第3話


 亜美美流の家は、カフェテラスから徒歩二十分の距離だった。

 淡い乳白色の二階建てで、小さな庭が用意されている。建て売りなのか、周りの家と同じ様に平面な形をしている。屋根は平らで、雨水は庭に落ちる様にパイプが通されている。窓は表側に五つ程あり、二つが雨戸で隠されていた。

 ベランダには布団と服が干されている。物干し竿にかけられたエプロンは純白で、清潔そうだ。干されている物の数を見た限りでは、住んでいる人間の数は少ない事が見て取れる。

 美流には兄弟姉妹が居なかったらしく、両親との三人家族だったらしい。家族三人で住むには十分な家だ。碧は昔からマンション暮らしなので、こういった一戸建ての家には縁が余り無い。


「ここ、この家なんだ」美流は家を指さし、胸を張った。

「良い家だねー」碧は本心を口にする。

「そうでしょ? ちょっと地味だけど、気に入ってたんだ」 


 美流はすっかり慣れた様子で返事をした。碧が同年代の様に振る舞っている為か、もう年上を相手にする態度は無くなっている。素の美流には小生意気な所は有ったが、碧は気にしなかった。


「小さい頃は庭で遊んだりしてね。お母さんは何時も私と一緒に居てくれて。全然自分の好きな事とかしなかったんだ。友達と遊んでる所も見なかったかな」

「気にしているのかな?」結鹿が問いかける。

「ちょっとね」

「そうか」結鹿は頷いた。「でも、そうだね。自分の娘を大事にする人だったんだ」

「そう。ちょっと気が引けちゃうくらいだったの」


 美流は自慢げに、少し申し訳なさげに口を閉じた。

 結鹿はその肩を何度か叩き、家の玄関前に向き直る。木目調の引き戸で、インターフォンが壁に備え付けられていた。足下には植木鉢が置かれていて、そこに紫苑の花が咲いている。

 紫の花弁を、結鹿はそっと撫でた。そして、微かな音を立てて深呼吸をする。


「今は、別な人が住んでいるみたいだね」

「そうなの。友達と一緒に帰ってみたら、知らない人が出てきて」

「え? 見える友達が居るの?」

「あ、ううん」美流は慌てて首を振った。「二日に一回は私のお墓か家に来て、花を供えてくれるの。この植木鉢も、友達が持ってきた物なんだ」


 美流がしゃがみ込み、紫苑の咲く植木鉢に視線を送る。


「忘れてくれていいのにね。あんなに悲しそうな顔を、ずっと見てなきゃいけないなんて」

「あなたを忘れない」唐突に、暁が口を開いた。

「え、何?」美流が振り返る。

「紫苑の花言葉だ」暁は真剣な様子だった。「君の友達は君を忘れる気なんて欠片も無いみたいだぞ」


 暁の言葉に、結鹿が目を見開いた。「花言葉なんて知ってるんだな、暁さんは」


「贈り物をする時とかにな」

「女の子に贈るの?」美流は興味深そうに顔を上げた。

「いや、碧に」


 静かに首を振り、結鹿は碧の肩を叩く。

 好意的な手つきに、碧は「もうっ」とだけ答えた。すると暁は肩を竦め、次の瞬間には何故か表情を曇らせる。視線の先を辿ると、結鹿が居た。


「碧が女の子じゃない、と?」据わった目をした結鹿が居た。それなりに怒っている。「それは、ちょっと失礼じゃないかな」

「あ、いいの。その方が気が楽だから」


 碧は気楽に手を振って、気にしていない事を示した。暁に女性扱いされるのは、碧にとっては今更の事で、余り嬉しくはない。確かに誕生日に花を貰った事は有ったが、それは友達としてであって、決して恋人に贈る物ではなかった。

 そんな気持ちを、碧は視線で結鹿に伝える。それだけで、結鹿は全てを納得したと頷き、暁の背中をからかい混じりに叩く。

 美流がクスクスと笑い出した。

 三人は一度顔を見合わせ、一様に笑った。暁などは酷く照れて、目を逸らしている。その姿が面白く、碧は更に笑みを深めた。


「ああ、その」暁は髪を乱暴に掻き、手を叩く。「よし、とりあえず家の持ち主と話してみるか」


 無遠慮に玄関先へ近づくと、暁は躊躇せずにインターフォンを押した。家の中から小気味良い音が鳴り、住人を呼んだ。聞き慣れた呼び鈴の音だが、何かが違う。まるで鉄の棺桶でも叩いている様な鈍い音が混ざっていた。

 呼び鈴が鳴ってから少し経ち、誰かが歩く音が聞こえてくる。防音効果の余り高くない扉が音を立て、中から青年の顔が現れた。


「はいはい?」


 青年はチェーンロックのまま扉を開けて、首を傾げた。

 少女の様に高い、しかし青年だと分かる声音だ。その声の使い方に聞き覚えが有り、碧は驚きを覚えた。顔や声音より先に、虹色の髪が見えた。自然な色合いの虹がかかっていた。

 青年は暁の顔をじっと見つめ、一度扉を閉じてロックを外し、改めて扉を開き直す。満面の笑みを浮かべて、碧と結鹿に向かってウインクをした後で、暁の顔を怪訝そうに眺める。。


「確か……暁君だったかな?」


 一番前にいた暁に声をかけると、虹色の髪の九島恭助は、当たり前の様に植木鉢へ水を蒔いた。


「ああ、そこの子」九島は美流の顔をじっと見つめて、何事かを納得した。「成る程ね」

「知り合いなんですか?」

「いや、でも知ってる。この子の友達と何度か話したから」


 九島は植木鉢を玄関の中へ持ち運ぶと、少し土の着いた手を備え付けの蛇口で洗い、天使の様な、と表現したくなる程明るい笑い顔を晒す。どこからか感じられる非人間的な雰囲気は、彼が本当に人ではないのだと証明していた。


「お店は?」結鹿が尋ねかけた。

「ああ、休憩時間だからね。他の人に任せて、私はこうして」九島はその場で一回転をした。「一度自宅に戻ったんだ」シャツの両端を摘み、彼は優雅に一礼した。

「じゃあどうして此処に住んでる?」


 無駄に大げさな挙動は良いから、と結鹿が付け加えると、九島はわざとらしく落ち込んだ。ただ、すぐに持ち直して、調子良く返事をする。


「ああ、この家かな? 綺麗だよね。だけど凄く安くって。夜な夜な血塗れの女の人が見えるとか、自殺者が出たとか色々と聞いたんだけど、ほらほら、私ってば、この通り世界で一番、いやさ全世界で一番の亡霊だから!」

「いや、その大げさな感じは、どうかと思う」結鹿が言葉をこぼした。

「うわ、きつい事を言うんだね。昔はもっと控えめな子だったのに。それも友達の影響かな」


 結鹿は黙り込んだ。顔は何かを堪えているかの様に俯き、その腕が微かに震えていた。

 碧が横から話しかける。


「あの、九島さん?」

「何、アオちゃん」


 妙な呼び方に、暫く声が止まった。しかし、碧は素早く自分を取り戻す。「質問しても良いですか?」


「勿論っ。何?」

「ありがとうございます。九島さんは、前に住んでいた人の事は知らないんですか?」


 九島は僅かに首を傾げ、美流の顔を見つめた。唐突な視線を受けた美流が、とっさの反応で碧を盾にしようとした所を目にすると、若干心が傷ついた様子で肩を竦めた。


「多少は知ってるけど、聞きたい?」


 この子の前で、と言いたがっている事は明らかだった。

 その態度で、碧は前の持ち主がどうなったかを察した。確かに、美流の居る前では話したくない内容だと思えた。

 首を振って見せると、九島は「だよね」と返して、明るく表情を切り替える。


「その子のお墓が有る場所とか、聞いておく? ほら、この子の友達が教えてくれたから、知ってるんだよね」

「じゃあ」碧は、美流を一瞥した。彼女を墓の前まで連れて行くのは、気が引けたのだ。


 暁と結鹿を見比べ、碧は内心で決心した。そして美流の手を繋ぎ、未だに少し不機嫌そうな結鹿の肩を撫でる。


「ごめん、結鹿さん」

「どうしたの?」結鹿は素早く調子を取り戻した。

「悪いんだけど、暁君と一緒に、お墓の方へ行って調べてきてくれないかな。私は、美流ちゃんと家に戻ってるから」


 結鹿は意図を把握していたのか、墓に行く事は躊躇せずに承諾した。しかし、暁の方を一瞥すると、いかにも疑問と言った風な体で言った。


「しかし、私一人でも大丈夫だと思うけど」

「ううん」碧が首を振った。「二人で行ってきて。暁君、結鹿さんの事が気になるみたいだから」「折角会えたんだから、仲良くお喋りしないと勿体ないよ」


 碧が間に挟まる様な位置になっていて、暁と結鹿は余り会話が進んでいない。碧はそれが気になっていた。勿体ない話で、碧は自分の存在が二人の親睦を妨害している事に気づいていた。

 だからこそ、二人で行かせる。結鹿に仲の良い男友達が居ても良い。碧は少しの悪戯心と多くの真剣さで、そう考えていた。


「まあ、碧とばかり話してしまうのは否定しない。分かった、碧の頼みだしね」


 結鹿の承諾を得られた事を確認し、碧は暁の方を見た。


「良いかな、暁君も」

「ああ、結鹿さんと色々話したいと思ってたから、良いぞ」

「うん、二人とも。仲良くしなきゃ駄目だよ?」

「うん。碧も、その子を頼んだよ」


 結鹿は碧の背後を通り、暁の隣へと並ぶ。背丈は少し違うが、並んでいる姿がとても似合う二人だ。

 並んでいる所を見た限りでは、相性も悪くは無さそうだ。二人の間に穏和な雰囲気が漂っている事を理解して、碧は密かに安堵の息を吐いた。

 九島から墓の場所を聞くと、結鹿は不敵に笑った。


「それじゃあ、私達は墓へ行ってくるよ。九島さん、碧に変な事を吹き込まない様に」

「信用が無いなあ」

「まあ、無いね」


 あっさりと認め、結鹿は美流の頭をもう一撫ですると、暁を引っ張る様にしてその場から去っていく。その背筋はしっかりと伸びていて、とても丁寧で綺麗な歩き方をしていた。髪が歩く度になびき、揺れる所が目に留まる。

 やはり、美人だ。出会った頃から、碧はずっとそう考えていた。


「私達も行こっか」

「うん」


 美流が碧の手を掴む。強く警戒しているのか、決して九島から目を離さず、身体の半分を碧で隠している。

 警戒心の強さに、九島が落ち込む風な態度を取っているのが分かる。勿論、演技だろう。子供に嫌われたくらいで気にする程、彼は心の弱い人ではない。その目をよく見ると、奥底では笑っているのが見て取れた。


「それじゃ、また」皆が仲良くなれない事を残念に思いつつ、碧は頭を下げる。

「ああ、アオちゃん」


 立ち去ろうとした碧に向かって、九島が呼びかけた。


「はい?」


 碧が振り向くと、九島は片手の指で自分の口元を持ち上げ、いかにも無理矢理に作った様な笑い顔を見せてきた。元々が女性的な顔をしているからか、そういった顔色の時は、殆ど女性にすら見える。

 自分で呼び止めたというのに、九島は黙ったままだった。碧がその態度に疑問を覚えていると、彼は暫くの停止から復帰して、切なげな、困った風な表情となった。 


「……頑張ってね」九島は繰り返す。「その、頑張って」


 碧は、自分が曖昧な顔をしている事を自覚する。

 はい、とは答えない。いいえ、とも言わない。そのまま、碧は黙って九島から背を向けた。彼の目にどんな気持ちが秘められているのか、碧は考えるのを避けた。


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 暁は、横目で結鹿の様子を窺った。その表情は、上手く見えない。墓石の前で手を合わせ、心の底から祈っている風に見える。

 死んだ後が有ると分かっている人間にしては、死者に対する真剣な姿勢が感じられた。見知らぬ他人だからか、暁は特に祈りはせず、墓石に刻まれた名前を確認する事に集中する。

 墓地はそう離れた場所ではなかった。寺に隣接していて、あまり居心地の良い場所ではないな、と暁は感じていた。少なくとも死人にとっては、薄暗くて気分の悪い感覚を覚えるだろう。中学生の頃、やけに陽気な碧が誰も居ない道で誰かと会話を交わしていたことを思い出す。

 当時は友達ながら薄気味悪いと感じていたが、こうして見える人間になってみると、その気持ちが少しでも理解できる物だ。暁の視線は、墓石に座る老人や、これ見よがしに白装束で浮いている若い男を眺めていた。

 彼らは、こちらの視線に気づいている様だ。しかし、見える様になって間も無い暁にとっては、進んで会話をしたい相手ではなかった。


「そろそろ、良いんじゃないか」

「そうだね」結鹿は目を開けて、立ち上がる。「そうしよう」


 もう一度、結鹿は墓石の前で手を合わせる。長引いてしまいそうだ。


「それにしても亜美、亜美か。女の子の名前みたいだな」

「確かにね」結鹿が深く頷いた。「可愛い名前だ。苗字としては少し変わってるが」


 結鹿は軽く服を手で払い、埃や土を落とす。ただ、煙は立たず、地面に土が落ちる気配は無い。彼女は墓石を見つめて、大きく手を叩いた。音が響き、周りに居た死人達が彼女へと注目する。しかし、すぐに関心を失った様子で、目を逸らす。


「嫌われてるのか?」

「いや、ただ音に反応しただけだね」


 死者に詳しい結鹿の言葉は、それなりに真実味が有った。死者も生者と同じで、赤の他人を気にかける程暇な物は居ない様子だ。

 死んでいようと生きていようと人は人なのだ。それまで死者に抱いてきた恐怖の想像が打ち砕かれている事を自覚して、暁は少しだけ肩が楽になった。幽霊ではなく、単なる人間が相手なら、目を合わせても呪われる事にはならないだろう。

 幽霊という言葉を使いたがらない結鹿の気持ちが、少し理解出来た。


「この墓石、綺麗だな。ちゃんと手入れするのか」

「誰かが墓参りに来たみたいだね」結鹿は滑らかな墓石を撫でる。「これは、うん。昨日くらいかな」

「分かるのか、見ただけなのに」

「よく見れば分かるよ」結鹿は燃え切った線香を指した。「ほら、結構新しそうな線香だよ」


 成る程、と暁は返事をした。

 結鹿は墓石の側面を眺め、戒名を読んだ。難しそうな漢字で構成された戒名だったが、彼女は楽そうに読んでいる。

 結鹿は確かな慈しみを墓石へ注いでいた。美流の意識は外に有るので、そんな事をする必要は無い。此処に有るのはただの骨だと分かっていても、彼女は気遣う仕草を見せている。

 そういった性格なのだ。その姿を見た暁は、内心で碧が彼女の性格を褒めていた事を思い出し、反射的に目を逸らす。

 その時、結鹿が振り返った。「それで?」結鹿は悪戯小僧の様な目つきとなった。「本当の所、暁さんは、碧に恋しているのかな」


「馬鹿言え」冷たく一蹴してから、暁は相手が碧の親友だという事を思い出す。「悪い、でも本当にそういうのじゃないんだ。大好きなのは確かだけど、恋愛感情は無いな」

「じゃあ、碧がどう思っているかは分かるのかな?」

「それはあんたの方が詳しいだろ」少しばかりの悔しさを胸に、暁は答えた。「碧の大好きな人なんだから」

「確かに。碧は私を愛してくれてるね」


 照れながらも、結鹿は誤魔化さずに答えてきた。碧に好かれている事を恥ずかしがりはせず、素直に認めている。それが暁の目には好印象に写った。

 ただ、碧の好意は全て結鹿へと向いている事を再認識して、暁は肩を竦める。


「第一、俺がどうこうじゃなくて、それ以前の問題だ。結鹿さんは碧と出来てるんだろう?」

「出来てる? 何の事かな?」


 発言の意図が伝わらなかった事に気づいて、暁は咳払いをした。


「ほら、その。何だ。結鹿さんと碧はカップルだろ。どこから見てもそうとしか思えない」


 冗談を一切交えずに告げると、結鹿の口元が不満げにひきつった。


「それだけで恋人同士扱いされたくないんだけど」

「いや、あんなに仲良さそうだし、手を繋いだりもしてるじゃないか」

「手ぐらい繋ぐよ」

「他にも色々有っただろ。大体、碧は口を開けば結鹿さんの話をするんだぞ」


 結鹿が不穏な目を見せた。明らかに怒気の混じった雰囲気に、暁は慌てて弁解をする。


「待ってくれ。違うんだ。否定をしたい訳じゃない。俺は全然良いと思うぞ。碧が幸せそうだし、何よりいつも笑ってるんだしな。二人が納得してるなら、俺は誰が否定しようと祝福する。親御さんの反対なんか知らないね。俺は、碧が幸せになってくれるなら死んでも良い」


 意志が伝わったのか、結鹿は何度か口を開け、最後にはあからさまに呆れた表情をしていた。

 何か妙な事を言っただろうか。暁は内心で余計に混乱した。碧と結鹿は間違い無く何らかの特別な関係に有る。それを疑っていなかった為に、彼女の表情は意外で、何を言えば良いのかが分からない。


「成る程」結鹿は肩を竦めた。溜息も吐いている。「暁さん、女の子の友達付き合いを知らないんだね」

「何、どういう意味だ?」

「ああいうのは珍しくないんだよ。友達に抱きついたり、美味しい物を食べさせ合ったり、お泊まり会で一緒に寝たりするくらい、女同士ならありふれた事だね」

「……そういう物なのか?」暁は異性の友が碧しか居なかった。

「あのくらいでカップルなんて言うのは、大げさだね。男同士は、あんまりそういうスキンシップは無いから、分からないのも仕方が無いとは思うけど」


 墓石の側面に指を這わせながらも、結鹿は「要するに付き合い方が違うんだ」と続ける。それは、暁の目から見ても紛れもない真実の様だった。


「そうか。二人は付き合ってる訳じゃないんだな」

「安心したかな?」結鹿の目が細められる。

「いや、別に碧と結鹿さんが恋人同士でも俺のやる事は変わらないから」暁は胸を張った。「何度も言うけど、碧の事は好きだ。好きだけど、それは別に恋愛とか、そういうのじゃない。もっと大切な物なんだ」

「同感だよ、私達は仲良く出来そうだね」


 微笑み、結鹿が手を差し出した。

 握手をしたいのだろう。暁は快く答え、その手を握る。その時、結鹿は思い切りその腕を引き、互いの顔を一気に近づけた。不意を打たれた形となって、暁は困惑した。

 しかし、同時に結鹿の顔をしっかり観察するだけの余裕も残されていた。彼女の顔は、碧がいつも話題にするだけあって、とても整っている。黒の長髪は艶やかで、つい触ってみたくなる衝動にかられる程だ。ただ、その笑顔は顔立ちに反して愛らしい。


「結鹿さんと一緒に居る時は、碧が凄く幸せそうなんだよな」

「そうか」結鹿は暁の背中を叩いた。「やっぱり良い人だね、暁さんは」


 思った以上に強く背中を叩かれて、暁は倒れかけた。が、結鹿が支える事で、少しよろけるだけで済んだ。


「ごめん、強すぎた」結鹿はばつが悪そうにしながら、暁を立たせた。

「良いって。そんなくらい」


 気に留めず、暁は姿勢を正す。引っ張られる時の力はそれなりに強く、結鹿は暁に対する遠慮を緩めた様だ。ようやく打ち解けた気がして、暁は嬉しさを覚えた。


「あれ、あの人」結鹿の視線が墓地の端へと向かう。「待ってて。少しあの警察の人と話をしてくる」


 目線の先を追うと、そこには警官の格好をした老人が立っていて、手招きをしている。どうやら、結鹿を呼んでいる様だ。危険ではないかと思ったが、結鹿は全く警戒していない。

 呼び止める間も無く、結鹿は老人の元へと向かっていく。取り残される形となった暁は、辺りの死人と思わしき者の姿を極力見ない様に努力した。

 思えば、見える様になった時、碧は心の底から喜んで、抱きついてきた物だ。碧と暁は長い付き合いだったが、見える者と見えない者の間には、若干の、致命的な溝が有った事は否定できない。暁が死者を見る様になった事で、ようやく二人の距離は縮まった。そう、考えられた。

 とはいえ、結鹿に比べれば、まだ距離が有ると言って良いだろう。暁は、誰にも見えない程度に笑う。結鹿は警官と親しげに会話をしていた。何やら真面目な面持ちで、話の内容が何となく察せられた。


「あの、美流の知り合いですか?」


 話しかけられた事で、暁は背後に人が居る事を認めた。

 高い、少女の声だ。死者かと思い、暁は身体を強ばらせる。

 少女が回り込んできた。背は暁よりかなり低く、碧よりも小柄だ。美流と同じくらいの年頃で、何やら見覚えのある顔立ちをしていた。

 少女は紫の花束を持っていた。九島の家に置かれていた植木鉢と同じ、紫苑の花束だ。

 遠方の君を想う。紫苑にはそんな花言葉が有る事を、暁は脳裏に浮かべた。


「その、いや」暁は言葉を濁す。「まあ、知り合いは知り合いだよ」ただし、生前の知り合いではないが。

「そうですか」


 頷き、少女は花束を墓石の前に添えた。深く閉じられた口元が、少女の気持ちを現している。その顔を近くで見た為に、暁は彼女が美流に憑かれていた少女だと思い至った。

 少女は暁に構わず膝を付き、目をしっかりと閉じて両手を合わせた。何やら神秘的な空気を感じる程に、真剣な態度に見えた。


「今日も来たわ」少女は墓石へ話しかけた。その一言で、この少女が何度墓場に足を運んだかが窺えた。

「美流、私ね。ずっと美流の事が好きよ」今にも泣きそうな声だ。「だから、天国で幸せになってるのかが気になって。今日も来てしまったわ」少女は震えていた。「お願いだから教えて欲しいの、私の言葉が聞こえてるなら、そこがどんな場所なのかを答えて」


 数秒だけ沈黙し、少女は目を開けた。何かもに失望した様な目をしていた。


「やっぱり、届かないんだね。でももしかして、あなたはそこに居るの? 居るなら、姿を見たいわ。また、お話がしたいの」


 余りにも悲しい姿に、暁は深く唇を噛んだ。見えないのは本当に悲しい事だった。この少女がこういった事を言うのは恐らく初めてではない。本人である美流が聞いた時の苦しみは、一体どれほどの物だっただろうか。

 言っている側も、聞いている側も深く傷ついてしまう。暁は、美流がどこに居るのかを教えようとした。しかし、信じられるかが不安となり、口を閉じてしまう。


「じゃあね、また。会いに来るわ」


 涙を隠しもせず、少女は立ち上がる。このまま放っておくには、悲し過ぎる姿だ。相手が少女なのも、暁の心を動かした。


「あの」暁は少女に声をかけた。

「はい?」

「いや」暁の心に躊躇いが浮かぶ。「そうだな。その、美流ちゃんは、だな」言い辛い事で、言葉が出ない。「きっと、そう。君の事を気にかけてるよ」


 少女は何度か目を見開き、「そうだと、嬉しいです」と答える。

 何の意味も無い一言だ。それでも、少女の心が少し楽になったかと、暁はそう考えた。


「帰りますね」少女は頭を下げた。

「ああ、気をつけて」暁が手を振って答える。


 少女はもう一度礼をして、静かに墓石から離れていく。暁はその背中を眺め、彼女を哀れむ気持ちを何とか押さえつけた。見えない人間は、何とか折り合いを付けていくしか無いのだ。暁はそういう事にして、少女と距離を取った。勿論、少女が碧であったなら、彼は形振り構わなかっただろうが。

 少しの自己嫌悪を振り払う様に少女の背中を眺める。そこで、少女の歩く先に誰かが立っている事に気づいた。

 ヘアピンを着けた、髪の長い女だった。両目の有るべき場所は空洞になっていて、胸には大きな穴が空いていた。表情は、顔が見えている筈だというのに、理解出来ない。

 少女は、そんな怨霊にすら見える女を無視し、通り過ぎた。見えていないのだ。

 明らかに死者だ。暁は目を逸らして、決して意識を向けない様に努力した。目を合わせてしまえばどうなるか、想像もしたくない。

 固く目を閉じて、暁は女がその場から消える事を望んだ。呪い殺されない様に頭の中で念仏を唱えていると、その肩を誰かが叩いた。

 暁は悲鳴を上げそうになった。しかし、目を開けた先に居たのは怨霊ではなく、訝しむ結鹿の顔だった。


「何か有ったのかな?」


 老警官と話し終えて、戻ってきた様だ。暁は深く安堵の息を漏らし、怨霊の見えた場所を指さした。「そこに、目と胸に穴の空いた奴が居たんだ」


「何?」結鹿は首を傾げた。「居ないぞ」


 確かに、女は居なくなっていた。寺の横の通りを少女が歩いているが、女はどこにも見えない。結鹿の目にも見えていない事が、その場から女が完全に消えた事を証明している。


「確かに居たんだ」

「大丈夫だよ、信じてる」結鹿はあっさりと信じた。しかし、どこにも怨霊の様な女は居ない。

「どんな人だった?」結鹿が尋ねた。

「ヘアピンを着けてて、背は碧より高かった。髪は長くて、こう、まさしく幽霊って感じだったな。顔は……よく分からなかった。とにかく不気味で、目を合わせていたくなかったんだ」


 暁の説明を静かに聞き終えると、結鹿はただ「そうか」と呟き、辺りを見回した。しかし、見つからなかったのか、諦めた風に首を振る。


「もしかして、あれは死んだ時のままの姿なのか?」

「だと思うよ」結鹿は息を吐いた。「自分が死んだと思ったままだと、そういう風になるのも居るんだ。結構多くてね。そういう分かりやすい死人は、よく恐怖体験扱いされるんだ」

「成る程な」


 確かにあの姿は完全に怨霊だった。暁がそう告げると、結鹿は「だから幽霊でも怨霊でも無いんだって言ってるのに」と不満げになる。

 軽く謝罪し、暁は怨霊の様な女の事を頭から消し去る。忘れた方が気が楽だからだ。その代わりに、視線が老警官の方へと向かう。彼は、亜美の墓石へ向かって手を合わせていた。


「あの人は?」

「彼が担当した最後の事件だったんだと」

「だから墓参りに、か」

「らしい。結局犯人を捕まえられなかったから、今でも後悔が有るんだって言ってたよ」


 老警官は墓参りに集中していて、こちらを見る様子は無い。それでも結鹿は頭を下げて、「失礼します」と告げた。


「さあ、戻ろう」結鹿が暁の肩を掴む。

「何か分かったのか?」


 怨霊の様な物を見た為か、暁は息苦しい気分になっている。

 結鹿は口を閉ざし、何も答えなかった。

 暁の隣を、どこかで見た様な男が通り過ぎた。


「ん?」

「何かな」

「いや」暁は、その男が誰なのかを思い出そうとした。「今の……」


 頭に引っかかりを覚えて、暁の目はその男が行く先を眺める。男は先程まで結鹿と暁の居た墓石の前で足を止めて、老警官に頭を下げるだけで、声をかける事はせず、線香とライターを取り出した。

 男はそのまま線香を立てて、手を合わせる。傍らには水の入ったバケツと、スポンジが置かれている。

 暁は、男の元へ歩み寄ろうとする。結鹿が暁の腕を掴み、首を振った。しかし、暁はその腕を振り切り、男へ近づいていった。

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