ep.5 悲しみは海ではないから、すっかり飲み干せる(2016.03.22改稿)

 #1


 古い雑居ビルの前で、三つ揃えのスーツを着た白髪はくはつの男が一礼した。

 ギャビーが笑みを浮かべる。

「よう、ドメニコさん。あんたが直々に案内役とはね」

 ドメニコ・ボルセリーノ。イタリアン・マフィアの事務方を取り仕切る人物である。

 彼に導かれ、ジョーカーたちと少女は、ビルの中へ入っていった。


 ビルの中は、壁のペンキがあちこち剥がれ、廃墟のようだった。

 一階のホールには、三つのトランクと、茶箱ちゃばこが一つ置かれている。

「こちらは、円卓よりお嬢さんに贈り物です」

 ドメニコは、それぞれが誰からの贈り物か説明した。

「主に衣類ですな。他に入り用な物はこれから揃えるとして、買い物に行くにもひとまず衣類は必要だろうと」

 少女は今、Tシャツとカーゴパンツ、パーカーを着ていた。ガレージで貰ったニカのお下がりである。

 ミケーレからの荷物をあらためたギャビーが口笛を吹いた。

「流石、ミケーレさんだ。なかなか洒落てる」

 ギャビーが、トランクの中身を少女に見せる向こうで、トーマからのトランクを開けたユーリャも声を上げる。

「まあ! こちらも素敵です」

 ユーリャが、黒いワンピースを少女に見せた。

 そのとき、茶箱を開けた山茶花さざんかが「うっ」と声を漏らした。彼女はふたを閉めようとしたが、ギャビーとユーリャが開けてしまう。

 中には、セーラー服や浴衣ゆかた、どてらなどが入っていた。

 ユーリャが浴衣を手にとり、「とても素敵」と微笑む横では、顔を紅潮させた山茶花が雷蔵らいぞうに電話をかけている。

「なんで私のお下がりなんだ! 他に何かこう、あるだろう!」

 パタン、という音を聞いて、ギャビーとユーリャがフーに目を向けた。

 傅は、笑みが貼り付いたような顔のまま、トランクの蓋を閉めている。

「これは、見なかったことに」

 しかし、ギャビーとユーリャがトランクを開けてしまった。

 中には、真っ赤な生地に金色の花が咲き誇るチャイナ・ドレスが入っていた。

 丈が短く、深いスリットが入っている。

 ギャビーとユーリャの顔から表情が抜け落ちた。

 傅が、床に向かって呟く。

ロー老師は、ちょっと変わった人でね」

「では、私はこれで」

 ドメニコがうやうやしく一礼し、部屋を出ていった。



#2


 その後、ユーリャと傅が私物を取りに行き、山茶花とギャビーが少女を連れて買い物に出た。

 少女が使う家具や小物などを買い、特警の本部に寄るため、飲食街へ入っていく。

 飲食街の建物はどれも銃痕じゅうこんまみれになっていたが、食事処しょくじどころの多くは何事も無かったかのように営業していた。

 一行が銃撃戦で半壊した店の前を通りかかると、「山茶花さん!」と呼びかける声がある。

 店を補修している男たちの中から、体の大きな若い男が、いかつい顔を笑顔でくしゃくしゃにして挨拶してきた。

 山茶花も、親しみのこもった表情になる。

「真面目に頑張っているようだな。右腕の調子はどうだ?」

 若い男が、機械の右腕で、力こぶを作るような仕草をした。

「絶好調ですよ。最高の腕ですよ」

 少女が、興味深そうに機械の腕を見つめていると、屋根の上から年配の男が怒鳴る。

「ユキ! まだ休憩じゃねえぞ!」

「親方! 山茶花さんが……」

「見えてるよ! お前はとっとと作業に戻れ!」

 へい! と返事をした若い男が、山茶花に頭を下げて、作業に戻っていった。

 少女が見上げると、年配の男が山茶花に手を振っている。

 彼の右腕もまた、機械だった。


 特警の本部を回った三人が拠点に戻ると、今度は、山茶花とギャビーが私物を取りに行き、傅とユーリャが少女と共に買い物へ出た。

 下着や寝間着ねまきなど、トランクに無かった衣類を揃え、昨夜の軍事車輌を調べるために大通りを回る。

 拠点へ戻っているとき、少女が、二人に問いかけた。

 右腕を機械化した若者のこと。傅が、「ああ、ユキオくんのことだね」と答えた。

「体を機械化した人間を見るのは初めてかな?」

 少女がこくりとうなづく。

「封鎖区域では、体を機械化している人間は珍しくない。みんな、色々と事情があってね。そして、ユキオくんの事情には、山茶花が絡んでいるんだ」

 傅が、歩きながら話し始めた。

「四年くらい前だったと思う。その頃のユキオくんは乱暴者でね」

 飲食店で、目に余る振る舞いをしていたユキオを親方が注意したところ、激昂げっこうしたユキオが鉄パイプで親方に暴行した。

 親方は機械の右腕で防いで軽い怪我で済んだが、右腕は半壊してしまった。

「親方がガレージを訪れたとき、たまたま山茶花が来ていてね。話を聞いた山茶花は、無言で飛び出していったそうだよ」

 やがて、右腕を失い、出血で朦朧もうろうとするユキオをかついで、山茶花が戻って来た。

 その後、ユキオの右腕は機械化されたが、最初はほとんど動かすことが出来なかったという。

「機械化義肢は、取りつけてもすぐには動かせないんだ。時間をかけて練習し、段々と上手く動かせるようになる。ユキオくんも倫太郎りんたろう先生からそうさとされて、自宅に帰されたそうだよ」

 その後、利き腕が動かず難儀なんぎしていたユキオの許を、親方が訪れた。

 何しに来たとわめくユキオをなだめた親方は、ユキオと自分の腕がほぼ同じ型であることに触れ、自分と同じようにリハビリすれば、ちゃんと動くようになると説明した。そして、リハビリに協力すると申し出た。

「親方は、山茶花がいるときにユキオくんの話をした自分にも責任があると言ったそうだよ。その日から、親方は毎日、ユキオくんのリハビリを手伝った。その内、親方の下で働いている職人たちまで協力し始めたそうだよ」

 リハビリは三ヶ月に及んだ。倫太郎が課した最後の課題は、生卵を綺麗に割ることだったという。

 三ヶ月目のガレージで、ユキオは生卵を割る課題に臨み、親方と職人たち、倫太郎とニカ、山茶花が見守っていた。

 ユキオの表情は真剣そのもので、乱暴者だった頃の面影おもかげは無くなっていた。

 ユキオが卵を割り、黄身が崩れずにボウルの中で落ち着くと、親方も、職人たちやニカも、自分のことのように歓喜の声を上げた。

 倫太郎が、「合格だ。よく頑張ったな」と言ったとき、ユキオが泣き出した。

「その場にいた全員が、ユキオくんにとってかけがえの無い恩人になった。山茶花も、改心するきっかけをくれた恩人というわけでね。まあ、当の山茶花は、やり過ぎたと思ってるふしがあるから、この話になるとばつが悪そうな顔になるんだけどね」

 傅が話し終えると、ユーリャが、可笑しそうに笑みをこぼした。

 少女がユーリャの右手を見つめる。気付いたユーリャが、落ち着いた口調で言った。

「私の場合は、ユキオさんとはかなり事情が違います。私は、物心ついたときには体のほとんどを機械化されていました。ですから、私にとっては、自分の体が機械だということは、当たり前のことでした」

 ユーリャが、自分の右手に目を向ける。

「私の体は、兵器として作られています。私はずっと、人間を殺すためだけに存在する、生きた兵器でした。でも、今は違います」

 ユーリャが、少女の顔を見つめる。

「この封鎖区域では、長い戦いがありました。そして戦いが終わったとき、私の主人が言ったのです。殺し合いの時間は終わった。これからのお前は、兵器ではなく、人間として生きろと」

 少女の目が、少し見開かれた。「人間として……」という声が漏れる。

 ユーリャが頷いた。

「兵器として生きてきた私にとっては、とても難しい問題でした。でも、この街を守る、という使命を与えられて、ようやく私は変われました」

 ユーリャが、優しい表情になる。

「人を傷つけるだけだった私の力が、人を守るための力に変わったのです。今では、守りたい人が沢山います。みんな、今の私と仲良くしてくれます。私は、そんな人たちの住むこの街が大好きなんです」

 ユーリャの顔に、柔らかな色合いの花が咲いたような笑みが浮かんだ。

 少女の表情も心持ち柔らかくなる。傅も、思わず笑みを大きくしていた。



#3


 三人が拠点に戻ると、ホールには、ギャビーによって、ソファやガラスのテーブルなど、趣味の良い家具が配置されていた。

 皆がソファに落ち着くと、山茶花が言う。

「話し合っておきたいことがある」

 山茶花が問いかけたのは、ジョーカーに出動の要請が来たとき、少女をどう守るか、という点だった。

 四人から様々な案が出る。少女は、やり取りにじっと耳を傾けていたが、やがて、ぽつりと声を漏らした。

「私は、一人でも大丈夫」

「いや、そういうわけには……」

 山茶花の声をさえぎるように、少女が言う。

「私は、普通の人間より、速く動ける」

「特警の本部で聞いたぜ」

 ギャビーが言った。

「傅の旦那や山茶花と同じくらい足が速いって話だ」

 傅が「ほう?」と興味深そうな顔になる。ギャビーが、少女に問いかけた。

「あと、壁を飛び越えたってのは、本当かい?」

 少女が頷く。ギャビーが口笛を吹いた。

 傅が、少女に目を向ける。

「ちょっと、試してみようか」


 ホールのテーブルに置かれたラップトップが、拠点の屋上から見た街並みを映し出す。

 屋上には、少女と傅の姿があった。画面を覗き込む山茶花とギャビーへ、ラップトップのスピーカーからユーリャの声が届く。

『見えていますか?』

 画面に映っているのは、ユーリャの右目が捉えた視覚情報である。

 傅の提案は、少女が全力で逃げ、傅が追いながら少女の身体能力を検証するというものだった。二人をさらにユーリャが追い、山茶花とギャビーに実況する手筈である。

『では、始めましょう』

 ユーリャが告げた瞬間、少女が走り出し、柵を跳び越えた。

 山茶花とギャビーが瞠目どうもくする。少女の驚くべき身体能力。隣のビルまで軽々と飛び移り、さらに速度を上げて次の建物へと跳躍ちょうやくする。

 続いて傅が跳び、ユーリャの視点も、傅の背中を追った。

「凄いな……」

 山茶花から声が漏れた。ギャビーが「ああ」と答える。

「こりゃ、思った以上だ」

 少女の姿が、どんどん小さくなっていく。

『これは速すぎます。私では追い着けません』

 ユーリャが声を上げたとき、傅が振り向いた。

『じゃ、お先に』

 傅が速度を上げる。彼の姿が見る間に遠ざかり、少女へ近付いていく。

 ユーリャもかなりの速さで移動しているはずだが、二人との距離は開く一方だった。

『追い着けないので拡大しますね』

 画面の中で、傅と少女の姿が拡大される。

 少女は、傅に涼しい顔で追い着かれ、ぎょっとした顔になっていた。

 少女がさらに速度を上げるが、どれだけ速く動いても、平然とした顔で傅が追い着いてくる。

「ちょっとあおり過ぎじゃないか?」

 山茶花が怪訝けげんそうな顔になった。ギャビーが苦笑する。

「傅の旦那、ときどき大人げないところがあるからな」

 そのとき、二人が同時に「ん?」と声を漏らした。

「止まったな」

 ギャビーが言う。山茶花が「ああ」と声を返す。

 建物の屋上で、少女が地面に両手をついて項垂うなだれている。

 傅が、慌てたように駆け寄っていた。

 ギャビーが言う。

「これは、落ち込んでるんじゃないのか?」

 山茶花が駆け出した。


 少女が足を止めた建物の屋上に、全員が集まっていた。

「すまない、やり過ぎた」

 傅が眉根を寄せる。山茶花が溜め息をついた。

 座り込む少女の背中を、ユーリャが宥めるように撫でている。

「ま、収穫はあったぜ。この子が本気で逃げたら、追い着けるのは傅の旦那くらいのもんだってことだ」

 ギャビーが、少女の前に屈み込む。

「俺たちが現場に出るときは、一緒に来て、皆の目が届くところに居ればいい。いざってときは、今の調子で逃げれば誰も追い着けねえさ」

 少女が、ギャビーを上目遣いに見返し、こくりと頷いた。

 山茶花が空を仰ぐ。

「陽が傾いてきたな」

 ユーリャも空を見上げた。

「そろそろ食事にした方がいいですね」

 彼らに出動の要請が来る時間帯は、ほとんどが夜間である。夕食は早めに摂るのが通例だった。

 ギャビーが、にやっと笑う。

「この子の歓迎も兼ねて、このまま食いに出ようぜ。勿論、旦那の奢りでな」



#4


 夕暮れの飲食街は、色とりどりな店の灯りが並び、お祭りのように賑やかだった。

 道行く人々が、ジョーカーたちと挨拶を交わしていく。

 やがて、五人は、一軒の中華料理店に入っていった。


 二階の座敷へ通された五人の前に、焼き餃子や水餃子、肉の揚げ団子、酢豚、棒々鶏バンバンチーにニラレバ炒め、モツの唐揚げなど、幾つもの皿が並んだ。

 出動要請があれば、初めて少女を守りながら戦うことになる。酒は控え、烏龍茶での乾杯となった。

 少女は、乾杯を知らなかった。皆から言われるままに少女が持ち上げたコップへ、ジョーカーたちが次々とコップを打ちつけ、「封鎖区域へようこそ!」と声を上げる。少女は、びっくりした顔になっていた。

 ユーリャが、少女の皿に料理を取り分ける。

 料理を口許へ運ぶ度に、少女の目が輝いた。

 皆の顔に笑みが零れたとき、下の通りから怒鳴り声が聞こえてくる。

 五人が窓から見下ろすと、二つの集団が怒声を交わし合っていた。騒ぎの顔ぶれを見たギャビーとユーリャが立ち上がる。

「片方は俺の身内だ。ちょいと止めてくるぜ」

 ギャビーが言うと、ユーリャも溜め息をついた。

「もう片方は私の身内です。私もちょっと降りますね」

 部屋から出ていく二人を少女が目で追う。傅が言った。

「心配無いよ。まあ見ていてごらん」


 殺気立っていた男たちは、ギャビーとユーリャが姿を現した途端、一斉に息を呑んだ。

 ギャビーが、イタリア人の男たちに言う。

「聞いてくれ兄弟。俺は家族を愛している。だが、この街も愛しているのさ」

 ギャビーが近付くと、イタリア人たちが後ずさりした。男たちの一人が叫ぶ。

「ギャビーの兄貴! 奴ら、俺たちを舐めて……」

「この街ではしゃぎ過ぎる奴は、俺を舐めてるってことにもなるんだが」

 ギャビーの顔に、凄みのある笑みが浮かんだ。

「そういうことなのか?」

 イタリア人たちの顔から、一斉に血の気が引く。

 一方、ユーリャは、ロシア人の男たちに語りかけていた。

「同志たち。この街は中立地帯です。騒ぎを収めていただけますか?」

 ユーリャの顔には笑みが浮かんでいたが、ロシア人たちは青ざめている。

 白熊のような巨漢が、哀願するような表情で言った。

「あいつらが喧嘩を売ってきたんだ! ここで引いたら……」

「聞こえませんでしたか?」

 ユーリャの顔から、すっと笑みが消える。

「同志たち。命を安く売る行為は慎みなさい」

 ロシア人たちが、がたがたと震え始めた。


 二階から見下ろしていた山茶花が、ふっと笑みを漏らす。

「役者が違うな」

 少女も、事の推移すいいに見入っていた。

 そのとき、傅の目がすがめられる。

「ちょっと失礼」

 傅が山茶花と少女に声をかけ、下に降りていった。

 店から出た傅がギャビーに耳打ちする。ギャビーの目が、イタリア人たちの奥に立つ男へ向けられた。

 ギャビーが男たちを掻き分け、奥の男へ近付いていく。

「カーマイン、今夜も素敵な装いだな」

 カーマインと呼ばれた男は、スタンドカラーのスーツを着こなし、都会的で洗練された雰囲気を醸し出していた。

 ギャビーが、カーマインに顔を近づける。

「客分とはいえ、兄弟たちが安く命を張ろうとしてるときに高見の見物ってのは、ちょいといただけねえな」

 カーマインが舌打ちした。

「あんたとやり合う気は無えよ」

 ギャビーを鋭く睨んでから、カーマインがイタリア人たちに言う。

「帰るぞ! きょうがれたぜ」

 きびすを返したカーマインが、ちらりと二階の窓に目を向けた。山茶花と少女を目に留め、すぐに視線を外して歩き始める。イタリア人たちが、ギャビーに頭を下げながら、後に続いた。

 傅が、カーマインの後ろ姿に目を向ける。

「カーマイン・ギャランテ。ニューヨークから来た男だったね」

「よくご存じで」

 ギャビーが溜め息をついた。

「ミケーレさんと交流のある向こうのファミリーから送り込まれてきた奴だ。跳ねっ返りの野心家さ」

「火種にならないといいけどね」

 傅が飄然ひょうぜんと言う。ギャビーが肩を竦めた。



#5


 拠点に戻った五人は、再びテーブルを囲んでいた。

 傅が、少女に言う。

「明日、僕たちは、円卓と呼ばれる人たちに君を会わせることになる」

 傅が、円卓について説明し、落ち着いた声音で言った。

「円卓は、君に聞きたいことが山ほどあると思う。だけど、君が全部答えるのは大変だ。だから、これから僕が質問する。君から聞いたことは、僕が円卓に説明する。いいかな?」

 少女が頷く。

「じゃあ、最初の質問だ。君はどこから来たのかな?」

「どこから……」

 少女が困った顔になる。傅が、穏やかに声をかけた。

「大丈夫。分かる質問にだけ答えてくれればいい」

 傅が問いを重ねていく。少女は、答えられる質問には、素直に答えていった。

 少女の身の上が、徐々に輪郭を帯びていく。

 少女は、物心ついてからずっと、窓の無い建物の中にいて、外に出たことは一度も無かった。

 建物の中には白衣を着た大人が沢山いて、今より幼い頃は、とても痛いことや、苦しいことをされた。

 そして、おそらく、何度か死んでいる。

 だが、最近は、怖い目には遭っていなかった。代わりに、様々な生物と対面させられたり、その度に山ほどコードを繋がれ、何かを調べられることが増えた。

 以前は、“くるすはかせ”と呼ばれていた人物が、いつも少女に関わっていた。

 しかし、“くるすはかせ”は、しばらく前から、少女の前に姿を見せなくなっていたという。

 ジョーカーたちは、少女の話へ、静かに耳を傾けていた。

 山茶花は、何度か拳を握り締め、何かに耐えるような表情を浮かべていた。

 傅が、少女に問いかける。

「君と一番長く一緒にいた人間は、“くるすはかせ”かな?」

 少女が首を振った。

「ずっと一緒だったのは、違う人。男の人で、とても優しかった」

「その人は、君に何をしてくれたのかな?」

「身の回りの世話を、全部してくれた。色んなことを教えてくれた」

はしの使い方もかい?」

 ギャビーが、にっと笑いながら聞いた。

「そう。さっき、役に立った」

 山茶花とユーリャが笑みを零す。だが、続く少女の言葉に、ジョーカーたちの表情が陰りを帯びた。

「痛いことや、苦しいことをされた後は、涙を拭いてくれた。多分、死んで……、目覚めたときに、泣きながら、何度も謝ってくれた」

 ジョーカーたちの誰もが、男のことを、まともな価値観を備えた人物だと捉えていた。そして、まともな価値観を備えた者が少女の境遇を間近で見続けることは、苦痛を伴う行為だったであろうことも。

「もしかすると、その男の人が、君を逃がしてくれたのかな?」

 傅が問う。少女が頷いた。

「あの人が言ったの。このままでは、君はいずれ、君ではなくなるって。そうなる前に、この世界に生きる人たちと出会い、一人の人間として生きてほしいって」

 人間として。ユーリャの顔に、真摯な表情が浮かぶ。

 少女が言った。

「あの人は、私を逃がしてくれた。建物の外へ。暗い地下の道を通って、私の手を握って……でも、追って来た人たちがいて……」

 少女が俯き、目を瞑った。

「恐ろしい音がして、あの人は、倒れて、動けなくなって。高い壁が見えるところまで真っ直ぐ走れって……壁の向こうに行きなさいって……」

 少女の声が震える。

「走って、また恐ろしい音がして……あの人の“いのち”が消えて……」

 少女の言葉が嗚咽に呑み込まれ始めたとき、山茶花が少女を抱き締めた。

 少女が驚いた顔になる。山茶花が、静かな声音に確信を込めて言い切った。

「その人の死は、無駄じゃない。その人の死が、道となって、君をここまで導いた」

 少女の体が、大きく震える。山茶花が、抱き締める腕に力を込めた。

「気高い行いだ。その人の貴い遺志は私たちが継ぐ。私たちが、君を守る」

 少女は、声を上げて泣いた。山茶花は、少女が落ち着くまで、ずっと、抱き締めていた。


 泣き疲れた少女は、やがて眠ってしまった。山茶花が、少女をソファに横たえ、ユーリャが、少女の体に毛布をかける。

 その夜は、出動の要請が来ることはなかった。


 山茶花は、拠点の屋上から、明け方の街並みを見下ろしていた。

「ここにいたんですか」

 山茶花が振り向くと、ユーリャが屋上に上がってくる。

「あの子の様子は?」

 山茶花が問いかけると、ユーリャが優しげに微笑んだ。

「よく眠っています。山茶花も少し寝た方がいいですよ?」

「ああ……」

 山茶花が、曖昧あいまいな声音を返す。ユーリャが首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「いや、さっき、あの子に変なことを言ってしまったんじゃないかと思って……」

 山茶花が俯く。

「大事な人を失う痛みは私も知っている。だから、つい、自分のことと重ねてしまって」

 ユーリャが、落ち着いた声音で、言った。

「Горе не море, выпьешь до дна.(ゴーレ・ニェ・モーレ、ブイピエシ・ダ・ドゥナー)」

 山茶花が、少し首を傾げる。ユーリャが、ふふ、と笑った。

「悲しみは海ではないから、すっかり飲み干せる。ロシアのことわざです。ただ、きっと誰もが、飲み干すまでに様々な方法で悲しみと向き合っているのでしょう」

 ユーリャの顔に、真摯な色合いが浮かぶ。

「山茶花がどう向き合い、どう乗り越えたのかが伝わってきました。あの子にも、きっと、伝わったと思います」

「そうかな?」

 山茶花が、どこか自信無げに問いかけた。

 ユーリャがにっこり笑い、「はい」と答える。

 山茶花が、安堵したように息を漏らした。

「私には、支えてくれた人がいたから……」

「では、あの子は山茶花が支えてあげて下さい。勿論もちろん、私も一緒に支えます」

 ユーリャが、穏やかな中にも揺るぎないものをたたえた表情で言う。

 山茶花が頷いた。

「守ると、約束したからな」

 シンプルな約束の言葉を口にした途端、山茶花の表情から、すっと迷いが消える。

 ユーリャが言った。

「私は、あの子に、人間として生きる幸せを見つけて欲しいです。私の大好きな、この街で」

 二人の目が街並みに向けられる。昇りかけた太陽の光が、街の輪郭に鮮やかな陰影を与えていた。



#6


 カーマイン・ギャランテは、横浜で抗争が勃発ぼっぱつしたとき、表向きはルチアーノ・ファミリーへの応援として送り込まれてきた。

 裏には、ニューヨークのファミリーが横浜の利権に食い込むための地盤を作る目的があった。

 しかし、ミケーレは彼を客分として扱いながらも、彼が介入する隙をまるで見せず、ドメニコも、重要な情報を彼には漏らさなかった。

 結局、彼が何らかの成果を手にする前に、抗争は終わってしまった。

 現在の平穏な封鎖区域は、彼にとっては監獄のようなものだった。


 カーマインは、目の前に立つ女を睨んでいる。

 何から何まで奇妙な女だった。

 見た目は十代後半。肌は抜けるように白く、髪も漂白したように真っ白だった。

 白いワンピースに白い靴。上から下まで真っ白である。

 数分前、女は、唐突にカーマインの部屋へ入ってきた。

 建物の入口から彼の部屋までには、イタリアン・マフィアの構成員が何人もいたはずだった。にも関わらず、女は突然、現れたのである。

 カーマインは、すぐに女へ拳銃を向けた。

 しかし女は、まるで銃口を意に介さず、言った。

「あなたにやってもらいたいことがある。あなたはこの話を、きっと気に入るはずよ」

 カーマインは、引き金を引かなかった。

 相手の命を手中に収めている状態ならば、話を聞いても良いと考えたのである。

「話してみろ。気に入るかどうかは俺が決める。つまらん話ならお前は死ぬ」


 女が話し終えたとき、カーマインは凄まじい勢いで思考を回していた。

「面白い話だが、何故、俺なんだ?」

「私たちには直接関われない事情がある。でも、あなたならリスクは無いわ。簡単な仕事よ」

「お前らがさっき話した役割をこなせるならな。だが、相手はジョーカーどもだ。あの化け物ども相手に、お前らはどれだけ踊れるんだ?」

 挑発するようなカーマインの問いを受けて、女が蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべる。

 そして、ワンピースを、するりと脱いだ。

 ほっそりした白い裸身がカーマインの目に映ったのは、ほんの一瞬だった。

 ワンピースと靴を残して、女の姿が、周囲へ溶け込むように消えてしまったのである。

 カーマインは反射的に引き金を引いていた。

 だが、銃声は鳴らなかった。

 カーマインの目が見開かれる。銃が、無数の断片と化し、ごとごとと床に落下していく。

 耳元で、女の声が囁いた。

「相手の命を握ってるのは自分だと思った?」

 カーマインが、血走った目で周囲を見回す。だが、女の姿は見つからない。

 背後から女の声が響いた。

「踊る姿が見せられなくて残念ね」

 カーマインが振り向く。やはり女は目に映らなかったが、カーマインの口許に、歪んだ笑みが浮かび上がった。

「お前の仲間とやらも、お前と同じくらい踊れんのか?」

「ええ。私より上手く踊る仲間もいるわ」

「良し。話に乗るぜ」

 カーマインが言った。

「お前の仲間を封鎖区域に引き入れる手筈は整えてやる。それから……」

 カーマインの口許がさらに歪み、酷薄こくはくな笑みを形作る。

「例の少女を拉致すればいいんだな?」

 背後から女の声が答えた。

「いい子ね。あなたの望みもこれで叶うわ」

 女の声が、享楽的きょうらくてきな響きを帯びる。

「円卓は、私がみんな殺してあげる」

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