一章
第7話
重い瞼をゆっくりと、開く。映った世界はとても暗かったが、とても懐かしい、見慣れた世界だった。僕は、毎朝目を覚ますたびにこの天井を見ている。他の誰でもない、日島帯という人間だけがもつ、特権だ。
別段、眺めがいいわけではない。真っ白だったはずの天井は、僕が中学生の頃にアイドルのポスターを貼っていたおかげでボロボロだ。飽き性だった僕は好きなアイドルをコロコロ変えていて、同時に毎朝眺める女性の顔もコロコロ変えていたのだ。
最後に見ていた女性はどんな人だったろう。確か当時人気だった俳優とホテルから出てきた写真が週刊誌に乗って、奇声を発しながらポスターを引き裂いたのは覚えている。・・・・・・我ながらヤバい奴だった。心配で見に来てくれたお母様には、本当にすまないと思っている。
ベッドから立ち上がり、部屋に置かれている全身を写せる鏡を見た。そこに立っていたのは、まごうことなき、日島帯。僕の姿だった。
何となくだが、僕が何故ここにいるのかは推測できる。僕はあの一杯を口にしてから、帰宅をし、疲労か何かで眠ってしまったのだろう。ただ、理解ができない。
僕は、実家を出て独り暮らしをしている。置くものもない小さな部屋。ただ生きるために最低限必要な家具が存在していたはずの、僕の部屋。
ここは、そこじゃない。
ここは、まだ僕の自我がハッキリと育っていない小さな頃から。成人を迎えるころ、逃げるように出た僕の実家だ。
そう理解した瞬間、僕の頭に激痛が走った。まるで、それを考えるなと伝えるように。グルグルと視界が回る。息が苦しい。心臓が激しく動く音が、耳に障る。僕は倒れるようにベッドに横になった。
呼吸を少しずつ整えていく。すると次第に、時計の音が聞こえてくるほどの静寂に包まれた。冷や汗がべっとりと張り付いて気持ちが悪いが、体調は良くなったのを感じる。
僕はそれを確認すると、机の上に置かれている携帯を手に取る。使い慣れているはずのそれを、僕は器用に扱うことはできなかった。
ボタンを押す。すると携帯は、時刻と年月を表示する。
スマートフォンになれてしまった僕は、その二つ折りの不格好な機械が、酷く恐ろしいものに思えた。
鏡を見る。そこには確かに、僕が映っていた。
――――高校生の頃の、僕が。
「また、夢…?」
僕の成長期は中学三年生の頃だった。そこから身長が次第に伸び、顔立ちから幼さがなくなり、父親の顔に似だしたと聞く。情報源は、嬉しそうに話していた僕の母親だ。
そこに映るのは、正しくその過程。この実家に置いていったアルバムに残っていたはずの僕の写真に、この顔は類似している。幼さが残りながらも、骨格がハッキリと浮き出た、男らしい顔立ちになりつつある顔だ。
自分の顔を客観的に判断している自分に、嫌悪感を覚える。胃から込み上げる吐き気を振り払うように両手の平で頬を叩くと、ペシリと静かな部屋に音を立てた。
「痛い…」
夢ではない。そんなことは、既に理解していた。それでも僕は、自分の正気を保つためにそれを行った。混乱が僕を襲っている。オビはどこへいったのか。そしてこの帯は何なのか。そもそも僕は何者なのか。
ピピピピ。
電子音が部屋中に響き渡る。大きな音で、僕はそれにビクリと肩を震わせた。僕とっては非常に聞き覚えのある音だが、しばらく聞いていない、目覚ましの鳴る音だった。
僕は怒りをぶつけるように、乱暴に目覚ましを止める。こんなことをしても、この目覚ましは壊れる様子はない。よく知っている。
「帯? 起きたの? 朝ごはん出来てるから早めにきなさいよー」
ドア越しに、母親の声が聞こえる。一人暮らしを始めてから、久しく聞いていない声。それを聞くと、導かれるように僕の腹が空腹を訴える。僕は毎日母親の朝食をたらふく食べてから学校へ向かっていた。
僕はベッドから起きると、部屋のカーテンを開け放った。
その瞬間、強い光が僕を包む。温かい、春の日差し。眩しさに細めた目をゆっくりと開けていくと、桜の木から零れた花弁が、ゆらゆらと空を舞っているのが見えた。
もう一度。二つ折りの機械を操作し、年月を表示する。
記憶を探るまでもない。今日は、入学式。僕が高校生になる日だ。
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