十一話

 何時間経っただろうか。


 雨音が、少し弱くなっていた。


 相沢の呼吸もかなり落ち着いてきている。


 その事で安堵したのか、睡魔が忍び寄ってくる。


 次第にうとうとと首が落ちかける。


 単調な雨音が、それを後押ししている。




 何度か落ちる寸前で意識を保つが、その抵抗力も次第になくなり、気付かないうちに眠りへと落ちていった。






 がさごそと、物音が聞こえ目を覚ます。


 直後、目の前に相沢がいないことに気付き、慌てて辺りを見回した。


「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」


 そんな様子を見てか、そんな言葉をかけられる。


 そこには毛布にくるまり何かを探す相沢がいた。


「起き出して大丈夫なのか?」


「はい。熱はだいぶ下がりました」


 時刻は、午前三時になろうとしていた。


「ごめんなさい。たくさん迷惑を、かけてしまいました」


 相沢は頭を下げる。


 だが俺自身が聞きたいのは、その事ではない。


「大丈夫だ……そのことは」


 沈黙が訪れた。


 気まずさからか、自分も視点が落ち着かない。


「――もし、私に関する物があったら捨ててください」


 沈黙を破った相沢の言葉は、胸を締め付けられるかのような、そんな悲哀に満ちた表情で投げかけられる。


「……なぜ?」


「そうしないと、また思い出そうと苦しむかもしれません」


「……何を?」


「私と、過ごした日々を」


 何を知っているのか、聞くべきか迷った。


 聞くことが彼女を傷つける事に繋がるかもしれないと考えてしまっていたからだ。


「もう、私に関わらない方がいいです」


 その言葉からは、冷たさが感じられなかった。勝手な自己解釈なのかもしれない。だが俺は、彼女が本心ではそうしたくないのだろうと感じずにはいられなかった。


「俺が、悪いのか?」


「いえ。翔君は悪くないです。悪いのは、私なんです」


「それは……『罪』と言うやつと関係があるのか?」


 その言葉に、相沢は驚きの表情を見せながら俺に視線を向ける。


「どうして、そのことを――」


「ここに運ぶとき、そう呟いてた」


 そう、ですか――と相沢はうつむく。


「そうです。私は罪を犯しました。これはその、償いなんです。幸せを願っては駄目なんです。求めては、駄目なんです」


 なぜ――そう聞きたかったのを飲み込んだ。


 そこに安易に踏み込んで良いものなのか分からなかったからだ。


「本当は、こうなる前になんとかするべきだったんです。でも、そこまで頭が回らなかった。配慮が行き届かなかった。これは私の失態で、失敗です」


「……俺が……」


 分からない。深く踏み込んでもいいことなのか。


 だが、それでもこのまま引き下がっては何も分からず何も解決しない。


 そう意を決し問いかける。


「俺が、忘れているのか?」


 相沢からの答えは返ってこない。


 うつむいて、どう対応するべきか考えている様子だ。


「俺の、責任なのか?」


「それは違います。翔君は何も悪くありません。ただ、私はこれ以上……翔君に迷惑をかけたくないんです。苦しんでほしくないんです」


「だったら、教えてくれ。いったい何があった? どうして思い出せないんだ?」 再度問いかけるが、口は閉ざされたままだ。


 待つべきか、さらに聞くべきか。


 最善手など分からなかった。


「このまま過ごす方が、俺はよっぽどしこりが残る」


 すると相沢は顔を上げ、ゆっくりと口を開く。


「私の知っている事をお話しします。なので、代わりにお願いがあります」


「何だ?」


「遠くない将来、翔君はまた私の事を必ず忘れます。だから……それまでに、身の回りから私の痕跡を消しておいてください」


「……それは、なぜ?」


 そう、悲壮感を纏って立ち上がると、窓へ歩み寄る。


「本来なら、今この瞬間の方が間違っています」


「間違っている、とは?」


「『近いうちに私の事を忘れる』と言いましたが、それは正確ではありません。正しくは『本来のあるべき姿に戻る』です」


「本来の……あるべき姿?」


「はい……。私はもう、死んでるんです」


 そんな馬鹿な――それが正直な感想だった。


「原因は分かりません。ただいわゆる地縛霊という奴なんだと思います。私はこの学校から出ることのできない幽霊で、なぜか晩春から中秋ごろまでは周りに認識しされます」


 すぐに信じられる話ではなかった。


 それでも否定せずに続きに耳を傾ける。


「病院に行ったはずの私がなぜ校門前で倒れていたのかについてですが、私がここから出られない地縛霊だからです」


「だが、あんな状況になったら運転していても気付くだろう? 気付かなくとも、途中で車内にいないとなったら――」


「このあたりの境界線はまだ分かっていませんが、『本来あるべき姿』――すなわち死者と生者は隔絶されている状態を逸脱する行為を強制した場合、関係した生者には一時的な記憶の修正が入るようなんです。たとえば今回の場合、保健室の先生は『特に何事もなく退勤した』となっていると思います」


「特にこの現象は、私を無理やり外に連れ出そうとした場合に起こりやすいです。経験則ですが」


「……記憶の修正?」


 去年の話をしましょう――そう、こちらを向き直し、ゆっくりと語り出す。


「翔君との出逢いは、去年の五月頃の、丹波先生の美術の時間でした。あの時授業でペアを組む事になって、偶然一緒になったんです。そこから少しずつ一緒に過ごすようになって、夏休みなんて、ほとんど毎日のように一緒だったんです。でも、二学期になり、秋が深まるにつれ、少しずつ翔君が私を認識できなくなって、忘れていったんです」


「そんな……ことが……。けどそれだけ一緒にいたなら誰かが覚えている可能性も――」


「いいえ。それはありません。関わりの少なかった人ほど、早く忘れていきます」


「だが、そんな状態だと記憶の整合性がとれないんじゃ――」


「整合性がとれるように記憶が補正されるようです。ただ完璧ではないようで、補正が難しい場合はまったく思い出せない事もあるみたいなんですが」


「そんな事……」


「心当たりはありませんか? たとえば、夏休みは一人で過ごしたとか、美術の授業でペアを組んでいなかったとか。ほかにも二学期の席替えで私の席は翔君の前になりましたけど、翔君の記憶では『前の席は空席だった』となっていませんか?」


 そうだ。自分の記憶ではそうなっている。


「翔君がまだ認識できていて、担任の先生が認識できなくなってきたタイミングで、よく列の配りものが一つ足りなかったのは覚えていますか?」


「……確かに。いつも間違えていた気がする……」


「私が誰かにぶつかっても、相手が認識できない状態だと、それすら気付いてもらえません」


「廊下で、すれ違った時の……」


「はい。そうやって、本来の状態に戻っていきます。私が認識されていることそのものが、歪なんです」


「小規模でも大規模でも、忘れた記憶は決して戻りません。だって、忘れたのではなく『そもそも存在していなかった』のが本来のあるべき姿なのですから」


 信じがたい。受け入れがたい。そう思いはするが、それだと自分の認識と整合性がとれている気がしてならなかった。


「何か……なんとかならないのか?」


「どうしようもありません。写真に写っていた場合でも消えますし、私の痕跡――書いた文字なんかも、綺麗になくなってしまいます。いろいろ試して、ようやくここまで分かりました。けど、調べれば調べるほど、八方塞がりなんです」


「まだ何か――」


 あるかもしれない。そう言いたかったが、相沢の悲壮感はそれを否定する。


「もう、六十回近く繰り返しています。だからこれだけのことが分かったんです」


 六十回。相沢は確かに六十回と言った。


 一巡が一年で、それを六十回……。


「さっき、学校からは出られないって――」


「はい。たぶん、翔君が想像している通りです」


 ――そんな馬鹿なことが……。


 防衛反応的に、脳裏がそうぼやく。


「六十回……今から六十年前は……一九四八年……?」


「正確には、私が死んだのは一九四五年です。翔君には実感がないと思いますが、空襲で死にました」


 彼女の言葉をどう受けとれば良いのかが分からなかった。


 第二次世界大戦といえば、歴史の教科書で習う程度の、昔の出来事だ。


 その時の影響が残るところもあるだろうが、少なくとも、日本で生まれ育った学生としては戦争というものに実感がない。


「この辺りでも空襲で多くの人が死にました。私もそのうちの一人です。でもその時の犠牲者の幽霊に出会った事はありません。なのでこれは私だけなんです。私が犯した罪による罰なんです」


「……罪?」


「私は、母を殺しました」


 その言葉に、血の気が引いていくのが分かった。


 他人事に思えなかったからだ。


「これは、その罪なんです。ここではわずかな間ですが友達が出来たりすることもあります。でもそうなったら、忘れられていく時にすごく哀しいんです。でもだからといって一人でずっといたら寂しく辛いんです。でもこの罪を償うまでは、きっと永遠に続くんです」


「誰かによって、閉じ込められているのか?」


「いいえ。気付いたらこの場所に囚われていました。――最初の頃は、何がなんだか分かりませんでした。辛くて、哀しくて、嫌になって、そのうち死のうと思いました。でも、私は死んでるんです。首を吊っても、飛び降りても、溺れても、死ぬ事はできません。苦しみや痛みは味わうのに……」


 苦しそうに胸にて当て言葉を続ける。


「成長することも、老いることも無く、ずっと同じ姿で、ずっと同じ事を繰り返してきました。死ぬことも出来ず、まともに生きることも出来なくて……。それでも逃げ出す術は何もありません。ここは、私を閉じ込める牢獄なんです」


 苦しいのは体と心、いったいどちらか。いや、両方かもしれない。


 止めるべきか?


 そう思ったが、こんな中途半端なところで止めてはかえって相沢を苦しめる事になりそうな気がした。


「じゃあ……じゃあどうして、俺と親しくなったんだ? そんなことをすれば、辛いだけなのは分かっていたのに」


「これは贖罪しょくざいなんです。そう悟ったときから、私は少しでも人の役に立とうとしてきました。たとえばクラスで孤立してる人がいたら、夏の間だけでも友達になります。季節が過ぎれば私の事は忘れますが、それまでの間に私がきっかけで、友達の輪が広がれば、その友好関係は忘れないんです。たとえ、そのきっかけは忘れてしまっても」


 そのたとえに俺は当てはまらないのか? と一瞬考えるが、相沢が「失敗」と言っていた事を思い出す。


「……じゃあ俺の時は、上手くいかなかった……のか」


「はい。翔君は、本当に頑固な人でした。私以外には心を開こうとしませんでしたし、たぶん、親密度でいうと私もそれほど深くまでいけなかったと思います」


 ただ――そこで言葉を区切る相沢の表情は、どことなく安らいでいた。


「ちょっと、嬉しかったんです。いつもは誰かと誰かを引き合わせたり問題を解決するために奔走したりしています。でも翔君は、ずっと私だけを見てくれた。私以外に、関心を向けなかった。だからちょっとだけ……そう、芽生えかけていたんだと思います。恋心という不適切な気持ちが」


 しかしすぐに表情は暗く落ち込んだ。


「でもそれは、分不相応な気持ちです。だからこそ忘れられていく過程がいつも以上に辛かった。切なかった。悲しかった。こんなに苦しいなら、ちゃんと贖罪をしておくべきでした……。罪の事を忘れ、目の前の小さな幸福に現を抜かしてしまった。だから、だから――今もこんなに、心が苦しい」


 言葉を紡ぐにつれ、次第に相沢の目が潤んでいく。


「さっき、翔君の為に私に関連するものを処分してほしいってお願いしましたけど、半分は嘘です。翔君の為だけじゃありません。綺麗に忘れられた方が、私も踏ん切りがつきます。今みたいに、苦しまなくて済みます。……自分の都合ばかりで、ごめんなさい」


 それでも何とか瞳の中に涙を留めている。


 そんな彼女の謝罪に対し、謝罪の必要はないと首を横に振りつつ、少し間を置いて問いかける。


「一つ、聞いてもいいだろうか?」


「はい」


 相沢の声は少し震えていたが、それでもしっかりとこちらを見て答えた。


「時が来れば『相沢さんの事を完全に忘れる』のであれば、俺が相沢さんの痕跡を身の回りから消すことに矛盾しないだろうか」


「詳しいことは、まだよく分かっていません。ただ、何度かあったんです。思い出せない私の幻想に囚われて、人生を狂わせてしまったことが」


 人生を狂わせる――贖罪の行動がかえって追い込む結果になった事を懸念している様子だった。


「たぶん引き金の内の一つは、恋心だと思います。私に対して恋心を抱いたまま忘れると、思い出せない記憶に執着しやすいようです」


 ただ実例が少ないので詳しくは分からないと補足しつつ、一番の問題点を告げる。


「私が一方的に恋心を抱いてしまった例はこれまでになくて、どんな結果になるのかが予測できません。でも今のこの状況まで来てしまったことを鑑みたら、偶然ではない気もします。なのでできうる限り、思い出せない幻想に囚われる可能性を下げるべきだと思います」


 その提案は、何より俺を思っての事だと理解できた。


 そして相沢自身が、不遇や不幸を一身に集め、自分だけが犠牲になると、そう言っている。


 それが、死者である自分のかくあるべき姿だと訴えているようだった。




 少し間を置いて、俺は口を開く。


「一つ、提案をしたい」


「はい」


「まず、現状についてだけど、『思い出せない幻影』に関しては、多分、もう手遅れだと思う」


「えっ?」


「今日相沢さんを見つけるまで、ずっとその幻影に囚われていたと思う。時が来るまでに身の回りの整理をやっておきたいと思うけど、もし手遅れなら今更遅いかもしれない」


「そんな……」


 その言葉の大半は方便だったが、実際に記憶がない以上、自分の思考についても断言はできない。


 それでも、目的のためにあえてそのような言い回しにする。


「もし手遅れなら、相沢さんの現状をなんとかする以外に何かいい方法はあるだろうか?」


「それは……今は思いつきません――」


 そこまで口にし、ハッと何かに気付いた様子でじっとこちらを見つめ、そして近づいてくる。そのまま俺の胸元に額をうずめ、そしてようやく口を開く。


「翔君は嘘つきです……ずるいです……」


「……」


「そんなこと言われたら、私は翔君に償うしかないじゃないですか……。なんとかして翔君への影響が残らないように頑張るしか……ないじゃないですか……。その為には、私の置かれている元凶を、なんとかするしか……」


 先に言われてしまった。


 たとえ相沢の為に協力すると申し出たところで、彼女はそれを受け取らないだろう。


 なら俺自身のために相沢への協力が必要なのだとしたら――


「酷いです……そんな事を言われたら、断れないじゃ、ないですか……」


 先ほどまでこらえていた相沢の涙腺が決壊する。


「翔君は……翔君は酷い人です。そんな事言われたら、さらに……今以上に、恋心が……大き……。どんな……影響が出るかも、分からないのに……。なんで……私なんかのために……だって翔君から見たら、私の事は……ぜんぜん知らない他人なのに……」


 確かにその通りだ。


 だがなぜだろう。他人のこととは思えない自分がいた。


 その心境に、何より自分自身が信じられない。


「正直、自分でもよく分からない。幽霊ってのがいるなんて考えた事がなかったけど、もしそうなら、記憶には残っていなくても魂に刻まれているのかもしれない。相沢さんとのことが」


 相沢は俺にもたれかかり声を上げて泣いている。その鬼哭きこくは、積年の想いがとめどなく溢れているようだった。


 俺はそれ以上何を言っていいのか分からず、ただただ頭を優しくなでた。


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