八話

 それから少しして。


 今日も退屈な一日が終わりを告げようとしていた。


 自室でキャンバスに向かっていると、すでに時刻は日付をまたごそうとしている。


「明日は、数学と世界史と美術と――」


 時間割を見ながら疲れを吐き出すように呟き、明日の準備に取り掛かる。


 前回の授業を思い出しながら数学の教科書とノートを捜索する。


 部屋の端に置いた机に乱雑に積み上がられた教科書類は、毎回探し出すのに少しばかり時間がかかる。


「……どこにいったんだ」


 数学のノートの捜索に手間取りぼやくが、事態は良くならないうえに自業自得だ。


 机の上にはない。


 ならば下に落ちているのかもしれない――と、俺は椅子を引いて奥を確認する。しかし、そこにもない。壁と机の隙間を確認してみる。


「はぁ……なんであんな奥に落ちてんだ」


 愚痴は再び口から漏れ出ていた。


 何とか手のひらが入るスペースがあったので、手を伸ばしてみる。


 伸ばした指が、ノートの端に触れる。どうやらわざわざ机を動かさずに済みそうだった。


「って」


 ――数学じゃないのかよ。


 そんな言葉は面倒くささが上回って口から出てこなかった。


「はぁ」


 溜め息をもらし、気を紛らわせるように何のノートか見る事にした。


 表紙を見る限り数学ではないのは間違いない。


 ――だがそもそもこんなノートを持っていただろうか?


 と首をかしげる。


 普段使っているノートのメーカーは統一している。一度使い始めた種類を変えるのが面倒なためだ。


 だが今手にしているノートのメーカーはそれとは違うものだ。


 表紙に書かれた文面を見るに、A罫やB罫ではなく、無地のノート。


 表紙をめくり中を確認してみるが、何も書かれていない。


 ――こんなノートを買っただろうか?


 そんな疑念を考えながら無造作にパラパラとページをめくっていると、途中から絵が出てくる。


 鉛筆で描かれたそれは、落書きレベルから結構しっかりと描き込んだものまで様々あり、途中のページから最後まで全てに描かれている。


 なんだ……これ……?


 描かれた人物は、全て同じだった。


 通っている高校と同じ制服で、小柄な女子生徒。


 髪が非常に長く、塗り方が淡い。


 これは……黒髪ではないのか?


 そう思考していたとき、脳裏にある記憶が蘇る。


 同じ制服を――同じ学校に通っている。非常に長い金髪が特徴的な女子生徒に、この前会ったじゃないか。


 思考と記憶が繋がり、その絵が彼女である事を脳裏が確信する。


 だが待ておかしい。


 あれは誰だ?


 心当たりはない。


 記憶はない。


 だが、今手にしているノートの絵柄は、自分のものと瓜二つだ。


 それも、ごく最近の絵柄だ。


 もし彼女の私物が俺の持ち物に入り込んだのならまだ理解できる。


 だが、自身の絵柄と酷似している事をどうやって説明する?


 思いつく限り、その可能性は……ない。


 忘れてしまっているだけだろうか?


 彼女に、絵のモデルにでもなってもらって描き、そして忘れる。


 だが絵柄は最近のものだ。


 若年性認知症か?


 考えたくないが、それ以外につじつまの合う可能性が思いつかない。


 いや、そもそも自分が他人をモデルに描く事など、基本的にあり得ない。


 美術の授業等で課題として出たなら分かる。


 確かに去年の美術ではペアを組んで似顔絵を描く授業があったが、自分は一人だった。クラスの人数は三九人。必然的に一人余り、誰かと関わりたくなかったために、一人でいいと自分から言った。


 だがそれにしても、ノートの半数以上を埋めるほど描くのはおかしい。


 自分が他人を描くなどあり得ないのだ。


 己の意思で描くとしたら、それは――。


「ばかばかしい」


 俺はノートを乱雑に机の上に投げ捨てる。


 そんなことよりも数学のノートがなければ無駄に説教をくらうだろう。


 そう頭を切り替えて俺は山になっている画用紙の中を確認し始める。


 今まで描いてきた絵が、所狭しと置かれている。それを、手前から順に捜索する。適当に置いたノートに、描き終えた画用紙を気付かず置いたか、あるいは何かの拍子に滑り込んだ可能性を考えてのことだ。


 何度も画用紙を持ち上げては手を離してを繰り返す。


「お」


 思わず声が出てしまったが、そこには間違いなく探しものがあった。


 まったく世話をかけやがって――そんなことを思いながら、自業自得だと反省もする。


 俺はノートをさっさと鞄に入れてキャンバスに戻ろうと思った。


「……え?」


 だが、その考えは実行されぬまま、俺は目の前の現実に硬直した。


 数学のノートが挟まっていた画用紙に描かれた絵が、例の無地のノートに書かれた女子だったからだ。が描かれている。画用紙いっぱいに、いくつもの表情を描いた画用紙がそこに確かにある。


 その辺り一帯の画用紙を手に取り確認するが、結構な頻度でその女子が描かれていた。


 笑っている顔は無邪気で、心の底から笑っていた。


 悔しがる顔は、半ば恥ずかしそうで。


 意地悪そうな笑みは、親密さの裏返しのようで。


 怒った顔は、口を尖らせながら。


 それらは、子供のように純粋さを感じた。


 だがその全てが知らない顔だ。


 俺は山積みにされた画用紙の中を再び捜索し始める。


 次々とあらわれる彼女の絵。そのどれも、間違いなく俺の描いた絵だ。


 それよりも、どうして俺は描いたことを覚えていないのか。


 俺は床やベッドに散らばった絵を見た。家族の絵だ。


 ここには家族しかいないはずなのに、どうして、この見知らぬ女子の絵が――。







 翌日。


 移動教室の最中、学校の二階から外を見下ろしたとき、ふとグラウンドが視界に入ってくる。そこでは、あの時と同じように、どこかのクラスの体育が終わり教室に戻ってくる生徒が見えた。


 俺は、わずかの間それを見下ろす。


 グラウンドにいたあの女子生徒――彼女とは、そこではじめて会った。


 はずだ。




「どうしたんだい?」


 美術の時間、不思議なものでも見たかのような表情をしながら、丹波が覗き込んできた。


「悩み事かい? 恋患いなら力になれないよ」


「いえ、そんなんじゃないですよ」


 その言葉に、丹波は納得のいかない表情をする。


「大丈夫? なんかずっとボーっとしてるように見えてたけど、体調が悪いなら、保健室に行ってきた方がいいよ」


「いえ、大丈夫です」


 そう言って誤魔化すと、丹波はそれ以上言及してはこなかった。


 そうだ。問題ない。絵に心当たりがなくても何の悪影響もない。自分にそう言い続けた。




 だがそれから数日間、そのノートと絵は俺を悩ませた。


 間違いなく彼女だ。これほどの他人の空似なんてそうそう起きるものではない。


 なぜ俺はこんなに気にしているんだ――。


 そう自分に訴えかけ続けた。




 夜。暗い自室に月明かりが差し込んでいた。


 その中で今日を振り返る。


 ――何も、何も気にすることでもないだろう? 見なかった事にしても、何ら不利益を被るわけでもない。犯罪を見なかったことにするのとはわけが違う――そう、俺は自分を納得させたかった。


「無理だ」


 自分を一蹴する感情は、意図せず口から漏れでた。


 ――何かを忘れてしまったのか?


 そう思いながら、再度頭をめぐらせる。相沢の絵がこの部屋から出てきたこと、そのことが引っかかった。


 ノートだけならまだ分かる。しかし画用紙はそうもいかない。


 自室以外で画用紙を使うとしたら美術の時間だ。


 だが学校から持ち帰る場合には必ず丸めている。結果として、少なからず折れたり反り返ったりするものだ。


 だが俺の部屋にあった絵には、そういった痕跡が残っていなかった。


 すなわちこの部屋で描いたということだ。


 俺が、この部屋で描くものは決まっている。


 知らない女子の事を、他人をここで描くはずがない。


 少なくとも、あれほどの枚数を描くわけがない。




 なぜ思い出せないのかは分からない。


 もし俺自身が描いたなら、あの女子生徒のことは、それほど大きな存在だったのだろうか。


 思い出せない。


 だからこそ、確かめたい。


 そんな気持ちが、日々強まっていく。


 もしも描かれていたのが漫画等の空想のキャラクターならば話は違ってくる。


 だがあの女子は確実に存在する。


 ――本人に確かめに行くべき、か?


 だが怖かった。


 自分の世界に、誰かが土足で足を踏み入れてくるのは我慢ならない。


 かき乱されるのは、さらに受け入れがたい。


 もし忘れているだけでそうだったとしたら、追求することで今後そうなったとしたら――そう考えると、どうしても自分には勇気が足りなかった。










 ただ時間だけが過ぎていく。


 まだ梅雨入り前だが、すでに夏が訪れたかのように蒸し暑かった。


 だがそれ以外は何も変わらない。退屈で、つまらない日々。何もない、時間が過ぎていく日々。


 ――そのはずだった。


 未だに俺は忘れられなかった。


 それだけなら、まだ良かったのかもしれない。


 徐々に絵が描けなくなってきた。


 スランプと、いうやつなのかもしれない。


 少なくとも、丹波はそうだろうと言っていた。


 だが根本的に、絵に集中できなかった。


 集中力が持続せずに、すぐに気が散ってしまう。


 俺にとって、あの部屋はすべてだ。あの部屋は、俺そのもので、俺に残された最後の場所だ。なぜ、あんな女子が紛れ込んでいる――。


 何も分からないまま、時間だけが過ぎていった。






「黒野君――」


 さらに数日が経過したその日の放課後。


「申し訳ないけど、丹波先生に今日は帰るってこと伝えてくれないかな?」


「ええ、分かりました」


「美術部員じゃないのに悪いね」


 最後まで残っていた三年生の部員が帰宅し、美術室に一人が残された。


 部屋の中に、赤い日差しが入り込んでくる。


 丹波は、何か食べ物にあたったようだと、自虐気味にトイレにこもっていた。


 俺は一人で鉛筆を走らせる。


 しかしどうにも線が乱れてしまう。


 苛立ちを覚えながら描き進めるが、当然、納得のいくものにはならなかった。


「失礼しまーす……って、あれ?」


 そんな中、扉を軽快に開けて、女子生徒が入ってきた。


「すみません、丹波先生はこちらにはいないのですか?」


「先生なら、今トイレだよ」


 手に持つ二枚の画用紙には、それぞれ何かの絵が描かれていた。鳩か何かの鳥の絵。もう片方は、後ろ側に隠れているから一部しか見えないが、例えるなら象形文字みたいだった。


「じゃ、ちょっと待つかな……」


 その女子は、太陽が沈みゆく空を見て、続けざまに時計に目をやり呟いた。


 どうやら時間を気にしている様子だった。


「もう三十分もトイレにこもったままだけどね」


 そう思ったから、俺は口添えしておいた。


「うえ⌇⌇マジっすか……。ん?」


 不意に彼女は辺りをきょろきょろと見回す。


 俺は、その様子を横目で見ていた。


「どったの? 入ってくればいいのに」


 見渡すのをやめたかと思うと、扉に向かって彼女は軽く叫んでいた。


 恥ずかしがってか、扉の向こうに女子がもう一人いるのだろう。画用紙を二枚持っていたってことは、丹波のペア課題だろう。


「ほらほら!」


 手を引っ張られ、女子がもう一人美術室に足を踏み入れる。


 視線が交差した瞬間、時間が止まったと錯覚した。


 その女子が、例の小柄で金髪の女子生徒だったからだ。


 向こうはこちらに気付いていたのか、落ち着かない様子で視線を合わせようとしない。


「まっとりあえず、待ってよう!」




 十分かそこらの時間が流れた。


 自分では手を動かしているつもりだが、どうにも同じところを描き続けている。


「あー! 早く帰らないと生放送始まっちゃうのにっ!」


 ペアの方の女子が、「生放送は生で見てこそ意味があるのに!」と貧乏揺すりを加速させる。


 そんな言葉をもらしながら。


「そうだ!」


「は、はい」


 女子が指を指しながら、そう相沢に声をかける。


「澪っち、今日予定ある?」


「いえ……特には、ない、けど……」


「じゃ、悪いんだけどさ、渡しといてもらえないかな?」


「え? ……え?」


「だめ?」


「い、いえ、ダメじゃないけど……」


「じゃあ、お願い! 今度お礼するから!」


 そういって、ペアの女子は走っていってしまう。金髪の女子は画用紙を抱えたまま、うつむいていた。


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