第10話


 蚊帳に外に置かれた気分だ。暁は、そう感じながら流れを見守っていた。


「二人とも、もう喧嘩はしないでね。死んでしまったんだし、これからは娘を不安にさせる様な事はしない様に」

「ごめんなさい、手間取らせちゃって」

「いやいや」


 結鹿は腰に手を当てて、碧を抱き締めたまま言葉を口にする。美流とその両親は既に和解したらしく、並んで立っていた。完全に分かり合えた様子ではないが、暫くすれば問題無く収まるだろう。

 殺されそうになって殺した側と殺そうとして殺された側、母と娘、だというのに、親子の距離は近い。美流は殺された事をさほど気にしていないのか、母親の腕で眠そうに目を擦っている。

 平和な事だ。父親だけが訝しげな面持ちをしていたが、誰も気にはしない。


「いいんだよ、むしろ私の方が感謝したい。君の娘さんと話ができて、嬉しかったから」


 嬉しげな結鹿の目を見ると、女は俯いた。腕の中の美流がくすぐったそうにしている。


「私、いつまでも決意出来なくて、ほら、私の夫はあの通りこういう不思議な事を信じる人じゃないし、だからって美流は、その、私が殺しちゃった訳だから。どっちに会うのも、辛くて」

「分かるよ。でも、今はもう平気だろう」

「うん。ありがと、結鹿。それと、ごめんね。あなたの反対を押し切って、幸せになるって言ったのに、終わり方がこんなで」

「でも、今の君は私と一緒の時よりも幸せに見える。だから良いよ。私は、怒ってない。でも、そっちこそ、良いの?」

「うん、良いの。美流はここに居て、夫も一緒に居る。他の友達とか、親に会えないのは確かに悲しいけど、それでも結鹿とは好きな時に会える。だから、もう良いの」


 結鹿と女は、互いの時間を埋め合う様に頷く。そこが墓場である事を忘れる程度に、和やかな気配が漂っていた。彼女達が古い友人関係である事に、疑う余地は無かった。

 女の目が、碧の元へと向かった。複雑そうな顔色で碧の姿を確認すると、彼女は結鹿と再び目を合わせる。口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。


「新しい友達が出来たんだね。私より大切な人が」

「いや」結鹿は首を振った。「大好きな友達だ。君も、碧も。ただ、君が離れていくのが怖くて、疎遠になってしまったのは認めるし、何より、君には私より大切な人が居るからね」


 口ぶりとは裏腹に、結鹿から見られる感情は嫉妬ではなく、祝福だった。心から相手を思う気持ちが感じられて、優しさが溢れている。

 暁は思わず拳を握った。九島がその腕を掴み、悪戯小僧にも似た笑みで制止してきた。

 その流れに結鹿は気づかず、かつての友人へと向かって、穏やかに手を伸ばす。


「結婚されるって聞いた時、やっぱり不安になったから、置いて行かれるんじゃないかって、そう、思ったから」手を引き、結鹿は頷いた。「でも、いいんだ。今は君が笑ってくれるんだから」


 不意に、結鹿の手が碧の髪を撫でる。

 碧が驚いた風に震えた。顔を押しつけている為に、表情は伺えないが、撫でられながらも小刻みに首を振っている。

 その姿を見ながら、結鹿は少しばかり不安げな調子で、それでも淡く微笑んだ。


「碧もきっと、いつか結婚するんだろうね」結鹿が囁く。「その時は、遠慮しないでね。私は、大切な人がみんな幸せになってくれるのが一番嬉しいんだから」


 何事か返事の様な事を呟くと、碧の首が大きく横へと振られる。

 碧は結鹿にしがみついた。それを危なげなく受け止めると、結鹿は照れた様に微笑んだ。


「碧、怒ってる?」


 碧はまた首を振り、しがみつく力を強めている様だ。苦笑気味に受け止められ、受け入れられている。

 その姿を眺めて、暁は何を告げるべきかを考え出せずにいた。

 暁は彼らにとって部外者なのだ。九島も、他の者達も、この場では第三者に過ぎない。

 老警官が挨拶を告げてきて、暁は頭を下げる。彼もまた、部外者だ。

 しかし、老警官は結鹿へ話しかけた。呼びかけられた彼女は胸元の碧を見つめて、小さく首を振る。すると、目前の女が娘を夫に任せて、結鹿に話しかけた。


「結鹿、ちょっと離れてくれる? この子、碧さんと話がしたくて」

「そうか」少し考え、結鹿が答える。「いいよ、でも、仲良くしてね」

「それは、うん」


 僅かに言葉を詰まらせながら、女は承諾した風な素振りを見せる。

 目を細めつつも、結鹿は碧を引き離し、その身体を女の居る方向へ回す。碧は少しだけ抵抗したが、すぐに大人しくなった。

 結鹿は二人の友人が顔を合わせた所を見届けると、老警官と共に距離を取った。

 共通の友人が離れた場所に行った事を確認し、女が碧へと話しかける。 


「私の事、どう思う?」

「結鹿さんを置いて幸せになった人」碧はきっぱりと言い切った。

「厳しいんだね」女が苦笑する。「だけど、本当の事かな」


 静かに言葉を聞き入れて、碧は目を瞑った。表面的には大人しくしている様にも見えるが、その実がどうなっているのかは、親しい人間にしか分からないだろう。

 暁にはその胸中が分かった。それが、女には理解できているのだろうか、彼女はほんの僅かに頭を上げて、思い出に浸る様に語り出す。


「結鹿はね。沢山の人を愛せるし、愛されている人なのよ。九島さんや、あのお店に来ている人は、大体彼女のお友達なの。だから、私が居なくても彼女は大丈夫。むしろ、夫と一緒に居る私を見たら、彼女は傷ついてしまうかもしれない。そう、思っていたんだけれどね」

「何人居たって、自分と一緒に居てくれなくても。大切な友達は、大切な友達です」

「そうだね、今は、そう思う」


 同じ人物を友としている二人は、無言で相手の顔を見つめ合った。年齢は十歳以上離れているが、全くの対等だ。むしろ、碧の方が圧している風にも感じられる。言葉に出さずとも、その視線が強く女を責めている事は明らかで、相当の重圧である様に思えた。

 その気持ちは正しい物なのか、暁には判別出来なかった。しかし、碧は結鹿にその全てを注ぎ込んでいるのだ。間違っていたとしてもそれが何だというのだろうか。

 碧の感情から何を見出したのか、女は自分の髪へと手を伸ばし、そこに有ったヘアピンを外す。留め具を失った髪が小さく流れた。


「このヘアピン」碧へと差し出す。「使って欲しいの。彼女、あれで凄く寂しがりだから」


 暁は、碧がそれを受け取らないのではないかと思った。しかし、碧はそれなりに丁寧な態度で受け取った。

 渡した当人すら意外そうにする中で、碧はそのヘアピンをポケットに入れた。髪に付ける気は無いのだろう、碧は美流に向かって微笑みかけ、「幸せにね」と呟くと、女へ向き直った。


「私は、あなたみたいにはなりません。結鹿さんの心は、宇宙より重いんだから」

「だろうね、でもありがとう、美流がよく懐いてるんだもの、あなたは、悪い人ではないと思うから」

「悪人かもしれないですよ。いえむしろ、私ほど悪い人はそうそう居ないかもしれないよ? ねえ、暁君」


 俺に振られても、という言葉を秘めて、暁は首を振る。

 会話はそこで終わり、二人は静かに握手をした。


「あ」そんな時、美流が不意に墓地の入り口へと視線を向けた。


 視線の先を追うと、墓に近づく少女の姿が見える様になる。暁も、その人物の事は知っていた。美流の親友で、未だに強固な想いを胸に秘めた少女だ。表向きには冷静に顔色を保っているが、心中がどれほど荒れているのかは、想像出来ない。

 少女が姿を見せた途端、美流の母親はその目と胸が一瞬だけ空洞となり、また元へ戻った。申し訳なさそうな目をしている。

 勿論、少女にはその様なおぞましい姿は見えていない。彼女は、姿の見える暁と美流の父親へ頭を下げて、そのまま墓石へ花を供えた。結鹿はまだ老警官と話し込んでいて、気づいていない。


「なあ、その」たまらず、暁が声をかける。

「何ですか」少女が目を開け、暁を見た。


 何とか気丈に振る舞っているが、その目は空虚だ。彼女は、いつまで耐えられるのだろうか。


「美流ちゃんの事なんだけどな」

「はい?」興味を持ったのか、少女が一度腰を浮かせる。

「君に、忘れられたいって、そう思ってるみたいなんだ」


 少女が不快そうに目を細めた。分かった様な口を叩くな、そう言われている気分だ。暁は、慎重に言葉を選びながら、少女に向かって話し続けた。


「突然かもしれないが、実は、俺には死んだ人間が見える」

「幽霊が?」

「幽霊、まあ、そうだな、幽霊だ」


 胡散臭そうな視線に、暁は内心で笑った。自分自身も、同じ様な目をしていた時期が有ったに違いない。

 そして、今や暁は死人の存在を疑っていない。暁は厳しい自然に負けず、不敵に腕を組んだ。


「そして、彼女は今、君の目の前に居るんだ。本当だぞ」

「本当ですか?」


 酷く疑っているのが見える。信じていない様だ。美流の父親が居心地の悪そうな顔をしているのが見えた。当人である美流は、青ざめながら涙を浮かべていた。

 美流へ親指を立てて、暁は少女に迫る。


「信じろ、会いたいんだろ。姿が見たいんだろ、なら、信じてくれ。美流ちゃんは、君の目の前に居て、泣きそうな顔で、君を見ているんだ」

「悪い冗談としか思えないわ」少女が怒りを口にして、すぐに収める。「失礼しました」

「いい。それより、俺の言う事を信じてくれ。信じられないのは分かるけどな」


 話している内に、気づけば少女の両肩を掴んでいる。不快げな表情も、今は見ない事とした。


「君はだって、彼女を愛してるんだろう。見たいと思えば良いんだ、同じ物を見たいって強く思い続けていれば、いつかは美流ちゃんの顔が見られる。少なくとも俺はそうだった。大切な人と同じ物を見たいと思ったから、見えたんだ」

「子供だと思って、そういう話をすれば騙されて喜ぶとでも思っているのかしら」


 少女の反応は芳しくない。美流が今にも声をあげて泣き出す寸前だ。


「いい加減にしてください。美流は、死んだんです」


 暁を無視する事に決めたのか、少女は構わず墓石に向かって座り込んだ。

 そんな時、計算された様なタイミングで虹色の髪が視界の端に写った。


「見えないのは寂しいね」距離を無視した九島の声が届く。


 虹の髪が揺れたかと思うと、九島が気づけば美流を墓石に座らせていた。

 すると、少女の表情が激変した。不信感を露わにした表情から、一気に涙が溢れ出し、驚愕と驚喜が押し寄せた。

 少女は他の全てを放り出して、美流の元へ飛び込んだ。それを美流は受け止め損ね、二人は揃って転ける。体を打ち付ける前に、九島が支えた。

 少女は何度も謝罪をしながら、喜びや感謝も口にしている。その声は殆ど叫びだった。

 あえて聞く事は無いだろう。そう言いたげに九島が首を振り、二人の少女から距離を取る。その手に有ったのは、勿忘草だ。暁は瞬時にその花言葉を思い浮かべた。

 九島が勿忘草を手渡す。


 受け取った碧が、華やかな笑顔を見せていた。しかし、その顔を見た途端、暁は何やら寒気を覚えた。

 周囲が朗らかに笑っている中で、暁は不安に包まれていた。





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 授業を終えた暁は、碧の部屋に繋がる階段を上った。

 大きな欠伸をしながら廊下を歩く。視界には多くの物が見えている。周囲に死人は一人も居ないが、気配は確かに感じる事が出来た。

 暁は会心の笑みを浮かべる。世界が広がる様で、狭まる様な気分だった。友人と同じ物が見える事は、歓迎すべきだ。特に、碧が相手であれば。

 もはや見慣れた玄関の前に立ち、暁はインターフォンを鳴らす。やはり、胸の高鳴りなどは無い。ただ軽やかで幸せな気持ちだけが有る。碧の事は恋愛対象ではなく、放っておけない、人生を賭けられる友人だと見ているのだ。

 外見に気を遣う事も無く、暁は中からの反応を待った。しかし、何も返ってくる事は無い。ドアノブを捻ってみると、鍵は閉まっていなかった。


「入るぞ」


 一声をかけて、玄関に入る。写真が飾られていた。美流とその家族、そして暁と結鹿と碧、老警官や青年に老夫婦。一番端に虹の髪が見切れている。普通の人間には心霊写真か何かにでも見えるのだろうか。実際には、単なる集合写真だ。思わず笑いがこみ上げた。

 見慣れた洗面所の横を通り、リビングの扉に手をかける。ほんの滓かだが、嫌な臭いがした。嗅いだ事の無い、不快な雰囲気だ。碧はそういった物を気にする類の人間だった。不快感を覚えながらも、暁は扉を開く。

 正面に広がる部屋は、碧の趣味が反映された薄い紫の可愛らしいタペストリーが壁に飾られていて、前に来た時よりも本の数は増えている。

 購入したシュークリームの箱を机に置き、台所へ視線を送る。結鹿はそこに居ない。

 ならばと、暁はベッドの方向へ歩く。誰かが泣いている声が聞こえて、自然と足が早くなってしまう。

 ベッドが見えた。暁は息だけを吐いた。

 声が止まった為に、吐息しか漏れる物が無い。暁はゆっくりと、ベッドにへたりこむ結鹿の背中と、シーツの上で死に絶えた碧の姿を認識した。

 碧は両手で包丁を握り、その胸に突き刺していた。シーツは彼女から漏れだした色に染まり、鉄の様な、病院にも似た臭いが仄かに漂っていた。凄まじい不愉快さと同時に、碧が確実に命を失った事実が見て取れる。分かりやすく死んだ人間の姿である。部屋は荒れていないが、シーツと布団は酷く乱れていた。

 啜り泣く声がした。結鹿の物だ。呆然自失の彼女は碧を抱き上げて、壊れているのではないかと思える程に、その頬に頬をすり寄せていた。肌の擦れる音は聞こえず、シーツの音だけが鳴る。譫言の様に何かを言っているが、暁もまた、それを聞き取る気力は無い。

 虚脱感を覚えながら、暁は結鹿へ近づいた。音に反応して振り向き、結鹿がその顔を晒す。悲哀と無気力の混じった、死人の目だった。


「死んでるのか」


 結鹿は答えないが、静かに頷いている。見れば分かる。碧の凄惨な姿を見て、それでも生きていると思うのであれば、それは妄想の類だろう。

 暁は周囲を何度か見回す。碧の姿は見当たらない。まだ死人として姿を現す事は無い様だ。息を吐き、臭いに不快感を覚える。結鹿は、震える肩のまま、何やら咎める様子の視線を浴びせてくる。


「驚いてるし、動揺してるさ。当たり前だろ」


 言いながらも、思考は冷えていた。碧は死んでいる。


「そんな態度って」結鹿は怒りを露わにしたが、すぐに我に返り、碧の元へと戻る。髪を撫でて、やはり泣きはらしていた。


 碧の表情を覗き込むと、それが笑顔である事が分かった。何かを強く信じていなければ、そんな顔は出来ない。そう確信させる程、はっきりとした笑みであった。痛みは感じなかったのか、暴れた様子は無く、殆ど即死だった事が伺える。薄く霧のかかった現実味の無い頭の中で、暁は、少しだけ安堵した。碧は苦しまなかったらしい。

 暁は結鹿の背中へ近づいた。碧を抱き締めて泣き続け、そのまま血を吐いて死んだとしても、不思議ではない。

 柔らかな笑みを浮かべた碧と、泣き潰れる結鹿を見比べて、暁は鞄の中へ腕を入れる。幸い、深く仕舞っていた為に、まだ中に入っていた。


「結鹿さん」


 返事は無い。碧の事で精一杯なのだろう。それで良いのだ。

 暁は結鹿の背中が手に届く距離まで近寄った。そして鞄の中に入っていた包丁を取り出し、包丁を結鹿の背中へ突き立てた。刃が、恐ろしい程にあっさりと柔らかな肌へ飲み込まれた。

 呻き声の一つも無く、ただ刺し殺す感覚が伝わってくる。しばらく肉料理は作る事も食べる事も出来ないだろう。暁は、ぼんやりと考える。

 暁は包丁を引き抜きながら結鹿に正面を向かせる。そして、確実に死ぬ様に、碧と同じ場所へ包丁を突き立てた。

 結鹿の感情は驚愕へ変わり、疑惑の眼へと変わった。


「つまり」殆ど消えかけた声だ。「暁さんが、碧を?」

「違う」暁は首を振って答えた。


 ようやく、驚愕が一回り以上した事で、暁の頭が冷えていく。胸は異常な程に鼓動を打っていて、今にも止まってしまうのではないかと思われた。やっと意識が現実に追いつき、体中が震えだしたが、暁はそれを堪えた。

 結鹿は、自分が何故刺されたのかを理解していない様子だった。暁は興奮の様な心地に任せて彼女の襟首を掴み、強引に引き寄せた。


「絶対、姿を見せてくれ」暁は言葉に確信を込めた。死人が見えるからこそ言える事だった。「碧は死んだ。けど死んでも終わらないんだ。だったらあいつを一人にしない為にも、結鹿さん、悪い、死んでくれ」


 美流の気持ちが深く理解出来た為に、暁はいびつな笑みを作った。片方が生きていれば悲劇になりかねないが、両方とも死んでいれば、永遠の幸せが約束されたも同然なのだ。そして、残念ながら碧を幸せに出来るのは暁ではなく、結鹿なのだ。

 結鹿をベッドへ放り出すと、彼女は碧の横へ転がり落ちた。二人の身体が重なり合う様にして倒れ、二人分の赤色が広がった。

 理性が返ってきたのか、暁はおぞましい気配を覚える。人を殺す感触が手に残り、肉体が勝手に暴走して痙攣を起こしていた。何の関係も無く、罪悪感は凄まじい。耐え切れそうも無いと悟り、暁の中に、彼女達と共になら命は安い物ではないかという考えがよぎる。


「いいや、駄目だよ」一瞬の迷いを、結鹿が止めた。「君が死んだら、碧が悲しむんだから。それに、それにね、あなたは、生きないと」

「それは」


 それは俺に対する罰か、そう言いかけて、暁は口を噤んだ。この素直で分かりやすい優しさを持った女性が、その様な皮肉を口にするとは考えられない。代わりに、深々と頭を下げる。


「悪い。俺で良かったら、何でも言ってくれ。何でもするし、人だって殺してやる。碧を不幸にしないなら」暁は気づいて、首を振った。「死んでたら、聞こえないか」


 結鹿はもう動かなかった。碧も、当然ながら動く事は無い。

 包丁は刺さったままだが、引き抜く気も起きない。暁はそのままベッドから離れて、机の上の箱を一瞥した。どうでも良くなり、放置する事を決める。誰かが発見するまでは、警察を呼ぶ気も起きない。 

 暁は髪を乱暴に崩して、震えながら玄関へと去る。封印する様にリビングの扉を閉めて、心臓を無理矢理落ち着かせようとした。しかし、それは出来ない。止まれと願っても勝手に動き続け、暁を生かし続けている。

 決して振り返らず、暁は玄関のドアノブを捻る。その衝撃で写真が落ちたが、気にならない。

 捨て鉢の思いで扉を開くと、玄関先で、虹色の髪をした青年が待ち構えていた。いつもより若干真剣な面持ちだが、それでも鬱陶しい程に笑みは存在した。


「で」九島が言う。「アオちゃんは、死んだの?」


 黒幕にも感じられるその顔に、暁は思わず殴りかかっていた。




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 碧と結鹿は、死んでいた。

 生き物の気配はしない。死人の冷たい雰囲気だけが、漂っている。

 部屋の中は碧の心を表しているのか、清潔感が有った。ただ、棚の上に並べられた心霊物の本や映像ソフトが、異彩を放っている。写真立ての、見える人間にしか分からない写真の数々に、結鹿は少しだけ元気づけられた。胸の包丁は邪魔だったが、到底抜こうとは思えなかった。

 結鹿は、静かに碧の手を握った。碧の腕に脈は無い。

 碧の遺体は、床の上で寝そべる様に倒れ、目を瞑っていた。その胸からは血が流れていたが、表情は安らかだ。

 そう、安らかな笑顔だ。結鹿は、薄ぼんやりとした頭でそう考えた。胸を突き刺すという惨い死に方でも、碧は苦しまずに死んだのだ。それだけが、せめてもの救いだ。きっと、暁もそう考えた事だろう。

 たまらず、結鹿は碧を守る様に抱き、指を絡めて手を繋ぎ続けた。結鹿の瞳からは涙が酷く流れている。何やら切ない心地のまま、碧の手を固く握り、全ての苦しみから守ろうとした。

 死後間も無い為か、碧の死体は一つも劣化していない。まるで生きていると主張するかの様に生気を放っていた。しかし、それでも碧は死んでいた。そして、結鹿も死んでいた。それが現実だった。

 結鹿は碧と手を繋いでいた。少しも動かず、流れた血が床へと染み着いていたが、結鹿は気にせず、死んでも切れない絆だと言わんばかりに、手を繋ぎ続けていた。

 心霊ものの体験記が綴られた文庫本。その帯には、「死は救いなのか?」と書かれていた。結鹿が書いた本だった。




 そして、結鹿は起き上がった。暁が戻って来ないのを確認したからだ。


「暁さん、本当に碧が大切なんだね」


 碧の亡骸を傷つけない様に手を離し、結鹿は唇を噛んで名残惜しい気持ちを封じ込める。結鹿の背中には傷一つ無かった。死人は殺せない。結鹿は最初から死人なのだから、刺された所で痛みも無ければ苦痛も無く、死ぬ筈も無かった。心だけが激痛を覚えていた。

 写真の一枚を手に取って、撫でる。それは、碧に膝枕をされる結鹿の写真だった。カメラの持ち主は写っていないが、取ったのは九島だろう。美流の父親や九島など、ごく希に居る、見る才能の無い人間にすら見える死人。例えそうであったとしても、見える人間にしか見えないだろう。才能の無い人間には、その写真が座っている碧の姿しか見えない。

 その中には暁の写真も有る。刺されたが、結鹿は怒りを覚えていなかった。むしろ感心すら抱いていた。

 碧の為なら何でも出来る。恋人でも何でもない、ただの女友達の為に。

 暁の気持ちの深さに、結鹿は祝福を送った。そして、碧の遺体へ改めて近寄り、その頬を極力優しい手つきで掴んだ。


「バカ」


 碧は、自分の胸に刃物を突き立てている。壮絶な痛みだっただろうに、彼女は暖かく微笑み、儚く短い命を終えていた。その様な幸せそうな死に様に至るまでに、どれほどの苦しみが有ったのか。


「幸せに、なって欲しかったのに。どうして、こんな」気づけば、弱音が漏れていた。「そんなに、生きてる事が辛かったの? 碧は、いつもとっても幸せそうに生きていたのに。それが、ずっと前から死んでいた私にとってどんなに楽しかったか。それとも、私に隠していたの?」


 結鹿が死んだのはそれなりに前の事だ。そんな生きていた時代より長い結鹿の死者として過ごした時間で、最高の友達だと言えるのが、碧だった。中学生だった頃から少しずつ成長していく彼女に寄り添っていた結鹿には、失われた物が命だけでは無い事が何よりも深く理解出来た。

 彼女は、学校を卒業して仕事に就き、いずれは誰かに恋をする事も、される事も有る筈だったのだ。いずれは結鹿より大切な人を見つけるかもしれないし、そうではない可能性も有った。しかし、その命と可能性は、この場で失われて、永遠の停滞に乗り出してしまったのだ。

 幾ら死人が見えて、死後の全てを知っているからと言って、それで人生が無価値になる訳ではないと、碧は知っている筈だった。しかし、現実に遺書が置かれていて、碧は死んでいる。

 遺書が置かれている所を見た限りでは、事前に準備を整えていたのだろう。彼女は万全な状態で死を選んでいた。毎日側に居た結鹿にすら気づかれない程、自然に隠していたのだ。いや、自分が鈍感だっただけなのかもしれない。結鹿はそう考えた。


「悩みが有るなら言って欲しかったのに、バカ」打ちひしがれた気持ちで、碧の髪を一つずつ撫でる。「碧なんて大好きだ。碧がこんな事をすると分からなかった私は大嫌いだけどね」


 何より悲しい事は、碧が死を選んだ理由がまるで分からない所だった。遺書を読めば分かるかもしれないが、それは生きている人間が見るべき物だろう。

 結鹿が碧の手を覆う形で握ると、そこに何かはみ出た物の感触が有った。確認してみると、包丁と共に碧が何かを握っている。結鹿はそれを丁寧に取り出した。

 昔の友人が着けていたヘアピンだ。手作りで、絶交を言い渡された時に、彼女の幸せを願って結鹿が贈った物だった。どうして碧が持っているのか、結鹿は知らない。しかし、どうすれば良いのかは、分かるだろう。

 結鹿は、死体にヘアピンを着けさせた。碧の髪は触り慣れているのだ。

 指先が酷く震えていた。それが単なる死体で、生きていない事は分かっている。分かっている。結鹿は、そう言い聞かせた。


「似合うよ、凄く」嗚咽を漏らしながらも、何とか言葉が出ている。「実はこれ、私の手作りなんだ。大事にしてね」


 涙を乱暴に拭い、結鹿は立ち上がった。包丁を引き抜き、その場に残っていた暁の痕跡を隠す方法を考える。碧も、彼を殺人犯にするつもりは無かっただろう。

 ともあれ、何度も来訪しているのだから、彼の存在を消す事は不可能だ。包丁と、机に置かれていたシュークリームの箱を持って、結鹿は部屋を後にする。棚の上の写真を持っていきたいと考えたが、それは全て碧の生きた知人が受け取るべき物だと考え直した。

 名残惜しく思いながら、結鹿はリビングを出た。


「あ、結鹿さん。何か、変な臭いがすると思わない?」


 玄関の内側に碧が立っていた。


「鉄? よく分からないけど、変だよね。ガスとかでも無さそうだし」


 自分が死んでいる事は完全に忘れているらしく、自宅から漂う滓かな臭いに眉を顰めている。

 結鹿は思わずシュークリームの箱を落としかけ、慌てて握り直した。目の前に居るのは間違いなく死んではいたが、間違いなく碧だった。首を傾げて部屋の状況を尋ねてくるが、結鹿は返事をせず、包丁を箱に片づける。

 涙を堪えながら、結鹿は碧へと抱きついた。


「え?」戸惑いながらも、碧は抱き締め返す。体格的に少し無理が有る。「どうしたの?」

「ちょっとね!」

「ちょっとって、ゴミでも撒いちゃった?」

「いや、大丈夫だよ。ちょっとした事だから。さ、折角だし外へ出よう、遊びに行こう!」


 嗚咽を笑い声で誤魔化しながら、結鹿は碧を玄関から押し出す。決して死体を見せる気は無い。いずれ気づいてしまうだろうが、それでも、碧の顔を曇らせたくはない。

 碧はよく分かっていない様子だが、誘いを断る気はないのか、素早く嬉しそうに「うん」と返してくる。結鹿と一緒に居るのが幸せで仕方が無い、そういう顔だ。照れくさくもあり、苦しくも有る。


「そうだ、碧、一緒にカフェへ行こう。コーヒーを飲んで、そう! 折角だからこの間のケーキをまた食べよう。あれ好きなんだ。ほら、ほら!」

「え、え」碧が訝しげに足を止める。「ちょっと、結鹿さん?」

「うん? どうかした?」

「なんか、変だよ?」


 少ない言葉で尋ねられた内容に、結鹿は動揺を覚えた。しかし、即座に我に返り、無理に調子を上げた。


「気にする事でもない! そんな事より二人一緒に楽しく過ごそう! 何せほら、時間は幾らでも有るんだから!」


 親友の手を引くと、今度こそ彼女は止まらずに付いてくる。

 死んでいても、手は温かいままだ。結鹿は悲しみ、泣きながらも少しだけ喜び、喜びを覚えた自分を自分を唾棄し、この世の何よりも憎悪した。

 碧は死んだ。だから、もう死なない。どこにも行けないのだ。つまり、結鹿はもう一人ではないのであった。

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