第6話


 男が仕事を終えたのは、もう十一時を過ぎた頃だった。

 店内の客は全員帰り、掃除も終わった。店舗はそれなりの、中規模程度の面積を持つ為、清掃時間は長く、その分閉店時間は平均より早い。ソファの染みを拭き取り終えて、男は制服を脱いだ。更衣室は厨房近くで、他の店員は先に帰っている為に、静まりかえっている。

 男は薄暗い店内を見回し、一息吐いた。此処は人気の店なのだが、店長が満員状態の店であっても一人で営業を成り立たせる程に超人的だからか、他の店員の負担はそれなりに抑えられている。ただ、そうであっても他の店よりは大変な物で、その分だけ給料も良い。勿論、疲れもその分だけ増えるのだが。


「今日もお疲れさま」


 カウンター下の薄暗闇から、虹の髪をした九島が顔を見せた。そこには一つ冷蔵庫が有るので、彼が掃除をしていた事が窺える。他の店員が全員帰った後も、彼は一人で働いている。


「帰っていいよ?」

「いえ、レジをやってから帰ります」


 九島に首を振って、男は私服の格好で売り上げの処理を行った。男は一人でレジの金銭を数えていたが、九島はその事に注目しない。

 無言でレジの計算を終えると、男は売り上げを記入し、金銭を保管する。客席に戻ると、九島はカウンター席へ座り、手持ちのコーヒーを飲んでいた。私物を、冷蔵庫に入れていたらしい。


「今日のはちょっと苦いかな」コーヒーを飲み干すと、九島は指先でカップの縁をなぞった。「毎日毎日朝から夜まで本当に頑張るね、君は」

「俺には、それ以外にする事が有りませんから」

「知ってる。だけれど、もう少し余裕を持った方が良いよ。人生まだまだ先は長いんだから」

「長いんでしょうか」

「長いさ。少なくとも、君は自分の娘より長生きで……怒らないでよ。別に、からかっている訳じゃないんだから」


 殊勝な顔をして頭を下げられ、男は怒りを抑えざるを得なくなった。話題を変えなければならない。男は、そう思って話を続ける。


「そういえば、あの人達は今日も来てましたね」

「そうだね、あの子達は仲良し、ううん、そんな次元じゃないくらい仲が良いから」


 九島の目が、彼女達の居たテーブルへ向かう。タルトを二つ、途中から来た男も交えてロールケーキを三つ、それからコーヒーと紅茶を何度か飲んで帰った常連客達だ。夜まで同じ席に居たからか、そのテーブルに誰も居ない事が不自然ですらあった。

 深い友人関係を思わせる二人組を、九島は気に入っている様子だった。他の常連客とも話す事は有るが、彼女達ほど長時間話し込む相手はそう居ない。お陰で、営業に支障が出る程なのだ。

 しかし、言及しても改善する気が無い事は男にも分かっている。彼は内心で苦笑して、懐かしい自分の娘を思い浮かべた。


「美流にもね、そういう友達が居たんですよ。一昨日も墓に来てくれて」

「知ってるよ、家にも時々来て、花を添えていってくれるんだ。よほど大切だったんだね」


 男は、美流の親友だった少女の姿を思い出した。物静かだが、美流に引っ張られていく事を誰よりも好み、葬儀の席では死ぬまで泣き続けるのではないかと思いたくなる程、泣いた少女だった。恐らく、自分以上に美流の死を悲しんだに違いない。


「あの子も、幸せになれるなら良いんだけどね」

「そう、ですね。美流の親友ですから」

「幸せになる為には、美流ちゃんを忘れないと駄目なんじゃないかな。ほら、君だってそうだろう」

「それは、分かります」


 男は今度は怒らず、素直に頷いた。彼自身が、それを一番理解している。


「死んだ人間の事なんて自分の糧にして早く忘れるべきなのさ、自分自身までそこに引きずられて死ぬ事になるからね。あの子が美流ちゃんの後追い自殺をしないかと、私はもう気が気でないよ」

「確かに、そうですね」男が相槌を打つ。

「とはいえ、忘れるべきではない人を忘れたら、私がそいつを殺すけど」


 九島は真顔で言い終えた。気を抜けば、本気で殺されてしまいそうだった。

 背筋の凍る思いをした男に、九島は我に返った様子で笑いかけてくる。その笑みに秘められた冷たさは、冗談で済む物ではなかった。


「大丈夫だって、君の事を殺そうなんて考えている訳じゃない。ただの世間話さ、大切な人を忘れるか忘れられないかはその人次第だけど、忘れる様な人は私には許せない、ただそれだけの話」


 弁解の様に告げると、九島はしゃがみ込んで冷蔵庫の掃除へ戻る。男の目からは、カウンターから僅かに虹色の髪が姿を見せるのみとなった。それが、会話を終わらせる合図となる。


「さあ、そろそろ帰った方が良い。明日も忙しいんだから、早く帰って寝る事を勧めるね。何だったらご飯はここで食べて帰る?」

「結構です」空腹感は無い。

「そう、私は食べて帰るから、君は先に帰りなさい」


 何の反応も示さず、九島は顔すら上げずに手だけを出した。雑巾が握られている。

 男が用具入れを開けて、雑巾を新しい布に入れ替えてやると、九島の声が嬉しそうに感謝を告げてきた。


「じゃあ、私は帰ります。明日は朝から仕事ですね」

「ああ、いや。昼からで良いよ。色々と有るだろう?」


 そんな予定は無いです、と男は言い掛けて、口を閉ざす。九島の声に有無を言わさない物が含まれていたからだ。

 ただ了承の意志だけを伝えて、男は上着を羽織った。今日は何故かいつもより寒く感じられる夜で、暖かい格好をしなければ外へ出るのが辛くなる。


「夜道に気を付けてね。多分今日は、怖い日だから」


 脅しにも似た九島の声音に、男は恐怖を覚えた。彼は死者の存在や、世間で言われる不可思議な現象を信じていない。しかし、九島という人物を見ていると、その虹色の髪が不安を煽り、心を蝕むのではないか、という不安にかられる事も確かだった。

 男は、返事もせずに九島から離れる。今日の彼の仕事は全て終わっているのだから、誰も文句は言わない。

 九島もそれ以上は何も言わず、カウンターの下で作業を続けている様子だ。男は、一瞬だけ頭の仲で走った悪寒を振り切り、店外へ出た。外は広い暗闇で、街頭や、建物から漏れる明かりだけが光源だ。

 ふと、店先に誰かが居る様な気がして、そこへ視線を送る。ただの電柱の陰に、妻の姿が感じられる。


「やめてくれ」男は独り言を呟いていた。「これ以上、幻覚に出てこないでくれ」


 内心では無駄だと悟りながらも、男は思いついた限りの念仏や、テレビで見た霊を退ける呪文を頭の中で唱える。精神を落ち着かせる為だ。

 精神が健全に戻れば、幻覚はすぐに消えるだろう。しかし、女は依然としてそこに在り、ただ男の姿を静かに見つめ続けていた。



十四・



 周囲が静かに待機している中で、暁は空を見上げていた。月は出ていない、薄暗い中に街灯の明かりだけが有り、寒気が酷い物となる。

 暁の中には不安ながら幾つかの希望が有った。それは、緑碧であり、鈴結鹿だった。彼女達は地面に茣蓙を引き、打ち合わせをしている。二人の表情は笑顔であり、明るさが含まれている。すこぶる機嫌が良い様子だ。

 その周囲には、暁の知らない人物や、どこかで見た様な人々が並んでいた。年齢や性別も全く異なる人々は、黙って結鹿達の会話に耳を傾けている様子だ。

 その時、電話の音が鳴った。しかし、碧の携帯電話ではない。今や殆ど見られない、緑一色の公衆電話だ。木造の廃墟の壁へ無造作に置かれていて、崩壊寸前だ。本物の固定電話なのかも怪しく、あるいは電話すらも死んだ物ではないかと、暁は疑ってかかった。

 明らかに怪しい固定電話に、周囲の殆どが顔を見合わせる。その中で、碧と結鹿は悠然と立ち上がった。


「碧、どっちが出る?」

「私が出たいな。多分、九島さんだよ」

「そっか、頼むね」


 碧は急ぎ足で電話を取った。危険ではないかと暁が立ち上がったが、誰かがその腕を掴んだ。結鹿だった。

 電話を取り、碧は受話器に向かって話し出す。親しげな口調で話し込んでいて、暫くの間、笑顔で会話を続けている。十分ほどそれを続けた後、碧は小さく頭を下げて受話器を置いた。固定電話は、元々から壊れていた。

 碧は若干驚いて一歩退いたが、すぐに元の表情へと戻り、暁、いや結鹿の元へと戻ってくる。


「やっぱり九島さんだった。今、あの人が店を出たんだって」

「そうか、あの人を頼って正解だったかな。怪しい人だけどね」

「あはは、でも、私の言葉が正しかったでしょ?」

「そうだね」結鹿は頷いた。「碧には勝てないよ」


 平然とする二人に対して、暁は狼狽えた。公衆電話の元へ向かって確認したが、それはどう見ても壊れていて、通話など出来る筈も無かったのだ。

 それも、最近壊れた物ではない。相当に過去の物で、忘れ去られていたのだろう。それを、碧は当然の様に電話として使ったのだ。暁は混乱を自覚しながら、結鹿に視線を送る。


「何なんだ今の。電話が、あれは元から壊れていたんじゃないか」


 結鹿が手を軽く振った。「気にしない方が良い。私も付き合いは長いけど、九島さんは無茶苦茶な人だからね。時々、彼が全ての元凶じゃないかとすら思うよ」


「元凶、と言うと?」

「この世界に死んだ人間が居て、それを見る才能を持つ人間が居る事。それそのものが、あの人の仕業じゃないかとすら思える、という事さ」


 そう語る結鹿は。あながち冗談とも思えない面持ちをしていた。

 何か言いたげな碧に手を振って、結鹿は周囲の人々へ丁寧に頭を下げる。そこに居るのは、全員が死人だ。店の常連であり、全員が結鹿の知人でもある。

 今回の為に、結鹿の頼みで参加した人々だ。限りなく人間と同じ外見をしていたが、それでも確かに彼ら、彼女らは生きていなかった。


「さて」結鹿が喜びを示す。「みなさん、集まってくれて本当にありがとうございます」


 結鹿のしっかりとした感謝の意志が周囲へ伝わったのか、皆、歓迎する雰囲気で笑った。

 良い雰囲気だ。暁はそう感じた。これを見て、死者が生者を呪う様な存在だと思う事は間違いなく無いだろう。


「お願いします」


 重ねて頭を下げると、周囲の人々は打ち合わせ通りに動き出した。彼ら、彼女らの姿は瞬く間に変貌しており、異様に青白く、ある者は身体から真っ赤な、不気味なほどに赤い血を垂れ流しながら、所定の位置へと向かっていく。 

 それを満足げに見ると、結鹿が公衆電話に一度だけ視線を投げかけた。だが、さほど気にせず彼女は碧の手を握る。


「上手く行くかな?」

「大丈夫、不安にならないで。上手く行く、結鹿さんの気持ちがきっと伝わる筈だよ。第一、伝わらないなんて私が嫌だから」

「碧は、本当に私を大切にしてくれるね」


 感動した面持ちとなり、結鹿は握った手を何度か振り、楽しげに手を離した。


「私は先に行くよ。暁さんも、予定通りにお願いしますね」


 結鹿は身を翻し、真っ直ぐと伸びた姿勢で走っていった。

 その姿がその道から見えなくなると、碧はすぐ近くに転がった棒を手に取り、持ち上げた。


「さっ!」碧の片手に握られたのは、バットだった。「気合い入れていこっか」


 暁は眉を顰めた。バットは確かに野球の道具だが、物騒な鈍器にもなる。それも、バットは小柄な碧には大き過ぎて、彼女に野球の趣味が無い所が危険を感じさせる。碧とバットの取り合わせは余りにも似合っていない。


「碧、何だそのバット」

「緊急用」


 たった一言の解答に、暁は余計に疑問を覚えた。しかし、碧の表情が追求は無用だと告げていたので、口を噤む。


「暁君、私からもお願いね」

「ああ、今回の作戦は俺に掛かってるんだからな、責任重大だよ」


 何せ、一人の現実を見た男に、不可思議な世界の存在を信じさせるのだ。暁は、自分に課せられた余りにも重い責任を感じた。

 暁は内心の不安を打ち消し、歩を進める事にした。無理矢理にでも死者の存在を知らしめる。男に見える才能が有るならば、難しい事ではない。男の視界に入った死人に頼み、それらしき姿を見せるだけで良いのだ。

 しかし、それだけで良いのだろうか。自然を装って待ち伏せをしながら、暁はどうしても沸き出す不安に対処した。


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 寒く暗い道に居ると、結婚したばかりの妻が誰かに謝り続けていた事を思い出す。

 男はそう考え、両手を擦りながら歩を進めていた。隣には誰も居ない。

 結婚した後の妻は、いつも幸福そうだった。だが、こうした道を二人で歩いている時、彼女はいつも泣きそうな顔をして、目を伏せていた。

 男が現在働いている店の通りを、彼女は通りたがらなかった。妻はあの店が苦手だったのだ。いや、売っている商品は何より美味しそうに食べていたが、店内どころか、店の前の道を歩く事すら拒んだ。美流が誕生日を迎える時ですら、彼女は決して自分でケーキを買いに歩く事は無かった程だ。

 その原因が、結婚を反対していた知らない誰かによる物だと男は知っている。しかし、妻がどれほど辛い気持ちで居たのかは分からず、相手が誰だったのかも知らない。墓前で尋ねた事も有るが、勿論、答えが返ってくる事は有り得ない。

 男は苦笑を浮かべた。

 幻覚の中の妻ですら、店に姿を見せる事は無かった。それは、男にとっては心の安まる事だった。


「どれだけ、嫌だったんだろうな」


 独り言を呟いた。昔は、答えが返ってきた物だ。

 店から離れると、孤独感が男を襲った。店内では九島が何度も話しかけてきて、こうして考える余裕が殆ど与えられない。それが九島の気遣いだと、彼は理解していた。

 九島が居ないからか、男は異様な静かさを感じていた。毎日同じ道を歩いているというのに、普段より遙かに暗く、寒い。もう一枚上着が必要だったかと、男は身を震わせる。

 男は足を早めた。彼が住んでいるのは、元の住居からそう離れた所でも無いアパートだ。店からは十数分も歩けば到着する。走れば数分だ。

 そんな時、曲がり角から何者かが姿を見せた。暗がりで、男にはその人物の顔は見えない。


「こんばんは」


 若者らしい声が響く。性別は男の様だ。

 男はその人影へ近づき、会釈をした。若者は、店でよく見かける顔色の悪い客だった。


「店員さんですよね」

「ええ、まあ」

「この道を使って帰るんですか?」

「一応、家がこの近辺ですから」

「そうですか」


 若者は何度か頷くと口を閉じた。男はその横を通ろうとしたが、何故か若者は腕を出し、進行方向を塞いでくる。

 何をするんだ。男がそんな視線を送ると、若者は困った風に肩を竦めた。


「あの、ですね。こういう、逃げ場の無い細い道路には気を付けた方が良いですよ。どんなものが居るのかも分からない」

「大丈夫です、毎日通ってますし、金目の物も持っていませんから」


 男は警戒心を滲ませた。若者がこちらの様子を窺っていて、今にも殴りかかってくる様に思えたからだ。

 若者は男の返事に納得する素振りを見せたが、それでも退かずに立ちふさがっている。何度か口を開けては、迷った様子で閉じて、やがて言葉を決めたのか、不気味に微笑んだ。


「例えば、ですよ」


 若者が懐を探り、果物ナイフを取り出す。男には、それが店で使っている物だと一目で分かった。

 刺される、その予感に、男は思わず身を退いた。しかし、若者はその仕草を楽しげに見守って、ナイフを天に掲げる。


「それなら例えば、こんな事になってしまうのは、どうです?」


 そう言うと同時に、若者の持っていたナイフが真っ赤に染まった。

 何かに刺した訳ではない。若者の腕から赤の液体が流れたのだ。傷一つ無い状態から、一気に血が溢れかえり。若者の身体を赤色にする。

 若者は、どこからともなく流れる赤色の液体に全身を濡らせた。これほどの量の液体をどこから用意したのか、どうして唐突に流れ出したのか、男は、驚愕の余り無意味な事を考えてしまう。


「どうですかね?」男は赤いナイフを握った。「あんたも、俺みたいになりませんか?」


 若者がナイフを向けてきた所で、男は正気に返った。

 相手は明らかに正気ではない。身の危険を感じた彼は、全力で背後へ振り向き、一気に走った。背中を刺されるのではないかと恐怖を覚えながらも、彼は振り向かない。

 行く手を阻む様に、老夫婦が姿を見せた。こちらも店の客だ。しかし、普段の面持ちとは全く違い、夫婦の顔色は真っ青で、葬儀の時に見た、妻の死に顔を思い出す物へと変わっている。

 男は叫んだ。すると、老夫婦は怯んだ様子で道を開け、男は何とかその隙を突いて、少し広い道へと飛び出した。深夜だからか、車の通りは僅かだ。

 顔を上げると、道路に少年が立っている姿が見える。危険だ。男が少年に声をかけようとした時、一台のトラックが少年の体を通り抜けた。

 不気味な少年の姿を幻だと判断して、男が背後を振り返る。

 小道には誰も居ない。まるで全てが幻だったかの様だ。自分の見たものが信じられなくなり、男が前を向いた。若者がナイフを持って目の前に立っていた。


「大丈夫ですよ、あんたには適正が有る」


 全身が赤くなったまま、若者はナイフを振りかざす。

 男は何とか逃げようとしたが、誰かに足を掴まれ、よろけた所を背後から羽交い締めにされた。

 赤い液体が、背後から伝ってくる。足下を見ると、そこには異常に青白い女が這い蹲り、不気味に微笑んでいた。

 背後の何者かが男に顔を見せる。全面が赤い液体に染まった人間の顔だ、それを見た男は、生理的な嫌悪と恐怖に絶叫を避けられなかった。


「さあ、行きましょうよ。あんたの娘さんだって、会いたがってるでしょう」


 若者は嫌味に笑い、楽しそうにナイフで男の腕をつついた。

 助けを呼ぶ余裕も無い。男は恐怖に震える。

 その時、人影が小道から飛び出してきた。それは瞬く間に接近すると、素早く若者を殴り飛ばした。


「こっちへ!」


 若者がうめき声を上げて倒れると、人影は男の腕を無理矢理掴んで、思い切り引いた。拘束が不思議と解け、引きずられる様に連れて行かれる。

 流れに付いていけず、男は混乱しながら人影の背中を見た。自分より若いが、背丈は同じくらいだ。

 腕を引かれてきた先は、墓場の近くだった。人影、いや、正面を向いた彼の顔は、男の知っている物だ。客の一人で、娘を知っている人物である。


「あなたは、確か」

「暁です」暁が頷いた。「大丈夫ですか、襲われていたみたいだったから、つい手を出したんですけど」


 挨拶を受けて、男は暁に助けられた事を理解した。


「ありがとうございます。あのままじゃ、殺される所だった」

「かもしれません」暁は相槌を打つ。「あの店で働いていたから、目を付けられたんでしょうね」


 その返事に、男は疑問を感じた。暁は、あの不気味な集団が何者なのかを知っている様子だった。その証拠なのか、彼は何度か墓場に目を向けていて、警戒を続けている。

 男の胸に恐怖が再来した。何か、恐ろしい物に狙われている予感がして、彼は身震いを堪えた。


「あの連中が何なのか、知ってるんですか」

「はい、一応」暁は躊躇わずに肯定した。

「教えて貰えませんか?」


 一瞬、男は断られるかと感じたが、暁は予想に反して軽く頷き、また周囲を見回す。墓場の方向で視線が止まったが、すぐに目は逸らされて、男の姿を見つめてきた。


「見た通りですよ」

「見たまま、ですか? それはまさか、あの連中が幽霊か何かだと?」


 信じ難い、常識的ではない発言に、男は鼻で笑われるかと感じた。だが、暁は神妙な雰囲気で頷いていた。

 全く信じられない。男の気持ちは暁にも伝わったのか、彼は気持ちは分かる、と言わんばかりに息を吐いていた。


「信じられないのも、分かります。俺もこの間までは殆ど信じていなかったんですからね。でも、さっき見たでしょう。幽霊、こう呼ぶと知り合いは嫌がるんですが、幽霊は実在するんですよ」

「ありえない」反射的に否定をしてしまう。

「いいえ、ありえるんです。あなただってその目で見たじゃないですか」

「すいません、気を悪くしないでください」前置きをして、男が尋ねる。「あの、正気ですか」

「正気かって?」暁は眉を顰めた。「さあ、でも俺にも、あなたにだって死んだ人間が見えるでしょう?」


 到底信じられない返答に、男は暁の事が余計に信じられなくなった。あの奇怪な客達が死人だとは、どうしても思えない。何故なら、彼は今日もあの客達に注文を聞いて、料理を出していたのだから。

 怪しげな話に男は疑いの念ばかりを抱き、それでも一応は暁の言葉に耳を傾けた。命の恩人である事には変わらない。


「それで、これが大事な話なんですが」


 何かを勘違いしているのか、暁は男が話を信じていると考えている様子だった。訂正する間も無く、彼は話を続けている。面持ちは真摯で、真面目そうだった。


「重要な事なんです。この間、奥さんの幻を見ていると言っていましたよね」


 話が本題に入った様で、男は怪しく思いながらも、その顔を見つめた。思わず、悲鳴が上がりかけた。

 暁はまだ気づいていないが、その背後から十数メートル先、その電柱の影に、妻が居る。傷一つ無い、生きていた頃のままの姿だ。狙い澄ました様なタイミングで、暁が話を始めた瞬間に姿を見せている。

 彼女は何かを言おうとしている様子で、じっと男を見つめていた。生前の年齢不相応に子供らしい愛らしさを宿した美人で、その顔立ちを彼が忘れる筈は無い。


「だから、つまりあなたが見てるのは、奥さんの幻覚とかじゃなくて」


 暁が何か話を続けていたが、男の頭は意味を殆ど理解しなかった。

 取り付かれた気分で、男は妻の顔を眺めた。こんなにもはっきりと妻の姿が見えたのは、初めてだ。少し前までは薄い靄の様だった存在感が一気に強まっている。

 遠目だが、男の目には彼女が妻にしか見えなくなった。まさか、という気持ちと、喜びが感じられて、幽霊の存在を信じるべきではないかと思い始めている。


「すいません」男は出来るだけ丁寧に暁の肩を掴む。「退いてください」

「待ってください、どうしたんです?」


 暁を無視して妻の元へ向おうとすると、突然、妻の幻覚は人間の様に慌てた。

 何度も周囲へ首を回すと、彼女は逃げる様に去っていった。幻想的な存在が、急に現実の人間に戻った様な格好だ。唐突な事で、呼び止める暇も無かった。


「あの?」暁が怪訝そうに見つめてくる。


 男は暁の表情を窺った。そして、今までに集められた情報を整理して、静かに考え続ける。

 襲ってきた顔色の悪い客達、狙った様に助けに来た暁、そしてたった今目撃した妻らしき誰かの姿。その全てを頭に浮かべた時、男は一つの結論に至っていた。


「あんた達が、やってたのか?」


 男がそう言って暁を睨むと、彼は気まずそうに目を逸らした。

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