十話

 俺は着替えを終わらせ、保健室に戻る。


 保健室に入ると、相沢はベッドに寝かされていた。周りをカーテンで遮られているが、隙間から相沢が見えた。そこで辛そうに唸っている。


「――そうですか、すみません」


 そんな声が奥から聞こえてくる。先生らしい。電話していたようで、がちゃりと受話器を置く音が聞こえてきた。


「ああ、戻ってきたのね。悪いんだけど、相沢さんの連絡先とか知らないかしら?」


「いえ、そこまでは……。どうかしたんですか?」


「この熱だし保護者に連絡して、できれば迎えに来てもらいたかったんだけど、連絡がつかないのよ」


 そういう横で、俺は相沢の体温を書かれた紙を見た。そこには、四〇度四分と書かれている。確かにこんな高熱なら、先生の言うとおりだろう。


「不在、ですか?」


「それがね、別のお宅に繋がっちゃうのよ」


「かけ間違い……とかではなく?」


「もう三度かけたわ。全部同じ、別のお宅にかかってしまうの」


「学校にある連絡先は――」


「それでかけたんだけどね」


 友達にも家を教えておらず、担任も連絡がつかないと言っていた。


 本人に聞こうにも、こんな状態で唸っている中では厳しいだろう。


 八方塞がりで困惑するのも分かる。


 相沢が電話番号を書き間違えたのだろうか。


 そんな折に、扉が開いて教師が一人入ってくる。どうやら相沢のクラスの担任のようだ。


 大人同士の会話の最中、ベッドの横にある椅子に座った。


 相沢はまだきつそうに唸っている。目は完全につぶり、眉間には少ししわが寄っていた。


 自分にできる事は何もなく、なぜあそこにいたのかを考える。


 あの雨の中、相沢は、確かに俺が忘れたのだと言った。


 俺が忘れることを分かっていたとも。


 それに、相沢の言っていた罪とは何だ?


 思い出そうと必死に頭をめぐらせる。


 少なくともあの絵は、相沢を描いたものに間違いなさそうだ。


 ふと、保健室の先生が近づいてくるのに気付く。


「どうなりました?」


 すでに担任は部屋から出て行ったようで姿が見えない。


「今、斎藤先生が教員室のほうに調べに行ってるわ。それ次第かしら」


「そう、ですか」


 先生も気が気でない様子で、そわそわと落ち着かない。


 再び考えを整理する。


 相沢とかつて関わっていた事は明白だった。


 いや、親しかったはずだ。


 そうでもなければ、あれだけの量の絵を描いたりしない。


 そのことは俺自身がよくわかっている。


「お前は、いったい何者なんだ……」


 相沢にかけられた布団は上下に動いていて、息は荒い。


 何度か、氷を包んだタオルを取り替える。俺も、わずかながらその手伝いをした。


「困りましたね」


 そんな大人同士の会話に聞き耳を立てる。


「とりあえず、先に病院に連れて行きましょう」


「そうですね」


 そんなやり取りが終わると、ベッドを囲んでいたカーテンが開かれる。


「君はもう帰りなさい。彼女はこれから病院に連れて行くわ」


 先生のその言葉に気がかりはあるが従う。自分にできる事は何もないのだから。






 保健室を出た後、ふと脳裏をよぎる。


 絵の画力は、最近のものだ。そして相沢と俺は同じ高校だ。


 この学校にも絵が残されているかもしれない。


 その可能性があるとすれば、美術室だろう。


 考えるよりも先に体が動いていた。




 美術室に入ると、丹波は美術部員に絵の指導をしている最中のようだった。いたのは三人で、他はもう帰ったようだ。


「丹波先生!」


「ん? 黒野君か。どうしたんだい? ……ってか、その服どうしたんだい?」


 俺の呼びかけに、わずかに驚きの表情を見せながら、丹波は聞き返す。


「制服が濡れたもので。それより、俺が今までに描いた絵はありますか?」


「ん? それなら奥の準備室のところに全部保管してあるけど?」


 不思議そうな表情を浮かべながらも襲えてくれる。


「ありがとうございます」


 俺はそれだけ言うと、一直線に奥に消えていく。


「右手の棚ねー」


 後ろから丹波の張り上げた声が聞こえてきた。


 美術室には、小さな物置がある。


 教師が授業の準備をしたり、画材の予備を置いたりしている所だ。


 そこには、授業の課題が各クラス単位で仕分けされている。


 近くに美術部員の絵画が分かりやすいように名前付きで整理されている。


 その中に自分の名前があった。


 そこに保管されてあった絵をまとめて取り出し、そこに何が描かれているか確認する。


 一年生のときからの絵が全て保管されている様子で、上の方が新しい絵のようだ。


 半分ほど確認し、その手が止まる。


 おそらく、一年生の夏から秋にかけての作品だろう。


 そこから数十枚、全体の量で言うと三分の一ほども、同じ人物が書かれていた。


「相沢……」


 やはり俺は彼女と関わっていた。もしこれが何かのドッキリなら、さっさとネタばらしをしてほしい。もしこれが夢なら、早く覚めてほしい。そんな普段考えないような現実逃避な発想も、今の俺にはいとも簡単に脳裏によぎる。


 だが信じられないのは自分の記憶の方だ。


 他人が介入できる余地があるのかと疑問を感じ、無意味な現実逃避は頭の片隅に追いやった。


 ここで一つ疑問が出てくる。


 この絵を描いたのは一年生の頃だろう。


 だが、相沢が今も一年生なのはどういうことだ?


 留年した――そう考えるのが最も自然だ。


 丹波もいつぞやに言っていた。「何名か残念だった」と。


 この学校は進学校で、当然勉強についていけない生徒は留年か転校を余儀なくされる。何ら不思議ではない。


 しかし、ならば相沢のことを覚えている人物が同学年にいるかもしれない。いや、教師でもいい。


「探し物は見つかったかい?」


 考えにふけっていると横からそう声をかけられ、思わず体がピクッと反応する。「びっくりさせてしまったみたいでごめんね。――で、何を探してるんだい?」


 相沢の事を聞くのに、丹波以上に適任はいない。


 なにせ俺は相沢の絵を描き、それを保管していたのだから。


 そして当然、丹波は去年も教師としていたし、何ならもっと前からいる。


「この絵についてなんですが――」


 俺は、相沢が描かれた絵を一枚引っ張り出しながら丹波に見せる。


「この絵を描いたときのこと覚えてますか?」


「んー、いつのだったかなぁ。……それは、確か夏ごろじゃなかったかな」


 腕を組みながら必死に思い出そうと丹波は眉間にしわを寄せている。


「あー、確か、夏休みのときに描いたやつじゃなかったかな? 僕が少し美術室使ってない間に黒野君がその絵を描き散らしてなかったっけ?」


 確かに、そんなこともあった気もする。


 確か、家にいたくなくて美術室を使ったはずだ。


 だが誰かといた記憶はない。


 ……いや、確かに途中で丹波に見つかったことはあったが。


 だがなぜこのような絵を描いていたかについては不思議と思い出せない。


「そのときの事、詳しく覚えてませんか?」


「んー、どうだったかな。さすがにそこまでは覚えてないね」


「そう、ですか」


 ……俺はうつむき加減に返事をした。


「何かあったのかい?」


「誰を描いたのか、思い出せないんです」


「これは、相沢さんじゃないのかな? あれ? でも相沢さんは今年の新入生だよね」


「留年した、と言う可能性は?」


「んー、覚えている限りだと、女子で留年した人はいなかったはずだけど……」


 ただ断言できるほどの記憶ではない様子だ。


「去年にはいなかったはずの生徒の絵を何故か描き、それを本人は覚えていない……んー、そういう怪談っぽい話は苦手だなあ……」


「すみません、不穏なことを」


 それ以上丹波に確認しておきたいことが思いつかなかったので、美術室を後にする。




 昇降口を抜け帰路につくと、即座に傘に雨が激しくたたきつけてくる。まだそれほど歩いていないにも関わらず、靴やズボンに雨水がしみこんでくる。


 ――相沢は今頃車の中か、それとも病院に着いただろうか。


 豪雨によって出来た水たまりを踏まないように、自然と視線が足元に集中する。アスファルトの地面は幾重にも小さな波を形作り流れていく。その上に勢い良く雨粒が降り注ぎ、水滴をズボンにまで飛ばしてくる。少しでも濡れないように傘を調整しつつ歩いていると、アスファルトの上に素手が見えた。


「……?」


 一瞬、脳がそれを認識できなかった。


「……なっ」


 俺は思わず驚嘆の声を漏らした。周りの雨音が急に静かになった気がするほど、その光景に目を点にして立ち尽くす。


 力なくぐったりと横たわる体は地面にうつ伏せになっていて。金髪の長い髪と小柄な体は、間違いなく相沢だったからだ。


 錯覚かと思った。そう思いたかった。


 俺は駆け出していた。


 傘は、すでに手元にない。


 体中が再び濡れる。もう着替えるものなどない。


 そんなことなど頭に入る余地はないほどに、俺は急いで相沢のもとに駆け寄った。


「相沢! おい!」


 肩をゆするが反応はない。


 だが荒く息をしている。


 触れると熱はまだ相当にあるようだ。


 なぜこんなところに――そんな疑問はあったが、そんなことを聞いたり深く考えたりする余裕はなかった。とにかく、このままでここに居ては事態が悪化するだけだ。




 俺は相沢を再び校舎に担ぎ込んだ。


 保健室に行くが先生はいなかった。時刻はすでに六時をまわっている。


 とにかく、やれることをしないと――と、ベッドまで運ぶ。


「翔……君……」


 相沢をおろした時、相沢はかすかに口を開く。


「支えてなくて大丈夫か?」


 そう聞くと、小さく首を縦に振った。


 俺は相沢を離し、体を拭くものを捜す。タオルが見当たらない。保健室の先生がいればすぐだろう。わずかに憤りと、不甲斐なさを覚えながら探す。


 くしゅん! と相沢のくしゃみが聞こえてくる。


 とりあえず、ティッシュで代用する。箱ごと持って行ってから、大量に水を含んだ服を脱がすことが先決だと思う。


 なぜ早く気づかなかったのかと自分を責めるが、気が動転している事は自覚する事すら難しかった。


「自分で服、脱げるか?」


 再び、小さく縦に振った。


 カーテンをして、俺はその間にタオルを探す。


「翔……君――」


 わずかに声が聞こえた


 急いで相沢のところに戻ると、上着が半分脱げていないままだった。


 水で重たくなった上に、高い熱で力が入らないからだろう。加えてその長い髪がこういうときに非常に邪魔をしている。


 とにかく、俺も手を貸して上着を脱がせた。


 とっさに相沢から目をそらした。ブラジャーすら付けていない素肌が見えたからだ。


「大丈夫……ですか? 顔が、赤い……ですよ?」


 そんな様子に気付いたらしく、相沢は意地悪そうな笑顔を浮かべている。熱でほてってきつそうな表情と共に。


 これが単なる酔っ払いならどれだけ気が楽なことか――そう思いつつ、背を向ける。


「なんでもない。そんなことより自分のこと心配しろ」


 カーテンを閉め、一呼吸おいてから尋ねる。


「ズボンは一人で脱げるか?」


「……はい」


 今し方脱がした相沢の上着は水を含み数倍に重くなっている。絞ればいくらでも水が滴り落ちそうなほどに。それを近くの椅子にかけながら、俺は辺りを見回す。


 先生の行動を思い出しながら、冷やすものがないかを思い出す。


 薬品棚の下だったかな。そう思いながら俺は棚の近くを捜索する。その棚には消毒液などが並べられている。


 そんな時、相沢の呼ぶ声が聞こえる。


「すみません。……背中をふくのを手伝って……もらえますか?」


 澪のもとまで行くと前は拭き終えた様子で、布団で隠していた。


 俺はその小さな背中についた水分をティッシュで拭き取る。


 その体は少しでも力を入れて押したら容易に前に倒れこんでしまいそうなくらいか弱かった。


「後は大丈夫か?」


「はい」


 その返答は、少しずつはっきりとしてきている気がした。


 良くなってきているのだろうか――素人では判断が難しい。


 だがもし自分がいない間に、解熱剤でも飲んだのならば、その効果が現れているかもしれないと考えた。


「着替えがあるなら取ってくるぞ」


 とにかく、布団があるとはいえ、裸のままというわけにもいかないだろう。


「その……もう、着替えが、ないです」


 そう言いながら、相沢は横になった。


「少し、スーッとしますが……大丈夫ですよ」


 俺は、何もできていない自分に嫌悪する。結局、何もしていないじゃないか。


 無力で、無知で、無能で。


 変わらない。どれだけ時が流れても。何一つ成長していない。


 ……。


 おかしい。そんな考えが頭の中を行きかっている。


 相沢があそこに倒れていたのなら、保健室の先生はどこへ行った?


 それに、助けを求めに教員室に行っても誰も残っていなかった。


 美術室へも行ってみたが、すでに丹波も美術部員も全員いなかった。


 時刻はまもなく七時になろうとしている。保健室の電気がついているのは明らかで、それを放置したままでも帰るものだろうか?


 最後の施錠の確認なども行っているはずだ。


 豪雨だからと言って、確認せずに全員帰ったのだろうか?




 昇降口に行くと、すでに扉には鍵がかけられていた。


 主だった教室にも鍵は既にかけられている。


 もう学校に誰もいない。そのことは事実のようだった。


 途方にくれたまま、俺は保健室に戻る。相沢を見ると、縮こまっている。


「寒気がするのか?」


 そう聞くと、首を小さく縦に振って答えた。


 とりあえず隣のベッドにおいてある掛け布団をかけておく。


「ちょっと……重たい、ですよ」


 相沢は力なくそう言いながら、力なく苦笑いを浮かべていた。


 何をすべきか分からない。


 俺はただ横にいてやることしかできなかった。


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