第3話

 それを見つけたのは、本当に偶然だった。


 僕には金がない。だから、基本的に休みなんてものはない。けれどもその日は、店側の都合で急遽休みを取ることになった。かといっても、別にやることがある訳でもない。部屋の掃除は毎日こまめにやれているし、どこかで遊ぼうにも金が掛かる。


 いったいこの一日を何に使おう。悩みに悩んだすえ、僕は買い物で使う自転車に乗り、外へ出た。


 目的地はない。目的もない。あえて言うなら、気ままにブラブラと走るのが目的だ。言い方を変えれば、暇を潰すのが目的である。


 そうやって、何も考えないまま走り回って。僕の額に汗が流れ初め、心地の良い疲労感が全身を包み込んだ頃。そろそろどこかで休憩しようかと思い立った僕の視界に、まるでそれが運命であったかのように、そのお店が映った。事実、きっとそれは、運命だったのだろう。


 見かけは、ただのボロ屋敷だった。植物の蔦に覆われたその建物は、生きる気力を無くしたかのように佇んでいる。外壁は所々剥がれ落ち、窓は掃除が行き届いていないのか汚ならしい。


 僕がそれを、店であると認識できたのは偏に看板があったからにすぎない。ちょうど、一息つこうと思い立ったのも要因の一つだろうか。僕は何気なくその建物を目にし、自然とその看板を確認した。


『羊飼いの宿』


 それがこの店の名前なのだと、理解した。しかしこれは、一体なんの店なのだろう。僕は思考を巡らせる。宿というからには、宿泊施設なのか。それとも老人ホームのような施設なのか。もしかしたら、飲食店なのかもしれない。………いずれにしても、誰も立ち入ろうとは思わないだろう。


 自転車を停めて、その店に近づく。ちょっとした好奇心だった。


 店の入り口と見られる扉。近づいてみると、小さなチョークボードが伸びきった雑草に隠れるように存在していることに気づく。僕は雑草をかき分けて、そこに書かれている文字を読んだ。


『メニュー………コーヒー』


 それ以外の文字は、探しても探しても見つけられない。掠れて消えたような跡もない。最初からこのボードには、これしか書かれていなかったのだろう。


 僕は流れるように、ズボンにしまっていた財布の中身を確認した。昨日が給料日だったということもあり、そこはいつもより潤っていた。


 だから気が大きくなったのだろう。いってみようか。という思考に至った。僕は大抵、こういった判断で無駄遣いを行っている。だからお金に困るのだ。


 ―――――コーヒーなんて飲めもしないのに。


 だがこの時僕の中では、このボロボロな店の内装がいったいどれ程酷いものなのかどうか。それを突き止めることが、非常に大切で価値のあるものであるように感じたのである。


 店の扉に手を掛ける。財布は既に、背負っていた鞄に仕舞ってある。もしも高額なコーヒーであったなら、財布を忘れたといって逃げれるようにだ。そんなことをするぐらいなら入らなければいいという話だが、その時僕の中にその選択肢は存在していなかった。


 カランという鐘の鳴る音と共に、僕は店の中に足を踏み入れた。その瞬間に、僕は当初考えていた、内装を確認するという目的を頭から捨て去ることになる。


 人がいた。店員だろうか。とても…………そう、とても、美しい、人だった。美しく、清楚で、可憐な、女性だった。


 その人は僕が入ってきたのに気づくと、何やら手元で行っていた作業を止めて、ゆっくりと僕の姿を、透き通った瞳の中に捕らえた。体がグラリと揺さぶられるような感覚を覚える。何かが、僕の中で生まれている。それを、強く感じた。


 そして。


「……いらっしゃい」

「―――――――……す、すみません」


 ……潰れたガマガエルよりも、不気味で歪で気色の悪い笑みを女性が浮かべたことで、生れ始めた何かが一気に崩れ去るのを感じた。

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