雌山羊の魔法

うぐいす

序章

第1話

 それは黒かった。悍ましいほどに、黒かった。


 僕の手の震えに呼応するように、それは揺れる。写る僕の顔が歪に歪んで、どこかで見たことのあるような、気味の悪い笑顔になった。ハッとして空いている左手を口元に添えると、口角が上がっている。水面の揺らぎではなく、僕自身が笑っているみたいだ。


 黒い水面は、僕の笑顔を写し続ける。僕はそんな僕の姿を無視して、ジッとその黒い液体を見続けた。


 飲まないのか。そう問われる。でも僕は答えない。悍ましいほどに黒い水面から、溢れるように現れる真っ白な湯気。神々しいまでに白いその湯気が届ける、芳しい香り。ハーブのように清々しく、美しい香り。その魅力に、囚われていた。


 なんだこれは。僕の頭は、そんな疑問でいっぱいになっていた。目の前のこれは何なのか。この香りは何なのか。僕は訳も分からず、香りが導く幸福感に浸っていた。


 気づけば引き寄せられるように、口元を得体の知れないそれで満たされた、小さなカップに近づける。彼女に似つかわしくない愛らしい雌山羊の描かれたカップ。そこに浸された液体の熱は、描かれた雌山羊を犯すようにカップに伝染し、次いで触れた唇に警告を届けた。


 けれども僕は、警告を無視する。その熱い液体を、早く口の中に広げたかった。その味を早く確かめたかった。例え舌が焼けようとも、構わないと思った。こんなことは、初めてだった。まるで何年も会えなかった恋人を待ちわびるかのような、そんな甘美な感情を覚えていた。


 そしてついに、僕はそれを口にする。


 まるで、大地だった。尊大で、雄大な、大地。僕はそこを、歩いていた。朝露で濡れた雑草を踏み、風が運ぶ草木の清涼な香りを感じながら、僕は誰かを追うように歩いていた。長い長い大地を、歩いていた。


 誰かの姿は真っ黒だった。朝日を浴びた誰かは、後ろにいる僕にその影を写すのみ。けれども僕は、そんな何者かも分からない誰かの背中に安堵し、静かな平穏を感じていた。


 どうだ。と問われ、僕はハッと気づく。僕の目が写しているのは誰かの背中ではなくて綺麗な彼女だったし、大地ではなくて整えられた限りある部屋の様子だった。


 暫くして、ようやく僕は質問をされているのだと理解する。感想を求められているのだと。


 始まりに感じたのは苦味であり、深いコクだった。それが永遠と続く、偉大な大地を幻視させ、次いで感じた瑞々しい酸味が、朝日の優しい日差しを。そして最後に、口にすることで鼻腔の奥深くに強く感じた爽やかな香りが、全身を包み込む風を感じさせた。


 苦味だけでは、クドく感じたことだろう。けれども柔らかな酸味があることで後味に晴れやかな印象が残る。そしてその印象が涼しい香りと混ざり合うことで、僕にまるでこの飲み物が聖水のように荘厳な物ではないかと、思わせることに成功していた。


 そう感じたこと全てを、彼女に伝えればそれでいいのだろうか。ただそれはこの飲み物の良さ、その一部をどこかに投げ捨ててしまいそうで躊躇われた。だから僕は、彼女に問いかける。


 これはいったい、何なのか。


 彼女はただ一言、こう言った。


「私は魔女。雌山羊の魔女さ」

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