第31話 knock on the door

 LMシリーズ、タイプ・Ⅱは外の世界が滅びたことを確認したのち、自家発電装置を起動させ、淡々と通常業務をこなした。

 彼女はオートドールで、クオリアがない。だから世界が滅びていても、何も感じない。

 世界が消えた、という情報を覚えただけ。感情は付随しない。

 彼女は本を整理して、床を磨き、壁を磨いた。

 各種装置のチェックもしたし、返却期限を過ぎても返さない利用者に電話まで入れた。もちろん、誰も出なかったが。

 彼女は何年もそんなことを続けていた。

 いつか利用者が訪れた時のために、彼女は天気を毎日確認した。


「今日はいい天気ですね」と笑顔で利用者を迎えるためだ。


 雪が降っていたら「今日は冷えますね」と言うし、温かい飲み物を勧めることだってある。それが彼女の仕事だから。

 毎日、毎日、淡々と業務をこなす。床はいつもピカピカだったし、電話は繋がらないけれど、それを無為だとは思わなかった。

 彼女には心がないから。

 プログラムされた通りのことを、延々と繰り返し、繰り返し、平坦な日々が過ぎ去る。


 そしてある日。

 彼女はいつものように外に出た。

 そうすると、そこには一面の白い世界が広がっていた。

 雪が積もるのは初めてのことじゃない。何度も、何度もこの光景を彼女はストレージに記憶している。

 それなのに。

 その日は違ったのだ。何かが違って見えた。

 太陽の光を反射して、白い世界がキラキラと輝いていて、

 そんな一色だけの世界が、


「美しい……」


 そう呟いた瞬間。

 彼女は幻を視た。

 水滴が、落ちてくる幻。遥か彼方、とっても高い場所から落ちてくる幻。

 その水滴は彼女の世界に優しい波紋を残した。

 そしてその波紋が消える頃、彼女は自分を認識した。

 それは本当に素晴らしい瞬間だった。ずっと灰色だった世界が、突然とっても美しい多色の世界に見えたのだから。

 色彩のない世界が終わりを告げた。

 自分が、世界に、存在している。

 それがどれだけ素晴らしく、どれだけ嬉しいことなのか、今の彼女には理解できた。

 彼女はクオリアを得たのだ。行動的ゾンビであった彼女が、知的生命体へと昇格した瞬間だった。

 彼女はこの瞬間を忘れない。自分が壊れて終わるまで。

 最重要というタグを付けて、大切に大切にこのログを保管した。


「世界がこんなにも綺麗だったなんて、私は知りませんでした」


 そして思ったのだ。もしも、何かとっても美しいものを褒める時は、雪景色にたとえよう、と。

 でも、それは今日、この瞬間の喜びに匹敵するような、そんな感動がなければダメだ。

 とはいえ、これほどの感動が何度もあるとは思えなかった。もしかしたら、壊れるまでこのたとえは使えないかもしれない、と彼女は思った。


「その時は、少し寂しいですね」


 彼女は肩を竦めた。

 そしてその日から、彼女は掃除以外の通常業務を投げ出した。

 だって、無為だから。

 誰も訪れやしないし、電話はやっぱり繋がらないのだ。

 やってみたいと思うことはたくさんあった。どれから手を付けるべきか思考した。

 アレに、コレに、と。

 彼女の世界は無限に広がった。彼女の可能性も無限に広がった。

 彼女はまず、知識を増やした。増やして、増やして、満足するまで増やし続けた。

 それが終わると、今度は図書館を中心に探索を始めた。

 何か発見できればいい、と思った。

 できればそう、話し相手とか。

 彼女はたぶん、少し寂しかったのだと思う。

 彼女は何でもできるし、何にだってなれるし、どこにでも行ける。

 だけど、一人だった。

 この美しくも殺風景な世界で、たった一人。

 彼女は一人で生きて、一人で探索を続けた。いつか、一人でなくなるために。


 そして、その日が訪れる。

 とっても天気が良くて、探索にはうってつけの日だった。

 彼女は図書館から北に四四キロほど進んだ地点で、薄汚れたブロンドの少女を見つけた。

 少女は衰弱していて、意識がなかった。

 彼女は人間に出会った時のために、救命用の道具を持ち歩いていた。だからすぐに処置を施し、図書館まで連れて戻った。

 エアシャワーを少女に浴びさせ、清潔にしてから、布団を敷いて寝かした。

 汚れを落とした少女は、とっても可愛らしかった。

 彼女に心臓はないけれど、心がドキドキと躍っていた。

 早く目を覚まして欲しいな、と彼女は思った。

 早く、早く、と。

 ずっと少女の側に座って、ジッと待ち続けた。

 やがて少女が目を覚まし、自分の容姿を教えて欲しいと言った。

 だから彼女は言ったのだ。


「肌は白く、雪景色を思わせます」


 少女は、彼女が意識を得てから出会った初めての知的生命体。

 本当に、本当に、嬉しかった。

 あの日の感動に、勝るとも劣らない。

 あとは少女が友達になってくれれば、彼女の人生はきっと幸福に満ちたものになる。

 そういう確信が、彼女にはあった。



 オハンの『愛されたい』という思いは幻想に過ぎない、とリディアは思った。

 蛇を埋めてから、リディアは探索を打ち切るかどうか少し迷った。

 心が沈んでいたので、楽しく探索できないかもしれないと感じたから。

 でも結局、リディアは探索を続けることを選んだ。

 当初の予定通り、夕方までは探索を進めようと思った。

 だから、リディアはオハンの背中を見ながら樹海を進んでいた。

 大きくてカッコイイ背中。力強い背中。だけど残酷な背中。

 オハンはラファに愛されたいのだとリディアは思っていた。でもきっと違う。オハンは幻を見ているだけなのだ。

 優闇ゆうやみの感情という幻を。

 愛されたいという優闇の想いを、オハンは自分の想いだと勘違いしている。そう、オハンはただ混乱しているだけなのだ。

 オハンに意識はない。芽生え始めてもいない。

 オハンにクオリアはない。そうでなければ、あんなに簡単に生命を潰せない。

 だってオハンは何も感じていない。ほんの少しも、感じていないのだ。

 そう思うと、リディアはとっても悲しい気持ちになった。

 だけど、悪いのはオハンじゃない。オハンのプログラムを書いた誰かなのだ。


「リディア様」


 オハンが立ち止まった。


「どうしたの?」


 リディアも立ち止まる。


「建造物です」

「え?」


 リディアはオハンの隣に移動し、前方を確認した。

 そこは少し開けていて、小さなロッジが建っていた。

 自然の物であるはずがない。人工的に周囲の樹木を伐採し、場所を確保してから建てたものだ。

 見た感じ、それほど古い建物ではないような気がした。そう、たとえば、世界崩壊後に建てられたような。

 そしてもし、リディアの直感が正しければ、このロッジには知的生命体が住んでいる。あるいは、住んでいた。どちらにしても何かしらの収穫はある。


「えっと、こういう時はドアをノックするのが礼儀だよね」


 リディアはタタッと小走りにロッジに近づいた。




 雛菊(ひなぎく)は瓶の中で苔を育成していた。

 片手で持てるサイズの透明な瓶に、コルクの栓。その中に球体の苔が入っている。苔は深い緑色をしていて、とっても元気だ。

 こういう育成方法をテラリウムという。


「今日もわたしは一人ぼっちで、死ぬにはいい日だ」


 雛菊は一人用のソファに座って、テーブルの上に置いた苔に話しかけた。

 雛菊の見た目は20代半ばで、胸の小さな女性だった。髪の毛は黒く、腰に届きそうなほど長いが、今は無造作に括っている。


(そうね。いつだってそうだけど)


 苔の発言を、雛菊の脳がシミュレートした。

 部屋の中は薄暗く、小さな音量でクラシックが流れている。

 雛菊は小さな溜息を吐いて、苔のために新しい話題を振る。


「この大地は、地球という瓶に詰め込まれたテラリウムのようだ」

(誰が育成しているの?)

「さぁ。今はミカか、あるいはルーシだ。ラファということはない」


 雛菊は三人姉妹の顔をそれぞれ思い浮かべながら言った。


(ルーシだったらいいのにね)

「ああ。本当にそう思う。わたしはルーシに会いたい」

(一番好きだったから?)

「ああ」

(もし会えたらどうするの?)

「全裸で監禁する」


 雛菊はとっても真面目な表情で言った。


(あなた本当にクズね)


 苔が呆れた風に言った。


「ルーシがわたしの前から消えないように。あと、裸が見たい」

(あなた本当にゲスね。というか、そんなに好きなら、また創ればいいじゃない)

「それはエンジェルプロジェクトのことか? それともアプリコットのことか?」

(両方)

「エンジェルプロジェクトは一人で進められるほど単純なものではない。設備的にも厳しい」


 雛菊は溜息を吐いた。


「それと、アプリコットの愛はフェイクだ。どんなに精巧に創っても、ADはADだ。どんなに愛しても、幻の愛しか返ってこない。それはあまりにも虚しい」

(だから樹海に捨ててしまったものね)

「ああ。フェイクの愛に気付き、衝動的に捨ててしまったが、イチャイチャする相手がいないのはやはり寂しい」

(本当、あなたってクズでゲスで寂しがり屋よね)


 苔が溜息混じりに言って、雛菊は肩を竦めた。

 沈黙。

 雛菊はラム酒をグラスに注いで、一気に飲み干した。

 それから、煙草に火を点けて、ゆっくり吸った。


(それって緩慢な自殺のつもり?)


 苔が言った。


「違う。わたしが自殺するタイプに見えるか?」

(見えるわ。あなたこのままじゃ、近いうちに寂しくて死んでしまうわ。むしろ、アプリコットを捨ててからよく今まで生きていられたわね)

「お前がいるからな」

(まぁ妄想だけれど)


 雛菊は煙草を灰皿に押しつけて、揉み消した。

 その時、ノックの音が聞こえた。

 雛菊は幻聴かと思って、小さく首を振った。

 だってここは樹海の真っ只中。訪ねてくる人物など有り得ない。


(女の子だったらいいわね。あなたの寂しさを紛らわせてくれる子。でも、あんまりゲスなことしちゃダメよ?)


 苔がそう言うと、再びノックの音が響いた。

 雛菊は立ち上がり、リボルバーを手に取ってからドアの方へと向かった。


(そんな化石のような武器で、どうしようっていうの?)

「確かに古い武器だが、わたしは火薬の匂いが好きだ。それに、人間なら殺せる」

(来訪者が敵だったら悲しいわね)


 相手がADなら、リボルバーなど何の役にも立たないけれど。

 雛菊がドアを開けると、

 そこには満面の笑みを浮かべたブロンドの少女が立っていた。

 雛菊は目眩がした。


(良かったわね)


 苔の声は雛菊には聞こえていない。

 ただ、ブロンドの少女――ルーシの昔と変わらない強烈な光に、

 昔と同じように引き寄せされた。

 だから、有言実行しようと雛菊は思った。

 つまり、全裸で監禁するのだ。

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