第3話 少女と彼女の終わり
彼女は少女の成長速度に驚きを隠せなかった。
教育開始から10ヶ月が経過したが、少女に教えるべき知識はもうほとんど残っていなかった。あと2ヶ月もあれば、全部を教えられる。
全部といっても、人間の大人が所有している知識の全部であって、宇宙の真理ではない。
少女の能力が異常に高いので、彼女は何度も教育サブルーチンを書き直すことになった。でもそれは全然苦痛じゃなかった。むしろ彼女は嬉々として書き換えを行った。
少女の成長が嬉しくてたまらなかったから。早く対等な友達になりたいと思ったから。
「それにしても、人間とは思えないレベルの能力値ですね」
コンピュータに向かっている彼女が、ポツリと呟いた。
それからゆっくり振り返り、疲れて眠っている少女に視線を送った。
少女がゴロンと寝返りを打った。その動作が可愛らしくて、彼女は微笑みを浮かべる。
眠る必要のない彼女は、少女が眠っている間に教育サブルーチンを修正していた。きっと、これが最後の修正になる。
彼女がコンピュータに視線を戻す。
ホログラフィックキーボードに指を走らせながら、彼女は量子ブレインの片隅で少女のことを考えた。
人工冬眠から醒め、彷徨い、そして倒れていた少女。
少女は何者だろう?
少女はどうして人工冬眠していたのだろう?
少女はなぜ、何も覚えていないのだろう?
少女はもしかしたら、特別な人類なのかもしれない。知能レベルが極めて高いので、他の人類が追いつくまで眠らされたという可能性がある。
記憶がないのは、人工冬眠が不完全だったか、何かしらの不具合があったと考えるのが妥当か。
最近の彼女は、もうずっと少女のことばかり考えている。
「ねぇねぇ」
唐突に、背後から声をかけられた。
少女の気配に気付けなかったことに、彼女は少しだけ驚いた。
少女が気配を消していたのでなければ、彼女が集中しすぎていたのだ。
「どうしました?」
言いながら彼女が振り返る。
少女のブルーのパジャマはだらしなくズレていた。
彼女は席を立って、少女の着衣を直した。
「あのね、変な夢を見たの」
少女が目を擦りながら言った。
「夢ですか?」
彼女は夢を見ない。
オートドールは夢を見ない。
「そう。紫の花が出てきた」
「なるほど。夢占いをしてみますか?」
「それ何?」
「夢というのは、人間の潜在的な欲求や、何かしらの暗示を含んでいるという前提に基づいた判断です」
「夢を判断するの?」
「そうです。やりますか?」
「うん。面白そう」
少女が笑う。
少女の髪の毛は寝癖でボサボサになっているが、それはそれで可愛いと彼女は思った。
普段なら、彼女がブラッシングをしてあげるのだが、今はしなくていいと判断した。可愛いからではなく、少女はまた寝るだろうと推測したから。
「どの花ですか?」
彼女はコンピュータに紫の花を映し出し、一覧表示させた。
「んーと」少女が右手でディスプレイに触れる。「たぶんこれ」
「アイリスですか」
「アイリス?」
「虹という意味の花です」
「キラキラ」
「はい。七色で綺麗ですね」
「判断は?」
「美しい恋、恋の成就、ですね」
「恋ってなぁに?」
「特定の相手に対して愛情を抱き、ずっと一緒にいたいと思うような気持ちのことです」
「じゃあ、あたしはあなたに恋をしてるのね」
「え?」
予想外の発言に、彼女は目を丸くした。
「だって、ずっと一緒にいたいよ? あなたは違うの?」
「いえ。私もそう思います」
嘘ではない。彼女は少女のいない未来を想像できない。
少女がいなかった頃の行動ログは残っているし、いつでも読み出せる。
けれど、未来は違う。未来は推測するしかない。
そして、彼女の推測する未来では、必ず彼女の傍に少女がいた。
「成就したね」少女が笑って、
「そうですね」彼女が少女の頭を撫でた。
本当は、少女の恋に対する認識は少しズレている、と彼女は思った。
でも言わなかった。
少女は頭を撫でられて、気持ちよさそうに目を瞑った。
それからすぐに、少女は立ったまま寝息を立て始めた。
彼女は少女を抱き上げ、布団の上に下ろした。
コンピュータデスクに戻る頃には、少女が何者かなんてどうでも良くなっていた。
少女は愛すべき相手で、もうすぐ対等な友達になる。
それでいい。
◇
彼女が少女の教育を始めて約1年の月日が経過した。
その1年の間に、少女は基礎教育を全てマスターした。いや、それ以上の知識を少女は吸収した。今の少女は彼女と対等な存在となっている。
「では知識証明書を発行します」
彼女は自分のタブレット端末から少女のタブレット端末に知識証明書を伝送した。
滅びた世界で、この証明書は何の役にも立たない。ただ、少女が自分と対等な立場になったことを形として残したかった。
知識証明書には『あなたの超並列コンピュータ《脳》の中には、必要十分な知識が納められていることを証明します』と書かれていた。
継いで、『これで私とあなたは対等な友達です。これから改めてよろしくお願いします』と添えられている。
彼女の心は達成感で満たされていた。
「わーい」少女はタブレットを覗き込んだ後、笑顔を浮かべた。「これであたしも、個体として一人前?」
「ええ」
彼女は力強く頷いた。
少女の脳が一般的な人類のそれより圧倒的に優れていたため、何度も教育サブルーチンを書き直した。
彼女にとって、それは本当に嬉しい誤算だった。わずか1年で、少女はスタンドアロンで生きていけるだけの能力を得た。
もしも平均的な人類だったならば、教育に10年は必要だった。
人類がまだ健在だったならば、少女はこう呼ばれたに違いない。
天才、と。
少女の能力は、人類の飛躍に大きく貢献したことだろう。だがその人類はすでになく、世界にはオートドールの彼女だけ。
「考えていたことがあるの」
少女が言う。青い瞳がキラキラと輝いていた。シャンデリアの光が反射しているわけではない。
「なんでしょう?」
彼女は首を傾げた。
「あたしは個体として認められたから、名前が欲しい」
「名前ですか?」
「そう。名前。あなたにも必要だと思う」
彼女はそうは思わない。この世界に二人きりなのだから、固有名詞にはあまり意味がない。他の知的生命体と区別する機会がない。
ここには『私』と『あなた』だけが存在している。それは彼女の視点であれ少女の視点であれ変わらない。ならば今まで通り、『私』と『あなた』を続ければいい。
しかし、
「今後、別の知的生命体と遭遇する可能性を考慮して、名前を考えてもいいですね」
彼女は効率的に生きているし、論理的に生きている。だけど、頭が固いわけではない。新しい何かを取り入れることに恐怖を感じることもない。
進化には変化が必要だ。同じことを続けて違う結果を得るのは不可能なのだから。
「良かった!」少女が両手を合わせて喜びを表現する。「あのね、あたしの名前を考えて欲しいの。お礼に、あたしもあなたの名前を考えるから、って言っても、あたしはもうあなたの名前を考えているけれど」
「え?」
「あ、ダメだった?」
彼女が少し驚いたので、少女はシュンと項垂れてしまった。
「いえいえ」彼女が慌てて両手を振る。「少しもダメではありません。むしろ嬉しいです。ちょっと驚いただけなのです」
「本当に?」
少女が上目遣いで彼女を見る。
彼女の心がキュっと締め付けられた。でもその締め付けは、けっして嫌な感じではない。それどころか、今すぐに少女を抱き締めたいという欲求が生まれた。
だけど彼女は自制する。
「本当です。私の名前を考えてくれるなんて、本当に、本当に、とっても嬉しいです」
「良かったぁ」
彼女の台詞を聞いて、少女がホッと胸を撫で下ろした。
そのあとすぐに、少女は悪戯を思い付いた時のように笑った。
「聞きたい?」
聞かせたいはずなのに、少女はもったいぶった。そういうやり取りを楽しんでいるのだと、彼女はすぐに分かった。
だから少女の発言に乗った。
「もちろん」彼女は身体を前のめりにして、全身で『早く』と訴えた。「聞かせてください」
少女は自分にどんな名前を与えてくれるのだろう? 彼女に心臓はないけれど、心がドキドキとして気分が高揚した。
「うん。あのね、あなたって、とっても優しいでしょう?」
「そうですか?」
優しいかどうかは不明だが、倫理サブルーチンは正常に機能している。
「そうだよ。自分で気付いてないの?」
「はい。認識していませんでした」
「じゃあ今、認識して」
「はい。私は優しい」
「そう。よろしい」
少女が胸を張って、彼女は笑った。
「それでね、あなたの髪って、深い闇のようでとっても綺麗じゃない?」
「闇のよう、ですか?」
珍しい表現方法だ、と彼女は思った。普通は単に黒髪と表現される。
「うん。詩的で素敵でしょ?」
「なるほど。言葉遊びですか」
少女は文学や詩も好んでいる。
「だから、あなたの名前は優しい闇と書いて
少女が真っ直ぐに彼女を見つめる。少しの不安と大きな期待が入り交じった瞳。
彼女は優闇という名前を検証した。
まず音の響き。ユウヤミ。完璧だ。美しい。
ユウヤミ。実に美しい。
次に漢字。優しいに闇。
普通、闇はあまりいい意味で使われない。しかし少女は違っている。優しい闇。意識の海を漂う時、きっと生命は優しい闇に抱かれている。彼女はそんな風に思った。
「気に入りました」彼女は笑顔を作る。「ありがとうございます。私は嬉しいです」
本心だ。彼女は基本的に、嘘を吐かない。その必要がないからではなく、そういうサブルーチンを持っていないから。今後、そういうサブルーチンを組む必要性も感じていない。
「いえーい」
少女はガッツポーズを見せた。
「では次に、私があなたの名前を決めなくてはいけませんね」
「うん。可愛い名前にしてね」
少女は期待に満ちた眼差しを彼女に向けた。
彼女はデータベースの中から白人女性に人気だった名前を100個ピックアップした。
そしてその100個の名前を1つずつ、少女に重ねていく。名前とイメージのすり合わせを行っているのだ。
これはとても大切なこと。思い描くイメージと実物はなるべく近い方がいい。ポチという名前からライオンを連想することはあまりない。
連想。彼女のデータベースは一般的なリレーション構造で、データ群が相互に連結されている。だから名前と同時にその意味まで少女に重ねることができる。
彼女はある1つの名前を少女に重ね、そこで作業を中断した。その名前が少女に相応しいと感じたからだ。
「リディア、というのはどうでしょう?」
リディアという言葉には連想がほとんどない。小惑星の名前と同じだったり、大昔に栄えた王国の名前と同じ程度の関連。つまり白紙に近い名前。
少女は記憶を失い、ほとんど白紙のような状態で再稼働を始めた。だから意味の少ない、これからどんな意味にでも変われる名前がいいと彼女は思った。
それに、リディアという名前の響きはとてもいい。
「リディア、リディア……。うん、可愛い」
少女は満足したように微笑み、喜びを表情で表した。
「では、今からあなたはリディアで、私は優闇です」
「うん。あたしたちはスタンドアロンで機能できる存在だけど、お互いに助け合うこともできる。つまり友達。よろしく、優闇」
「はい。よろしくお願いしますリディア」
彼女は優闇になって、
少女はリディアになった。
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