ep.3 封鎖区域の長い夜

#1


 特警の本部は、蜂の巣を突いたような喧噪に包まれていた。

「自衛隊の車輌じゃねえな。どこのもんだ?」

 モニターに映る軍事車輌を日本人が睨む向こうでは、「封鎖線を敷け! 好き勝手やらすんじゃねえ!」という中国人の怒号が飛んでいる。

 別のモニターを注視していたロシア人が言った。

「監視が言ってた侵入者ってのは、こいつか?」

 ぼろぼろの衣服を着た子供が、人間離れした俊足で飲食街に駆け込む。日本人が「おい!」と叫んだ。

「あの車輌はこの子供を追ってんだろ!? このままじゃ飲食街が……」

「落ち着けよ。あんなデカブツが飲食街の細道に入れるわけねえだろが」

 会話にイタリア人が割り込む。

「あの子供を追ってんなら、車輌から追っ手の人間が出てくるぜ。あのデカブツは放っといて、飲食街に入ってくる奴らを待ち伏せした方がいいんじゃねえのか?」

 日本人、中国人、ロシア人の三人が、イタリア人の方を振り向き、「それだ!」と叫んだ。

 四人が部下に指示を飛ばし始める。日本人が叫んだ。

「ジョーカーにも連絡だ!」



#2


 大通り沿いの建物に身を隠した特警の男が、軍事車輌にメガホンでがなり立てる。

「止まれ! どこのもんだてめえら!」

 返事の代わりに重機関銃の掃射が始まった。火線が通り沿いの建物を舐め、壁を削り取っていく。

 特警の者たちが物陰へ釘付けになったとき、軍事車輌が前進を止めた。

 三台の車輌が後部を展開し、アーマーを着込んだ男たちが現れる。彼らは小銃を手に、整然とした動きで移動し始めた。

 特警の一人が携帯電話に喚く。

「出たぞ! 戦闘員だ!」


 車輌から現れた男たちは、三個分隊に分かれ、異なる通りから飲食街に侵入した。

 飲食街に展開した特警が一斉に発砲する。しかし、敵分隊は、精度の高い銃撃と、ある程度の被弾なら無効化してしまうアーマーによって、数で勝る特警を圧倒し、逆に追い詰めていく。

 特警が押し切られかけたとき、不意に、敵の一人が仰け反った。

 眉間に一撃。弾の出所へ目を向けた敵が、また一人、額を撃ち抜かれて転倒する。

 次々と飛来し、悉く額を撃ち抜いていく悪魔のような弾丸。アーマーがまるで役に立たず、瞬く間に分隊が残り五人となる。

 彼らが目を向けた先に、二丁の拳銃を掲げ、鼻歌交じりに鉄火場を闊歩してくるギャビーの姿があった。

 二丁拳銃が踊る。一瞬で照準し、全ての銃撃を必中させるギャビーの早撃ち。

 敵が、小銃を構えることすら出来ず、次々と額を撃ち抜かれていく。

 最後の一人が倒れると、特警の者たちから歓声が上がった。

 ギャビーが、懐から鳴る着信音に気付き、携帯電話を取り出して耳に当てる。

「よう、傅の旦那」

『大体の状況が分かったよ。敵は軍事車両が四台。十名単位の分隊が三つ。たった今、二つになったようだけど』

「まるで軍事行動だな。奴らの狙いは?」

『彼らに先駆けて、壁を越えた侵入者がいる。見かけは子供。十代前半の女の子らしい』

「そのリトル・レディは何者なんだ?」

『本人か、追ってる連中に聞くべきだね』

「ごもっとも。俺は分隊を叩いて回るか?」

『いや、分隊は僕と山茶花さざんかで受け持つ。君とユーリャは軍事車輌の方を頼めるかい?』

 通話しながらギャビーが走り出した。

「分かった。リトル・レディの方は?」

『分隊が片付いたら僕か山茶花で捕まえる。それまでは特警に任せるよ』

「じゃ、今夜はそんなところで」

 ギャビーが大通り沿いの雑居ビルに駆け込み、階段を駆け上がりながらユーリャに電話をかける。

「ギャビーだ、頼みがある。残念ながらデートの誘いじゃないんだが」

 ギャビーの口許に不敵な笑みが浮かび上がった。

「軍事車輌の武装を潰すのさ。そうすりゃ、あれはただの走る棺桶だ」



#3


 飲食街のあちこちで、特警と敵分隊の銃撃戦が始まっていた。

 一般の住人たちは、慣れた動きで建物の中や遮蔽物の影に退避している。中には拳銃やショットガンで特警に加勢する者までいた。

 さらに、飲食店の窓から、客で来ていた封鎖区域のマフィアたちも敵分隊に発砲する。思わぬ抵抗に前進を阻まれた分隊の一つに向かって、建物の上から飛来する人影があった。

「傅の旦那だ!」という誰かの声を合図に、特警や加勢していた連中が銃撃を止める。

 白い中国服に身を包んだ傅が、敵の直中に降り立った。

 虚を突かれた敵分隊の動きが止まる。彼らが我に返るより早く、傅が舞うような動きで次々と掌打を繰り出していた。

 フーの周囲にいた五人が、アーマーを着ているにも拘わらず、ばたばたと倒れていく。

 防具の上からでも気を通し、体内の水分に衝撃を伝える中国武術の技巧、浸透勁。

 傅の浸透勁は、アームスーツの装甲越しに操縦者の意識を飛ばしたことすらある。敵のアーマーは、傅に対しては物の役にも立たなかった。

 残り五人が傅に銃口を向けようとするが、至近距離にいる傅の動きを何故か捉えきれず、いつの間にか間合いを侵され、接近されたと認識するよりも早く意識を失い、次々と倒れていく。

 最後の一人が、目の前にいたはずの傅を見失ったとき、敵の側頭部に、傅が、すっと手を当てていた。

 脳漿に勁が浸透。敵が、ぐるりと白目を剥いて崩れ落ちる。

 特警や加勢していた者たちから、拍手と喝采が鳴り響いた。

 周囲に軽く手を振りながら、傅が携帯電話を耳に当てる。

「傅だ。例の幼い客人は、今、どの辺かな?」



#4


 最後の敵分隊も、飲食街の一角で足止めを食っていた。

 必死に抵抗する特警を援護して、住人やマフィアが窓から発砲する。分隊の頭上から鉢植えを落とした老婆までいた。

 キルゾーンと化した通りを攻めあぐねる敵分隊。そのとき、分隊の背後から、凄まじい速度で走り込んでくる者がいた。

「山茶花さんだ! 撃ち方止め!」

 特警の一人が叫び、銃撃がぴたりと止む。

 足音に気付いた分隊の者たちが振り返った瞬間、刀の柄に手をかけた山茶花が、彼らの視界から消えた。

 山茶花の踏み込み。長大な間合いが一瞬で消失。

 動体視力を振り切る速度で山茶花が敵分隊を駆け抜けたとき、擦れ違った五人が、驚いた表情を浮かべるより早く意識を失い、どさどさと倒れた。

 残る五人が驚愕の表情で振り向いたとき、彼らの目に一瞬だけ映った山茶花の姿が、また消える。

 山茶花の動きにまるで反応出来ず、瞬く間にまた二人倒れる。姿すら追い切れず、さらに二人が倒される。最後の一人がパニックに陥り、叫びながら小銃を乱射し始めた。

 男の背後で、チン、という納刀の音。男が引き金に指をかけたまま意識を失い、前のめりに倒れた。

 周囲から上がった歓声を意に介さず、山茶花が携帯電話を耳に当てる。

「山茶花だ。侵入者は今どこだ?」



#5


 ギャビーは、雑居ビルの屋上で、対物ライフルを構えていた。

 彼の目は、重機関銃を備えた軍事車輌の砲塔に注がれている。対物ライフルでも砲塔の装甲は抜けないが、ギャビーの狙いは砲塔そのものではなかった。

 ギャビーが引き金を引く。銃声と共に砲塔の重機関銃がひしゃげ、使い物にならなくなった。

 遠距離から細い銃身を狙い撃つ超精密射撃。ギャビーが、鼻歌交じりに次々と狙いを定め、悉く命中させていく。

 三台の重機関銃が破壊されたとき、残る一台が、砲塔を狙撃の死角へと隠すように動く。ギャビーが携帯電話を取り出し、電話口に喋りかけた。

「じゃ、そっちはよろしく」

 そのとき、ギャビーとは通りを挟んで反対側のビルからも銃声が轟いた。

 

 ビルの屋上には、ギャビーと同じ対物ライフルを構えたユーリャの姿があった。

 収縮、回転する右目が、距離、弾道、風向き、敵の動きなど、あらゆる要素を瞬時に解析し、機械仕掛けの精密狙撃を成立させる。

 優しげな風貌に会心の笑みが浮かんだ。

「命中です。こちらのビルにも対物ライフルを仕込んでいたのは、この連携のためだったんですね」

 ユーリャが、頭の中にある装置を使ってギャビーの携帯電話に通信する。

『備えあれば憂い無しってわけだ。これであのデカブツも、ただの走る棺桶……』

 ギャビーの声が中途半端に途切れた。

 軍事車輌の一台が後部を展開し、中から白い煙が湧き出てくる。

『何だ? 君の素敵な瞳には何が見えてる?』

 ユーリャの右目は、車輌の後部に入っていたカプセルが開き、人影に見えるものが起き上がった様子を捉えている。

 ユーリャは、解析結果を、そのままギャビーに伝えた。

「“人間ではない何か”が出てきます。全部で八体」

『人間ではない何か、なんて曖昧な物言いを君がするってことは、マフィアのデータベースにも、ネット上にも情報が無いってわけだ。じゃ、君個人の印象を聞かせてくれるかい?』

 ユーリャが、人型の一つに照準を合わせながら答える。

「シルエットは人間に近いですが……」

 しかし、人型の腕は人間より長く、長い指の先には、ナイフを思わせる真っ直ぐな爪が並んでいた。

「生活を営むことが想定されているとは思えません。人間を殺すためだけに存在する生物、と、いうところでしょうか」

『なんて哀しい生き物だ。では、俺たちの手で慈悲をくれてやるとしよう』

 ギャビーが狙撃を敢行し、ほぼ同時にユーリャも引き金を引いた。

 二体の頭部が吹き飛ぶ。しかし、残り六体が車輌を降りて走り出した。どの個体も動きが速く、見る間に二人の視界から外れてしまう。

「狙撃では追い切れません」

『俺たちも降りよう。山茶花に連絡してくれるか? 傅には俺から連絡する』

「分かりました」

 走り出そうとしたユーリャが、視界の隅に動きを捉えて、軍事車輌に目を向ける。「あっ」という声が漏れた。

 ギャビーは既に通話中だったため、ユーリャは、ビルの階段を駆け下りながら、山茶花に通信した。

『山茶花、敵の車輌からデータに無い人型の生物が八体出ました。二体は頭部を破壊して無力化しましたが、残り六体が飲食街に向かっています。動きが速く、指先に鋭い爪を備えています』

 雑居ビルから駆け出たユーリャが、さらに通信する。

『あと、車輌からもう一人、出て来た者がいます。こちらは人間ですが、とても動きが速いです。傅や、山茶花のように』



#6


 飲食街に二体の人型が侵入してくる。異様な姿の怪物を見て、抗争慣れした住民たちも流石に悲鳴を上げた。

 特警が一斉に発砲したが、人型は素早い動きで的を絞らせず、多少被弾しても動きがまるで鈍らない。

 見る間に特警の封鎖線へ肉薄した人型が、鋭い爪を閃かせた。

 目にも止まらぬ速度で薙ぐ、抉る、斬る、突く。生身の体のみならず、機械化義肢すら寸断していく。

「みんな引け! 私が相手をする!」

 山茶花が走り込んでくると、二体の人型も山茶花に向き直った。

 山茶花が踏み込む。人型でも追随出来ない速度の斬撃が、交錯した瞬間に一体の胴を両断した。

 しかし、人型の上半身が地面に手をつき、両腕で走りながら山茶花に飛びかかってくる。

 流石に驚きながらも、山茶花の動きには些かの乱れも無かった。

 鋭い歯で噛みついてきた人型を、今度は頭から真っ二つに両断する。さらに、躍りかかってきたもう一体の爪を躱し、擦れ違い様に首を刎ねた。人型の首が地面に転がり、胴体も転倒する。

 人型の体は、ばらばらになってもなお、地面で蠢き続けていた。歯を噛み鳴らす首を見て、山茶花が表情を強張らせる。

 この怪物に侵入者の子供が追い着かれたら、と想像したとき、山茶花の顔が焦燥に彩られた。

 駆け出そうとした山茶花が、不意に足を止めて振り向く。彼女は、後方から異様な速度で接近してくる人間を視界に捉えた。

 軍用コートを着た金髪の男。山茶花が男に刀を向ける。

 男の左手には拳銃が、右手には刀身の長いグルカナイフがあった。

 男が山茶花に銃口を向けたが、照準が定まるより早く山茶花が踏み込む。

 動体視力を振り切る速度で山茶花が斬撃を繰り出したとき、男が驚異的な反応を見せ、山茶花の斬撃を皮一枚で躱した。

 山茶花の驚愕。男の斬撃を山茶花も躱し、二人が擦れ違いかけたとき、男の背後から唐突にナイフが飛び込んできた。

 どうやって動いているのかすら全く分からない、完全に想定外の一撃。

 山茶花は凄まじい反応で体を捻り、どうにか回避したが、男がそのまま駆け抜け、山茶花から遠ざかっていく。

 山茶花も男を追って走り出した。彼女が斬撃を躱されたのは、随分と久しぶりのことだった。

 人型よりさらに危険な敵。山茶花は、男が子供に追い着くことを阻止すべく、刀を鞘に戻し、走る速度を上げていく。

 しかし、二体の人型が前方の路地から飛び出し、山茶花の行く手を阻んだ。

 舌打ちしながら足を止めた山茶花の耳に、背後からも物音が聞こえてくる。

 彼女が振り返ると、後方からも二体の人型が迫っていた。

 焦燥感を噛み殺すような形相で、山茶花が刀の柄に手をかける。そのとき、前方の二体と山茶花の間合いに、上空から傅が飛び込んできた。

 着地と同時に一体を蹴りで吹き飛ばした傅が、もう一体の爪を躱して懐に滑り込み、掌打を打ち込む。

 人型の全身が戦慄くように硬直し、前のめりに倒れた。

 痙攣し始めた人型を見下ろして、傅が「ふむ」と呟く。

「浸透勁は有効。つまり体の何割かは水分。あくまで生物というわけだ」

 山茶花が「傅!」と声を上げたとき、路地から飛び出してきたユーリャが、後方の人型と山茶花の間に割って入った。

「ユーリャ!」

「行って下さい山茶花。ここは私たちが食い止めます」

 振り返らず声を返すユーリャ。傅の蹴りで転倒した人型が飛び起きると、向かい合って構えた傅が、山茶花に声をかける。

「君の足が一番速い。幼い客人のことは頼んだよ」

 山茶花が決然とした顔で頷き、地を蹴って走り出した。



#7


 侵入者の少女は、袋小路で蹲っていた。

 彼女は体力の限界を迎えていた。人間離れした俊足も、壁を越えた跳躍力も、今は発揮出来る状態ではなく、立ち上がることさえ難しかった。

 動けない少女に、三人の人影が近付いてくる。少女の目に涙が浮かんだとき、赤い腕章が街灯に照らし出された。

「大丈夫かい? おじさんたちは怖い人じゃないよ」

 彼らは特警の男たちだった。顔が縫い目だらけの日本人と、厳つい機械化義手のロシア人、丸々と肥えた目つきの悪い中国人の三人で、揃ってとんでもない悪人面である。

 震え上がる少女を見て、日本人がロシア人に言った。

「見ろ、お前があんまり悪人面だから怯えてるじゃねえか」

「お前に言われたくねえよ!」

 ロシア人が怒鳴り声を上げる。中国人が、溜め息をつきながら本部に電話をかけた。

「侵入者を確保しましたぜ」

 そのとき、三人は、背後に物音を聞いて振り返った。

 軍用コートを着た金髪の男が近付いてくる。日本人が拳銃を構えて吠えた。

「なんじゃあてめえは!」

「邪魔だ」

 男がまるで躊躇無く拳銃を発砲する。しかし、ロシア人が機械化義手を盾に前へ飛び出し、銃弾を弾いた。

 残り二人が拳銃を構えたとき、男の姿が三人の視界から掻き消える。

 一瞬で間合いを詰めた男の斬撃が閃き、三人組が、全く反応出来ずに薙ぎ倒された。

 男が、グルカナイフを振り抜いた姿勢から身を起こし、少女に銃口を向ける。

 少女が、ぼろぼろと涙を流し始めた。

「止めろーーーっっっ!!!」

 叫び声と共に、山茶花が路地へ飛び込んでくる。

 だが、男は躊躇無く引き金を引いた。少女の胸に弾着。心臓の位置だった。

 華奢な体がよろめき、前のめりに倒れる。

 山茶花が目を見開いた。



#8


 人型の懐に踏み込んだ傅が浸透勁を打ち込む。ユーリャも、爪を躱しながら攻撃のタイミングを伺っていた。

「山茶花が倒した個体の一つは首を落とされていました。つまり、首を刎ねれば動きは止まるということ。でしたら……」

 敵の側面に回り込んだユーリャが、遠い間合いで右腕を振りかぶる。

 ガシュッという音と共に前腕から飛び出る折り畳み式の副腕。先端に装備された刃渡りの長いカーボンブレードが、一瞬で人型の首を刎ね飛ばしていた。

 しかし、戦っている二人の傍らを、最後の一体が擦り抜けていく。

 傅とユーリャが振り向いたとき、人型の前方にギャビーが現われ、拳銃を速射した。

 人型の手足を狙った銃撃が、関節を的確に壊していく。動きの鈍った人型に向けて、ギャビーが単発式のグレネードランチャーを構え、引き金を引いた。

 ユーリャと傅が遮蔽物の影へ飛び退くと同時に、榴弾が人型の腰から上を吹き飛ばす。

 舞い上がった白煙の中からユーリャと傅が姿を見せると、ギャビーは、まだ蠢いている人型の下半身を見下ろしながら、思い切り顔を顰めていた。

「なあ、俺は悪い夢でも見てるのか?」

 傅が肩を竦めた後ろでは、ユーリャが、浸透勁で痙攣したままの二体に副腕の刃を走らせている。

「念のため、首を刎ねておきましょう」

 傅とギャビーは、やや血の気が引いた顔で、ユーリャから目を逸らした。

「さて」と言いながら、傅が軽身功で飛び上がる。ギャビーが声を上げた。

「どこへ行くんだ?」

 ユーリャが、副腕を折り畳み、駆け出しながらギャビーに告げた。

「まだ一人、手練れと思われる敵が残っています」



#9


 少女は、涙を流したまま、血だまりに沈んでいた。

 振り返った男が山茶花を一瞥する。

「邪魔をするな。邪魔したところで、貴様には何の益も無い」

 立ち尽くし、項垂れた山茶花へ、男がさらに言った。

「先ほどの戦闘で分かった。貴様は少々厄介だ。俺の用事は、この少女を回収すれば終わりだ。これ以上邪魔しなければ、俺もこれ以上殺さない」

 男が、自分の都合ばかりを並び立ててくる。

 山茶花から、低い声が漏れた。

「……もう黙れ」

「何?」

「……私の前で……女子供に手ぇかけやがって……」

 山茶花の声は怒りに震えていた。

「何晒しとんじゃこの腐れ外道がッ!!!」

 物凄い怒鳴り声。周囲の空気が震えるような凄まじい気勢。

 しかし、男は表情一つ変えずに、山茶花へ銃口を向けた。

 山茶花が踏み込む。彼女の姿が掻き消えた瞬間、狙いを定めるのは無理だと即断した男も、動体視力を振り切る速度で踏み込んでいた。

 日本刀とグルカナイフの剣閃が交錯し、互いの刃を躱し合った二人が擦れ違いかけたとき、また男の背後からナイフが閃く。山茶花が際どく躱し、間合いが開いた。

 山茶花が、怒りの形相で男を睨み据える。しかし、男の背後から来る斬撃の正体が分からない、という事実は、彼女の冷静さをぎりぎりのところで繋ぎ止めていた。

 山茶花が胸元を探り、首に提げていたものを握り締める。

 彼女に生じた変化を見て、男が目を眇めた。山茶花の表情が怒りから静けさへと変わり、激しい気勢が、細く、鋭く収束していく。

 山茶花が、青眼にぴたりと構えた。男が拳銃を投げ捨て、グルカナイフを構えて腰を落とす。

 同時に踏み込んだ二人が、再び交錯した。

 冷静さを取り戻した山茶花の中で、速度と武道の理が噛み合い、男の反応を超える。男は斬撃を捉え切れず、刀を振り抜いた山茶花の手には確かな手応えがあった。

 そのとき、また男の背後からナイフが飛び込んでくる。しかし、攻撃が来ることを読んでいた山茶花は、ナイフを冷静に見切り、危なげなく躱していた。

 間合いが広がる。素早く振り向いた山茶花が、油断無く刀を構え、男を視界に収めた。

 男の首から、夥しい量の血が噴き出している。男の頭が、ずるりと首から落ちかける。

 そのとき、男が、グルカナイフを放り出し、両手で頭を受け止めた。

 頭を首の上へ戻し、細かく位置を調整する。出血が止まり、首の傷が見る間に塞がり始めた。

 山茶花は、呆然とした顔で目の前の出来事を見つめている。

 彼女は、自分が何を見ているのか、上手く捉えることが出来ずにいた。

 そのとき、山茶花の目が、長く伸びた男の頭髪を辿った。頭髪の先端が、彼女を襲ったナイフに絡みついている。

 生き物のように動いた頭髪が、ナイフをふわりと持ち上げた。

「お前は……」

 山茶花から曖昧な言葉が零れる。男が口の端を歪ませて笑った。

「驚くのも無理は無い。だが理解は出来たはずだ」

 男がコートの前を開く。コートの内側には無数のナイフが並んでいた。

「貴様に俺は殺せない。そして、この力を見た者は、存在してはならない」

 次々と伸びた髪が、全てのナイフを絡め取り、一斉に山茶花へ向ける。

 山茶花が刀を構える。しかし、首を刎ねても死なない相手をどうやって仕留めれば良いのか、彼女には分からなかった。

「行くぞ!」

 男の髪が一斉に伸び、あらゆる角度から無数のナイフを突き込んできた。

 山茶花は、心の動揺を瞬時に切り離していた。驚愕の表情をねじ伏せたまま、敵の攻撃を躱し、刀で弾き、踏み込む隙を狙う。

 しかし、敵の攻撃は山茶花の速度に対応していた。動体視力を振り切る速度で、全方位から絶え間なく飛び込んでくる刃に空間を制圧され、山茶花は踏み込むことが出来ず、徐々に追い詰められていく。

 やがて、ナイフの一つが山茶花の顔を掠めた。

 左目の上から出血。見る間に視界の半分が赤く染まる。

 生じた死角を狙って、ナイフが次々に飛び込んできた。山茶花の体を刃が掠め始め、見る間に傷が増えていく。

 しかし、山茶花は、信じ難いほど強固な意志で冷静さを繋ぎ止めていた。

 刃を捌き続ける彼女の目は、未だ、一瞬の隙を狙い続けている。

 男が、苛立ちの混ざった声で叫んだ。

「いい加減諦めろ!貴様はここで死ぬ……」

 そのとき、不意に、男の動きが鈍った。

 髪が力を失って垂れ下がり、ナイフが全て地面に転がる。

 驚愕の表情になった男が、思わず背後を振り返った。

 山茶花も目を見開いている。

 男の背後で、死んだはずの少女が立ち上がり、男に右手をかざしていた。

 男の口から、呆然とした声が漏れる。

「まさか……俺のセラフに干渉したのか……?」

 我に返ったのは、山茶花の方が早かった。

 山茶花が踏み込む。はっとした男が山茶花に向き直る。

 だが、今までと同じ人間とは思えないほど、男の動きは鈍く、反応も遅かった。

 男が向き直るより早く、山茶花の斬撃が男の首を刎ね飛ばす。

 男の背後へ駆け抜けた山茶花が、素早く振り返って刀を構えた。

 だが、男の首は、地面に転がったままだった。体も前のめりに倒れ、先ほどの再生が始まる気配は無い。

 思わず溜め息を漏らした山茶花が振り返ったとき、少女が、ふらりとよろめいた。山茶花が刀を放り出しながら駆け寄り、倒れかけた少女を抱き止める。

「おい! しっかりしろ!」

 少女の体は、ぐったりとしていて、力が感じられなかった。

 山茶花が必死に呼びかける。

「駄目だ! 死ぬな!」

 そのとき、背後からユーリャの声が響いた。

「大丈夫です、山茶花」

 振り向いた山茶花の目に、近付いてくるユーリャと傅の姿が映る。

 ユーリャの右目が、少女から様々な情報を読み取っていた。

「意識を失っているだけです」

「だ、だが、この子は撃たれたんだ……!」

「えっ、撃たれているのですか?」

 ユーリャが少女の許に屈み込み、血塗れの胸に手を当てる。

 やがて、ユーリャが、落ち着いた声で言った。

「でも……傷がありません」

「えっ」

 山茶花も、少女の胸に触れた。

「本当だ……」

 銃創は見つからず、代わりに、確かに脈打っている心臓の鼓動が、山茶花の手へ伝わってくる。

「……良かった」

 不意に、山茶花の目から涙が零れた。

 山茶花の涙を間近で見たユーリャが、とても優しい表情になる。

 二人を見守っていた傅が振り向くと、ギャビーが路地に入ってくるところだった。

「ようやく長い夜も終わりってところだな」

「さて、どうだろう」

 傅が飄然と返し、ギャビーがうんざりした表情を浮かべる。

「止めてくれ。俺はもう、余生を静かに過ごしたいんだ」

「まあ、今夜はこれで終わりかもしれない。ただ……」

 傅が、少女に目を向けた。

「正体不明の武装集団。封鎖区域への侵攻。見たこともない化け物に、生き返った少女。こんな現実離れしたピースを組み合わせたら、一体どんな絵になるんだろうね」

 そのとき、倒れていた特警の三人組が身じろぎする。気付いたユーリャが三人組の傍らに屈み込んだ。右目で三人を調べるユーリャに、太った中国人が、力の無い声で言った。

「俺、もう死ぬのかな。天使様が見える」

 ふふ、と微笑んだユーリャが、傅とギャビーに言った。

「重傷ですが、一刻を争う状態ではありません。機械化した部位が上手く盾になって、致命傷を防げたようです」

 山茶花が少女を抱き上げ、路地の奥から歩いてくる。

 路地の外側には、特警の者たちが集まってきていた。

 四人が路地を出ると、街が青い階調に染まっている。

 夜はもう終わりかけていた。

 傅が、普段より優しく聞こえる声音で、山茶花に言った。

「その子をどうするか、円卓にお伺いを立てなくちゃいけないけど、そっちは明日、僕とギャビーが行こう。ひとまず、ガレージに連れていこうか」

 まだ涙の跡が残った顔のまま、山茶花が頷いた。

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