六話
気付けば夏休みは終わり、二学期が始まっていた。
夏休みは台風やお盆を除き、ほとんど学校で過ごした。
そのため、二学期が始まったとしてもたいして変わった感覚はない。
ただ、澪といるおかげか、ずいぶんと口数も増えた気がする。
澪は相変わらず慌ただしくそそっかしく、騒がしい日々の中で、お互いに笑い楽しんでいた。
それは、世間一般で言うところの「ごく普通の学校生活」と呼んで差し支えなかっただろう。
夏休みに美術室を勝手に使ったことは、途中で怒られかけもした。
だが日頃の行いから大目玉を食らうことはなく、実質的に美術部員のような状態だったために丹波が間に入ってくれたこともあり問題にまでは発展しなかった。
そこで描いた絵はほとんど美術室に置いてある。
他の美術部員の絵画と共に、丹波が保管してくれた為だ。
ただ授業が開始されれば画用紙に本格的に描く問いのは難しくなってくる。
そのため白紙のノートの描く事にしているが、すでに一冊目は使い切っていた。
「先生、一枚足りません」
二学期になってから、席替えもあった。
俺と澪がつるんでいるのは周知の事実なようで、同じ列にされてしまった。
「ああ、悪い」
後ろの方の生徒の声に反応して、教師が澪にプリントを渡す。澪は背が小さいものだから、一番前に据えられていた。俺はその後ろだ。
何をやっているのだか――と教師に対して嫌悪感を抱きながら過ごす日々は、澪と出会う前とあまり変わらない。
十月も末に入ると、木々が紅葉をし、既に散り始めていた。
夏に比べて気温も落ち着き、朝はもうかなり冷え込む。
季節は確実に秋に移り変わり、すでに冬を迎える準備が始まっていた。
その頃には澪を描いていたノートも三冊目に入った。
ただ一冊目を紛失してしまったのがここ最近での最大の汚点だ。澪は別に構わないと笑って許してくれたが。
「先生! また一枚足りませんよ!」
そう後ろの生徒が声を張り上げる。またか――とうなだれながらも、俺は教師からプリントを受け取り後ろに回す。
最近、どうもこの列は何かと一枚足りない。
もし意図的なものなら、教師にとって嫌いな生徒でもいるのだろうか。
もしそうならばこちらにしてみれば迷惑な話だ。
「翔君――」
振り向きながら澪が声をかけてくる。その声は、どことなく弱かった。
「どうした?」
「い、いえ、なんでもないです」
そういえば、最近澪の様子もおかしい。
風邪気味ではないようだが、あまり元気がない。
季節の変わり目で体調でも優れないのだろうか?
「おや、今日も残るのかい?」
放課後、美術室に行くと、丹波に声をかけられる。
「ええ」
「一人でよく頑張るね」
澪がいるのに、そう言う丹波は軽くからかっているのだろうか。
「あまり冗談が過ぎると、澪が泣き出しますよ」
「ああ……悪い悪い」
丹波の冗談に、これまでなら澪がツッコミを入れてもおかしくないが、どうもそんな気分ではない様子だ。
別の日。
昼休みに二人で売店に向かった。
澪はこの日もあまり元気はない。ふらふらとした足取りで進んでいく。
途中、廊下で男子が数人固まって話しながら歩いていた。廊下の半分を使っていたが、普通に避けられるスペースはあった。
俺は少し横に避けたが、澪は男子生徒気付きもしないでまっすぐに進んでいた。俺が気付いた時には、澪は男子生徒にぶつかって転んでしまう。
状況的に、ちゃんと前を見ていなかった澪にも悪いところはある。
だが、その生徒がそのまま何事もなかったかのように歩き続けるものだから、文句のひとつでも言おうとした。
「翔君、いいの。私がぶつかったんだから」
そんな俺を見て、力なく澪はそう言う。
その表情はとても辛そうで、とても悲しそうだった。ぶつかった生徒は、そのまま歩いていき、見えなくなった。
その日の放課後、誰もいなくなった教室で、俺は聞いた。
「気分が悪いのか?」
何日か前にも聞いた。同じ事を。
「大丈夫」
何度聞いても、答えも同じだった。
半ば強引に保健室に連れて行ったこともあったが、何かしら病気という事ではなさそうだった。
「何かあったのか?」
考えられるとすれば、精神的なもの。
澪は学校以外では会おうとしない。
夏休み中も、放課後も。
一緒に下校したことはなかったし、休日にどこかに遊びに行った事もなかった。
その件について深く追求したことはない。
おそらくそれは、澪の家庭の事情で、他人が安易に口を出していい領域ではないと思っていたからだ。
「何もないですよ?」
「悩みがあるならいつでも相談に乗るよ」
元気のない澪は、見ていて辛かった。
そんな姿は見ていたくない。そう切に願った。
「本当に、大丈夫です」
嘘だと思った。
だが澪は抱えているものを教えてはくれない。
何もしないよりは試してみて後悔する方がいいと言う人もいる。
だが何かすることですべてがこぼれ落ちるかもしれない。澪を深く傷つける事になるかもしれない。
そんな賭けに、俺は踏み出せなかった。
教師からプリントを受け取り、後ろに回す。
今日はさすがにきちんと枚数は足りているようだった。
この列は生徒が一人少ない。俺は前から二番目に座っているが、一番前の席はみんな嫌がって誰も座ろうとしない。そのために毎回のように体を乗り出し手を伸ばさなくてはいけない。
面倒なこと、この上ない。
「澪、今日も残るか?」
放課後になって、俺はいつものように澪を誘う。
「うん――」
元気なく返事をしながらついてきた。ずっと、何も出来ない日々が続いていた。澪が苦しんでいる。けれど、俺にはどうすることもできなくて、何をしても反応は薄かった。
美術室には、今日は誰も残っていない。確か丹波は急用か何かで帰ったんだったか。だから今日はそんなに残れないな。
俺は、澪の隣で絵を描く。
澪は、俺にもたれかかったままその様子を見ている。
ふと時計に目をやると十八時前だ。
この辺でいいだろうと、画材を片付け始める。頑張っている運動部の声も、もうかなり聞こえなくなってきている。
丹波もいないので、これ以上一人でいても仕方がない。
今日は、特に残る日でもないのになぜ残ったのか、自分自身でも良く分からなかった。
まぁ別に問題があるわけでもない。
俺は教室を後にする。
そして、誰もいない美術室の扉を閉ざした。
俺以外には誰もいない。独りで、ずっとやってきた。
ただ、何故だろう。
物足りない感覚をどこかで覚えている。
そんな馬鹿げた感覚を捨てながら、俺は帰路についた。
十一月にもなると気温はかなり冷え込んでくる。
「よーし、課題回収するよー」
そんな中で丹波のゆるい号令が美術室に響く。
出席番号順に課題を持っていく。
「ああ、黒野君」
自分の番になり課題の絵を渡すと、一人だけ呼び止められる。
「はい?」
「毎回悪いね、君だけ一人で」
「今更ですよ。大丈夫です。入学してずっと一人でしたので」
何も変わらない。
ただ退屈で、同じ日々の繰り返し。
その中で、絵を描くことが唯一の気晴らしだ。
むしろ、誰かと組まなくてやりやすかったと思えるくらいだ。
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