ep.9 来栖ラボ

 #1


 少女がデイジーと呼ばれ始めて一週間が経った頃、デイジーと四人のジョーカーは、再び円卓に招集された。

 トーマが皆に説明を始める。

来栖くるすラボについて我々のチームが調査を進めてきたが、セラフやキャリアの情報は三年前からの記録しか見つからない。そして、三年前に来栖博士は他界している」

 フーが、顎に手を当てた。

「来栖博士は既に亡くなっていましたか……しかし、博士が管理していたデータは、外部から侵入可能な領域には無いと」

 トーマが左目を鋭く光らせる。

「そうだ。セラフやキャリアに関する三年前までの研究内容や、そもそもの生み出された理由など、重要な情報のほとんどはオフラインで管理されている可能性が高くなってきた。そして、現在入手出来ているデータから推測する限り、来栖博士個人のデータベースは、おそらくラボ内部でもプロテクトが破れていない」

 傅が、眼鏡の奥で目を光らせた。

「と、なると、ラボは主導者不在のまま動いている……?」

「あるいは、未だ、博士の遺志に従って動いているのかもしれないね」

 ミケーレが滑らかな口調で言う。

「いずれにしても、ラボが何を目的に存続し、何を目的に動いているのか、ということを知る必要があると思うんだが」

 傅が頷いた。

「デイジーを躍起になって取り戻そうとした経緯もありますからね。ラボの動きには、必ず明確な指針がある」

 トーマが鋭い口調で言う。

「ラボの目的を探り出すのは最優先事項の一つだが、ネットを介してのアプローチは業腹ごうはらながら手詰まりだ。博士のデータがオフラインで管理されているとすれば、アクセスする方法は一つしかない」

 ギャビーが、にやっと笑った。

「泥棒ですか?」

「そうだ」

 トーマが不敵な笑みをギャビーへ返す。

「我々無法者には無法者のやり方があるというところを奴らに見せてやろう」

 円卓の四人が、にやり、という悪い笑みを浮かべる。ジョーカーたちの顔にも、不敵な笑みが現れていた。デイジーが、きょろきょろと皆を顔を見回している。

「誰が行く?」

 山茶花さざんかが問いかけると、雷蔵が笑みを可笑しそうなものへと変えた。

「そう気負っても、お前は居残りだぞ山茶花。お前に泥棒なんて器用な真似は出来んだろうが」

 山茶花が、憮然とした顔で言い返す。

「そんなことは分かっている。だが、ラボへ潜入するとなれば、場合によってはキャリアや怪物を相手にしなくちゃならないだろう」

 トーマが鋭い声を飛ばす。

「問題はそこだ。キャリアは君たち以外に対抗出来る者がいない。よって、ラボに潜入する者も、君たちの誰かでなければならない」

 トーマの目がユーリャに向けられた。

「データの奪取が目的である以上、君は外せないな」

 ユーリャが胸に手を当て、「お任せ下さい」と、落ち着いた表情で言う。

「と、なると、後は俺か、傅の旦那か……」

 ギャビーが言いかけたとき、羅の人形が合成音声を発した。

「迷う必要は無い。目的が暗殺ならば傅が適任だが、ことは潜入工作。誰が適任かは言わずとも知れている」

 ミケーレが、ギャビーに言う。

「そういうわけだ。君が身につけた技術はガン・ファイトだけではないというところを、久しぶりに見せてもらうとしよう」

 ギャビーが肩を竦め、口の端を歪めて笑った。

「美女のベッドに潜り込むのは得意なんですがね」



 #2


 円卓での話し合いでは、その後、キャリアに関する情報が共有された。

 映像記録の分析結果や、実際に戦ったジョーカーたちの所見、ラボから奪取した情報などである。

 円卓を急襲した不可視の敵は、ラボのデータ上で試験体9号と10号と呼ばれていた。体表の組織を絶えず変化させ、ほぼ不可視となる他、金属すら寸断する刃や銃撃を阻む外殻がいかく、人間を超越した身体能力や再生能力の持ち主である。

 二体は双子で、9号が姉、10号が弟だった。

 強敵ではあるが、この二体については、前回の戦闘でユーリャが大量のデータを採取していた。ユーリャがデータを活かし、ギャビーと共に対応すれば、勝算はある。

 傅が戦った黒いキャリアは、試験体8号と呼ばれていた。背中から伸びる触手は刃のように変化し、9号たちの刃と同じく金属すら断ち切る。さらに、ラボの実験では、触手一本で4トンの重量物を吊り上げていた。体を覆う黒い外殻も、9号たちと同じく、銃弾程度なら弾く強度があると推測される。

 山茶花と戦った赤毛の女は、試験体7号という呼称だった。7号は、速筋の強化と、反応速度、反射速度を高めることで “加速” する。打撃には爆撃に等しい破壊力があり、格闘技の心得もあるようだった。

 7号と8号も、他のキャリアと同じく再生能力がある。

 彼らと対抗しうる存在は、封鎖区域にはジョーカーの四人しかいない。

 中でも、試験体7号の加速に対応出来るのは、山茶花一人だと思われた。

 この問題について言及されたとき、デイジーは「私がまた、この人のセラフを眠らせれば……」と口にした。

 山茶花は、デイジーが三日間眠り続けたことは、能力を行使した代償なのではないかと懸念していた。

 髪に混じった銀髪の意味もまだ不明である。これらの事柄を説明出来る情報は、まだ見つかっていない。

 どのような影響があるか分からない以上、デイジーの力は最後の手段として温存し、キャリアには可能な限り、ジョーカーが対処することで方針がまとまった。



 #3


 皆が拠点に戻ると、ギャビーとユーリャが潜入の準備を始めた。

 ユーリャが、首の後ろからケーブルを引き出して、リビングのパソコンに直結すると、ロシアン・マフィアの本部から、来栖ラボのデータが送り込まれてくる。

 ユーリャの十指じゅっしが目にも止まらぬ速さでキーボードの上を踊り、大量のデータがみるみる内に整理され、プリントアウトされていく。

 ギャビーは、電話をかけながらプリントアウトされたデータを次々とテーブルの上に広げ、大量の情報にさらりと目を通していった。

 ラボの図面が出力されると、ギャビーが、電話をかけ続けながら、右手でくるくるとペンを回し、図面のあちこちに書き込みを入れ始める。

 見事な手際で準備を進める二人を、傅と山茶花は、どこか間の抜けた顔で眺めていた。手伝おうにも手を出す隙間はどこにも無く、やがて傅と山茶花は、デイジーと共にキッチンへ入り、コーヒーやお茶請けの準備をし始めた。


 ギャビーとユーリャは、一時間も経たない内に、主立った準備を整えてしまった。

 プリントをどけたスペースに五つのカップとお茶請けが置かれ、二人が小休止に入る。

 潜入の計画について、ギャビーが、歌うような口調で説明し始めた。

「まずは壁を出るところだが、知り合いの運び屋と話をつけた。俺とユーリャは、流通の貨物に紛れて壁の外へ出る。ラボ付近まで移動したら、今度はラボに資材を搬入する車輌へ潜り込む」

 山茶花が驚いた顔になる。

「そんなことを頼める相手がいるのか?」

「色んな専門家がいるもんさ。この運び屋とは抗争が終わる前からの馴染みでな。その気になれば首相官邸の中にだって送り届けてくれる」

 続いて、ユーリャがラボの図面を広げた。

「来栖博士のデータベースは、どのような形をしていて、どこにあるのか、明確な情報がありません。ですので、私たちはひとまず来栖博士の研究室を目指します」

 ユーリャの指が、図面の一角を指し示す。

 最初の目標は、地下一階にある警備室の制圧。来栖ラボは軍事目的の開発もしているが、あくまで民間の施設であり、夜間に常駐している警備員の数は五人程度だった。ギャビーとユーリャなら、一瞬で制圧出来る人数である。

 警備室は警備会社の支社と定時連絡を取り合っているが、定時連絡が終わった直後に制圧すれば、次の連絡まで一時間の猶予を稼げる目算だった。この間に、ユーリャが博士の研究室へ侵入する。研究室は地下五階に位置していた。

 ユーリャが言う。

「博士の部屋にオフラインのマシンがあれば、多分それが “当たり” です。その場で分解し、データの記録された媒体を直接抜いて、持ち帰るつもりです」

 ギャビーが図面を見ながら言った。

「もし研究室で見つからなければ、施設内を時間いっぱいまで捜索する。それでも見つからない場合は、残念だが今回は手ぶらで帰ることになるな」

 ユーリャが、ギャビーの隣から図面を覗き込みながら言う。

「問題はキャリアたちの動きですが、警備室を制圧後、ギャビーに警備室へ残ってもらい、ロシアン・マフィアのチームと連携して警備システムを掌握、キャリアの位置を特定します」

「ま、可能な限り交戦は避ける方向さ。連中と出くわさないよう、俺がユーリャを誘導する。取るものを取ったら、とっとと退散する。と、まあ、そんなところだな」

 山茶花が感心した顔になった。

「これだけの計画を、たったあれだけの時間で……」

 ギャビーがにやっと笑う。

「ロシアン・マフィアのチームが、お膳立てをすっかり整えてくれてたからな。彼らのサポートと、相棒がユーリャだってことを勘定に入れたら、ホワイトハウスに潜り込んで大統領のネクタイを持ち帰ることだって鼻歌交じりに出来る。この程度の研究施設なら散歩に行って帰ってくるようなもんさ」

「ホワイトハウスすら……」

 息を呑む山茶花に、傅が笑みの貼り付いたような顔のまま言う。

「そこは尾ヒレの部分だから、全部拾ってはいけないよ」

 ギャビーが、歌うような調子で言った。

「後は、建物の屋上から高笑いしながら去るための、気球と縄梯子なわばしごを用意するだけだな」

 ユーリャが目を輝かせる。

「そんなことを考えていたのですか? とても楽しそうです」

 ギャビーが表情を強張らせた。

「いや、冗談だったんだが」

 騒がしいやり取りの中、ふと、山茶花がデイジーに目を向ける。

 デイジーの表情には、円卓にいたときのような思い詰めた様子が無く、どこか安心しているような雰囲気があった。

 そのとき、ギャビーが声を漏らす。

「それにしても、まさか、ラボがこんな近場にあるとはね」

 壁で仕切られているとはいえ、封鎖区域とは目と鼻の先。

 来栖ラボは、みなとみらい地区にあった。



 #4


 あらゆる準備がその日の内に整えられ、夕方には運び屋のトラックが拠点の前に止まった。

 トラックのリヤドアを開けたユーリャに、デイジーが声をかける。

「ユーリャ、気をつけて」

 ユーリャが、嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。必ず良い報せを持って帰りますから、待っていて下さいね」

 傅が、ギャビーに言う。

「どちらにキャリアが出ても、限られた人数で対処する形になる。特に試験体7号は、山茶花以外では対処が難しい。くれぐれも……」

 ギャビーが、にやっと笑いながら、傅の言葉を遮るように言った。

「まともにやり合おうとしなけりゃ、色々とやりようはある。まあこっちは任せてくれ。そっちも、デイジーのことは頼んだぜ」

 二人がトラックに乗り込み、運び屋の手でリヤドアが閉じられる。山茶花たちが見送る中、トラックが走り出し、すぐに見えなくなった。



 #5


 ギャビーとユーリャは、あっさりと壁を通過し、みなとみらい地区の片隅でラボ行きの車輌に乗り換えた。

 車輌がラボに乗り入れ、搬入業者に扮した運び屋が貨物を下ろす。

 さらに時間が過ぎ、日付が変わる少し前。灯りが消えた荷役室にやくしつの一角で、貨物用コンテナの一つが開き、ギャビーとユーリャが姿を現した。

 ユーリャがロシアン・マフィアの本部と連絡を取り、本部のチームが警備室のシステムに侵入、監視カメラの映像に細工をする。

 本部から細工が終わったとの連絡を受けたユーリャが、ギャビーにハンドサインを送り、二人は警備室へ移動していった。

 警備室のドアを音も無く開いた二人は、するりと室内に侵入し、暗視ゴーグルを装着したギャビーが照明を落とした。

 中にいた警備員は五人。一人が「何だ?……」と声を上げたときには、ユーリャが一人の首筋に手刀を落として沈黙させ、ギャビーも頭部へ掌底を入れてもう一人を昏倒させている。

「……停電……」

 声を上げた男が言い終わる前に、ユーリャとギャビーがさらに一人ずつ意識を断ち切り、「……か?」と、男が言い終わったときには、男の頭部へ、二人の打撃が同時に入っていた。

 ギャビーが照明を点け、昏倒した五人の警備員を手際良く拘束する間に、ユーリャが警備室のコンソールに取り付き、システムを操作し始める。

 拘束を終えたギャビーが、ユーリャに声をかけた。

「どうだい?」

「キャリアたちは、地下七階の居住スペースに居ます。今のところ、目立った動きは無いようです」

 モニターの一つに、キャリアたちの姿が映る。部屋のソファに座って、四人で話をしているようだった。

 ギャビーがユーリャの肩を叩く。

「じゃ、代わるぜ」

「はい、後はお願いしますね」

 ユーリャが部屋を駆け出た。ギャビーが左右の耳に小型のインカムを一つずつ装着し、コンソールを操作しながら、右のインカムをユーリャと、左のインカムをロシアン・マフィアの本部と繋ぐ。そして、ポケットから取り出したストップウォッチのスイッチを入れ、芝居がかった声で、二つのインカムに告げた。

「では皆さん、泥棒の時間です」



 #6


 ギャビーとユーリャが動き出した頃、傅と山茶花は、拠点の屋上に出ていた。

 デイジーは既に就寝しているが、ジョーカーたちにとって、深夜は活動の時間である。

「もう、夜はかなり冷えるな」

 山茶花が言うと、吐息が白くなった。頷いた傅が、山茶花に向き直る。

「君に、聞きたいことがあってね」

「何だ? 改まって」

「君がデイジーと初めて会った夜、あの子が生きていたと知って、君は涙を流した」

 不意打ちを食らったように、山茶花が身構えた。

「それがどうしたんだ」

「あのとき、君は、救われたのかな?」

 山茶花が、はっとした顔になる。そして彼女は、ようやく、傅の口調や表情が、いつになく真摯なことに気付いた。

 山茶花も、静かな表情になる。やがて、彼女の口許に、苦笑が浮かんだ。

「雛菊は雛菊、デイジーはデイジーだ。だが……あのとき、確かに、一度は届かなかった手が、今度は届いた、と、いうような想いがあったのかもしれないな。実際には、私がデイジーに助けられてしまったし、あの子が生きていたのも、デイジー自身の再生能力によるもので、私が命を救ったとは言い難いんだが……」

 山茶花の笑みが、自嘲的なものになる。傅は、真摯な表情のまま、言った。

「君にずっと伝えようと思いながら、伝えていなかったことがある。君の心が落ち着くまで待つ内に、ここまで来てしまった」

 山茶花の口許から、笑みが消える。彼女もまた、真摯な面持ちで、言った。

「聞くよ。今、伝えてもらおう」

「七年前のことだ。僕は、まだ君の心の傷が癒えていないときに、雷蔵さんを暗殺する命を受け、桐島組に乗り込んだ」


 嵐の夜だった。雨と風の音に紛れ、気配も殺して桐嶋組の敷地内へ侵入した傅に、山茶花だけが気付いた。

 他の誰にも気付かれることなく、雷蔵の自室に近付いた傅は、凄まじい速さで近付いてくる山茶花と相見える。途轍も無く速い斬撃が傅を襲い、躱した傅と追った山茶花が、嵐の中、桐嶋組の庭で対峙した。

 純度の高い憎悪と虚無が混じり合った少女の目を見て、傅は、相手が何者なのか、すぐに悟った。

 コリアン・マフィアをたった一人で壊滅させてしまった少女、桐嶋山茶花。家族を皆殺しにされた報復だったというところまで、当時の抗争エリアでは有名な話だった。

 傅は、抗争の中で何人もの人間を殺め、龍門りゅうもんの死神と呼ばれた殺手だった。

 組織の命によって人を殺めることに、傅が躊躇ためらいを覚えたことは一度も無かった。

 しかし、目の前の少女が、自分と同じ領域に足を踏み入れようとしている姿を見て、自分が最後の一押しをしようとしている事実に気付いたとき、傅の心に、かつて無い感情が生まれた。

 傅は、不意に、自分のやって来たことを酷く空しく感じた。

 突然、夢から醒めたように、自分の存在を、心底下らなく感じた。

 そして、目の前の少女には、こんなどうしようもない領域への一線を、超えて欲しくないと感じた。

 山茶花の斬撃は、かつて傅が相手をしたどんな相手よりも速く、躊躇ちゅうちょが無かったが、最短距離で必殺を狙う当時の山茶花の太刀筋は、傅にとっては読み易いものだった。

 全ての斬撃を躱し、いなし、間合いを広げたとき、他の組員たちが動き始める気配を察した傅は、軽身功で飛び上がり、山茶花の前から去った。

 彼が暗殺に失敗したのは、これが初めてだった。


「僕は、君の心の傷に塩を塗った。今さらだが、そのことを謝りたい。本当にすまなかった」

 傅が頭を下げる。山茶花が驚いた顔になった。

「そんな昔のこと、もういいじゃないか。私はほんの子供だったし、傅だって、組織の命令に従っただけだろう?」

「だから、これは龍門の傅ではなく、一個人の傅玉林フー・イーリンによる、桐島組の山茶花ではなく、一個人の桐嶋山茶花に対する謝罪だ」

 傅は顔を上げない。山茶花は、少し困ったような顔になり、溜め息をついてから、言った。

「分かった。では、一個人としての桐嶋山茶花は、一個人の傅玉林が過去に犯した罪を赦そう」

 ようやく、傅が顔を上げる。山茶花が「これでいいか?」と言って、もう一度溜め息をついた。

「面倒な男だ」

 傅の顔に、苦笑が浮かぶ。

「すまない。でも、ありがとう」

 山茶花も苦笑を返した。ずっと気にしていたのか、と言いかけて、彼女の言葉が喉元で止まる。

 山茶花は、家族の墓前に手向けられた雛菊の輪を思い出していた。山茶花は、毎年、命日の墓参りを欠かしたことはなく、彼女が墓前に立つと、必ず雛菊の輪が手向けてあった。

 問うまでもなく、傅はずっと気にし続けてきたのだろうと山茶花が考えたとき、傅がぽつりと言う。

「身勝手な話だが、あのとき、僕自身は変わる切っ掛けを手にしたんだ。あのときの君と向き合っていなければ、今の僕は、また違った人間になっていたかもしれない」

 山茶花は、言葉の意味を少し考えてから、言った。

「私も、あの少し後に変わった。ニカのお陰だが……」

 山茶花の顔に、真摯な表情が浮かぶ。

「ニカが、あの頃の私を今の私へ導いてくれたように、私は、デイジーの道になれるだろうか」

 山茶花が目を瞑った。

「デイジーの未来は……あの子の幸せは、どんな形をしているんだろう」

 傅が答える。

「セラフにまつわる問題が全て解決した暁には、デイジー自身が、未来を選ぶことの出来る状況にすればいい」

 山茶花が傅を見た。

「状況?」

「実は、僕が以前、円卓に進言し、検討の進められている事案がある」

 淡々とした説明を聞いて、山茶花が問いかける。

「事案? 何を進言したんだ?」

「封鎖区域に学校を作るべきだと進言した」

 山茶花の目が見開かれた。傅が、いつもより幾分静かな口調で、説明を続ける。

「僕たちは結局、マフィアだ。一個人としてデイジーに伝えられることはあっても、僕たちの社会的な立場は、デイジーが手本にするようなものじゃない。その点、学校ならば、あの子はもっと様々な未来や、幸せの形を想像し、選択肢を見出すことが出来るかもしれない。学校を作るためには様々な準備が必要だけど、君の両親によって一度は実現寸前まで準備されていたことが実績と参考になって、今はかなり具体的に準備が進んで……」

「ありがとう、傅」

 山茶花の声が、傅の言葉を遮った。

 山茶花の目から涙が零れている。しかし、彼女の口許には笑みがあった。

 傅が、珍しく少し慌てたように、山茶花から目を逸らす。

「いや、僕は……」

「理由はどうあれ、傅のお陰で、私の両親の遺志がもう一度繋がって、デイジーの道になるかもしれないんだ。こんなに嬉しいことはない」

 そのとき、気配を感じた二人が目を向けた先に、屋上へ上がってきたデイジーの姿があった。

 寝間着姿のデイジーが、目を擦りながら二人を見る。そして、ぽつりと言った。

「山茶花、泣いてるの?」

「あ、いや、これは……」

 山茶花が慌てて涙を拭う。傅が、いつもの笑みを浮かべて、飄然とした口調でデイジーに問いかけた。

「眠れないのかい?」

 デイジーが頷く。そして、ぽつりと言った。

「夜なのに、鳥たちが騒いでいて。二人が屋上にいるから、何かあったのかと思って」

 言葉の意味を受け止め損ね、傅が、笑みの貼り付いた顔のまま、首を傾げた。



 #7


 警備室の制圧から僅か十分後、ユーリャは来栖博士の研究室に侵入していた。

 部屋に置かれたパソコンを、ユーリャが右目で精査していく。

『どうだい?』

 頭の中に響いたギャビーの通信へ、ユーリャが答える。

「有線、無線とも、外部との接続無し。 “当たり” です」

 ギャビーの溜め息が届き、呆れたような声音が続いた。

『拍子抜けだな。ま、問題が無いに超したことはない』

「解体にもさほど時間はかかりません」

『じゃ、とっとと済ませてずらかるとしよう』

 はい、と答えてから、ユーリャはパソコンの解体に取りかかった。腰につけたバッグから工具一色を取り出し、流れるような動きで作業を進めていく。

 やがて、ユーリャは記憶媒体を取り外し、バッグの中から耐衝撃構造のケースを取りだして媒体を収めた。

 そして、パソコンの型が分からなかったため、複数用意してきたダミーの中から、型に合うものを媒体の代わりにパソコンへ組み込み、パソコンを元の状態へ組み直していく。

 そのとき、ギャビーから通信が入った。

『手を止めずに聞いてくれ。キャリアに動きがある』

 ユーリャの顔に緊張が走る。

「こちらへ来そうですか?」

『いや、研究室とはかなり離れた位置のエレベーターに、今、四人全員が乗った』

 ギャビーの回答を聞きながら、ユーリャが組み立ての手を早めた。

『地下五階は通過。そっちはひとまず大丈夫だな』

 ユーリャが作業を終え、研究室を出る。機械仕掛けの俊足を飛ばして、彼女はギャビーのいる警備室へ急いだ。

「すぐにそちらへ戻ります」

『こっちも大丈夫そうだな。奴らは今、エレベーターから真っ直ぐ駐車場へ移動している。警備室に立ち寄る気配は無い』


 ギャビーは、ストップウォッチに目を向けた。このままユーリャが戻れば、制限時間より二十分は早く脱出出来る。

 そのとき、キャリアたちが駐車場の車輌へ乗り込む映像が、警備室のモニターに出た。

 ギャビーが目をすがめる。

 奴らは、命令や許可無くラボを自由に出入り出来るのか?

 車輌が動き出し、カメラの前を横切ったとき、ギャビーの表情に緊張が走った。

 大型車輌の後部には展開する仕掛けがある。以前、封鎖区域に侵入してきた軍事車輌とよく似た作りだった。

「奴らはどこに向かった?」

 独り言を呟きながら、ギャビーがコンソールを操作する。左のインカムでロシアン・マフィアの本部と連絡を取り合い、サポートしてもらいながら、ギャビーは探していた情報に行き着いた。

 ちょうど、ユーリャが警備室に戻ってくる。振り向いたギャビーの顔に緊迫した色合いを見て、ユーリャの表情が引き締まった。

「どうかしたのですか?」

「奴らがでかい車輌に乗って、ついさっきラボを出た。奴らが出入りする予定を記録したものが無いか調べていたんだ」

 ギャビーが駆け出し、ユーリャが後を追いながら、緊張した声を上げる。

「まさか……!」

「奴らが今夜出ることは元々予定されていた。最悪だ。キャリア四人全員が、例の化け物も満載した車輌で封鎖区域に向かってる!」



 #8


 拠点の屋上からは大岡川が見える。デイジーと山茶花、傅は、川を見下ろしながら言葉を交わしていた。

 川沿いの木には、春になると沢山の桜が咲くと、山茶花が言う。

 デイジーは、桜の花を見たことが無かった。桜の花が咲くさまを山茶花が語り、桜の時期になると川沿いに沢山の屋台が出て、お祭りのように賑やかになると、傅が話した。

 話を聞くデイジーの目が、だんだんと輝いてくる。

「桜を見てみたい。春はいつ来るの?」

「冬が過ぎてからだな」

 山茶花が答えたとき、一羽のからすが、屋上の柵に舞い降りた。

 デイジーが、すっと鴉の前に歩み出る。

「デイジー?」

 止めようとする山茶花を、デイジーが手をかざして、逆に制した。

 鴉が一声鳴き、羽音を立てて飛び立つ。

 振り向いたデイジーが、遠くに目を向けた。

「来る」

 そのとき、傅と山茶花の携帯電話が、同時に鳴り出した。

 電話に出た二人の顔色が変わる。四人のキャリアと怪物たちがこちらへ向かっているという円卓からの急報だった。

 みなとみらい側のゲート前には、既に特警が集結し始め、各支配地域のマフィアからも増援が出たという。

 三人がゲートへ走る中、さらに電話が鳴る。傅へギャビーから、山茶花へユーリャから、封鎖区域へ向かっているが、敵の到着より少し遅れるという報せが届いた。

 ギャビーとユーリャが追い着くまで推定で十分。特警やマフィアの加勢があるとはいえ、キャリアの相手はジョーカーたちにしか出来ない。

 山茶花と傅にとって、気が遠くなるほど長い六百秒の攻防が始まろうとしていた。

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