第5話
「はぁ、はぁ、はぁ……」
聞こえてくるのは自分の呼吸の音。そして木々や茂みを強引に突っ切って走る際に出る音。そして……
「ブモオオオォッ!」
背後から聞こえてくる、ブルーキャタピラーの怒りの声。
「がぁっ!」
腕に熱さを感じ、反射的に走っている方向を変える。
同時に今までツノーラが走っていた空間を、幾つもの見えない何かが通り過ぎていった。
(くそっ! 氷ならせめて回避しやすいってのに!)
森の中を必死に走っていたツノーラだったが、ブルーキャタピラーから放たれる魔法により、既に幾つもの傷を負っている。
中にはかなり深く斬り裂かれている傷もあり、地面にはツノーラの走っている後を追うかのように血が零れ落ちていた。
最初は何とか回避出来ていたのだ。
アースをその場に残してブルーキャタピラーの注意を引き、そのまま撒いて逃げ切る。
ブルーキャタピラーがアースの方へと戻らないように、時々矢を射ってはその注意を自分に引き付けるのも忘れない。
そんな筈だったというのに、途中からブルーキャタピラーは氷柱ではなく風の刃を放ってくるようになった。
純粋に一撃の威力では、風の刃はそこまで強くはない。
高い斬れ味を持ってはいるが、それでも氷柱のように重い一撃ではない為だ。
これがもっとランクの高いモンスターや魔法に特化しているモンスターであれば、もしかしたらより強力な風の刃の一撃によりツノーラの首や胴体が切断されていた可能性がある。
ブルーキャタピラーは風と氷の魔法を使いこなすモンスターだが、その威力そのものは一撃必殺という訳ではない。
あるいは今が春で、ブルーキャタピラーが冬に活動が活発になるモンスターだというのも影響しているのかもしれなかった。
理由はともあれ、今のツノーラにとってはブルーキャタピラーの魔法が一撃必殺の威力を持っていないというのは幸運以外の何ものでもなかっただろう。
しかし……それが逆に、ツノーラの身体中が風の刃で斬り裂かれることになっていたのだが。
ブルーキャタピラーを牽制する為に必要な弓も風の刃で弦を切断され、邪魔になるだけだとブルーキャタピラーへと投げつけている。
それが理由でブルーキャタピラーがより怒ったのは事実だったが、それでもアースより自分に注意を引き付けるという意味では好都合だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……くそっ、遠い!」
森から出てしまえば、恐らくブルーキャタピラーは追ってこない。
そう考える根拠は何もなかったが、それでもツノーラは殆ど本能でそれを感じ取っていた。
もしくは、獣人の野生の勘だったのかもしれない。
「はっ、こう見えても獣人なんだ。森の中で死ぬような真似……がぁっ!」
自分を鼓舞する意味で呟いた言葉だったが、それが大きな隙となって再びブルーキャタピラーから放たれた風の刃により、左脇腹に熱さを感じる。
走りながら左脇腹へと手を伸ばすと、その手にあるのは血の赤。
それでもこれ以上足に深い傷を負わなかったのは、逃げ続けるツノーラにとっては不幸中の幸いだったのだろう。
ヌルリとした感触に不愉快そうに眉を顰めつつ、森の中に生えている木を盾にするように走り続ける。
身体中に熱を持ったような痛みがあるが、ツノーラはそれを気にすることが出来るような余裕はない。
幾度となく背後から放たれる風の刃を、獣人特有の敏捷さで何とか回避し……一歩間違えば間違いなく自分が死ぬという死の淵における集中力により、ツノーラ本人がどれくらいの時間走っていたのかも既に分からなくなってきた頃、唐突に周囲が明るくなった。
今までも勿論明るかったのだが、それでも森の中ということで木々が生い茂っており、太陽の光を遮っていたのだ。
それがなくなったということは……
(森から、出た?)
安堵と共にそう思った瞬間、足の力が抜け、そのまま地面へと崩れ落ちた。
瞬間的に鼻に入ってきたのは、草の香り。
その香りに包まれ、ここまで走ってきた速度のまま何度となく地面を転がる。
もし地面が草原ではなく土だったら、身体中から流している血に土が付着して見るも無惨な姿になっていたのは間違いない。
(しまっ!)
一瞬そんなことを考えた自分を叱咤しながら、草原の中で慌てて起き上がって背後を……森の方を見る。
自分の勘ではブルーキャタピラーが森の外まで追ってくることはないと思っていたが、それを実際に確認するまでは安心出来なかった為だ。
そうして振り向いた先にはあるのは、森の木々のみ。
ブルーキャタピラーの姿は一切なく、その痕跡すらも見て取ることが出来ない。
数秒前まで生と死の間を綱渡りするかのような極限の状態にあったのが嘘のように、春らしい柔らかな緑を生い茂らせている森の木々があるのみだ。
春の暖かな風により、ようやく自分が生き残ったのだと実感する。
「良かった……」
安堵の息を吐いたツノーラだったが、それが心の中に張ってあった緊張の糸を切り……再度春らしい暖かな風を感じると、急速に意識が遠くなっていく。
(あ、しまっ……)
最後まで考えることが出来ず、ツノーラの意識はそのまま途絶えるのだった。
「ツノーラのおっちゃん……おっちゃん、大丈夫か、ツノーラのおっちゃんっ!」
ツノーラが目を覚ましたのは、そんな声が聞こえてきた為だ。
意識を取り戻して最初に見たのは、自分を見て泣きそうに……いや、泣いている子供の顔。
同時に、天にある太陽からの光に眩しげに目を細める。
そのまま手で顔を覆おうとして……
「痛っ!」
手を動かした瞬間に感じた痛みに、急速に意識を取り戻す。
そうして脳裏に意識を失う前の記憶が蘇り、慌てて立ち上がろうとする。
「がっ! くっ、くそ……あの虫野郎。散々人のことを好き勝手に斬り刻みやがって」
何度か顔を横に振り、改めてツノーラは目の前にいるアースへと視線を受ける。
幾らか傷はあるが、それでも見る限り大きな傷がないことに安堵し、口を開く。
「アース、怪我はないか?」
「うん、ツノーラのおっちゃんがあいつを引き連れていってくれたから、俺は大丈夫だよ」
グスグスと鼻を慣らしつつ告げるアースに、ツノーラは痛みを無視して手を上げ、自分を覗き込んでいる小さな頭に手を置く。
「はっ、そりゃ良かった。お前に怪我をさせたらリュリュちゃんに怒られるからな。知ってるか? リュリュちゃんって普段は優しいのに、怒るとそりゃあもう怖いんだぜ? ……うん?」
笑みを浮かべてそう告げたツノーラは、不意にアースの方から嗅ぎ慣れない臭いが漂ってくるのに気が付く。
「アース、お前何か……」
妙な物を持っていないか?
そう言おうととしたツノーラの言葉を遮ったのは、アースの肩から姿を現した存在だった。
一見するとリスにしか見えない存在だが、その毛は青い。
先程森の中で見た奇妙なリス。
いつもであれば、そんなリスを見てもそこまで過剰な反応はしなかっただろう。
モンスターであっても、必ずしも人に対して攻撃的な訳ではないのだから。
だが、ブルーキャタピラーに襲われ、命からがら逃げ切った今のツノーラの目には、そのリスは凶悪なモンスターにしか思えなかった。
(こいつも敵かっ!?)
ろくに身体が動かない時に、と内心で罵声を吐きつつアースの肩にいるモンスターに警戒の視線を向ける。
身体中に怪我をしている今の自分では迂闊な真似は出来ないと、そのモンスターの隙を窺おうとしたツノーラ。
だが、そんなツノーラに青いリスは攻撃する様子も見せず、更には警戒する様子すら見せずに心配そうに鳴き声を上げる。
「ポルルルル?」
大丈夫? と言っているかのようなその鳴き声は、とてもではないが自分やアースに対して危害を加えるような存在には思えなかった。
そんな青いリスをじっと見つめていたツノーラだったが、自分やアースに対する敵意は全くないと判断したのだろう。身体をなるべく動かさないようにしながらも、どこか困惑した視線をアースへと向ける。
「なあ、アース。このリスっぽいのは何だ?」
「え? 何だって言われても……」
身体中を怪我して、血を流しているツノーラの言葉に意表を突かれつつも、アースは自分の肩へと視線を向ける。
「ポロロ?」
何? と、小首を傾げてアースへと視線を返すリス。
もし可愛いもの好きがいたりしたら、恐らく一発で見惚れてしまうことは間違いのないだろう存在。
「はぁ、言っておくが多分そいつはモンスターだぞ? 痛っ!」
倒れている状態から上半身を起こし、痛みに耐えながら告げるツノーラ。
その言葉に、アースは信じられないといった表情を浮かべる。
それでもモンスターという言葉を聞き、反射的に肩に乗っているリス……否、リスもどきを払いのけなかったのは、自分が生きて森を出てこられたのはこのリスもどきのおかげだと理解していたからだろう。
「でも、ツノーラのおっちゃん。こいつ、俺を助けてくれたんだよ? もしこいつがいなければ、多分俺……」
言葉を途中で濁らせたが、その先の言葉はツノーラには容易に想像出来た。
「あー……まぁ、モンスターの中には人に危害を加えないような奴もいるんだよ。テイマーって奴もいて、そういう奴は自分に懐いたモンスターを仲間として扱っているんだとよ。もしかしたら、お前にもその才能があるのかもしれないな」
ツノーラの目から見て、アースの肩にいるリスもどきは決して高ランクのモンスターには見えない。
そもそも、体毛は違えど身体の大きさは普通のリスト殆ど変わらないのだから。
これで実は凶悪なモンスターでしたと言われても、とてもではないが信じられなかった。
「テイマー……」
ツノーラの言葉に、喜んでいるような、悲しんでいるような微妙な表情を浮かべるアース。
もし森に入る前であれば、間違いなく悲しんでいた筈だ。
アースが目指していたのは、あくまでも英雄。
例えば敵が何十人いようとも、長剣でばったばったと倒すような。
だが、コボルトとの戦いやブルーキャタピラーとの遭遇で今のアースは心が揺れていた。
それでもアースの心の底にある、英雄を求める心はテイマーという存在が自分の求める英雄像と全く違うもののように思え、納得することが出来ずにいる。
「ま、テイマー云々はそういう職業もあるって覚えておけばいいさ。それより……痛っ!」
身体をゆっくりと動かしながら、腰のポーチから一本のガラス瓶を取り出す。
森に入る以上、いざという時の為に用意しておいたポーションだ。
……ただし、こんな田舎の村で手に入れることが出来るポーションだけに、その効果はとても高いとは言えない。
それでも使うのと使わないのとでは雲泥の差であり、ツノーラはポーションを傷を負った場所へと振り掛けていく。
本来であれば、飲むのが最善なのだろう。
だが、ポーションというのは言葉に出せない程に不味い代物だ。
とてもではないが飲む気にはならなかった。
ポーションを掛け、血止め程度ではあるが回復したのを確認すると、ツノーラは身体中の痛みを堪えながら立ち上がる。
「……よし、何とか歩けるな。アース、悪いが肩を貸してくれ。早いところ村に戻って、ブルーキャタピラーが出たって知らせないとな。村にいる者だけではとても手に負えねえから、近くの街に応援を頼む必要がある」
「う、うん!」
「ポロロ」
アースが頷いてツノーラへと肩を貸し、リスもどきは邪魔にならないように地面へと飛び降り、アースを応援するように鳴き声をあげるのだった。
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