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【短編】春の終わりに咲く花へ 綺枢の話

※このエピソードは、Lemuria 1の少し前の時間のお話です


「目覚めた時のこと、覚えてる?」

 唐突に質問を投げかけられた。実直な性格の綺(いろい)枢(かなめ)は言われたままに過去へと思考を巡らせてしまう。だが思い出した記憶には特に語る部分もなく思えて、難しい表情を作るしかなかった。

 そんな枢の様子を見てくすくすと笑うのは質問の主、同僚のカレン・クォーツだ。職場に向かう廊下を歩きながら、急にそんな質問を投げかけてきた。そして、枢が答えるよりも前に笑いだしたのだ。

「そんなにおかしいですか?」

 不満に思って枢がそう返しても、カレンはしばらくは笑ったままだった。

「だって想像してしまったんですよ。あなたはきっと――」

 ようやく笑いが収まり、カレンは答えようとする。

 目覚めの時というのは産まれた時のことだ。普通の人間であれば、産まれた時の記憶などない。物心がつくのは三歳かそこららしい。しかし、枢もカレンも普通の人間ではない。

 一番古い記憶は十歳の時。それまでは、体を作る培養槽から出たこともなかった。ただし、それまでの間にN(ニューロ)デバイスを介して必要な言語能力、知識、知性をインストールされる。彼女らは産まれた時にはもう言葉を話したり、文字を読むことができたのである。

 枢とカレンは、ある目的のために生産される人造人間。そのうち、情報管理を担当するQタイプのロットの一人として生産された。だから、「目覚めた時」が何を意味するのかは共通の認識である。

「(あの時は……)」

 培養槽を出された時には周囲に研究員がいて、数時間後には仕事が待っていた。シャワーを浴びて服を着替えて数分後にはもう仕事着になっていて……。

「あはは……! 目に浮かんでます。きっと今とぜんぜん変わらず、無表情で仕事してたんでしょうね」

「大体その通りですけど。何がそんなにおかしいんだか……」

 枢はため息をつき、笑う同僚に呆れる。目覚めた頃から九年が経つ。肉体年齢にして一九歳にまで成長して、何か変わったかと言われると……はっきりとは答えられない。

「そうですよね。枢は優秀だもの」

 カレンはそう言ってフォローするもののまだにやにやした表情で、本気で言っているかは怪しかった。

 優秀かどうかわからないが、仕事で困ったことはない。事前教育がしっかりしていたせいか、新型の綺系の設計が優秀だったからか。同じQロットとはいえ、自分とクォーツ系の彼女では少し職域が違うことも感じている。

 職場や研修が一緒になることが多かったカレンとはこうして軽口をきけるが、他のクォーツ系Qロットと自分との間には距離を感じる事が多い。

「私のことは、あなたに任せます」

「……」

 同僚、だったはずだった。同じQロット、人造人間たちの統率を取る役目を持った特別な情報処理タイプである彼女とは。

 カレンはとても優秀なQロットで、数十人のSロットのコミュニティを任されていた。確か楪世(しじょう)系Sロットの大規模なグループを担当している。そこで問題を起こしたこともない。

 人造人間は大きく二種類に分けられる。管理用のQロットと、研究対象のSロット。Sロットは全く別の役目を持ったタイプで、Qロットとは線引きされている。

 Sロットは研究対象、もう少し直接的に言えば使い捨ての存在で、長く使用されるQロットよりも扱いはよくない。どちらも実験用の生き物であることに変わりはないものの、比較すればQロットのほうが人間らしい生活ができると言える。

 カレン・クォーツもそのはずだった。優秀なQロットの一人だった。しかしカレンは特異な体質、現実干渉能力に目覚めてしまった。その瞬間から、彼女はQタイプの資格を剥奪されることが決まった。

 それは本来ならSロットから収穫するべき成果だったが、QロットもSロットの遺伝子を改良されただけのタイプである。なので、稀に固有の能力に目覚める者がいる。

 現実干渉能力は第六感とでもいうべきもので、物理的でない何らかの方法で現実にアクセスし、感じたり操作することのできる性質である。異次元への干渉能力、現実干渉性、呼び方はいろいろあるが、実験体たちが常人とは違うことを証明する力だった。

 それはいにしえの超生命を研究することで、人類の末裔にも切り分けられる力とされている。この古世代研究所の目的はそれを収集することであり、QロットやSロットといった区分けよりも上位の目的である。現実干渉能力の回収は、ありとあらゆるルールに優先する事であった。



 ベッドから起きると、覚醒を感知した部屋のホームサーバーが窓のシェードを開き外の空間をさらけ出す。窓が存在する部屋はこの月面都市では希少で、枢の部屋はそんな装備を有するハイクラスのものであった。

 月面都市を一望できる政府庁舎の中に枢の私室は存在する。研究所から出入りしやすく、外の世界にも出かけられる。他の被験体と違い、飼い殺しというわけではない。

 Qロットは自由意志を持っており、研究には不可欠な存在だ。そのため、非人道的な実験を繰り返す研究所とはいえある程度の「ご機嫌伺い」をしなければならない。

 まじめな枢はそんな事をされなくても仕事には忠実だったが、それでも枢への厚遇は維持されていた。綺系Qロットにはそんな対価では安すぎるくらいだが、枢はその価値を理解しているわけではない。

 自分の価値観で他人を取り込もうとするのは古い役人らしい考え方だったが、それも枢にはよくわからず、興味も持てなかった。

「休暇だったっけ……」

 AR、拡張現実が窓の部分に情報を表示している。枢の週休はカレンダー通りに二日あり、一般市民とそう変わらなかった。窓の外に広がる月面都市でも多くの人が休日を過ごすだろう。

 休日にしたい事は特になく、緊急の要件があれば呼び出されることになる。これでは仕事をしているのとそう変わらない気もして、またカレンがにやにやする顔が浮かんでくる。

 それも何だか腹が立つので出かけてやろうと思った。確か生活用品の買い出しの用事があったはずだ。

「そうだ、今日はお買い物にしよう」

 立ち上がって気付く。結局用事をこなしているのは正しい休暇と呼べるのだろうか……?

 その日の町は少しだけ慌ただしかった。なんでも、物流事故が起きて各地で品不足になっているという。

 仕事の時はスリーピースの白いスーツを着用している枢は、オフの時もそのスーツの上着を脱いでネクタイを外しただけの格好で外に出ていた。他に服を持っていないわけではないが、一番落ち着くのがその格好だからだ。食事は庁舎内の食堂で済ませているが、それ以外の日用品は見識を広めるために外で探すことにしていた。

 そうでもしなければ外に出る口実もないから、というのは考えないようにしている。

「嘘ですよね……?」

 枢が最もよく出入りする薬局の棚はすっからかんだった。殺到した客が買い占めに走ったようだ。そういえば物流事故があったって……。まさかこの店も影響を受けていたなんて。

 愛用しているシャンプーとボディソープも手に入らなかった。このあたりではこのドラッグストアでしか手に入らない少し高級なもので、枢の髪や肌はそれしか受け付けないというのに。

 残りは数日分くらいしかなかったはずだ。いつもなら休日に買えば間に合う。これでは今週の勤務中に切れてしまうことになる。

 大勢のSロットの前に出るのに清潔感は重要だ。このままでは職務に支障をきたすことになる。緊急事態だった。

「ど、どうしよう」

 途方にくれる枢の肩を誰かが叩いた。

「はい?」

 振り返ると、銀髪の小柄な人が立っていた。独特なファッションをしていて、どこかで会ったような気もする。

「ちょーっといいですかね」

 小柄な人は、独特な喋り方で枢に向き合った。

「はあ……何でしょうか」

「私、新聞社の者なんですけど。ひょっとして、このお店に用事でした?」

「ええ、まあ」

 名刺を差し出されたので受け取ると、「グリント」という新聞社の名前と、偽名のような難読漢字の名前が書かれていた。

「ええ……生活用品を買いに来たんだけど、困ったことに」

「ここはいつもご利用になる?」

「そうですね」

「政府の方ですよね」

「え……!?」

 今日は休暇で、政府職員のバッヂもつけていない。それなのに、この記者は枢の身分を言い当てた。

 黒派のスパイか? と身構えたものの、記者は聞いてもいないのに推理を話しだした。

「そのうさんくさい白スーツ、政府職員っぽいんですよねぇ。それに休みの日なのに仕事と同じシャツとスーツでしょ、それ。このへんは多いんだよね。そういうカタブツみたいな人」

「……」

 全部図星であった。それを言い当てるとは相当に優秀な記者のようだ。

「政府の方なら教えてくださいよ。この一件ってやっぱり陰謀……」

「……急いでるので失礼します」

 休日のお出かけは失敗だった。この話は絶対にカレンに知られたくない。

 


 枢は生まれてすぐ、研究所の最も大きな勢力に迎い入れられた。新型の綺系Qロットは研究を進めるのに非常に重要で、研究所内の勢力による争奪戦があった。一世代目の綺系である枢も引く手数多だった。

 とはいっても、生まれたばかりの枢に選ぶ権利があったわけではない。枢の誕生に際してどこかで入札めいたことが行われ、目覚めた直後には仕事が待っていた。カレンに笑われた通りの人生を歩んできたわけだ。

 客観的に見れば枢の立場は恵まれているのだろう。待遇はいいらしかった。しかし、枢にはこれといった趣味や遊興はないので、私室の窓の外に見える月面都市にも魅力を感じない。必要なものがあれば買い物くらいには行き、政府の重役との会食くらいは行ったことがある。だが、自分の目的のために出かけようとは思わなかった。

 Sロットに対して、Qロットのタイプは多くない。試作型のエルヴェシウス系が少数、量産型のクォーツ系がほとんどを占める。そして、その上位に最新型の綺系が二ロット、一二体存在する。全て合わせても一〇〇人に満たない。対して、Sロットは畑のようなもので、末端まで数えて数千から数万いると言われている。

 それだけの人造人間がこの世に存在していることなど、この世界に生きる一般人は知らないだろう。Sロットは研究所を出ないか、人が寄り付かないような局地に送られてそこで生活をしている。

 一世代目の綺系Qロットである枢は、他のQロット十人分の働きができる情報管理型だった。綺系にはいくつかのタイプがあったが、枢は大勢のSロットの体調管理に特化したチューニングを施されていた。

 記憶管理型の柊・楓や汎用型の欅・桧と比べると多くのSロットを相手にする関係で、流れ作業的に見ていかなければならない。肉体的に繊細なSロットの大規模なNデバイスネットワークを読み取り、調整を行う役目だ。

「もういいですよ。次の人」

 多忙な内科医のように、次々と担当のSロットを呼び寄せる。胸元に広がるNデバイスにケーブルを装着、自分のネットワークと直結し、およそ一週間分の生体ログを一気に取得する。異常があれば修正したりレポートにまとめていく。

 眉一つ動かさずその作業を続けていく。数値を見れば、余命がそう長くない個体がいたり、極めて体調が悪い者がいることがわかる。しかし、それに触れるのは枢の役目ではない。処置が必要な者がいれば専門の医師にレポートを上げる。彼女たちのために枢がしてやれる最大限のことだ。

 一見すると何の感情もなくその作業を続けているように見えただろう。しかし、今の枢はかなり動揺していた。

「(どうしよう……明日にはシャンプー切れちゃうんだけど……)」

 政府庁舎内の売店や配給を利用すれば代わりのものを手に入れることはいつでも可能で、お風呂に入らずに人前に出る羽目にはならないだろう。しかし……枢はもう長いことあのシャンプーとボディソープ以外を使っていない。

 前に配給品を使った時は髪がギシギシになり、手もがさがさになってしまった。周りに聞いても、みんなはこんな風ではないらしい。綺系はみんなこうなのかと思えばそうでもないという。欅や桧といった面識のある姉妹は特にそういう苦労はしていないらしかった。

「なんで私だけが……」

 枢にはどういうわけか同世代の姉妹がおらず、他の綺系Qロットは少しずつバージョンが異なる。これは自分だけにある欠陥なのかもしれない。

 悩んでいても、長年続いた仕事は滞りなく進んでいった。ついに最後の担当者を見送り、帰る時間になった。

「なんだか元気ないですね」

 そこに現れたのはカレンだった。今はあまり会いたくない相手だったが、そういえば今日はその日だったことを思い出す。よりにもよって。

「うちに来る日……でしたね」

「うん、お世話になりますよ」

 カレンは現実干渉性を発現し、もうQロットとしての仕事を解任された。今日は枢の自宅に訪れ、記憶の受け渡しと引き継ぎを行うことになっている。

「本当に……?」

「何度も話したじゃないですか。私には……どうもそういう力があるみたいで」

 現実干渉性があるとわかってから、カレンのNデバイスは停止させられている。現実干渉能力は生身の脳で使うよりも、思考を大幅に拡張できるNデバイスを通じたほうが効力が増大する。危険なので、カレンの電子的処理能力は停止させられている。

 そうした封じ込めが可能なのは、同じQロットかつより高性能な綺系の枢だけである。だから、彼女の能力の記録と回収も枢が行う。彼女の記憶を読み取ることでいったん能力を枢のものとし、それを記録として保存する。

 記憶の受け渡しには少し時間が必要なので、Qロットはそれを自室で行うことが多かった。今日は、カレンが枢の部屋に来る予定の日であった。

 枢の足取りは重かった。部屋に帰る途中の道がいつもの倍ほどに感じられる。

 能力を回収した被験体は用済みになる。つまり、今日が終われば……。考えながら、部屋の前まできてしまった。

「枢。枢?」

「え? はい」

「鍵、開けてください。私今これなので」

 カレンは枢に両手をひらひらさせて見せた。Nデバイスが停止していて解錠できない、という意味だ。

「あ、ああ……そうでした」

 枢が先に踏み出すと自動的に部屋のドアは開き、私室への道を開いた。

「何にもない部屋ですねぇ」

 カレンは入るなりあちこちを眺め、失礼なことを言った。勝手に中に入り込んでいき、出かける前に折り目ただしくセットしておいたベッドにとすん、と腰掛けた。

 入浴し、食事を一緒に済ませたが、味はほとんどわからなかった。

「待ってても仕方ないし、はやくやりましょうか。同じQロットだから一回でデータを渡せると思いますよ」

「……はい」

 Sロットの場合は数日から一週間ほど記憶の受け渡しに時間がかかるが、お互いに処理能力が高いQロット同士の場合はそれよりは少し早く能力を移せるだろう。

「……」

 改めてベッドに座り、カレンはうなじを露出させた。そこに手を触れてお互いの体内デバイスを直結すれば、データの通信が開始される。

「……あの」

「うん?」

 枢は躊躇してしまった。記憶の回収は初めてではない。専門ではないが、何人かのSロットの記憶を追体験し、現実干渉能力の転写を行ったことはある。Qロットの重要な仕事のひとつだからだ。

「シャンプーが……切れているんですよ」

「……うん?」

「買ってきてくれませんか」

 自分でも何を言い出しているのかわからない。しかし、枢は次々と話しだした。

「違うんです。仕事で忙しいので買いに行けなかったんです。さっき無くなってしまったので明日の分がないんです。あれがないと私の髪……針金みたいになってしまうので」

 早口で話してしまっていた。混乱していたのかもしれない。全部本当のことではあったが、こんな話をする予定は少しもなかった。

「は……」

 話を聞きながら振り返ったカレンは新種の生命体を見るかのような目で枢を見た。

 そして一拍置いて、呼吸困難になるかと心配になるほどに大げさに笑い転げた。



 その日は楪世系Sロットのグループの視察だった。厳重に閉じられた扉の向こうで整然と暮らしているSロットの生活範囲に直接入って視察を行う。

 清潔感のある白一色の研究所内は枢にとっても慣れた空間であり、出入り自体には何か特別に感じることはない。ただ、ここはカレンが担当していたグループなのでその日は少し心構えが違う。

 このグループのSロットはほとんど枢の担当に入っているので、長く面倒を見てきている。枢は簡単な健康チェックの担当だが、大規模グループゆえに少し変わったSロットが多いことくらいは知っていた。

 少し余分なものが多い以外、大きく他と違うと思ったことはなかった。それでも、不思議と成果が多いグループなのだ。カレンの有能さゆえなのだろうと思っていたが、どうやらSロットの中にも管理に関わっている人物が数人いて、それによって情緒の開花が著しいとのことだった。

 情緒、つまり精神の動きと現実干渉性の芽生えには相関性があると言われている。その研究は、九年前と比べると大幅に進んでいた。このグループからのフィードバックも大きく関係していると聞いている。

 枢は少しの期間ながら固有のグループ付きの経験もあったが、カレンが担当していたグループほどの規模はまだ経験していない。扱うSロットの数だけならこのグループよりも多いが、仕事の内容は少し変わる。ここを引き継ぐとなると、今までとは違うアプローチが必要になるだろう。

 状態のみを検査していた従来の仕事に加え、もう少し広範なデータを収集する。それに加え、現実干渉性を発現しやすくなる条件を検証する事になる。忙しそうだった。

「しかし、熱心でいらっしゃいますね。記憶の継承を行えば仕事の引き継ぎも問題はないのでは」

 楪世系Sロットのうちの一人が、出張ってきた枢を応対した。このグループのSロットはほとんど診察したことがあるはずだが、同一系統の似た遺伝子を持つ個人個人の区別は少し難しく、固有名などはわからなかった。黒髪を短く切りそろえたそのSロットは驚くほど堂々と、理路整然と話すSロットだった。

 このグループは特別とは思っていたが、ここまで話せるとは思っていなかった。外の人間とほとんど変わらないのではないだろうか。

「そうとも限りません。他人の経験はあくまでも他人のものですし、全てを体験できるわけではないですから」

 カレンの収集を躊躇している……とは言い出せない。しかし、記憶収集後に全ての記憶が枢に残るわけではない。引き継ぎは引き継ぎで必要なのは事実である。

 カレンの件は、部屋にトラブルがあって継承作業を行えなかったと報告している。浴室に問題が起きてしまった……ということにしてある。

 枢の私室のことは、本気で調べれば問題がないことはわかってしまう。しかし、枢は非常に素行がいいQロットである。その一言ですぐに信用されたらしく、枢の部屋に探りを入れられた痕跡はなかった。

 とりあえずは胸をなでおろすことができたが、根本的な問題が解決できたわけではない。



 夕方に帰ると、黄金色の窓の前にカレンが立っていた。まだ自室に彼女がいるのが当たり前には思えない。

 月面都市には地球上のような日没はないが、その時間に合わせて照明が変更されている。偽りの夕暮れの中で見るカレンは知らない人物のように見える。思えば、白一色の研究所以外では目にしたことがない。

「買ってきましたよ、シャンプー」

 視察を終えて家に戻ってくると、カレンが部屋に戻ってきていた。

「三ブロックも先まで買いに行ったんですよ。全く、人使いの荒い……」

 文句を言うわりに、カレンはにこにこしながらシャンプーとボディソープのボトルを差し出してきた。枢が頼んだものに間違いなかった。このボトルをカートリッジのように浴室にセットすれば、シャワーの中に薬剤が注入されるようになる。

「本当にすみません。埋め合わせしますから」

「そう? じゃあ一緒に食事でも行きません?」

「いいですけど」

 そんなのでいいんですか? と尋ねる枢に、カレンは悪戯っぽい笑顔で頷いた。

 政府関係者との会食で使うような店を指定されるかと思いきや、カレンが望んだのは町のピザ屋だった。枢が出入りしたことのないような店である。

「どうせタブレットだけで食事を済ませることが多いでしょう」

「……その通りですけど」

 会食の経験もあるので舌は肥えていると信じたいが、忙しいという理由で食事は省きがちだ。そういう人間はここでは珍しくない。高度にネットワークが発展した月面都市には食事以外の娯楽も多く、食事を中心に考えるのはどちらかといえば地球育ちの人に多い。

「枢はどんな娯楽にでも興味がないでしょう」

「それを言われると否定できませんが……趣味くらいあります」

「趣味って何?」

「一五くらいの時はジグソーパズルを作っていました。勉強になるんですよ」

 枢がそう言った瞬間、カレンは体をくの字に折って笑い始めた。どこの世界に勉強目的でパズルを遊ぶ奴がいるんだ、と言いながら。

 その後も、カレンはピザをうまく食べることができない枢を見て満足そうにしていた。何がそんなに楽しいのかわからなかったが、それでお使いのお礼になるならいいか……と枢は自分を納得させた。

「ありがとう、枢」

 帰宅後、唐突にカレンは枢に礼を言う。意味がわからなかった。

「何がですか?」

「例のお使いにしろ、出かけてこいって事だったんじゃないんですか? 最後になるかもしれないですし」

 へらへらしながらカレンは言った。枢は「最後」という言葉に虚をつかれた。

「最後なんて……!」

 反論しようと思い声を荒げるが、それを否定しても嘘をつくことになる。枢は言葉に詰まった。

「どうしてあなたなんです」

 枢はつぶやく。思えば、枢にとって最も付き合いの長い人物の一人がカレンなのだ。研修や仕事で何度も一緒になった。枢はそこまで幼くはない。これほどの関係の相手でなければ、仕事として割り切ることはできたはずだ。

「それを知りたければ、ほら」

 言いながらカレンは自分の首をとんとん、と指で叩いた。QロットのNデバイスが施術されている位置だ。

 枢は何もできず、ただ黙ってカレンを見下ろすしかできない。

「しょうがないですね、きみは」

 カレンは寂しそうに微笑んで言った。

 結局、その日も記憶の受け渡しはできなかった。



 EE(アース・エクスプレス)社の物流遅延から二日経って各地の物資の不足は改善されつつあった。原因は小競り合いとのことで、すでに軍が処理済みだそうだ。

 月開発の黎明期にはこんなものじゃないほどあらゆるものが不足していたので、それを経験している月面都市の企業連合は活発に相互補完をしてみせた。

 そのおかげで影響は最小限に抑えられたが、研究所には少し厄介な問題が起きていた。食料品の不足であった。

 研究所の存在、大量のSロットの存在は極秘である。それ故に物資の供給も極めて慎重になる必要がある。

 物の流れを追えば、使途不明の物資や資金の流れを知ることができる。それを違和感のない程度におさえるため、外部組織である月開発財団や政府系の企業を利用して物資の調達を行っている。

 今回のような物流事故は最近ではほとんどなかったので、以前よりも肥大化したSロットの食い扶持に追いつかない可能性が出てくる。

 そのせいで、枢は変わった所から声をかけられた。開発財団のアイ・イスラフェル総帥からの呼び出しだった。

「何度か会いましたね、枢」

「ええ」

 細身の体に枢と同じような白いスーツを身にまとったアイ・イスラフェルは知的に見えた。同じ組織の人間、という匂いがする。研究所内よりは外の会食で見かけた回数のほうが多いが、彼女も研究所のSロット出身だった。

 Sロットの運命は実験ののち破棄、と決まっているようでそうでもないんだな、と思った覚えがある。彼女はかなり前の世代なので特別かもしれないが。

 聞いてみたい気もする。どうやって今の地位に落ち着くことができたのか。しかし今は仕事のために来ている。尋ねるにしても、依頼を受けた後がいいだろう。

「私を呼んだのは例の物資調達の件ですか」

「話が早いわね。そう、その件」

 研究所を擁する政府集合体と月面の企業連合との関係はよくないが、その中間にいる月開発財団は両方に顔がきく。大規模に食料を調達できるとすればここのパイプをおいて他にない。

「あなたの情報処理能力を頼りに、月面にある食糧生産施設から少しずつ余剰分を集積してほしいの」

 アイの計画はこうだ。まず、月面のあらゆる場所にある食糧生産施設のうち、月開発財団に協力的な企業のものを選んで管理権を譲渡してもらう。軽微とはいえ物流の混乱はまだ残っているので、物資の相互補完のお手伝いでスタッフを供与するという名目である。

 企業の数は小さいものも含めると数百になり、中には食糧生産と関係ない会社もある。それでも、カモフラージュのために協力する。その中で極秘裏に生産システムをハッキングし、気づかない程度に生産物を横流しできるようにする。

 財団はそれほど大きな組織ではない。こんな大規模な処理を行うにはQロット、それも情報処理型の枢くらいしか考えられなかった。

「わかりました。ですが、さすがにこの量を私だけでは……」

「残念ながら、あなたの他に調達できそうなスタッフはあまりいないのよ」

「……それなら、私に心当たりがあります」

 枢には一つのアイデアが浮かんでいた。こういう仕事にうってつけの人物といえば彼女しかいない。

「暇をしているQロットならいいんですね?」



 後悔していた。カレンのことばかり考えていて、仕事がどれほど大変かを計算しそこねていた。

 二人でやる仕事ではなかった。脳がちぎれるかと思うほど計算能力を酷使し、優秀なQロット二人は抜け殻のようにベッドに横たわった。

 仕事に必要だからという理由でカレンの計算凍結解除の許可をもらった。おかげで、二人はひさびさに腕利きのQロットのコンビとして復活できた。

 まる一日を費やし、作業を始めた日の翌朝に眠りについた。事情が事情だけにその日は夜勤明けの休暇となり、たっぷり九時間の睡眠から目が覚めた。

「昨日……いや、もう一昨日でしたか」

「はい」

「人使いが荒い、って冗談で言ったじゃないですか」

「言いましたね」

「……本当に人使いが荒い」

 あの時はわざと外に出かけさせてくれたと思ったけれど、単に人使いが荒いだけだった。そんなふうにつぶやき、カレンはのそのそと起き上がった。

 そして、ベッドに座り込む枢に背中合わせになるように座り込んだ。

「最後にこんな仕事をさせるなんて鬼。冷血」

「ごめんなさい……」

 見積もりを誤ってしまった。いくら高性能なQロットが二人いても、月面都市全体の物流の補助を一手に担うのは無理がある。だが、おかげで目的としていた物資の確保には成功した。

「そのことですけど……最後とは限らないと思うんです」

 枢は考えていた話をカレンに切り出した。

 月面の政治事情の変化によっては、今回のような事態は予想される。カレンは今は現実干渉性持ちとはいえQロットだ。Sロットに比べれば外に出た経験が多くて社会性があり、このような仕事にも向いている。

「収集が終わったら……アイ・イスラフェルに依頼して就職口を探すっていうのはどうです」

 私も口添えをする、と付け加えた。背中に触れる温もりがもぞり、と少しだけ動く。背中合わせで表情はわからないが、カレンは軽口も言わずにそれを聞いていた。

「あはは……あなたらしいね」

「考えてくれますか」

「わかりました。そこまで言うなら考えましょうか」

 言いながら、カレンはこつん、と後頭部を枢に預けてきた。

「カレン?」

「このままで……お願いします」

 カレンの言う意味はすぐわかった。枢とカレンは同じQロットで、首の後ろ、頚椎に近い位置にNデバイスがある。こうして背中合わせのまま接触させれば直接回線を開くことができる。




 何の記憶だろう。枢にも見覚えのある通路を歩いていた。そう、ここは研究所の中だ。少し風景が違って見えるのは、カレンのほうが枢より少し背丈が小さいせいだ。

 こんなふうに見えていたのか、という新鮮な感動がある。何人かのSロットの追憶を経験したことはあるが、その時の記憶はほとんど残っていない。記憶管理型でない枢はひとつの記憶をきれいさっぱり忘れるのは難しいものの、放っておけば忘れてしまう程度には過去の記憶同調については希薄になっていた。

「カレン先生、見てください」

「これは?」

 青が美しい紫陽花の花だった。造花のようだが、よく見ると普通とは少し様子が違う。

「折り紙です。この前あなたに教えてもらったのをもっと練習してみたの」

 楪世系のSロットの一人が、カレンに何かを見せていた。折り紙……正方形の紙を折っていろいろな形を作るものだ。

「これは遊びですけれど、他にも様々な教養を身に着けています。将来のために」

 どこか誇らしげに楪世系Sロットは話す。これが、カレンが担当していたグループでの光景だということはすぐわかった。このSロットは枢にも見覚えがあるからだ。

「そうなんですか」

 カレンは淡々と言葉を返す。枢には微笑ましい話に思えたが、記憶から伝わってくるのは胸が苦しい感覚であった。

 今すぐにこのSロットの手を取り、外に連れ出したい。そんな感情がカレンに渦巻いている。受け取った折り紙を持つ手が震えるのをこらえている。

 どうして? なぜそんな感情になるのだろう。カレンは、枢の前でこんな感情を見せたことはない。

 手に持った折り紙の質量が手に伝わる感覚。折り紙の質量はやがて増していく。

 紫陽花の花をかたどったそれは、当然ながら紙でできている。見事に立体化されてはいるが、中身は空洞だ。しかし、その中身に何かが満たされていく。

 何もなかった空間に物質が発生し、より確かな存在になる。花弁の材質も変わり、石や樹脂のような物体へと変貌していく。

 それはカレンの手からこぼれ落ち、床に衝突して粉々に砕ける。

「教養を身に着けていると言いましたか」

 去っていくSロットの背に向け、カレンは言葉をかけた。

「ええ」

「では……紫陽花の花言葉はご存知?」

「え?」

 Sロットはよく意味がわからないというようにカレンの顔を見ていた。

 伝わらない。そんな口惜しさが心いっぱいに広がっていく。そして、その意味と理由を知る前に、枢とカレンの間にある通信は強引に遮断されてしまった。



「だめ……これ以上は!」

 カレンの悲痛な声が聞こえた。同時に首の後ろに感じた痛みに枢は驚く。座って通信に集中していた姿勢から反射的に立ち上がり、首の後ろに触れる。そこには、石か樹脂のようなざらざらした何かが付着していた。

「これ以上は、知らないで……」

 なにもない空間から突然現れたその物体が二人の間にあった通信経路を遮断した。怪我はしていなかったが、そのショックを痛みと誤認したようだ。

「カレン……?」

 目の当たりにして枢は驚く。これがカレンの現実干渉性、物質生成能力だ。カレンは枢から距離をとっていた。

 本当に、彼女はSロットのごとく超常の能力を身につけていたのだ。

「どうしたんです? まだ終わってないですよ……」

 気付けば、昨日と同じ夕暮れの時間帯になっていた。夕陽を模した光を背にしたカレンの表情がかすかに見える。

 その表情は今まで見たことのないもので……でも、さっきまでの記憶の中の感情とぴったりと重なるものに思えた。

「あそこで何があったんです?」

 断片的な記憶ではほとんどわからない。しかし、カレンが仕事で悩んでいたらしいことははっきりわかった。

 それを聞かなければならないと枢は思った。なぜ?

 その仕事は自分がこれから引き継ぐから? 業務を改善することはQロットの役目だから?

「全部見せてください、私に。受け止めますから」

 そんな理由じゃない。知りたいのは、ここにいる友人が心配だからだ。

「デリカシーのない……そんなだから朴念仁と言われるんですよ」

「冗談を言っている場合じゃないでしょう、さあ」

 窓際に立つカレンに一歩踏み出すが、カレンは拒絶するように枢から距離を取った。

「何があったか……そうですね。言葉では説明しにくい事です」

 カレンはその距離を維持したまま話す。

「どうしてあなたなんです、と……前に聞きましたよね」

「ええ」

 どうしてあなたなのかという質問は、最初に枢が躊躇した時に口をついて出たつぶやきだった。なぜ知人に起きたのかという程度で深い意味はなかったが、確かあの時、カレンはこう答えた。

『それを知りたければ、ほら』

 そう言って、自分の首をとんとんと指で叩いてみせた。QロットのNデバイスのある位置である首、つまり、記憶の同調をすれば理解ができるのだと。

 あの時は深く考えなかった。しかし、カレンであったことに理由はあったのだ。なぜカレンなのか。なぜカレンに現実干渉性が芽生えたのか。

「感情の開花や激情が現実干渉性を得る引き金になるというなら、私はその条件を満たしていたからですよ」

 仕事を通じ、日常では感じることのない極めて強い情動を持っていたカレン。そんな日々に耐えて過ごしていれば、いつかそういう事も起きる。それは、一瞬の記憶同調をしただけの枢にも体感として理解できてしまった。

「そんなに……あのグループの中での仕事は苦痛だったんですか?」

 カレンとはよく会っていたが、そんなそぶりは少しも見せなかった。気づかなかっただけなのかもしれないが、こんなに悩んでいたなんて思いもしなかった。

「枢だったら……あの環境でもやっていけるんじゃないかと思ってたんですよ。初日にすぐ私を摘んでくれたなら……そう信じられたのに」

 カレンは震える声で言った。

「そんな簡単にできるわけがないじゃないですか……あなたは私の」

 確かにあの時、枢はカレンを摘み取ることを躊躇してしまった。でもそれは当然だ。

「……私、あなたを誤解していたんですねぇ」

 カレンは先程よりは落ち着いた口調に戻っていた。それに枢は少し安堵する。

「もっと冷淡で仕事に厳しくて、必要な決断に躊躇しない人だと。仕事ぶりを見て思っていたんです。私もこんな風にあれたらと」

「そんな事は……」

 枢は自分を平凡な存在だと思っている。特別な所はない。周囲が過大評価しているだけで、巨大な組織の中のありふれた一人でしかない。

「あはは、そうですね……やっぱり、あなたにこれを知ってもらいたいというのは私のエゴだったのでしょう。あなたもきっと、私と同じ。当たり前に感情のある、普通の人だったのだから」

 カレンはいつものように枢に微笑みかけた。しかし、その声は震えていて……普段の彼女とは似ても似つかなかった。

「これ以上、好きな人を苦しめたくはないね」

 毅然とした表情になったと思った瞬間、カレンの背後にある強化ガラスの窓に放射状のヒビが入った。現実干渉性のなせる事だろう。今のカレンはNデバイスの計算凍結を解除されている。能力行使の補助に必要な計算領域は十分なはずだった。

 生み出した物質を割り込ませれば、簡単に窓を脆くできる。物質生成の応用だった。大きな衝撃にも耐えるはずの窓は、そこに飛び込んだカレンの体の前に粉々に砕けた。

「……!」

 次に見えたのは、目を見開いて驚いたカレンの表情だった。とっさに駆け寄った枢は、後少しというところでカレンの腕をしっかりと捕まえていた。

 カレンの体重は軽かったが、片手で支えるのはただの事務職員の枢には厳しかった。だから、もう片方の手も差し伸べて引き上げようとした。

 だが、そんな枢の姿を見てカレンは呆然とするばかりだった。

「ざんこくだね、あなたは」

 そう一言だけつぶやき、カレンは目を閉じた。同時に、枢の手首に激痛が奔った。

 とてもきれいな透明な結晶が枢の手の甲から発生していた。痛みはあるが、出血はしていない。手の神経すべてが痺れ、それ以上握力を維持できなかった。

 さっきまで目の前にいたカレンの姿が遠く離れていくのが、透明の物体の向こうに屈折して写っていた。

 どうして最後だけそんなに透明なんだろう。その瞬間に少しだけ感じた気がする。石のようにざらついたものではなく、水晶のように透明な……カレンの心の中を。

 しかし、落ちていく彼女がどんな表情をしていたのかはわからない。屈折し歪んだ風景の中では読み取ることができなかった。





 薬局にはいつも通りに商品が並び、人々が変わりなく闊歩していた。政府庁舎からの飛び降りはニュースにもなることがなく、この町の日常は続いている。事故があったらしいと少し噂になった程度である。

 枢もまた、前と変わりなく政府庁舎に出入りしている。窓が割れた私室は引き払ってしまったが、それ以外で生活に変化はなかった。

 今日は、あの変な新聞記者は見かけない。今なら陰謀について話してもいい気分だったのに。でも、本当に会えたとしてもそれを話すことはないのだろうと枢は思った。きっと、自分はそういう冷淡な人間だから。

 例の一件に関して、枢への処分は何もなかった。

 同じQロット同士なのが理由か、それともカレンの抵抗にあったせいか。不慮の事故でうまくいかなかったのだろうとの分析で枢は許され、予定通りカレンが担当していた楪世系のグループを受け継ぐことに決まった。全ては、一度も研究所に逆らったことのない枢がミスを犯したのは考えにくい、との判断からだった。

 結局の所、枢は組織の人間でいるしかない。友人に差し伸べた手は痛みとともに拒絶された。付け焼き刃の優しさは諸刃になって、自らを傷つける。

 枢はカレンが伝えたかったことの半分も理解できていないまま、受け継いだグループに深く関わっていくことになる。今日も、過ごし慣れた白い研究所へと通っていく。

「枢先生、これからどうかよろしくお願いします」

 何人かの楪世系のSロットが親しげに挨拶を投げかけてきた。枢はそれに応じつつ、自分のオフィスに向かっていく。

「先生というのはどうも落ち着かないのですが……」

「そうでしょうか。カレン先生は親しくしてくださいましたが」

 カレンの名前を聞くとまだ気持ちがざわつく。あれから数ヶ月経っているが、もう少し違う行動をとっていれば……と、今でもよく考えてしまう。

 Sロットたちには、カレンは転属になったとしか教えられていない。実験環境への影響を考慮した結果の措置だった。

「ほら、見てください。これもカレン先生が教えてくれたんですよ」

 言って、Sロットの一人が手のひらにあるものを見せた。

 それは、紙でできた鶴だった。カレンが前に作っていた折り紙というものだ。

 言いようのない拒絶感が枢の中に湧き上がった。一瞬だけカレンの記憶を読み取った時のあの感覚が蘇った。笑顔を浮かべるSロットたちの姿がひどくむごたらしく、グロテスクなものに思えた。

「先生もどう……」

「やめてください……!」

 枢は、思わずそのSロットの手を払ってしまっていた。困惑するSロットたち。いたたまれなくなり、枢は足早に自分のオフィスに向かう。

 これでいい。Qロットに求められるのは完全さだ。きっと、カレンもそれを言いたかったに違いない。

 不甲斐ない自分を責めていたのかもしれない。それが、最後のあの行動の意味だったのではないか?

 彼女が自分に期待していたのは、もっと完璧で揺るがない人物像だったのだ。

 なら、自分にできるのはカレンの望んだ人物になる努力をすることだけだ。あの人が望んだ自分になることでしか、償うことはできないのだから。

 押し黙ってしまったSロットたちは、寂しげに毅然と去っていく枢の背中をただ見ている事しかできなかった。


(おわり)

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