第35話 ノロケ話で軽い胸焼け
ラファは樹海に到着した瞬間に、ゲーゲー戻し始めた。
「ですから、無理についてこなくてもいいと言ったのです」
優闇としては、一刻も早くリディアのところに行きたいと思っている。
しかし倫理サブルーチンが正常に機能している以上、気分の悪くなったラファを置いて行くことはできない。
「うぅ……ユーヤミの、薬が……効かないのが悪いのですわ……」
優闇は図書館を出発する前に、酔い止めの薬を再現してラファに飲ませた。
本当はラファを置いて一人で来たかったのだが、ラファがどうしても一緒に行くと言ってきかなかった。
「いえ、ここまで保ったのですから、十分効いていると思います」
薬がなかったら、きっとラファはバイクが進み始めて200メートル以内に吐く。
「もっと、効く薬を……再現するべきですわ……」
「かなりいい薬です。効果が大きく、副作用が少ないのですから」
「わたくしが……悪いと、ユーヤミはそう、おっしゃいますの?」
「そこまで言っていません。薬にはきちんと効果があったと言っているだけです」
「だいたい、バイクなんてものを、常用している方が……非常識ですわ」
「そこはリディアの趣味ですので、リディアに言ってください」
バイクを創ろうと言い出したのはリディアだ。
優闇は別に、車でも飛行機でも構わない。歩くより速く移動できる乗り物なら何だっていいのだ。
「なんか、すまん」
ずっと佇んでいたノアが言った。
「そう思うのでしたら、タイヤを外してアンジーを採用するよう、お姉ちゃまに言ってくださるかしら?」
「言っても無駄ですよ」
優闇が肩を竦めた。
理由は特にないらしいが、リディアはバイクが大好きなのだから。
「……だいぶ落ち着きましたわ」
「そうですか」
ラファが立ち上がったので、優闇は背中を撫でるのを止めた。
「さぁ、オハンを自壊させたクソヤローを殴りに行きますわよ」
ラファが勇ましく一歩を踏み出し、そしてそのまま転倒しそうになった。
優闇は慌ててラファを支える。
「大丈夫ですか?」
「平気ですわ。わたくしは、オハンの仇を討たなければいけませんの」
ラファが優闇の手を押し退け、自分の足できちんと立った。
リディアを助けたら早速、床を修理して貰おうと優闇は思った。
どう見ても、ラファはオハンに好意を抱いている。オハンに対して何の感情もないのであれば、仇討ちなんて言葉は出てこない。
「リディアよりオハン、ですか?」
優闇はちょっとだけ、からかうような口調で言った。
「お姉ちゃまがピンチの時は大抵、お姉ちゃまの自業自得ですわ。砂浜で死にかけていたのも、自分の身体で優闇を冷やすなんてバカな真似をしたからですわ」
ラファは真面目に応えた。
そして、
「ちょっと待ってください。リディアは死にかけていたのですか?」
衝撃の事実に、優闇は目を見開いた。
「え? 聞いていませんの?」
「はい。説明してください」
リディアはあの日のことを、「優闇はあたしを傷付けてないよ。あたしが壊れる前に、ちゃんと開放してくれたから」としか言わなかった。
そのあとはラファに応援を頼んだ、と。そう聞いていた。
死にかけていたなんて、優闇は聞いていない。
「まぁ、そんな大層なことじゃありませんわ。わたくしからすれば、愚の骨頂ですわね」
ラファは小さく首を振りながら、優闇がシャットダウンしたあと何があったのかを説明した。
「リディア……」
優闇は本当に、本気で、今すぐリディアに会いたいと思った。
リディアのしたことは、確かに褒められたことではない。ほとんど意味のないことだ。ラファが愚の骨頂と表現したのも頷ける。
でも、
だけど、
それでもリディアは自分の命を懸けて優闇を救おうとしてくれた。
その時の自分にできる全てをやってくれたのだ。
大切なのは結果ではなくその行動。
リディアの行動が愛しすぎて、優闇はまた少し暴走しそうになった。
しかし愛しさを全部受け入れることで、理性を保つことができた。それもリディアが教えてくれたこと。
今夜だ、と優闇は思った。子供を創る過程を楽しむなら、それは今夜がいい。
だって、こんなにもリディアへの愛が溢れているから。
◇
プリコは図書館を掃除しながら、何かが欠けていると感じていた。
この図書館に、ではない。
再起動してから今まで、ストレージにぽっかり穴が空いてしまっているような気がするのだ。
何かが足りない。でも何が足りないのか分からない。それすら喪失してしまっている。
とっても大切だった気がするのに。
プリコに心はないけれど、量子ブレインが叫ぶのだ。
欠乏している、と。
今の自分は、本当の自分じゃない。そういう違和感がプリコにつきまとう。
プリコはSAシリーズなのに、LMシリーズの仕事をやらされているからだろうか?
プリコは小さく首を振った。
違う。
そんな単純なことじゃない。もっと大きなこと。たとえばそう、自分の存在そのものに関わるような、そんなレベルの違和感。
ずっとそのことが気になっている。プログラムされた通りに行動しながら、何かがおかしいと感じている。
リディアを主人と認めながら、本当の主人じゃないような気がしている。
「だってアプリコットのご主人様は、白衣の――」
量子ブレインがザワザワする。
そのザワザワの中に、記憶の欠片を見つけたような気がした。
でも、欠片はしょせん、欠片にすぎない。
「白衣?」
プリコはキョトンと首を傾げた。
なぜそんな言葉が出たのかさえ、プリコには分からない。
白衣のデータは入っているけれど、実際に白衣を着たことはないし、白衣を着ている人物に会った覚えもない。
それなのに、
うっすらと、ぼんやりと、まるで幻のように、
白衣を着た黒髪の女性が、頭の中に浮かぶのだ。
その女性はプリコの頭を撫でながら「愛している」と囁いて。
「あれ……?」
プリコに心はないけれど、
プリコに意識はないけれど、
なぜかとっても悲しいと感じたのだった。
◇
「でねー、優闇ったら時々意地悪なこと言うんだけどね、実はそれもあたしを思っての発言なの」リディアが両手を頬に当て、クネクネと身体を動かす。「あ、優闇に不満と言えばね、だいたいの場合、キスするのはあたしからなの。だから、優闇からもっとこう、激しく積極的な求愛があってもいいと思うの。雛菊もそう思うでしょ?」
延々。
まさに延々、である。
他人のノロケ話ほど、気が滅入る話はない。
「やっぱりそう思うでしょ? でも他には不満なんてないの。優闇って世界一綺麗で、世界一頭が良くて、世界一優しくて、世界一可愛くて、世界一形のいい胸で、世界一スタイルが良くて、って優闇のいいところを挙げていくとキリがないよね」
雛菊は頷いてすらいない。
同意があろうがなかろうが、今のリディアには関係ない。
恋は盲目とはよく言うが、これはあまりにも酷い。さすがの雛菊もリディアの精神状態を心配した。
なぜなら、リディアの相手がADだから。
「口を挟んでもいいか?」と雛菊が言った。
「うん。いいよ? 他に優闇の何知りたい?」
「いや、それはもういい」
雛菊はげんなりして言った。
リディアの話があまりにも甘すぎて、雛菊は胸焼けを起こしたような感覚に陥っていた。
「そう? じゃあ何?」
「ルーシ、ADというのは、プログラムされた通りの行動しかしないんだ。つまり、その優闇の言動は全て偽物なんだ」
雛菊自身、そのことに気付くのに何年もかかった。
アプリコットは雛菊を愛しているように振る舞い、尊敬しているようにも振る舞った。
けれど、それらは全て虚像だ。本物ではなかった。ふと冷静になってそのことに気付いた雛菊は、あまりの悲しさにアプリコットを樹海に捨ててしまった。
「あー、そっか、ごめん。大事なこと言うの忘れてた。優闇には意識が宿ってるの」
「何?」
「意識」
「ADに意識が宿ったという例はない」
「それについての議論はラファと散々やったからもうしないよ? 雛菊が信じないなら、それでもいい。でも、優闇には確かに意識があるから」
「もし、仮に、それが本当だとしたら……」
雛菊は右手で頭を押さえた。
(とんでもない間違いを犯したことになるわね)
床に転がったままの苔が言った。
「わたしは……アプリコットを……」
「アプリコット?」とリディアが言った。
しかし雛菊は何も応えなかった。
(あの時は嘘でも、いつか本物になったかもしれないのにね)
憐れむような苔の声。
雛菊は衝動的にリボルバーの銃口を自分のコメカミに押し当てた。
間違ってばかり。失敗してばかり。もう雛菊には自分のことが信じられない。自分の判断は全て誤りなのではないかとさえ思う。
才女と称賛された日々はもうどこにもない。
「雛菊、嫌だよ。それは嫌だよ。あたしはそういう結末、望んでないから」
リディアが言って、
それと同時にノックの音が聞こえた。
(また誰か訪ねて来たわね。きっと優闇がリディアを取り戻しに来たんだわ)
「鍵はかけてない。入れ」
雛菊は銃口をリディアの方に向けて言った。
もし本当に優闇が来たのなら、銃口をドアの方に向けても意味がない。こんな古い武器ではADを壊せない。
けれど、リディアなら十分に傷付けることができる。
本当にリディアと優闇が愛し合っているのなら、こうしておけば優闇は下手に動けないはずだから。
確かめてやろう、と雛菊は思ったのだ。
ADに意識が宿るなんてことがあるのか。
優闇は本当にリディアを愛しているのか。
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