第10話 ルマンド

 その日、ミユは昼過ぎからずっと俺の部屋に居っぱなしだった。

 座椅子で胡坐あぐらをかく俺の上に小さな身体をすっぽりと埋める。

 常に抱き合っているかのような密着具合。

 完全に恋人同士のポジション取りである。

 しかし、その甘い体勢に反して、ミユの表情は険しい。自分の目の前、テーブルに置かれたノートPCを睨みつけている。

 

「ぬう、ファイル? ホーム? 挿入? ページレイアウト? むむむ……」

 

 ノートPCに表示されるエクセルの画面。

 またまったくなにも入力されていない。


「別にエクセルを使えるようになる必要ないでしょ?」


 俺は胸の中のミユに言う。


「できる女はこのエクセルなるものを使いこなすと聞いたのじゃ。私もエクセルを駆使して、できる女だと認めてもらいたいのじゃ」


 ……なんだかひと昔前の派遣社員の人っぽい考え方だ。

 そもそも、できる女はこんな後ろから抱っこされているかのような体勢で、パソコン作業をしないと思うが……。

 しかしこの体勢については、俺も大歓迎なのでその点についてはツッコまずにおく。


「そっちの世界にはパソコンないでしょ?」

「ないからこそ、学ばねばならぬ。優れた技術を私が習得し、国民に知らしめれば国の発展の助けとなるであろう」


 ミユはキリリとした表情で言う。


「意外と真面目なんだね」

「異世界転移の第一の目的は、姫様と成彦なるひこ殿が婚姻関係を結ぶことではありますが、こちらの世界を見分し、テクノロジーを学ぶことも重要な目的なのでございます」

 

 ミユの作業の邪魔にならぬようつかず離れずの距離で見守るエレノワが従者らしく丁寧に補足説明する。


「なにせ異世界転移は莫大な費用がかかる。その費用の元は国民から絞り取った血税であるからのう。還元せねばならぬ」


 ノートPOのモニターを睨みながらも、ミユは小さくうなずく。


「まことに。絞りに絞っておられますから。布であればビリッと音がするほどの絞りっぷりでございます」


 エレノワがしみじみと言う。

 ……そんなに税金を取っているのか。大丈夫なのか、その国。ミユは叔父さんと権力闘争の真っ最中らしいし、崩壊寸前なんじゃないのか。


「成彦殿、案ずる必要はない。私が即位すれば、ただちに対外戦争を吹っ掛け、民の敵意を外へ向ける。成彦殿は安心して我々の世界に来るがよい」


 なんて嫌な安心の仕方なんだ!

 その作戦、失敗したら、クーデターとかで処刑されちゃうんじゃないのか。


「危ない橋だなあ」


 思わず声に出してしまうが、ミユは平然としている。


「税を減らし、民を安んじ、諸国と和平を結ぶ。それで済めば、私も助かるのじゃがの。国情がそれを許さぬ。そもそも権力の頂に立つということは、危険を伴うものである。しかし危険など、このエクセルを駆使して乗り切って見せよう」


 エクセルじゃ荷が重くないか!?

 マイクロソフトもクーデターの回避は使用目的として想定してないと思うぞ。


「さすが姫様、見事なお覚悟でございます」


 エレノワは拍手をしながら、惜しみない賛辞を送る。

 その拍手に手を振り答えるミユ。ご満悦である。


「うむ。とはいえ、まずは基礎からじゃ」


 ミユは敢然とノートPCに向かって手を伸ばす。

 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。

 手を伸ばしたものの、まったくなにもしない。さわさわとキーボードを撫でているだけだ。


「まったくわからぬのう」


 俺の胸の中で頭を抱えるミユ。

 そりゃそうだ。剣と魔法的な世界の王女様がいきなりエクセルを使えるわけがない。


「どうしたいの?」

「できる女になりたい!」


 俺の問いに即答するミユ。


「そうじゃなくて、エクセルでなにをどうしたいの?」

「民の叛意をくじきたい。どこかにやり方は書いてないかのう?」


 それは、どのヘルプを参照しても書いてないだろう。

 これは目的を適切なレベルに変更しないとどうにもならない……。


「とりあえずさ、これまで食べた美味しい食べ物一覧でも作ってみたら? 最初はそれくらいからはじめないと」

「ほほう。楽しそうであろうのう」


 ミユが再びPCに手を伸ばす。


「最初に食べたのはからあげクンだったよね。からあげクンって書いてみようか」

「うむ。書く」


 ミユの細くしなやかな指がキーボードを叩く。


 ――gじゃおいrか


「全然、違う! これでからあげクンって読める人はいないね。まずはからあげクンの〝か〟だからまずkを」

「ほほう」


 俺はミユを抱くように腕を伸ばし、キーボードのkの位置を指し示す。

 ふんふんと頷くミユ。再びキーボードを叩きはじめる。


 ――kdgるおりえあ


「うーん。近づいた気すらしないな。kの次はこれね」

「ぬぬっ!」


 ――かgyろいyと!!!!


「なんか、すっごい勢いは感じるけどね。からあげクンとは読めないかな」


 軽やかなタイピングのイメージはあるのか、すぐにキーボードを乱打してしまう。

 これは食べた物の表を作るだけで道のりは遠そうだ。

 むろんクーデター阻止への道は果てしなく遠い。


 ――からgぢおしえいクン

 ――からあぎえおいgじん

 ――dごいじぇあおgじゃお


 一瞬、からあげクンの姿が見えるが、また遠ざかる。

 一進一退の攻防である。

 まだ、一度もからあげクンと記入できてはいないが、ミユはすでに疲労困憊ひろうこんぱい。ふぅ、ふぅと何度もため息を漏らしてる。

 集中力が限界に達してしまったようだ。


「ちょっと休憩しようか。おやつでも食べよう」

「うむ、そうしよう。あまり根を詰めると身体に悪いからのう」


 その言葉を待ち望んでいたと言わんばかりに、ミユはそそくさとパソコンの前から離れ、押し入れの前へと移動する。

 そう、俺の押し入れの中にはおやつBOXが隠されているのだ。

 もちろんミユはそれを覚えている。

 からあげクンと書くだけでも一応ミユにとっては頭脳労働。頭脳労働のあとのおやつといえば、やはり甘い物だろう。

 なにか甘い物はあったか……。

 ごそごそとおやつBOXという名の単なる段ボール箱をあさる。

 すぐにぴったりのおやつを見つける。

 俺がおやつBOXから取り出したのは、ブルボンが誇るお菓子の大スタンダード、ルマンドである。

 しげしげと興味深そうにルマンドの袋を見つめるミユ。

 わざわざエレノワも呼び寄せ、改めてふたりでルマンドをじっと見つめる。


「ルマンドがどうかしたの?」


 俺はなんの他意もなく尋ねたのだが……。

 ふたりの顔が真っ赤になっている。


「や、やはり、そう読むのであるか」


 ルマンドの袋にはカタカナで〝ルマンド〟と書かれている。当たり前だ。

 日本語が堪能なふたりに読めないはずはない


「あの……ノレアンドの間違いでは?」

「ルマンドだよ。間違いない」


 俺の言葉にエレノワはまた顔を赤らめ、両手で顔を覆ってしまう。

 なぜだ? なんでそのリアクションになる。


「どうかしたの? ルマンドはルマンドだよ。読めるでしょ。ルマンド」

「成彦殿、そう何度もルマンドと言うものではない」

「姫様、はしたないですっ! その言葉を王女たる身で発するとは」


 ミユが一度ルマンドと言っただけで、エレノワは大慌てだ。


「え? そっちの言葉でルマンドってどういう意味なの?」

「そ、それは……、言えませんっ! わたくしとて嫁入り前の身、そんなことは……」


 エレノワはもじもじと身体をくねらせるばかり。

 それほど恥ずかしい意味なのか……。

 まあ、そちらの世界でどのような意味を持とうとも、ルマンドの真髄は味にある。


「とりあえず、ルマンド食べてみなよ」


 俺は袋を開け、ルマンドをミユに配る。


「ルマンドを食べる……なんとも背徳的な響きであるのう」

「姫様っ!」

「エレノワ、こちらの世界ではこちらの世界の言葉がある。あまり気にするでない」


 ミユはどこか楽しそうにそう言うと、ルマンドをひとくち頬張る。


「どう、ルマンド?」

「美味である。これは美味であるのう。エレガントな甘味。口の中でほろほろと崩れる食感。まこと絶妙である」


 ミユは目を閉じ、恍惚の表情を浮かべる。

 そう、ルマンドは美味いのだ。

 なぜかおばあちゃんのお菓子のイメージがあるが、それはブルボンが大正時代から続く、老舗である証し。その美味しさはお子様からお年寄り、そして異世界人まで虜にする。


「エレノワも食べてみなよ」


 俺は袋を剥いて、エレノワにも一本手渡す。


「は、はい……」


 頬を染めながら、ルマンドを口に運ぶエレノワ。


「これは……、なんという……。この見事な調和。美味しいというより、もはや美しいです」


 そっと噛むだけで崩れるウエハース、口いっぱいに広がるチョコレートの甘味。そのバランスはたしかに芸術的だ。

 夢中になってルマンドを堪能するミユとエレノワ。


「私も成彦殿と結婚した暁にはルマンドするのであろうか……」

「姫様! なにを言っているのです」

「しかし大人の女はルマンドするものであろう。ときには激しく、ときには優しく、ルマンドするのじゃ」

「言葉を慎んでください!」


 ルマンドを頬張りながら、なんだか揉めている。

 なんなんだ、ルマンド……。意味はわからないけど、ルマンドしたくなってきた。

 それはさておき、ルマンドの味は大好評なのは間違いない。

 スーパーのお菓子コーナーの貴婦人とも言っていいエレガントな味わい。それは異世界人にも通用する。

 せっかくなら、あれも試してもらおうじゃないか。

 俺はおやつBOXから、あれを取り出す。


「アルフォートもあるけど、食べる」

「アルフォ……」


 エレノワが目を丸くして、絶句してしまった。

 このリアクション。また異世界の言葉では別の意味があるのか!


「ほほう、アルフォートであるか。これは」

「姫様……姫様の口から……アルフォー……」


 エレノワは卒倒しそうになっている。


「ブルボンのお菓子と言えば、ルマンドとアルフォートだよ」

「ぶ、ブルボ……」


 エレノワが床に突っ伏してしまった!

 ブルボンもダメなのかよ!


「ベッドの上で激しいルマンドから、思わず、成彦殿のアルフォートをブルボンしてしまったり。……くんずほぐれつであるのう」

「姫様! なにを言っているのですか、それはもはや変態です」


 床に倒れ込みながらも、ミユを正すエレノワ。

 従者としての職務には忠実だ。

 アルフォートがどんな意味を持つのかはわからないが、とにかく大事なのは味。アルフォートも味見してもらおう。

 俺はアルフォートをミユに手渡す。

 チョコレートに刻印されるおなじみの帆船のマーク。

 これを見ただけで、脳内であの味が再生される。

 間違いなく世界一食欲を刺激する船だ。

 その帆船がミユの口の中へと処女航海に出る。


「これは、チョコレートの甘さと苦さが同時に。そしてこのサクサクの歯ごたえ。懐かしさと高級感を同時に堪能できる。美味じゃ! 実に美味じゃ。エレノワも食すがよい」


 ミユはエレノワを引っ張り起こし、アルフォートを手渡す。

 主人に勧められては断ることができない。

 恐る恐るアルフォートをひと齧りするエレノワ。


「……ああ、美味しいです」


 恥ずかしそうに小さくため息を漏らす。


「で、あろう。ルマンドとはまた違った美味しさがある」

「姫様、できれば、名前は口に出さずに……美味しい、美味しいのに……」


 照れながらも、すぐに一枚食べ終わってしまう。

 結局、アルフォートのちょっぴりビターな味わいに夢中である。

 一枚食べ終わると、また一枚。

 ミユとエレノワの手がアルフォートを求めて伸びる。

 チョコレートに比べるとクッキーの量が少な目になっており、それが絶妙の軽さを醸し出し、もう一枚食べてしまうのだ。

 

 ――口では恥ずかしがっていても、身体は素直じゃないか。

 

 つい、そんな言葉が脳裏をよぎってしまう。

 いかん。エレノワがあんまり恥ずかしがるせいで、俺もちょっと楽しくなってきてしまったようだ。

 ダメだ、ダメだ。これでは女子に下品なネタを言って喜んでいるおっさんじゃないか。このような行為は…………、他にブルボンのお菓子はないか。


「こんなのもあったよ」


 続いて俺がお菓子BOXから取り出したのはエリーゼ。

 ウエハースのスティックの中にチョコレートが入っているアレだ。

 ブルボンのなかでも特に渋い一品である。

 エレノワはエリーゼのパッケージをチラリと見ると、慌てて目をそむける。


「エ、エ、エリ、……そんな名前が許されるのですか!」

「エリーゼ。もはや、手加減なし。モロであるな」


 モロなのか……。

 なにがモロなのかわからないが、エレノワがまた羞恥で転げまわっている。

 エレノワには申し訳ないが、実に楽しい。

 なにか他にないか!

 もっとエレノワが照れるお菓子は?

 すでにお腹はいっぱいだが、それでも俺はお菓子BOXをあさる。

 これは……なんとなくいける気がする。なんの根拠もないけれど。


「ねえ、エレノワ、オレオもあるよ。どうだい、オレオは。この黒と白のコントラスト、美味しそうだろう?」


 もはや街でトレンチコートを開く変態の人のノリで、俺はオレオを見せつける。

 しかしエレノワからはなんのリアクションもない。


「へー、オレオですか。美味しそうですね」


 エレノワはじっとオレオのパッケージを見つめている。まったく頬を赤らめることなく、完全に真顔である。


「インパクトがあって良い名前であるのう」


 ミユもまたなにも感じていないようだ


「インパクト以外の意味は? オレオだよ」

「まったくなにも」


 エレノワは逆に不思議だと言わんばかりに首を傾げる。


「我々の世界にオレオなる言葉はないからのう」


 ミユは当たり前だと言わんばかりの口調。

 やっぱりナビスコじゃダメなのか!

 なぜだ。なぜブルボンの商品だけ……。

 そして、スルーされてしまうと、なんだかこっちが恥ずかしい。


「そっか、いや、……もうお腹いっぱいだからオレオはまた今度にしようかな」


 そっとオレオをお菓子BOXへと戻す。

 オレオに罪はない。ただちょっと盛り上がりすぎてしまっただけなのだ。


「さて、そろそろエクセルに戻ろうかのう。成彦殿」


 ミユは俺の手を引き、座椅子へと戻ろうとする。

 また座椅子に座る俺の上に座って、後ろから抱っこされる形で作業するつもりなのだ。

 もちろん俺もあの体勢が嫌ではない。

 俺は素直に先に座椅子に座り、ミユがそれに続こうとするが……。


「姫様、その体勢は止めてください」


 エレノワが割って入り、俺とミユの手を引き離す。


「急にどうしたのじゃ?」


 ミユは意図が理解できずに、小首を傾げている。

 たしかに最初からこの体勢だったのに、なぜこのタイミングで?

 言い難そうに、うつむくエレノワ。


「その……、あの、ル、ルマンドしているかのように」


 エレノワは聞こえるか、聞こえないかギリギリの小声でぼそりと言う。


「このような昼間から、そのようなことはせぬっ! エレノワ、私をなんだと思っておるのじゃ!」

「そうですが、やはりあんな話をしたあとですから、そのように見えてしまいます。離れてください!」

「せぬと言ったら、せぬっ!」

「駄目です。実際にするかしないか、ではなく、品位の問題です。姫様には王女としての品位を守ってもらわなければ困ります。今後はあのような体勢は謹んでいただきます」


 いつになく厳しい口調。


「ぬぬ……王女として……」


 エレノワは毅然とした態度でミユの前に立ちふさがる。

 品位という言葉が刺さったのか、ミユも口ごもるばかりで言い返せない。

 憮然としながらも、テーブルを挟んで俺の反対側に座る。

 エレノワの意見を聞き入れたらしい。

 なんだか急に距離が遠くなってしまった。


「成彦様も姫様がわからないときにだけ接近して教えてあげてください」


 エレノワは俺にも厳しい口調で言う。

 この勢いで言われると頷くしかない。

 あの体勢好きだったのに……。これじゃただのパソコン教室じゃないか。

 俺の心の中に芽生えた少しのエロおやじマインド、それによって大きなものを失ったのであった。

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