ep.2 無法者たちは月の下で踊る

#1


 野毛のげの飲食街。銃弾が飛び交う中を武装集団が駆け抜けていく。

 機械化義肢の踵についたタイヤで疾走する入れ墨男、“首狩り”ウーゴと、後方へ銃撃を繰り返しながら走る五人の男たち。

 赤い腕章をつけた、野毛特別警察部隊、通称“特警”の男たちが彼らを追っていた。

 特警の本部では、街のあちこちに仕掛けられたカメラが追撃戦の様子を捉えている。本部から二つの別働隊へ指示が飛んだ。

 大通りに出たウーゴたちを別働隊が正面から強襲する。追っ手と別働隊の挟撃を躱そうと、ウーゴたちが進路を変えた。

 彼らの行く手には大岡川へかかる都橋があり、特警の別働隊がもう一つ、橋の反対側へ近付いている。

 ウーゴたちが橋を渡り始めると、特警たちが橋の両側に殺到した。

 特警の一人が「よし、追い詰め……」と声を漏らしかけたとき、ウーゴたちが次々と橋から飛び降りていく。

 特警の面々が怒号を上げながら河面を見下ろすと、ウーゴたちは、橋の下に待機していた屋形船へ飛び乗っていた。

 動き出した屋形船の船尾から重機関銃が火を吹き、都橋を舐めるように掃射。特警たちが遮蔽物の影に飛び込む。

「畜生! ジョーカーはまだか!」

 特警の一人が叫んだとき、彼の肩に背後から手が置かれた。

「ひょっとして、俺を呼んだか?」

 振り返った男の背後に、場違いな洒落たスーツを纏ったイタリア男の姿があった。特警が「ギャビーの兄貴!」と声を上げる。

「あの船だな」

 ギャビーが、男の肩にライフルの銃身を乗せた。

「ちょっと肩を借りるぜ。動くなよ」

 屋形船は、スピードが出るよう改造されているらしく、みるみる内に遠ざかっていく。船尾からの掃射はまだ続いていて、ギャビーの周囲を銃弾が乱れ飛んでいた。

 動く標的を狙撃するには最悪の状況。だが、ギャビーは、鼻歌交じりに引き金を引いた。

 一発の銃声が、重機関銃の轟音を沈黙させる。

 そして、掃射が止んだ瞬間、川沿いの道路から、船に向かって飛び出した人影があった。



#2


 白い中国服を着た青年、フーは、十メートル余りの距離を一息に飛び越えた。

 屋形船の船上には、ウーゴと一緒に逃げてきた五人の姿がある。

 重機関銃の射手が狙撃に倒れ、ぎょっとした顔になっていた五人のすぐ隣に、傅が着地した。

 振り向いた五人と傅の目が合う。傅は、笑みの貼り付いた顔で「やあ、諸君」と、声をかけた。

「いい月夜だね」

 虚を突かれた男たちの呼吸が止まる。そして、彼らが動き出すよりも早く、傅が男たちの真ん中へ踏み込んでいた。

 互いの体が触れ合うほどの超至近距離。驚いた男たちの判断に一瞬の遅れが生じたとき、傅が既に動いていた。

 男たちが一斉に白目を剥き、ばたばたと倒れていく。一人残らず倒れ伏した五人の直中には、傅が、右拳を軽く突き出した姿勢で、ぴたりと静止していた。

 最小の動きで最大の威力を生む、中国武術の技巧、寸勁。

 一瞬で五発の寸勁を打ち、五人の男を一方的に制圧した傅が、「さて」と呟きながら屋形船の座敷へと降りていく。

 物音を聞いて、中にいた男たちが振り向いた。

「やあ、こんばんは」

 傅が、呑気な調子で挨拶する。虚を突かれた男たちの反応が一瞬遅れたとき、傅が踏み込んでいた。

 一人目の男が傅の拳を腹に受け、一撃で昏倒する。

 二人目の男が、懐から拳銃を抜きかけたまま、傅の肘を喰らい昏倒。

 三人目がようやく拳銃を抜いた途端、傅の蹴りが拳銃を弾き飛ばしている。

 男の懐へ踏み込んだ傅が、不意に身を引いた。

 傅の眼前。男の体を背後から両断しながら走る黒い刃。

 だが、黒刃が振り切られたとき、傅はもうそこには居らず、大きく間合いを広げて静かに腰を落とし、ぴたりと構えていた。

 鮮血を吹き出したまま立っていた下半身が倒れ、血煙の向こうから、全身に入れ墨を入れた男の姿が浮かび上がる。

 傅が丸眼鏡の奥で目を眇めた。

「知ってる顔だね。南米から来ていたギャングの掃除屋、首狩りウーゴ。さっき眠ってもらった連中の中には韓国系やタイの奴らもいたね。つまり、敗残者たちが手を組んで敗者復活戦というわけだ」

 ウーゴが、曲芸めいた動きで二本のマチェーテを踊らせ、ぴたりと構える。

 傅が、左手の掌をゆっくりと返し、挑発するように手招きする。

 屋形船のエンジン音だけが響く中、船内の空気が奇妙な静けさに包まれた。

 見るからに好戦的な外見とは裏腹に、ウーゴの呼吸は些かの乱れもなく調律されている。傅の呼吸にも全く乱れが無かった。互いの呼気が実際に聞こえてくるほど、二人が集中力を高めていく。

 そのとき、傅の耳が、微かな物音を拾った。音の方向や位置を瞬時に感じ取った傅が大きく飛び退いた直後、畳を突き破って巨大な影が現れた。

 長大な両腕を持つ、四本脚のアームスーツ。スーツと呼ぶのが適切かどうか首を捻りたくなるような、重機を思わせる鋼鉄の巨躯。

 アームスーツが右腕を振りかざす。マニピュレーターの中央に仕込まれた重機関銃が火を吹いたとき、傅の姿は既に船内には無かった。

 傅が船上に出ると、屋形船の天井を紙細工のように引き裂きながら、アームスーツも船上に飛び出してくる。半壊して軋みを上げる船上から、傅が跳躍した。

 接近していた宮川橋へ傅が飛び移る。傅へ右手の銃口を向けようとしたアームスーツは、傅と擦れ違うように橋から飛来する物を捉えた。

 対戦車ロケット弾。アームスーツが船上から跳躍したとき、ロケット弾が屋形船に弾着し、爆発を起こした。

 傅が、無反動砲を構えたギャビーの隣に着地する。

「僕を狙ったのかと思ったよ」

 飄々と言う傅に、ギャビーが無反動砲ごと肩を竦めた。

「こんなオモチャで? 旦那は相変わらずジョークがきついね」

 河面で炎上する屋形船の残骸。舞い上がった煙の中から、水上を滑るようにしてアームスーツが現れる。アームスーツの背中にはウーゴが掴まっていた。

 アームスーツが、機体下部から推進剤を噴射しながら岸に近づき、推進剤の大量噴射で水上から飛び上がる。

「まずいな、街に入るぞ」

 傅が走り出す。ギャビーも無反動砲を投げ捨て、大型バイクに跨がって急発進させた。

 バイクと同じ速度で平然と走る傅に、ギャビーが世間話でもしているような口調で言う。

「大丈夫。あっちには天使と女神がもう行ってる」

 傅が飄然とした口調で問いかけた。

「どっちが天使でどっちが女神なんだい?」

「そいつは長い話になる」

 惚けた調子で返してから、ギャビーが言った。

「対岸のビルに対物ライフルを仕込んである。俺はそこから狙う」

「じゃ、僕は上から行こう」

 橋を渡り終えたギャビーのバイクがハングオンして脇道へ。傅が跳躍し、電柱とビルの腹を交互に蹴りながらビルの屋上へ飛び上がった。



#3


 アームスーツは、昆虫を思わせる動きで四本脚を繰りながら、宮川町の街中を疾走していた。巨体からは想像もつかない敏捷な動きで、通りを走り抜けていく。

 そのとき、アームスーツ頭部のメインカメラが、凄まじい速度で走り込んでくる者の姿を捉えた。

 プラチナ・ブロンドのロシア人女性ユーリャ。前髪が風で流れて隠れていた右目が露わになり、アームスーツの姿を捉えている。

 瞳孔が複雑に収縮、回転し、頭部に仕込まれた通信装置を介して視覚情報をロシアン・マフィアの本部へ送信していた。

 ほぼノータイムで彼女の機械と混ざった脳へ返ってくる本部からの情報。敵アームスーツの種類、性能、武装。続いて視覚情報からの解析結果。違法改造による特殊なチューニングで機体の速度を向上。敵の戦力分析を修正。アームスーツがユーリャに右腕の内蔵火器を向けたときには、全ての戦闘プランを構築完了。

 ユーリャの右目が、相手の挙動を瞬き一つせずに監視し、あらゆる前兆から動きを先読みしていた。

 アームスーツの右腕から、重機関銃の弾丸が掃射される。しかし、ユーリャは、あらかじめ撃つタイミングと方向を知っていたかのように回避していた。

 機械仕掛けのスピードで掃射をかいくぐり、瞬く間にアームスーツの懐へ飛び込んだユーリャが、右フックをアームスーツのボディに叩き込む。

 凄まじい衝撃。横殴り。アームスーツの巨体が、車に撥ねられた人間のように転倒し、雑居ビルの玄関口に突っ込んだ。

 古い雑居ビルの建物全体が震え、壁に無数の亀裂が走る。

 ユーリャの右目は、アームスーツの背中から跳躍したウーゴの姿を捉えていた。雑居ビルの窓を壊しながら、ウーゴが中へ飛び込む。

 追おうとしたユーリャが途中で動きを止めた。アームスーツが、四本脚を踏ん張って、素早く態勢を立て直している。

 アームスーツと向き合ったユーリャは、頭の中の通信装置を介して、仲間の電話に呼びかけた。

『ウーゴがそちらに行きます。私はアームスーツの相手をしますので、そちらは頼みます』



#4


 ビルの階段を駆け上がり、扉を蹴破って屋上に飛び出したウーゴは、屋上に待ち受けていた人物を視界に収め、足を止めた。

 日本人の女性。ビルの屋上を吹き抜ける風が、後ろで束ねた彼女の長い黒髪を掻き乱している。

「承知した」と言って電話を切り、懐に放り込んだ彼女は、ウーゴに鋭い視線を向け、腰にある日本刀の柄へ手を置いた。

「はしゃぎ過ぎたな、首狩りウーゴ」

 ウーゴの入れ墨まみれな顔に、高揚した表情が浮かび上がった。

「サザンカ・キリシマ……ジョーカーの一人か……!」

 ウーゴが、背中の鞘から二本の黒いマチェーテを引き抜いた。曲芸めいた動きで踊らせ、ぴたりと構える。

 山茶花さざんかも、刀に手をかけたまま、ウーゴを静かに見据えていた。

 彼女の耳には、地上で響く重機関銃の掃射音が届いている。


 アームスーツの機銃掃射が始まったとき、ユーリャは既にアームスーツの視界から消えていた。

 スライディングしながらアームスーツの右腕の真下へ滑り込んだユーリャが、跳ね起きながら頭上に蹴りを繰り出す。

 アームスーツの右腕が蹴りを喰らってひしゃげ、発砲中だった重機関銃が暴発した。

 右腕が爆発。しかし、アームスーツのメインカメラは、ユーリャの動きだけを追っていた。飛び退こうとしたユーリャ目がけて、アームスーツが長大な左腕を振りかぶる。

 そのとき、アームスーツのメインカメラが吹き飛んだ。視界を失ったアームスーツの左手が見当違いの空間を薙ぐ。生じた隙を逃さず、ユーリャが四本脚の一つへ、突き刺すような蹴りを放った。

 関節を真横から蹴り砕かれたアームスーツが、バランスを崩して大きくよろめく。

 ユーリャは、アームスーツのカメラを破壊した弾着から軌道を推測し、ちらりと出所に目を向けた。

 一瞬で、通りを一つ隔てたビルの屋上がフォーカスされる。

 対物ライフルを構えたギャビー。建物の狭間を縫うように射線を通す、曲芸めいた狙撃。

 そして、ユーリャの目が頭上に向けられた。傅が後方から飛来し、アームスーツの頭でワンステップ、くるりと体の向きを変え、アームスーツの胸に掌打を当てる。

 ユーリャの眼前で、アームスーツが唐突に動きを止めた。

 とん、とアームスーツの装甲を蹴って、後方宙返りしながらユーリャの隣へ着地した傅が、飄然とした口調で言う。

「悪いけど装甲を引っぺがしてくれないかな。中の人間を引き摺り出さなくちゃいけないから」

「今のは、何をしたのですか?」

 ユーリャが問いかけ、傅が、世間話をする口調で答えた。

「気を通してね。中の人間に、ちょっと眠ってもらったのさ」

「浸透勁というものですか?」

 傅が笑みを浮かべたまま問いを返す。

「そういう言葉をどこで覚えてくるんだい?」

 ユーリャが柔らかな笑みを返した。

「仲間と上手く連携するために、皆さんの技術を勉強しているんです。今のデータを後で解析するのが楽しみです」

「なるほど」と呟きながら、傅がユーリャの右目を覗き込む。

「気功を科学的に解析すると、どういう結果が出るのか、僕も大いに興味があるね。さて」

 傅がビルの屋上を見上げた。

「上は終わったかな? 出来ればウーゴも生け捕りにしたいんだけどね」

 ユーリャも階上に目を向ける。

「ウーゴが山茶花を怒らせなければ良いのですが」



#5


「一つ聞く」

 刀の柄に手をかけたまま、山茶花が問いかけた。

 ウーゴも、二本のマチェーテを構えたまま声を返す。

「人生最後の問いだ。答えてやるぜ」

「抗争に敗北した者たちで集まり、何を企んでいた? 新たな勢力として円卓に食い込もうとしたのか?」

「食い込む? 違うな。食い散らかすのさ。今の温い均衡をぶっ壊すためにな」

 山茶花の視線が鋭さを増した。

「何故、均衡を崩す? この均衡へ辿り着くまでにどれだけの血が流れたと思ってるんだ?」

 ウーゴの口許に、歪んだ笑みが浮かび上がる。

「お前は聖人か何かか? 馬鹿言うんじゃねえ。お前の方が俺の何倍も殺してるじゃねえか! 殺し殺され、最高に笑えるパーティーだっただろうが!」

 ウーゴが、高揚した声音で叫んだ。

「だからもう一度始めるんだよ! 良く出来た冗談みてえなパーティーをな!」

 ウーゴが凶悪な笑みを浮かべ、挑発するように舌を出す。

 舌にも入れ墨。交差したマチェーテの上に髑髏の生首。

 そのとき、目を伏せた山茶花から、低い声が漏れた。

「……もう黙れ」

「あ? お前から聞いて……」

「黙れ言うとるんじゃこの腐れ外道がッ!!!」

 ドスの効いた物凄い怒鳴り声。周囲の空気がビリビリと震えるような凄まじい気勢。

 ウーゴの全身から、不意に汗が噴き出した。

「ハッ!」

 それでも、ウーゴが笑い捨てる。

「それ見ろ! 今さら聖人ぶったところで、一皮剥けば結局てめえは俺と同類よ!」

 ウーゴの踵で車輪が回転を増した。排気ガスが吹き出し、エキゾーストノートが響き渡る。舌を出して笑ったまま、ウーゴが山茶花に突進した。

 機械仕掛けの急加速。山茶花に肉薄するまでの一秒にも満たない時間の中で、ウーゴは意味の分からないものを見た。

 山茶花の左手が、首から提げられたものを握っている。そして、怒りに震えていた山茶花の表情が、見る間に静かなものへと変わっていく。

 そして、ウーゴは知覚出来なかった。紅蓮の炎を思わせる山茶花の気勢が、一瞬で、細く、鋭く収束したことを。

 次の瞬間、ウーゴの視界から山茶花の姿が消えた。

 チン、という納刀の音が背後で鳴ったことを、ウーゴはもう認識出来ていなかった。

 疾走したまま白目を剥いたウーゴが転倒し、地面を転げ回りながら屋上の鉄柵に激突して、ようやく動きを止めた。

 納刀した姿勢から身を起こした山茶花が振り返る。

 ウーゴは、自分の股から顔を出した無様な姿勢で、痙攣しながら完全に意識を失っていた。

「終わったのかい?」

 山茶花が目を向けると、屋上の出入り口から傅が姿を現していた。

 山茶花が「ああ」と返す。ウーゴに歩み寄り、屈み込んだ傅が「おっ」と声を漏らした。

「斬らずに終われたんだね」

「峰打ちというやつだ」

 答えてから、山茶花は深呼吸した。大きく息を吸い込み、細く、静かに吐き、気を静めていく。

 彼女の耳に、今度はユーリャの声が届いた。

「ミネウチのデータ、取り損ねてしまいました」

 山茶花が屋上の出入り口に目を向けると、ちょうどユーリャとギャビーも上がってきたところだった。ギャビーが、唇の端を上げて笑みを浮かべる。

「特警の連中が追いついてきてる。後はあいつらに任せよう」

 頷いた山茶花が、空を仰いだ。ユーリャが声をかける。

「山茶花? どうかしましたか?」

「いや……月が綺麗だな、と」

 傅も、ギャビーも、ユーリャも夜空を見上げる。

 月は、鮮やかな輪郭で、晩秋の夜空を丸く切り取っていた。



#6


 翌日の午後。山茶花とユーリャは、ガレージと呼ばれる場所へ来ていた。

 封鎖区域で、機械化義肢の接合手術やメンテナンスを一手に引き受けている技師兼医師、藍染倫太郎あいぞめりんたろうの営む施設。

 工場でもあり、医院でもあるこの施設を、人々はいつしか“ガレージ”と呼ぶようになっていた。

「アームスーツをぶん殴っただと?」

 ガレージの一角。パイプ椅子に腰掛けた老人が、機械の仕込まれた眼鏡の奥でぎょろりとした目を見開き、呆れたような声を上げる。

 ツナギの上に白衣という奇抜な格好の老人、藍染倫太郎。彼の前に座ったユーリャが、柔らかな笑みを浮かべる。

「はい。蹴りも入れました」

「それで念のため調整ね。まあ、お前さんの機械化義肢はもともとそれくらい想定して作られとるから大丈夫だとは思うが、まあ一応診とこうか」

「はい、お手間をかけます」

「なに、道具は使い倒してなんぼだ。お前さんのやり方は間違っちゃいねえよ」

 やり取りする二人の傍らで、山茶花が、きょろきょろと辺りを見回している。

 気付いた倫太郎が声をかけた。

「ニカなら裏にいるぞ。バイクをいじっとるはずだ」


 ガレージの裏庭。物凄く太いオフロード用のタイヤが付いたバイクの前に、一人の人物が屈み込んでいる。

 ツナギの上半身を脱いで袖を腰に結んだ、ショートカットの小柄な女性。

 彼女は、近付いてきた山茶花に気付くと、ゴーグルを跳ね上げて笑顔を見せた。

「山茶花!」

 呼びかけられた山茶花が、普段よりリラックスした顔になる。

「ニカ」

 藍染ニカ。倫太郎の孫娘であり、助手でもある女性。

 小柄で童顔のため、山茶花より年下に見えるが、二人は同い年である。

「よし、休憩しよう。いやー今日凄い忙しかったんだよ」

 工具を置き、手袋を脱ぎながら、ニカが山茶花に明るく喋りかけた。

「昨日の夜の騒ぎで義肢壊れちゃった特警の人たちがいっぱい来てさ。流石に疲れたよー」

 疲れたと元気に言いながら、ニカが快活な笑みを浮かべる。

「コーヒー淹れよう。山茶花も飲むでしょ?」

 山茶花が「ああ」と頷いた。


 木箱やドラム缶を椅子代わりにして、めいめいに腰を下ろした山茶花とニカは、マグカップに淹れたコーヒーを飲みながら言葉を交わしていた。

 先ほどまでリラックスしていた山茶花の表情が、翳りを帯びたものに変わっている。

「どうしてあいつらは、またこの街を血みどろの抗争に引き戻そうなんて考えるんだろう」

 山茶花が目を伏せる。

「抗争のせいで国からも切り離されたこの封鎖区域が、やっと手に入れた平和なのに。それに、ウーゴの言ったこと……」

「山茶花が自分の同類だって言ってたこと?」

 ニカが問いかける。山茶花が「ああ」と頷くと、ニカが溜め息をついた。

「んなわけないじゃん。ウーゴって人はこの街を滅茶苦茶にしたくて、山茶花はこの街を体張って守ってんのに」

 山茶花が顔を上げる。

「ウーゴが言いたかったのは、私も山ほど人を殺しているのに、何を今さら綺麗事を言ってるんだってことで……」

「殺した理由が違うじゃん。ウーゴって人、言ってることが大分雑だよね」

 呆れたような顔になるニカ。山茶花のことをさらりと全肯定。

「ニカ……」

 呟いた山茶花と目を合わせて、ニカがにっと笑う。

「大丈夫だよ。山茶花一人でも凄いのに、ユーリャとか、傅さんとか、ギャビーとか、同じくらい強い人が四人もいるんだもん。特警の人たちだっているし」

 ニカがドラム缶から降りて、山茶花の許に歩み寄る。

「もし体がどうかなったって、あたしとじいちゃんで直しちゃうし。だから、大丈夫!」

 ニカの手が、山茶花の手に重なる。山茶花の視界が、ニカの大きな笑顔で一杯になった。

 どこか惚けたような顔でニカを見返していた山茶花が、ふっと安心したような笑みを零す。

「お前たちが直したら機械の体になるんだろう? 私はユーリャのように、機械化した体を上手く扱える自信が無い」

「山茶花なら大丈夫だよ」

 根拠があるとは思えないニカの言葉。だが、山茶花の顔には、とても穏やかな表情が浮かび上がっていた。


 右手を倫太郎に診てもらいながら、ユーリャの耳は、ガレージの裏庭にいる山茶花とニカの会話を拾っていた。

 彼女の聴覚。機械仕掛けの鋭敏さ。

 ユーリャが微笑ましげな顔になると、気付いた倫太郎が「ん? どうした?」と問いかけた。

「あの二人、本当に仲が良いですね」

 ユーリャが二人の会話を聞いていたと合点しながら、倫太郎が平然とした顔で答える。

「あいつらは長い付き合いだからな」

「ニカさんといるときの山茶花は、いつも私たちといるときですら見せない、とても穏やかで無防備な表情になるんです」

 倫太郎が、口許に笑みを浮かべた。

「まあ、色々あったよ。色々あって、それで今がある」

 ユーリャも柔らかな笑みを返す。そのとき、彼女の聴覚は、裏庭にいた二人が近付いてきている物音を拾った。

 ユーリャの顔に、少し悪戯めいた表情が浮かぶ。彼女は、二人の耳に届くようタイミングを見計らって、倫太郎に言った。

「いいことを考えました」

「ん? 何だ?」

「山茶花を機械化して、男性に変えるんです。そして、ニカさんと結婚すれば良いのではないでしょうか」

 倫太郎が「なるほど」と声を漏らす。

「それはいい考えかもしれんな」

 冗談で言っているのかどうか判断のつき難い声音だった。

「何がいい考えだ」

 部屋に入ってきた山茶花が、呆れた顔で言う。

 一緒に入ってきたニカが、ユーリャに言った。

「いやあ、凄いこと考えるね。するとあたしはヤクザの嫁か。姐さんとか言われちゃうのかな?」

「お前まで何を言ってるんだ」

 山茶花が溜め息をつくと、ニカが思わず吹き出した。

 釣られるように、ユーリャも口許へ手を当てて笑う。

 倫太郎まで笑い出したとき、呆れ顔だった山茶花の表情が穏やかなものへと変わり、口許に安心したような笑みが零れた。

 山茶花の笑顔を見たニカの表情が、嬉しそうなものへと変わる。

 二人の表情が変わるところを、ユーリャは、眩しいものを見るような顔で見守っていた。



#0


 封鎖区域は壁に囲まれている。壁と外部の居住地との間には、抗争の爪痕である無人の廃墟が数百メートルに渡り続いていた。

 外部との交易に使われる玄関口は地上に一つ、河川上に二つ存在し、ゲートの外側を政府に雇用された武装警備員が、内側を特警の人員が監視していた。

 深夜。みなとみらい地区の側にある地上の第一ゲート。

 傍らにある詰め所で双眼鏡を覗き込んでいた警備員が「ん? 何だ?」と声を漏らした。他の警備員が問いかける。

「どうした?」

「いや、遠くで何か……」

 言い終える前に、何かが凄まじい速度でゲートへ接近してくる。

「おいっ!」と、双眼鏡から目を離して警備員が叫んだ。

 他の者たちも、既に接近する者を視界へ捉えている。

 人間にしては、余りにも動きが速かった。

「機械化してんのか?」

 警備員たちが小銃を手に取る。相手に狙いを定め、一人が大声を上げた。

「止まれ! それ以上近付いたら撃つ!」

 相手は止まらない。引き金に指をかけた警備員たちは、はっきりと見えてきた相手の姿に、揃って困惑の表情を浮かべた。

「子供……?」

 十代の前半くらいに見える少女。ぼろぼろの衣服を身につけている。

 警備員たちは、一瞬、自分たちが何を見ているのか、よく分からなくなった。

 そのとき、少女がさらに速度を上げ、警備員たちの眼前で跳躍、ビル三階分ほどの高さがある壁を一息で飛び越えた。

 唖然とした顔で見上げていた警備員たちが、さらなる物音を聞いて、ぎょっとした顔になる。

 砂塵と共に、車輌の群れが接近していた。装甲に覆われ、重火器を装備した大型の軍事車輌だった。

「れ、連絡! 連絡だ!」

 警備員の一人が詰め所に飛び込み、無線のスイッチを入れる。

「こちら第一ゲート! 壁の外から侵入者! また、軍事車輌が……」

 警備員の声が重火器の掃射音に掻き消された。

 車輌から伸びた火線が小屋を蜂の巣にし、警備員たちの体を引き裂く。

 車輌から飛び降りた軍服の男たちがゲートに駆け寄った。やがてゲートがゆっくりと開き始めると、車輌の群れが前進を始めた。

 全車輌に響く通信。冷徹な声音が、災厄に満ちた長い夜の始まりを告げる。

『これより封鎖区域に侵入する。“令嬢”の捕獲を最優先。作戦行動を阻害する要素は速やかに排除せよ』

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