第9話
緑は碧とも読む。
夕方の空は赤いのではなく、まだ青いのだ。あおい、碧だ。ミドリともアオイとも読める名前に、緑という名字があって、冗談の様な物なのだ。親は語呂と美しさの有る名前だと嘯いていたが、本当は冗談だったのだ。そんな風に、照れ混じりの顔で話していた。
結鹿は頭の隅でそんな事を考えていた。名前を褒めた時、碧はそうやって照れる。そうした時、結鹿はこう告げるのだ、そんな事は無い、碧はいつだって名前より素敵な子だね、と。
「友達はいいよ。辛い時も苦しい時だって、助けてくれる。助けになりたいと思えるんだから」
結鹿は微笑み混じりに呟いた。それは独り言の様だったが、はっきりとした返事が飛んでくる。
「だよねっ。私も同感、友達は凄くいいんだよ。特に」
「人生を賭けられるくらい大切な友達は、特にね」
「それ」美流が不満げに手を握る。「言いたかったのに」
服を引っ張られた結鹿は、微笑ましい気持ちとなって頭を撫でる。美流が、猫の様に頬をすり寄せてくる。親友によく似たこの少女は、性格も割に似ていた。素晴らしい愛らしさと、暖かみと、懐かしさを感じるのだ。
美流は怪訝そうに首を傾げた。その反応が面白く、結鹿は少しだけ幸せを感じた。より大きな苦しみは有ったが、構わなかった。
「さてっ」
柏手を打って音を立てる。墓の隅に有る林の中は、雰囲気が暗く、夕日が僅かに差し込んでいる。その光は、薄暗さの中で司会に入り込み、眩しく感じてしまう。
片手で光を遮りながら、結鹿は振り返った。木に縛り付けられた人間は、逃げる訳でもなく、ただ唖然とした表情で結鹿と美流を見比べていた。
美流は包丁を握り、それを木に振り下ろす。大木の為に、多少の傷にしかならない。
「残念、力は増えてないや」
「かもね、美流ちゃんはまだ子供なんだし、しょうがない」
「そうだけど。でも、人を殺すくらいなら簡単だよね?」
「まあ、それくらいは」
美流がポーズを取った。包丁は多少刃こぼれしていたが、人を刺し殺すくらいなら問題無い様に見える。
楽しそうに柄を握り、鼻歌混じりに物騒な雰囲気を垂れ流す美流の姿。それは、寒気がする程に無邪気だった。
「待ってくれよ」そんな時、縛り付けられた男が混乱を示す。「一体、何がどうなってるんだ?」
まるで状況を分かっていない様子だが、流石に自分が殺されかけている事は理解出来るのか、男は大いに顔を歪めている。
結鹿は微笑みを作り、人差し指を立てた。
「素敵な事を教えよう」
「思い出しちゃったんだよね、私。自分がどうして死んで、どうやって死んだのか」
自分の発言を引き継いだ美流にウインクをして、結鹿はしゃがみ込んだ。男と目が合う。
「その話を聞いた私が、あなたをここで縛り付けるのに協力したんだよ」
「どういう事だ」男は何度も目を開閉している。「美流は、あいつが」
「確かに、この子を殺したのはあいつ」美流を指さす。「つまりこの子の母親だけど、原因はもうちょっと複雑だね」
「確かに、もうちょっと違うんだよ、お父さん」
包丁の刃を嬉しそうに撫でると、美流はその柄で男の首筋を叩いた。
目映い笑顔を浮かべながら、彼女は父親を殺そうとしている。薄ら寒いものだが、不気味には見えない。
父親の眼前で素振りをして、これからの事に期待を膨らませる姿は、まさしく子供の物だった。
結鹿は苦笑しながらも、男が愕然とした表情をしている事に気づく。何か勘違いをしている雰囲気に見えて、思わず訂正を入れた。
「いや、違う。無邪気に人を殺すとか、そういう事じゃない。そうじゃないよ」
「じゃあ、一体」
男は何より混乱している。その姿に共感しながらも、結鹿は首を振り、そして美流へ視線を送る。彼女は嬉しそうに包丁を眺めて、その場の木で切れ味を確かめている。明らかに殺人を前にしている。
「まさか」
見れば分かる。その意図を込めた視線は、男に届いたらしい。
「この通り。だって、先に殺そうとしたのは、美流ちゃんなんだから」結鹿は肩を竦める。何と酷い真相だろうか。
「そうなんだよね。包丁で刺そうとしたら、お母さんに抵抗されちゃって。何とかお母さんは死んでくれたけど、私も一緒に死んじゃった」
全く悪びれない、自分が死んだ事も何とも思っていない態度で、美流は舌を出した。
男の表情は驚愕で固まっている。無理もない事だ。
「どうしてそんな」
「簡単な事だよね。二人が死ぬ前に何が有ったのか、あなただって知ってるでしょう」
結鹿は内心の怒りを隠した。それでも男には何か思う所が有ったのか、彼は少しだけ考え込み、戸惑いながらも顔を上げる。
「喧嘩、か?」
「その通り!」結鹿は大げさな反応を取った。そうするべきだと思ったからだ。「喧嘩くらいで娘と心中する様な人じゃないよ。あなたの喧嘩は確かにきっかけだったけど、当事者は関係無い」
「関係が有ったのは、私だよ。お父さん」
「どうして」男は譫言の様に尋ねた。
「そんなの、決まってるよ。死んでからの方がお父さんもお母さんと仲良く出来ると思って!」
単純明快に答えたが、男は全く理解できていない様子だ。美流は首を傾げて、続けた。
「ほら。死んだ方が人は素直になれるし、幸せなの。お父さんは知らないと思うけど、死んだ後に人生が繋がってるのってね、凄く幸せな事なんだよ。分からない?」
「そういう事だよ」
結鹿が告げると、男は放心状態で全身の力を抜いていた。やっと表面的には理解できたのか、その呼吸が静かになる。
「つまり、俺の性か?」
結鹿は答える口を持たない。人が死ぬ事を恐れるのは概ね人が死後の有無を知らないからだと、そう語った事を不意に思い出す。今の美流は、まさにそれを示す様な存在だ。
美流の顔を眺めて、結鹿は頷いた。すると、男は俯き、何事か呟く。
表情を見れば、何を口にしたのかは明らかだ。結鹿は深く息を吐き、その場で心を落ち着かせる。
「とりあえず、あんまり痛くない様にするからね」美流が包丁を握り直した。「お母さんの時は抵抗されたお陰で、凄く痛かったんだよね、私も、多分、お母さんも」
美流には殺気も邪気も無いが、男を殺す気でいるのは明らかだ。
そんな娘の顔付きから何を見たのだろうか、男は目を閉じて、次に開いた時には、何事か決意を秘めていた。
「やってくれ。どうせ、無駄に生きていた様な物だ。美流の為に死ねるなら、これ以上は、無いな」
「そっか」
「そう、これは身から出た錆さ。仕方ないよな」
男は疲れはてた様子で木に身を預けた。そのまま目を瞑り、手を深く握り込んでいる。
美流の指が男の首へ近づいた。包丁を振り落とす場所を決めようと、幾らか肌に触れて、切り易そうな場所を定めている。しかし、美流が決めるより早く、男は首を振った。
「待てよ。美流にやらせる事は無いだろうが。俺の娘に人殺しをさせる気か」
僅かに開かれた目が結鹿を捉える。険しい視線に、結鹿の口元で笑みが漏れた。
「私が、すればいいのかな?」
「そうだ。あんたが俺を殺せ。出来れば一発でやってくれよ」
それだけ言うと、男はまた目を瞑って動かなくなった。逃げようとする素振りは一つも見て取れない。
結鹿は美流に視線を送った。
「あのさ、結鹿さんは人を殺せるの?」
「さあね」
美流が不満そうな顔色を見せた。自分が殺すのは良くとも、人が殺人を犯す事には気が咎める様子だ。
「しかし、この人が納得してくれそうも無いから」
「しょうがない、かな」
あくまで不満げな美流は、渋々と包丁を手渡した。
受け取った包丁を眺め、結鹿は苦笑する。それなりによく研がれた包丁だ。美流がどこからか持ってきた物で、人くらい殺せるだろう。刀身が光り、鏡の様に風景を写していた。綺麗に手入れされている為か、背後がよく見える。
笑みを浮かべ、結鹿は男へと近づいた。美流はまだ嫌そうな顔をしている。
「それじゃあ、また会いましょう」
結鹿は包丁を握り締め、男の目前に立つ。丁度、首を切り落とせる位置だ。しかし、包丁の切れ味では無理がある。人を殺す知識など持っていないが、普通に考えれば分かるだろう。
深く息を吸うと、結鹿はそれを吐いた。特に意味の無い行動だ。
僅かばかり落ち着くと、結鹿は一歩、男へ近寄る。
背後で、何かが揺れる様な音が響いた。それは風が木を揺らす時の羽音に似ていたが、そうではない事がすぐに分かる。振り向いた先に居る人物が誰なのか、結鹿は見なくとも分かっていた。
「待って、結鹿」
そこに居るのは、結鹿にとっては古い友であり、美流にとっては母であり、男にとっては妻である。そんな女だ。
彼女は完全に五体満足な様子で立っていて、悲しげな目で結鹿を見つめている。
互いの視線が混ざり合った。慌ててこちらへ来たのか、彼女は肩で息をしていた。死んだ人間も、そうやって慌てれば息くらい荒くなる物だ。結鹿は手を挙げて挨拶をした。
「ああ、久しぶり。この間はごめんね」
女は、一瞬だけ結鹿に目を向けた。しかし、すぐに目を逸らして美流に抱きついた。
抱きつかれた美流は、戸惑いがちに首を振る。しかし女は離さず、しっかりと襟元へ手を回して身体を固定する。
「ちょっと、お母さん?」
何も言わず、女は美流を抱き締め続けた。やがて美流も慣れたのか、母親の頬に手を伸ばす。
美流の戸惑いに反応して、男が目を開ける。至近距離で見た妻の姿に何を思ったのか、彼は静かに驚愕を浮かべて、次いで涙を流す。
やっと、家族が揃った様だ。結鹿は思わず会心の笑みを浮かべた。すると、背後から柔らかく温かな身体が抱きついてきて、手に持った包丁を地面へ落とさせた。
「結鹿さん、心配したんだよ」
「碧」振り向かずとも、空気で分かる。
「ダメだよ。そんなのはあなたが、あなたが一番辛いよ」
小柄な碧の背丈では、完全に結鹿を抱き締める事は出来ない。しかし、碧はしっかりと張り付いて、決して離れない様にしがみついてくる。
背中を暖める感触に、結鹿は頬を緩めた。緊張していた気持ちが解けていく。
「大丈夫だよ」結鹿は碧を離し、正面から抱き締め直した。「誰が友達の娘と夫を苦しめる様な真似をすると思う?」
「それは、そうだけど」
碧の辛そうな表情は、ただ見ているだけで息が苦しくなる。結鹿は、この場に居るもう一人の友に、昔と同じ様な調子で声をかけた。
「一体碧に何を話したのかな、君は」
美流を抱きながらも、女は僅かに震えた。その怯えを見た結鹿が手を伸ばそうとしたが、碧が首を振る。
「あの人は、自分が殺された原因を教えてくれただけだよ。後は私が想像しただけで。結鹿さんなら、美流ちゃんの為にあの人を殺すくらいすると思ったから」
「待って、碧は私を何だと思ってるのかな? そんなに命を軽く扱ってるつもりは無いんだけどね」
「私の目からは、いつだって自分より他の人を大切にしてる様に見えるよ」
微妙な認識の違いを感じ、結鹿は暫く沈黙する。
暁が男を解放した所で、結鹿は口を開いた。「そっか、そう見えるかあ」
「だって、結鹿さんって、友達の為なら命くらい捨てちゃいそうだし、罪だって、犯せると思うし」
「人を殺す事は罪、か」存外に嬉しげな声が出た事に、結鹿は喜色を浮かべた。
命を軽く扱わない所に、結鹿は好感を覚えた。死後が有ると知る人間は命を軽く見る。碧は、それに当てはまらないのだ。
碧がまた深く抱きついてくる。後頭部を撫でると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
「危なかったな、間に合って本当に良かった」
「暁さんまで、私が彼を殺すと思っていたのかな」
「そりゃあな」と言って、暁は困った風な雰囲気を纏う。
暁はともかく、碧まで勘違いをしている。結鹿が軽く笑ってみせると、美流もまた、戸惑いがちな目を向けてきた。
「ちょっと待って、結鹿さん。どういう事?」
「ああ、美流ちゃん、騙しちゃったね。ごめん」
頭を下げて、雑木林の先に手招きをする。
老いた警察官が現れて、結鹿へ向かって頷いた。万が一の場合に待機していたが、その心配は無かった様だ。
「ああ、警察官さん。これで犯人は捕まった、と言っても良いのかな?」
老人は溜息を吐いたが、それ以上に嬉しそうだ。最後に担当した事件の真相が無事に明らかな物となって、心から安堵している。
美流から話を聞いて即座に動き、声をかけて、労力を使わせてしまった。今度、コーヒーでも奢ろう。結鹿はそう決めた。
「結鹿さん、まさかこれは」暁が尋ねかける。
「そう、あの家族が嫌でも再会出来る様に、ね」
「そんな無茶な。下手を打つとあの人は」
「あの人を殺す所だったんだよ」碧が遮った。「分かってるの、結鹿さん」
碧は、凄まじい勢いで怒りを覚えている様子だった。
結鹿はそれを受け止めた。何も相談せず、勝手な事をしたのだから、当然の事だ。
「危うく人殺しになる所だったんだよ、分かってるの?」
「分かってるよ。碧、ごめんね、何も言わなくて」結鹿は心から謝罪し、すぐに碧の手を引いた。「だけれど、大丈夫だよ。ほら、来て」
想像よりも、碧は抵抗せずに付いてくる。他の人々にも手招きをして、雑木林の先に広がる墓場へと出る。
結鹿は美流の入っている墓石へと相対した。その側面には入っている人間の名前がある。そこには、先祖と、家族三人の名前が有った。
「見てごらん。この人、もう死んでるから」
言葉を合図として、碧が真っ先に名前を確認する。
「本当だ」
「死んだ、だって。誰が?」男はそれまでで一番に驚愕している様子だ。「俺が?」
「ええ、死んでたんですよね、だから、美流ちゃんが殺す必要は無いんです」
「そんな、俺は死んだ記憶なんて一つも」
「都合の良い記憶だねえ」誰かの声がする。
声のした方向に九島が立っていた。いつから居たのかは誰にも分からないだろう。
「あの家で死んだのは二人じゃない」住んでいるから分かる、と言いたげだ。「三人だよ。美流ちゃん、奥さん、そして遅れてウチの店員が自殺した。まあ、妻子に死なれたショックでの後追いさ。本人は忘れていたらしいけれど」
説得力を持たせてくれた事に無言で感謝を送り、結鹿が言葉を付け加えた。「墓に行けばすぐに分かる事だよ。名前の部分を読んで、それが夫妻と娘の名前だって知っていれば、誰だって察せる」
美流と母親が石に刻まれた名前を見ている。美流は驚いているが、母親の、彼女の方はまるで驚く素振りを見せない。知っていたのだろう。
小さく咳払いをすると、視線が結鹿へ集中する。
「じゃあ、どうして美流にこんな事をさせようと?」男は首を傾げていた。
「それは君」答えに詰まり、その場で考えた事を告げる。「そうだね。ちょっとした、恨み、かな」
「嘘」碧がしがみついてきた。
「うん、嘘。つまり、折角三人とも死んだんだから、そろそろ全部知った上で、ちゃんと元通りに家族として過ごして欲しいって、そう、思ったから。無理にでも会える様に、ね。だけれど、ちょっと不器用な手だったかな」
我ながら分かり難い説明だ。他に手は、恐らく有ったのだろうが、そこが結鹿の限界だった。
碧の表情が伺えない。怒っているのだろうか、結鹿は不安を覚えたが、それを隠した。
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