ep.7 午後三時の攻防

 #1


 ユーリャの右目は、二つの熱源反応を捉え続けていた。

 不可視の敵。後から現れた一体も、最初の一体と熱源反応の輪郭はそっくりだった。

 銃撃すら弾くからまとい、両腕の前腕には刃を備えている。

 二体は動きもよく似ていた。壁を蹴り、天井を蹴り、廊下の空間を縦横無尽に跳ね回りながら、凄まじい速度で攻撃してくる。

 二体の連携は異常なほど噛み合っていた。一体の刃を躱すと、躱した先にもう一体の刃が来る。回避した先へ、さらにもう一体の刃が飛び込んでくる。

 相手に休む暇を与えず、空間を削りながら追い込んでいくコンビネーション。

 一瞬でも対処を誤れば、金属すら滑らかに両断する刃が、ユーリャの体もばらばらに斬り刻んでしまうことは必至だった。

 ユーリャは、機械仕掛けの高速ステップワークで敵の攻撃を躱しているが、攻撃に転じる隙を見出すことが出来ない。

 そのとき、一体の目を正確に狙って銃弾が飛び込んできた。敵が咄嗟に首を捻り、殻の部分で銃弾を弾く。

 もう一体が天井を蹴って、ギャビーの背後へ回り込んだ。

 しかし、ギャビーの二丁拳銃が踊り、脇の下と頭の横から、背後の敵を見もせずに銃撃する。一発が目を、もう一発が右腕の関節を正確に狙い、敵が必死に体を捻って、殻で銃弾を弾いた。

 生じた隙にユーリャが踏み込み、右フックのモーションに入りかけたが、もう一体の敵が飛び込んで斬撃を走らせ、ユーリャが飛び退く。

 さらにもう一体が壁を蹴り、ユーリャの飛び退いた先へ飛び込もうとするが、ギャビーが相手の目を狙って正確に銃撃し、敵が殻で際どく銃弾を弾いた。

 敵の連携をギャビーの銃撃が寸断し、生じた隙をユーリャが狙う。

 敵もまた、連続する斬撃の連携へ、ユーリャとギャビーを追い込もうとする。

 激しい主導権の奪い合いだった。しかし、均衡は徐々に崩れ初めている。

 ユーリャの右目が捉えた視覚情報は、ロシアン・マフィアの本部で解析が続いていた。そして、解析結果が次々とユーリャに送り込まれている。

 敵の攻撃パターンを解析したデータから敵の動きを予測し、ユーリャは戦闘プランを更新し続けていた。

 敵の動きに合わせて最適化が進んでいくユーリャの動きは、無駄が極限まで削ぎ落とされ、洗練の極みへ達しようとしている。

 そして、敵の連携を寸断するギャビーの動きも、ユーリャの戦闘プランを形作る重要な要素の一つとなっていた。

 ギャビーもまた、自分がユーリャの戦闘プランに組み込まれていることを把握している。

 ギャビーは、敵の不可視化が完全ではないことに早くから気付いていた。

 敵の位置には僅かに空気の歪みが現れる。雷蔵らいぞうやミケーレでは位置の特定までには至らなかったが、ギャビーは微かな空気の歪みと物音と気配から、相手の位置を的確に捉えることが出来た。

 そして、卓越した空間把握能力を駆使し、相手を見もせずに銃撃をヒットさせていく。

 敵には銃撃を弾く殻があり、再生能力もあるが、ギャビーの銃撃は、目や関節など、殻の無い部位や薄い部位を正確に狙っていた。

 もし命中すれば、再生するまでの間、敵は動きに大きな制約を抱えることとなり、ユーリャの打撃を躱すことが難しくなる。

 ユーリャの打撃が連続して入れば、敵を一時的に行動不能へと追い込める可能性もあった。

 敵も、この可能性に気付いている。だからこそ、敵はギャビーの銃撃を回避せざるを得ず、その度に連携を断ち切られているのだ。

 ギャビーもまた、ユーリャを自らの戦闘プランに組み込み、戦いの流れを掌握しているのである。

 ギャビーとユーリャの連携が噛み合い、ユーリャの最適化が進むにつれて、戦闘はジョーカー側の優位に傾きつつあった。

 不敵な笑みを浮かべたギャビーが、歌うような声音で敵に問いかける。

「どうしたお二人さん? チークタイムにはまだ早いぜ?」



 #2


 傅は、建物から建物へ飛び移りながら、高速で飛び込んでくる黒い触手を躱し続けていた。

 黒い殻を纏った敵は、触手を建物の柵などに絡め、自らの体を引き寄せながら傅を追ってくる。

 刃のように変化する触手が、傅の周囲にあるものをことごとく斬り刻んでいった。

「さあ必死に逃げたまえ! 迫り来る死に恐怖したまえ! そして、私に見せてくれ! 修練の日々が無価値な塵となる瞬間を! 君の絶望を!」

 黒い男は叫び続けていたが、快楽に歪んだ目のずっと奥では、やけに冷ややかな光が傅の挙動を観察し続けている。

 しかし、傅は、観察されていることに最初から気付いており、全ての動きに虚実きょじつを仕込んでいた。

 右に跳ぶと相手に読ませ、実際には左へ跳ぶ。

 正面から飛び込むと見せて、後方へ跳び、間合いを広げる。

 相手は、傅の動きを注視しているが故に虚実に囚われ、彼の触手は傅を捉えることが出来ないでいた。逃げ続けている傅が、実は相手を翻弄ほんろうし続けているのである。

 やがて、触手の動きに変化が生じた。

 一本の触手が傅の頭上を走る。狙いに気付いた傅が跳躍した直後、支柱を壊された貯水タンクが、傅のいた場所に落下した。

 別の触手が、アンテナをもぎ取り、傅に向かって投擲する。

 傅がアンテナを躱すと、また別の触手が室外機を傅に叩きつけてきた。

「おお! 世界の終わりのようだ! 君の絶望も、すぐそこまで来ているぞ!」

 黒い男は、傅の動きを捉えきれないと認め、まず、傅の動きを制限しようとし始めた。

 言動とは裏腹に、冷静で計算高い相手だと、傅は確信する。

 だが、相手の計算もまた、傅の計算の内だった。

 一本の触手がビルの鉄柵をもぎ取ろうとしたとき、逃げ続けていた傅が、突然、触手に向かって跳躍する。

 一瞬で触手に肉薄した傅が掌底を打ち込んだ。

 途端に触手が痙攣し、力を失って落下していく。

 傅が、笑みの貼り付いたような顔で、言った。

「やっぱりね。この触手は君の体の一部。水分を含んだ生き物の体というわけだ。ならば、浸透勁しんとうけいが通る」

 触手の動きは極めて速い。傅の技巧を以てしても、自分に真っ直ぐ向かってくる触手へ浸透勁を通すことは困難だった。

 だが、自分以外の物に向かう触手を横から狙うならば、話は別である。

 傅の狙いに嵌まった黒い男は、悔しがる素振りを見せず、両腕を開いて恍惚とした声を返してきた。

「ああ……こんな素敵な最後の足掻きを見せてくれるなんて……君の絶望が、さらに甘く切ないものになっていくよ!」

 傅は、男の言動を意に介さず、さらに言う。

「君の体を覆う黒い殻も、浸透勁を阻むことは出来ないよ」

「やって見せてくれ! もっと足掻いてみせてくれ!」

 叫び声と共に、残る二本の触手が傅へ襲いかかった。

 傅は、一本を跳躍して躱し、着地と同時に滑るような足捌きでもう一本も躱すと、触手に手の平を向ける。

 相手が触手を素早く傅から引き離した。すると、触手を追うように踏み込んだ傅が、今度は黒い男の本体に向かって、真っ直ぐ跳躍する。

 そう認識した黒い男が、触手を遠間の鉄柵に絡め、大きく飛び退いた。

 しかし、傅は、一歩も動いていなかった。

「おや? 何をそんなに驚いているのかな?」

 傅が煽るように飄々と言い放つ。

「ああ……君はどこまで素晴らしいんだ。もうハニーと呼んでも構わないかね?」

 黒い男が気味の悪い言葉を口にしたが、傅の表情には些かの乱れも無かった。

 今や傅は、言葉と動きによって、相手の動きを半ば操っている。

 さらに相手を崩し、懐に飛び込むためのシナリオも、傅の中で整いつつあった。



 #3


 赤毛の女が凄まじい速度で身を沈めて斬撃を躱し、地面に手をついて蹴りを繰り出す。

 山茶花は素早く飛び退いて蹴りを躱したが、素早く地を蹴った赤毛の女が、一瞬で間合いを詰めてきた。

 山茶花が相手を振り払うように斬撃を走らせる。だが、相手は斬撃を飛び越えながら飛び蹴りを放ってきた。

 山茶花が躱し、素早く相手に向き直る。

 着地した相手が、そのまま勢いを殺さずに地面を滑り、遠間の間合いで止まった。

 赤毛の女は、トリッキーな技の組み立てと、山茶花に匹敵する速度によって、戦いを自分の色に染め上げている。

 対する山茶花は、未だ集中を欠きながらも、洗練された武道の身体運用を駆使して、どうにか拮抗していた。

 赤毛の女が、激しくステップを踏みながら叫ぶ。

「いいねいいねいいね! もっともっともっと上げていこうぜ!!」

 時間を追う毎に、より深く戦闘へ没入していく赤毛の女。興奮状態であるにもかかわらず、集中力も上がり続けており、反応の鋭さや動きの切れが増してきている。

 一方の山茶花は、少女とニカのことが気にかかり、戦闘に集中し切れていなかった。

 相手のペースに呑まれることを危惧した山茶花が、胸元に提げられたものを握る。

 しかし、いつも心の乱れを静めてくれた手の中のものすら、募り続ける焦燥感を消し去ってはくれなかった。

 赤毛の女が、享楽的な叫び声を上げながら地を蹴る。

 山茶花は、心を立て直せないまま、刀の柄を握り直した。



 #4


 藍染ニカは、赤い車が十字路を左折したとき、賭けに出た。

 商店街の中へ走り込み、狭い路地を次々と駆け抜けていく。

 いつも外回りの仕事で街を走り回っているニカは、毛細血管のような細かい路地まで完全に把握していた。

 商店街の中をショートカットしたニカが、狭い路地から通りへ飛び出す。

 ちょうど、目の前を赤い車が通り過ぎ、ニカは、食らいつくように車を追った。

 カーマインも、バックミラーにニカの姿を捉えている。

 カーマインはニカを知らなかったが、彼女が形振り構わず追ってきていることはすぐに分かった。

 舌打ちしたカーマインが拳銃を抜く。

 そして、左手でハンドルを握ったまま、窓から身を乗り出して、銃口をニカに向けた。

 このときカーマインは、再生を終えた少女が目を覚ましたことに、まだ気付いていなかった。


 少女は、一瞬、自分の置かれた状況が把握出来なかった。

 だが、運転席の男が後方に銃撃する姿を見て、身を起こし、後ろを振り返る。

 バイクを蛇行させながら、銃の狙いを外している女性の姿を見たとき、少女はすぐに、ガレージで会った人物だと分かった。

 ガレージで目覚めたとき、明るい笑顔で、ここにいる大人はみんな君の味方だと言ってくれた女性。

 少女の頭を、様々な認識が一時に襲った。

 運転席の男が、自分を撃った男だということ。

 きっと自分は連れ去られたのだということ。

 そして、ニカがおそらく自分を助けるために、危険を冒してこの車を追っているのだということ。

 少女が意を決した顔になり、後部座席から身を乗り出して、カーマインの銃を持つ手にしがみついた。

「なっ! このガキ!」

 叫びながらカーマインが発砲する。ニカの体を狙った銃弾は、少女の抵抗によって逸れたものの、バイクの前輪を抉っていた。

 前輪がバーストし、ハンドルをとられたニカが転倒する。

 カーマインが少女の手を振り払おうとするが、少女はしがみついて離れなかった。

 カーマインがハンドルにかけていた左手を離し、少女の髪を引っ掴む。

 そのとき、二人を衝撃が襲った。


 ニカが、飛び出すようにしてバイクから体を離し、脱力して路面を転がる。

 咄嗟の対応で、滑っていくバイクに巻き込まれることは避けたが、衝撃は殺し切れなかった。

 うつ伏せの姿勢で回転が止まる。ニカは、すぐに動くことが出来なかった。

「うぅ……」

 ニカの口から呻き声が漏れる。衝撃で、まだ頭がぼんやりしていた。

 体中が痛み、肌は路面で擦れて、あちこちに血が滲んでいる。

 そのとき、大きな音が響いた。ニカが、はっとして顔を上げる。

 ニカの目に、赤い車が信号待ちのトラックに追突し、動きを止めている様が映った。

 ニカが息を呑み、急いで立ち上がろうとしたが、体が重く、思うように動けない。

 やっとの思いで上半身を起こしたとき、赤い車のドアが内側から蹴り開けられた。

 カーマインが降りてくる。鼻血を手の甲で拭ったカーマインは、血走った目でニカを睨み、片足を引き摺りながら近づいてきた。

「やってくれたな……!」

 カーマインがニカに拳銃を向ける。ニカは諦めずに動こうとするが、体は言うことを聞いてくれなかった。

「死ね!」

 銃声が轟く。

 ニカが、きつく目を瞑った。

 だが、いつまで経っても銃弾は飛んで来なかった。

 恐る恐る目を開いたニカが、驚いた顔になる。

 銃を持ったカーマインの腕を、体の大きな若い男が、機械化した右腕で引っ掴んでいた。

「ユキオくん!」

 ニカが声を上げる。カーマインが、突然の乱入者に声を荒げた。

「何だお前は! 邪魔をするんじゃねえ!」

「うるせえ! てめえ、この人が誰だか分かってて手え出してんのか!」

 ユキオが怒鳴り返す。さらに、追突されたトラックから親方も降りてきて、カーマインを羽交い締めにした。

 そのとき、道の周囲に集まってきた人々が、口々にニカの名前を呼びながら、心配そうな顔で駆け寄ってくる。

 集まってきた者は皆、体の一部を機械化していた。ニカを助け起こす者がおり、ユキオや親方と一緒にカーマインを取り押さえる者もいる。

 皆、ガレージでニカの世話になったことがある者ばかりだった。

 路面に引き倒されたカーマインへ、親方が呆れたような顔で言う。

「馬鹿な奴だなお前。あのに銃を向けた時点で、この街の人間の半分くれえは敵に回したようなもんだぞ?」

 ユキオが、ニカに心配そうな顔を向けた。

「大丈夫かよニカさん!」

 ニカが、大きな声を返す。

「あたしは大丈夫! それより車の中にいる女の子を助けてあげて!」

 ユキオが車に駆け寄った。腕を機械化した人間がさらに数人集まり、歪んだドアをこじ開けて、少女を助け出す。

 ニカが、ふらつきながらも、自分の足で歩いて、少女に近付いた。

 地面に寝かされた少女が、体を起こそうとしている。

 追突の衝撃で、まだ体が上手く動かない少女の前に、ニカが屈み込んだ。

「もう大丈夫だよ」

 ニカが優しく声をかけると、少女が問いかけてくる。

「みんなは……?」

 ニカは、山茶花が赤毛の女と戦っていたことを伝えた。

 少女は、山茶花の相手がキャリアの一人だと確信し、ニカの目を真っ直ぐ見つめて言う。

「私を……みんなのところへ……」

「駄目だよ! 君はまず治療を……」

 ニカの言葉を遮るように、少女が言った。

「私の力が必要なの……お願い……!」

 少女の目に宿る、弱っていながらも力強い意志を湛えた輝きを見て、ニカの表情が引き締まる。

「分かった!」

 ニカが頷くと、親方が、「アレに乗ってきな」と言いながら、追突されたトラックを親指で示した。

 トラックは、後部のアオリやダンパーが盛大にへこんでいたが、走行は出来そうな状態だった。親方が声を上げる。

「ユキオ! 運転してやれ!」



 #5


 赤毛の女と山茶花の間合いが開いたとき、赤毛の女が、凄みと無邪気さの混じった顔で笑った。

「どうなってんだよアンタ! ギア4で仕留め切れないなんてさ!」

 山茶花は、未だ集中を欠きつつも、次の一手に思考を巡らせている。

 以前戦ったキャリアと同じ特性を赤毛の女が持っているとすれば、致命傷を与えても再生する恐れがあった。

 だが、腕や足を切断出来れば、再生するまでは相手の動きに制約を課すことが出来る。

 山茶花の狙いが決まったとき、赤毛の女が踏み込み、凄まじい速度の後ろ回し蹴りを繰り出してきた。

 飛び退いて躱した山茶花の斬撃が、蹴り足を狙う。赤毛の女が信じ難い反応で蹴り足の軌道を変え、斬撃は浅い傷を残すに留まった。

 体を回転させながら体勢を立て直した赤毛の女が、バックブローを放つ。

 山茶花が、飛来する拳に斬撃を合わせた。赤毛の女が体を捻って躱し、回転を止めずにローキックのモーションへ繋いでくる。

 蹴り足に斬撃を合わせたとき、山茶花の顔に緊張が走った。

 ローキックと思われた相手の足が跳ね上がり、斬撃を外しながら山茶花の頭を強襲する。

 山茶花が全力で飛び退いて躱したが、体勢が僅かに崩れた。立て直すより早く、赤毛の女が踏み込んでくる。

 山茶花の目が、女の挙動に引き付けられた。

 女は、山茶花の足元へ、頭から飛び込んでくる。

 足元に目を向けた瞬間、山茶花は自分のミスに気付いた。

 形振り構わず、必死に後方へ跳んだとき、死角から飛び込んできた女の拳が、山茶花の鼻先を通り過ぎる。

 女のフィニッシュブロー、“スレッジハンマー”が、再び路面に叩き込まれ、アスファルトが爆ぜた。

 山茶花は完全に体勢を崩しており、飛び散った破片を躱すことが出来ない。幾つもの破片が山茶花の体を掠め、一つが彼女の頭を強く打った。

 山茶花の意識が、ほんの一瞬、飛びかける。

 致命的な隙だった。

 素早く体を起こした赤毛の女が、山茶花の頭に向かって左拳を強振する。

 直撃すれば頭を粉々に砕いてしまうであろう一撃が、山茶花の顔面に吸い込まれていく。

 山茶花は、迫る拳を目に映しながらも、飛びかけた意識の中で状況を認識しきれていない。

 そのとき、大きな声が、彼女の名を呼んだ。

「山茶花っ!!!!」

 ニカの声が山茶花の意識を叩く。山茶花が一瞬で覚醒する。

 同時に山茶花の肉体が反応し、蓄積された数え切れない武の動きから、今、この瞬間を制するために最適な動きを、一瞬で選び取っていた。

 山茶花の足が滑るように動き、体勢を立て直しながら女の拳を紙一重で躱す。

 そして、同時に身を退きながらの斬撃を繰り出していた。

 赤毛の女が驚愕の表情になる。しかし、彼女もまた、凄まじい反応を見せた。

 打撃を放った直後の不安定な体勢であるにも関わらず、獣のような身のこなしで体を捻り、斬撃を皮一枚で回避する。

 赤毛の女が飛び退き、間合いが開いた。

 山茶花の目が、声の聞こえた方角へと向けられる。

 彼女の視界に、ニカと少女の姿が映った。

 トラックから降りる二人。ニカが、少女の体を支えている。二人が山茶花に目を向け直したとき、山茶花の目は、再び赤毛の女に向かっていた。

 山茶花の横顔に、破片を受けた傷から血が一筋伝っている。

 破片が掠めた体のあちこちにも血が滲んでいた。

 傷だらけの姿。対する赤毛の女は、手足に受けた浅い刀傷も既に消え去っている。

 だが、少女とニカの目には、山茶花が追い込まれているようには見えなかった。

 山茶花の横顔から、一切の迷いが消えている。凛とした表情で赤毛の女を見据える山茶花から、力強い気勢が生じていた。

 山茶花が、胸に提げたものを再び握る。

 今度こそ、彼女の気勢が一瞬で細く、鋭く収束した。

 赤毛の女もまた、戦いの流れが変わったことを感じ取り、ぴたりと動きを止める。

 空気が張り詰めたような緊張を生じる中、山茶花は、初めて冷静な目で相手を見ていた。

 赤毛の女は、全身に大量の汗をかいており、呼吸も荒くなっている。

 そして、体表に微かな異常が顕れていた。全身に浮き上がった血管が、時折痙攣するように蠢き、体表のあちこちに、痣のような染みがほんの一瞬、浮かび上がっては消えていく。

 山茶花は推測する。

 赤毛の女が駆使する異常な速度は、体にかかる負担も大きいのではないだろうか。

 そして、小さな不具合が幾つも発生しており、再生能力で即座に直しているのではないだろうか。

 再生能力も、乱用すれば体力を失うのではないか。

 傷は治せても、疲労は体に蓄積しているのではないか。

 そのとき、赤毛の女が、壮絶な笑みを浮かべた。

 彼女の体から、大量の水蒸気が立ち昇り始める。

「……ギア5。トップギアだぜ……!」

 女の呼吸がどんどん早くなっていく。山茶花は、これから相手が使う力は、大きなリスクを孕んだ諸刃の剣だと確信した。

 

 ここが、勝負所だ。

 

 山茶花は、心の中で自分に言い聞かせていた。



 #6


 傅と黒い男は空中戦を続けていた。

 浸透勁を警戒する余り、傅を触手で直接攻撃出来なくなった黒い男は、様々な物を傅に投げつけたり、落としたりという絡め手を続けているが、傅が、徐々に間合いを詰めている。

 移動しながら戦っていた二人は、山茶花と赤毛の女が対峙している様子を、同時に視界へ収めた。

 赤毛の女が、全身から水蒸気を立ち昇らせている。

 そして、ニカに支えられた少女が、すぐ側まで近付いている。

 状況を見た瞬間、黒い男が身を翻し、山茶花と赤毛の女が戦っている場へ、全速で移動し始めた。


 少女が、ニカに言った。

「私を、もっと山茶花の近くに」

 頷いたニカが、少女と共に、じりじりと戦いの場へ近付いていく。

 そのとき、異様な咆哮を上げた赤毛の女が地を蹴った。

 女の姿が、少女とニカの視界から完全に消える。

 そして、山茶花の姿も、同時に消え去っていた。


 山茶花は、踏み込んだ瞬間に、相手の速度が自分より上だと悟った。

 だが、山茶花の表情に動揺は無い。武道の身体運用と身体能力を噛み合わせ、最小限の動きで攻撃を躱す。

 そして、躱す動作が、同時に斬撃を繰り出す動作にもなっていた。

 赤毛の女が凄まじい反応で斬撃を躱して反撃するが、山茶花は再び、僅かな動きで回避と斬撃を同時に成立させる。

 淀みの無い攻防一体の動きが生み出す、時間を飛び越えるような山茶花の攻勢。

 赤毛の女は、速度において山茶花を上回りながらも悉くせんを取られ、これまでとは逆に、山茶花によって戦闘を支配されていた。

 追い込まれた赤毛の女が、咆哮を上げながら山茶花の足元へ頭から飛び込んでいく。

 女のフィニッシュブロー、“スレッジハンマー”

 だが、山茶花にとって、見るのは三度目の技。

 山茶花は、攻防一体の動きでスレッジハンマーを外すと同時に、刀を振り抜いていた。

 女の右腕が、宙を舞う。

 女の顔が驚愕に彩られたとき、不意に、女の動きが鈍った。

 山茶花が、目の端に少女とニカの姿を捉える。少女が、赤毛の女に向けて、必死に手をかざしていた。

 がくん、と女の体が泳ぐ。女の目、鼻、耳から血が噴き出す。

 赤毛の女は、吐血しながら地面に両膝をついた。

 そのとき、山茶花の頭上から、傅の声が降ってくる。

「山茶花! 躱せ!」

 頭上を一瞥いちべつした山茶花が、素早く飛び退いた。

 黒い触手が山茶花のいた場所を薙ぎ、そのまま赤毛の女を絡め取る。

 もう一本の触手が落ちた右腕に絡みつき、宙空へ引き上げた。

 触手に絡めた女ごと、黒い男が飛び去っていく。

 追っていく傅を見て、山茶花も後を追おうとした。だが、山茶花は、膝から力が抜けるような感覚と共に、路面へ片膝をついてしまう。

 山茶花の体は、本人が思っていた以上に消耗していた。

 少女をニカが支え、山茶花に近付いていく。



 #7


 ギャビーとユーリャの側でも、二体の敵が突然撤退し始めた。

 窓ガラスを割り、隣のビルへ跳躍した二体を追って、ユーリャも跳ぶ。

 ギャビーは、溜め息をつきながら、階段を駆け下りていった。

 建物から建物へ移動していく二体を追ったユーリャは、やがて、傅と、触手を翻した黒いキャリアの姿を見る。

 不可視のキャリア二体も、黒いキャリアと同じ方向へ逃げていく。

 黒い触手が、何度か傅とユーリャを襲い、その度に、傅たちと敵の距離が開いた。

 やがて、キャリアたちが、大岡川の河川上にあるゲートへ近付き、停泊していた船へ飛び乗る。

 傅とユーリャが川の上から見下ろしたとき、バイクで追い着いてきたギャビーが、離れていく船に向かって対戦車ロケット弾を撃ち込んだ。

 しかし、黒いキャリアの触手が走り、ロケット弾を寸断する。

 空中で爆発したロケット弾を見て、ギャビーが「おいおい」と声を上げた。

「旦那はあんな化け物とやり合ってたのか?」

「もう一つ仕掛ければ崩せそうだったんだけどね。いきなり撤退したのは想定外だったよ」

 実に残念、と口走る傅を見て、ギャビーが呆れたような顔になる。

「逃げられてしまいましたね」

 ユーリャは、船が消えたゲートの向こうに、未だ目を向け続けていた。



 #8


 山茶花が、ふらつく体で立ち上がる。

 ニカと少女が、ふらつく足取りで山茶花に近付いていく。

 三人は、互いの体を支え合うように抱き合った。

 山茶花が、途方も無い安堵のこもった声を漏らす。

「良かった……二人が無事で……」

 ニカが苦笑した。

「かえって心配かけちゃったかな」

「いや……」

 山茶花が首を振る。体を離した山茶花が、少女に目を向けた。

「ぎりぎりの勝負だった。君が奴を止めてくれなかったら、危なかったかもしれない」

 山茶花の口許に、穏やかな笑みが浮かぶ。

「また、君に助けられた」

 ニカも、少女に優しい笑みを向けた。

「あたしも助けてもらったね。見えてたよ。君が頑張って、あたしに向けられた銃口を逸らしてくれてた」

 少女が、弱々しい声で、二人に問いかける。

「私……恩義に……報いられた?」

 山茶花が、泣き出しそうな顔になった。

「勿論だ……ありがとう」

 絞り出すような声で、山茶花が答える。

 二人を見つめるニカが、慈しむような表情になる。

 そのとき、少女の意識が遠のいた。

 山茶花が、慌てて少女に呼びかける。ニカが、少女の状態を素早く確認し、山茶花に大丈夫と伝えてから、少女をガレージへ運ぶためにユキオを呼ぶ。

 心配そうに少女の顔を見た山茶花から、とても小さな「あっ」という声が漏れた。

 目を閉じた少女の口許が、微かに綻んでいる。

 山茶花が初めて見る、少女の笑みだった。

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