九話

 どれだけの時間が過ぎただろうか。


 時計を見ると、まだ二人だけになって五分程度しか経っていない。


 俺は、絵に集中しようとする。


 しかし、集中できるわけもなかった。


 今なら、聞こうと思えば聞けるのではないか。


 そう思う自分がいた。だが何を聞く? 何を問う? 分からない。


「あの――」


 だが俺は声をかける。


 それは葛藤の末の考えではなかった。


 ただ無意識が口から漏らした言葉だった。


「はい」


「一つ、聞いてもいいかな?」


「はい」


 質問の言葉を選ぶのに時間を無駄にし、ようやく口を開く。


「昔……いや、最近かもしれないんだけど……、君と会ったことがあっただろうか?」


「この前グラウンドで助けてくれましたよね。その節はありがとうございました」


 ――違う。それよりももっと以前の話だ。


 だが、その事をどう指摘していいのか分からない。


「名前を、聞いてもいいだろうか?」


「相沢……と、言います」


 相沢。先ほどペアの女子が澪と言っていた。


 フルネームは「相沢澪」だろうか。


 必死にその名前に心当たりがないか思い出そうとする。


 だが、まるで心当たりがなかった。


 他人のそら似と断じてしまいたかったが、それでは自分の中でつじつまが合わない。


 ――どうする?


 ――どうすればいい?


 長考の末――実時間で言うとそれほどでもなかったのだが――俺は意を決する。


「相沢さん、最後に一つ見てもらいたいんだけど」


 そう言って、通学カバンから例のノートを手に取り彼女に近づく。


「もし、このノートのこと知っていたら、教えて欲しいんだけど」


「あっ……」


 その反応は、明らかに心当たりのあると言っていたように思える。


 もしも「自分の全くの勘違い」だと思わせる言動であれば、まだ踏ん切りもついただろう。


 だが、何か知っているのであれば、知っておきたいという衝動に駆られる。


 無言の時間だけが過ぎていく。


 相沢も何と口を開いていいのか分からない様子で、目を泳がせている。


 いや彼女の中で何かが葛藤している。そんな雰囲気にも見える。


 泳いでいた相沢の視線が止まり、こちらへ向けられた。


 俺は彼女の言葉を期待した。


 だが、彼女は視線を外すと、身を翻し一目散に走り出す。


 ――待ってくれ!


 そんな言葉は間に合わず、ノートを手にしていない右手だけが彼女に向けられ空を切る。


 同時に聞こえてくるのは、相沢の持っていた画用紙が床に落ちる音の中と、彼女の駆け足だけだった。


 何を考えての行動なのかは分からなかった。


 だが、身を翻すわずかな間に見えた彼女の表情は、胸が引き裂けそうなほど悲哀に満ちたものだった。






 少しして丹波が腹を押さえながら戻ってくる。


 俺は立ち尽くすのをやめ、床に落ちている画用紙を拾った。


「おや? それは何だい?」


「……さっき一年生が提出しに来てましたよ」


「あーなるほど。んー、締め切り過ぎてるけど……まぁいいか。――ん? 今日はもう帰るのかい?」


「ええ。そうします」


「僕も早く帰って薬を飲みたいから助かるよ」


「お大事に」


 そう言い残し、片付けを済ませて帰路についた。




 間違いない――下校中に考える。


 あの反応から見て、何かあったのだろう。もしかしたら、高校以前かもしれない。小学生のころならありえる話だ。それなら覚えていなかったとしても合点がいく。絵の作画という、つじつまの合わない一点を除けば。


 そもそも絵を描き始めたのは中学生からだ。小学校の時にも絵を描くのは好きだったが、あの頃は今ほどのめり込んでいたわけではなかった。


 頭では延々と答えを求め続けたが、ただ時間だけが過ぎていった。






 翌日も翌々日も、相沢の姿は見つけられなかった。


 その次の日は、ひどい雨が降っていた。視界すらも遮るほどのその雨は、窓を締め切った教室にまで湿気と雨音をもたらしていた。


 どうやら梅雨入りしたらしい。




 その翌日も、さらにその翌日も雨は降り続く。


 その間にも、相沢を見ることはなかった。




「先輩」


 放課後になり美術室へ向かうと、扉の前でそう声をかけられた。


「この前、美術室にいた先輩っすよね?」


 相沢と一緒にいた女子生徒だった。


「私、って言います。今時間ありますか?」


「……何?」


 素っ気無く問い返す。猫をかぶったほうが良かったかもしれないが、このジメジメとした校舎内と、相沢の事が気がかりでそこまで気を回す余裕は無かった。


「あの、美術室で私が先に帰っちゃったこと覚えてます?」


「……覚えてるよ」


 聞きづらい事なのか、視線を逸らしながら言葉を続ける。


「あの後、何か言ってました?」


 そのときの光景が、脳裏によみがえる。


「どうして?」


「いえ……その……。次の日から全然学校に来ないんですよ。ずっと無断欠席のままで……。先に帰ったこと、怒ってるのかなって――」


 血の気が引き、嫌な汗が流れる。


「もしも体調が悪いなら、見舞いに行ってあげたいし」


 無意識に指に力が入る。


 俺のせいだ――そう、後悔と自責の念を感じずにはいられなかった。


 ただ知りたい――そんな俺の身勝手な都合のせいで、踏み込まれたくない領域に土足で入り込んでしまったのかもしれない。


「……携帯電話は?」


「あの子、ケータイ持ってなくて。担任が家にかけても、ぜんぜん繋がらないっぽくて――」


 今どこでどんな状況なのか、誰にも分からない。


 そんな状況になってしまったのは、自分が余計なことを聞いてしまったせいかも知れない。


 心の中で自分を責めていた。


 だが。


 だからと言って、今すぐ何かができるわけではない。


 相沢のことは、まだ何も分かっていないのだから。






 帰宅すると、夕食もとらずに自室にこもる。


 ――相沢なんて所詮他人だろ? そう囁く自分もいた。


 だが到底そう割り切れなかった。


 部屋に、落書き以外で相沢の絵があった。それは相沢という存在が家族と同等だということだ。


 だからこそ俺は確かめようとした。


 しかしそのことで相沢を追い詰めてしまったのかもしれない。


 ――俺は、また失うのか? 俺の身勝手さで。


 それでも思い出せない。相沢と言う存在を。


 俺は、どうすればいいんだ……どうしたいんだ……。






 翌日、また雨が降っていた。今日はさらにひどい。山間部では、土砂崩れによる事故が何件か起きるほどに。


 時間だけが過ぎ去っていく。


 嫌な事も何もかも流してくれればいいのにと、ぼやきながら。




 気付けば、もう放課後になっていた。


「今日も来なかったか――」


 彩咲に状況を教えてもらうが、あれから進展はない。


「ただの風邪なら、いいんですけどね」


 そう言って彩咲は去っていった。




 宛もなく校舎を歩き回る。


 外で練習できない運動部員たちが校舎内でところ狭しとトレーニングする姿がそこらじゅうにあふれていた。


 ほとんど生徒の残っていない教室の前を通る。


 どこかに相沢がいるのではないかと、そんな現実逃避のように。


 結局、美術室の前で立ち止まった。


 俺が中で描いていた時、相沢はここに立っていたのだろうか。この扉を出て行く時の様子が再び脳裏に過ぎる。


 相沢は、扉を右に曲がった。


 俺は相沢の行動を追うかのようにそちらに歩いた。化学室や家庭科室、音楽室を通り過ぎていく。


 ふと窓から見下ろした。二階の窓からは、あのグラウンドが目に入る。かつても同じように見下ろした。しかし、今は雨が遮って視界が悪い。


 歩き出そうとしたとき、視界に何かが入り込んできた。


 それは、米粒ほどにも小さく見える。グラウンドの周りに等間隔で植えられた木々。その中の階段近くの一本。その根本に植えられた植物と勝手に生えてきた雑草。


 その隙間に草木とは違う何かが見えた気がしたからだ。


 注視した。窓に打ち付ける水滴の合間を縫い、凝視。


 雨風に打たれ揺れる木々の隙間から、それが一瞬見えた気がした。


 草木とも、人工物とも違うそれを。


「っ!」


 気付けば体は階段を降り昇降口を抜け、生ぬるい雨が体中に打ち付ける中かけつける


 相沢だ。


 そこには、間違いなく相沢がいた。


 グラウンドの奥に植えられた木々と生い茂った雑草の中に、体育座りのように膝を抱えてうずくまっていた。


「大丈夫か!?」


 相沢はゆっくりと顔をあげ、こちらに虚ろな視線を向けた。


「翔……君?」


 そのか細い声はほとんど豪雨にかき消されたが、そう言ったように聞こえた。


 相沢の顔は濡れきっていた。その長い髪は地面につき、泥水を含んでいた。その幼い顔立ちに雨が打ち付け、その大きな瞳には、雨に混じって涙が流れているようだった。


「いつからいるんだ! こんな雨の中……」


 相沢の目が俺からそれる。


 その目には、生気がまったくなかった。まるで死んでいるような、そんな瞳だ。


「とにかく中に入れ」


 そう言って相沢の腕をつかもうと手を伸ばす。しかし、その手をつかむ前にはじかれた。


「ダメなんです!」


 相沢が大声で俺を拒絶する。


「何を……」


「構わないで下さい。……その方が、お互いのためなんです」


 顔をしかめ、苦しそうなその言葉は、とても本心とは思えなかった。


「分かってた……翔君が私のことを忘れていくことは」


「――俺が、忘れてしまったのか?」


「翔君のせいじゃ……でも……」


 そう言いながら、相沢は身を縮める。


「私の責任です……私が……。ちゃんとお別れをするべきだったのに……私の罪に、巻き込んじゃいけなかったのに……」


「今はいい。話は後だ」


 豪雨の中、雷の音が鳴り始め、雨風はさらに勢いを増す。


 まずは、校舎に連れて行こうと腕をつかむ。


 今度は拒絶されなかった。


 むしろ力が残っていないのか、ぐったりとしている。


 肌に触れたとき、異様な熱さに俺は思わず目を丸くする。


 相沢の額に手をやると、高熱だとすぐに分かるほどだった。


 無理矢理抱え挙げると、少し、相沢は抵抗する。


「頼むから! 頼むから、今はおとなしくしてくれ」


 その言葉で、相沢は動きをやめた。


 呼吸が荒いのが分かる。


 熱によるものだけではない。慟哭どうこくが混ざっている。




 すぐに俺は保健室に担ぎこむ。保健室の先生は驚きながら事情を聞いてくる。


 俺はただ相沢が雨の中にいたのを見つけたことと、その時には熱があったことを伝えた。


「相沢さんの着替えがある場所、分かるかしら?」


「いえ、そこまでは」


 先生は相沢に教室と出席番号を聞き、返ってくる小声に耳を近づける。


「……こう言うのは、男の子には頼み難いわね。すぐ戻ってくるから、ちょっと相沢さんのこと見ててね」


 そして俺にそう言って走っていった。


 保健室には二人いるはずだが、すでに放課後で部活も室内だからか、現在は一人しかいない様子だ。


「翔君――」


「ん?」


 虚ろな瞳と消え入りそうな声は、今にも事切れそうにすら思える。


「濡れたままだと、風邪引きますよ?」


 その重篤じゅうとくな表情に、かすかに笑顔が浮かぶ。


「心配するな」


 そう言って、俺も少しだけ破顔する。


 その表情の緩みは猫を被ってのことではなく、自然と出たものだった。




 教室が近かったこともあってか、一分程度で先生は戻ってきた。


「あなたも濡れたままだと風邪を引くから、着替えてらっしゃい。その間に彼女着替えさせるから」


 着替えるとなると、体操服くらいしかないな――そう思いながら保健室をでて教室に向かう。


 まだ施錠されていなかったが、教室はもう誰もいない。


 時刻は、五時を回っていた。部活の声は、まだ聞こえてくる。ほかに聞こえてくるのは豪雨。さらに強く降っているようだった。


 あの雨の中、相沢はどれだけいたのだろうか。どんな気持ちで、あそこに座っていたのだろうか。


 いくら考えても、答えは出てこない。


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