第二話 開いてびっくり! 聡実お手製学習テキスト

さてと、姉ちゃん作の教材じっくり見てやるか。

一段ベッドに腰掛けた賢祐は、最初に英語のテキストを捲ってみた。

「おう!」

 思わず感激の声を上げる。一ページ目に、英語に対応するキャラクターの全身カラーイラストと、簡単なプロフィールが載せられていたのだ。

この栗巣モニカって名前の女の子が解説してくれるってわけか。

 わくわくしながら次以降のページをパラパラ捲ってみた。

姉ちゃんが高校時代に授業や自習でまとめた学習用ノートを元に作ったみたいだな。カラフルでめっちゃ分かりやすく書かれてるし。紙質も良いし、これはかなり期待出来そうだ。姉ちゃん、俺のためにこんなの作ってくれるなんて……。

 不覚にも姉のことをちょっと見直してしまった賢祐は、続いて社会科のテキストもパラパラ捲って確認してみる。

こっちの子もエスニック風でなかなかかわいいぞ。世界の料理とか、農作物とか、家畜とか、民族衣装のイラストもやっぱ上手いなぁ。 

感心気味に眺めていると、予期せぬ出来事が――。

「あっ、あのう」

 どこからか、聞きなれぬ女の子の声が聞こえて来たのだ。

「何だ? 今の声」

 賢祐は不思議に思い、周囲をきょろきょろ見渡す。

耳元で聞こえた気がするんだけど、誰もいないよな?

 少しドキッとしながらそう思った直後、

「うっ、うわわわわわぁ!」

 賢祐はあっと驚き、口を縦に大きく開けて絶叫した。弾みで手に持っていた社会科のテキストも床に放り投げてしまう。

 突如、英語のテキストの中から、飛び出して来たのだ。

服装は『Let‘s enjoy studying♪』とホワイトロゴプリントされたオレンジ色チュニックにデニムのホットパンツ、水色ニーソックスという組み合わせ。マロン色なセミロングウェーブヘアは胸の辺りまで伸びていて、つぶらなグレーの瞳ですらりとした体つき、背はやや高めで一六〇センチ台半ばくらいあるように見えた女の子が――。

イラストの一つと全く同じ格好だった。紙上に描かれた人間の女の子が飛び出してくるという、物理現象を完全無視した出来事が今しがた賢祐の目の前で起こったというわけだ。

「グッイーブニン、ナイストゥーミートゥ。ワタシ、ケンスケくんに英語を指導することになった、栗巣モニカだよ。アイムフロムインジィイングリッシュテキスト、リトゥンバイユアオールダーシスター、トシカワサトミ。ケンスケくんと同じ、十年生だよ。アイムフィフティーンイヤーズオールド。マイファザーがアメリカン、マイマザーがジャパニーズなハーフなの。いっしょにスタディー頑張ろうね♪」

 その女の子はモニカと名乗りぺこりと頭を下げ、微妙な発音の英語も交えて挨拶した。そのあと賢祐の手を握り締めて来た。 

「……………………」 

 賢祐の口は、顎が外れそうなくらいパカリと開かれていた。

「Oh,ケンスケくん、a(ア)を発音する上でベストな口の形だね。Very good!」

 そんな彼を見て、モニカは嬉しそうににこにこ微笑む。

続いて、国語のテキストが自動的に開かれた。そしてまた中から女の子が――。

「こんばんは。わらわ達の作者、利川聡実さんの弟君の賢祐さん。この度は飛び出す萌え教材高校生の家庭学習用をご利用下さり、誠にありがとうございました。わらわは現国と古典を担当させていただく、新玉葉月(あらたま はづき)と申します。中学二年生です。今後、末永くよろしくお願い致します」

 江戸時代の町人娘を思わせる地味な着物姿だった。黒縁の丸眼鏡をかけ、濡れ羽色の髪を撫子の花簪で飾り、背丈は一五〇センチをちょっと超えるくらい。賢祐に向かって丁重に深々と頭を下げ、おっとりとした口調で挨拶して来た。

さらにもう一冊、社会科のテキストからも。 

「はじめまして賢祐君。わたくし、社会科担当の長宗我部・エリザベス・州湖良(すこら)。高校二年生、グレゴリオ暦換算で十七歳よ。分からないことや悩み事があったら、遠慮せずに何でも相談してね」

 この子の背丈は一六〇センチくらい。小麦色の肌、面長でつぶらな鳶色の瞳、ほんのり栗色な髪をポニーテールに束ね、色鮮やかなインドの民族衣装サリーを身に纏っていた。

「えっ、あっ、どっ、どうも。おっ、おっ、俺、とうとうアニメの世界と現実の世界との区別が付かなくなってしまったのか?」

 賢祐は当然のように戸惑う。

「夢じゃないよ。現実なのだ」

「実数の世界だよ」

 背後からまた聞きなれぬ二人の女の子の声がした。

「アタシ、理科担当の金星雲母(きんぼし うんも)でーす。物理・化学・生物・地学、どの選択科目でもアタシにお任せあれ。中学一年生、十二歳。よろしくね♪ ケンスケトン」

 この子は紫色の髪を螺旋状にしていた。四角顔でネコのように縦長な瞳、背丈は一五〇センチあるかないか。ソテツの葉っぱで胸と恥部を覆っただけの非常に露出度の高い姿だった。

「数学担当の、四分一根位比愛(しぶんいち ねいぴあ)です。小学四年生、九歳です。これからよろしくね、賢祐お兄ちゃん」

 こちらの子はおかっぱ頭にしたみかん色の髪を、松ぼっくりとパイナップルとひまわりの花、合わせて三つのチャームを付けたサイコロ模様のダブルりぼんで飾り付けていた。丸っこいお顔とくりくりしたつぶらな瞳。背丈は一三五センチくらい。なんと、全裸だった。

「うわぉっ!」 

 振り返った賢祐はそんな二人のあられもない身なりを目にし、反射的にのけぞる。そして目を覆った。

「こらこらっ、雲母ちゃん、根位比愛ちゃん。そんなはしたない格好で現れちゃダメでしょっ! 賢祐君はエリクソンのライフサイクル論によると青年期の男の子なんだから。えっと、あっ、ちょうど都合良くいいのがあったわ」

 州湖良が注意した。そして彼女は、学習机の本立てに並べられてあった、賢祐が学校で使用している地図帳を手に取りパラッと捲る。続いて開かれたページに手を添えると、なんと波打つ水面のように揺らいだのだ。

 三秒ほどのち、州湖良は何かを掴み上げた。

「これを着なさい」

「分かった。裸子植物風に登場してみたけど、被子植物風になるよ」

「きれいな模様だね。この部分の面積はどれくらいかな?」

 それを雲母と根位比愛に投げ渡す。この二人は素直に従った。

州湖良が先ほど取り出した物の正体は、ベトナムの民族衣装アオザイだった。色は純白で花柄の刺繍も施されていた。

なっ、なんでこんなことが、起こってるんだ?

 賢祐は目の前で次々と起こった超常現象にただただ唖然とするばかり。

「絶対、夢だよな?」

 とりあえず右手をゆっくりと自分のほっぺたへ動かし、ぎゅーっと強くつねってみる。

「いってぇっ!」

 痛かった。

現実……だったらしい。

「嘘だろ?」

まだ賢祐は、この状況を信じられなかった。

「どないしたん賢祐? すごい大声出して」

 ガチャリと部屋の扉が開かれる。聡実が入って来たわけだ。

「ねっ、ねっ、姉ちゃん。さっ、さっき、この姉ちゃんが作ったテキストの中から、おっ、女の子が、五人、飛び出して、来たんだ。あのイラストの。ほらここにっ! ……あっ、あれ?」

 賢祐は強張った表情で声をやや震わせながら伝えたものの、

「誰もおらへんやん」

聡実にきょとんとした表情で突っ込まれてしまう。

「いや、さっきいたんだけど、おっかしいな」

 賢祐は訝しげな表情を浮かべた。

「賢祐ったら、紙に描かれた絵ぇが飛び出てくるなんてマジあり得んし。アニメの世界と現実の世界との区別はちゃんと付けなきゃダメよー。うち、あんたより遥かにアニメの世界にどっぷり嵌っとるけど、現実の世界との区別はちゃーんとついとるで」

 聡実はくすくす笑ってくる。

「いや、俺もちゃんとついてるんだけど」

「確かにお○ん○んはちゃんとついとるよね」

「……今そういう話じゃないんだけど」

 賢祐が困惑顔でこう言った直後、

「賢祐ぇー、聡実ぃー、夕飯出来たでー」

 階段下から母の叫び声が聞こえてくる。

「今行くぅー。賢祐もはよおいでよ」

 聡実はすぐにこの部屋から出て、ダイニングの方へ向かっていった。

「やっぱ、気のせい、だよな?」

 賢祐はこう呟いてハハハッと笑う。

 次の瞬間、

「気のせいではありませんよ、賢祐さん」

 国語のテキストから、葉月がぴょこっとお顔を出した。

「うわぁっ!」

 賢祐は反射的に仰け反る。

「また驚かせて申し訳ありません。というか、こんなに驚くとは思いませんでした」

 葉月はてへりと笑ったのち、全身を出して直立姿勢になった。

「驚くに決まってるだろ」

 賢祐はごもっともな意見を述べた。

 他の四人もまた飛び出してくる。

「お部屋の様子を見て、ケンスケくんは本当に萌え系のアニメが大好きな男の子なんだなぁって、judgmentしたの。これならワタシ達がテキストから飛び出して、三次元化する。というphenomenonを起こしてもごく普通に受け入れてくれるかなぁと思って♪」

 モニカはにこにこ顔で伝えた。

「賢祐さんの姉君は、妄想空想癖は酷いようですが一応常識的なお方のようですし、わらわ達の姿を見たら腰を抜かすかと思いまして、とっさに隠れました」

 葉月はゆったりとした口調で語る。

「俺だって相当驚いたよ」

「サトミちゃんから、3Dイラストにもなってるって説明されたでしょ?」

 モニカは爽やか笑顔で問いかける。

「いや、それって、特殊な眼鏡をかけて、最近では裸眼でも見えるやつもあるけど、実際は平面上にある映像や絵が立体的に見えるやつのことだろ?」

「賢祐さん、それは前世紀的な発想ですよ。今や3Dというのは、二次元平面上に描かれたイラストが質感と触感と重量感と香りを伴って、実際に飛び出してくるものなのです。賢祐さん若いのにお年寄り風な考え方ですね」

江戸時代風な格好をした葉月がくすくす微笑みながら指摘してくる。

「俺の考えは、間違ってないと思うんだけど……」

賢祐は困惑顔になる。

「まあまあケンスケトン、素粒子の世界では、日常生活では起り得ない現象がしょっちゅう起きてるんだし、素直に受け入れなよ」

「賢祐お兄ちゃん、二次元が三次元になることは、Z軸座標が増えたってことだよ」

 雲母と根位比愛はにこにこ笑いながら言った。

「受け入れろと言われても……」

「ワタシ達みんなファミリーネームは違うけど、五人姉妹だってデザイナーのサトミちゃんは設定してくれたよ」

 モニカはにこにこ顔で語る。

「……それにしても、二次元キャラが三次元化するって、現代の科学技術的にあり得ないだろ」

「それが出来てしまったんだから、そう突っ込まれると反応に困っちゃうな」

 州湖良はちょっぴり困惑気味だ。

「まだ現実とは思えない」

 賢祐は半信半疑な面持ちで呟く。

「ケンスケくん、これは現実、リアリティなんだよ」

 モニカはにこっと微笑む。

「あの、モニカちゃん、俺、これが現実だってこと実感したいから、体、触っていいか?」

「オーケイだけど、breastは変な気持ちになっちゃうからNo way! だよ」

「分かった。頭にするよ」

 賢祐が恐る恐る、モニカの髪の毛に手を触れようとしたら、

「賢祐ぇー、いい加減夕飯食べやぁー。冷めてまうやろっ!」

 母に扉を開けられた。

「わっ、分かったよ」

 賢祐はビクッと反応し、周囲を見渡す。

 またもみんな姿を消していた。

やっぱ、夢だよな?

 賢祐は首をかしげながら電気を消して部屋を出て、ダイニングへと向かっていった。

「賢祐、聡実の描いた3Dイラストの迫力に圧倒させられたみたいだな」

 高校理科教師を務める父は楽しそうに微笑む。

「うん、まあ。かなりリアルだったし」

 賢祐は苦笑いで答え、

 絶対俺の見間違えだ。

 心の中でこう確信して椅子に腰掛けた。

「うちの作った教材、賢祐にウケてくれたみたいでうち、めっちゃ嬉しかったわ~」

 隣に座る聡実は上機嫌でかぼちゃコロッケを頬張っていたのだった。

「その教材上手く活用すれば、賢祐も聡実みたいに現役で阪大受かるかもな」

父は上機嫌で高野豆腐を頬張りながらそんな期待を抱く。聡実の趣味もジャ○ーズやE○ILEなんかに嵌るよりは健全だろうってことで快く容認してくれている寛容で心優しいお方なのだ。

          *

 賢祐は夕食後は自室には戻らず、まっすぐお風呂場へ。

洗面所兼脱衣場で服を脱ぐと、ハンドタオルを手に取って、いつもと変わらず大事な部分は隠さずにすっぽんぽんで浴室に入る。続いて風呂椅子に腰掛けて、シャンプーを押し出した。

 髪の毛をゴシゴシこすっている最中だった。

「やっほー、ケンスケトン!」

 突然そんな声がしたと思ったら、湯船がバシャァァァーッと飛沫を上げ、中から雲母が飛び出して来たのだ。

「ぅおわあああぁぁーっ!」

 賢祐はびっくりして思わず仰け反る。もう少しで後ろのタイル壁に後頭部をぶつけるところだった。

「遊びに来ちゃった♪」

 雲母は舌をぺろりと出して、てへっと笑う。

「どっ、どうやって、入って来たの?」

 賢祐は当然のように驚き顔。慌ててタオルで大事な部分を隠したのち質問してみた。

「空気中、およそ二〇パーセントを占める酸素に変身してここまで浮遊して来たあと、お湯の中に溶け込んでたのだ」

「そっ、そんな能力まで、使えるのか?」

 賢祐は目を大きく見開く。

「うんっ! 五人の中で、変身能力を使える設定なのは理科のこのアタシだけなんだぜ。えっへん!」

 雲母は自慢げに、嬉しそうに答える。

「そっ、そうなのか……っていうか、せめてタオルは巻いてっ!」

 賢祐は雲母がすっぽんぽんだったことに今頃気付き、とっさに目を覆う。

「ケンスケトン、アタシ、アレはもう来てるけど、まだまだお子様体型だから全然問題ないのに。ケンスケトン照れ屋さんだな。じゃあこうするよ。ケンスケトン、タオル巻いたから手をのけてみて」

「ほっ、本当?」

 言われるままに、賢祐は手をゆっくりと目から離した。

 本当にバスタオルが雲母の肩の辺りから膝の上くらいにかけてしっかり巻かれていた。

「どう? 似合う?」

「うっ、うん。それより、どうやって一瞬で?」

「さっきはアタシの体の一部をタオルの素材、ポリエステル繊維に変化させたのだ」

「そっ、そういうことか」

「酸素に変身したのもそうだけど、普通はこんなこと化学的に起り得ないでしょ。でもアタシ、物質の化学的性質とか質量保存の法則とかは完全無視して自由自在に変身出来るという設定になってるから。アタシ、当然のようにこんなのにも変身出来るのだ」

 そう告げると雲母はパッと姿を消して、一辺の長さ三センチくらいの立方体の形をした、銀白色の物体へと変化した。そのまま重力に逆らえず湯船の中にポチャンッと落下する。

 飛沫を上げた次の瞬間、

バチバチバチッ、ポーンッ! と破裂音を立て湯船から火花も上がった。

「うわぁーっ!」

 賢祐はさっき以上に大きく仰け反る。

 ――ゴツンッ!

「いってぇぇぇーっ!」

 後頭部を後ろ壁にぶつけてしまった。

「金属ナトリウムに変身してみたよ♪ ナトリウムは原子番号11の体心立方格子構造を持つアルカリ金属元素でK殻に2個、L殻に8個、M殻に1個の電子があり電子配置は【1s2、2s2、2p6、3s1】、イオン化傾向が大きく炎色反応は黄色を示し、水と激しく反応して水素を発生させる性質などを持っているのだ。化学の勉強になったでしょ?」

 雲母は再び元の人間の姿に戻った。

「……ってことは、湯船の中、今、水酸化ナトリウム水溶液になってるんじゃないのか?」

「ご名答。ちなみに化学反応式は2Na + 2H20 →2NaOH + H2だよ。浸かったらお肌ぬるぬるになるよ」

 雲母は無邪気な笑顔で解説する。

「ご名答じゃないよ、危なくて入れないだろ」

 賢祐はかなり困惑した表情を浮かべる。

「変身した量は少なかったし、そんなに濃度は高くないから安全性にはほとんど問題ないんだけどね。ケンスケトン気になってるようだから元の状態に戻しておくね」

 そう言うと、雲母はその水溶液中にドボォォォーンッと飛び込み瞬く間に姿を消した。

「賢祐ぇ、やけに騒がしいけど何かあったの?」

 母が浴室扉のすぐそばまで迫ってくる。

「なっ、なんでもないよ」

 賢祐は慌てて返事した。

「そう? ならええけど」

 母はちょっぴり不思議そうし、リビングへと戻っていく。

「ケンスケトン、中和しておいたぜ」

 雲母はまたさっきの姿へ。

「うわっ!」

 賢祐は少し驚く。

「ケンスケトン、さっきアタシ、どんな物質に変身したと思う?」

「分かるはずないだろ」

「化学式HClの塩酸だよ。NaOH + HCl → NaCl + H20の化学反応式で表されるのだ。中和反応における基礎中の基礎知識だよ。中学の頃に習ったでしょ? ちゃんと覚えておかなきゃダメだぞ!」

「……わっ、分かった」

「そんじゃあケンスケトン、アタシ、先にお部屋戻っておくね」

 雲母はそう告げてウィンクし、またも姿を消した。

気体の酸素に変身したのかな?

と賢祐は推測した。

それよりこのお湯、本当に、大丈夫なのかな?

 恐る恐る、湯船に手を突っ込んでみる。

 いつもの湯加減と変わりなかった。確かに元通りになっていた。

 賢祐は安心して洗面器にこのお湯を掬い、シャンプー塗れの頭を洗い流す。

 そのさい、賢祐の舌にお湯がわずかにかかった。

なんか、少ししょっぱい。

 賢祐は少し顔をしかめる。

化学反応によって生成された食塩が、ちょっぴり含まれていたのだ。

ともあれ賢祐はいつもように湯船に浸かってゆったりくつろぐ。

その最中、浴室扉がガラガラッと開かれ、

「賢祐、おじゃまするね♪」

 聡実がすっぽんぽんで入り込んで来た。

「姉ちゃん、入って来るなよ」

 賢祐は呆れ顔で聡実の顔面目掛けて湯船のお湯をバシャッと食らわす。

「あつぅ! もう。ぶっかけるなんてひどいな賢祐」

聡実はぷくぅとふくれた。

「早く出て行って」

ばっちり彼の目に映った聡実のそこそこ大きいおっぱいと恥部からはすぐに目を背けた。小六の夏頃からは実の姉ながら全裸姿や下着・水着姿にほんのちょっと性的意識が芽生えるようになってしまっていたのだ。

「今入ったばっかりやのにそれはないやろ。賢祐、ヌードモデルしてくれたお礼に、うちの全裸姿、じっくり観察していいよ。おっぱいも触っていいよ。でも、中に挿入れるのはもう少し大人になるまで待ってね」

 聡実は仁王立ちして、にっこり笑顔で言う。

「……」

 賢祐は呆れ顔でハンドタオルを手に取り、あの部分に巻くと湯船から出て床に視線を向けたまま聡実の横を通り過ぎ、浴室から出て行こうとするも、

「ほんまは触りたいくせに、見栄張らんでも」

 背後からあの部分に巻いたタオルを奪われるや否やガシッと抱き着かれ、両腕ごと動きを封じられてしまった。聡実のおっぱいのむにゅっとした感触が賢祐の背中にじかに伝わってくる。恥部のもさっとした毛の感触もお尻にじかに伝わって来た。

「見栄なんか張ってないぞ」

「賢祐の嘘つき。ここ硬くなって来てるやん」

さらに露にされたあの部分を右手でしっかり握り締められ、優しく揉み揉みされてしまった。

「それは姉ちゃんがじかに触ってるからだろ。早く離せって!」

 賢祐は焦り顔で体を捻って抵抗するも逃れられず。

「賢祐、勉強頑張りよ。賢祐はやれば出来るめっちゃ賢い子やねんから、努力次第でうちよりも絶対ええ成績取れるからね」

 聡実はウィンクをまじえて励ましの言葉を送ってあげた。

「余計なお世話だ。いい加減離せよっ!」

「ごめんね。もう行っちゃっていいよ」

 これにてようやく解放してもらえると、賢祐は駆け足で脱衣場へ移動し浴室扉をピシャッと閉める。

 やばいっ! 出るっ!

 そしてすばやく蹲った。


 ……よかったぁ~。出ずに落ち着いてくれた。さっきのはマジでやばかった。あともう一揉みされてたら絶対……姉ちゃんの奴め。

 寸での所で堪えてくれて賢祐はホッと一安心する。聡実に対する怒りも沸いた。アレの大きさが元に戻るとゆっくり立ち上がり、洗濯籠に入った聡実脱ぎたての下着類からは目を逸らしてバスタオルで体を拭いていく。

「賢祐、うち今、ルノワールの『岩に座る浴女』のポーズ取ってるの。覗いてもええよ」

「……」

 最中に聡実から誘惑されるも賢祐は無視。

もう一度、冷静に考えてみよう。さっき起きたことって、本当に、現実なのか? あり得ないだろ。人間の女の子が、ただの紙で出来たテキストから飛び出して来たなんて。

 そのあとパジャマを着込みながら、思い直してみる。

 

いるわけ、ないよな?

 二階に上がると、恐る恐る、自屋の扉を開けてみた。

「おかえりケンスケトン」

「賢祐君、湯加減どうだった?」

「賢祐さん、入浴時間から推測すると、烏の行水ではなかったようですね」

「賢祐お兄ちゃん、ちゃんと百まで数えた?」

「ケンスケくん、入浴するは英語でtake a bathだよ」

 いた。さっきの五人が――彼女達の姿が、しっかりと賢祐の目に映った。消していったはずの電気もついていた。州湖良の服は色鮮やかなロシアの民族衣装『サラファン』に変わっていた。

「……あのう、俺、今日は疲れてるみたいだから、もう寝るね」

賢祐は若干引き攣った表情で教材キャラ達に向かってこう伝えると電気を消してベッドに上がり、布団にしっかりと潜り込んだ。

「ありゃまっ、もう寝るのか? ケンスケトン」

「賢祐お兄ちゃんともっとお話したいのに。でもあたしももう眠いし、寝よう。おやすみ賢祐お兄ちゃん」 

「賢祐君、わたくし達が三次元化したせいで、急な環境変化に順応出来ず体調崩しちゃったのかしら?」

「そうかもしれませんよ、州湖良さん。今宵はゆっくり寝させてあげましょう」

「ケンスケくん、明日からは本格的に家庭学習指導していくよ。グッナイ!」

 こうして教材キャラ達は、それぞれのテキストに対応するテキストの中へと飛び込んでいった。

……あれは、幻覚に違いないっ!

 賢祐はそう思い込むことにした。

 

      ☆


真夜中、三時頃。

「ねーえ、賢祐お兄ちゃぁん」

 どこからか、とろけるような声が聞こえてくる。

「――っ!」

 賢祐はハッと目を覚まし、ガバッと勢いよく上体を起こした。

「ん?」

 瞬間、賢祐は妙な気分を味わう。

左腕に、何か違和感があったのだ。

「賢祐お兄ちゃん」

「この、声は?」

 賢祐は恐る恐るゆっくりと、顔を横に向けてみた。

「うわぉっ!」

 思わず声を漏らす。

 彼のすぐ隣、しかも同じベッド同じ布団の中に、根位比愛がいたのだ。

「おしっこしたいから、付いて来て」

 根位比愛は頬を赤らめて、賢祐の左袖を引っ張りながら照れくさそうに要求してくる。

「あっ、あの……」

 俺は今、夢を見ているんだ。きっとそうだ、それ以外あり得ない。

 賢祐は自分自身にこう言い聞かせる。

「賢祐お兄ちゃぁん、あたし、オーバーフローして漏れそう。もう我慢出来ないぃぃ」

 根位比愛は今にも泣き出しそうな表情になり、全身をプルプル震わせた。

これは夢だ、これは夢だ、夢に違いないっ!

 けれども賢祐は無視することに決めた。心の中でこう呟いて、再び布団に潜り込む。

ほどなく彼は二度目の眠りに付いた。


       ☆  ☆  ☆


朝、七時四〇分頃。

「うわあああああああーっ。うっ、嘘だろ……」

 萌えキャライラスト入り目覚まし時計のとろけるようなボイスアラームと共に目覚めた賢祐は、起き上がった直後に絶叫した。 

 布団とシーツが、おしっこまみれになっていたのだ。

「こっ、これって……」

 賢祐は布団とシーツを見下ろす。彼の着ているパジャマも、おしっこまみれだった。ちょうどズボンの前の部分が黄色いシミになっていた。もちろんにおいも併せて漂う。

どう、処理しよう。

 冷や汗を流し、深刻そうな表情で悩んでいたその時、

「賢祐、どうしたの? 朝からご近所迷惑な大声出して」

「うわっ、かっ、かっ、母さん!!」

 折悪しく、ガチャリと扉が開かれ母が部屋に入り込んで来た。

「ん? 何これ? 賢祐、ひょっとして、おねしょしたのぉ?」

 母は賢祐のズボン前をじーっと見つめながら、問い詰めてくる。

「ちっ、違う! 断じて違うんだ母さん。これは、真夜中に、姉ちゃんの描いたイラストの小学生の女の子が俺の布団に入り込んで来てそれで、その……」

 賢祐は必死に言い訳しようとする。

「賢祐、アニメの世界と現実の世界を混合するんじゃないの」

 母はくすっと笑った。

「ほっ、本当なんだって。その、あの教材の中から、飛び出して来て」

 賢祐は床の上に置かれた五冊のそれを指差しながら訴えてみた。

「はいはい、いいからはよ着替えなさい。伸英ちゃんもうすぐ来ちゃうわよ」

 けれどもやはり無駄だった。母はにやにや笑いながら命令してくる。

「信じてくれよぉー」

賢祐は悲しげな表情を浮かべながらパジャマを脱ぎ、下着も替えた。そして制服に着替え始める。

「賢祐、それ、お母さんに貸しなさい」

「いいって、俺があとで持っていくから」

「まあまあ賢祐、遠慮せずに」

「あっ!」

 あっという間に、パジャマ一式と下着を奪われてしまった。

「早めに洗濯しなきゃ、汚れ落ちにくくなるやろ」

 母はそう告げて部屋から出て、意気揚々と階段を下りていく。

 今、時刻は七時四七分。

まだ大丈夫だな。

 賢祐がそう思った直後、

ピンポーン♪ 

玄関チャイムが鳴ってしまった。

「おはようございます、賢祐くん、おば様、聡実ちゃん。今日は昨晩お祖母ちゃんちから届いたお野菜果物と水羊羹の詰め合わせをお裾分けするために、少し早めに来ちゃいました」

いつもより十分ほど早く、伸英が迎えに来たのだ。しかも伸英が玄関扉を開けたのと、母が階段を降り切って玄関前に差し掛かったのとが同じタイミングだった。

「おはよう伸英ちゃん、今朝賢祐ね。おねしょしちゃったのよ。これを見て」

 母は嬉しそうに、伸英の目の前に黄色く変色した賢祐のパジャマをかざした。

「あらまぁ」

 伸英は段ボール箱を両手に抱えたままやや前かがみになり、興味深そうにそれをじっと見つめる。

「どわああああああああっ、えっ、冤罪だぁーっ」

 賢祐は慌てて階段を駆け下りながら、弁明する。

「賢祐くん、恥ずかしがらなくても。たまにはこういうこともあるよ」

 伸英は柔和な笑顔でフォローしてあげた。

「あの、伸英ちゃぁん、俺、やってないから」

 知られてしまった賢祐は、かなり沈んだ気分になる。

「賢祐、はよ顔洗って朝ごはん食べて、学校行く準備しなさい」

 母はにこにこ笑いながら命令する。

「わっ、分かったよ」

 賢祐はしょんぼりしながら洗面所へ向かっていった。

父は今日もいつも通り七時半前には既に家を出ていた。

 賢祐が顔を洗っている最中、

「おはよう賢祐、おねしょしたんやってね。まあ気にせんとき。思春期っていうのは男の子も女の子も気を付けてても下着汚しちゃうことはよくあるからね」

 聡実は背後からにやにや笑いかけてくる。

「俺はおねしょしてないから。姉ちゃんだけは信じて欲しい」

 賢祐は悲しげな表情で訴える。

「うちは、信じてあげるよ」

 聡実は彼の心境を察したのか、爽やか笑顔でこう言ってくれた。


こんなちょっとしたハプニングがあったためか、普段より三分ほど遅れて伸英と賢祐は家を出た。制服は今週いっぱいまで移行期間だが、伸英も今週初めより冬用セーラー服から完全夏用半袖ポロシャツ&夏用セーラースカートに衣替えしていた。伝統校らしく制服は男女とも古めかしいのだ。

聡実は一コマ目から講義がある日でも賢祐&伸英よりも遅く家を出ている。大学まで自転車で十分少々なのだ。

もし昨日の出来事が本当のことであれば、俺はおねしょをしていない。もし夢の中の出来事であったならば、俺はおねしょをしたことになってしまう。どっちがいいんだ? この場合。

 賢祐は通学路を早足で歩きながら葛藤する。

「あの、賢祐くん。元気出して。おねしょのことはもう忘れちゃおう」

 伸英に優しく励まされ、

「うん、そうだね」

 賢祐は穴があったら入りたい気分になった。

「そういえば賢祐くん、昨日、聡実ちゃんが手作りのかわいい女の子のキャライラスト付き家庭学習教材プレゼントしてくれたんでしょ。どんな感じだった?」

「まあ、けっこう、役立ちそうな、教材だったよ。そこらの市販参考書より」

「それはよかったね。さすが阪大生の聡実ちゃんが作っただけはあるね」

「……うん」

 教材に描かれた女の子が飛び出して来たこと、伸英ちゃんに言っても信じてくれないだろうな。大丈夫? 最近疲れてない? って心配されそう。実際俺、高校受かってからますます夜更かしすることが増えて平均睡眠時間減ってるし。

 そんな理由から、賢祐はこの件は伝えないことにしておいた。

同じ頃、賢祐のお部屋ではモニカ、根位比愛、州湖良、葉月が三次元化して、部屋の中央付近に集まっていた。雲母だけはまだ教材内で睡眠中だ。

「ネイピアちゃん、bedwettingしちゃったんだね」

「ごめんなさい。暗くて、おばけが怖くて行けなかったの。賢祐お兄ちゃんが帰って来たら謝らなきゃ」

 しゅーんとなっていた根位比愛を、モニカは優しく慰めてあげる。

「根位比愛ちゃん、今夜からは、おトイレ行く時わたくしが付いていってあげるからね」

「ありがとう、州湖良お姉ちゃん」

 根位比愛は州湖良の胸元にぎゅっと抱きついた。甘えん坊さんなようだ。

「寝小便を垂らしてわぶる根位比愛さん、いとらうたしです」

 葉月は我が子を見守るようにその様子を微笑ましく眺めていた。

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