六話「夏休み」

 勢いよく、校舎の方からこちらに走ってくる人影がひとつ。時刻は十時を回ろうとしていた。

 そいつは、すごく焦った表情をしながら、一生懸命に小さな体を動かしていた。

「はぁはぁ――す、すみませんっ!」

 なぜ校舎から相沢が……などと思いながら声をかける。

「校門じゃなかったんだっけ?」

「そ、そう、ですけど、中庭で、時間をつぶそうと思ったら、寝てしまって――」

 いつものように鳥に群がられながらか。頻繁に見る光景だけに、簡単に納得してしまう。

「まぁいいさ。次からは中庭や教室も確認しに行かないとな」

「すみませんっ!」

 いつものドジっ子ぶりを見ていながら、予測できなかった俺の責任でもある。

 校舎へ向かう途中、グラウンドや体育館からは、運動部の声がよく響いてきていた。美術部員はどれだけいるのかは知らないが、よく混ざっているので問題はないだろう。

「誰もいないのかよ」

 美術室の扉を開けると、そこはすごく静かだった。まぁ、丹波のゆるい感じの性格がここぞとばかりに部活に影響しているのだろう。

「いいのかな、勝手に……」

 相沢は少し不安そうだったけれど、俺はお構いなく中へ入る。注意されたら、その時に止めればいい。そんな感覚で。

 それから十三時まで課題をしていた。課題は、学校で配られたA3サイズの画用紙一枚に、ペアで描くというものだった。本当は一人一枚のはずだったんだが、丹波の手違いで、画用紙の数が足りず、ペアで一枚という事態に今回はなっている。

 しかし……。

「相沢さん?」

「んー?」

「……何というか。悪い意味で変わらないね」

 そんな言葉にムスッとしながら、適当選んだ品々を相沢は見つめる。相沢が描けるように簡単な小物を何個かを選んだ。鉛筆や消しゴムと言ったものなら、さすがに描けるだろう。それに、俺が先に描いたからある程度の手本になるだろう。

 しかし、その考えは非常に甘かった。相変わらずの象形文字で、俺にはどれが何だかいまいち分からない。正直言って、ここ一ヶ月で教えてきたことがまるで反映されていない。

「はぁ……」

 ため息のひとつでもつきたくなる。そのことに、相沢は少し暗い表情を見せる。

 しかしすぐに表情を切り替えると、違う話題を振ってきた。

「そういえば翔君」

「ん?」

「いつまでも、『さん』付けなんだね」

 また唐突だな。そんなことを最初に思った。

 相沢を呼ぶときのことか。俺は誰に対しても無難にそう呼ぶから、あまり気にしたことはなかった。

「さんじゃない方がいい?」

「んー……翔君がそれがいいって言うならそれで良いけど、出来れば違うほうがいいかなーって」

 相沢、と呼び捨ての方が確かに呼びやすい。けど、それはあまりにも馴れ馴れしいだろうか。

 だとすると、ちゃん付けとだろうか。相沢ちゃん。……ないな。下の名前は確か澪だったっけ。女の子はそっちの方がいいのだろうか。ただ今まで苗字ばかりだったから少し慣れない。

「澪ちゃん?」

「うんっ!」

 少し満足げだったけれど――

「なんだかちゃん付けだと、いっそう子供っぽく聞こえるな」

 ボソッとそんな言葉を漏らすと、例のごとく口を尖らせてほほを膨らませる。

「なっ! 失敬なっ!」

 ちゃん付けは微妙。澪さんはなんだか似合わないだろうな。女性に君付けは慣れないし。

 呼び捨て。結局この考えが、消去法で残ったわけだが……馴れ馴れしいだろうか。

「相沢?」

「んー……それなら下の名前の方が良いですっ」

「澪」

 駄目だしされた箇所を修正して呼んでみた。

「は、はいっ!」

 あわてる表情を見て、ダメだなと結論付ける。

「今までのが一番良いんじゃないか?」

 聞き返すが、返事はなかなか返ってこない。

「どうした?」

 視線をうつむけたままだった。

「最後の――」

「ん?」

 少し間を置いて、ボソッと口を開く。

「最後の、もう一回言ってみてください?」

「澪……?」

 再び間が空いた。うつむいているから、髪の毛で表情が分からない。

「それで良いよっ!」

 親指を立てながら、勢いよく腕を伸ばす。

 世界が歪んだ気がした。

 一瞬の出来事で何が起こったかすぐには分からなかった。だが、額に痛みを覚える。

「あわわ! だ、大丈夫ですかっ?」

 どうやら、こいつの拳が顎を貫いたようだった。


 昼食は売店でいつものようにパンを買った。品数はかなり減るけれど、運動部が毎日のように部活をしているために営業している。

「いらないのか?」

 美術室でパンを食べながら澪にそう聞く。

「お昼は食べないから」

 確かに、今まで昼食をとってるところを見たことないな。そんなふうに納得する。

「で、終わったのか?」

 見なくても、美術の宿題は悲惨なことになってるのは目に見えているけれど。

「は、はい……」

 俺の問に一瞬の間を開け、視線を逸らしながらそう呟く。

 元気がなかった。

 無邪気さは感じられず、申し訳なさそうに眉間にしわが寄っている。

「どうした?」

 静寂がこだました。澪の後姿は、小さくて、少し震えているようだった。

 疲れているのだろう――そう思っていたが、よくよく考えてみれば、絵を描き進めるにつれ、徐々に元気がなくなっていっていた。少し前にため息をついた時などその最たるものだ。

「やっぱり、私には絵の才能ないのでしょうか」

 今更なことだと思いながらも、どうしたものか悩む。本当のことを言ったら傷付くだろうし、嘘をついても結局は傷付くだろう。

 俺としては迷惑をかけられた気はしていないが、もしかしたら澪は違うかもしれない。

「絵は、描けば描いただけ上手くなるものだからな。ただ、同じ量を描いてもどれだけ伸びるかは個人差があるし、最初はこんなものじゃないかな」

 無難に、それらしいことを言っておく。

 俺は、これで良いと思った。問題はないと。

「たくさん描きました。自分では頑張ったつもりなんです」

 そう言いながらこちらを向く澪の瞳は、暗く沈んでいた。嘆きや絶望を見せるその瞳は、少し潤んでいる気がした。

 苦痛とも呼べる静寂が俺たちの間に入り込んでくる。

 だが、絵は一朝一夕どころか、数ヶ月――いや、数年単位かけて上手くなっていくものだ。一、二ヶ月成長が見込めなくても、落ち込む必要はない。

 そう思って慰めようと思ったが、口より早く視線が澪が手にしているノートを映した。

 気づけばそのノートを手に取り、広げて見ていた。

 そこには、たくさんの過程があった。こいつはこいつなりに頑張っていた。その結晶が握られている。しかし、それはまだまだ実っていない。結果の見えない努力に、澪は疲れていた。

 澪は一体何のために絵を上手く描きたいといっていただろうか。

 頭を巡らせる。

 俺は絵を描くのが好きだから描いていた。澪はそんな俺と仲良くなろうと思い、絵が上手くなりたいと望んだ。もしかしたら、上手く描けないと友達でいる資格がないと考えているかもしれない。だから今生の別れでもするかのように顔を伏せているのだろうか。

 ノートの最後には、いつも昼食を食べている中庭のベンチが描かれていた。いや、おそらくだが、きっとそうだ。

 飲み込みは確かに悪かった。だが、澪は確かに努力をしていた。いつか報われると信じて、努力して、我慢して……でもあるときふと立ち止まると、糸が切れたように立ちすくんでしまう。

 あいつも、もしかしたらそんな事を思っていたのだろうか……。

 こんな状態の澪に何か言っても無駄だと思った。澪に限らず、辛さを覚えている人間にいくら正論を言っても、いくらすばらしい名言を吐いても、綺麗事にしか聞こえない。

 どうすればいい――時間の流れが遅く感じるほど頭を巡らせる。あの時のような愚行はしてはならない。そこだけは確信していた。きっとあの時もふと糸が切れたんだ。だから――

 俺は澪の手を取った。

「わっ!?」

 何かしたかった。言葉以外で何かを。

「え? え?」

 ただ澪の困惑した声が聞こえてきた。そうしている間に俺たちは中庭に出る。いつも座っているベンチ。今日も太陽の光を遮りながら心地よさそうな木陰がそこにあった。

「ここにいろよ?」

 戸惑いの表情を見せながら、澪はそのベンチに座る。

 俺は近くの別のベンチに腰掛ける。そして手にしていたノートと鉛筆。澪の描いた絵に、澪を描き加えていく。

 不器用な絵。その中に澪を映しこんでいく。それはまるで、おとぎ話の中に澪がいるかのような絵になっていく。歪で、形が整ってない、むちゃくちゃな世界。そんな中にいるのは、変わったドジな女の子。それでもその明るさから精一杯そこにいる。今を精一杯過ごしている。俺はそんなふうに思えた。


「やっぱり上手いです」

 出来た絵を見ながら、澪は悲しそうにそう言った。その哀しい表情の裏には、何があるのか、俺には分からない。

「澪は、確かに美術の時間でペアになって知り合った。丹波の気まぐれで。けど、そんなに無理して絵を描く必要はないんじゃないか?」

 小さい子供をあやすように。そう言ったら澪はきっとまた怒るだろう。

「得て不得手や向き不向きはあるだろ。澪も、自分に向いてることをすればいいと思う。俺は、絵が好きだから描いている。それだけだ」

 すると、その視線はさらに沈んだ。

「……私なんかに、向いてることなんて……あるのでしょうか……」

 体が震えている。俺は澪のことを知りつくしているわけではない。だから、俺には何がいいのかは知らない。ただ――。

「俺は澪を描いてると楽しかったよ」

 俺の言葉に澪は反応を示した。落ち込んでいた視線が俺の顔を求めて上向いた。そして澪はただ、ただひたすらこちらを見つめた。

 風になびく枝葉の音がこだまする。誘われるように澪の髪の毛も揺らめいていた。そしてそよ風は潤んだ瞳から水滴を掬う。

 それ以上のことは俺には分からない。今澪は何を考え、何を思い、何を巡らせているのかは。だから無駄口は発せず、澪の言葉を待った。後は澪の言葉を待つことだけが、今できることだと思った。

 俺たちの間をすり抜けるそよ風が水滴を掬い終えた頃、澪の口が開いた。

「私なんか描いて、楽しかったのですか?」

「ああ。モデルがいるのは悪くない」

 その言葉で、澪の表情が少しだけ綻んだ。つられるように俺も表情が緩むのが分かった。

 俺はなんだかんだで、こいつといる時は楽しいのだと思う。そして澪は無邪気に笑っているほうが、沈んでいる顔より断然好きだ。

 こんな感情を抱くのは、いったいいつ以来のことだろうか。



 美術室に戻り、俺たちはお互いに視線が交差する。澪の顔から小っ恥ずかしいそうな笑みが零れ落ちると、呼応するように口元が緩む。

 澪は、自分の描いた絵を考え深そうに見つめる。

「確かに、これは象形文字かもですね」

 自虐とも取れたけれど、それ以上に澪はうれしそうだった。

 何を思ったのか、――丹波を見習ったのだろうか――澪は絵を破こうとしていた。

「待った待った!」

 俺は反射的にとめていた。

「いいんですよ。私は絵を描くのは向いてないんです」

 いや、そうじゃなくて。

「それ破ったら宿題もう一回しないといけなくなるぞ」

「はっ! そ、そうでしたっ!」

 ため息まじりで俺は安堵する。宿題もそうだが、相変わらずの澪に。

「別にダメとは言わないが、ちゃんと後先考えてから行動しろよ?」

 呆れた口調で澪を説教する。なお、宿題の描かれた画用紙はきちんと回収した。意図的にしろ事故にしろ、破られてはたまらない。

「す、すみませぇん」

 まぁ宿題の紛失は防げたので良しとする。

「後は名前だけか。一緒に書いとくよ?」

「あ、はい」

 黒野翔――その名前が画用紙の右下に縦書きで加えられる。

 相沢澪――普通に書こうとした。しかし、さっきのこともある。少し意地悪してみたい気持ちがあった。

 ちび――そんな名前を刻んでおいた。

「翔君っ! 酷いですっ!」

 俺は苦笑いを浮かべる。澪からの暴力を受ける前に俺は急いで消した。その上から澪はさらに証拠隠滅を図る。

「もう、翔君強く書きすぎですっ! いくら消しても書いた跡が残ってるじゃないですかっ!」

「ああ……悪い4Hの鉛筆だった」

 よりわざとらしい笑みをこぼすと、澪は口を尖らせながら筆跡の上に4Bの鉛筆で濃く自分の名前を書いた。


「明日も来る?」

 日も傾き始めた頃。空は少しずつ赤く変色していく。校門まで来て、澪が聞いてくる。

「宿題は終わったけどな……」

「私を描いてくれるんじゃないの?」

 俺の腕に寄り添いながら、そう意地悪くねだってくる。

 今日あんなに落ち込んでいたのは誰だよ――とため息をつきたくはなったけれど、その代わりに澪の髪をくしゃくしゃにしてやった。

「じゃあ、明日も今日と同じ時間に来る」

「うんっ」

 その無邪気な笑顔をされると、俺はどうも憎めなくなる。

「今日は、ここでお別れだね」

「一緒に帰らないのか?」

「うん、ここでいいのっ」

 そうやって過ごした夏休み初日は、今までで一番短かった気がする。

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