四話

 翌朝。


 昇降口を抜けた廊下から見える中庭に、再び相沢の姿を見つけた。


 そよ風に髪がなびき、手にはノートと鉛筆が握りしめられている。


 そして雀らしき小鳥が何羽も周囲にたむろっている。


 前回と同じように目をつぶっていたが、近くにいる小鳥が膝に飛びのってくると、目を開き優しく微笑んでいた。


 その笑顔はとても無垢で、うれしそうな顔をしていた。


 そんな様子に足を止めていると、相沢の方もこちらに気付く。


「おはようございますっ」


 一直線にかけてきて挨拶を投げかけてくる。


「……おはよう」


 目をそらしながら俺は教室に向かうと、その後ろをカルガモの子供のようについてきた。




「今日もいつものところで食べるのですか?」


 午前中の授業を終え、昼休みに入るとすぐに相沢が問いかけてくる。


 どう返事するべきか窮するが、無視と捉えられるような言動は荒波を立てたくない考えに反する。「ああ」と端的に肯定すると、「じゃあ先に行ってますねっ!」と教室を慌ただしく出て行った。


 直後に耳に届くのは、何かにぶつかる音と痛がる相沢の声だ。


 そそっかしい奴だと思いつつ、俺も席を立った。




 売店に寄って中庭へ行くと、いつものベンチを相沢が確保していた。


 その手にはノートと鉛筆が握られている。


「ふふーん! ちゃんと確保しておきましたよ!」


 相沢はドヤ顔を浮かべながら、少し横によけて座る場所を空けた。


「……それは?」


 ベンチに腰を下ろし、相沢の手にしていたノートに目を向け問いかける。


「練習帳ですっ!」


 そういってページを戻し描いた絵を見せてくれる。


 絵と呼ぶよりも象形文字と呼んだ方が的確かもしれない代物だった。


「なんか上手く描けないんだよね~」


 口をとがらせながら、解せぬと言いたげな口調でぼやく。


 そんな相沢に対し、億劫な気持ちを隠しきれない口調で問いかける。


「……本当に、俺なんかに絵を教わりたいのか?」


「はいっ! 食べ終わったらお願いしますっ!」


 気が乗らないのを察して辞退してもらいたかったが、どうやらこちらの心境にはまったく気付いていない元気な返事だった。


 荒波を立てたくない。


 だが面倒くさい。


 そのせめぎ合いの中で、出した結論は、「どうせすぐに飽きるだろう」だ。


 冷たくあしらって後から変な噂を立てられるよりは、面倒にならないだろうと。


成長




 毎日同じ事の繰り返す日常に、相沢という存在が紛れ込んできて一週間。


 学生生活としてはようやく夏服に切り替わり、加えてここ数日は気温や湿度が例年通りに落ち着き、梅雨入りまでの快適な初夏の陽気で過ごしやすい。


 相沢の性格を端的に言ってしまえば、騒々しくそそっかしい。


 ただ、呆れることはあっても不思議と嫌みはない。


 それが、ここ一週間の彼女の印象だ。




「翔君……」


 その日の昼休み、いつもの中庭のベンチでこれまで描きためたノートの絵を見返しながら、相沢が深刻な顔をして声をかけてくる。


「……ん?」


「私、気付いてしまったかもしれませんっ!」


「何に?」


「まっっったく! 成長の兆しが見当たらないのですがっ!」


 そう言って今日描いた絵と一週間前の絵を見比べて見せてくる。


 はっきり言ってしまえば、その通りだ。まるで成長していない。


 しかしそれをはっきり言ってしまっても面倒だと感じ、どう返事するべきか思案する。


「絵は一朝一夕で上手くなったりしないものだから、気に病むことはない」


「じゃあこの絵は何に見えますか?」


「……」


「怒らないので忌憚ない感想をお願いしますっ!」


「とてもユニークだと思うよ」


「何に見えるかですよっ!」


「……象形文字?」


「むぅ!」


 怒ったように口をとがらせるが、それでもやはり嫌みがない。


 不思議な奴だと思いつつも、昼食のパンを口に運ぶ。


 しばらくして口を開いたのは、自分の方からだった。


「そういえば、昼は食べないのか?」


 ここ一週間の間、昼食を食べている姿を見たことがない。


 いや、そもそも飲食する姿を見ていない。


「そうですね~お昼は食べないです。一日二食健康法ですっ!」


「それは……健康にいいのか?」


「分からないですっ」


 分からないのか……。


「実際はお昼ご飯買うお金がないので我慢ですっ」


 相沢の家庭について聞いた事はなく、彼女も自ら口にしたことはなかったため、経済的な理由がある事は初めて聞いた。


「いるか?」


 そうぶっきらぼうに、封を開けていないパンを差し出す。


 その行動は気まぐれと呼ぶのが正しいだろう。


 あるいは、先ほどの象形文字失言の埋め合わせとでも言うべきか。


「い、いいんですか?」


「ああ」


 少なくとも間違いないのは、相沢の目が輝いていることだ。


「ありがとうございますっ!」


 袋を開け口を付ける相沢は、実に美味しそうに見えた。




 俺自身、不思議でならなかった。


 いつもなら何かにつけて他人とは無意識に距離をとる。


 他人のことが嫌いだからだ。


 荒波を立てることが嫌だからだ。


 だが、なぜだろうか?


 相沢に対しては、そこまでの拒絶反応が沸いてこない。


 明るく元気で嫌みがない。という彼女の性格が所以ゆえんだろうか。


 食べながらそんなことを考えていると「そうだ!」と相沢が口を開く。


「また描いてみてほしいですっ」


「……何を?」


「私を!」


 その言葉で今週の美術の授業では似顔絵ではなく、期末考査に向けて美術史の座学だったのを思い出す。


 帰宅すれば描いているが、確かに学校にいる間にまったく描けないと言うのも物足りない。


 それくらいならいいか――と、肩をすくめる。


「ただ、今は描くもの持ってきてないよ」


「このノートでっ!」


 象形文字を描いていた自身のノートと鉛筆を差し出す。


 まぁいいか――と受け取りパンを食べ終えると、相沢はちょうど空いていた隣のベンチへ移る。


「このくらいの距離で大丈夫ですか?」


「ああ」


 鉛筆を手に取ると、ちょうど心地いいそよ風が中庭を抜ける。


 黄金色をした髪がそよ風に揺られ、差し込む日光がほどよく反射し、日本人によくある黒髪では出せない優美な印象を覚えた。


 その様を絵に落とし込んでいると、彼女の表情が浮き立つ気持ちを抑えきれない子供のようだった。




 ――こいつも変わり者だな。


 筆を進めながら、そんな事を考える。


 少なくとも、いわゆるよくある女学生とは違う。


 女子はもっとコミュニティを重視し、序列を気にし、嫉妬を原動力にしている印象がある。


 だが相沢はもっと純粋というか、単純というか。


 男受けはいいが女受けが悪いタイプなのだろうか。


 それならば女子のグループに入っていかないのも納得がいく。


 特にいじめられている様子はないが、「子供っぽいさ」と「金髪」という「他とは違う」要素はコミュニティに入れない要素となり得るだろう。


 統計的にどうなのかは知らないが、日本人は「他とは違う」「一般的ではない」「少数派」の場合にマイナスの印象を覚える者が多い。結果が良くも悪くも、出る杭は打たれるし、村八分にされる。


 ならば相沢は学生コミュニティからはじき出された存在なのだろうか。


 そう考えると、少しばかり親近感を覚える。




 しばらくして昼休みも終わりが見えてきた頃、キリの良いところまで描き終えた。


 相沢はそれを見ると、表情が綻び嬉しそうだ。


「やっぱり、翔君はとても上手いですね」


「いや、丹波先生とかに比べたらまだまだだよ」


 その言葉は本心だが、わざわざ丹波を引き合いに出したのは癖だ。


 ただ謙遜するだけでは嫌みにも聞こえる為、誰かの評判を上げながら謙遜した方が誤解が生まれにくいと考えているからだ。


「それにくらべて……」


 と相沢は自分の過去の絵を改めて見返しため息をつく。


「結構頑張ってみたつもりなんだけどなぁ」


 自虐的な笑みを浮かべてそう肩を落とす。


「まぁ、努力は報われるとは限らないからな」


 相沢につられるように自虐を口にするが、直後に後悔する。


「そう……ですよね……」


 そのような意図はなかったが、追い打ちをかける印象を与えてしまった為だ。


 だが吐いた唾は飲めない。


「すまない。そういう意味では――」


 弁明を口にするが、露骨に落ち込んでいる様を見てなんと言っていいのか窮してしまった。


「数十年……昔からそうなんです。物覚えが悪くて、のろまでそそっかしいんです。治したいなって思うんですけど、今更難しくて――」


 そこまでぼやいたところで、言葉を間違えたことに気付き慌てて訂正する。


「あっえっと、違う。数十年じゃなくて、十数年ですね」


 苦笑を浮かべながら、今回の一件について顛末を口にする。


「新しいこと……お絵描きだったらやれるんじゃないかなって思ったんですけど、やっぱり私には無理みたいですね」


 ――まぁ仕方ないです! と元気な声を上げるが、明らかに空元気に見えた。


「他に、もっと自分に合ったことを探した方がいいのかもですね」


 そう言葉を締めて、頭を下げる。


「わざわざ時間を割いてくれて、今までありがとうございましたっ!」


 頭を上げた相沢の表情は、物寂しげだった。


 いつもならきっと「やっと面倒ごとが終わりか」と胸をなで下ろすところだ。


 だが、そんな感情よりも先にフラッシュバックする。


『今までありがとう、お兄ちゃん』


 同時に血の気が引き、額から嫌な汗が流れる。


 そんな姿に気付いたのか、相沢は心配そうにのぞき込んでくる。


「大丈夫?」


「いや――」


 取り繕うとするが、窮したまま思考が停止する。


「風邪ですか!? それとも熱中症!? いやまだ早いですよね……ともかく体調が優れないのに付き合わせてしまってごめんなさいっ」


 相沢の手が額に触れられ「熱はないみたいですが……」と心配そうな表情を続ける。


「ひとまず保健室に行きましょうっ」


 手を引かれ、俺は中庭を後にした。




 ああ、やはりそうだ。


 相沢はどことなく妹に似ている。


 活発ところも、落ち込んだときの空元気も、上手くいかなくても一生懸命になるところも似ている。


 だから親近感があったんだ。


 どことなく懐かしい気持ちがあったんだ。


 故に嫌味を感じなかったんだ。


 自身も他人も嫌いな自分にとって家族とは唯一の心のよりどころだったからだ。


 だが。いやだからこそ、どうすればいいのか分からない。


 身代わりではない。


 代役ではない。


 替え玉ではない。


 そういうことは考えてはならない。






 下校し、手入れの行き届いていない門扉を開ける。


 玄関前を通るとき、運悪く戸が開き中から出てきた人と目が合う。


 そこから出てきた中肉中背の中年男性はこちらに気づくと、ふんと鼻を鳴らして入れ違いに出て行き消えていく。




 離れの狭く暗い部屋。


 足の踏み場のない床には、画用紙が散らばっている。


 今日の記憶が脳裏を過ぎり、自己嫌悪と自責の念から青息吐息をもらす。


 それでも相沢の無垢な顔付きは、やはりどこかあいつに似ていて……。


 俺が殺した妹を、再び見ている気がした。


融和






 翌日、校門を少し過ぎたところに相沢がいた。


「おはようございます」


 彼女の声音はいつもより心なしか元気がない。


「おはよう」


 視線を逸らしながら挨拶を返すと、相沢はカルガモの子供のように後ろからついてきた。


 わずかな沈黙を経て相沢が横に並ぶのを皮切りにして、自分から口を開く。


「昨日はすまなかったな」


「いえ――こちらこそ、無理なお願いをしてしまっていたようで、ごめんなさい」


 昨日の出来事が体調不良によるものではないと理解している口振りだ。


「いや、そうじゃない」


「迷惑じゃ、なかったですか?」


「……個人的に昔の嫌な事を思い出しただけで、相沢さんは悪くないよ」


「そうでしたか……。それでもその引き金となったのなら、ご迷惑をおかけいたしました」


「謝らなければならないのは俺の方だ。いらない心配と不安をかけた」


「私はぜんぜん大丈夫ですよっ!」


 相沢ははつらつと答え、俺の前に回り込むと見上げてくる。


「嫌な事を考えてると、頭の中が悪い方へ悪循環するので、一度頭をリフレッシュしませんか?」


 その意見はもっともだ。


「何かいい方法があるの?」


「それは、これからですがっ!」


 相沢はおちゃらけた笑顔を向ける。


 それが俺を元気づけようとしている事に薄々気付いた。


「翔君の好きなこととか、夢中になれることは何がある?」


「……夢中に、なれること――」


「はいっ!」


 そう言われて何も出てこない様子を見て、核心をつく。


「絵を描くことですか?」


「……まぁ、そう――それくらいだな」


 相沢は手を引き「だったら!」と提案する。


「とことん描きましょう!」


 描こうと、描いてもいいのだと、相沢は底抜けの笑顔を浮かべる。


「もし大丈夫なら、私を描いてくれませんか?」


 そんな提案と共に。


「どうも私は絵を描くことは性に合ってないみたいなんです。だって、絵を描いてるより描かれてる方が楽しかったので!」


 通学カバンから例の落書きノートを取り出し、手を引きながら渡してくる。


 歩きながらノートを手に取り片手で開くと、ちょうど昨日相沢を描いたページが開かれる。


「まだ全然使い切れてないので、いっぱい描いて埋めてもらいたいなって! そう思ったんですけど、不躾なお願いですか?」


 なぜ相沢に対しては、他の人のように嫌いにならないのか、嫌味を感じないのか少し理解できた気がする。


 真剣に相手のことを考えている。利他的に、献身的に、慈愛に満ちた菩薩ぼさつのような気心を感じるからだ。


 もしかしたら自分の勘違いかも知れない。先入観かもしれない。自分本位に都合良く解釈しているだけかもしれない。


 それでも、相沢の言葉は妙に琴線に触れてくる。


 自分の欲している答えを、優しくほどこされたような気持ちにしてくる。


「……いや、そんな事はないよ」


 だから、他人嫌いの自分がそんな返答を口にしていたのかも知れない。


 少なくとも、相沢は嬉しそうに足早に手を引き始める。


「良かった! じゃあホームルームまで時間あるし、それまで描いて欲しいな!」




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