この都市の皮膚の下、旧市街には今日も血が流れている。濁流のようでいて、生命と意志に満ち溢れた血だ。

 それこそが、この町に炎のような熱を与えている。どこかにいるだろうミュスクルを思い浮かべ、榧は自分の掌を眺める。榧の身体は徐々に磨り減っている。薄れていく感覚を握りしめたが、あまり痛みを感じることができなかった。



□エピローグ



 規則正しい呼吸の音と、衣擦れの音が聞こえてきた。目を開くと低い天井がある。船の中だった。狭い船室のベッドに寝かされている。

 アリスの最後の記憶は、現実離れした美しさの綺欅に襲われて殺される、というものだ。幽子研究には詳しくないが、ここが死後の世界とは思えない。どうやら、自分はまだ生きているようだ。

「また汗臭いことして」

 ベッドの隣でひたすらしゃがんだり立ったりを繰り返して筋力トレーニングをしている人物がいる。彼女はアリスの言葉に気付いて振り向いた。

「体調は問題ないから心配する必要はないそうだ」

「普通、大丈夫か? とか聞かない?」

「数値でわかる」

 ユニカは相変わらずだった。少しやせて見えるが健康そうだ。

 欅に襲われたアリスは重症だった。同じく死に掛けていたらしいユニカは頑丈なので、アリスより先にさっさと医療槽を出て、衰えてしまった筋肉を戻そうとしている。再生治療したせいで少し髪が伸びていた。

 サンダルフォンの自爆に巻き込まれたユニカだったが、奇跡的にシールド用の羽の部品によって破片の多くをやりすごして生存していた。その羽のせいでアリスの解析でも発見できなかったが、自力で小型艇にたどり着いて、襲われているアリスを助けた。

「欅はどうなった……?」

「私が送っておいた」

 送った、という表現に、かつて欅と親しかったというユニカの感情が見えた気がした。それ以上を追求することは憚られる。

「それで、私はどうされるの? 護送中?」

「まあ、島流しだよな。エルドリッジは死んだんだろう。私らは今無職ってわけだ」

 二人は狭い船室にいる。窓の外は宇宙空間だ。この船はどこに向かっているのか。

 サンダルフォンの件で混乱したエルドリッジ派は、頭目だった卿が暗殺されたことで消滅するだろう。派閥など無い方がいいので、研究所は今後まともに変わっていくかもしれない。

 しかし、ユニカにしろアリスにしろ、卿の口車に乗って犯した罪が大きすぎる。別の派閥に合流しようという気にはなれない。そこで、ユニカは意外にも広い人脈を利用して、現在テラフォーミング中の黒曜星へと移住することにした。

 黒曜星では、この宇宙の外への探査も行っているらしい。「レムリア」のような複製世界が他にも存在するのか。脅威はあるのか。本来の宇宙とはどういうものかを観測するのに、地球よりも外側に位置するあの惑星は適している。ユニカは、そこにアリスの仕事を見つけていた。

「黒曜星って超遠いじゃない。何日かかるの?」

「さあ聞いてなかった。急いでたんでな。暇なら筋トレする?」

「それだけはしない」

 ユニカが生きていてくれてよかった。なら、もう一人の友人はどうだっただろうか。

 アリスは白い姿の友人の姿を思い浮かべていた。彼女はどうなるのだろうか。幸せになれるだろうか。研究所の活動から脱落した自分が心配することではないな、と考える。

 彼女は、エルドリッジ卿をいつかぶっとばす、と言っていた。その望みが果たされたことになる。しかし、きっと彼女が望んだ形ではなかっただろう。

 今になってアリスの瞳に熱いものがこみ上げ、窓の外に遠ざかっていく月の形を歪ませた。その瞳を、暖かく柔らかいユニカの指が覆ってくれる。

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