第6話

 オビ。日島帯ではなく、ただのオビ。それが僕の、ここでの僕の名前だった。


 僕は小さな山岳の村で生まれた。地図に名前すら載っていない、小さな村。自然と共に生き、狩りを行い、日々を生きる小さな村。村人全てが知り合いであり、家族。それが当然に思えるほど、村の人口は少ない。


 だから、僕の人生は愛に満ちていた。村にとって子供は貴重で、全ての村人が僕を愛してくれた。老人は僕を孫のように、大人は僕を子供のように、子供は僕を弟のように。


 全ての村人が僕を愛し、そして僕の病を嘆いた。


 病名は何なのか僕には分からない。突発的な頭痛が繰り返し起こり、体に力が入れ辛い。年を増す毎にその症状は激しくなり、あの日……あの魔女が来る夜には、僕はベッドに寝たきりとなった。


 誰もが僕の死を確信したが、僕の両親は諦めなかった。だから両親は、村人の誰もが尊敬し、恐れる魔女に取引を持ち出した。


 ―――――息子を助けてほしい。代わりに好きなものを差し出す。……と。


 魔女は取引を飲んだ。そして、『神の妙薬』と呼ばれる薬を使い、僕を助けた。その代価に僕は、魔女の下僕となったのだ。


「ギヒヒ。寂しいかい? 寂しいのかい? でも残念だねぇ……もうアンタは、あの村には帰れないんだよぅ」


 魔女はガマガエルを潰したような笑顔で僕を見る。これで二十回目だ。この魔女は、ことあるごとに僕を煽ってくる。きっと僕の寂しいそうな顔だったり、絶望した顔が見たいのだろう。趣味の悪い魔女だ。


 でも僕は寂しくも、絶望したりもしていなかった。何故なら僕は、覚悟を決めているから。そして僕は、恩義を感じているのだ。この性悪な魔女に。


 確かにこの魔女は、打算で僕の命を助けたのだろう。僕の命を救えば、体のいい下僕を手に入れることができると。...けれども、命を助けてもらったことに変わりはない。両親の嬉しそうな顔を見れた。村の皆に別れを告げることができた。それはとても、簡単には返せる恩ではない。


 だから僕は覚悟する。例えこれからどんな苦労を味わおうとも、必ずこの魔女に仕えるのだと。


「言葉も出ないかい? ギヒヒ、でも残念。アンタを助けるヤツはもうどこにもいないよぉ」


 魔女と僕は小さな馬車に乗っていた。魔女の持ち物だというその小さな馬車は、彼女の纏うローブのように小汚ない。馬車を引く馬もまた、ヨロヨロとした老馬だった。


「魔女様。僕達は、一体どこへ向かっているのでしょう」


 馬車の車輪が土埃を巻き上げる。風が草木を揺らしている。僕の目には、流れ行くその景色全てが輝いて見えていた。まだ知らぬ行き先に、不安がないと言えば噓になる。けれどもそれ以上に、オビの心は興奮に満ちていた。


 冒険。小さなオビの心には、これからの生活がその言葉に埋め尽くされるように感じていたのだ。そう確信すらしていたのだ。


「アタシの領域さ。アンタにとびっきりの薬を使っちまったからねぇ……。まぁ、それよりも先に買い出しが必要だ。まずは町に行くよぉ」


 町。オビは、町にすら言ったことはなかった。何故ならオビは村から出たことすらなかったからだ。そこには一体何があるのだろう。好奇心が、心から湧き出しそうだった。


 勿論、それは日島帯も同じ。


 オビの人生をまるで自分の人生のように感じながら、見たことのない世界に興奮している。オビの感じた、光が、匂いが、音が、その全てが自分で得た経験のように感じていた。


「さぁ、馬車を進めるよぉ…!」


 これが何かは分からない。夢なのか、現実なのか。ただ分かるのは、僕が魔法に掛けられたということだ。


 これから僕が体験するものは、きっと、あのたった一杯の魔法だ。

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