第4話

 さて、目の前の美女はどこへ行ったのだろう。いや、視界に映る笑顔の気持ちが悪い女性がその人だったのは理解しているのだが。想定外すぎて頭がついていかない。なぜか知らないが、謝ってしまった僕は悪くないだろう。


「……お好きな席へどうぞ」

「は、はい」


 笑顔を止めて元の美女に戻った店員は、僕に座るように促す。その変貌ぶりに驚いていた僕は、従うように近くの席に座った。正直もう帰りたくなった僕だが、それでも何故か彼女の言葉に逆らえなかった。


「ご注文は?」


 女性はそう僕に問う。ご注文もクソも、出せるものはコーヒーしかないのでは。それとも実は別のメニューもあるのか。気にはなったが、それを彼女に聞く勇気は僕になかった。


「えっと、コーヒー? を、お願いします」

「かしこまりました」


 僕の注文を受け取った彼女は、何故かそこから動かずに僕をジッと見つめる。背筋がゾッとするような、寒気を感じた。心の奥底まで見つめられているような、恐ろしい感覚。


「お客様、名前は?」

「はい? え、帯です。日島、帯」


 不意に聞かれた質問に、僕は素直に答えてしまう。ひしまおび。それが僕の名前。23年間付き合ってきた僕の名前だ。


「オビ、か」


 彼女は僕の名前を繰り返すと、再び気色の悪い悪魔のような笑みを浮かべた。僕はその笑みを見て、心臓を掴まれたような錯覚を得る。僕はもしかしたら、とんでもないことを教えてしまったのかもしれない。それほどの恐怖が、僕の体を包みこんだ。


「帯くん。君は、人生を楽しんでいるかな?」

「じ、じんせい……ですか?」


 彼女はまた、唐突な質問を僕にぶつける。彼女がいったい何を求めているのか、僕にはまったく分からなかった。


 それでも僕は、導かれるようにその質問への答えを模索する。まるで、奴隷にでもなったかのように。僕は彼女の言葉に服従していた。


「た、たのしくは、ない、かも?」


 ああ、そうだ。僕は人生を楽しんでいない。ただただバイトを繰り返し、少ない給料で毎日を生きるのに必死だ。働き始めた当初は、全てが新鮮で楽しかった。そして何より、僕には夢があった。その夢が、僕の全ての原動力だった。


 夢が消えさった今、僕は何をしていいのか分からなくなってしまった。


「そうか」


 彼女は僕の答えを聞くと、興味を無くしたのかクルリと身を返し、店内にあるカウンターの奥に向かっていった。真面目に答えた自分が馬鹿みたいだ。


 しばらく席に座っていると、激しい機械音と何かが砕かれるような音がした。あまりにも唐突な音に、僕はビクリと体を震わせる。すると鼻腔に、フワリと芳ばしい香りが届く。体に溜まった疲労が消え去るような、優しくも荘厳な香りだ。


 グラリと、視界が歪む。何かが、見えた気がした。


 何か、とても……とても懐かしい光景。しかしながら、僕の見たことのない―――いや、見たことのないはずの、光景。


「どうぞ?」


 ハッと気づく。僕の目の前に、可愛らしい山羊のイラストが描かれたマグカップが置かれている。カップの中には、常闇を煮詰めたような黒い液体が存在している。そこからは、銀糸のよりも美しい湯気が立ち上っていた。


「オビ。君に魔法を掛けてやろう」


 彼女のその言葉には妙な懐かしさと共に、耐え難い魅力を感じた。僕は震える手でそれを手に取り、口へと運んだ。


 僕は知らなった。その一杯のコーヒーが、僕と異世界を、繋げることになるなんて。


 『雌山羊の魔女』


 彼女はそう、自分を称した。

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