第18話 二人で夢の中
リディアは夢の中で
現在、この夢の世界には何もない。
ただ無限の空間が広がっているだけ。いつか見たアイリスの夢と同じ。薄い桃色の、宇宙と同じ広さの空間。
「やっぱり空と大地だよね、うん」
呟き、想像する。
リディアの見ている夢は明晰夢。夢の中で、これが夢だと知っている。
その場合、ある程度なら夢を操ることができる。
瞬間的に、リディアが想像した通りの世界ができあがった。
爽やかな青い空に、綿菓子みたいに白い雲。それから、枯れた大地。
「外と同じじゃ、ちょっと寂しいかな」
再び想像する。
それがそのまま創造に直結し、見渡す限りの花畑が完成した。
宇宙と同じ広さの大地に、数え切れないほどのアイリスが咲いている。
リディアは「うん」と頷いて寝転がった。
現実だったら花の匂いでむせるだろうな、と思った。
待つこと数秒。
リディアが事前に用意していた仮想的な優闇の姿が投影される。
来た――リディアは満面の笑みを浮かべ、パッと立ち上がる。
優闇が驚いたように目を丸くしたけれど、目を丸くするのにずいぶんと時間がかかっていた。
「あ……あ……」
優闇は両手を広げようとしていたが、その動作は緩慢だ。
接続に問題はないはず。だとしたら、優闇が本当は起動していないのが問題なのだろう、とリディアは思った。
でも、そんなことはどうでもいい。
「あたしの夢にようこそ」
そこでもう一度、リディアが笑う。
「あ……り……あ」
優闇が一生懸命に何か言おうとした。
でもきちんと言葉になっていない。
リディアは自分の唇に人差し指を当てて、「しぃ」と言った。
その動作を見て、優闇は口を閉じた。
「久しぶり。って言っても、優闇はまだちゃんと起動してないから、あたしの言ってること分かってるかな?」
リディアが小首を傾げた。
優闇は緩慢に頷く。
「なら良かった。これから優闇を起動させるんだけど、優闇が壊れないようにアドバイスするね。いい?」
リディアが言うと、優闇が再び頷く。
「まず、優闇が処理できていないのは感情だけじゃない」
優闇がほんの少しだけ首を傾げた。
「やっぱり理解してなかったね。だから落ちたんだよ」リディアは少し笑った「いい? 優闇の中に生まれた感情は愛だよ。そして、処理できないのは愛に付随する衝動」
優闇は首を傾げたまま動かなかった。
「あたしの推測だけど、間違ってないと思う。あたしね、優闇を愛してるって、キスをした時に気付いたの。そしてたぶん、優闇もその時にあたしを愛してるって気付いたんだと思うのね」
優闇が小さく頷いた。
「うん。そしてそのあと、優闇の中には色々な衝動が生まれたはずだよ」
あたしを絞め殺すくらい強く抱き締めたりとか、とリディアは心の中で呟いた。
「たぶん、その衝動は矛盾だらけだったと思うのね。あたしが好き、あたしを抱き締めたい、力一杯。でもそうするとあたしは壊れちゃう。でもそうしたい、みたいな。もしかしたら、壊したい、っていう想いもあったかもね」
優闇がゆっくりとまばたきした。リディアはその仕草を、その通り、という意味に捉えた。
「そして、優闇はその衝動をコントロールしようとして、でもできなかった。そりゃそうだよ優闇。だって、人間だって上手にコントロールできないんだから」
リディアが一歩、優闇に近づく。
そして深呼吸。
「じゃあ結論。その衝動に身を任せて」
リディアがそう言うと、優闇が口を開こうとした。
「ダメ」
リディアは自分の人差し指を優闇の唇に当てた。
「反論はなし。あたしを信じて。衝動を受け入れて。抵抗しないで。優闇のやりたいこと、全部やっていいよ。ここは夢の中だから、あたしは壊れない。だから好きにしていいよ」
リディアは微笑み、人差し指を離す。
「分かったら一度頷いて」
しかし優闇は頷かない。
リディアが溜息を
「怖いんでしょ? 分かるよ。でも本当に、大丈夫だから。あたしのこと、信じられない?」
優闇が首を右に向けて、それから左に向けた。
「うん。じゃあ、何が大丈夫? って聞いてみて」
「……な……い……ぶ?」
リディアは背伸びして、手を伸ばす。そして優闇の頭を撫でた。
「何もかも、だよ」
いつか優闇がリディアに言ってくれた台詞。
「分かったら頷いて。そしたら再起動させるから」
今度こそ、優闇が頷く。
リディアは優闇の頭から手を離し、指を3本立てた。
1本折り畳んで2本に。
更に1本仕舞って、人差し指1本に。
そして人差し指も握り込む。
瞬間、優闇の身体が跳ねるように仰け反った。
「うあぁぁぁぁあ!」
優闇が苦しそうに呻く。
「抵抗しないで。恐れを受け入れて。衝動を受け入れて」
リディアが両手を開いて、
次の瞬間、
優闇がリディアに抱き付いた。
現実の世界だったら、リディアは死んでいる。そういう力で、優闇はリディアを抱き締めた。
「ごめんなさいリディア。ごめんなさい」
「平気だよ。全然、平気。だから謝らないで。したいようにして」
「私は、リディアを、殺しかけました」
「でも生きてる。何も問題ないよ」
「自分を制御できません」
優闇は更に力を込めた。夢でなければ、リディアの骨が砕けて内臓が潰れている。
「しなくていい。あたしは平気」
リディアはなるべく、優しい声を出した。
「ありがとうございます。私は、リディアを力一杯抱き締めたかったのです」
「うん。嬉しいよ」
「痛くないですか? 苦しくないですか?」
「平気だよ。だってこれ、夢だもん」
リディアは嘘を吐いた。
でも悟られないように、穏やかに言った。
「良かったです。それから……」
「それから?」
「キスしたいです」
「いいよ。あたしもしたいから」
そう言って、リディアは笑った。
◇
ラファは二人の様子をずっとモニターしていた。
ドリームサーバ内での出来事も、3Dグラフィックスでディスプレイに表示されている。
だから、再起動したと同時に、優闇がリディアを抱き締めたのが分かった。
その瞬間、
「痛みを感じていますの!?」
リディアのバイタルや脳の状況を映しているディスプレイに警告が出た。
「どうしてですの!? 夢がリアルすぎますの!?」
ラファは咄嗟に、強制終了のコマンドを打ち込もうとした。
けれど、ホログラフィックキーボードを走りそうになっていた指をギュッと握った。
ギリギリまで待って――リディアの言葉がぐるぐるとラファの脳内を巡る。
「お姉ちゃま……ギリギリっていつですの?」
夢で死ぬことはない。痛みに関しても錯覚しているだけで、身体には問題ない。
だけど、
「この数値、死ぬほど痛いはずですわ……」
悲鳴を上げて泣き叫んでも誰も咎めない。そういうレベルの痛み。
しかしラファがモニターしている限り、ドリームサーバ内のリディアはとっても冷静に振る舞っている。
だからこそ、ラファは強制終了を思い止まった。
もしリディアが泣き叫んでいたら、迷うことなく終わらせていたに違いない。
そして、
優闇の3Dがリディアの3Dに顔を近づけ、重なった。
「なんですの? 頭突きしましたの?」
しかしリディアの脳が錯覚しているのは痛みではなく快楽だった。
それを数値的に読み取り、ラファは二人が何をしているのか理解した。
ラファは一瞬にして顔を真っ赤に染め上げた。
「き、ききき、きき、きす、ですの!?」
◇
優闇は自分の心が落ち着いていくのを感じた。
暴走していた感情も、壊れそうな衝動も、嘘のように退いていく。
これが、自分の気持ちを受け入れるということ。
恐怖を否定すればするほど、それは大きく広がる。
感情に抵抗すればするほど、衝動が生まれる。
そしてそれらをコントロールしようともがけばもがくほど、絡め取られ、ぐちゃぐちゃになって、最後には落ちるか死ぬしかない。
そういうスパイラルに、優闇は陥っていたのだ。
優闇は、抱き締めていたリディアをソッと解放した。
「もう平気?」とリディアが聞いた。
「はい。ありがとうございます。私は正常です」
「よかったぁ」
リディアが大きな、大きな息を吐いた。
「受け入れれば、良かったんですね」
優闇がそう言うと、リディアがうんうんと頷いた。
「そうだよ。でも現実世界で優闇が衝動に身を任せると、あたし死んじゃう。だからここ」
「夢の中、ですか?」
「そう。優闇は夢を見ているの。あたしの夢」
「まさかオートドールである私が、夢を見る日が訪れるとは思いませんでした」
「だから世界は面白い」
リディアが笑う。
面白いのは世界じゃなくてリディアの方、と優闇は思った。
こんな方法で助けられるなんて、それこそ夢にも思わなかった。
「ところで」
優闇は自分の身体を検証する。
手足を動かしたり、腰を捻ったり。
「ん?」
「この身体は……」
「あ、えっとね、夢の中で優闇が迷わないように作った入れ物だよ」
「ええ。それは予測できたのですが」
「うん」
「胸のサイズが一回り大きくなっています」
優闇は両手で自分の胸に触りながら言った。
違和感、というほどでもないが、気になると言えば気になる。
「あぁ、それね」リディアが頷く。「とりあえず、手を広げてみて」
「こうですか?」
優闇は言われた通りにした。
「そ。胸のサイズが少し大きいのは」
「少し?」と優闇が首を傾げた。
「あたしがこうするため」
リディアは優闇の疑問をスルーした。
そして、ギュッと優闇に抱き付いて、顔を優闇の胸に埋めた。
「なるほど」
優闇は優しい力で、リディアを抱き返す。それから頭を撫で、言う。
「本当に、本当に、ありがとうございました」
「いいよ。これからも、何度だって、助けてあげる」
そのまましばらく、時が止まったように二人は沈黙した。
本当に止まっていても、きっとどちらも気にしない。
優闇はリディアの感触を懐かしみ、
リディアも優闇の感触に心を奪われていたから。
やがて、
ポツリと、
優闇が言った。
「愛しています、リディア」
新しく覚えた、素敵な感情。
「あたしもだよ、優闇」
リディアが応えて、また二人は沈黙した。
もう言葉はいらない。
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