第2話
近くで見ると、少女はとても愛らしかった。小柄な碧が見下す程度に背は低く、手は碧より一回り小さい。髪は右側だけ編まれていて、ヘアピンで留められている。鮮やかな薄桃色の唇が柔らかそうだ。白のワンピースを着ているからか、死んだ人間だと言われても納得する程の儚さが有り、同時に、子供らしい天真爛漫さも溢れている様に見えていた。
少女はまだ困惑している。三人の大人に囲まれているからか、緊張気味に足を揺らせて、周囲を何度も見回していた。
「緊張しなくても大丈夫だよ。こっちの結鹿お姉さんは良い人だし、暁お兄さんは子供嫌いとかじゃないし、私だって、あなたに怒ったりはしないよ」
「いや、その」少女は首を振った。「大丈夫です、はい」
「美流ちゃん、心配する必要は無いよ。私は君の味方だからね」結鹿が好意的に微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」詰まりながら、少女は返事をした。
少女は、亜美美流と名乗った。美しいという漢字が名字と名前で二つも使われていて、まさにこの少女の愛らしさに合致した名前だ。本人も気に入っているのか、名前を褒めた時は緊張を解き、嬉しそうに頷いてくれた。
美流は落ち着き無く周りを見ている。その視線が、時折店のケーキを物欲しそうに眺めていた事を、碧は見逃さなかった。
結鹿も見通していたのか、彼女は碧に向かって頷き、手元のケーキを美流の前に運んだ。
「さあ、食べて。ケーキで落ち着くと良い」
「でも、その。私は死んでるから、食べられないんじゃないですか?」
「大丈夫だ、食べられる。私が保証する」
結鹿は無遠慮に美流の頭を撫でた。
続いて、碧は合図をするまでもなく、自分の持っていたフォークを差し出す。
「美流ちゃん。私達を信じて? ほら、食べられるって信じて、フォークを握ってみて」
「う、うん」
結鹿と碧に向かって小さく頷くと、美流は不安そうにフォークへと手を伸ばす。
怯える様に、そっと指を近づけてきた所で、碧は不意打ち気味にフォークを突き出した。すると美流の手は一気にフォークの柄に触れた。美流は、小さな悲鳴を漏らして飛び上がった。
「え」美流が自分の指をフォークを見比べた。「触れてる?」
「ほらね、触れた」碧はウインクをして見せた。
躊躇いがちに、美流がケーキの上に乗った果肉に指を近づける。「本当だ。触れる」
美流が自分の指先を見つめる。爪に赤いソースが付いていた。
「食べて良いんですか?」
「勿論!」結鹿は手を叩いた。「食べていいんだよ。死んでから何も食べてないんだろう。お腹が減らなくても、甘い物を食べたい気持ちは有るだろうしね」
やけに機嫌良く、結鹿は優しく接している。美流の頬を遠慮も躊躇いも無く撫で回し、その肌の感触を楽しんでいた。余りにも馴れ馴れしい手つきだったが、緊張していた少女にとって、その態度は気を許せる物として写ったのだろう。
美流は自分を撫でる手に触れて、照れながらも礼を言った。
「あの、ありがとうございます。貰います」
本当に食べられるのか疑っているのか、美流はフォークを持つ手をゆっくりとケーキへ近づけて、少しずつ刺した。スポンジとクリームがフォークを飲み込むにつれて、美流の表情は明るくなっていき、完全に刺さった時には、目が輝いていた。
「いただきます」と告げて、美流はケーキを口にする。
彼女はすぐに目を見開き、機嫌良く二口目を食べた。味を噛みしめる様な鳴き声を漏らし、美流はテーブルを掴んで立ち上がった。
「美味しい」美流の目には涙すら浮かんでいた。「これ、凄く美味しいです。本当に、凄く、とっても、美味しい、美味しかったの。本当に、ケーキなんていつぶりかな」
「泣かない泣かない。ほら、全部食べて良いよ」
碧がその頭を撫でてやると、美流は素直に頷いた。子供扱いされても怒らない。あまり気にしない性格なのか、それとも、久しぶりの食事に感動して、そんな余裕が無いのかもしれない。
可愛らしい。碧はそう思った。そして、こんな少女がどうして死んだのかを考えて、気を重くした。
「それにしても、大変だった様だね」結鹿がコーヒーを渡す。砂糖とミルクが多く入っていた。
「はい。誰も私を見つけてくれなくて。ずっと寂しかったんです。何で死んだのかも分からなくって、家に帰っても誰も居なくって」
コーヒーを受け取った美流は、その色合いを一度見つめ、そっと口を付けた。
「ちょっと、苦いです」涙で潤んだ瞳を隠そうとしたのか、美流は袖で目元を拭う。
「ハンカチを使った方が良いよ。ほら、私のを使っていいから」
碧からハンカチを手に入れると、美流は小さな声でお礼を告げて、その目を拭いた。充血して赤くなった目は、全く変わっていない。
死んだ後が有るのも考え物だった、親にも子供にも、友達にも姿を認められず、孤独に存在し続けるなんて、この少女には相当に辛かったに違いない。
「なあ、どうして物が飲み食い出来るんだ」暁がひっそり声を上げた。
「飲んだ気になってるからかなあ」
よく知らない事を適当に答えておき、碧は結鹿へ視線を送る。結鹿は頷き、やけに嬉しそうな顔で美流を撫でつつ、ケーキをまた幾つか注文した。
「まあ、死人でも食事は出来るし、文字だって書ける。噂だと、死人が小説を書いて新人賞に送ろうとしたけど、出版する時に手助けが要るからって、生きてる知り合いに色々と頼んだ人も居たらしい。二重の意味でゴーストライター、なんて話を聞いたよ」
「そうなんですか?」美流は本気で驚いている様だった。「でも、全然分からなかったです。まさか、普通に食べたり飲んだり出来るなんて。死んじゃったら、何も出来ないんだって思ってたから」
「美流ちゃんは知らないかもしれないけど、死んだ事に気づいてなかったすると、当たり前の様に生きてる人と話したりして、周りも自分も死んだ事に気づかれないまま、なんて人も居るんだよ」
言い終えてから、結鹿は「流石に、そういうのは珍しいけどね」と付け加えた。
気づけば美流は涙を流さなくなって、自分を撫でる結鹿に向かってくすぐったそうに身体を揺らせている。結鹿のとても優しい対応に、心をすっかり許している様子だ。今は興味深そうに結鹿の話へ耳を傾けていて、子供らしい笑みが浮かんでいる。
「良かった、落ち着いてくれたんだね」碧が呟いた。
顔を上げた美流は、碧にも微笑んで見せる。緊張が解れたからか、素の感情が窺えた。
「ケーキ、美味しいです」
「今日のは特別に美味しいみたいだよ。美流ちゃんは良い日に来たね」
「そうなの? 運が良かったんですね、私は」
「……その年齢で死んだ子の運が、良い?」暁がこっそり呟く。
「こらっ」結鹿が一瞬だけ不機嫌そうになり、暁の足を踏んだ。暁の口から呻き声が漏れた。
「あっ、良いですよ。気にしてないですから」
「美流ちゃんは良い子だね」結鹿は足を退けて、暁へ頭を下げる。「ごめん、痛かったかな」
「いや、大丈夫だ。今のは俺の失言だった」
「本当に大丈夫です。ケーキが美味しいし、私が見える人が居てくれて、嬉しいですから」
美流はまるで気にしていない様だった。感情豊かに笑う所を見る限り、生きていた頃は本当に色々な人に愛されていたんだと分かる。彼女が死んだ時、両親は本当に悲しい思いをしただろう。
美流はフォークを置いて、椅子へ座り直していた。何か言いたい事が有るのだろう。
「あの、ですね。私の事が見える人が居て嬉しいのは、寂しいから、っていうのも有るんですけど、その、お願いがしたい気持ちも有って」
「お願い?」碧は思わず聞き返した。
「はい。お願いです」
頷くと、美流はコーヒーを飲んだ。まだ少し苦かったらしく、その顔が嫌そうな気配を帯びる。しかし、その変化は一瞬で消えて無くなり、不安そうな瞳が碧と結鹿を捉えた。
「そっか、お願いか」結鹿は噛み締める様に言った。「何でも言ってくれて構わないよ。さ、どうしたいのかな?」
結鹿が覗き込む様に顔を近づける。美流はとっさに目を逸らしながら、遠慮がちに口を開く。
「あの、私は死んじゃったので、その」
美流は慎重に言葉を選んでいる様子だった。信じて貰えるのかが不安なのだろう。
碧は、居心地が悪くなった。三人で小さい少女を囲んで虐めている様に感じられたからだ。思わず美流の手を握り、彼女は微笑みかけていた。
「あのね、言葉遣いが難しいなら、普通に喋って良いんだよ?」碧は、出来る限り自分の姿が優しく見える様に努力をした。「私達に遠慮してるなら、そういうのは良いから」
美流が顔を上げた。やはり話しづらかったのか、碧の言葉を受けた時の表情は、とても明るい物となっていた。
「でも、お母さんが。自分に優しくしてくれる人には丁寧に接した方が良いよって」
「素敵なお母さんだね」結鹿が褒めた。
「うん、大好きなお母さん」
心の底から親が好きなのか、美流はしっかりと頷いていた。やはり、両親にはとても愛されていたのだ。見た目には健康そうな少女が、どうして死んだのか。碧はその点に多少の興味を持った。
「私、気づいたら家の前に居たんだ。学校へ行こうとしたら、いつも待ってくれてる友達が居なくて」
美流は淡々と話した。辛い思い出なのか、手を胸の前で合わせ、しっかりと握っている。いつ泣き出しても良い様に、結鹿が側に居るのが見て取れた。
「友達を見つけたけど、私が話しかけても反応が無くて」美流は涙を滲ませた。「私が見えてないんだ、私は死んでたんだって、思い出したんだ。何で死んじゃったのかは、分からないんだけど」
今度は、結鹿が手を伸ばし、美流の涙を指で拭う。
「ありがと」美流は素の口調になっていった。「それでね、私。ひとりぼっちになった気分だったから、私の事を見える人が居るって分かって、凄く安心したの」
美流は立ち上がり、結鹿に碧、最後に暁を見た。同性の方が気楽なのか、立つ位置は碧と結鹿の間だ。
「でも、お願いします」碧は三人に向かい、深々と頭を下げた。「お父さんとお母さんを、探してください」
心から告げられた言葉に、碧は思わず結鹿を見た。結鹿は口元に優美にすら感じるくらいの優しげな笑みを浮かべて、立ち上がった。彼女が何を言おうとしているのか、碧にはその顔を見なくても理解できた。
「良いよ。さあ、ケーキを食べて行こうか」
碧の想像した通りの事を言うと、結鹿は九島の運んできたケーキを受け取り、そのまま美流へ渡した。この店のモンブランは大人子供問わず人気のメニューで、結鹿の好物の一つでも有った。
そんなケーキを躊躇わずに渡されて、美流は驚いた様子を見せた。しかし、甘い物は好きなのだろう。すぐ喜びを露わにすると、「ありがとう!」と礼を言って、結鹿に抱きついた。
「さ、食べたら行こう。まずは君の家が良いかな?」
「はい!」
美流は座り直し、ケーキを切って口にした。
状況に付いていけない。そんな顔をした暁に、碧は笑いかけた。結鹿はそれなりに優しい人なのだ。だから好き、という訳ではないが、それが彼女の魅力の一つだと、碧は理解していた。
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