第5話


 碧の目に自宅の扉が捉えられた時には、玄関の扉は開けられていた。

 結鹿は既に到着した様子だ。碧は息を切らせて、玄関前の廊下に立つ。高校を卒業してから、全力で走るのは久しぶりだ。運動の為に軽く走る事は有るが、いつも結鹿が隣に居たので、会話が弾んで疲労など感じなかった事を、碧は思い出していた。

 一人で行動すると、動きが鈍くなる。碧は自分の欠点を感じながら、足早に自宅へ向かった。

 すると、開いたままの扉から密かに手が伸びて、目と胸に穴の空いた女が顔を出した。女は碧の居る向きとは逆の方を見て、続いて碧の居る方向を確認した。

 目が合った。相手には目が無いが、碧はそう感じた。

 女にとっても予想外だったのか、碧を見たまま女は動かなくなる。


「あ」言葉に迷い、碧は直接尋ねた。「えっと。もしかして、美流ちゃんのお母さんですか?」


 その質問が聞こえたのか、女は動揺した様子で首を揺らせた。


「そうなんですね」


 十分に察しの付く態度に、碧は頷いた。女の姿は恐怖を煽るが、碧は特に恐れない。彼女は、目と胸が無いだけで、その仕草は人間そのものだった。美流に似て、素直で分かりやすい反応を示すのだ。

 女は碧から目を背け、部屋の中の様子を一度窺い、何かを恐れる様に玄関の扉から出た。

 そこで、碧の目に女の全身が見える様になる。よく確認すると、胸の周囲には空虚で血も何も流れない穴が無数に有り、心臓の位置に一番大きな穴が有った。どう見ても生きた人間ではなく、その痛々しさは、彼女が死んだ状況の凄絶さを感じさせた。

 女は、碧に向かって会釈をした。少なくとも碧にはそう見えた。


「あのっ」


 碧が女へと話しかけた。返事を期待したが、しかし、女は首を傾けるだけで、碧を無視して隣を通り過ぎる。


「待ってください!」


 完全に逃げられてしまう前に、碧はその腕を掴もうとした。しかし、女の手には触れられなかった。通り抜けたのだ。

 碧は動揺してしまい、その隙を突いて女が姿を消した。後には僅かな余韻も無く、女がそこに居たという証は一つも残らなかった。


「どうして」


 自分の手の感触を確認して、碧は戸惑った。死人の姿は意識次第とはいえ、素早い。幾ら碧が鈍くとも、掴まえられる事に先んじて消えるのは難しい。相手は、相応に死人についての知識を持った人物の様だ。


「やっぱり、見える人だったんだ」


 碧は確信を抱いた。

 そして、すぐに我に返り、玄関のノブを捻って扉を引いた。中は見慣れた自宅で、その奥では結鹿が歩き回り、誰かを捜していた。

 長い髪が揺れる所を見て、碧はそれがとても綺麗な物だと感じ入った。二人で入浴した時に触り、その手触りがいつまでも撫でていたくなるくらいに柔らかだという事も、碧は知っている。同じ洗い方をしても、結鹿の髪質は固定された物であるかの様に、碧のそれより美しかった。

 その髪が、彼女の動きに合わせて左右へ揺れる。腰に届く程の黒髪は、結鹿にとても似合っている。非の打ち所の無い友達の姿を見て、碧は我が事の様に嬉しく感じていた。

 視線に気づいた結鹿が振り向き、碧に近づいた。


「ああ、碧」結鹿が何でもない風を装う。「誰か見なかった?」

「見たよ、その」美流が部屋に居る事を、仕草で確認して、碧は唇に指を一本立てた。「後で話すね」

「そっか、見たんだね。私からは逃げたみたいだけど」

「私も、逃げられちゃったんだ。腕を掴もうと思ったら、消えちゃって。あんなにとっさの動きで姿を消すなんて、凄く死人慣れしている感じがしたかな。結鹿さんはどう思う?」

「同感かな。私を避けて通る辺り、生きていた頃から詳しかったんだろうね」

「やっぱり、結鹿さんもそう思うんだ」


 結鹿は険しい表情をして、玄関口へ目を向けた。


「美流ちゃんは無事だよ。ベッドで寝てる」

「やっぱり」

「やっぱり? 碧、予想でもしていたの?」

「うん、あの女の人、結構良い人そうな印象だったし、それにほら」碧は胸を張って答える。「美流ちゃんに何か有ったら、結鹿さんは捜し物なんてしないでしょ?」

「ああ、何だか私、碧に隅から隅まで知られた気分だよ」

「でしょ?」碧は更に胸を張った。結鹿に笑われた。


 幾らか調子を取り戻した結鹿は、そのまま美流の居るベッドへ向かう。

 美流は布団から顔と肩だけを出していた。黒の布団は少し前に干したばかりで、シーツは真っ白に洗い上げている。騒音も殆ど通らない部屋で、とても快適そうに寝顔を見せている。

 子供の寝顔は、どうしてこんなに愛らしいのだろう。起こさない様に結鹿が左手の人差し指を口元で立てて、静かにする様に促した。


「あれ、アオちゃん」しかし、美流は狸寝入りをしていた様だ。


 美流は薄目を開けて二人の姿を確認し、安心した様子で身体を起き上がらせた。変わらずパジャマ姿で、少しだけ周りを警戒していた。


「このベッド、落ち着く匂いがするの。私の家のと同じ洗剤を使ってるとか?」

「どうだろう、美流ちゃんの家が何を使ってるのかが分からないから」


 結鹿が明るく笑い声をあげて、碧と肩を組んだ。


「そうだね、碧は良い香りがするから。その匂いかな?」

「もう、からかってるの? 結鹿さんの方がずっと良い香りじゃない」

「私の匂いなんて、ベッドに染み着く筈が無いね。それに、碧は人に優しくなれる様な匂いがするんだ、香水も使ってないのに、こうして肩を寄せていると、とても穏やかな気持ちになれるんだよ」


 努めて楽しげに振る舞っているのか、結鹿はとても楽しそうに語った。それが効いたのか、美流はその場を何度か見回した後で、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。


「良かった、二人とも帰ってきてくれたんだ。本当に怖かったよ」

「美流ちゃん、何を見たの?」

「目と胸に穴の開いた人が、私の上に乗ってたの。ビックリして、寝たフリしちゃった」


 やはり、と結鹿が頷く。女は、美流へ会いに来ていた様だ。ほぼ母親で間違い無いと思われたが、美流はまだ気づいていない。

 出来れば気づかないままの方が良いだろう。碧は結鹿と目配せをして、気づかれない程度に頷き合った。


「怖い人も居た物だね。でも大丈夫、私も碧も、君の味方だ」

「うん、平気。でもビックリしちゃった。殺されるかと思ったけど、よく考えたら私ってもう死んでたんだよね。心配して損したかも」

「かもね。死人は死なないし、痛いのも苦しいのも感じないし」

「霊能力者さんとかに殺されちゃう心配も無いもんね」

「ああいう人達は、大半が見える人らしいね。死んだ人が悪乗りをして成仏したフリをしたり、こっそり蝋燭を消したり、そういう事をして付き合ってあげてるそうだよ」

「え、そうなの? うわ、ずっとテレビで嘘ばっかり言ってる人なんだと思ってた」


 結鹿の楽しい話に引きつけられて、美流の注意は自分の見た物からはすっかり引き離されている。

 まだ美流は眠気が抜けていないのか、何度か目を擦っていた。むしろ、安心した事で余計に眠くなった様子だ。碧は美流をもう一度寝かせて、布団を被せた。


「もう少し寝た方が良いよ」

「温かいね、ありがとう。でも、私は平気だから」


 美流はもう一度起き上がった。今度は伸びをしていて、寝る気は全く無い。


「大丈夫? なら良いけれど、無理はしちゃダメだから」

「平気だよ。ちょっと怖かったけど、それまではずっと寝てたから」

「そっか。ところで、布団は大きすぎたかな? ほら、結鹿さんと一緒に寝る事が多いから、二人用なんだよね、それ」


 碧は、美流の記憶が曖昧な内に話題を逸らしてしまおうと決めた。記憶がはっきりしてしまうと、ヘアピンや顔立ちで女の正体に気づいてしまいかねないので、極力関係の無い話をする。


「楽しかったよ。ベッドからはみ出て垂れるくらいのお布団なんて、初めて使ったかも」

「なら良いけど、寝苦しかったら悪いと思って」

「その点は問題無し、だったよ」かなり気に入ったのか、美流が布団を撫でた。


 機嫌の良さそうな、落ち着き払った美流の態度に、安心させられる。まだ、この部屋に訪れた女の正体には思い至っていない。


「うん、良かった」碧は、幾つかの意味を含めて呟いた。


 美流は恥ずかしがったのか、布団で口元を隠す。すると、玄関の扉が開く音が聞こえた。


「暁さんだね、多分」結鹿の方が素早く、玄関の様子を確認していた。


 そこに居たのは、暁だ。脱いだ靴を揃えて、立ち上がる所だった。


「碧、大丈夫だったか?」

「大丈夫だよ。でも、暁君にしては遅かったね?」

「全部食べるのが大変だったんだ」


 暁は腹を押さえ、困り顔で言った。そんな状態でこの部屋まで走って来ただろうに、息切れ一つしていない。碧の無事な様子を見て取り、暁は安堵を現した。


「暁さん、ここに来る途中で誰かに会わなかった?」

「さあ。急いで来たから、居たとしても通り過ぎてるだろうな」

「そうか。残念」


 肩を落として落胆を表現しながらも、結鹿はすぐに表情を楽しげな笑みへと戻した。


「九島さんは何か言っていた?」結鹿が心配する素振りを見せた。「あの人にケーキを押しつけてきたから」

「喜んで食べてたよ。食べかけだからちょっと気が引けたらしいけど、味には関係無いからって」

「なら良いけど」

「そうだ、九島さんからお土産を貰ったんだった。美流の分のケーキだってさ」


 暁は片手に持っていた紙製の箱を突き出し、結鹿へと手渡した。


「あの人は、あれで結構気が利くんだよね。料金は何か言っていた?」

「美流の分は、九島さんが自分の財布から出すから良いって言ってたよ」


 何度か感心した風に頷きつつ、結鹿は紙の箱を持ってリビングへと戻り、隅に有る冷蔵庫を開けて、箱をその中へと入れた。

 ベッドの上の美流は、暁に向かって手を振る。元気そうな対応に、暁もまた安心した様子で返事をした。


「暁さん、お帰りなさい」

「ただいま、いや、俺の家じゃないんだけどな」


 暁は苦笑いを浮かべながらも、椅子を美流の側へ寄せて、そこに座る。また腹を押さえて、食べ過ぎた事を表現している。その喜劇的な様が美流の心をくすぐったのか、彼女は暁の姿を面白がっていた。


「ケーキが有るから、後で食べろよ」

「本当? 何のケーキ?」

「チョコレートだったかな。よく固まって美味しいらしいぞ」


 美流が嬉しげに拳を握った。甘味は大好物らしく、恐怖体験も忘れて調子を上げている。

 今すぐ食べるのかと思われたが、美流はベッドに身体を寝かせて、胸元まで布団を被った。幸せそうな笑顔だ。


「でも、後で食べるね。結鹿さんとアオちゃんも一緒に食べようよ」

「良いね、九島さんから貰ったケーキがまだ残ってるから、それと、紅茶でも飲んで」

「紅茶? アオちゃんは紅茶も飲めるんだ」

「美流ちゃんは無理?」

「ううん」美流は欠伸をしながらも、首を振った。「大好きだよ。たっぷりお砂糖を入れて、ちゃんと混ぜたのが好きかな」

「私もその方が好きかな。結鹿さんも、そういう方が良い?」

「まあね。苦いのよりは、甘い方が嬉しいよ」


 結鹿は暁の方を向いた。


「暁さんは甘いのが苦手だったかな」

「ああ、どうもな。その点、碧と結鹿さんはよく食べるよな」

「暁君、大食いみたいに言っちゃダメ。何だか勘違いされちゃう」

「でも好きだろ」

「それは、勿論大好きだけど」


 言葉に詰まる碧に向かって、結鹿と美流が揃って笑い出した。暁も密かに笑い声を漏らしていて、碧は恥ずかしさに頬を掻く。甘い方が好きなのは嘘では無いので、訂正が難しかった。


「大丈夫だよ、ほら」一頻り笑うと、結鹿が碧の腹の中央に触れた。


 急な接触に驚いて、碧は飛び上がった。妙な声が出そうになって、慌てて口を閉ざしたが、結鹿には聞かれてしまったらしく、彼女は悪ふざけ気味に碧の背中を撫でた。


「この通り、碧はまるで太くない。柔らかいけど、細いんだよね」

「止めて、感想はちょっと恥ずかしい」

「え、良いじゃない」


 悪戯っぽい微笑みを浮かべ、結鹿は碧を横から抱いていた。

 反撃とばかりに碧が手を伸ばし、結鹿の腹部に触れようとしたが、彼女は軽やかに身を捻り、碧の腕を掴んで引き寄せ、背後に回って頬を寄せてきた。


「うん、体重は変わってないね。健康な様で何よりだよ」

「く、くすぐったい」


 こそばゆい感触だが、碧は抵抗する気も無く、結鹿を受け入れた。

 美流が眩しい物を見つめる瞳となっていて、二人をじっと眺めている。何やら羨ましげで、失った何かを求める様な雰囲気だった。


「本当に仲良しなんだね、二人って」

「そうだね、私は結鹿さんが大好き」

「そして、私も碧が大好きだね」


 仲の良さを示す為に、二人は阿吽の呼吸で腕を組んだ。

 美流が懐かしそうに目を細めた。彼女にも、そういった人物が居る。その相手の姿を、思い出しているのだろう。目の前で仲の良さげな態度を見せたのは失敗だったかと、碧は危惧した。

 しかし、美流は明るく、悪戯心の溢れる顔つきを現す。


「その割には、アオちゃんって結鹿さんを呼び捨てにしないんだ。あ、私の場合はお互いに呼び捨て合ってたよ」


 碧と結鹿は、思わず顔を見合わせた。あまりに自然な事で、そう告げられたのは初めてだ。


「あのね、これって癖なんだよ。何かきっかけが有れば、変えると思う」


 妙に言い訳じみた事を告げてしまい、碧は恥ずかしくなった。横から聞いていた暁が面白がって、笑い出す。

 くすくすと笑いながらも、美流は大きく欠伸をして、口元を押さえた。また小さく伸びをして、目を擦っている。笑う事で、疲労が溜まった様だ。

 恥ずかしさから目を背けながら、碧は美流の両肩を掴み、寝かせる。


「やっぱり眠そうだよ、美流ちゃん。もう一度寝た方が良いんじゃないかな」

「そうだね」美流は微笑んだ。「そうしようかな。テレビ、付けてくれる?」

「うん」


 空気が軽くなった事を感じながら、碧はリモコンを持ってテレビの電源を入れた。ちょうど、動物番組で子猫の特集が組まれていて、可愛らしい姿に心が癒される。結鹿がその映像に見とれながらも、眠たげに息を吐いた。


「何だか、私も眠くなってきたかな」

「あ、一緒に寝る?」布団を持ち上げて、美流が中へ誘い込む。


 子猫特有の高い鳴き声を背に、結鹿がおもむろに布団の中へ入っていった。

 結鹿が手招きをする。碧は誘いに乗って、反対側から、美流を挟み込む形で布団へと潜り込んだ。


「碧さんは体温が高いんだね」

「みたいだね。微熱くらいまでなら、すぐに上がるんだよ」


 結鹿が腕を伸ばして、碧と手を繋ぐ。碧はその手を美流の小さな胸元へ置いて、檻の様に美流を抱き締め、包み込んだ。反対側の結鹿が、和やかな表情をしている。それを見た碧は、自分の顔が緩んだ事を自覚する。

 美流の手が、二人の頭を撫でた。面白がった風な様子を感じて、碧は躊躇せずに美流の背中をくすぐった。美流が大きく震えたかと思うと、反撃とばかりに腋を撫でてきた。

 結鹿も参加して、三人で揃ってくすぐり合う。布団の中で暴れ回っていると、暁が肩を竦めて、残念そうに息を吐いた。


「こういう時、自分が男なのが悲しいな」

「入っても良いよ?」碧が布団を上げる。

「駄目だ。というか、嫌だ。狭すぎる」


 暁は固く首を振り、椅子を持ってテーブルの元へ戻し、冷蔵庫から水を取り出した。


「暁君。もしかして、寂しい?」

「いいや」暁は水を飲んだ。「ただ、少し残念なだけだ」


 何が残念なのかは言わないまま、暁は写真立てに目を通し始めた。

 その表情から考えは窺えず、碧は戸惑いながらも、美流を抱き締めた。小柄な少女の暖かさが伝わってくる。相手が死んでいるとは思えないくらい、生気に満ちている。

 はにかんだ笑みにも、死んだ事への悲壮感は無い。美流は、自分が死んだ事をすっかりと受け入れ、楽しんでいた。羨ましい程だった。


「ねえ、アオちゃん」


 碧の方へ顔を傾け、美流が話しかけてくる。


「何?」

「お父さんは、元気だった?」


 当たり前の事だが、話を逸らせた訳ではなかった様だ。美流の一言に、碧は口を閉ざした。


「会ってない?」美流が繰り返す。

「どうして知ってるの?」

「え?」美流は首を傾げた。「だって、そうじゃないかと思って。お母さんは死んじゃってるし、探してくれたんだよね」


 当たり前の様に尋ねられて、碧は思わず結鹿へ助けを求めた。結鹿は、誤魔化しきれないと考えたのか、諦めた風に目を瞑る。

 碧は隠し事を止めて、深く息を吸った。


「何か思い出したの?」

「それは、多分。お母さんが死んじゃった事は、うん、思い出したよ。だから、探してくれたみたいだし、会ったのかなって」

「確信が無いのに聞いたのかな?」結鹿が驚いていた。

「うん、もしかしたらと思って、聞いてみたの」美流の表情に、子供らしく、小悪魔の様な意志が宿る。「聞いてみて、大正解だったね」

「やられた」結鹿が頭を抱えた。「美流ちゃんは頭の良い子だね、本当に」


 結鹿が強く碧を抱き締めた。それによって、美流は照れた風な顔色をする。軽く頬摺りをされてながらも、美流の目が真剣に光った。


「それで、本当の所。お父さんはどうだった? 私に聞かせられない様な事だったの?」

「大丈夫。君が心配する事なんか無いんだ」結鹿が先んじて答えた。

「お父さんは?」


 碧は内心で焦りを抱いたが、結鹿は用意していたかの様に口を開き、安心させる声音で説明した。


「元気だったよ。ちょっと仕事が大変みたいだね」

「元気なんだね。私とは、会えないって言ってた?」

「ちょっと」小さくウインクをしている。「ちょっと、待っていてね。色々と準備が有るんだ」

「そうなんだ。分かった、待ってるから、いつでも言ってね」


 絶対に問い詰められると覚悟したが、美流の物分かりは想像よりも遙かに良かったらしく、あっさりと受け入れた。父親と遠ざけられている様な物で、怒っても仕方が無いというのに、彼女はまるで気にせず、大人しく布団を被った。その顔は結鹿に近づき、頬が完全に張り付いていた。

 碧の背中にも手が伸ばされ、美流は二人の事を姉の様に扱った。両方から抱き締められたからか、美流の目には眠たげだが、親しげな気配が含まれている。

 親の話をしたからか、美流が愛情を求めている様に思えた。碧はその気持ちに完全には応えられないが、結鹿は応える気になったのだろう。彼女は美流の頬に口づけを交わして、自分の唇を仄かに舐めた。

 美流の笑顔が更に強まり、結鹿の髪を撫でる。柔らかで触れやすい髪質に感動しただろう。


「お母さんみたい」美流が目を閉じる。「でも、結鹿さんの方が感触は良いね」

「だよね、結鹿さんは髪が凄いの」

「特別な事はしていないんだけど」結鹿が呟いた。彼女がいつも言っている事だ。


 碧と美流は顔を合わせ、小さな声で笑いを漏らす。結鹿が困っていたが、それもまた楽しかった。


「やっぱり、こうやって誰かと一緒に居ると、安心するよね。心が暖まるし、安心するんだ」

「それ、良いなあ」美流が喜びを現す。「私も、不安な日は結鹿さんと一緒に寝るんだよ」

「誰かと一緒に寝るって、いいよね」


 何度も頷き、同意を示す美流の姿に、碧は和やかな心持ちとなった。母親の死を思い出しても、彼女は見た限りでは元気を保っていて、その元気が伝わってくる程だ。空元気かもしれないが、この年齢でそこまで頑張る少女に、尊敬にも似た気持ちを抱く。


「美流ちゃんは凄いね」

「え、どういう意味?」


 よく分かっていないのか、美流は疑問を浮かべた。

 碧はそれに答えない。ただ、大切な人達と離れ離れになっても笑顔を保つ姿を、眩しく感じていた。


「いいや、それより、もう寝るから」結局理解できなかったらしく、美流は布団の中へ潜る。

「テレビはどうする?」結鹿が尋ねる。

「そのままにしておいて。眠い時のテレビって、いい子守歌になるんだよね」


 大きな欠伸をかみ殺し、美流は目を瞑った。頭まで完全に布団の中で、それは結鹿と碧も同じだ。

 結鹿が抱き締める力を弱めた。美流の胸の辺りを軽く叩き、寝心地が良い様に気遣い出す。


「今は、おやすみ。また今度、詳しい事を教えるから」結鹿が囁く。

「うん」とても眠そうな声で、美流は返事をした。「おやすみ」


 完全に目を瞑った美流が息を大きく吐き、力を抜いた。その胸を、結鹿が軽く叩き、鼻歌の様な物を聞かせ続ける。

 どこかで聞いた様な緩い音楽と、子猫の鳴き声が、碧の眠気まで煽ってくる。

 碧は、思わず欠伸をした。口元を押さえて隠したが、結鹿には見られてしまった。恥ずかしく、シーツに顔を押しつける。

 眠るのが早い方なのか、美流はすぐに寝息を立て始めた。先ほどと同じで本当は起きているのでは無いかと思われたが、どう見ても寝ている。


「おやすみなさい」結鹿が囁いた。


 三人は目を合わせて頷き合う。結鹿と碧は布団をおもむろに上げて、美流を起こさない様に床へ立つ。音を立てず、互いに目を合わせながら、揃って浴室へ向かった。

 洗面所との間に有る扉は、開くと良い音がする。碧は不安を覚えたが、浴室の扉は既に開いていた。


「そうだ、探していた時に開けたままだったね」


 結鹿が真っ先に浴室へ入り込み、バスタブの中で屈む。碧は無言でバスタブの縁へ座り、結鹿の肩へ手を置いた。

 最後に、暁はプラスチック製の椅子へ腰掛け、美流が近づいていない事を確認する。三人が揃って落ち着いた所で、彼は口を開いた。


「さ、美流ちゃんも寝た事だし、話をしないとな」

「うん、本当に、どうしよっか」

「困ったよ。美流ちゃんは私の想像より聡い子だったみたいだね」


 結鹿は三角座りをして、その髪をバスタブの底へ付けた。


「本当は、九島さんを巻き込んで、あの父親に、死人が見えるという事を時間をかけて飲み込ませるつもりだったんだ」

「あの人は死人が見える、なんて事を信じるタイプじゃないよね」

「でも、見えている事は確かだったから。第一、あの店で働ける様な人間が、死人がまるで見えないなんて嘘だね。自分を誤魔化しているだけで、絶対に見える筈だよ」結鹿は困り果てた様子を見せた。「問題は、どうやって認めさせるか、だよ」


 防音性の高い浴室の中でも、結鹿の声は小さかった。美流に見せていた表情とは違い、物憂げだ。 


「どうしても認めるしかない状況が必要なんだ、それが、必要なんだけど。どうした物かなあ」

「死んだ人がもっとよく見える様になる方法は無い? 私達と同じくらい見えるなら、信じるしかないと思う」

「碧」結鹿が首を振った。「そんな都合の良い方法は無いよ。有るのかもしれないけど、私は知らないね」

「九島さんなら知ってるかも」

「聞いてみるだけ聞いてみるけど、多分、知っていても教えてくれないと思うな」

「そうかも、ううん、間違いないね」


 そんな方法は無いと分かっている。碧は肩を落とした。

 結鹿は黙って考え込んでいる様子だった。良い思いつきが無いのか、壁を眺めたまま動かなくなる。美流のベッドが有る方向へ時折視線を送っては、唸る様な声を漏らしていた。

 どうにか助けになりたい。結鹿の悩む姿に、碧はそう感じた。しかし、やはり良い考えは無い。碧は目で暁へ助けを求めた。最初から死んだ人間を見る才能を持つ結鹿や碧と違って、暁は後から見える様になった男だ。別方向からの考えが期待できる。

 期待を裏切らず、暁には考えが有る様子だった。


「どうしても認めさせなきゃいけないか?」

「え」碧は戸惑った。

「つまりだ。もう、いっそ直接会わせてみるのはどうだ? ほら、娘が目の前に居るんだ。幽霊、の存在くらい、信じたくなると思うんだよな」暁からは自信が伝わってくる。「少なくとも俺は信じるね。目に見えないならまだしも、そこに居るんだから」

「駄目」結鹿が言い切った。「もしあの父親が美流ちゃんを幻か何かだと扱ったらどうする? あの子が傷つくだけだよ」

「いや、目の前に娘が居れば、信じるしかないんじゃないか」

「それでも、やっぱり暴挙だよ。もっと慎重にやりたい。だから時間が欲しかったんだけどね」

「しかしな、他の手が思い浮かぶか?」


 結鹿は答えなかった。

 暁が不満そうな顔となり、タイル張りの壁に後頭部を押しつけた。。結鹿は、出来る限り美流を傷つけない様に立ち回りたいらしく、そこが彼女の目的となっている風だ。

 碧は、暁の考えに同意を示そうとしていたが、結鹿が反対しているのを見て、口を閉ざした。結果はどうあれ、結鹿が苦しむ選択を取る気は無い。


「美流ちゃんは強い子だから、辛くても我慢するかな」

「碧なら、思うだろうね。私も同意する」


 何度も頷いている結鹿の姿に、碧は、あなたこそ我慢する類の人じゃないか、という言葉を飲み込んだ。今は美流の話をしているのだ。


「このまま会わせずに誤魔化すのも、手の一つだけどね。でも、美流ちゃんが一番辛いだろうし」頭を抱えた結鹿の呟きが続く。「もし偶然顔を合わせたりしたら、それこそ最悪だと思うんだ。仮に美流ちゃんが父親に対面するとしても、私達が見守っている中じゃないと、不安で」

「ちょっと、過保護じゃないか?」

「あの子を幾つだと思ってるのかな。幾ら大人びてるからって、流石に酷だよ」


 暁の言葉に首を振り、結鹿は額を押さえた。「母親が生きていたらどうにでもなるんだけど、ね」

 いつもより余裕を無くしたその肩を、碧がそっと撫でる。顔を上げた結鹿に、碧は極力心強く見える笑みを作った。


「ほら、一人で悩んでる訳じゃないんだから」

「うん、大丈夫。大丈夫だよ。ありがとう、碧」


 弱々しく笑う姿に、碧は胸を痛めた。

 何か手は無いかと考える。美流を助けるより、結鹿を楽にしたい気持ちだった。

 暁が腕を組み、唸っている。彼も、方法を考え続けている様子だ。自分より頼もしい人物に、碧は僅かに心を軽くした。

 しかし、気分が良くなって何かが出るかと言えば、違う。何も思い浮かばない。

 結鹿も、碧も、暁も、結局は良い考えが一つも無いまま、美流の寝顔を眺めて一日を過ごす事となった。




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 いつものカフェテラスで、碧と結鹿は対面の席へ座り、ケーキを囲んでいた。

 朝日が眩しく、テラス席を選んだ事が失敗に思えてしまう。碧は、うなじにかかる陽光の存在を感じながらも、目の前の結鹿を気にしていた。


「暁さんは大学か、大変だね」

「結鹿さんだって、最近までは大学に行っていたんじゃないの?」

「いや、いや」結鹿が肩肘をついた。目に薄い隈が有った。「結構経つんだよ。あ、年齢は聞かないでね。嘘を教えなきゃいけないから」

「それ、結構な歳だって言ってるのと同じ事だよ」

「そうかな?」


 結鹿は笑いだし、ケーキを口にした。今日は、チーズタルトだ。昨日は美流に合わせてチョコレートケーキだったので、チーズの気分になったらしい。

 美味しそうに、少しずつ食べている。柔らかな生地はクリームと見間違える程に滑らかで。乳白色の土台がまた程良い甘味を重ねて、チーズの風味を引き立てている。土台はクッキーの様に固く作られていて、手で持ったとしても、崩れて粉が落ちる事は無い。

 難点と言えば。


「これ」結鹿が困った様子を現す。「土台が固くて切り難いんだよね。チーズと分離しそう」


 土台とチーズが完全に別れてしまい、フォークにはチーズの部分だけが刺さっている。結鹿は肩を落としていた。そんな仕草がまた子供の様だ。 

 それでもチーズの部分を食べると、結鹿は気分良く笑みを浮かべる。


「うん、美味しいね。碧、食べないの?」

「ううん、食べるよ」


 促されて、碧は自分の注文したフルーツタルトを切り分けた。適度にカットされたブドウとパイナップルが、甘いクリームに別種の甘味を加えていて、その甘味を包む土台の適度な柔らかさが心地良い。

 タルトを味わいながらも、碧は結鹿の顔を見ていた。


「何?」 視線に気づいた結鹿が、疑問を浮かべる。

「何でもないよ」

「そっか、相談事なら何でも聞くから、好きな時に言うんだよ」

「まだ気にしてるの?」

「いや、違うって。ただ少し、気になっちゃうだけさ」


 いつも通り、結鹿は頼もしく微笑んだ。

 そう。いつも通りだ。とても、美流の事で深く悩んでいるとは思えない程、彼女はいつも通りに受け答えをしていた。

 それが、逆に空元気にしか見えない。ケーキを食べる動きが普段より少し早く、味を楽しむ余裕が落ちている。加えて、時折足で落ち着き無く床を叩き、店内の音楽に合わせてリズムを取っていた。極力隠そうとしているが、碧には分かった。

 その姿に、碧は悩ましい心地を味わった。言及すれば余計に嫌な思いをさせてしまうと分かっているので、今はただ、彼女の空元気に付き合うしか無い。


「暁さん、授業はどうなんだろうね。何かと苦労が有ったりするのかな」

「そうでもないと思う。結構、友達も多いし、難しい授業も頑張ってるみたいだよ」

「結構な事。碧と同じ学校だったかな」

「うん、その」碧は言うべきかを迷った。「暁君は、私より、あの」

「ああ、そういう」結鹿が察した風に頷く。「また一つ彼を尊敬出来そうだね。好きな女友達と一緒に居たくて頑張ってる訳だ。凄いね」


 暫くの間、結鹿は関心し続けていた。それでも、頭の中では美流の事が渦巻いているのか、本当の意味での笑顔までは届いていない。

 碧が辛く思っていると、その隣を虹が通り過ぎた。勿論、髪の色の事だ。テラス席で彼が通ると、空に虹がかかっているのかと錯覚してしまうのだ。

 彼は、少し離れた席の老夫婦に紅茶を運ぶと、碧と結鹿の姿を確認し、そちらへと近寄った。悪ふざけでもしているかの様な笑みが突き刺さっている。


「うにゃっほ」


 妙な声を出し、九島はその手を挙げて、指先を奇怪に揺らせた。何かの映画で見る様な、妖しい動きだ。

 碧は小さく挨拶を返す。すると、九島は二人の顔を何度か見比べて、何事か納得した風に頷いた。


「結鹿さん。どうにも君、今日は調子が悪そうだね」

「今日は、ちょっとね」結鹿が淡い笑みを作る。

「そっか。色々有るもんね。しょうがないかな」九島が一度言葉を止めた。「それで? どうしたの?」


 興味が有るのか、彼はまるで客の様に隣のテーブル席へと座り、足を組んだ。エプロンには円と、焔の文字が刻まれていて、字の印象とは異なり、色は黒と薄桃色だ。

 白地の清潔なエプロンに、その文字はとても目立つ。店の印象にも、彼自身の印象にもそぐわない。


「これ?」エプロンの端を持ち上げる。「貰い物でね。でも、私の事は今は良いから、何か有った?」


 九島は、結鹿に向かって尋ねた。彼女が悩んでいる事に気づいている。


「それは」結鹿は何度か口を開けて、閉じた。


 答えるべき内容を考えているのだろう。たまらず、碧が口を挟んだ。


「結鹿さん、私が説明しても良い?」

「碧、でも」

「ううん、私にやらせて」碧は、任せておけと言わんばかりに胸へ手を置いた。「多分、私の方がちゃんと説明出来ると思うから」


 ほんの少し迷い、結鹿は答える。


「ごめん、お願いするね」


 それを聞くと、碧はすぐに頷いて九島の方へ向き直る。彼が見せる相変わらずの満面の笑みに、好奇心と、興味が見え隠れしていた。碧は怒りを抑えた。自分が悩みを相談をした時も、彼はこの調子で、しかし、真剣に聞いていた。腹を立てる方が、間違いなのだ。

 聞きたがっている雰囲気の九島に、碧は今の状況を説明した。美流の事、美流の父親の事、母親の事に、問題点だ。その全てを、九島は心底楽しそうに聞き入れていた。しかし、その注意が時折結鹿の方へ向かっていた事を、碧は理解していた。

 全てを聞き終えた結鹿は、会得した顔となって、自分の左頬の近くで両手を合わせる。


「ふむむ、なるほど面白い、失礼、楽しそうな話だね」


 殆ど同じ意味の事を口にしながら、彼は目を爛々と輝かせた。


「あの九島さん」思わず、碧が口を挟んだ。「ふむむ、とかうにゃ、とか、声に出さない方が」

「そうかな?」

「止めた方が良いと思うんです。九島さん、結構かわいいのに、何だかわざとらしくって」

「かわい、うん?」九島が小首を傾げた。「嬉しいけど、嬉しいけど! 一応これでも、私ってもう君より年上だよ。いや、生きてないから年上は変だけど、少なくとも一応年上なのに、かわいいって」


 大げさに手を振り、彼は、困惑しながらも楽しくて仕方が無いという表情を作った。わざとらしいが、やはり可愛らしい。顔立ちは勿論、身振り手振りも彼の雰囲気を小動物の様な存在に仕立て上げている。

 両頬を撫でて、「かわいいって」と何度か繰り返し、九島はようやく落ち着いた。意識を切り替えたのか、それまでより遙かに真剣味の有る顔を作る。


「結論から言えば、すぐに見える様になる方法は無い。見える人間と一緒に居たら、自分まで、というケースは有るけど。ほら、アオちゃんのお友達とか」九島は首を振った。「それだけでも奇跡なのに、流石に、今すぐ見える様にしろ、なんて言われると、ね」

「見える様になるんじゃなくて、もっと見える様に、死んだ人の存在を認めるしか無いくらい、見える様になれば」

「そればっかりは本人次第だよ。見たいと思うか思わないか、そこが大事なんだ。彼、そういうのは全く信じてないから。奥さんの姿も、自分の追い詰められた精神が見せる幻覚だと思っている事で間違い無いよ。もっと、殴りつける様な衝撃が必要だろうね」


 期待外れの回答に、碧は酷く残念な心地になった。結鹿の想像通り、彼からも有効な助言は得られなかったのだ。

 自分の時は悪魔的な発想で助言を与えた存在に、碧は期待を寄せていた。それだけに、落胆も大きい。


「ごめんね」九島が謝罪を口にした。

「あ、その。良いんです。こちらこそ、ごめんなさい」


 勝手に期待していた事に気づき、碧は謝り返した。

 気にしていない素振りで首を振ると、九島は話題の店員、美流の父親を眺めた。店長が座って客と話している為か、九島を不満げに睨んでいる。しかし、仕事の手は止めないまま、接客は続けている。

 客の中には死人が混じっていたが、店員は相手が死んでいる事には気づかないまま、注文を聞いて、コップへ水を注いでいた。


「ほら、あの通りだよ。自分が見えている事に気づいてすらいない。他の人に言われたって、信じないね」

「見える人なら、カメラ越しでも見えますからね」

「そこが厄介だよ、本当に。彼がもう少し純粋なら、信じてくれる所なんだけどなあ」


 九島は肩を竦めて、その場から立ち上がった。一瞬で離れた席の客から注文を受け、それを厨房へ持って行くと、即座に戻って碧達へ気楽そうな顔を見せる。


「ともかく、美流ちゃんは待ってくれるんだね。だったら、もう少し落ち着いて、周りを見回せる余裕を持つ事が大切だから」

「はい、ありがとうございます」

「力になれなかったのに、お礼なんか良いんだよー、なんて。言われて嬉しいのは確かだけど」


 あくまで悪ふざけを滲ませながらも、九島は一度客達を見回した。生きた人間も死んだ人間も居る。彼の目には、碧以上に、常人には見えない物が見えているのだろう。

 九島はその場から立ち去ろうとして、思い出した様に振り返った。その視線が行く先は、結鹿の元だ。


「そうそう、結鹿さん」九島は、哀れむ様な声を出していた。「美流ちゃんの家の事なら、君は何も悪くないんだからね。自分を責めるのは良くない。責任を感じる必要も無いんだよ」


 それじゃあ、と九島は背を向けて、余韻、質問の余地も残さず去っていった。

 突然の言葉に、碧は思わず結鹿の顔を凝視した。

 結鹿は妙に表情が暗く、何かを考え続けている様子だ。タルトを食べる手も、今は動いていない。九島の一言がきっかけになったのか、空元気が消えかけていた。

 碧は心苦しい気持ちで、その顔を見つめ続けた。いつものデザートも、今はあまり味を感じなかった。


「やっぱり、知ってたんだ」碧が告げる。


 一瞬だけ結鹿の手が止まり、碧から目が逸らしていた。その反応で確信を持つと、碧は席を移動して、結鹿の真横へ座った。彼女は、珍しく碧と目を合わせない。結鹿から初めて受ける明らかな拒絶だったが、碧はその対応に傷つくより、案ずる気持ちの方が遙かに強かった。


「ねえ」


 物憂げな結鹿の顔を掴み、碧は自分の方へと向けさせて、半ば強引に目を合わせた。


「旦那さんの事も、あの美流ちゃんのお母さんも」碧は逃がさなかった。「知ってたから、旦那さんに悪戯をしたんだよね?」


 答えたくないらしく、結鹿は何も言わなかった。碧は、気にせず畳みかける。


「だって、結鹿さんが優しいからって、美流ちゃんに気遣い過ぎるから。何か有るんだろうなって、そう思ってたの。九島さんがああ言ってたんだし、美流ちゃんや美流ちゃんのお母さんが生きている頃の知り合いだったと思うんだけど、違うかな」

「碧、それは」

「良いの」碧は首を振った。「詳しい事なんか聞かなくたって、私は平気だから」


 話したくないのなら、良い。碧はそう言い切った。その内容がどうあれ、自分の気持ちは変わらない。そういった確信を抱いていたからだ。

 結鹿は泣きそうな顔をした。しかし、泣くよりも笑う方が良いと思ったのか、一筋だけ涙を流しながら、いつもの様に柔らかな笑顔を見せた。


「いや、ううん。話す。このまま隠しておくのが良くない事くらい、分かるから」


 何度か咳払いをすると、結鹿は姿勢を正す。その呼吸が完全に整うまで、ほんの少しの時間を必要とした。

 その間に、碧は椅子へ深く座り直し、さも日常会話の様な気安さを漂わせた。その対応に話しやすくなったらしく、結鹿は静かに語った。


「美流ちゃんの母親は、彼女は、その、昔の友達なんだ」


 そこに含まれた微妙な意味合いを、碧は読み取った。彼女の記憶に、初めて結鹿と出会った時の事が思い浮かぶ。


「それって、もしかして、あの絶交したっていう人?」

「よく覚えてるね」結鹿が苦笑した。「そう、その人だよ」


 遠い目をした結鹿は、何度か紅茶を飲み、空を見上げる。目と胸に穴が空いていない、生前の顔を思い出しているのだろう。

 自分の知らない結鹿の過去に、碧は強く興味を持った。


「彼女は、私の大事な友達でね。小さい頃からの付き合いで、ちょうど、今の碧の位置に彼女が居たんだ」

「私の位置に?」

「そう、碧と私みたいに四六時中、何をする時も一緒に居たんだよ」


 余程大切な友達だったのだろう。それを結鹿は楽しそうに語っている。


「それが、どうして絶交なんてことになったの?」

「大喧嘩、というか」僅かに口ごもる。「ほら、結婚に大反対された、ってあの人が言ってたよね。それ私なんだ。当時の彼女はまだ二十歳で、結婚には早すぎると思って。まだ暫くは恋人同士で良いじゃないかなって。それだけじゃなくて、色々と言って反対したんだけどね」

「原因は、それ?」

「そう、彼女には酷く怒られて、もう二度と近寄らないで、余計な事をしないで、なんて」結鹿は溜息を吐く。「どうしてあなたにそんな事を言う権利が有るの、とか言われちゃってね」


 紅茶を飲むと、結鹿は懐かしそうにカップの表面を撫でる。懐古の想いが強いらしい。


「そこまで決めて結婚するなら、私が何か言う事じゃないと思って。その時に、君と出会ったんだ」結鹿が碧に視線を送った。「それで、私は彼女が結婚するのを見届けて、後は碧も知っての通り、君と一緒にずっと過ごしてきたんだよ」

「そんな事が有ったんだね」

「結婚後の彼女は幸せそうだったから。私も、自分の道を行かなきゃいけないと思ってね。いや、勿論」当然の様に話を続けた。「時々家の近くへ行って、家族の顔とか、彼女が幸せにやっているかを確かめてはいたけど。結局、会えなかったかな」


 寂しそうに話す姿を見て、碧は自然と彼女の手を握っていた。心が楽になったのか、結鹿はそれまでより少しだけ顔色が良くなり、碧の手を握り返す。

 過去を振り返るその表情に、明るい物が戻った。その事を碧が喜んでいる内に、結鹿はまた話を続ける。周囲の死んだ人間が聞き耳を立てている様子だったが、気にも留めていない。


「遠くで見ているだけでも、彼女は幸せそうだったから、何も言わない事にしたんだ、死んだ人が見える、なんて胡散臭い女が友達だったら、結婚生活に支障が出そうだったし。そういう意味でも、私は邪魔者にしかならないかと思って」


 結鹿は深く深く肩を竦めた。自分の弱さを呪っている風ですらあった。


「本当に参るね。幸せにやってると思っていたんだけど、気づいたら、この通り」


 口調こそおどけていたが、彼女の目は何よりも真剣な物だ。その目に宿る光に、碧は心の中の何かを貫かれる様な錯覚を覚えた。


「ともかく、そういう関係だったんだよね。だから、一目見てあの子が美流ちゃんなのは分かっていたし、あの子にだけはせめて幸せになって欲しいんだ」

「美流ちゃんを殺したのも、その人なのに?」

「あいつが美流ちゃんを殺したんだとしても、そんなのは関係無い話だよ。あの子が彼女の娘だっていう事実は変わらないし、私の友達の娘なのは変わらない」


 絶交された相手だろうと、それは変わらない。結鹿はそう続けて、そこで言葉を切った。指を何度か揺らせて、フォークでカップの上を叩いている。鈴の音の様な響きが、耳へと響いてくる。

 癒しの音に、碧は眉を顰めた。結鹿の切なげな顔が目に飛び込んできたからだ。

 その友達は最低な人だと思う、という言葉を碧は必死で飲み込んだ。死体の様な姿を見ただけの、会話をした事も無い相手に怒りを覚える気は無い。が、抑えきれない感情が、拳を握らせた。

 その時、そこに自分が居たらと考える。きっと、結鹿を庇い、美流の母親を殴っていただろう。人を殴った事は無いが、それなら自分は鉄パイプかバットでも持ち出すのではないか、そう思えた。

 怒りを無理矢理に押さえつけて、碧は別な話をした。


「なら、どうしてあの人は結鹿さんから逃げるの? 結鹿さんには死んだ人が見えるって、知ってたんだよね?」

「ああ、やっぱり逃げられてたんだ」結鹿が納得し、頷いている。「避けられてるんだろうね、多分」目を伏せた。「きっと、今でも私とは関わりたくないんだと思う。最後に会った時は、もの凄く怒っていたから」

「でも、それって私と最初に会った時の話だよね? もう何年も経つのに、向こうはまだ怒ってると思う?」

「さて、分からないかな。でも、ずっと会えなかったから。私が逃げていたのも有るんだけれど」


 寂しそうな顔をして、結鹿は自分の髪をかき上げた。カップの表面を打つペースが、どんどんと早くなっていく。

 碧は、結鹿の肩を掴む。振り向いた結鹿が、柔らかな表情を見せてくる。


「気にしてくれてる? ありがとう、でも大丈夫。彼女には彼女の人生が有るんだから、縛ろうとした私が悪かっただけだよ」結鹿が付け加える。「ただ、やっぱりね。彼女には生きて幸せになって欲しかった、かな」

「それ、結鹿さんが悪いのかな?」


 何やら自分を責めている風な結鹿の態度に、碧は思わず呟いた。

 しまった、と碧がおもむろに口を覆うと、結鹿が苦笑混じりに首を振る。


「私には分からない。彼女がどう考えているかの方が大切だと思う。けど、逃げられるから、どうも話が出来なくてね」

「話が出来れば良いのにね」


 結鹿が同意を示す。しかし、具体的な方法を語る事は無く、黙ってタルトを食べ終えた。

 空気が悪い。結鹿は美味しそうに甘味を口にして、楽しんでいる様に見える。しかし、その奥に様々な悲しみが渦巻いている事は、碧の目には簡単に読み取れる。

 碧は、結鹿から目を外し、美流の父親を眺めた。彼は、此処に居る者が自分と妻の結婚に反対した人間だとは、夢にも思っていないだろう。結鹿は見かけと中身が共々に若々しく、生き生きとした気配を放っていて、碧と同じ年頃にしか見えないのだから。

 店員は碧の視線に気づかず、接客を続けていた。生きた人間、死んだ人間、どちらにも接客を続けている。存在感の薄い死人は見えない為に九島が動いていたが、それでも、店員は大半の客の姿が見えている雰囲気だった。

 左の肘をついて、頭を拳の上に寝かせる。視界に店の中がよく写る。何の気無しに店内の様子を観察し続けた。九島がウインクを見せて厨房の中へ去っていき、手を振って消えていく。

 碧の中に、九島の言葉が浮かび上がった。


「そうだ」


 勢い良く立ち上がり、碧は結鹿の両肩を掴んだ。驚いた結鹿が顔を上げて、目を回す。混乱していて、何度も瞬きをしている。その姿を捉えるより早く、碧は思い切り抱きついた。

 勢い余って結鹿が転げかけ、互いに何とか姿勢を保つ。碧は勢い良く顔を上げて、喜びを口にした。


「そうだよ、その手が有ったんだ」碧は喜色満面で声をかけた。「結鹿さん、やっぱり九島さんは良い人だよ。ああ、でもどうして教えてくれなかったんだろう。意地悪な人」

「碧?」結鹿は戸惑っている。「一体、どうしたの?」


 店員が何事かとこちらを見ていた為に、碧は声を潜めた。


「良い方法を思いついたの。あの店員さんに、嫌でも真実を認識させる方法」

「本当に?」結鹿の目が見開かれる。「それは、どんな手を使うのかな」

「それはね」


 碧は結鹿の耳元へ口を近づけ、そっと囁いた。教えるのは、九島が考えたと思わしき方法だ。

 それを耳にすると、結鹿は暫く考え込んだ。そして結論が出たのか、碧の肩を掴んで引き離し、ソファへと座らせた。

 碧の視線を受けながら、結鹿は答える。


「碧、それ良いかも」

「やった!」碧は思わず歓声をあげた。「それじゃあ、計画を立てよう」

「そうだね。全体の流れを考えておかないと」


 周囲の注目が自分達へ向いている事に気づくと、彼女は軽く頭を下げて、厨房から姿を見せた九島に向かって手を振った。九島はメニューを片手に素早く近づいて、周りの客へ同じ様に一礼する。

 客の注意が薄れた所を見て、結鹿が九島に話しかける。


「九島さん、ロールケーキを三つ、味は、二つが今日の一番出来が良いのを。一つは甘さを控えた物でお願いします」

「二つで十分じゃないかな?」九島が悪戯っぽく指を立てる。

「一つは暁さんの分です」


 九島が納得して手を叩いた。


「ああ、そういう事だね。てっきり一つは、二人で半分ずつ食べるのかと」

「タルトと紅茶が入ってるのに、流石に食べ過ぎじゃないですか、私はともかく碧が困る」

「確かに、食べ過ぎは健康と体重に良くないよ、アオちゃん」


 二人が声を揃えて碧の事を気にかける。碧は、思わず自分の腹部を撫でて、細い事を確認した。

 それを目撃した九島が笑い出した。しかし、結鹿の咎める視線を受けて、肩を竦める。


「じゃあ、少し待っていてね。すぐに持ってくるから。ちなみに今日の出来が良いロールケーキは、抹茶だよ。上に乗せるクリームは量を選べるんだけど、どうする?」

「多めでお願いします。碧は?」

「あ、私も多めで」

「はい、かしこまりました、っと。注文は抹茶のロールケーキが二つでクリーム多めと、甘さ控えめの……そうだ、最近作った米粉ロールが有るから、それにするね。その三つで良いね。いいね?」


 繰り返し尋ねたかと思うと、九島は返事も聞かずに厨房へ向かった。今まで欠伸をしていた猫が一気に走り出す様な、そういった素早さだった。

 数秒で九島の姿が見えなくなり、碧と結鹿は弾かれる様にして客達へと視線を送った。今までの暇潰し同然の行為ではなく、確かな目的の有る観察だった。


「上手く、行くかな」碧は小さく呟く。

「上手く行くさ、行かなきゃいけないんだから」結鹿が返事をする。


 二人は、じっと身動き一つせずに、店員の動きに注目する。僅かでも言葉を交わした相手を確認する。生きている者、死んでいる者、それを、二人はセンスと直感で分けた。

 店員が注文を聞き、その場から離れる。気を見計らって結鹿が立ち上がり、客の元へ向かっていった。

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