第2話
誰かが言った。お金じゃないよ。そうやって、僕の心をかき乱した。
泥水を啜った。僕には十分過ぎるほど、高級で。そして僕には不相応ほど、それは甘美で美味な泥水だった。
僕は砂に塗れた公園のベンチの上で、唯々その泥水を喉に流し込む作業を、永遠と続けていた。この苦行を乗り越えたら悟りが開けるに違いない。そしたらきっと、腹も空かなくなるだろう。いいこと尽くめ。僕は幸せ者だ。
別に何もすることがない訳ではなかった。これから僕は仕事だ。太陽が昇り切って、さあ沈むぞと言い出す頃から、月が姿を晦ます頃まで、ただ商品を売り続ける高尚な仕事だ。僕はその仕事を最高に調子良くこなすための、準備を行っているのだ。
僕はフリーターだ。ああ、そうだ、フリーターだ。これから僕は、どこにでもある飲食店にバイトにいく。
大学には行かなかった。行けなかったという言葉を、僕は決して使わない。僕は大学に行かなかった。そして、就職をしなかった。僕は、この選択が一番良いものだったから、選んだのだ。
「――――おぇ」
僕は泥水を吐き出した。多すぎる砂糖、腐ったかのようなミルク、脳を犯すかのような暗い苦味。何よりも、胃液で口を濯いだかのように舌を突き刺す酸味。どれをとっても最悪だった。
我慢して飲んでいたのは、コレが嗜好品だからだ。つまりは日々の生活を何とか生きている僕にとっての贅沢品だ。たとてそれが、試供品として配られていた缶コーヒーだとしても。
だから、飲んだ。
……正直、一口目から辛くて苦しくてしかたがなかった。二口目を口にする頃には、意識が飛ぶかと思った。それでも、僕はソレを空になるまで飲み干すつもりだった。
後悔している。最初から、隣にあるゴミ箱へ投げ捨てれば良かったのだ。僕は、生れてこのかたコーヒーというものを、美味いと感じたことがないのだから。
僕の両親は毎朝必ずインスタントコーヒーを飲んでいる。幼少の頃から、僕はそれがどれほど素晴らしい飲み物なのか、想像するのが楽しかった。
オレンジジュースのように、瑞々しい? コーラのように刺激的? それともお茶のように優しい味わいなのか、はたまた意外とスープのような複雑な飲み物なのか。
その遊びが終わるのは、実際にそれを飲んでみた時だった。両親の正気を疑った僕は、間違っていないはずだ。その瞬間から僕は、ソレの味を思い出してしまう朝食の時間が憂鬱になった。
それから今日に至るまで、僕は何度かコーヒーに挑戦した。そしてこの缶コーヒーが、通算十回目の挑戦だった。結果に関しては、今の僕の姿を見て察してほしい。
「―――――はぁ」
公園の時計が、時間を知らせる音を奏でた。僕は中身の残った缶コーヒーを、思いっきりゴミ箱に投げ捨てた。ああ、まったく、勿体ない。
僕の財布の中身では、あんなモノすら買えやしないのに。
「さぁ! 今日もバイト、がんばるか!」
幸いなことに、僕は空腹を忘れることに成功していた。
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