第4話

 中学二年生になったばかりの頃の碧は、少し使用感の有る鞄を持ち、通学路を真っ直ぐに進んでいた。


 碧の表情はあまり良い物ではなかった。深い悩みが有るからだが、友達付き合いが悪い訳ではない。中学で多くの友達が出来て、仲も良好だ。両親も碧を大切にしていて、勉強は難しいが、一応は対応出来ていた。

 碧を苦しめていたのは、そういった事ではなかった。むしろ、大抵の人間には共感出来ず、相談も出来ない内容だ。

 彼女は一人で道を歩き、視線や気配から逃れる様にしていた。頭から血を流した人間や、異常に青白い女が真横を歩いていて、その度に彼女は悲鳴を堪えた。


 見える様になってから、何年経っただろう。未だに慣れない恐怖に襲われながら、碧はじっと耐えた。


 誰にも相談できない事だ。知り合いの中で死者が見えるという冗談を言う人間は居るが、ここまで本当に見えているのは、碧だけだ。人に言った所で薄気味悪い目で見られるのは明らかだった。

 悲鳴を漏らさない様にしながら、碧は必死に歩く。普段は誰かと一緒に歩く事で紛らわせていたが、今日は皆用事で居なくなっていた。暁ですら、今日は男の友達と帰っている。碧は一人だった。

 家の中に居ようと学校に居ようと、碧には死んだものが見えた。自宅に居る死者、碧が生まれる前に亡くなった曾祖父と曾祖母だろう、にはもう慣れたが、学校で見かける学生や教師と思わしき死体は、見るだけで恐怖に震える物だった。

 学校でそれなのだから、通学路など言うまでもない。歩道の上に立つ子供が、じっと碧を見つめている。車がその子供を通り抜け、走り去っていく。


「私に、何をしろって言うの」碧は小さく呟いた。


 子供はもう碧を見ていない。自分の身体を通り抜けた車を眺めている。自動車事故でも有ったのだろうか。碧はあえて考えない事にした。その方が気が楽だからだ。

 もう少し歩けば自宅へ到着する。そこに居るのは家族と、曾祖父と曾祖母らしき死人だけだ。通学路に比べて、視線を気にする必要がない。逸る気持ちを抑えて、足早になりそうな所を我慢した。


「やあ」誰かが声をかけてきた。「君は、見える子だね」


 俯きがちな顔を上げると、そこには虹色の髪をした青年が立っていた。女性の様な高めの声と、少女にも近い顔立ちだ。それでも確かに男だと分かる雰囲気を漂わせている。

 碧の中に驚きと怯えが走った。それは、人の形をしていたが、明らかにこの世の生き物ではなく、虹の光が異質で不気味だった。碧はその虹色を特殊メイクの類だと言い聞かせたが、現実感がそれを否定した。


「あっ、あの」

「面白い出会いだと思わない?」青年は碧に笑いかけた。「色々と話をしてみようよ。折角会えたんだし」

「私は、ごめんなさい」碧は逃げ道を見つけようとした。

「そんな事言わずに、大丈夫だよ、私は怖い人じゃない」


 恐ろしく胡散臭い笑顔だった。不審者であり、現実離れした怪物だ。碧は助けを呼ぼうとしたが、周りに居るのは死人だけだ。


「ほら、おいでって」


 手が近づいてくる。碧は逃げようとしたが、恐怖で足が動かなかった。こうして尋常ではない物に直接話しかけられ、干渉されるのは、初めての経験だったからだ。


「ひっ」青年の瞳を見てしまい、碧は呻いた。精巧過ぎる人形が意志を持って動いている様だった。

 呻き声が出た瞬間、青年の手が止まる。青年の肩を誰かが掴んでいて、動きを止めていたのだ。

 背後に、女性が立っていた。背が高く、髪は流れる様に長い黒だ。一瞬で目を奪われるくらいの美人だったが、口元の笑みは外見に反して可愛らしかった。

 碧は、彼女から目を離せなくなった。


「駄目ですよ」女は青年に注意をした。「その子、怖がってるみたいですから」


 聞き取りやすい、冷静な声だ。外見に見合った声音で、爽やかに感じられる。

 青年は慌てた様子で首を振り、碧に向かって頭を下げた。途端に不気味さが消えて、少し価値観がズレただけの、ちょっと変わった青年となった。

 恐怖が無くなり、碧は青年を笑って許した。改めてみると、どうして恐怖を覚えたのかが分からなかった。

 青年は一頻り感激した素振りを見せ、もう一度頭を下げると、碧から静かに遠ざかっていった。


「ごめんね。あの人、悪い人じゃないんだけど……どうも馴れ馴れしくて、怖かったかな」

「あ、あの」碧は言葉に詰まった。「大丈夫です。ありがとうございます」


 二人は見つめ合い、歯切れの悪い様子で口を閉じた。

 綺麗な人だな、と碧は思った。遠い世界の人の様に見えたが、彼女は目の前に居る。碧は、また俯いた。


「見えるんだね、君」女が曖昧に笑った。

「あなたも、ですか?」

「うん、見えるよ。例えばあそこの子供は、車が大好きで、車が自分の身体を通り抜けるのを楽しんでるんだ」


 道路上に立つ少年に女が手を振ると、少年が笑顔となって手を振り返す。また車がその身体を通り抜けたが、もう不気味ではなかった。

 続いて、結鹿は青白い女と頭から血を流す男を見た。二人とも女とは知り合いなのか、片手を軽く上げている。


「あちらの人は青白い肌を気に入ったらしい。そっちの人は血が止まらないそうだよ。意識次第で外見なんか何とでもなる筈なのに、自分が死人だって自覚の方が勝ってるんだろうね。ああ、不気味だからって本人も気にしているんだ。怖がらないであげて欲しいな」

「は、はい」


 顔が血濡れの男が、小さく頭を下げてきた。申し訳なさげな表情に、怖がっていた碧の方が罪悪感を覚えてしまう。血濡れというだけで、よく見れば人の良さそうな男だった。

 外見だけで判断していた自分を恥じて、碧は周りの死人に頭を下げた。殆どは気にせず、碧を見もせずに通り過ぎていったが、何人かは首を振り、「慣れている」と言わんばかりに笑いかけてきた。


「君は良い子なんだろうね、みんな、君を怖がらせた事を悔やんでいるみたいだよ」

「そう、なんですか?」


 女が頷いた。そこで、碧は疑問を覚えた。自分が恐怖していた所を見ていなければ、そんな発言は出てこないだろう。 


「その、私の事、見てたんですか?」碧は躊躇いがちに尋ねた。

「まあね。その、お節介かと思ったんだけど」

「い、いえ。凄く助かりました」

「そう言って貰えると嬉しいな」女は機嫌の良い顔をした。


 女は辺りの死人達へ手を振った。すると、死人達は頷き、碧の視界から離れていく。女は彼ら彼女らの姿を眺めながら、深く口を噤んだ。何やら悩ましい事が有るのか、物憂げに頭を掻いている。それが、とても絵になった。

 助けて貰った為か、碧は彼女の悩みを聞きたくなった。


「あの、どうかしましたか?」

「いや、それが。うん、実は友達に絶交されちゃってね」


 離し辛そうに説明すると、彼女は悲しそうに息を吐いた。余程悩んでいるのか、見ただけで苦しい気持ちが伝わってくる様だ。

 碧の中で非現実的だった彼女の印象が、何処にでも居る様な女性へと変わる。自然に碧は穏やかな気持ちとなり、彼女の話を真剣に聞いた。


「その、お互い落ち着かなきゃいけないと思ってたんだけど、そうしたら、君を見かけて。助けたいと思って、えっと」女は言葉を選んでいる風だ。かなり言葉を選んでいる。相当に遠慮しているのだろう。

「あの、じゃあ、一緒にどこかのお店で話しませんか?」碧は先に告げた。


 顔を少しずつ上げて、女は首を傾げる。「いいの?」

「助けて貰ったんです、話を聞くくらいなら。それに、あの」碧は、心が暖くなった。「ごめんなさい。とっても嬉しいんです。私以外に、見える人が居て。しかも、私なんかより何倍も見えている人に会えて」


 やがて碧は微笑み、一度だけ大きく頷いた。目の前の女ともっと話がしたい、そう思える。死人に関する話や、何の事も無い世間話。それをしたいと思える、仲良くなりたいと思える相手だった。

 碧は静かに頷いていた。碧は、今が人生の全てを決定する瞬間ではないかと、そう直感した。そして、それは正しかった。



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 碧の過去を、美流は心から興味深そうに聞いていた。

 目が、輝いている。年下の少女が嬉しそうに話を聞いてくれる事で、碧は気を良くしていた。話の内容も幸せな物だからか、いつもより何倍も口が軽くなってしまう。懐かしい出会いを思い返す事で、心が中学生の、結鹿と出会ったばかりの頃へ戻った様だ。

 椅子へ座り、身を乗り出しながら、美流は本当に嬉しそうな顔で話を聞いていた。そこまで明るいと、釣られて碧も幸せな気分となれる物だ。


「それから二人は凄く仲良くなって、幸せになりましたとさ」おどけて、碧は拍手をする。「めでたしめでたし、なんて」

「素敵な出会いだね」美流が拍手を合わせた。

「うん、運命の出会いだよ」


 碧は、静かに話を聞いた美流へと感謝した。そして、昔話の中で疑問に思った事を考える。

 あの、結鹿と絶交した友達というのは誰だったのか。あれほど結鹿と仲良くなった今でも、分からない。九島かと思ったが、結鹿は彼を苦手としている。あの優しくて友達想いな結鹿と絶交をする。誰がそんな事をしたのか、碧はとても気にしていた。


「碧さんは凄く良い人に恵まれたんだね。でも、私だって負けないよ」

「そうなの? その話、聞かせてくれる?」

「勿論。私の友達は、私が死んだ後も生きてる時も、いつでも私を気にかけてくれるの。花を持ってきてくれたり、話しかけてくれたり。でも、あっちは見えてないから、聞こえてたって返事は出来ないけどね。でも嬉しいの、私を忘れずに、ずっと気にかけてくれて」


 そこまで語ると、美流は不意に俯いた。


「忘れられちゃったら、どうしよう」

「忘れられない様に、ずっと一緒に居れば大丈夫だよ」

「ありがとう」美流が顔色を少しだけ明るくする。「でも、私の事をずっと覚えていて、それであの子が辛い思いをしたら」


 案外、気にする子なんだな。口に出さずとも、碧は美流の事をそう評価していた。

 もっと天真爛漫な性格だと思っていただけに、友達を傷つけている事を苦しむ姿は、意外に写った。そして、今までよりも共感して、個人的にも美流の力になりたいという気持ちが沸き出してきた。


「分かるよ。自分と出会った事が不幸だったんじゃないかって、辛い思いをさせてないかって、悩んじゃうよね」私は違うけど、と碧は続けた。「結鹿さんもね、そうなんだよ。あの人も弱ってる時には、私と一緒に居て嫌じゃないかとか、辛くないかとか聞いてくるの。失礼だよね、こんなに大好きな友達なのに」


 そういう弱みも含めて、彼女の良い所も悪い所も、碧は知っている。今では家族以上の付き合いだ。もし誰かと結婚したとしても、碧は常に結鹿を優先し続けるだろう。

 ただ、今でも結鹿の背には叶わない。あまり背が伸びなかったのだ。それでも、結鹿と並べる程度に背も高くなったかな、と碧は微笑んだ。


「でも大丈夫だよ、私なら、大切な友達と出会えた事を不幸だなんて思わない」

「そうかな」

「そうだよ?」


 碧は確信を持って保証した。そして、棚の上から写真を一つ取って、美流へ差し出す。

 ここは碧の部屋だ。そして、結鹿が時折、週に五回は泊まっていく場所でもある。棚の上には飾り切れない数の写真立てが置かれていて、歯ブラシやコップは二人分用意されていた。

 碧と結鹿が二人で仲良く、仲睦まじそうにピースサインをしている写真、碧と結鹿が手を繋いで、空いた手で撮った写真、碧と結鹿が腕を組み、幸せそうに笑っている写真。夜中に二人きりで月を眺めた時の写真、出会ったばかりの頃、虹色の髪をした店員にからかわれた時の写真まで。後は幾らか暁との写真が有り、他の友達と並ぶ碧が写っている。思い出の山だった。


「私も沢山写真を撮るべきだったかも」美流が羨ましげに写真を返す。


 返却された写真を棚へと戻して、碧は両肘を机について、頬に手を置いた。


「いいな。私も、あの子とそういう仲で居られれば良いのに」美流は溜息を吐いた。「見えないんじゃ、どうしようも無いかな」


 そんな事は無い、とは碧にも言えなかった。気休めにしかならないからだ。


「私があの子をを連れてくるとね、お母さんはいつも嬉しそうにお菓子を出してくれたんだ」美流は思い返して言った。

「家族と仲良くなるくらいの付き合いだったんだ?」

「うん、碧さんは?」

「アオちゃんでも良いよ」碧が微笑む。「そうだね、結鹿さんは、残念だけど私のお父さんやお母さんとは性格が合わないだろうから」

「あれ、なんか意外かも」

「うーん、やっぱり、そういう能力が無いと結鹿さんと対等じゃない気がするし、私は結鹿さんとは友達だけど、それでも、ちょっとね。私の両親って、そういうのは全然信じない方の人だから」

「あれ、アオちゃんの親ってそういう人なんだ? 私の方は、あっさり信じてくれたよ。二人とも割と見える人だったから」

「そうなの? だったら、会った時に悲しい思いをしないで済みそうだね」


 親が死人を見られる人間なら、死んだ美流と再会する事が出来る。碧は安心して、コップに水を注いだ。

 美流も同じ様にコップを持った。

 その時、インターフォンが鳴って玄関の扉が開く音がする。その遠慮の無い開け方に、碧は誰が帰って来たのかを理解して、椅子から立ち上がる。


「結鹿さんだ」


 素早く玄関へ向かうと、そこには碧の予想通りに結鹿と暁が立っていて、靴を脱いでいた。

 何か悲しい事が有ったのか、結鹿は明るい表情で手を振り、機嫌の良い素振りで振る舞っているが、碧の目には内心の切ない気持ちが見て取れる。


「お帰りな」碧は、途中で目を見張った。「あれ?」


 玄関先に、目と胸に穴が空き、黒髪にヘアピンを着けた女が立っていた。一目見て死人だと分かる格好をしていて、その女は美流を見ている様だった。目が無くなっていても、碧には理解できた。

 碧の視線が動いた事に気づいたのか、結鹿が振り向く。しかし、その直前に玄関の扉が閉まり、女の姿は見えなくなった。


「今、血だらけの女の人が後ろに居たんだけど」

「そうなの? ちょっと待っててね、碧」


 結鹿は振り向き、暁の横を通って玄関の扉を開けた。顔だけを出して廊下を見渡し、探している。しかし、暫くすると彼女は怪訝そうな顔で扉を閉めて、碧へ向かって首を振ってきた。


「どこにも居ないね。逃げられたみたいだよ」

「そっか、誰なんだろうね」


 碧の疑問に、結鹿は答えない。ただ、その背後に居た暁は明らかに動揺していて、顔が青くなっている。見える様になったばかりの彼にとっては、分かりやすい怨霊の様な存在は、今も恐怖の対象なのだろう。

 まだ、見える事に慣れていない。そんな長年の友達の様子に、碧は残念がった。


「何か分かった事は有る?」

「いや」結鹿は首を振った。「そうだね、特には無いかな。ただ」

「何?」

「暁さんが見つけたよ」


 碧の視線が暁へと向かう。彼は、何かに怯える様子で扉の方を眺めていて、碧と結鹿の会話は聞いていない。

 かなり苦しそうな態度に、碧は彼の側へ近寄り、その背中をさすった。すると、彼は即座に碧へ顔を向け、明らかな空元気で笑って見せた。


「大丈夫?」

「大丈夫だ。だけど、二人とも怖くはないのか?」


 全く大丈夫そうではない様子で尋ねられ、碧は思わず結鹿と顔を見合わせた。 


「怖くは無いよ。そういうの、仕方が無い事だから」

「そうだね。碧の言う通り、外見だけで人を判断するのはいけないよ。ちょっと惨い死体が見えたからって、本人が好きでそんな格好をしている訳じゃないかもしれないんだから」

「慣れてるんだな、本当に」暁は、半ば呆れた様子となった。それでも、一応は納得したのか、恐怖は薄まっている。


 暁が理解してくれた事を喜びながら、碧は自然に結鹿と手を握り、部屋へ戻る。美流は行儀良く待っていて、棚の上の写真をじっと眺め、静かに口を閉ざしていた。

 大人しくするべき所では、大人しく出来る子なんだろう。彼女は椅子から飛び上がって、期待に満ちた表情で近寄ってきた。


「どこまで思い出した?」結鹿が話しかけた。


 振り向いた美流は、「いや、ごめんなさい。何で死んだのかは思い出せないの」と答えて、目を伏せる。


「いや、いいよ。思い出さない方が良いかもしれないし」


 思い出さない方が幸せな事というのも、世の中には沢山有る。結鹿はそうやって美流を諭し、その頭を撫でた。


「お父さんとお母さんは、何処に居るのか分かった?」

「まだ、だけど少し待っていてね。手がかりは手に入れたよ」結鹿が告げる。


 結鹿は美流を抱き上げて、椅子の上へ座らせる。結鹿はもう一度美流の頭を撫で回した。

 とても優しい対応に、碧は疑問を覚えた。結鹿は元々優しい人物だが、それにしても大げさな程だ。美流の事を大切にしている気配が伝わってくる。しかし、碧は詳しく聞く事はせず、結鹿が戻ってくる時を待った。


「少し待っていて。二人と話をしてくるよ」

「うん、待ってる」


 結鹿は冷蔵庫を開けて、美流に缶ジュースを渡した。結鹿自身が買った物だ。

 スチール缶のジュースを手に取ると、美流はプルタブを開けて、それを飲んだ。飲めると信じているから、飲めるのだ。


「さあ、結果発表だ」


 結鹿は暁を引っ張り、碧と繋いだ手をそっと引いた。碧はその先導に従い、風呂場へと向かった。この部屋には、大部屋とキッチン、それに洗面台と風呂場しか部屋が無い。美流の耳に届かない場所へ行くには、風呂場くらいしか無い。

 二人で入浴した事は有るが、三人で立つには苦しかった。碧は結鹿の肩へ寄り添い、暁は対面でバスタブに腰掛ける。

 暁が浴室を見回した。「生まれて初めて人の風呂場になんて入ったよ。案外普通だな」


「変な物が有ると思ってたの?」

「いや、もっとこう。高級そうなシャンプーなんかが有るんじゃないかと思ってたんだ。碧はいい匂いがするし、てっきりそういう事に興味が有るんだと思ってた」

「気にする人は気にすると思うけど、私はあんまり考えてないかな。私の身だしなみを気にするのは、どっちかって言うと」


 気にするのは、彼女だ。良い匂いがするとしたら、彼女のお陰だ。碧の視線が結鹿へ向かう。

 暁もまた、結鹿を見た。


「気にしたっていいじゃない、それくらい」


 結鹿は困った風な顔をして、咳払いをした。

 暁が緩みかけていた表情を引き締めたのが、はっきりと窺える。

 碧が頷いた所を見て、結鹿が発言した。


「それで、美流ちゃんは何か話していたのかな?」

「普通の事だよ、お母さんは良い人だとか、ご両親は喧嘩を一度しかした事が無いとか、長い付き合いの友達が居て、自分が死んで苦しませて申し訳ないとか、そういう感じの事を色々ね」

「友達、か。その子、見たぞ」

「本当に?」

「ああ、酷く落ち込んでいたよ。今にも死んでしまいそうだった。死んだ後が有って、美流がそこに居ると知って、しかも美流が寂しがってるなんて知ったら、後追い自殺でもやりそうなくらいだった」

「悲しいな」結鹿が呟いた。「まさに悲しい」

「さあな」暁の声は僅かに沈んでいる。


 三人は揃って溜息を吐いた。見える人間と見えない人間、そこには、死生観に致命的な違いが有る様に思えた。そして、見えない事が人の命を救う時も有る。特に、碧は深く俯いていた。

 少しの間だけ沈黙して、暁が口を開く。「父親を見つけた」


「本当に?」

「ああ、間違いない。軽く話しただけだから、父親だって事しか分からないけどな。詳しい所は、また今度聞くよ」

「連絡先を聞いたの?」

「いや、でも大丈夫だ」


 暁には自信が有る様子だった。彼を信じる事にした碧は、そこから先は何も聞かない事にする。


「墓参りに来てたんだ。偶然な」

「今の、美流には黙っておいて欲しいんだが、良いかな」

「うん」碧は無条件に頷いた。


 暁の表情が安堵を示した。


「美流の父親は」彼が話そうと口を開いた時、狙い澄ました様なタイミングでインターフォンが鳴った。「誰か、来たみたいだな」


 もう一度、インターフォンが鳴り響く。間隔から言って、少なくとも宅配では無さそうだった。近所の住人、というのが一番の可能性だ。碧の家なのだから、碧の客で間違いは無いだろう。

 ただ、碧が応対しようと動く前に、結鹿の方が素早く風呂場から飛び出した。遅れた碧はその背を追って走り、玄関へと向かう。洗面台の扉はもう開いていて、左へ回ると、そこはすぐに目的地だ。短距離なので、碧が到着した時には既に結鹿が扉を開いていた。

 誰よりも早く到着した結鹿が、扉を蹴破る勢いで開く。凄まじい勢力に、碧は思わず結鹿を抱き止めていた。背後から手を回された為に、結鹿がよろける。


「わふっ」

「お、落ち着いて」


 何とか姿勢を保つと、結鹿は前を向き、扉の先にいる人物を確認する。

 虹の髪が見えた。奇妙なラメの入った虹色の輝きと、不穏な気配が同時に漂う虹だった。空に浮かんでいたとすれば、九島だった。「何だ、九島さんか」結鹿は、あからさまに落胆した。


「やっほ、悪かったね、私で」九島はケーキの箱を持ち上げた。「お土産」


 相変わらずの底抜けに明るい笑顔を見せつけて、九島は箱を碧へ手渡す。ビニールになった部分から、中身が見えた。フルーツのロールケーキだ。五人で食べる分は有る。何故か、彼の働いている店の物では無かった。


「お気に入りなんだよ、これ。皆で仲良く食べてね」

「九島さんは食べないの?」


 九島が目映い喜びを表した。「食べて良いの?」


「自分で持ってきたんだから、もちろん良いと思うんだけど。ねえ結鹿さん」 


 結鹿は黙ったまま、頷く事で答えた。何やら、落ち込んだままの姿をしている。

 九島が玄関の内側へと上がり込んだ。そして、部屋の内側には聞こえない様に声を抑え、口元へ手を置く。悪戯っぽい表情をしていたが、何やら真剣な雰囲気も漂わせている。


「ところで、美流ちゃんのお父さんを見つけたよ」

 暁が眉をしかめた。「いや、もう見つけてある」


 それを聞くと、九島がさも残念そうに肩を竦める。しかし、素早く調子を取り戻し、親指を立てる。


「そう。でも良いじゃない。案内してあげるよ」


 有無を言わさない対応で、九島は押し付けてきた。止められそうも無かった。

 碧は思わず結鹿へ助けを求めたが、彼女は固い表情で首を振っていた。九島が彼女達を振り回すのは日常茶飯事で、しかも、それが殆どの場合好意と愛情から来る物なので、断り辛いのだ。

 他の人間には言えない悩みを彼に相談した事も有る為か、碧は余計に対応を迷った。


「とりあえず、上がっていい? ケーキも有るし、ああ、美流ちゃんのお父さんは、明日には話が出来る様に準備しておくから」

「もう入ってるじゃないですか」碧は思わず告げた。

「いいや?」九島は首を振り、自分と碧達の間で手を振る。「この通り、君達とはちゃんと距離を取ってる。最低限くらいは弁えるよ、私だってね」


 壁でもあるかの様に、彼は一定の距離、近寄られたくない距離からは入り込んで来なかった。それが、碧と結鹿への気遣いである事は間違いない。

 碧は息を吐き、笑みを浮かべた。彼の事は嫌いでも苦手でもないのだ。





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 翌日、三人はいつものカフェでメニューを確認していた。

 休日だからか、いつもより人が多い。普段より若干多い程度で、女性客が七割、男性客が三割という比率だ。虹色の髪をした九島が、目まぐるしく動き回り、ある所では皿を回収し、ある所では持ち帰りの箱へケーキを詰め、ある時には水を注ぎに向かっている。目が回りそうな素早さだが、本人は普段通りの笑みを浮かべ、挙動には幾らかの遊びや楽しげな気配が漂っている。

 四人が座れる席で、左方は椅子、右方はソファの構成になっている。ソファ側に碧と結鹿が座り、互いの膝を密着させ、その間に繋いだ手を置いていた。対面側の暁は、そんな二人の姿を嬉しそうに眺めていた。美流は、居ない。

 美流は置いてきたのだ。彼女にとっては辛い結末になる恐れが有った。特に、暁が彼女を連れてくる事を拒んだ為、彼女は碧の家でベッドに寝転がり、留守番をしている、


「忙しそうだけど、大丈夫かな」碧が疑問を口にした。

「多分、九島さんが何とかするんじゃないかな」


 結鹿は、殆どの客には見えない何かを見ている様子だった。店の端で酒を飲んでいる男や、人目を気にせずクレープを片手に歩いている、胸から多量の血を流した死体などだ。それらは存在感が希薄で、碧であってもはっきりとは形を捉えられない。だが、結鹿や九島なら、もっとはっきりとその形を捉えられている事だろう。

 九島はそういった客の対応まで行っている為に、とんでもなく忙しいのだ。他の店員は、彼ほど目まぐるしく動いてはいない。

 死体があまりに血を流すので、見える客が迷惑そうにしている。見かねた九島がその死体へ声をかけると、死体は申し訳なさげに血を止めて、軽く頭を下げた。碧は「大丈夫です」と仕草だけで表現した。


「そういえばここ、ランチも有るのか」暁がメニューを眺めている。


 暁の目には、死体の姿は見えていない様子だ。でなければ、足下の血が気になって、食事は進まないのだろう。碧は慣れているが、彼は見える様になって間も無いのだから。

 逆再生の様に死体の中に戻っていく血だまりを苦笑気味に眺め、碧は暁に返事をする。


「お昼だけじゃなくて、朝と夜も食べられるよ。パンケーキがオススメだけど、暁君は甘いの苦手だったっけ」

「そうだな、嫌いじゃないけど、率先して食べたりはしないな」

「ランチで一番美味しいのは、多分、パスタかロコモコだね。ほら、ご飯の上にハンバーグと目玉焼きを乗せたメニューだよ」結鹿が口を挟む。

「あれはロコモコって言うのか。初めて知った」

「ハワイ料理らしいね。このお店のは特別に美味しいから、食べて損は無いよ」


 結鹿は幾つかの料理を指さし、「これは特に美味しい」と保証する。


「じゃあ、それにするよ」


 注文を頼もうとすると、それを確認した九島が、側に居た店員に声をかけ、向かう様に指示をする。店員は作り笑いを浮かべ、伝票を持って歩いてくる。

 店員が注文を聞いた。暁は、その顔をじっと見つめながら、三人分の料理を注文する。

 注文を終えると、暁は店員に向かって笑いかけ、「俺の事、覚えてます?」と尋ねた。


「それは、まあ。昨日会ったばかりですから」

「良かった、忘れられてなかったんですね。普通に注文を聞かれるから、覚えて貰えなかったのかと」暁は首を振り、言った。「ああ、それより、美流の話がしたいんです、座って貰えませんか」


 すかさず空いている席を見せて、座る様に促す。しかし、店員はまるで納得していない風であり、怪訝そうに三人の顔を見回した。


「座って貰えませんか」暁が繰り返した。

「いえ、仕事中なので、申し訳有りません」店員は頭を深く下げ、去っていこうとする。

「待ってください。無神経だと思うかもしれませんが、美流ちゃんの話が聞きたいんです。奥さんの話も」


 無遠慮にそう告げると、店員の表情が強ばったのが見て取れた。押してはいけない点を、押してしまったらしい。店員としての作り笑いすら忘れ、見る見る内に気分を害した風な顔となった。


「記者の方か何かですか」店員は腹立たしげだった。「インタビューは警察の聴取で間に合ってるんですが」

「いや、違うぞ、全然な。そうだろ、九島さん」


 暁が密かに声をかけると、どこからか聞き取った九島が店員の横へ立った。片手には伝票を持ったままで、今も忙しそうだ。


「そうだよ、第一、この子達はまだ就職をしていないし」九島が店員の肩を叩く。「ちょっと休んでいて良いよ。昨日だってお墓参りに行かせてあげたじゃないか。休憩時間だと思ってゆっくりお話をして欲しいな」

「知り合いですか?」店員が疑問を浮かべた。

「まあね」


 答えるだけ答えて、九島は素早く仕事へ戻っていった。有無を言わさず取り残されて、店員は状況を理解していないのか、戸惑っている。

 一向に話が進まない。碧は椅子を持ち、店員の傍らまで運んだ。


「どうぞ、座ってください。私達は、美流ちゃんのお話を聞きたいだけなんです」


 小柄な碧に告げられたからか、店員は流される様に椅子へ腰掛ける。三人を眺める顔は、どうも疑り深い。


「美流とは、どういうお知り合いですか?」

「昔からの知り合いです。最近は見ていなかったので、まさか亡くなっているとは思わなくて」結鹿が答えた。三人が事前に話し合い、用意していた内容だ。

「何度か会った事が有って、あの子がどうして死んだのか、俺達は知らないんです」


 そして、本人も死んだ理由を知らない。暁が口の中でそう言ったのを、碧は聞き取った気がした。

 店員は下を向いた。足下の血の痕には気づいていない。遠くで九島が三人へと手を振り、目だけで「頑張って」と告げてくる。彼は、たった一人で店のほぼ全てを賄っている。大丈夫かと心配になったが、彼は口元に笑みを浮かべていた。


「話して貰えませんか」結鹿が言った。


 店員の元へコーヒーが運ばれてくる。九島が店員の肩を叩き、トレイを持ったまま下がっていった。それが背を押したのか、店員は深く息を吐いた。


「美流を知ってるなら、分かると思いますが」店員が顔を押さえた。「娘はちょっと変わった子でね。死んだ人が見えると、常々言っていたんです」

「ええ、そうらしいですね」暁が相槌を打つ。

「何も無い所へ話した事もあって、私と妻はいつも心配していたんです。このままじゃ将来がどうなるかって」

「分かります」また暁が返事をする。つい最近まで見えなかったからか、実感が籠もっている。

「それでも、あの子はまだ子供ですからね。妻と私は、見えているフリをしていましたよ」

「そうなんですか?」

「ええ、話を合わせたり。妻はそういうのが得意でね。美流は私より妻とよく話をしていました」


 あっさりと答えられて、碧は絶句した。美流の父親だったこの男は、本当に死人がそこに居ると信じていない。彼自身が語った内容が真実だと、嫌でも理解出来てしまう。

 美流が哀れだ。碧は無言で握り拳を作った。美流は、両親が自分と同じで、見える側の人間だと信じていたのだから。感情を押し殺しながら横目で結鹿を見ると、彼女の顔色が曇っていた。

 結鹿を悲しませている。余計に感情を沸き立たせながら、碧は男の会話に耳を傾けた。


「美流は良い子でね。私や妻の誕生日には祝ってくれて、素直で悪い事もしなくて。明るい子でした。いつも優しくしてくれるんです。友達が出来た事とか、学校の事も恥ずかしがらずにちゃんと教えてくれて」

「確かに、彼女はそういう所が有りますよね。いつも楽しそうで、ケーキが大好きで。毎日明るく振る舞う所が本当に可愛い子で。友達に愛されている所も魅力ですよね」碧が素直に語った。

「そうです」自分の娘を褒められた為か、男は嬉しそうに表情を緩めた。「私と妻が仲良くしているのを、幸せな事だって、いつも喜んでくれましたよ。結婚記念日には手作りのケーキを食べさせてくれたりね」


 男の警戒心がはっきりと緩んだ。誰の目にも明らかだ。暁が僅かに腰を浮かせ、深い所へ踏み込もうとする。


「それで、その」暁は聞き辛そうに問いかける。「美流ちゃんは、どうして?」


 また、男が俯いた。話したくないのだろう。コーヒーを一気に飲み干し、吐き出す様な態度で口を開けた。


「あの、ですね」男が躊躇った。「妻は、結婚に相当反対されたそうです。その時はまだ二十歳で、まだ若いと言われていたらしくて。それでも説得して、何とか私と結婚してくれたんですが」


 それがどうしたのか、碧はそう思ったが、男は酷く真剣だった。彼は弱々しくも真に迫った表情をしていた為に、疑問を挟む余裕を持たせない。


「だから、私達はずっと仲が良くて。美流の前で口喧嘩の一つもした事が無かったんですが」

「喧嘩を、したんですね」結鹿が問いかける。

「そう、それが。前に喧嘩をしたんです。理由は覚えていません。些細な事ですよ、多分ね」


 男はカップを置いて、その中に残った僅かなコーヒーを眺めている。自分の表情がどう写っているのか、彼は手酷く落ち込んでいる。中身が殆ど無いカップへ、代わりのコーヒーが注がれる。九島がウインクをして、何も言わずに去っていく。


「初めての喧嘩だったんです。それで、いや。色々と有った弾みで、死ね、なんて言ってしまって」

「死なれてしまった、と?」

「はい、まさか、弾みで言った事を本気にするなんて」男は憔悴しきっていた。信じ難い話だが、真剣な声音をしている。

「分かります。大切な人にそういう事を言ってしまって、それが本当になったら、後悔じゃ、済まないですよね。それに、大切な人を傷つけるのは、本当に辛い事ですから」


 男を哀れんでいるのか、それとも妻の方を哀れんでいるのか。結鹿が、男の背中をさすっていた。外見的には男の方が年上に見えるが、今の彼はまるで子供の様だ。

 複雑そうな顔をしながらも、結鹿は優しさを発揮していた。慰める様に背中を撫でる仕草は、まるで年上のそれだ。


「ありがとう」男が薄く笑う。


 少し落ち着いたのか、男はいつの間にか浮かべていた涙を拭い、続きを話し出した。


「妻が、娘を殺して心中したんです」

「奥さんが、美流ちゃんを?」碧は思わず耳を疑った。「でも、お二人とも美流ちゃんを大切にしていたんですよね?」

「そうなんですけどね」男は自虐的に笑う。


 見た限り、男にも妻の動機が分からないのだろう。むしろ、彼自身が、一番に聞きたがっている風に見える。

 男の表情が一層暗くなった。話に聞き耳を立てていた死人達へ結鹿が目を向け、首を振る。すると、死人は軽く頭を下げて、元の位置へ戻っていった。ただ、まだ注意は向けられている。


「どうして心中なんてしたのかは分かりません。でも、警察の人の話だと、妻は抵抗する美流に目を潰されて、胸を刺されながら、それでも美流を絞め殺したんだそうです。相当憎悪した相手でも、そんな真似はしないって」


 話をしている内に、男は頭を抱えた。机で顔を隠し、表情を見せずに努力している。

 男の話は、碧の脳裏に余りにも凄惨な事件現場を想起させる。ただ、美流がそこまで必死に抵抗する所は、考えられない。

 彼女には死人が見える。見える人間は大抵の場合、死生観は緩む物だ。美流の様に両親を愛している少女が、母を殺す姿は、どうにも想像出来なかった。


「そういえば、家はどうしたんです? 今は彼が住んでいますが」暁が聞いた。

「あの家に住んでるのは辛くって。まともに仕事も出来なくなって、再就職した先の店長が欲しがっていたので、家は格安で譲りました。大事な家族が二人も死んだ場所なんて、嫌でしょう?」


 九島がこの店の店長だった事を、碧はここで初めて知った。通りで、毎日の様に見かける事だ。


「雇われ店長だけどね」九島がこっそりと告げてきた。


 いつの間にか現れたかと思うと、九島はケーキを置いて戻っていった。

 改めてみると、男の顔は酷く蒼白で、今にも死んでしまいそうだ。頭を押さえている様は、もう限界が近い様に思える。


「大丈夫ですか?」結鹿が尋ねた。

「ああ、大丈夫だよ。いや、辛くないわけじゃないんだが、大丈夫です」


 口調が安定していない。男は、半ばパニックを起こした風な顔をしていて、とてもではないが、安心して見られる雰囲気は持っていない。暴れ出さない様に、暁が身構えている。


「妻子をこんな事で失うなんて思っていなくて。それで、俺は、辛くて。逃げたんです。妻と美流の遺体は、妻の両親に任せて。葬儀には出ましたが、遺体は」男は首を振った。身体が震えていた。「いや、俺は遺体を見た筈なんです。そう、見たんですよ。目が無くなって、胸に傷の入って」

「辛いなら、思い出さなくて良いんですよ」結鹿が気遣わしげに告げた。「苦しいだけですから」

「そう、ですね」


 少しだけ、男が震えを止めた。「ありがとうございます。少し、楽になりました」

 男は結鹿へ礼を告げる。すると、結鹿は微笑み混じりに頷いた。人を受け止める笑みだ。落ち着きを取り戻した男は、また困り顔となる。


「変な所を見せてすいません。でも、最近本当に精神が追い詰められているみたいで。幻覚まで」

「幻覚?」暁が反応する。

「最近、妻の視線を感じるんです。家に帰っている途中の路地裏の奥とか、そういう場所に妻が見えるんです。死体で、俺の事をじっと見つめていて。目が無いのに、見られているのが分かる、というか」


 男は見るからに憔悴していた。落ち着かずに足を揺らせ、テーブルを規則的に叩いている。


「でも、俺が見つけると、すぐに居なくなるんです。幻覚にまで避けられてる、みたいで」


 言い終えると、男は席を立った。顔色はどんな病人よりも悪く、今にも床へ倒れ込みそうだった。


「すみません、これ以上は」男が頭を下げる。「話すのが、辛いので」

「良いですよ。すいません、辛い事を聞いて」結鹿は男へ感謝と謝罪を口にした。


 結鹿の素直な感謝の気持ちを受け入れたらしく、男は苦しげな顔色を僅かに明るくして、口元に笑みを作る。仕事用の、無理をした笑い方だ。


「大丈夫です。美流の事を良い子だって言われるのは、嫌じゃないですから」

「待ってください」


 立ち去ろうとした男に、結鹿が声をかけた。

 男は振り返り、土気色の顔を向けてくる。それを恐れる事は無く、結鹿は堂々とした態度を取った。


「美流ちゃんに、会いたいですか」

「当然じゃないですか」即答だった。「会いたいに決まってる」


 男はそのまま店の奥へ引っ込んでいき、服を整えて仕事へと戻る。店内は忙しいままなので、男はすぐに三人を見る事も出来なくなっていた。

 残された三人は、男がこちらを注意しなくなった事を見計らい、思わず顔を付き合わせた。何も言わずとも、全員が頭を抱えたい気分だという事は分かる。想像以上に残酷な真実だったからだ。


「……どうしよう」碧は目を押さえた。

「母親に殺された、なんて。あの子が知ったら、きっと酷い事になるぞ」暁が頭を抱える。


 暁の元へ注文したロコモコが届いた。出来立ての、食べ応えのある料理だ。碧と結鹿であれば二人で分けるのだが、暁は一人で食べきれる量に見える。しかし、暁は食欲が無さそうだ。


「やっぱり、碧や暁さんが見たのは、美流ちゃんの母親なんだね」


 結鹿がひっそりと呟いた。小さな声だったが、碧には聞き取れる。そこに含まれた悲しげな声音に、碧は痛ましい気分になった。

 この、恐ろしい程に残酷な真実をどうやって美流に伝えれば良いのか、碧は何も提案する事が出来なかった。


「何か、考えよう。美流ちゃんが泣かずに済む方法をさ」

「そうだね、そうしよう」


 暁の一言で、碧は調子を取り戻す。

 結鹿の目が、店員と、死人達へ向かっている。上の空の様にも、何か深い考えを張り巡らせている様相でも有る。どちらにせよ、頬杖をつく姿が、いつもより切なげだ。


「これ、旨いな」暁が食事を進めていた。

「でしょう? もう常連だから、美味しいのが何なのか分かっちゃうんだよね」

「通い過ぎだと思ってたけど、参ったな。これは傑作だ。もしかして、これ、全部手作りだったりするのか」

「そうみたいだよ、前に九島さんが言ってた」


 どれほどの聴力をしているのか、店の端に居る九島がこちらへ振り向き、ウインクをした。


「ああ、九島さんが作ってるんだね、これ」

「そうなのか。あの人、多芸なんだな。ちょっと変わってるけど」

「ちょっとだけね。悪い人じゃないんだよ、相談にも乗ってくれるし、内容によっては一番良いアドバイスをくれたりするし」

「へえ」暁は殆ど無関心で答えた。


 場の雰囲気が和やかになった所で、碧は自分のコーヒーを飲み、結鹿の許可を取って、彼女のケーキを一切れ食べた。そして、頭が冴えてきた所で、暁と結鹿に向かって発言する。


「あの人は、美流ちゃんのお母さん、だよね」


 暁は、食べながら答えた。「でもな、あれは怨霊みたいだったぞ」


「前にも言ったけど、外見だけで判断しちゃいけないよ。暁君にはまだ見えないかもしれないけど、此処にだって沢山死んだ人が居るんだから」

「多少は見えてるし、分かってるよ。でも、あの怨霊みたいなのが美流ちゃんを殺したんだろ」

「何か理由が有る、そうとしか思えないの」碧は、美流の笑顔を思い出した。「話を聞いただけだと、夫にも娘にも優しいお母さんだったみたいで、ちょっと酷い事言われたからって、娘を殺す様な人だとは思えない」

「それは」


 フォークを止めて、暁が何かを答えようとした。

 しかし、それより早く結鹿が立ち上がった。彼女は九島を一瞥すると、自分の前に置かれたケーキを碧の元へ運び、コーヒーを一気に飲み干した。態度の急変に暁は目を見開き、碧は戸惑いを覚えた。


「結鹿さん?」

「ごめん。ちょっと、先に帰ってる」結鹿は既に帰る準備を済ませ、席から離れていた。


 急な行動に戸惑いつつも、碧はその背中を追った。


「待って、どうしたの?」


 結鹿は足を止め、少しの間言葉を詰まらせた。「美流ちゃんは母親に殺されたんだ。それで、その母親を君達は見ていた。美流ちゃんに会いに来ていたんだ。つまり」

 結鹿が言い終えるより早く、碧が思い至る。


「私達が居ない間に、美流ちゃんと会っているかもしれない!」

「その通り!」


 結鹿は止まらずに走り出した。その足はかなり早く、碧では追いつく事は出来ない。それでも、碧は彼女の背中を追う。


「待った!」暁が呼び止めた。「俺も行く」

「私達だけで十分だから、暁君はご飯を食べてから来て。勿体ないもん」

「いや、だけどな」

「大丈夫だよ。結鹿さんも私も、死んだ人の事なら慣れてるから」碧はテーブルへ料金を置いた。「これ、払っておいて」


 暁を説得すると、碧はすぐに自宅の方向へ顔を向けて、走り出した。体力は余り無いので、全力で走る訳にはいかない。隣を九島が通り過ぎた。彼は軽く手を挙げ、碧を送り出してくれる。


「ごめん、九島さん。私のケーキを食べておいてください!」


 すれ違う瞬間にそう告げると、ケーキを食べられるのが嬉しいのか、九島が弾んだ声で「うん」と答えた。

 碧は店を飛び出し、もう背中の小さくなった結鹿の姿を追いかけた。

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