第6話

 その日、ルーフで門番をやっていたトナルは村の方へと近づいてくる何かを見て、大きく目を見開いた。

 一瞬新種のモンスターか何かかと思ったそれは、血だらけのツノーラと、それを支えながら歩いているアース。

 よろめきながら歩いているその光景は、新種のモンスターではないのだとすれば、もしかしてアースの悪戯ではないかと思ってしまう。

 だがそんな悪趣味な悪戯はしないだろうと脳裏を過ぎった思いを否定し、すぐに事態の緊急性を悟る。

 つまり今視界の先にいるのは、本当の意味で血だけになっているツノーラだということだ。

 このルーフの中で最強と言ってもいい男が血だらけになっているのだから、そこに何らかの危険を察知するのは当然だった。


「くそっ、おい、人を呼んできてくれ! 俺はツノーラさんの様子を見に行く!」

「あ、ああ。分かった。すぐに薬師を呼んでくる!」


 このルーフのような田舎の村には、回復魔法を使えるような者は基本的にいない。

 元々魔法使いそのものが酷く稀少な存在であり、そんな中でも回復魔法を使えるという者となると、更に少ないのだから当然だろう。

 ポーションの類にしても、錬金術師は村に存在しないので行商人から買うか、近くにあるルーフよりも大きな村や、街へと行って買うしかない。

 そんな田舎の村で役に立つのは、薬草の類を使う薬師のような存在だ。

 簡単な応急手当の類も出来るので、医者に近い存在といえるだろう。

 そんな薬師を呼びに行った相棒を見送り、トナルは急いでツノーラの方へと駆け出す。

 本来であれば、見える位置にいる相手ではあっても門をそのまま放り出すのはとても褒められたことではないだろう。

 だが、ツノーラは身体中から血を流しているように見え、そんな些細なことには構っていられなかった。


「ツノーラ、アース! 大丈夫か!」


 自分より大分背の高いツノーラに肩を貸して何とかここまでやって来たアースだったが、知り合いが近づいてくるのを見て気が緩んだのだろう。その瞳から涙が零れ落ちる。


「トナル……ツノーラのおっちゃんが、俺のせいで……」

「馬鹿、別にお前のせいじゃねえって言ってるだろ。……痛っ、悪いトナル。アースの肩を貸りたままだと結構厳しいんだ。ちょっと肩を貸してくれ」

「あ、ああ」


 血だらけだったこともあって、てっきりツノーラは半死半生の状態ではないかとすら思っていたトナルだったが、ツノーラから返ってきた言葉は予想以上にしっかりしたものだった。

 それに驚きながらも、アースからツノーラを受け取り……


「ポルル?」


 ふと、アースの頭の上に乗っていた青いリスに目を止める。

 森に通っている者であれば、モンスターだと判断したかもしれない。だが、トナルの仕事は門番――正確には警備兵――であり、アースの上にいるリスをモンスターではなく新種のリスか何かだと判断する。

 何より、モンスターであればツノーラが放って置く筈がないという思いもあった。

 だからこそ、リスには特に気にも留めずにツノーラに肩を貸したまま村へと向かって歩き出す。

 幸い村までの距離はそれ程なく、すぐに村の中へと入ることに成功する。


「よし、取りあえず村の中にいればひとまず安心だろ。今薬師を連れてくるようにサーリンに言ってあるから、少し待っててくれよ」

「悪いな。……痛っ、大体の傷は手当てしたんだが、それでもやっぱりポーション一本じゃ治しきれないか。……それよりトナル、ギルドに行ってリュリュちゃんを呼んできてくれないか? 報告しておきたいことがあるんだよ。下手をすりゃあ、この村が危険だ」


 そうトナルに語りかけるツノーラの表情は、痛みに顔を顰めてはいるがとてもではないが冗談を言っているようには思えない。

 もっともこれだけ傷だらけになって冗談を言っているのだとしたら、それはそれで凄いものだが……と、トナルに考える余裕があるのは、見た目は傷だらけではあっても、ポーションである程度の応急処置は既に済ませてあって命に別状はないと判断しているからだろう。


「分かった、リュリュだな。すぐに呼んでくる。……アース、俺はちょっとギルドに行ってくるから、ツノーラのことを頼むぞ」

「う、うん。任せてよ!」


 村に戻ってきた時に涙を流したのを恥じ入るように、アースは告げる。

 もっともツノーラの保険でもあるポーションは既に使用してしまっている以上、今のアースに出来ることはない。

 ギルドの方へと向かって去って行くトナルを見送ったアースは、ようやくそのことに気が付いたのだろう。何かツノーラの為にしてやれることはないかと迷い……少し離れた場所に井戸があるのを確認する。


「ツノーラのおっちゃん、ちょっと待ってて。泥とか血は拭いておいた方がいいだろうし」

「うん? ああ、そうだな。じゃあ頼む。結構気が利くな。冒険者向きではあるぞ」

「ふ、ふんっ! 褒めたって何も出ないよ!」


 いつもならおっちゃん呼ばわりをしないように言うのだが、今は何となくそんな気分ではないツノーラは、井戸へと向かって行くアースを見送る。


(守るって言って、結局この有様だし……おっちゃん呼ばわりもしょうがないのかね)


 春の暖かな太陽の光を浴びていると、つい先程まで森の中を命懸けで逃げ回っていたのが嘘のような気分になる。

 それでも身体中から感じる痛みは、あの命懸けの追いかけっこが夢ではなかったという証だ。


(あー……気持ちいいな。このまま眠れたら……)


 太陽の光を浴びながら、限界以上の力を出した影響もあるのだろう。次第に睡魔に襲われ……


「おわぁっ!」


 だが、眠りに落ちるかどうかという次の瞬間、突然顔に冷たさを感じて目を見開く。


「ツノーラのおっちゃん、大丈夫か?」


 目を開けた先にいたのは、心配そうな表情を浮かべるアースと、その肩で小首を傾げている青いリス。

 アースの手には濡れた布が握られており、それが今の冷たさの正体だろうと理解する。

 だが、井戸に行ったアースがもうここまで戻ってきているということは、数分程度だが自分が寝ていたということも意味している訳で……


(予想以上に体力の消耗が激しいな)


 身体の痛みもそうだが、体力の消耗が大きいのは厄介としか言いようがなかった。


「ほら、拭くから大人しくしててよ」


 アースが濡れた布を突き出してくるのを、ツノーラは大人しく受け入れる。

 そうして顔や身体についた泥や血を落としていると、やがて幾つもの足音を獣人特有の鋭い聴覚が感じ取った。

 ツノーラは身体を拭かれながら視線を足音の聞こえてきた方へと向けると、そこにはギルドの受付嬢で、ウサギの獣人のリュリュと、初老の女の姿、それとトナルともう一人の門番の姿があった。


「アース、もういい。取りあえずリュリュちゃんとかが来たから、その辺にしておいてくれ」

「え? リュリュ姉ちゃんが?」


 ツノーラの視線を追うと、そこには確かにこちらに向かって走っている数人の姿がある。

 その中でも特にリュリュの姿を見たアースは、慌てて隠れる場所がないかと周囲を見回す。

 今回の件で怒られるのではないか。そんな思いから周囲を見回し……だが、リュリュはウサギの獣人としての高い脚力で一気に距離を縮めてくる。


「アース君、ツノーラさん、無事!?」


 そう尋ねながら二人を眺め、次の瞬間にはまだアースに拭かれていなかったツノーラの身体中を汚している血や泥を見て息を呑む。

 それでも、ツノーラが特に悲壮な表情を浮かべている訳でもないのを見ると、やがて安堵の息を吐く。

 そうして次に視線を向けたのは、アースの方。

 こちらはツノーラと違って大きな怪我をした様子はなかったが、それでも細かいかすり傷と思しきものが身体中についていた。

 アースの肩には青いリスが乗っていたのだが、今のリュリュにはそれを気にする様子もない。

 やがてそんなアースを見て感極まったのか、リュリュはアースを思い切り抱きしめる。


「もうっ、あんまり心配させないで! ツノーラさんもアース君も、こんなに傷だらけになって。でも、本当に無事で良かった」

「ふがっ、ふががあああぁぁっ!」


 思い切り抱きしめている為、アースの顔はリュリュの豊満な胸に完全に埋まっていた。

 アースも十三歳を迎えた男だ。当然女には興味がある。

 だが、それでもこうして胸に顔を埋められるというのは、幸せな体験ありながら窒息寸前という意味で地獄の体験でもあった。


「おいおい、リュリュちゃん。放してやらねーとアースが死ぬぞ」


 ツノーラが少し羨ましそうな表情でアースを見ながら呟く。

 怪我やブルーキャタピラーの件で、本来ならそれどころではないのだが、それでもアースのことが羨ましく思えるのは男だからだろう。

 もっとも、それを妻に知られることだけは絶対に避けなければならなかったが。

 尚、羨ましそうに見ていたのはトナルともう一人の門番も同じだった。


「あっ、ご、ごめんなさい。大丈夫、アース君?」

「う……うわぁぁぁぁぁあぁっ!」


 リュリュの言葉に、照れくささを我慢出来ずにその場を走り去るアース。

 それを行ったリュリュ本人は、不思議そうに首を傾げてどこかに走り去って行ったアースを見送っていた。

 そんなリュリュとアースを見ていた初老の女は、溜息を吐いて口を開く。


「ほれ、いいから傷を見せてみい。ポーションで応急処置はしてるということじゃが……ふむ、随分と傷が深いのう。ちと染みるぞ」


 一番大きな傷でもある、左脇腹。アースが拭いてくれたことにより、綺麗になっているそこへと初老の女は無造作に赤い軟膏を塗り込む。


「あぎゃっ!」


 ツノーラの口から奇妙な声が漏れるが、初老の女はそれを気にした様子もなく更に赤い軟膏を塗りつけていく。

 左脇腹だけではない。身体中の傷へとだ。


「あぎゃぎゃぎゃっ! 痛っ、痛いって!」


 赤い軟膏というだけでも普通なら傷口に塗りたくはないだろう。

 だが、初老の女の手は止まらない。

 それどころか、より強く身体へと塗り込める。


「全く、こんなに怪我をして帰ってきて……少しは身体を大事にせんかい」

「そ、そんなことを言ったってだな……」


 ツノーラは何かを言い掛けようとするが、それを無視しながら身体へと軟膏が塗られていく。


「ふぅ、取りあえず深い傷は殆どないし、これでいいじゃろ。後で儂の家に来い。薬を渡すから」

「ああ、ありがと。……っと、それでリュリュちゃん」


 ようやく治療という名の拷問が終わったと安堵したツノーラが、リュリュの方へと視線を向ける。

 その表情は、数秒前に痛みに呻いていた者の顔ではなく、この村を長年に渡り守ってきた男のものへと変わっていた。


「あ、はい。何ですか?」


 そんなツノーラの様子に一瞬呆気にとられつつ、それでも言葉を返すリュリュ。


「森が危ない。何だってこんな季節にこんな場所にいるのかは分からないが、ランクD……いや、その凶暴性からランクC相当の扱いをされるブルーキャタピラーがいた」

「……え?」


 一瞬目の前にいるツノーラが何を言ってるのか分からないといった表情を浮かべたリュリュだったが、やがてそれが冗談でも何でもないと理解したのだろう。見る間にその顔からは血の気が引いていくのだった。

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