第9話 シンキングタイム
リディアは地下図書館に帰還し、
エアシャワールームは、衣服や身体に付着した汚れや細菌などを完全に除去することができる部屋のこと。
ただ部屋の中に1分間入っていればいいので、世界崩壊前は一般家庭にも広く普及していた。
その流れに押し出され、昔ながらのお風呂は一般家庭から姿を消した。
でもいつか、お風呂を再現してみたいとリディアは思っていた。お風呂の雰囲気や、泡で身体を洗うのがとっても楽しそうに思えたから。
「疲れちゃったなぁ」
リディアは右隣に立っている優闇にもたれかかった。
「今日はゆっくり休んでください」
優闇が左手をリディアの頭に乗せて、クシャクシャと髪を撫でる。
「うん。あのね、あたしね、ラファと本当に友達になりたいって思うの」
「はい。それで?」
「でも、無理かもしれないって思った」
「嫌なことを言われるからですか?」
「そう。ラファのこと、あたしよく分からない。本当はもっと、話したいことや聞きたいことがあったのに」
「分からないのは仕方ないかと。リディアにとっては、私以外の初めての知的生命体でしたし」
「人間ってなんかめんどくさいよぉ」
リディアはギュッと優闇に抱き付いた。
優闇は少しもめんどうじゃない。意見が合わないことは多々あるけれど、優闇はいつだってリディアのことを思っている。それがリディアにも分かるから、全然嫌じゃないのだ。
「まぁ、人間といっても、ラファさんとリディアは人間に創造された新人類、のようですけれど。ラファさんの話が全て事実と仮定するなら、ですけど」
「じゃあ、新人類めんどい」
リディアは自分の顔を優闇の胸に埋めた。柔らかくてとっても気持ちがいい。
優闇の胸はそれほど大きくデザインされていないが、そのラインは絶対的に美しい。
いつか、あたしの胸もこうなるのかなぁ、とリディアは将来を楽しみに思った。
「十人十色、という言葉が示す通り、人というのは旧人類であれ新人類であれ、多種多様の思考を持っています。中には自分と合わない人もいるでしょう」
「そっかぁ。あたし優闇に拾われて良かったって思う。もし、あたしを教育したのがラファだったら、あたしはたぶん、優闇を否定する」
そんな自分を思い描いただけで、吐き気がする。
ああ、そうか、とリディアは気付く。
一番嫌だったのは、優闇を否定されたことだ。
優闇の存在、優闇の教育、リディアと優闇の大切な時間。それらを、ラファは完全に否定したから。
「そうでしょうね。ラファさんは明らかに私の存在を否定していました。ADに意識など宿らないと、心の底から信じているようでした。しかしそれは無知によるもの。それに――」
優闇がギュッとリディアを抱き締め、背中を撫でた。
「――たとえ、ラファさんがリディアを教育したとしても、リディアはきっと、いつか私を理解してくれる。私の存在を認めてくれる。そんな風に思えます」
「うん、そうだといいね」
沈黙。ただゆったりと流れるのは時間か空気か。
もうとっくにエアシャワーは終わっているのに、どちらも動かなかった。
「ねぇ優闇」とリディアがポツリと言った。
「はい。なんでしょう?」と優闇はいつも通り、淡々と言った。
「大好きだよ」
「私も、リディアのことが大好きですよ」
優闇がそう言ってくれることを、リディアは知っていた。
確かに、知っていた。
それなのに、
なぜか分からないけれど、
心臓が跳ねるような感覚。
前にも、こんな風にドキドキした覚えがある。
これは何?
分からない。
分からないけれど、とっても心地好い。
◇
ラファは地下研究施設の所長室を、自分の部屋として使っている。
その部屋に戻ると、明るい照明と薄い空色のカーペットがラファを迎えてくれた。
お気に入りのフワフワした白いベッドが、入り口から見て左側に設置されている。
右側にはシンプルなテーブルと椅子。テーブルの上にはコンピュータが一台。
以前はソファと執務机が部屋に置かれていたが、オハンに撤去させた。ラファの趣味ではなかったからだ。
「さて、お姉ちゃまの出した課題は、わたくしが言った嫌なこととは何か知ること、ですわね」
ラファはベッドに腰掛けて思考する。
まず、ラファはリディアとの会話を頭の中で再現した。一言一句、間違えずに全て記憶しているという自信がある。
リディアが最初にした発言から、最後の発言までを綺麗にリプレイしたあと、ラファは小さな溜息を吐いた。
「わたくし。全て正しいことしか言っていませんわ」
そう。何一つ、間違っていない。ラファは正しい。少なくとも、ラファは心の底からそう思う。
唯一の汚点といえば、焦って椅子を引っ繰り返してしまったことだけ。
常に優雅であれ。それがラファの信条。椅子を引っ繰り返したのは酷い失態だ。
とはいえ、リディアの課題とはあまり関係ない。
ラファは椅子の件を「今後、気を付ける」と結論して脇に置いた。
「正しいことが嫌なことであるなら、お姉ちゃまは正しい人ではない、ということですわ」
しかしそれも仕方ないことか、とラファは思う。
リディアには記憶がない。だから、新たに正しくない知識をどこかで覚えてしまったのだ。
「まったく、一体どうしてお姉ちゃまは先に目覚めてしまわれたのかしら」
完全なるイレギュラー。
リディアはラファと一緒に目覚めるはずだった。
それなのに、目覚めた時ラファは一人ぼっち。
泣きたかったけど、泣かなかった。泣くのは優雅ではないから。
代わりに人口冬眠用のポッドを徹底的に調べ上げた。しかしエラーは見つからず、ラファはポッドに原因を求めることを止めた。
「結局分からずじまい、ですわねぇ」
仮説と検証を繰り返し、それでも答えはどこにもなかった。
ラファはベッドに転がって、ぼんやりと天井を見詰める。
もちろん、そこに答えは書かれていない。リディアが先に目覚めた理由も、リディアが言う嫌なことも。
「やっぱりお姉ちゃまに正しい知識を与えるべきですわね。そうすれば、わたくしが嫌なことなんて言っていないと気付きますのに」
いや、とラファは小さく頭を振った。
そうじゃない。考えるべきなのは、リディアがどの言葉に反応したのか、だ。
ラファはもう一度、脳内でリディアとの会話を再現する。今度は言葉だけでなく、リディアの一挙一動まで完璧に。
そこで一つ、気付く。
リディアは困ると優闇に視線を向ける。優闇に答えを求める。命令するのではなく、ただ質問する。まるで友達のように。
「友達? ADと? バカですかわたくしは」
いくらなんでも飛躍しすぎたか。
けれど、何度記憶を再生しても、リディアは優闇を信頼しているように見える。
「記憶のないお姉ちゃまなら、それも有り得ますのかしら? だとしたら、あのユーヤミが、お姉ちゃまを変にした、とも考えられますわね……って、それはないですわよねぇ。ADは基本、プログラム通りにしか動きませんし」
LMシリーズである優闇が、人間に余計な知識を植え付けるということはない。
となると、もう一人誰かいるはずだ。リディアに知識を与えた者がいる。もしかしたら、その誰かが優闇のプログラムを書き換えたのかもしれない。
優闇がより人間らしく振る舞うように。
「お姉ちゃまはどこを拠点にしていらっしゃるのかしら? まさか地下図書館、残っていますの?」
優闇が稼働していることから、その可能性は十分にある。
「あら」ラファは思考を中断した。「また本筋から離れてしまいましたわ」
ラファは身体を起こし、ベッドから降りる。
「まぁ、1週間ありますし、ゆっくりと考えればいいですわね」
そう呟いて、大好きなカフェオレを飲むために部屋を出た。
◇
真夜中。
優闇はコンピュータデスクに座っていた。
コンピュータは起動しているし、ホログラフィックキーボードも投影されている。
けれど、優闇は今、指を動かしていない。
リディアが寝てから、優闇はエンジェルプロジェクトについて調べた。しかしどこにも記録が残っていなかった。
そこで一旦、なぜ記録が残っていないのか推測することにした。だから今、優闇は指を動かしていないしディスプレイも見ていないのだ。
人類は情報に関してはオープンだった。技術が進歩し、豊かな生活を送っていた人類は、競争社会から脱却。情報を隠す必要がなくなっていたのだ。
分子構造を再現する各種メーカ技術のおかげで、全ての人に全ての物資が行き渡っていた。不足のない世界。誰かを追い抜いたり蹴落としたりしなくていい世界。
犯罪の件数も減少し、刑務所のほとんどは姿を消していた。
だから、情報を公開しても犯罪利用される恐れは少なかった。よって、誰でも好きな情報を利用できた。
ただ、唯一、軍事関係を除いて。
平和で苦しみの少ない世界だったはずなのに、なぜか人類は最後まで軍隊や兵器を手放さなかった。
優闇には不思議でならない。必要ないものを持ち続け、使わないはずの兵器を開発し続けるという無駄が。
軍事関連は常に最新技術や計画を秘匿し、数年経過してから公開していた。
オハンなどは旧世代のADなので、詳細なスペックが記録として残っている。だから優闇はオハンと自分の能力を比べることができたのだ。
「エンジェルプロジェクトは軍の管轄だったのでしょうか?」
優闇は一人、首を傾げた。
ここで手詰まり。ラファから更に詳しい話を聞くか、エンジェルプロジェクトの資料を入手しない限り先には進めない。
だから別のことを考える。
優闇は行動ログを再生し、しばらくそれを見ていた。
そして、重要と思われるラファの言葉にマーキングする。
『お姉ちゃまはわたくしと新世界を創造すると約束したではありませんか』
これが事実なら、二通りの可能性がある。
リディアとラファは世界が滅ぶと知っていた。
あるいは、滅びたあとにその約束をした。
二人がいつ人口冬眠に入ったのかが分かれば、答えは出る。
次のマーキング。
『お姉ちゃま自身は記憶を消して、
つまり、リディアは自分で自分の記憶を消したということ。
でもなぜ?
いくつか推測はできるが、どれも決定的ではない。ラファに聞いてみるのが一番いい。
「優闇ってばぁ!」
唐突に聞こえたリディアの声で、優闇はハッと我に返る。
「リディア? 起きたのですか?」
優闇は椅子を回転させ、リディアの方を向いた。
リディアの淡い黄色のパジャマはだらしなくズレていて、髪もあっちこっち跳ねていた。リディアが夜中に起きてくると、いつもこうなっている。
それがとっても可愛らしく思え、優闇は幸せな気持ちになった。
「さっきから呼んでたんだよ?」
「そうですか。気付きませんでした」
「集中してたんだね」
「ええ。それで、どうしました?」
「うん、あのね、明日なんだけどね」リディアは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。「海を見に行こう?」
唐突に、明日の探索ポイントを告げられた。
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