ep.8 デイジー

 #1


 意識を失った少女がガレージに運び込まれて、三日が経った。

 倫太郎りんたろうの検査では異常は見つからなかったため、すぐに目覚めると誰もが思っていた。

 だが、少女は眠り続けた。山茶花さざんかは、ずっとベッドのかたわらに座り、目覚めを待つようになった。

 三日目の午前十時を回った頃、ニカが、マグカップを二つ持って、部屋に入ってきた。

「山茶花、コーヒー飲まない?」

「ありがとう、ニカ」

 山茶花が元気の無い笑みを返す。ニカが、山茶花にマグカップを一つ渡して、隣に座った。

 二人が少女の横顔を見る。山茶花が呟いた。

「どうして、目覚めないんだろう……」

 ニカが溜め息をつく。

「異常は全然見当たらないのにね。まあ、髪のことはよく分かってないんだけど」

 眠り続ける少女に、一つだけ、奇妙な変化が顕れていた。

 黒髪に、幾筋かの銀髪が交じったのである。

 山茶花が言った。

「ロシアン・マフィアのチームが、来栖ラボにハッキングを仕掛けている。この子が眠り続ける理由や銀髪のことを説明出来る情報が見つかっていないか聞くために、今日、フーとギャビーが円卓に出向いている」

 何か分かるといいが、と呟く山茶花。ニカが、ん? と首を傾げる。

「でも、トーマさん、体の修理でこっちに来てるよ?」

「えっ」

 山茶花の表情が強張ったとき、ニカが少女を見て、「あっ」と声を上げた。

 山茶花も少女に目を向ける。

 少女が目を開けていた。山茶花が、椅子から跳ねるように立ち上がり、少女の顔を覗き込む。

 少女が、山茶花を見つめ返した。ニカが山茶花の横から顔を出して、少女へ、にっこり笑いかける。

「おはよ」

 少女が、ゆっくりと身を起こし、言った。

「……おはよう」

 山茶花が、深い安堵の溜め息をついて、少女に苦笑を向ける。

「随分な寝坊だな」



 #2


 円卓の間には、襲撃の爪痕が今も残されている。

 壁には大きな損壊が二つあった。一つはユーリャの右フックで吹き飛んだ敵が衝突したものだが、もう一つは、羅の隣に立つ女性が敵を吹き飛ばした際のものだという。

 床には、震脚しんきゃくによる足の形をしたへこみが残っている。

 女性の腕は斬り落とされたはずだが、今日は両腕が揃っていた。

 傅が、羅に問いかける。

「ところで老師、傍らの女性が腕を飛ばされたと聞いていたのですが」

 女性が合成音声を発した。

しかり。今はガレージへ修理に出している。これは予備の体だ」

「……一つ伺いたいんですが、もしかして、その女性の体を操っているのは、老師ですか?」

 傅の問いを聞いたギャビーとミケーレ、雷蔵らいぞうの三人が、揃って「えっ」という声を漏らす。女性が頷いた。

「然り。よくぞ見抜いた」

 雷蔵が怪訝そうな顔になる。

「ちょっと待てや。俺らも初耳だぞ」

「敵を欺くには、まず味方から。昔から言われていること」

 合成音声が答え、雷蔵が顔を歪めた。ミケーレが首を傾げる。

「何故、こんな手の込んだことを? トーマのように体を機械化しないのは何か理由が?」

「彼女のように、長く生きるための機械化には興味が無い。人形と同調するための機械化はしているが、肉体の大部分は生身のまま。然るべきときが来れば死ぬ。それでいい。それが良い」

 合成音声による答えを聞いた傅が「なるほど」と呟いた。

「生の在り方を歪めたくないと?」

 女性の体が頷く。雷蔵が顔をしかめた。

「十分歪んでる気がするんだがなあ」

 そのとき、ギャビーが「一つ聞いても?」と声を上げる。

「なんでまた、女の体に?」

「一度、女性になってみたかったのだ」

 合成音声が答えを告げると、円卓の間に静寂が訪れた。



 #3


 ガレージの一室に寝かされた羅の人形へ目を向けながら、トーマが溜め息をつく。

「円卓の面子では一番長い付き合いになるが、未だに何を考えているのか理解出来ないときがある」

 トーマの背中に新しい副腕を取りつけながら、倫太郎が笑った。

「まあ、あの歳で発想が自由なのは大したもんだ」

「自由過ぎるんだあの男は」

 昔からそうだ、と、トーマが毒づく。ベッドの脇に腰掛けたユーリャが、ふふ、と笑みを零した。

 そのとき、部屋の扉がノックされて、ニカを先頭に、山茶花と少女が入ってくる。

 ユーリャが少女に、満面の笑みを向けた。

「良かった! 目覚めたのですね」

 少女が頷き、トーマに目を向けて、少し驚いた顔になる。トーマが苦笑した。

「このような姿で失礼する。君の尽力で、桐嶋山茶花が再び命を救われたと聞いているぞ。封鎖区域を代表する者の一人として、私からも礼を言わせてもらおう」

 少女が首を振る。

「恩義に報いただけ」

 そして、今度は申し訳無さそうな顔になった。

「トーマさん、ごめんなさい」

 トーマが、きょとんとした顔になる。

「何に対する謝罪だ?」

「貰った服、駄目になって……」

 少女が着ていたワンピースは、撃たれて大穴が開き、血に塗れていたため、既に処分されていた。

 今は、ミケーレから貰ったボーダーシャツやショートパンツを着ている。目覚めたときの着替えとして用意されていたものだった。

 トーマが、ふっと笑う。

「気にするな。今回の礼に、また、君に似合いそうな服を贈らせてもらおう」

 そして、トーマがニカに目を向けた。

「君にも礼を言わなければならないな。民間人の君に危険な依頼をせざるを得なかったことを申し訳なく思っている」

 ニカが、「いやいや」と押し止めるような仕草をする。

「この子を助けてくれたのは街のみんなだし、あたし、大したことしてないですから」

「いや、事態の収拾に君が果たした役割は大きい。感謝する、藍染あいぞめニカ」

「いやいや……参ったな……」

 困った顔になるニカを見て口許くちもとほころばせた山茶花が、表情を静かなものへ変えて、トーマに問いかけた。

「カーマインはどうなりました?」

「今はミケーレが身柄を押さえている。聞いたところによると、ニューヨークのファミリーを牽制する道具として使った後に、向こうへ引き渡すつもりらしい。カーマインは、裏切りの代償を最悪の形で支払うことになるだろう」

 山茶花が頷いたとき、またドアがノックされる。

 傅とギャビーが入ってきた。ギャビーが、肩を竦めてトーマに言う。

「行き違いになっちまいましたよ。お陰で、羅老師の知られざる一面を知りたくもないのに知ることに」

 トーマが苦笑した。

「それは難儀だったな。お前たちが知りたいのはラボの調査についてだろう?」

 山茶花が身を乗り出す。

「何か、分かったことはありませんか?」

 トーマが、左目を鋭く光らせた。

「肝心の、セラフやキャリアに関する情報がまだだ。来栖博士のデータベースは、おそらくラボ内部でもプロテクトが破れていない」

 トーマが、少女に目を向ける。

「現在得られているデータの中で、“令嬢”や“ドウター”と呼ばれているのが、君のようだな」

 少女が、こくりと頷く。

「れいじょう、って、呼ばれてた」

 傅が、少女へ、静かに問いかけた。

「もしかすると、それが君の名前だったのかな?」

 少女がもう一度頷くと、山茶花が表情を曇らせる。

「君には、名前が……」

 そのとき、ギャビーが、にやっと笑った。

「じゃ、俺たちで素敵な名前を考えるってのはどうだ?」

 ユーリャが、両手を合わせて微笑む。

「それはとてもいい考えです」

 少女が皆を見回す中、皆から様々な案が出た。トーマや倫太郎まで参加したが、結局、その日に名前が決まることは無かった。



 #4


 少女は、検査の為に、あと一日、ガレージで寝泊まりすることとなった。

 山茶花も少女の警護で滞在する。傅とギャビーは一度、拠点へ引き上げ、ユーリャは、まだ修理中のトーマを警護するためにガレージへ残った。

 夜になると、少女と山茶花、倫太郎、ニカ、ユーリャ、トーマという、珍しい面子で夕食のテーブルを囲んだ。

 食卓では、戦いやラボの話は出ず、何度も笑い声が響く賑やかな一時ひとときになった。

 穏やかな一日の終わり、少女は山茶花に見守られながら、安心した顔で眠りについた。


 翌朝、少女が目覚めると、ベッドのそばにはユーリャが座っていた。

「おはようございます」

 ユーリャが、にっこり笑う。少女も、おはようと返してから、部屋を見渡した。

「……山茶花は?」

 ユーリャによれば、山茶花は今朝早く出かけたという。その後、昨夜の食卓から山茶花の欠けた面子が、朝食のテーブルを囲んだ。

 食後のコーヒーを皆で飲んでいるとき、トーマがユーリャに問いかけた。

「山茶花はどうした?」

「出かけています。大切な用事で」

 ユーリャの答えを聞いて、トーマが、ああ、と声を漏らす。

「そうか。そういえば冬の初めだったな」

 ニカの顔に、いつもより静かな笑みが浮かんだ。

「色々あって、ちょっと遅くなっちゃったけど、行ってくるって」

 少女が、ぽつりと質問する。

「大切な、用事って?」

 皆が少女の顔を見た。倫太郎がニカに言う。

「いいんじゃないか? この子には話しておいても」

 ニカが「そうだね」と返して、少女に目を向けた。

「君は、この街で長い抗争があったことは知ってる?」

 少女が頷く。

「前に、ユーリャが、長い戦いがあったって」

 ニカも頷き、静かな口調で言った。

「山茶花はね、その戦いの中で、家族を亡くしちゃったんだ」

 少女の目が、ゆっくりと見開かれた。



 #5


 抗争が終結する二年前。まだ壁が無かった頃。

 十三歳の山茶花は、幼い頃から剣術の修行を続けており、既に抗争エリアでも指折りの力を身につけていた。

 師は他界していたが、山茶花は師の教えを忠実に守り、修行の日課を怠ったことはなかった。

 修行は、広い庭がある桐島組の事務所で行う。そして、修行を終えると、事務所から少し離れた自宅へ帰っていた。

 家には、両親と妹が待っている。山茶花の父親は雷蔵の息子だが、ヤクザにはならず、妻と二人で、夢を実現させるための準備を進めていた。

 彼らは、抗争エリアに学校を作ろうとしていたのである。

 そして、山茶花の妹は、体が弱く病気がちだったが、純粋さと機転の利く頭を併せ持つ、聡明で優しい子だった。

 山茶花にとって、尊敬すべき両親と、自慢の妹だった。

 妹はきっと、凄い大人になると、山茶花は信じていた。

 抗争エリアの未来において、希望となるような人物に。


 報せを受けたとき、山茶花は、桐島組の事務所にいた。

 刀を手にしたまま、誰よりも早く自宅に駆け込んだ山茶花は、中に広がった光景を目に映し、立ち尽くしたまま一歩も動けなくなった。

 雷蔵たちが追い着いてきたときも、雷蔵が獣のような咆哮を上げたときも、山茶花は呆然とした表情のままだった。

 血だまりに沈む家族の姿。変わり果てた姿の父と母。そして、涙を流したまま横たわる妹の、光を失った双眸。

 山茶花は、何も考えられなかった。どうしたら良いか分からなかった。

 周囲では、雷蔵たちの声が聞こえ続けている。組の者が、壁に血で書かれたメッセージを読み上げていた。

 桐島組と因縁のあるコリアン・マフィアの報復だった。

 雷蔵と組員たちの間に怒号が乱れ飛ぶ。コリアン・マフィアの本部がある場所を誰かが口にしたとき、山茶花の中に激しい衝動が生まれた。

 “敵”と“場所”を認識した途端、山茶花は駆け出していた。

 雷蔵の静止も間に合わず、山茶花は、一瞬で彼らの視界から消え去ってしまった。


 コリアン・マフィアの本部に近付いたとき、走っていた雷蔵は、徐々に歩調を緩め始めた。

 静かだった。入口付近にはおびただしい量の血が撒き散らされ、ばらばらになった人間の体が、幾つも転がっていた。

 雷蔵と組員たちが、本部へ足を踏み入れていく。

 五階建てのビルは、どのフロアにも、ばらばらの体と血の海があった。生きている人間は、一人もいなかった。

 最上階の部屋へ踏み込んだ雷蔵は、血の海に立ち尽くす山茶花を見た。

 夥しい返り血を浴びた姿。雷蔵が、山茶花に近付いていく。

 山茶花の虚ろな瞳が、雷蔵を捉えた。

 山茶花の口から、「アア……」という声が漏れる。

 やがて、声は慟哭の叫びに変わった。

 雷蔵が屈み込み、山茶花の体を抱きすくめる。

 山茶花は壊れたようにき続け、雷蔵が歯を食いしばり、山茶花を抱く腕に力を込めた。



 #6


 かつて、ガレージはニカの両親が営んでおり、桐島組にも世話になっている者が多かった。

 雷蔵と共にガレージを訪れた幼き日の山茶花は、同い年の少女と出会う。

 少女の名前は、藍染ニカといった。全く人見知りをしないニカは、すぐに山茶花の友達になった。

 小さな頃から修行に明け暮れていた山茶花にとって、初めて出来た、たった一人の友達だった。

 それから、山茶花は度々ガレージを訪れるようになり、二人は長い時間を一緒に過ごした。

 抗争は激化の一途を辿り、ニカと同世代の友人たちは、家族と共に抗争エリアから次々と離れていった。

 気がつけば、ニカにとっても、山茶花は最後に残った同世代の友達になっていた。

 周囲の状況がどんなに変わっても、二人の関係は変わらなかった。


 山茶花が家族を失ったことを知ったニカは、桐島組に身を寄せていた山茶花の許へ会いにいった。

 だが、山茶花には会えなかった。門前まで出てきた雷蔵が、済まなそうな顔で、ニカに言った。

「今は誰とも会いたくねえって言っててよ。折角、心配して来てくれたのに、すまねえな」

 ニカは、ひるまなかった。

「また来てもいいですか?」と言うニカの真っ直ぐな目を見て、雷蔵は「勿論だ。山茶花のことを気に懸けてくれて、ありがとうよ」と頭を下げた。

 ニカは、毎日、桐島組を訪れた。初めは門前で雷蔵や組の者から山茶花の状況を聞くことしか出来なかったが、やがて、事務所の中へ入れてもらえるようになり、部屋から出て来ない山茶花へ、ドア越しに呼びかけるようになった。

 さらに時間が経ち、山茶花は、庭での修行を再開した。ニカが久しぶりに見る山茶花は、虚無と憎悪を宿した目で、一心不乱に修行を続け、ニカが呼びかけても返事をしなかった。

 それでも、ニカは諦めなかった。

 毎日、山茶花の許を訪れ、明るく話しかけ続けた。

 あるとき、雷蔵は、ガレージを訪れた。

 ニカが山茶花に関わり続けてくれていることへの感謝を、ニカの両親に伝えるつもりだった。

 雷蔵を出迎えたのは倫太郎だった。そして、倫太郎から話を聞いた雷蔵は、ニカもまた、山茶花とほぼ同じ頃に両親を亡くしていたと知った。



 #7


 藍染倫太郎は、人体の機械化技術に長年取り組んできた研究者だった。

 彼の息子が抗争エリアに踏み止まり、ガレージを営んでいることについて、倫太郎は、有用な臨床りんしょうデータが得られるという程度の感慨しか持っていなかった。

 しかし、息子の訃報を聞いて、すぐに抗争エリアへ入り、一人残されたニカを引き取った倫太郎は、息子夫婦が何を成し遂げてきたのか、身をもって知ることになった。

 連日、ガレージを訪れる人々は後を絶たず、誰もが、世話になった息子夫婦の早過ぎる死に胸を痛めていたのである。

 倫太郎は、息子夫婦の代わりに、訪れた人々の面倒を看始めた。機械化技術は、抗争エリアの人々にとって、無くてはならないものになっていた。

「老い先短い身じゃあるが、俺はここへ骨を埋めることに決めた」

 ガレージの一室で、倫太郎が雷蔵に言う。

 雷蔵が、大きな溜め息をついた。

「若先生と奥さんまで亡くなっちまってたなんてよ……」

「機械化義肢の修理に来たマフィアの幹部がここで襲撃に遭ってな。巻き込まれちまったって話だ」

「ニカちゃんは、毎日、ウチの山茶花に会いにきてくれてんだよ。いつも明るい笑顔で……てめえの悲しみなんざ欠片も見せねえから、俺はちっとも気付けなかった……」

 雷蔵が歯を食いしばる。すると、倫太郎が、にっと笑った。

「大した子だよ。俺が来てすぐの頃はニカも泣いてばかりだったが、俺がここを継ぐ形で活動し始めたら、自分から手伝いを買って出て、もう泣かなくなった。山茶花ちゃんが家族を亡くしたって聞いたら、自分が出来ることをするんだって言ってな。この前、工房で何かこさえてたから見せてもらったら、廃棄する機械の部品で、器用に花を作っててな」

「花を?」

「山茶花ちゃんの妹も、花の名前なんだろ? お守りみたいなもんだって言ってたが」

 雷蔵の目頭が熱くなる。

「ありがてえよ。ニカちゃんみてえな子が、山茶花の友達でいてくれてよう……」

 鼻をすする雷蔵に、倫太郎が、にっと笑いかけた。

「ヤクザの親分ってのも、結構涙もろいもんなんだな」


 ニカは、雷蔵と入れ違いに、山茶花の許を訪れていた。

 庭で剣を振り続ける山茶花に、ニカが明るく話しかける。

 そして、「ねえ、これ、受け取ってくれないかな?」と、ニカが金属で出来た花を見せたとき、山茶花の顔色が変わった。

「どういうつもりなんだ!」

 山茶花が激昂げっこうする。思わぬ反応に、ニカが驚き、気遣う表情になる。

「あっ、ごめん! 何か気に障っちゃったら……」

「私に何があったのか知ってるんだろう! なんでそんなにへらへら笑っていられるんだ! そんなものを見せて何だっていうんだ!」

 ずっと蓋をしてきた感情が爆発したように、山茶花がニカへ詰め寄った。

 ニカは、怒らせてしまったことを悪いと思い、それでも、自分の想いを必死に言葉へ直して、山茶花に伝えようとする。

「あのね、みんな、今の山茶花をどこかから見てたら心配すると思うんだ。悲しいけど、忘れないけど、前を向いて生きるよってことを、いつも見失わないようにって願いを込め……」

「お前に何が分かるんだッ!!!」

 山茶花がニカの手から、鉄の花を払い落とす。

 地面に落ちた花を見たニカの顔に、初めて、何か途轍もない悲しみを堪えるような表情が過ぎった。

 憎悪と虚無しか無かった山茶花の顔に、ほんの一瞬、躊躇とまどうような表情が浮かぶ。

 だが、彼女はニカに背を向け、「帰ってくれ」と、冷たく言い放った。

「ごめんね」

 ぽつりと一言だけ伝えて、ニカの足音が遠ざかっていく。



 #8


 雷蔵が桐島組へ戻った頃には、雨が降り始めていた。

 雷蔵は、来ているはずのニカがいないことを不審に思い、山茶花に問い質した。

「あんまりしつこいから、帰れって言った」

 山茶花の答えを聞いた途端、雷蔵は、山茶花の頬を叩いていた。

「馬鹿もんが! あの子がどんな想いでお前の側に居続けたか分からんのか!」

 山茶花が怒鳴り返す。

「あんな気楽に笑ってる奴に私の何が分かる!」

「あの子も家族を失ったばっかりなんだぞ!」

 山茶花の表情が凍り付いた。

「……え?」

 雷蔵は怒鳴り続けていたが、もう、山茶花の耳には入っていない。

 ニカもまた、家族を失っていた。それが、何を意味するのか。

 ニカの笑顔が何を意味していたのか。

 毎日、会いに来ていたのは何故なのか。

 願いを込めた手作りの品を、どういう想いで届けに来たのか。

 幾つもの認識が、心の殻にひびを入れていく。

 突然、山茶花が駆け出し、雨が降りしきる庭に飛び出した。雷蔵が呼び止めたが、山茶花は地面に手をついて、必死に何かを探し始める。

 すぐに、雨と土に塗れた鉄の花が見つかった。山茶花は花を握り締めると、事務所の外へ駆け出していった。

 雨の中を走りながら、山茶花が、必死にニカの姿を探す。憎悪と虚無しか無かった彼女の顔に、後悔と焦燥の入り交じった表情が浮かび上がっていた。


 ニカは、雨に濡れながら、大岡川の川沿いを歩いていた。

「……やり方、間違えちゃったのかなあ」

 ぽつりと、声が漏れる。

「どうしたら、良かったのかなあ……」

 零れた涙が、頬を濡らす雨と混じり合っていく。しかし、ニカは、ぐっと奥歯を噛み締め、涙を拭った。

 心の中で、自分に言い聞かせる。

 私は山茶花を支えるって決めたんだ。今の山茶花がどんなに私を拒絶しても、どんなに酷いことを言われたって構うもんか。

 絶対に諦めない。

 心が上げる悲鳴を押し殺すように、ニカは拳を強く握った。

 そのとき、大きな声が、背後から彼女の名前を呼んだ。

「ニカっ!!!」

 ニカの目が見開かれる。ゆっくりと振り向いたニカの目に、山茶花の姿が映った。

「ニカ! ごめんなさい! 私は! 私のことばっかり! ニカの気持ちを考えもしないで!」

 涙声の叫びだった。山茶花の目から、涙が溢れていた。

 ニカは、信じられないものを見る顔で、吸い寄せられるように山茶花へ近付いていく。

 山茶花が叫んだ。

「私は! 一番の親友に、あんな酷いことを! ごめんなさいニカ! ごめんな、さ……」

 ニカが、山茶花を抱き締める。山茶花の言葉が途切れた。

 ニカから、震える声が漏れる。

「やった……良かった……!」

 山茶花が息を呑む。ニカが、山茶花に語りかけた。

「諦めなくて良かった……あたし、自分が諦めの悪い奴で良かったよ……!」

「ニカ……」

 山茶花は、返す言葉を見つけることも出来ず、ただ、ニカの名前を口にする。

 ニカが、山茶花の両肩を掴んで、万感の想いを込めた声音で言った。

「だって山茶花が帰ってきてくれた! あたしの知ってる山茶花が……!」

 目から涙を溢れさせながらも、ニカの顔にとても大きな笑みが浮かぶ。

 山茶花は、沢山の感情が溢れて、もう言葉にならない声を上げながら、ニカの腕の中で泣いた。

 雨脚が弱まり、空に蓋をしていた灰色の雲が形を崩す。

 微かな陽光が、二人の涙を、そっと輝かせた。



 #9


 ニカの話は、倫太郎の捕捉を交えながら、長い時間をかけて語り終えられた。

 ニカが、優しい笑みを浮かべながら、いつの間にか少女の頬に伝っていた涙を、指で掬い取る。

「……ありがとね。泣いてくれて。でも大丈夫。もう昔の話だから」

 少女が潤んだ目でニカを見つめ返したとき、ユーリャが柔らかな笑みを浮かべて、少女に言った。

「山茶花は、最初に貴女と会ったとき、貴女が生きていたことを知って、泣いたんですよ」

 少女が目を見開く。ユーリャが目を瞑った。

「あのときの涙の意味を、私は今日、ようやくきちんと知ることが出来ました」

 少女が問いかける。

「山茶花は今、どこに?」



 #10


 家族の墓前に立った山茶花が、ふっと苦笑する。

 彼女の目は、墓前に手向けられた雛菊の輪を見ていた。

「あいつも、もう気にしなくていいのに」

 それから彼女は、墓を洗い、掃除をして、墓前に花を手向けた。

 静かに目を閉じ、手を合わせて祈る。そして、墓に語りかけた。

「今年は遅くなってすまない。色々なことがあったんだ」

 ふと、気配を感じた山茶花が目を向けた先に、近付いてくるニカと少女の姿がある。

 ニカが、山茶花を上目遣いに見た。

「ちょっと色々あって、この子に昔のこと話しちゃった」

「えっ」

 山茶花が動揺した顔になる。

「ちょっと待て。どの辺のことを話したんだ?」

「ええと……おおむね全部?」

 山茶花が顔に手を当てて俯き、ニカが、誤魔化すように、あはは、と笑った。

 そのとき、少女が、山茶花の手を握った。

「ここに、山茶花の家族がいるの?」

 少女を見返した山茶花が、落ち着いた笑みを浮かべる。

「いや、ここにはいない。でも、遠いどこかから、私のことを見ているかもしれない。だから、心配しないように、私は元気に生きていると、時々伝えに来るんだ」

 優しく少女に伝える山茶花を、ニカが眩しそうな目で見守っている。

 少女が、山茶花の手を握る手に、力を込めた。

「山茶花の、妹の名前は?」

「雛菊だ。桐嶋雛菊」

「私……その名前で呼ばれたい」

 山茶花が、ほんの少し、驚いた顔になり、すぐに優しく微笑んだ。

「いや、雛菊は雛菊、君は君だ。君は何も背負う必要なんてない」

「でも……」

 少女が言葉を探していると、ニカが「あ」と声を漏らした。

「じゃあ、英語でデイジーって呼び名にしたらどうかな?」

 少女と山茶花が、ニカを見る。「デイジーか」と山茶花が呟いたとき、ギャビーの声が聞こえてきた。

「いいんじゃないか? 素敵な名前だぜ」

 ギャビーと傅、ユーリャの三人が近付いてくる。

 山茶花と傅の目が合った。山茶花が苦笑を浮かべ、傅も苦笑を返す。

 ギャビーが手を広げ、歌うような口調で言った。

「デイジーの花言葉は“純潔”に“美人”。君にぴったりのものが揃ってる。日本だと、他にもあるんじゃなかったかな?」

 ユーリャが、柔らかな笑みを浮かべる。

「“平和”というものもあります。あと、もう一つ」

 傅が、いつになく静かな口調で、言った。

「“希望”」

 少女が目を見開く。ニカが「凄くいいね!」と言いながら、明るい笑みを浮かべた。

 山茶花が、少女に問いかける。

「君は、デイジーでいいのか?」

 少女が頷き、口許を綻ばせた。

「デイジーがいい」

 傅、ギャビー、ユーリャが、揃って息を呑む。

 ユーリャが目を輝かせた。

「貴女の笑顔を初めて見れました!」

 ギャビーが「おいおい」と口を挟む。

「今のは俺に笑ったんだぜ?」

 傅が、いつもの飄然とした調子で言った。

「いや、僕に笑ったように見えたよ」

「親馬鹿か!」

 ニカが思わず声を上げると、珍しく山茶花が吹き出した。

 体をくの字にして笑う山茶花を見て、ニカが嬉しそうな顔になる。

 二人を見るデイジーの口許が、もう一度綻んだ。

 そのとき、デイジーの目が、山茶花の胸元に吸い寄せられる。

 山茶花の首に提げられたペンダントの先には、鉄の雛菊があった。

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