第7話
その瞬間、暁は計画の失敗を悟っていた。
男は険しい表情をしていて、憎悪に沸いた目で暁を捉えている。今にも飛びかかって殺されかねない。暁は、とっさに碧がその場に居ない事を確認して、彼女の安全を確保できる様に身構える。
「何を言ってるんですか、俺はただ」
「俺の妻に似た女にメイクでもしたんだろ。あの連中だって、メイクや道具で簡単に出来るトリックだ」
男は、明らかに暁を疑っていた。その目は怒りに包まれている風に見え、錯乱している様子も窺える。一度に情報を与え過ぎて、逆に疑われてしまったのだ。男は、恐るべき勢いで暁に掴みかかっていた。
締め上げられる勢いだ。暁は男の体を押さえ、殺されない様に押さえた。
「落ち着いてください、俺がそんな事をする意味が無いでしょう?」
「でもあんたは美流を知ってた!」男が叫び声を上げた。「俺が妻と娘を失った事を知ってたんだ。それで、こんな事を企んだんだ、酷い冗談だ!」
殺気立つ男を前にして、暁はより明確に身の危険を感じた。
思い込みを強く持っている男には言葉が通じない。男は見開かれた目で暁の顔を捉えて、ついに暁の首を絞めようとする。
その腕を掴む女が現れた。
「やめてくれませんか」
結鹿だ。改めて、暁の目に彼女の姿が写る。長く黒い髪に、高めの背丈、凛々しい顔立ちに浮かぶのは、普段の柔和な笑みではなく、明らかに内心の困り果てた姿を表現するしかめ面となっている。
隣には碧が立ち、険しい目つきで男を睨んでいた。暁ですら稀にも見ない目だった。
「その人は何も悪くないんです」結鹿は柔らかに、男へ言い聞かせる。
「あなたは」男は僅かに気圧された。「あなたも、俺をからかって遊んでいたのか」
「いいえ、そんな事は」
「俺は見たぞ!」暁の体が僅かに浮き上がる。「俺の妻に似た女が、そこに居たんだ。あれに変装させていたんだろ!」
「え?」
目を剥いた結鹿が左右を確認して、もう一度男の表情を窺った。睨み合う様な格好になった所で、結鹿はその目を逸らして小さく俯いた。
隣の碧は、何かを溜め込む様に目を瞑っていた。
「あいつ、やっぱり私から逃げているのかな」
「何を」
何も答えず、結鹿は固い表情で拳を握る。続く言葉が思い浮かばないのか、彼女は静かに男と対面し、体の動きを止めていた。
反応が得られなかった為か、男が憮然とした顔となり、また怒りを噴き上がらせる。
「何とか言ってくれ。どうして俺にこんな仕打ちをするんだ。そっとしておいてくれないんだ。俺の反応を見て、楽しんでいたのか!」
「そんな、そんな事は」
「無いのか! 無いならどうしてあんたは俺の妻を知ってるんだ!」
「私が、彼女の友達だからです」
一瞬、男の怒気が完全に消えた。戸惑いに支配されている様だ。
掴む力が弱まり、暁が解放される。
「友達?」
「はい、友達です。でも、あなたが知らないのも無理はない。結婚の事で大喧嘩をしてしまいましたから。だから、あいつを幸せな花嫁にしてくれた人を、私が知らない筈が無いんです」
自嘲気味に語りながらも、結鹿は胸を張っていた。
隣に立つ碧が、密かに沈痛そうな顔をしている。暁はそれに気づいて、疑問を抱いた。
「どうしてもと言うなら、証拠を見せても良いですよ」結鹿は優しい笑みを浮かべる。「あなたが信じてくれないと、あいつも、美流ちゃんも悲しむから」
男は口を開けたまま結鹿を眺めていた。それでも、話の内容を少しずつ理解していったのか、半ば信じられないと言いたげでも、結鹿に向かって罵声を浴びせる様な真似はしない。
可能性が開けた。暁はそう感じた。あるいは、結鹿が優しげな女性であるからこそ、男は何とか落ち着いたのだろう。このまま行けば、死者の存在も納得させる事が出来る。
「結鹿さん、私がどうかした?」
その時、高い少女の声が暁の耳に飛び込んできた。
「ああ、やっぱり。お父さんだね」
暁が反射的に声のした方向へ振り返ると、そこには何故か美流が立っていて、その小さな背をヒールで高く見せていた。
楽しそうな笑顔を浮かべながら、状況を理解しない素振りで近づいてくる。暁の隣を通り、結鹿の隣を進む。結鹿の顔色は驚愕を現していた。
「美流ちゃん?」
「あ、結鹿さん。ありがとう、お父さんを見つけてくれたんだね」
丁寧に頭を下げて、美流は男へと相対した。
「お父さん」美流が男の腕を引いた。「やっと会えたね。良かった」
美流が手を繋ごうと動いた。
しかし、男は逃げる様に一歩引く。顔色が悪い。
「美流は、死んだんだ。有り得ない」
「うん、死んだね。死んだけど、ほら、私は此処に居るんだよ?」
美流はその場で一度回り、自分の存在を示す様に踊る。
男は、自分の娘が目の前に居る状況に何を思ったのか、何度か結鹿や碧、暁の姿を確認する。そして、彼は怒鳴った。
「一体何のつもりだ! こんな達の悪い冗談で俺を苦しめて、一体どういうつもりだ!」
「え」驚いたのか、美流は踊りを止めて目を見開く。「信じてくれないの?」
「美流まで、美流まで俺に見せて、何がしたいんだ!」
男は美流を意図的に無視した。
「お父さん、私だよ? 分からないの?」
涙を瞳に溜めて、美流が悲しげな顔をする。
それに対して男は決して美流の表情を見ない様に顔を背け、特に暁へ向かって叫んだ。罵声なのは分かったが、意味が通らない程に錯乱していて、聞き取れない。
美流は泣き出した。声を一つも漏らさず、ただ静かに涙を浮かべ、それを拭って堪えている。
結鹿に続いて碧がしゃがみ、美流の耳元へと顔を近づけ、その頭をそっと撫でた。
そして、男の怒りしか感じられない声ばかりが響く。この計画に参加した他の者達が、行動を決めかねて気まずそうに右往左往していた。
酷い状態だ。結鹿も言葉を失ってしまい、ただ美流の肩を抱く以上は何も出来ていない。暁自身も、行動を決めかねていた。
男は声が枯れるまで怒鳴り続けるつもりか、まだ何か言っている。詐欺の手口、恐喝だと思っているのだろう。こうまで思いこんでしまった相手を説得するのは、暁には不可能だ。
暁は思わず信じてもいないものへ助けを求めた。
「そうだね」声が、男の罵声を遮る。
透き通る様な声音である。そして、暁にとっては聞き慣れた、同時に今まで一度も耳にした事のない声だった。
声の主である碧は、立ち上がって踏み出した。その目には強い決意が秘められている。
その場の空気が彼女に支配されている。結鹿すら、彼女を止める事は無い。
「つまり、あなたは。この美流ちゃんが本物ではなくて、あなたを騙す為に私達が連れ出した偽物だって、そう思っているんですね」
「それは」男が答えようとした。
「答えてください。余計な事は言わないで、これ以上結鹿さんを傷つける事は、許さない」
静かに問い詰められて、男は何事か飲まれた風に答える。
すると、碧は静かに笑った。
「それじゃあ」バットを強く握る。「この美流ちゃんは好きに扱います」
その時、碧は「ごめん」と小さく呟き、美流の頭にバットを振り下ろした。
鈍い音がして、美流の小さな身体は横に倒れ、動かなくなる。その頭へ、碧は追い打ちのバットを打ち付けた。
「碧?」
突然の事に、暁は思考が止まった事を感じた。
碧は構わず再度の一撃をかける。美流の全身が震える。碧は無表情だ。
「好きにして良いんですよね。だってこの子はあなたの美流ちゃんじゃないんですから」
「碧!」
結鹿が慌てて碧の背後へ周り、羽交い締めにした。しかし、碧は抵抗しながら、美流をバットで殴打する。また、美流の身体が痙攣した。
倒れ伏した美流は少しだけ頭を上げて弱々しい息を吐き、父親に視線を送った。そのすぐ後に背中を打たれた。
段々と、男の顔色が変わっていく。
「やめてくれ! 俺に何の恨みが有って、こんな」
「恨みなんて、無いです。ただ、あなたが」碧は冷たく言い放つ。「あなたがそうやって認めない事が、どれだけ人を傷つけるか」
結鹿が全力で押さえつけても、まだ碧は止まらない。いつしか満面の笑みを浮かべ、楽しそうにバットを降り続けている。
「ここで死んだって、別にあなたが苦しむ訳じゃないでしょう。だったらこの子を私がバットで殴り続けたって、問題は無いですよね」
「碧、止めて!」
止められないと悟ったか、結鹿は押さえつける事を止めて、美流の前に立った。彼女が美流の盾になって、碧はようやく腕を止めた。
「結鹿さん」
「ダメ、ダメだよ。それは、そんな事をしたら、一番辛いのは碧だよ」
結鹿が制止したからか、碧は普段通りの柔らかで大人しい顔色に戻る。
美流は震え、手を伸ばしていた。父親に助けを求めているのだ。
父親は、正気に戻った様子だったが、まだ美流を助けようとはしない。疑り深く、また戸惑っている様子でもある。
「俺は」
「それで、まだアオちゃんに嫌な事をさせる気かな?」
虹色の声に、その場の凍った空気が更に凍る。
男が振り向き、暁は同じ方向を見た。見知った虹色の髪が視界に飛び込んできた。
彼は碧のバットを軽く触れただけで叩き落とすと、それを掴んで一瞬にして男へと接近し、その背中を軽く突く。
「やあ。娘さんに会えたんだ。喜んだ方が建設的だと思うけどね」
「店長、あなたまで」
「こんな時くらい名前で呼んでも構わないけれどそれはどうでもいいね。さあ、美流ちゃんを助けてあげるといい」
「しかし、あの美流は本当に」
「君は目が悪いんだね。もっとよく見るんだ。見れば分かる筈だよ。美流ちゃんが美流ちゃんであって、彼女の娘だという事が」
心の隙に入り込む様に、九島の言葉が男に突き刺さっている。
男は震えながら、美流の元へ座った。
「お父さん、本当に信じてくれないの?」
美流の目を見つめ続けて、男は数十秒の間黙り込み続ける。何かを言おうとしては、躊躇っている。
その肩を九島が叩いた。男は振り返り、戸惑いがちに尋ねかけた。
「すると」男は一度口を閉じる。「すると本当に、美流は、美流なのか?」
「うん。何だったらさ、もう一回死んで証明してもいいんだよ? そうしたら、お父さんも信じてくれるかな?」
「いや、いい」
男は美流の両脇へ腕を入れて、持ち上げた。何とか立ち上がった美流は、スカートの埃を叩いて落とす。
弱っている様には見えない。男は息を吐いて、美流の肩を掴んだ。
「大丈夫か」
「うん、平気。でも、お父さんこそ、信じてないんじゃなかったの?」
「その、なんだ。信じられないのは信じられないんだけどな。お前がバットで殴られてる所なんて、見せられたらな」
美流を抱き寄せると、男が背中を撫でた。死人であっても、体温らしき物や、確かな感触が有る。見える人間には、それが分かるのだ。
とうとう認めたのか、男は少しだけ震えた。しかし、美流を離す事は無く、抱きしめたまま動かない。
「触ったら、分かる物なんだな。確かに美流の感触だ」
「お父さんこそ、全然変わらないね。でも、少しだけ痩せたかな?」
「ああ、痩せたよ。色々と有ったからなあ」
親子は相手の存在を認め合い、楽しげに会話を始めた。男は表情を笑みで固定して浮かぶ涙を抑え込んでいて、もう暁や結鹿の姿を見る事は無い。
蚊帳の外へ置かれた結鹿が、ようやく碧を解放する。碧はバットを地面へ転がすと、腕を回して大きく伸びをした。一通り動くと、彼女は結鹿に向かって振り返る。楽しげな笑みだ。
「あれは、感動の再会って言えば良いのかな?」
「そう、だろうね。でも、碧。君、どうして」
結鹿が何とか答えた。美流の楽しげな姿に、表情を緩んだ物へと変えている。しかし、戸惑いの方が強く感じられる顔色だった。
碧がその疑問に答える前に、大通りで様子を窺っていた死人達が安心した様子で近づいてくる。その中の一人が暁へ向かい、手を振った。暁は頭を下げる。
「すいません、殴っちゃって」
「いやいや、元々俺は愛貴さん、だったかな。あんたに殴られる予定だったじゃないですか」
「それは、そうなんですけど。思ったより強く殴ってしまったので。大丈夫でしたか?」
「大丈夫ですよ、殴られても問題無く、痛みを感じない様にしていましたから」
死人の身振りに痛みを堪える様子は見られない。暁は安心して肩の力を抜いた。最初から計画通りだったとはいえ、人を殴る事に喜びを覚える趣味は無い。
他の数人、老夫婦や子供も近寄ってくる。全員が協力者だ。結鹿の呼びかけで集まった人々は、美流が父親へ抱きついている姿を見て、目を細めた。死人だが、善良な人々だ。
九島が彼らを労い、手を握る。周囲が成功の喜びに沸いている間、結鹿と碧は静かに見つめ合っていた。結鹿は戸惑い、碧は静かに。
「アオちゃん!」美流が飛び込んできた。
「美流ちゃん」
美流と碧は顔を合わせた。
罵り合いでも始まるのかと思われたが、二人は瞬く間に明るい笑顔を見せて、互いの手を三度叩き合った。
「アオちゃん」殴られたというのに、美流は明るかった。「ちょっと危ない気がしたけど、計画通りに行ったね、私の演技はどうだった?」
「ばっちり、力が入り過ぎたかもしれないけど、痛く無かった?」
「うん」
二人は手を握り合い、また手を叩き合う。小さな音が鳴って、二人は相手の掌を撫でた。
仲の良い姿を示した事で、暁は完全に混乱した。鬼気迫る勢いでバットを振り乱していた碧の姿は、完全に消え去っている。その混乱は、結鹿も同じく覚えていた物だろう。彼女もまた、首を傾げている。
「美流ちゃん? 本当に痛くなかったのかな?」結鹿が気遣った。
「うん? うん、痛くなかったよ。ねえアオちゃん」
美流が視線を送ると、碧は地面のバットを握り直す。
「ほら、結鹿さん。だってこれ」碧がバットの先端に触れた。指が沈み込んだ。「スポンジだし」
「それにね、私は死んでるから、痛くも何ともないもん」美流が得意げな顔をする。「倒れる演技は少し大変だったけど、上手く行って本当に良かった」
「それならそうと、言ってくれれば良かったのに」憮然とした表情となって、結鹿が肩を落とす。
「ごめんね。でも、結鹿さんには美流ちゃんを傷つける様な計画に関わって欲しくなかったから」
「だよね。結鹿さん優しいし、気にしちゃうと思う。お父さんに私がここに居るんだよって信じさせる為だし、痛い事でもないから、私は気にしないけどね。でも、ちょっとショッキングだったかな?」
小首を傾げた美流は、そのまま父親の元へと帰っていった。彼女は父親へ抱きつき、九島の感謝の言葉を告げている。
九島が満更でもない顔をして、美流に頬擦りをする。その対応に怒りを顔に出して、男が九島を引き剥がした。
その姿を眺めると、結鹿は小さく息を吐く。「みんなが喜んでるんだから、仕方無いかな」呟き、碧の肩を抱く。
「いや、うん。碧の機転で助かったよ、ありがとう」
「やっぱり、嫌だったよね。あなたの友達の娘さんを殴打するなんて」
「それは、そうだけど。私の為にやってくれたのは、分かるから、何とも言えない、って言うか」
複雑な気持ちを表に出しながらも、結鹿は妥協する様子を見せる。
碧と美流は視線を向け合って、互いに頷く。それを見た結鹿は困った様子で苦笑していた。
美流とその父親、そして結鹿の行方が分からなくなった。そんな知らせが暁の元へ届いたのは、翌日の事だった。
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