二年生

七話

 二〇〇七年度。


 季節は巡りまた春が来て、俺は高校二年生になった。


 もっとも一年たっても同じ日々を繰り返すだけで何も変わらない。


 強いて挙げるなら、少し身長が伸びたことと、下級生が入ってきたことくらいだろう。だが正式に美術部に入っていない為に、後輩と関わることは滅多にない。


 退屈で、暇で、何もない日々。


 俺はこの世界に閉じ込められている。勉強を強いられ、競争をさせられる。競争の果てに就職しても、そこでも競争が待っている。そして老いて退職し、気付けば死ぬ。何の自由もない。人々は常識や世間体に囚われ、法律に束縛される。この世界は、牢獄と変わりはない。


 つまらない。それ以外に何が言えるだろうか。


「おお、黒野、ちょうどいいとこに来たな」


 授業も終わり、教員室に提出物を出しに行った時、そう教師に声をかけられる。


「プリント半分持ってくれ」


「はい、分かりました」


 そして、変わらず教師にとっての「いい生徒」の猫かぶりは変わっていない。


 だがそのおかげで大きな荒波も立てずに無難に過ごせている。


「この前の模試だが、かなり良かったな。特に国語と数学はクラスで一番だったじゃないか」


「いえ」


「志望校のレベルをあげたらどうだ? 東大も目指せるかもしれんぞ」


「さすがにそこまで頭は良くありません。それに、近年は東大に合格した生徒はいないんでしょう?」


「そうだったな。何十年か前が最後だったか。だが先生は行けると思うんだがな! 落書きなんてくだらないものに時間を使わなければな!」


 こういうことを大声で平気な顔して言えるのが教師という人種だ。


 大学受験と無関係なものは一切の価値がない、無駄なものとして認識している。


 別に反感は抱かない。はじめから期待していないから。


「みんな進級おめでとー。まぁ何人かは残念なことになってるみたいだけどねー」


 最初の美術の時間、相変わらずの丹波の教師らしからぬ台詞が響き渡る。


「春休みどうだったかな? 先生は花粉症でずっと涙目だったよぉ」


 そう言いながら、口につけたマスクに手で触れる。


 何人かの生徒はそれに食いついて話が多くなる。それだけで時間が十分弱は潰れただろう。


「あっ!」


 そんな空気を打ち破ったのは、丹波自身の奇声だった。


「そうだそうだ。うっかり忘れてたけど、一年生の時の課題をいくつか返してなったね。まぁ最初の授業だし、クラスの生徒の入れ替わりもあったし、まぁこの時間はまったり親睦を深めちゃってー」


 名前を呼び、課題の描かれた画用紙を返却する丹波。その際に、丁寧にアドバイスも口で添えながら。


「黒野君ー」


 最後に俺の名前が呼ばれる。毎回最初に出していたものだから一番下になっていたのだろう。


「うん、相変わらず上手いと思うよー。それに、一年でさらに成長してるねっ!」


 グッジョブ! という言葉を付け加えながら、丹波は俺に向かって親指を立てる。


「いえ、まだまだです」


「それを言ったら僕もそうだよー。ゴールなんてないようなものだから、後はもう今まで通りに描きまくることだねっ!」


「はい」


 席に戻る途中。画用紙に書かれた名前に目がいった。


 それは俺の名前で、何の変哲もなかった。だが何か違和感を覚えた。


 たしかこれは、一年生の時に夏休みの課題で描いた奴だった。


 鉛筆や消しゴムといった、小物を適当に選んで描いたものだ。


 なんでそんな単純なものを描いたのか、まったく覚えていない。


 だが違和感の現況はそこではない。


 右下に書かれた自分の名前のところだ。


「授業が終わるまでは捨てないでよ?」


 そんな言葉で丹波と生徒が騒ぐ中、俺は鉛筆で違和感の元凶をそっとなぞる。


 何かが書かれたような筆跡。丁寧に消してあるが、へこんだ画用紙は元には戻っていなかった。


 鉛筆でその上を薄く塗りつぶしていく。




 平仮名で「ちび」と言う文字が浮かんできた。


 俺はため息をつきながら考えるのをやめた。


 思った以上にくだらなかったからだ。






 時間はあっと言う間に過ぎていく。


 ちらほらと聞こえてくるのは蝉の断末魔だ。


 春の陽気になったり夏日に変化したりする不安定な時期だ。


「おや、黒野君、授業はいいのかい?」


 その日の午後、体調不良か何かは知らないが、午後の時間が完全に自習になった。


 年に一度あるかないかのサプライズに、監督する者がいなければおとなしく自習する者はほとんどいない。日頃の鬱憤を吐き出すかのように好き勝手する生徒を尻目に、トイレに行く振りをしてそのまま美術室に来た、


「自習なんで」


「そうかそうか」


 どうやら、授業はあっていないようだ。


 そうだ――と、また何かを思いついた様子で俺に声をかけてくる。


「僕もちょうど今時間が空いててねー。気分転換に今からグラウンドのほうにスケッチに行くんだけど、黒野君も一緒に行くかい? いろいろと都合がいいでしょ。一緒の方が」


 その日は穏やかな気温に爽やかな湿度、心地よい風速と、絶好の小春日和だった。


「お願いします」


 騒がしい教室内で教師に怒られるのを待つよりは有意義なのは間違いない。


 そう思い同意し、画板と画材を持って美術室を後にする。




「いやー最近やっと花粉症が完全になくなって心地いいねー」


 昇降口から外に出ると、丹波はキャンバスを持ちながら伸びを何度か繰り返す。


「黒野君は花粉症じゃなかったよね?」


「違いますよ」


「いいなぁいいなぁ、羨ましいなぁ」


 まるで子供のような言動に呆れた視線を送っておくが、まるで気付く様子はない。


「んじゃ、どうしよっか。スケッチは同じとこで描くかい?」


「どちらでも」


「よし、じゃあ別々のところで!」


「……さっき一緒の方が――って言ってませんでしたか?」


「まぁそれは他の先生方に弁明するときの話だよー。そんなに離れるわけじゃないし、何か言われたら僕のところまで連れてきてくれたらオッケーだよー」


 教師としてそれでいいのかという疑念はあるものの、他に比べたら悪い印象を受けないだけでも、やはり丹波は変わっている。


「そういうことでしたら」


「そうだ、言い訳の材料を増やすために同じテーマで描こうか。今ちょうど一年生がグラウンドで体育をしているから、それをメインでスケッチしよう!」


「分かりました」


「じゃ、僕は校門近くのグラウンドで描くかなぁ」


「俺は昇降口近くのグラウンドにいます」


 


 グラウンドは校門から昇降口までの道路の脇にあり、丹波とは反対の位置で描くことになる。


 俺が昇降口から一番近いグラウンドに着いたとき、すでに先客が座っていた。


 体育座りをして、顔をうずめていた。その女子は、病気か怪我か、体操服を忘れたか――何かしらの理由で見学しているようだった。


「大丈夫?」


 もし気分が悪いなら無理に見学するよりも保健室に行った方がいい。たとえ、根性が養われないという脳筋体育教師に怒られたとしてもだ。


「え? あ、はっ、はい」


 突然声をかけられて驚く女子生徒の素振そぶりから、体調不良というわけではない様子だ。


「美術の授業でスケッチしたいんだけど、この辺り使ってもいいかな?」


「えっ、あっはい。大丈夫、です」


 他のところでも良かったが、移動が面倒に思ってしまったのと、下手に別の場所に移った場合に丹波が言っていた言い訳に穴ができると後々面倒だと考えたからだ。


 女子生徒の不思議そうな視線を受けつつ、画板を首からさげ、画用紙に鉛筆を滑らせる。


 描くのはグラウンドで野球をする男子と、待遇の違いに不満を募らせながらもマラソンをする女子の姿だ。


 かすかにささやくそよ風に、髪がわずかに揺れる。


 草も木も、日陰も生徒も、何一つ止まっているものはない。


 常に何かに影響されて動き、姿を変えていく。


 それを俺は一枚の紙に、動かない絵として描いていく。


 まるで今にも動き出しそうな、そんな雰囲気を織り交ぜることを目指しながら。


「何を、描いているのですか?」


 途中、見学をしていた女子がそう声をかけてくる。退屈なのだろう。


「全体」


「ぜんたい?」


「ここから見える全体を切り取ったような絵、かな」


 彼女にとって暇つぶしになると思ったのだろうが、一瞬で会話が終わってしまってがっかりしたのかもしれない。それだけで声はかけてこない。


 だがふと気付く。


 その女子生徒が金髪である事に。


 黒髪の生徒ばかりの中で、彼女だけが一人だけ艶やかな金髪をしている。


 髪を染めることは禁止されているため、金髪でも問題ないとすれば地毛なのだろう。


 ハーフか、あるいは留学生だろうか?


 自分たちの学年では留学生はいなかったが、知らないだけでいてもおかしくはないだろう。


 まぁ、関係ないか――と、それ以上気に留めることなかった。




 耳につくのは、風と、風になびかれて囁く草木の音。そして生徒の話し声と、野球の音だけだった。


 ――昔は絵を描くことよりも野球の方が好きだったな。


 そんな事をふと思っていると、バットの金属音はよく聞こえてくる。


 それは金属バットをボールに当てたが捉えきれなかった音だった。しかし、その後に続くのは、焦った声だ。


 野球ボールがこちらの方に飛んできている。


 ボールは弧をえがきながらこちらに向かってくる。


 自分には直撃しないことを直感が理解する。


 コースがわずかに横にそれていたからだ。


 とっさの行動だった。


 俺は腕を伸ばし、女子生徒の服を、その襟元もとをつかんで引き寄せた。


 直後、ボールはもともと女子生徒がいたところに跳ねてどこかへいった。


「えっ」


 呆然としていたのか、その女子生徒は何が起こったのか理解できない様子で立ち上がり口をとがらせる。


「何をするんですかっ!」


「ボールが当たりそうだったから」


 そうバッターボックスの方を指さしながら説明すると、ちょうど体育教師が駆け寄ってくるところだった。


「大丈夫か? 怪我してないか?」


「あっ、はい。大丈夫です」


 ようやく事の重大さを理解したのか、こちらに振り返り「ありがとうございます」と軽く頭を下げる。


「ところでお前はこんなところで何をしてるんだ?」


 物のついでにこちらに言及してくるので、丹波の名前を出し説明するはめになった。もっとも、生徒の言葉だけでは信じてもらえないので呼ぶはめになった。


「大丈夫ー?」


 その間に女子のクラスメイトが駆け寄ってきて心配そうに声をかけていた。




 授業の終わる五分前になると徒は片付けに入り、それに見学していた生徒も加わる。


 すぐにチャイムが鳴ると、生徒はわいわい騒ぎながら教室に戻っていく。


 先ほどの女子生徒は、俺から目線をそらしながら通り過ぎていった。




 


 その日の午後の授業も終わり、清掃後のホームルーム。


 他のクラスでは続々と部活へ向かったり下校したりしている中、案の定、自習の時間で自習できなかったこのクラスは教師の説教が続く。


 あれだけ教室でガヤガヤと好きかってしていれば他の教室にいる教師にもバレるだろう。加えてまだ下級生が入ってきたばかりだ。ここで大々的に説教しておかないと新入生に示しがつかないとあっては、生徒指導の教師の熱も入るというものだ。


 丹波には感謝しなくてはならない。


 どうも生徒指導の教師が教室に来る前に話を通しておいてくれたらしく、自分だけは――美術だが――ちゃんと自習していたという話になったらしい。


 まぁ連帯責任ということで一緒に説教を聞くはめになったが、こちらに火の粉は飛んでこなかったのでよしとする。




 日が暮れるのがかなり遅くなってきたが、説教が終わる頃にはずいぶんと日は傾いていた。


 礼は言っておかなくては――と、ようやく訪れた放課後にすぐ美術室へと向かう。




「いいよいいよー。これは黒野君の、日頃の行いの賜だからね」


 丹波に礼を言うと、嬉しそうに答えた。


「日頃の行い……ですか?」


「模範的な生徒として過ごしてるからねー。斎藤先生も、引き合いに出せる生徒が一人くらいいた方が怒りやすいのもあるし」


 丹波は、長々と説教していた生徒指導の教師の名を挙げながら説明する。


 確かに、説教中に何度か自分がまともな例として引き合いに出されていた――と腑に落ちる。


「ただま、黒野君のアレは実際にはサボりだと思うから、教師としては説教しておかないとね」


 コホンと咳払いをしつつ、襟を正し丹波は続ける。


「次からはきちんとルールに則って根回しをしてからサボること!」


「……それ、教師が言っていいんですか?」


「いいのいいの。というか、僕としてはそっちの方が必要だと思うんだよね。処世術とか立ち回り方とか、社会に出た後のことを考えたら」


「丹波先生は、高校ここのやり方には反対なんですか?」


「んー、一概に断じるのは難しいけど、全ての生徒を一律の型にはめ込むのはもったいないと思うかなー。長所を殺して短所を減らしてたら、サラリーマンとしては優秀だろうけど、イエスマンになりやすいだろうしね」


「なら丹波先生にぜひ変えていって貰いたいですね」


 確かにね――と苦笑しながら肩をすくめる。


「ただまぁ三十代の教師なんて若造で、たいした発言権はないからなぁ。十年以上変わってないんだから、ちょっとやそっとで変わらないと思うよ」


「先生は卒業生、でしたっけ?」


「うん、そうだよ。そういえば言ってなかったね。僕が学生の頃からまっっったくと言っていいほど変わってないね、ここは」


 丹波のゆるい言動や授業は、彼なりの抵抗なのかもしれない。


 そう思っていると、まぁ――とため息交じりにこぼす。


「かといって生徒が好き放題して学級崩壊しても、それはそれで問題だし、生徒にとってもったいないと思うから難しいところだよね」


「確かに、そうですね」


 それはそうと――と、丹波は話を戻し続ける。


「僕から見て黒野君はここのやり方を迎合しているわけじゃなくて、必要経費として割り切って立ち回ってるように見えるんだよね」


「そう、ですか?」


「黒野君は頭がいいからね。クラスメイトだけじゃなくて教師も稚拙に見えたりしてるんじゃないかなって。まぁ完全に僕の推測だけど」


 丹波の言葉に、すぐに否定の言葉は出てこなかった。


「黒野君は将来の夢はあるの?」


「……いえ、今のところは」


「夢があって、そこに向かうために割り切ってるなら別にいいと思うんだけどね。ただとりあえず目の前の事を避けているだけだと、一度しかない青春を浪費するにはもったいないかな、やっぱり。――進路希望も適当みたいだし」


「……進路希望を見てるんですか?」


「全員じゃないけどね。黒野君みたいに、ここのやり方が合わないだろうなって生徒のは見させて貰ってるよ」


 これでも教師だからね! と、胸を張りながら。


「なので、僕からの説教としては『今一度、自分の将来について考えてみてね!』ってことだね」


「……はい」


 そうそう――と思い出したように付け加える。


「この学校では不純異性行為に繋がるとして恋愛を禁止してるけど、個人的には青春時代に恋愛はしておいた方がいいと思ってるよ」


「唐突ですね」


「いやね、僕が学生の頃も恋愛は不純だって言われてたんだけど、いざ大人になると『やれ結婚しろ』だの『その年でまだ子供もいないのか』だの言われるからさ。学生の時に学ぶ機会を奪っておいて、それはないだろうと思うんだよね」


「……私怨が混じってませんか?」


「いやほんと、斎藤先生には勘弁して欲し――おっと、今のは聞かなかった事にしておいてね」


 ただ――と、最後に付け加える。


「自分以上に大切な人が見つかったからこそ、将来の展望が見えてくることもあると思うんだ。まぁ、独身おっさんの戯言たわごとだけどね」


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