第3話

 退け、と咄嗟に言われたアースだったが、いきなり殺気立った怒鳴り声を浴びせられて動くに動けない状態に陥ってしまう。

 これが熟練の冒険者であれば、咄嗟に動くことも出来たのだろう。

 だがアースは今日十三歳の誕生日を迎えたばかりであり、これまでに命懸けの戦いというものはしたことがない。

 だからこそ、足下に子供の猪をうろつかせたまま動けなくなる。

 茂みを掻き分ける音がしているのも聞こえているし、何が嫌な予感がするのも事実だ。

 それでも、アースは咄嗟のことで動けない。

 背後からはツノーラが長剣を手にしてアースへと近づいていくが、茂みが邪魔をして、移動速度が出ない。

 そんな中……アースへと錆びた長剣を突き立てようとして向かってきたコボルトに対処をしたのは、アースにとってもツノーラにとっても、完全に予想外の相手だった。


「ブルルルルルル!」


 鳴き声を上げながら、親猪が突っ込む。


「ウォオオオン!」


 自分の方へと向かって突っ込んできた親猪に気が付いたのだろう。コボルトはアースに対する攻撃を一旦諦め、親猪の攻撃を回避することに専念する。

 猪だけあって、当たればコボルトは吹き飛ばすだろう速度で突っ込んで行ったのだが、それに対するコボルトは素早く回避し、更にはついでとばかりに錆びた長剣を振るう。


「ブヒィッ!」


 薄くではあるが身体に斬り傷を付けられ、痛みの悲鳴を上げる親猪。

 だが、その悲鳴でアースはようやく我に返る。

 咄嗟に足下へと視線を向けると、手を伸ばして猪の子供を抱き上げてその場から退く。

 本来であれば、アースがコボルトと距離を取ったところに長剣を手にしたツノーラが割り込む……筈だった。

 不幸だったのは、アースのいる場所が茂みであり、ツノーラのいる場所も茂みだったということだろう。

 一気に飛びだそうとしたツノーラだったが、それを茂みが邪魔をする。

 更には猪の子供を手にしたアースが距離を取ろうとしても、茂みに足を引っ掛けて殆ど距離を取ることが出来なかった。


「ウオオオォォンッ!」


 それを好機と見たのだろう。再びコボルトは錆びた長剣を手に、アースとの距離を縮める。


「くそっ、アース! 短剣を使え! すぐに助けに行くから、それまで何とか耐えろ! ええい、くそっ、邪魔だ!」


 まるで足に絡みつくかのような茂みにツノーラは苛立ち、長剣で茂みを斬り払いながら叫ぶ。


「ツ、ツノーラのおじちゃん! くそっ、来るな、来るな、来るなぁっ!」


 この場において明確に自分よりも強いツノーラに声を掛けるが、そのツノーラが応援に来る様子はない。

 そしてコボルトは錆びた長剣を手にし、真っ直ぐに自分へと向かってきている。

 完全に頭が混乱し、どうすればいいのか分からなくなったアースだったが、それでも左手で抱えた猪の子供を離すことだけはしなかった。


「ピギィッ!」


 自分の手の中で悲しげに鳴く……あるいは泣く猪の子供を守らなきゃいけない。

 それだけを思いを頼りに、右手に短剣を持ってコボルトを待ち受ける。


「うわあああああああああああっ!」


 アースの口から上げられる大声。

 雄叫びというより悲鳴と表現するのが正しいだろうその叫びは、それでもアースの身体の硬直を解くことに成功する。


「ウオオオォォォオォォンッ!」


 コボルトはアースに対抗するように叫び、そのままアースへと向けて錆びた長剣を振り下ろす。


「くっそおおおぉぉっ!」


 無我夢中、殆ど我武者羅に振るわれたアースの短剣は、運良くコボルトが自分に向かって振り下ろしてきた錆びた長剣へと当たる。

 ……だが、所詮は短剣。何とか防ぐことには成功したものの、その拮抗はほんの一瞬。次の瞬間には次第に錆びた刃がアースの顔へと向かって近づいてくる。

 短剣があるからこそ、ゆっくりとした速度ではあるが、今回の場合は寧ろそれがアースにとって恐怖を呼び起こす。

 左手で猪の子供を握っている為、短剣は右手一本で保持しているのだから、そんな状態で上から押し込まれてくる一撃を防ぎ切れる筈もない。

 次第に短剣の切っ先が長剣に押し込まれて斜めになっていき、いつ刃が滑って長剣がアースに届いてもおかしくない状況。

 目の前に明確に迫ってきた死という感情に、アースは思わず叫ぶ。


「来るな、来るな、来るなぁあぁぁぁあっ!」


 目の前にいる相手が自分への対抗手段を持っていないと悟ったコボルトは、犬の顔でも分かる程、獰猛な笑みを浮かべる。

 目の前にあるコボルトの口から漂ってくる、生臭い臭い。

 口の周りを舌で舐め、これ見よがしに牙を鳴らす。

 そんなコボルトを見て、死の恐怖に身体が強張り……そのあからさまな隙をコボルトは見逃さず、持っていた長剣を持ち上げ、再び振り下ろす。

 周囲に金属音が響き、ふと気が付けばアースの手の中には何も存在しない。

 手の中に残っているのは、強い痺れのみ。

 追い詰められ、完全に混乱している状況の中でも、コボルトの一撃により自分の持っていた短剣が弾き飛ばされたとだと悟ることが出来たのは、やはりその一撃が自分の死に直結していると本能的に理解しているからだろう。

 ゆっくりと……まるで世界の全ての動きが遅くなっているように感じながらも、自分の頭部目掛けてコボルトが長剣を振り下ろしてくるのをアースは見ていた。

 見えてはいるが、それでも身体は一切動がない。

 自分に死をもたらすだろうコボルトの動きを、ただ黙って見ていることしか出来なかった。


(これが……死ぬって……こと?)


 頭の片隅でそんな風に思うも、既に自分にはどうしようもない。ただ出来ることと言えば、せめて手の中にいる猪の子供を守ることだけ。

 自分でも何をしているのか分からず、明確に理由があってやった訳ではない。反射的な行動だった。

 目を瞑ったアースの耳に、次の瞬間、斬っ、という音が聞こえる。

 間違いなく自分は死んだ。

 英雄になる筈だったのに、何を為すでもなく死んでしまったのだ。

 そう思うものの、何故か痛みは全く存在しない。

 それどころか、手の中で動いている猪の子供の感触をしっかりと感じ取ることすら出来た。


(何が……)


 恐る恐る目を開くと、視界に入ってきたのはコボルト。

 ……ただし、そのコボルトに首は存在せず、その代わりだとでも言いたげに首からは血が噴き出している。

 そして首のないコボルトの後ろには、真剣な表情を浮かべたツノーラの姿があった。

 長剣を振りきったその姿勢が、今ツノーラが何をどうしたのかを表している。


「ツノーラの……おっちゃん……」

「兄ちゃんだ」


 それだけを言い返し、ツノーラは長剣を勢いよく振るって刃に付いている血を払う。


「ふぅ、とにかく……無事だな? 怪我はしてないな?」

「あ、うん。大丈夫」


 地面に倒れ込むコボルトの死体を眺めながら、アースは何とかそれだけを口に出した。


「ピギィッ!」


 手の中に庇っていた猪の子供が、アースの手を蹴って地面へと着地する。

 そのまま自分の母親の方へと向かって走って行く猪の子供を見て、初めてアースは自分が今の戦いを無事に潜り抜けたのだと実感出来た。

 コボルトを相手にしての、生まれて初めての戦い。

 英雄を目指すアースだったが、いいところは全くなかった。

 だが、それでも……アースが初陣を潜り抜けたのは間違いのない事実ではある。

 もっとも本人は全くそんなことに気が付いてはいなかったが。


「ピギィ!」

「ブルルルル」


 心配そうに自分の周囲を走り回って鳴き声を上げる子供に、母親の猪は問題ないと言いたげに鳴き声を上げる。

 そんな母親の様子に、子供の猪は周囲を走り回って喜びを露わにしていた。


(これは……アースを助けて貰ったし、さっきも思ったけど、どう考えても狩るって言える雰囲気じゃないな)


 長剣を鞘へと収めながら、ツノーラは内心で苦笑する。

 コボルトの討伐依頼を受けてやってきた森だったが、同時にツノーラにとっては狩りをするという目的もあった。

 だが、アースが命を懸けて守った小さな命と、その母親。

 それをアースの目の前で仕留めるということは、出来そうになかった。

 自分の子供の命を守る為であるのが最大の目的だったのは間違いないだろうが、それでもコボルトの一撃を母親の猪が妨害したおかげでアースの命が繋がったのは事実。

 もしあの時に母親の猪が行動を起こしていなければ、恐らくアースは今ここにこうしてはいなかっただろう。

 それが分かるだけに、ツノーラは目の前の猪の親子を狩ろうとは思えなくなっていた。

 そんなツノーラや猪の親子とは裏腹に、アースは地面へと座り込み、木へと背中を預ける。


「……俺、何やってたんだろうな……」


 ポツリ、と小さく呟く。

 手へと視線を向けると、そこにはあるのは自分の手。

 ただし、見て分かる程に震えている。

 正真正銘命を懸けた戦いを潜り抜けたというのを、ようやく実感したのだろう。

 視線を猪の親子の方へと向け、ただ黙ってその様子を眺めていた。

 と、不意に肩に重みを感じ、同時に頬に暖かい感触を覚える。


「うん?」


 何だ? と視線を肩へと向けると、そこにいたのは小さなリス。

 どこか見覚えのあるリスは、森の入り口付近で遭遇したリスで間違いないように思えた。


「ポルゥ!」


 元気を出してと言いたげに鳴くと、そのリスはアースの頬に身体を擦りつける。

 とても野生の獣とは思えない程に人懐っこい様子に、アースの口には思わず笑みが浮かぶ。

 自分を慰めてくれているのが分かるだけに、可愛らしいリスを見ているとささくれ立っていた気持ちが落ち着いてくるように思えた。


「お前……野生の動物にしては人懐っこ過ぎないか?」

「ポルル?」


 ふさり、と体長の半分以上を占める巨大な尻尾を揺らしながら小首を傾げるリス。

 そんなリスの様子は、アースだけではなく近くでその様子を見ていたツノーラの心も和ませる。

 だが、ツノーラはそんなリスの様子にほんわかとした思いが胸に浮かぶのを感じながらも、内心で疑問に思う。


(リス……だよな? うん、間違いなくリスだ。ただ、この森のリスが何であんなに人懐っこいんだ? しかもリス……うん? リスか?)


 姿はリスなのは間違いない。だが、ツノーラの知っているリスというのは茶色系の毛で全身を覆われているのが普通だった。

 しかし、今アースの肩にいるリスは、薄らと青い体毛がその身体を覆っている。

 森に来たことのないアースは、リスという動物を殆ど見たことがないので特に違和感もなく受け入れているようだったが、ツノーラにとっては明らかに普通のリスとは違う相手だ。

 猪の親子が去って行くのを眺めつつ、一応声を掛けておいた方がいいかと思って口を開こうとした、その時。

 不意にすぐ近くから漂ってきた臭いに、ツノーラは顔を強張らせる。

 本当に、何故すぐに気が付かなかったのかと思える程に近くから感じた臭い。

 その理由は、明らかにすぐ近くにあるコボルトの死体が原因だった。


「アース、新しい敵だ! 油断するな!」


 叫ぶと同時に、ツノーラは鞘に収めてあった長剣を引き抜く。

 同時に、茂みを掻き分けるようにして出て来た相手を見て、ツノーラの顔は強張る。

 体長三mを超える大きさの、青い芋虫。

 そのモンスターの名前をツノーラは知っていた。


「ランクDモンスター、ブルーキャタピラー」

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