二話

「あのっ、えっと……ふつつか者ですが、よろしくお願いします!」


 先の出来事をなかったことにしたいのか、謙虚ながらも元気よく声をかけてくる。


「よろしく」


 俺はできるだけ優しく返答するが、内心は正直どうでもよかった。


 自分にとっては授業中に偶然ペアになっただけの女子であり、その彼女が恥をかこうが不利益を被ろうが、関心はない。


「お話しするのは初めてですね! 相沢澪といいますっ! ……えーっと、黒野、何君だっけ?」


「黒野翔」


「じゃあ翔君ですねっ! 今日は頑張りましょう!」


 妙に距離をつめてくるな――と思いながらも、こういうタイプは言いたいことを言わせておけば勝手に満足するだろうと考えつつ、正直なところ無関心の方が上回ったために適当に同意しておく。


 そんな折、騒がしい教室内を静めるように、画用紙を配り終えた丹波が手を叩きながら声を上げる。


「それじゃーさっそく相手の似顔絵を描いてみましょー」


 生徒達の嘆きが教室に覆いつくす。


 その大半は、描き上がった絵をクラス内に晒す羞恥心によるものだろう。


「文句言わないで。ほらほら始めーっ!」


 適当にやっておくか――そう考え、俺は配られた画用紙に鉛筆を走らせ始める。




 一分ほどでアタリを描き、五分ほどで大まかな下描きを終える。


 適当に、とは考えていたが、それでもきちんと相沢を見て描く。


 ――絵を描くことは好きだ。


 これは数少ない趣味と言っていい。いや、唯一と言った方が適切だろう。


 絵を描くことに熱中している時だけは、嫌な事を忘れられる気がした。そこが唯一の安らぎに思えた。


 その為、なんだかんだ相沢をきちんと描こうとするのは、本能的な欲求に近いものに身を委ねているからだ。




 相沢は身長は一四〇センチくらいだろうか。他の生徒よりも背が小さい方だ。


 その顔は童顔で幼さが残り、発育のいい小学生といっても通じるかもしれない。


 大きな瞳と、小さな顎。その位置が近いために幼さを際立たせている。


 俺は彼女のその雰囲気をしっかりと絵に落とし込む。


 髪の毛は非常に長髪でくせっ毛の部分があり、逆に言えばふんわりとした印象がある。そのうえ金髪だから、いつもの黒髪のように描いたらダメだろう。


 そんな思考の中、ふと気付く。


 ――なぜ金髪なんだ?


 校則によれば、髪を染めるのは禁止だったはずだ。


 もし金髪でいることにお咎めがないのであれば、すなわち地毛ということだ。


 欧米人とのハーフなのか?


 そう考えたものの、その顔付きは縄文人的な印象を受ける。


 そもそもの話、金髪ハーフの女子がいた場合、クラスで話題にならないなんてことがあるだろうか?


 俺は入学したからの数ヶ月間の記憶を遡ってみるが、その中にはっきりとした相沢の印象はない。


 いたような……いなかった……ような?


 その程度の認識だ。


 おかしい。


 そう思ったが、これまで周りに対して荒波を立てない程度に無難に、そして無関心に接してきたために自分の記憶に自信が無かった。


 ……まぁ、どうでもいいか。


 思考がそう帰結し放棄すると、ただ鉛筆を走らせる作業に戻った。




 美術の授業が終わる十分ほど前に、俺は絵を描き終える。


「ん? もう描かないの? 顔が見づらかった?」


 鉛筆を置いたことに気付いた相沢が声をかけてくる。


「いや、描き終わったから」


「早っ!」


 相沢は目を丸くしたと思えば、興味深そうに顔を近づける。


「見せて見せてっ」


「あと五分くらいしかないけど大丈夫?」


「はっ! 確かに……!」


 相沢の一連の言動は、よく言えば天真爛漫。悪く言えば子供っぽい。


 そんな事を考えながら残り五分を過ごすことにした。別の絵を描くにしても、他のことをするにしても五分は短すぎるからだ。




 その間に胸ポケットにある生徒手帳を取り出し、校則について確認する。学生たるもの、生徒手帳を常に胸ポケットに入れておかなくてはならないという謎の校則のたまものだ。


 要約すると、髪は自然であるべしと規定している。


 すなわち髪を染める、ワックスで固める等の人工的に手が加えられた場合に違反となる。


 だが黒髪でなければならないと規定されているわけではない。


 登校時にいつも校門前で目を光らせている生徒指導兼体育教師がこれだけの金髪の生徒を見逃すとは思えない。


 すなわち事前に学校へは地毛であると申告し、認められているのだろう。




 そういえば、相沢は髪の先が下半身に届くほどかなりの長髪だが、髪の長さの規定はなかっただろうかと再び生徒手帳をめくる。


 だが髪型や髪の長さについての規定は見当たらなかった。


 ふと、親世代ほど昔に髪型を校則に追加しようとして揉めたという話を思い出した。


 生徒の髪型について「生徒として相応しい髪型」を定めるのであれば「教師も相応しい髪でなくてはおかしい」とし、端的に言ってしまえば薄毛やハゲに対して増毛や育毛を義務づけるべきと主張した。その時の生徒会がPTAを巻き込んで学生運動したために事が大きくなり、結果として髪型の規定を盛り込む話が流れたらしい。


 そういう生徒が今もいるのなら、エアコンをつける基準を日付ではなく気温と湿度に設定するべきだと訴えたかもしれない――そう思うが、その時の学生運動がきっかけで、今の教師の抑圧的な教育方針が濃くなったのかもしれないとと考えると、いい迷惑でもある。


「よーし、そろそろ時間だねー」


 などと考えていると五分が経過し、丹波が声を上げる。


「じゃあ画用紙のどっかに名前を書いて、出席番号順に持ってきてー」


 男子の氏名順に呼びかけ丹波が絵を受け取る最中、相沢が興味深そうに聞いてくる。


「そういえばどんな感じに描けた?」


 子供のように目を輝かせ聞いてくるので、断っても面倒だと見せると、雷にうたれたかのような表情を見せる。


「なっ! ……う、上手すぎですっ!」


 同時に露骨に落ち込む表情を見せる。


 そんな相沢に情緒的なサポートをする気は起きず、絵を返して貰う。


「じゃあ出してくるから」


 苗字が「く」で始まるために出席番号が若く、そろそろ提出しなくてはならないからだ。




 立ち上がった際に相沢の絵がチラッと見えたが、それは実に酷いものだった。


 幼稚園児が父の日に描いた似顔絵とさして変わらないのではないだろうか。


 絵は別に正確性だけが全てではない。写実的な絵以外に価値がないのだとすれば、絵は決して写真には勝てないだろう。


 そして美術大学にいきたいならまだしも、一般的な人生において絵の善し悪しはそれほど重要ではない。


 ならば絵は「どういった想いで描いたのか」の方が、世間一般的には重要だ。


 たとえば小さな子どもが一生懸命に両親を描いた絵は、その両親にとってはピカソの絵画よりもずっと価値があるだろう。


 まぁ、それにしても酷い出来だが――と、幼少の頃に地元の小さな父の日イラストコンテストで金賞を貰った記憶を奥底に戻しながら思った。






「ところで例の話なんだけど、考えてくれた?」


 絵を丹波に渡すと、そう問いかけられる。


「……いえ、まだ考えてます」


「そっか。まぁ別に急がなくてもいいよー」


 少し前から、丹波に美術部に入らないかと誘われていた。


 正直、興味がないわけではない。


 なんだかんだ丹波の絵に関する技術は自分よりもはるかに高い。


 だが、美術部に入れば色々と制約が出てくる。


 こういう学校だ。部活としての実績を測る時には、必ず無知でも分かる結果を求めてくる。すなわち、どこどこのコンテストに入賞した――等だ。部として存続させていくにはそういうのに参加していく事が大事になってくるが、自分はコンテストに応募したいわけではない。


 絵を描くことそのものは楽しいが、自分の場合は「描きたいものがあって、絵を描く行為はその手段」として捉えている。


 美術部に入るような生徒は「絵を描くことそのものが第一に好き」な事が多いだろう。


 ならば、美術部に入って描くものの制約が生まれるよりは、一人で好き勝手に描いている方が性に合っているというものだ。画家として生きていきたいわけでもないのだから。


 だから部活には入っていない。


 だが、時折放課後に学校で時間を潰したい時がある。


 伯父伯母の面倒ごとに巻き込まれるのはお断りだからだ。


 そもそも関わることが嫌で、なんなら視界に入れることも苦痛だ。


 そのため、学校で時間を潰して家にいる時間を減らす事があるが、暇を持て余すくらいなら丹波に絵の描き方を聞いた方が有意義だろう。


 丹波への返答を先送りにしているのは、まだ心が揺れているからに他ならない。








 ただいま。


 下校し離れに帰宅する。だがそんな挨拶は口からは出てこない。


 おかえり。


 この家から、そんな声は聞こえるはずも無い。


「ただいま」


 自室の扉を開け部屋の真ん中に乱雑に置かれた椅子に座り、俺はか細く呟いた。


 俺は、手を伸ばした。ゆっくりと、優しく頭をなでながら――。


 翌朝、昇降口にて下駄箱に靴を入れ、代わりに上履きを履く。


 昇降口から教室に向かう途中の廊下の窓から、ふと、中庭が目がとまった。


 そこには、木の周りに設置された丸いベンチにいる相沢がいたからだ。


 周りには小鳥たちが興味深そうに集まっている。


 うたた寝でもしているのか、目をつぶって動かない。


 存外、一度認識したものは目にとまるらしい――そう人体の不思議に関心を向けつつ、無関心に教室へ向かう。






 今日も変わらず授業が始まった。


 だが――


 今まではまったく気にしていなかった相沢という女子がよく目にとまる。


 金髪だから。髪が長いから。


 そう言った理由はあるかもしれない。


 存在を認識したことで、脳が意識するようになったのはあるだろう。


 それにしても、これまでまるで視界にとまらなかったのは不思議だ。


 そのうえ何故か、こちらが彼女を視界に入れている時に限って、向こうも俺の方を向いていることが多い。俺の座席の方が後ろなので視界内に入るのはしかたないとしても、あちらは意図して俺の方を向いているようだ。


 ――面倒だな。


 そんなことを思いながら、俺は教科書に視線を落とす。




 数学Ⅰ、数学Aと、生徒にとっては立て続けの憂鬱な授業が終わりようやく昼休みに入る。


 登校中に弁当を買い忘れた為、売店に昼食を買いに行く。売店はいつもそれほど混んでいない為に、やすやすとパンを買っていく。




 俺の特等席は中庭のベンチで、端っこに植えられた木に設置された所だ。


 とはいってもベンチは早い者勝ちなので座れないこともままある。


 それでも幸いなことに今日は空いていた。


 パンの袋を開けようとしていると、少し目がかすむ。


 ――昨日少し夜更かしをしすぎたのと、教科書ばかり見ていたせいだろう――そう考えながら目をつぶり目頭を指で押さえる。


「あうっ」


 不意に軽いゴツンと言う音と、そんな声が聞こえてきた。


「いたたたた――」


 音のした方を見てみると、余所見をしながら歩いていたのか女子が――相沢が垂れた枝に頭をぶつけていた。目の前で。


「うぅっ」


 そして唸っていた。


「大丈夫?」


 俺が素っ気なく声をかけると、相沢はビクッと体を反応させた。


「あわわっ」


 忙しい人だ。そんなことを思いながら、その間にパンの袋を開け口に運ぶ。


「す、すみませんっ! お食事中にっ」


「いや、別に構わないけど」


 ただこちらを見つめてきた。立ち去ればいいものを、なぜか無言のままこちらを見ている。


「そ、それじゃ、これで」


 少ししてそんな言葉を残し相沢は立ち去った。


 彼女の印象が、なんだこいつ――に変わったのを自覚する。


 ……しかし、どうしてだろう。


 確証は何もない。


 だが、なぜだか立ち去るその瞬間、相沢が悲しい表情をしていた気がした。








 絵を、描いていた。


 画用紙に鉛筆を走らせる。


 自室の真ん中にキャンバスを陣取って。


 夜がふけるのにも気づかず。


 ただ一心不乱に。


 求める絵を、描き続けた。




「うぅっ……」


 相沢から呻き声が聞こえてくる。


 次の美術の時間、再びペアで座るよう丹波は指示する。


 そして前回集めた画用紙を全員に配り直す。A4用紙を付け加えて。


 そこには前回描いたイラストのコピーに赤ペンの添削、そしてワンポイントアドバイスが添えられていた。


 相沢の呻きはこの用紙に向けられたものだった。


 尻目に見ると、赤ペンは入っておらず「もっと相手をよく観察して描いてみよう! でも先生はこの絵好きだよ!」と書かれてあった。


 裏を返せば赤ペンを入れられないほどの出来栄えということだ。




 自分の添削を見てみると赤ペンが入っていない代わりに、丹波の描いた手本が載っていた。「もっと金髪の煌びやかさを表現するとさらに良くなると思うよ!」そんなアドバイスを添えて。




「絵もローマも一日にして成らず。でも変化が分からないと「成長した!」って楽しみが得られないと先生は思いました! ので! 皆さんに合ったアドバイスを添えてみたので、今回はそのアドバイスを意識しながらもう一度描いてみてください。きっと前とは違ったイラストになってると思います。もちろん、質問は随時してもらって構わないよ~」


 丹波のそんな言葉と共に、再び似顔絵を描く授業が始まった。






 二限分の時間が過ぎ、タイムアップを迎える。


 前回よりも金髪らしさが上手く表現でき、自分としては満足のいく絵を描くことができた。


 やはり丹波の手本やアドバイスがあると問題点や課題を見つけやすくて助かるとの考えが自分の中で芽生えていた。




 ふと相沢の描いた絵へ視線を向ける。


 乱雑に引かれた線はとてもデッサンと呼べる代物とは思えなかった。輪郭は歪み、鼻はつぶれ、眼は奇妙に傾き、口は腫れ上がっている。線を重ね合わせ、面を表現するものなのに、その絵に面と呼べるものは見当たらない。


 ――まるで成長していない。


 相沢がこちらを見たときに、そんな心境が表情に出ていたのだろうか。


 すぐに落ち込んだ様子で視線を落とした。


 別に責めるつもりはなかったが、それでもなんだか申し訳ない気持ちを覚えた。

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