第8話

 テーブルの上には、ご馳走が並んでいた。少なくとも、僕にとっては。


 コーヒー好きな両親は、白米とみそ汁という日本的な朝食ではなく、パンを主食とした洋風の朝食を好んだ。毎日同じという訳ではないが、母は食卓に近所のパン屋で購入した食パンと、スクランブルエッグ。そして焼いたソーセージを並べることが多かった。


 ただ今日のメニューはその定番の品からは外れていて、麦の芳ばしい香りが漂うフランスパンと、野菜が多いコンソメスープだった。


「さぁ、早く食べな。冷めないうちにね」


 母は既に食事を済ましたのか、茶色の地味なカップに入っている黒い液体を啜っていた。見ると、机に置いてある空の皿は二組。父はどうしているのかと室内を見渡すと、食卓から離れた位置にあるソファーに座って新聞を眺めていた。


 なんてことはない。僕が見てきた朝の風景だ。でもだからこそ困惑する。いったい何が起こっている?


「えと、おはよう」


 人間というのは不思議なもので、例え頭が混乱していたとしても習慣通りの行動を行うらしい。ああ、不思議だ。突然過去に戻ったとしても、それが変わらないなんて。


「今日から帯も高校生かー。早いなー」


 父が間延びした声でそう呟く。自分でも驚くほどに、僕はその声に和まされた。


「もう、帯も大人だな」


 そう言い終わると、父は母とお揃いのマグカップに注がれたインスタントコーヒーを啜る。父はうまそうに息を吐き、カップを机に置く小さな音が耳に入った。


「帯。突っ立ってないで早く座りなさい」

「あ、うん。頂きます」


 母から催促された僕は、慌てて椅子に座る。両親に聞きたいことが山ほどあったが、あまりにも懐かしい会話に言葉を飲み込んでしまった。


 それに、僕は目の前の食事を早く胃袋に納めたくて仕方がなかった。


 パンを手に取る。少し冷めてしまっていたが、まだ暖かい。表面に焦げ目が付いており、完璧に焼き上がっている。


 僕はそのパンを、贅沢にスープに浸した。野菜とベーコンの旨味が詰まったスープが、みるみるパンに染みていく。こぼれないようにそれを口にすると、僕は泣きたくなった。


「美味しいよ、母さん」

「・・・何よ突然。普段そんなこと言わないくせに。あんた何かしたの?」


 どうやら母は僕がご機嫌取りをしていると思ったらしい。ちょっと悲しいが、仕方がなかった。これが現実なら、僕は高校生になる頃の僕なのだ。この料理の美味しさなんて、知らない僕なんだ。


「なんでもない。ただ美味しかったからさ」

「そうですか。お粗末さま」


 母はそれだけ言うと、疑わしそうな顔のまま、カップを手にとって父のいるソファーに向かった。


「本当に大人になったんだねー。何かあったのかい?」


 新聞を見ていた父がこちらに首を向ける。嬉しそうな顔をしていた。とても、幸せそうな顔だった。


「・・・・・・魔法を、掛けられたかな」

「魔法!? ははは、それはいい。大人になる魔法か、父さんも帯くらいの頃に掛けてもらいたかったなー」

「お父さん、そういうのを言ってる内はまだ子供だよ!」

「えー。いいじゃないか」


 両親はコーヒーカップを片手に、そのまま会話を続ける。こうなると、僕が入る余地はない。僕は目の前の食事に集中することにした。


 あまり祝い事に頓着しない母が、今日という日に少しだけ高価な食材を使って作ってくれた食事を。僕は、ゆっくりと味わう。


 僕はフリーターだった帯なのか。それとも魔女に命を助けられたオビなのか。ここにいる帯なのか。僕は自分という存在があやふやになっていくのを感じていた。


 ただこの瞬間は、僕は全ての疑問を放棄した。例えこれが夢だとしても、この幸福を味わうことを放棄する理由にはならなかった。


「でも母さんも思うだろう? あの頃の自分がもっと大人だったら。ってね」


 父の一言が、奇妙な感覚で身体中に行き渡るのを感じた。


 ああ、そうだ。僕は子供だった。何も知らないガキだった。今よりももっと酷い。呆れるほど、驚くほど、忌々しいほど、ガキだった。


 僕は間違いを犯した。他人にとってはどうでもいい間違い。僕にとっては後悔の残る間違い。それを、沢山した。


 ・・・・・・・・・魔法だ。


「僕は、━━━やり直せる・・・?」


 両親にも聞こえないほどの、小さな声で呟いたその言葉は。僕の中にある何かを、掬い上げてくれたのを感じた。


「そうだ! 大人になった帯君?」


 突如大きな声を出した母に、僕はビクリと体を震わせた。幸いなことに食事は終わるところで、口の中には何も入っていなかったから、喉に食事を詰まらせるという失態は晒さなかった。


「な、なに?」

「母さんが、食後のコーヒーを入れてあげよう!」

「あれ、帯はコーヒーが嫌いじゃなかった?」

「もう飲めるでしょう、大人だし?」


 いたずらっ子のような表情になった母は、食器棚からカップを取り出す。慣れた手つきでインスタントコーヒーを入れ、ポットに入ったお湯を注いだ。


「はい、大人になった帯君。めしあがれ!」


 母はとても楽しそうに、カップを僕の前に置く。カップからは湯気が立ち上ぼり、コーヒー独特の香りが鼻に届いた。


 勿論母は、僕がコーヒーを飲めるとは考えていない。きっとやっぱり子供だとからかうためにやっているのだろう。


 だが、僕には経験があった。コーヒーを美味しく飲んだ経験が。この状況が夢なのか現実なのかまだハッキリとは言い切れないが、あの一杯の強烈な記憶だけは現実なのだと分かる。つまり、僕はコーヒーが飲めるようになったのだ。


「ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ」

「おお!?」


 予想外の反応だったのか、母が驚愕した様子を見せる。そんな母の顔を見た僕は、ニヤリと口元を歪めた。





















「うえっ・・・・・・、む、むり!」

「ハハハハハハ!! やっばり子供だ!」


 


 ━━な、なんで!?

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