十話「鉢合わせ」

 淡泊な日々の移り変わりは早く、季節は本格的に夏へと移り変わったようだった。今年は梅雨が遅い。夏が先に訪れたかのような天候だ。

 だがそれ以外は何も変わらない。退屈で、つまらない日々。何もない、時間が過ぎていく日々。

 そのはずだった。

 俺は忘れられなかった。

 それだけなら、まだ良かったのかもしれない。徐々に絵が描けなくなってきた。スランプと、いうやつなのかもしれない。少なくとも、丹波はそうだろうと言っていた。だが、根本的に、絵に集中できなかった。集中力が持続せずに、すぐに気が散ってしまう。

 俺にとって、あの部屋はすべてだ。あの部屋は、俺そのもので、俺に残された最後の場所だ。なぜ、あんな女子が紛れ込んでいる――。

 何も分からないまま、時間だけが過ぎていった。


「黒野君――」

 今日も、もう放課後になっていた。

「申し訳ないけど、丹波先生に今日は帰るってこと伝えてくれないかな?」

「ええ、分かりました」

「美術部員じゃないのに悪いね」

 美術室に一人が残された。部屋の中に、赤い日差しが入り込んでくる。

 丹波は、何か食べ物にあたったようだと、自虐気味に言っていた。

 俺は一人で鉛筆を走らせる。しかし、どうも線が乱雑になってしまう。苛立ちを覚えながら描き進めるが、当然納得のいくものにはならなかった。

「失礼しまーす……って、あれ?」

 そんな中、扉を軽快に開けて、女子生徒が入ってきた。

「すみません、丹波先生はこちらにはいないのですか?」

「先生なら、今トイレだよ」

 手に持つ二枚の画用紙には、それぞれ何かの絵が描かれていた。鳩か何かの鳥の絵。もう片方は、後ろ側に隠れているから一部しか見えないが、例えるなら象形文字みたいだった。

「じゃ、ちょっと待つかな……」

 その女子は、太陽が沈みゆく空を見ながらそう呟いた。時間を気にしている様子だった。

「もう三十分もトイレにこもったままだけどね」

 そう思ったから、俺は口添えしておいた。

「えー! マジっすか……。ん?」

 不意に彼女は辺りをきょろきょろと見回す。俺は、その様子を横目で見ていた。

「澪ちゃん、入ってくればいいのに!」

 見渡すのをやめたかと思うと、扉に向かって彼女は軽く叫んでいた。

 恥ずかしがってか、扉の向こうに女子がもう一人いるのだろう。画用紙を二枚持っていたってことは、丹波のペア課題だろう。

「ほぅら!」

 手を引っ張られ、女子がもう一人美術室に足を踏み入れる。

 視線が交差した瞬間、時間が止まったかと錯覚した。

 それは、相沢と言った女子だった。向こうは、俺がいた事が最初から分かっていたのか、目を伏せたままになっている。

「とりあえず、待ってよう!」


 十分かそこらの時間が流れた。俺と相沢の間には、嫌な空気が流れている。

 もう一人の女子は、それには気づかない様子で、ずっと貧乏ゆすりをしている。丹波がなかなか戻ってこないのに、少し苛立ちを感じているようだった。

「あー! 早く帰らないとドラマ始まっちゃうのにっ!」

 そんな言葉をもらしながら。

「そうだ!」

「は、はい?」

 女子が、そう相沢を指刺しながら声をかける。

「澪ちゃん、今日予定ある?」

「いえ、ないですよ?」

「じゃ、悪いんだけどさ、渡しといてもらえないかな?」

「え? ……え?」

「だめ?」

「い、いえ、ダメじゃないですけど……」

「じゃあ、お願い! 今度お礼するから!」

 相沢が戸惑っている中、その女子は半ば強引に話を進めていた。相沢がなぜ戸惑うかは、明白だった。ドラマのために帰られたら、俺と二人っきりになり、さらに気まずいはずだ。

「じゃ、よろしく!」

 そういって、急いで走っていってしまう。相沢は画用紙を抱えたまま、うつむいていた。


 どれだけの時間が過ぎただろうか。時計を見ると、まだ二人だけになって五分程度しか経っていない。

 俺は、絵に集中しようとする。しかし、集中できるわけもなかった。

 今なら、聞こうと思えば聞けるのではないか。そう思う自分がいた。だが何を聞く? 何を問う? 分からない。

「相沢さん――」

 だが、俺は声をかける。それは、葛藤の末の考えではなかった。ただ純粋に、ふと口から漏れた言葉だったと思う。

 相沢からの返事はない。ただ、うつむいたまま、こちらを見ようともしない。

「俺と相沢さんは、知り合い、だったの?」

 遠まわしに聞く余裕はなかった。それでも、彼女は口を開かない。

「俺は、グラウンドで会ったときが初めてだと思った。けれど、それより前に知り合っていたの?」

 相沢は一年生。だから、会うとすれば、四月からのはず。

 そんな最近の事。なのに俺は、こいつと関わった覚えはまったくない。

「ごめんなさい」

 相沢が最初に発した言葉は謝罪だった。

 そして、悲しそうな表情を、無理やり笑顔で上塗りしながら言葉を続けた。

「あれは、私の勘違いでした」

 違う。

 その表情は違う。

 確信があった。根拠はなかった。だが、彼女の言葉が嘘であると疑いようがなかった。嘘やお世辞は良く分かる。今まで、俺がしてきていることだから……。

「その事で、迷惑かけました。すみません」

 目を伏せながら、そう再び謝罪した。

「だったら、なぜ避けるような事を?」

「それは……勘違いしてしまって恥ずかしかったから、ですよ」

 彼女は目が泳いでいた。また、嘘だと思った。

 既に手にしていた感覚すらなくなっていた鉛筆を置き、床においてある鞄に手を伸ばす。

「だったら――」

 ノートを取り出しながら、俺は疑問を問いかける。立ち上がり、彼女に近づき、最後のページを見せた。

「これが何なのか教えてくれ」

 彼女によく似た絵。いや、瓜二つな絵を見せ、回答を求めた。

「あ……」

 掻き消えそうなほどわずかに言葉を漏らしていた。目を丸くし、動揺を隠すことが出来ないようだ。相沢には心当たりがある。それは間違いないと確信する。

 だがこれ以上問い詰めるような真似はしたくなかった。彼女にとってこれがどういう意味か分からない間は下手に踏み込めない。だから、俺は相沢の言葉を待った。

 相沢は何かを言いたげに口を微かに動いていた。今すぐ言葉として口にするか、口にしないべきかの葛藤をしているように思えた。だが、なかなかそれは言葉にならないようだ。俺はただ待った。相沢はうつむいている。時々、体を震わせているようにも見えた。

 不意にそれらの仕草が消える。俺は回答を期待した。

 だが、突然彼女は背を向けると一目散に走り出す。

 ノートと画用紙が床に落ちる音の中、彼女の足音を耳にしていた。ただ呆然と立ち尽くしていた。俺には彼女の心境は分からない。ただ、背中を向ける際に微かに見えた相沢の顔は、この上ないくらい辛く悲しそうだった。


 少しして丹波が腹を押さえながら戻ってくる。

 俺は立ち尽くすのをやめ、床に落ちているノートを拾った。拾い上げると、丹波はそれに気付いたのか、問いかけてきた。

「おや? それは何だい?」

「……さっき一年生が提出しに来てましたよ」

「あーなるほど。んー、締め切り過ぎてるけど……まぁいいか。――ん? 今日はもう帰るのかい?」

 丹波の言葉の途中で俺がノートを鞄に戻していると、勘違いしたのかそう丹波が聞いてきた。

「ええ。そうします」

 そうしようと思っていたわけではなかったが、無意識に出た言葉に従って俺は帰ろうと思った。おそらく、今から残って続きを描いたところで、手につくはずがない

「ふむ、そうか。……まぁ、僕も早く帰って薬飲みたいんだけどね」

「お大事に」

 そう言って、俺は片付けを済ませて帰路についた。


 間違いない。

 下校中にそう俺は考えていた。

 あの反応から見て、何かあったのだろう。もしかしたら、高校以前かもしれない。小学生のころならありえる話だ。それなら覚えていなかったとしても合点がいく。絵の作画という、つじつまの合わない一点を除けば。

 そもそも絵を描き始めたのは中学生からだ。小学の時に全く描いていないわけではないが、当時から絵を描くことが得意だったわけではない。あくまで、小学生の絵の範疇だ。

 頭では延々と答えを求め続けたが、決して答えが導き出される事はなく時間だけが過ぎていった。

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