第8話


 碧が部屋に飛び込んできたのは、暁が大学から帰り、鞄を置いて、夕食の為に包丁を握った時だった。

 自宅のインターフォンが一度鳴らされて、暁は包丁を置いて玄関へと向かう。その先に居るのが碧だと確認して扉を開けると、寝癖の目立つ髪を束ねもせず、普段着を乱した碧が飛び込んできた。

 暁はとっさに碧を受け止めた。小柄ながら勢いのついた突進は、暁の上半身に強い衝撃を与える。しかし、そこで倒れてしまえば碧まで巻き込む恐れが有る事に気づいて、暁は素早く足に力を入れ、姿勢を安定させる。

 その気遣いを感じ取ったからか、碧は小さく感謝の言葉を告げた。だがすぐに本題を思い出したらしく、潤み濁った瞳で暁を見つめた。


「結鹿さんが居なくなっちゃって」碧は早口だった。「お願い、一緒に探して」

「おい、待て。待てって」


 慌てた暁が両肩を掴むと、碧は何とか言葉を押さえた。しかし、その表情は更に険しくなっている。足下はまるで落ち着きが無く、顔は俯きがちだ。


「落ち着けよ、居なくなったって。昨日一緒に居たじゃないか」

「そうだけど。毎日一緒に居たからこんな事は初めてなの。それに、美流ちゃんも見当たらなくて」


 暁は困った気持ちを抱いた。碧の口振り、あまりにも大げさだった。


「美流ちゃんは結鹿さんと関わりが有るんだろ。色々と話したい事も有るだろうさ。なあ、一日くらい良いだろう?」

「それは、勘違いだよ」碧が少しだけ怒りを現す。「会えないのは、良いの。でも、その時は結鹿さんが何か言ってくれる筈で。こんな風に突然居なくなるなんて、もしかしたら、何か有ったのかもって」

「会話に熱が入りすぎて、あっちで寝ているのかもしれない」

「そうだとしても、もう夕方だよ。絶対、おかしい」


 真剣な面持ちをした碧が、じっと睨んでくる。暁は目を逸らそうと努力したが、出来なかった。


「とりあえず、入ってくれ。髪が酷いぞ。飛び出してきたのか?」

「そんな場合じゃないのに」

「落ち着けって。俺だって、碧が辛そうにしている所を見るのは嫌だ。分かってくれよ」


 ごく自然に告げて、暁は少し気恥ずかしい心持ちとなる。思わず口を閉ざしてしまい、目を背けてしまう。

 感づかれたかを不安に思ったが、全く気づかれていない、碧は心が何処かに行ってしまった様子で、暁の姿などまるで見ていなかった。

 肩を竦めながらも、暁は碧の肩を掴んだ。やっと気づいたのか、碧は正気に返った風に目を見開く。


「とりあえず、髪と服を直さないとまずいぞ、お前らしくもない」


 少しの沈黙の後、碧が頷く。勿論、彼女は暁の部屋の内装を知っている。

 碧は玄関を抜けて、洗面台の方向へ歩いていった。

 背中が消えた所で、暁はもう一度肩を竦める。出会った頃から放っておけない性格の持ち主だったが、最近の彼女は特にそうだ。呆れと懐古が共に溢れる。かつての自分は彼女に恋をしていたのだろうか。ふと暁は考えて、即座に思考を打ち切った。どうでもいい事だ。

 リビングへ戻ると、そこには櫛と包丁を握った碧が立っていた。寒気がしたが、彼女の顔つきは正気だ。


「おい、何で包丁を持ってるんだ」

「それは、結鹿さんが心配だから。もし誰かがあの人を傷つけようとしているんだとしたら、そいつを。そいつを」


 その後の言葉を碧は口にしない。ただ、伏し目がちな表情が伝えてくる。

 暁は、その危うい姿を咎めようとしたが、止めた。


「九島さんには聞いたのか?」

「聞いたよ、何か知っているみたいだけど」固い表情で首を振る。「駄目だね、教えてくれそうもないの」

「つまり、あの人は何か知っている訳だな」

「多分。でも、締め上げたって喋る人じゃないよ」

「実際に締め上げたのか」

「いや、違うけど。その」


 何かを言いかけて、碧は口を噤んだ。頼りにされていない事が理解できる姿だった。

 ともあれ、家に押し掛けてくる程度には信頼されているのだ。暁はそう自分を納得させて、腕を組んだ。碧は相当に焦っている様子だが、暁はそう緊急で動くべき事態とは考えていない。それでも碧があまりにも必死の表情をしている為に、気を緩める訳には行かなかった。

 碧の青色が悪いのは明らかで、暁は飲みかけのコーヒーを手渡した。放っておいた物の為か、少し冷たい。しかし、碧は気にせず飲み干した。


「ありがとう」


 僅かに落ち着いたのか、碧は少しだけ頭を下げる。帰ってきたカップを半ば放り出す様に台所のシンクへ置いて、暁はもう一度座り直す。やっと会話が出来る様な状態となったのだ。


「ごめん、取り乱したかも」

「いいって」


 暁が首を振って見せると、碧は落ち着き無く足を揺らせながらも、大人しく椅子に身体を預ける。目が充血していて、何度も暁の顔を見ては俯いている。

 たった一日結鹿と会わなかっただけで、彼女は酷く調子を乱していた。その姿を見るのは辛い事だ、暁は唇を噛んで、何を告げるべきかを考えた。


「とりあえず、結鹿さんが戻ってくるのを待った方が良いんじゃないか」

「でも、心配で心配で」

「そうか。なら結鹿さんの家の場所は、知ってるのか?」

「その、ごめん。知らないの。大半は私の家で寝泊まりしてくれたから」

「知らないのに、長い付き合いを?」

「そう、なんだ。私の家に来れば良いんだし、結鹿さんはあんまり自分の家の話をしたがらないから、あえて聞く事も無いと思って」


 深々と溜息を吐いて、碧は顔を机に埋めた。髪が乱れて、垂れ下がっている。

 暁は頭を掻いた。待てば良いと告げようとしたが、碧が耐えきれないだろう。


「参ったな。九島さんを本当に締め上げてみるか?」

「多分、教えてくれないと思うけど」碧が僅かに反論する。

「一応、やってみないと分からないんじゃないか」


 碧は固い表情で首を振った。九島という人物をよく知っているからこその反応だった。

 あのよく分からない人の事を考えて、暁は何となく頷く。頭の中に有った疑念を、口にする。


「九島さん、やっぱり知ってたのかもな」

「何?」

「美流ちゃんの事だよ。自分の住んでる家の、前の持ち主だぞ。しかも自分が店長をやっている店の従業員だ。知らない訳が無い。知らないのに黙っていたって事は、だ」


 そこまで話して、暁は思い至った。今まで気づかなかったのが不思議な程の事だ。


「待て、そもそも、美流ちゃんと俺達の出会いは、本当に偶然だったか?」碧の反応を窺いながらも、話を続ける。「美流ちゃんの友達は、九島さんに店へ来る様に言われていたらしい。俺はともかく、結鹿さんと碧は、常連なんだろう。いずれ必ず美流ちゃんの友達と、それに憑いてきた美流ちゃんに出会うと思わないか」


 それを聞いた碧は、少しの間、深刻そうに考え込んだ。

 そして、何かに気づいたらしく、碧は僅かに目を見開き、考え込む仕草を見せた。


「あの人」碧はどこか遠くを見ている。「そっか、あの人が。これを」

「何か、分かったのか」

「うん、ありがとう。暁君のお陰だよ」


 丁寧な程の感謝を受けて、暁は思わず笑みを浮かべた。


「そうか。なら良いさ、何が分かったんだ?」

「それがね、あの人がどういう役回りなのかが分かったんだ。本当に、黒幕な人」


 碧が困った風に息を吐く。そして、僅かに顔色を悪くすると、また悩ましい様子で髪に手を置き、その内の一房を弄ぶ。揺れる髪で遊びながら、碧は顔を覆った。表情が見えなくなるが、雰囲気で感情が見て取れる。


「ただ、結鹿さんがどうして居なくなったのかはやっぱり分からないの。何かヒントになりそうな事は聞かなかった?」

「って、言われてもな」


 思い返しても、それ以上は何も思い浮かぶ物が無かった。暁は素直に答えて、無力感を覚える。碧の力になろうと考え続けたが、答えは出ない。

 暁は立ち上がった。ここで座っていても、何も解決する物ではないと悟ったからだ。


「とりあえず、探そう。九島さんの家なり店なり、どこかに居るかもしれないから」

「そう、だね」碧は調子を取り戻したのか、それまでより穏やかな声音で返事をする。「ここに居ても仕方がない、か」


 椅子を元の場所へと戻し、碧は髪を手櫛で直す。まだ少し癖が残っていたが、気づいていない様子だ。


「おい、髪の癖が残ってるぞ」

「え? どこ?」碧は暁の側へ寄った。「鏡の前に行くのも時間が勿体無いし、直してくれる?」


 後頭部に出来た小さな癖へ、暁は何も言わずに手を伸ばした。結鹿が居なくともある程度は手入れをしているのか、いつも通りの良好な髪質だ。そこに安心しながらも、彼は苦笑する。

 軽く触れたくらいでは直らない。台所の水道で手を濡らしてから改めて触れると、癖はすぐに無くなった。


「よし、直った」

「ありがと、それじゃ行こうか」


 碧は既に別な物が見えているのか、暁へ目を向ける事はしないまま、玄関先へと向かう。

 念の為、暁は包丁を掴む。見つかる事になると大変だからか、鞄の中の出来るだけ外からは見えない奥へと詰め込んだ。そして慌てて碧の背を追う。早く行かねば、碧は構わず放って行くだろう。

 そう思ったが、暁の想像とは異なり、碧は待っていた。


「行こう」

「ああ」


 静かに返事をして、暁は鞄を握る。


「最初は何処へ行くんだ」

「九島さんの所にもう一度行って、それからは後で考える」


 単純な回答を口にすると、碧は既に玄関のドアノブに手をかけていた。靴の踵が半分潰れている。

 暁は心配になりつつも、無駄口は言わない様に努力した。そして、さりげなく碧の隣へ寄り、いつでも腕を伸ばせる様に心を構えておく。

 その時、インターフォンが鳴った。音は部屋の内側から響き、玄関まで届いた。


「誰かな」


 碧の方が反応は早い。しかし、暁が前に出て、外の様子を確認する。

 ドアから外を見て、暁は振り返った。碧が首を傾げている。


「誰も居ないぞ」

「悪戯?」

「多分な」


 廊下から子供の声でも聞こえるかと、暁は耳をそばだてた。しかし、人が居る気配は無い。

 逃げられたらしい。こんな時に、という気持ちを封じて、暁は玄関の扉を開けた。目の前に女が立っていた。

 暁は思わず声をあげて、ドアを閉めかけた。そこへ碧が飛び出し、ドアを押さえて開いたままにする。


「暁君、閉めないで」

「いや、だけどな」

「お願い」


 短い言葉で頼み込まれて、暁は動きを止める。その隙に碧は外へ出て、女へと相対していた。

 前に見た時とは違い、目にも胸にも穴らしき物はない。何か心境の変化が有ったのだろうか。しかし、無言でこちらを見つめる瞳は無機質で、感情が見て取れない。

 碧は、その目の奥に何かを見つけだしたのだろう。彼女は小柄な身体に剣呑な気配を滲ませながら、一歩ずつ踏み出す。

 碧は迷わず女に対面し、恐れ一つ見せる事も無かった。女は、その心に気圧されたかの様に、退いた。しかし、女が距離を取るより素早く、碧はその腕を掴んでいた。


「此処に来たっていう事は、全てを教えてくれる気になった、って事で良いの?」


 女は黙ったまま、碧を振り切って逃げようとする。


「逃げないで」


 腕を深く掴み、碧は女を睨んだ。瞬く間に腕が消え落ちたが、碧は素早く肩を掴む事で、逃げられない様に押さえ込んだ。

 女は黙ったまま、観念した様子で動きを止める。その目が碧を見つめていた。そこから、血の涙が溢れ出す。


「結鹿さんや私から逃げようとするのは、結鹿さんと顔を合わせるのが辛いから?」碧が首を振る。「結鹿さんは優しいから、あなたを許すと思うよ。あの人、ちっとも怒ってないから。むしろ、今でも気にしてるんだよ、自分が傷つけたんじゃないかって。だから、逃げなくたって良いよ」


 次の瞬間には、碧が暗闇の底から響く様な低い声を出した。


「どんな理由が有ったとしても、私はあなたを逃がさないし、絶対に許さないけど」


 女が微かに震えた。死人だが、どこまでも人間らしい仕草で碧から目を逸らそうとして、即座に顔を掴まれている。

 碧は女の顔を固定して、その顔を観察する様に見つめた。


「美流ちゃんはあなたに似たんですね」


 ほんの微かに微笑みながらも、碧は尋常ではない程の鬼気を隠しもしない。それは自分への怒りであり、女への怒りでもあり、結鹿への愛情でも有る様に見える。

 蚊帳の外となった暁は、何をどうするべきかも分からず、二人の顔を見比べた。


「どうして、あなたは結鹿をそこまで大切にするの?」


 不意に女らしき人間の声が響く。暁は一瞬、誰が喋ったのかが分からなかった。しかし、よく考えてみれば、この場で碧以外の女は一人しかいない。

 想像よりも若い声だ。一児の母としては若々しく、美流に少しだけ似た声音をしている。声の雰囲気から、本来は穏やかで柔らかな調子の持ち主だという事が分かった。

 悲しげな色を含んだ女の言葉を受けても、碧はまるで動じない。むしろ口元に笑みを作り、堂々と返事をした。


「決まってるじゃない。愛情が有るからだよ」

「え」

「私が、結鹿さんを愛しているから。ずっと私を守ってくれていた人に、私の見える世界を変えてくれた人が大事だから。恋なんて馬鹿げた事に力を入れた人には、分からないと思うけど」


 珍しい事に、碧が見せたのは侮蔑の表情だった。紛れも無い怒りで、普段の印象からは想像も出来ない危険な香りを漂わせている。


「分かって貰えるとは思わない。だけど、私にとっての結鹿さんは」


 一瞬だけ目を瞑り、碧の目が何かによって光る。

 暁は、碧の姿を好ましく思った。そうやって、大切な人への想いを胸を張って語る彼女の姿は、とても美しい物に見えた。同じくらい、一人の人間に入れ込み過ぎる彼女の姿を、危うくも感じる。

 しかし、暁の気持ちなどまるで関係無く、碧はただひたすらに険しい目つきで女を捉えていた。

 戸惑いがちに、女は碧を見つめ返していた。


「でも、それは。それは結鹿にとって」

「ああ」碧は何かを理解した素振りとなった。「この気持ちが間違っているかどうかなんて問題じゃないんです。ただ、結鹿さんが幸せになれる事が私にとっての一番の望み。その為なら私は、何だって出来る」


 女が気圧され、退いた。しかし碧が掴む力が強く、逃げられる様な事も無い。


「答えて。結鹿さんは、どこに居るの?」

「それは、その」


 碧の視線は殆ど物理的な苦痛すら伴うのではないかと思える程に、強烈だ。

 横からその目をのぞき込んだ暁は、思わず目を逸らした。圧倒的な感情の固まりが、彼女の中で渦を巻き、襲いかかってくる様だった。

 答えるしかないだろう。女は死者の筈だが、年下で背も低く生きた人間である碧に、完全に呑まれている。


「俺からも、お願いしますよ。教えて貰えませんか」


 暁が声をかけると、女は安心した様子で顔を向ける。

 女は小さな声で語り始めた。碧はそれを遮らず、静かに聞いている。その手が女の首筋に触れていた。

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